その輝きのために(下)
2020.10/19 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
翌日――トゥール=ディンは、ゼイ=ディンとともに城下町を訪れることになった。
族長たちも、トゥール=ディンが城下町に向かうことを許してくれたのだ。屋台の商売はディンとリッドの女衆が受け持ってくれたので、朝方に菓子の準備だけ取り仕切り、中天にはもう城門を目指すことができた。
「お待ちしておりました。本日は、わたくしがご案内させていただきます」
城門で待ち受けていたのは、すらりとした体格の若者であった。近衛兵団の武官であると名乗ったが、外套の下には甲冑なども纏ってはおらず、ただ腰に立派な長剣を下げている。
「こちらが、本日の通行証となります。では、ご一緒にどうぞ」
城門をくぐったところにある広場で通行証を示し、武官の案内でトトス車に乗り込む。こちらの車にも、侯爵家の紋章などは掲げられていなかった。
「それでは、商店区にご案内いたします。到着しましたらお声をおかけしますので、どうぞそれまでおくつろぎください」
前側についた小窓から、御者台の武官がそのように呼びかけてくる。
そうしてトトス車は、なめらかに街路を進み始めた。
「ふむ……トゥールとふたりきりで城下町に踏み込むというのは、なんとも奇妙な心地だな」
ゼイ=ディンは薄く笑いながら、そのように語らった。
「俺にできるのは無法者を退けることぐらいであろうから、それ以外はトゥールに頼りきりになってしまいそうだ」
「ううん。ゼイ父さんがいてくれるだけで、わたしはすごく心強いよ」
トゥール=ディンがそのように答えると、ゼイ=ディンは大きな手で頭を撫でてくれた。
「それで、お前はオディフィアのために何を買い求めようとしているのだ?」
「わたしが欲しいのは、菓子を盛りつけるための器だよ。……あ、あと、匙も必要になると思う」
「なるほど。それなら、オディフィアも喜びそうだ」
普段はあまり表情を崩さないゼイ=ディンが、さきほどからずっと微笑をたたえている。きっとトゥール=ディンを元気づけようとしてくれているのだろう。トゥール=ディンは朝からずっと気を張っていたが、その裏側にはこらえようもない不安と焦燥が渦巻いていたのだった。
(オディフィアは、まだ元気になっていないのかな……)
オディフィアはここ数日、ずっと寝所に引きこもってしまっているのだという話であった。
食事も、ついばむぐらいしか口にしていないのだという。決して治らぬ病魔というものを告知されて、オディフィアのほうこそ不安の底に突き落とされてしまったのだ。
「それでもトゥール=ディンが届けてくれた菓子は、瞳を輝かせて食べていたの。やっぱりオディフィアにとって、あなたは特別な存在であるのよ」
エウリフィアは、そのように語っていた。
オディフィアがひとりぼっちで寝具にくるまっている姿を想像しただけで、トゥール=ディンは胸が張り裂けそうになってしまう。本当であれば、昨日あのままエウリフィアとともに城下町へ向かいたいぐらいであったのだ。
それを踏み止まらせてくれたのもまた、エウリフィアであった。ジェノスの貴族と森辺の民は、正しく絆を深めていかなくてはならない。オディフィアを思うあまりに、森辺の習わしをないがしろにしないでほしい、と――エウリフィアは、そんな風に言ってくれたのだ。
「まあ、わたくしのこの行いだって、ジェノスの貴族としては逸脱してしまっているのでしょうけれど……でも、メルフリードもジェノス侯も、それを咎めようとはしなかったわ」
それはもちろんオディフィアを思う家族であれば、エウリフィアを咎めたりはしないだろう。父親たるメルフリードも、祖父たるマルスタインも、みんなオディフィアのことを心底から案じているのだ。
「でも、オディフィアはまだ幼いから、友と呼べるような相手はあなたぐらいしか存在しないの。だから、どうか……あの子の力になってもらえないかしら?」
そのようなことは、願われるまでもなかった。
自分などの存在で、オディフィアの心が少しでも癒やされるなら、どのような苦労も惜しみはしない。そして、城下町に出向いてオディフィアのために菓子を作ることなど、苦労と呼ぶにも値しなかった。
「……商店区に到着いたしました」
やがて小窓からそのような言葉が届けられて、トトスの車が動きを止めた。
しばらくして、後部の扉が開かれる。雨よけの外套を着込んで外に出てみると、石造りの町は細かい雨に煙っていた。
トゥール=ディンにとっては、2度目の町並みだ。
やはり雨のためか、以前のような活気は感じられない。それでも外套を纏った人々が、ちらほらと街路を行き交っていた。
「食器の店は、こちらでございます。足もとにお気をつけください」
そうしてトゥール=ディンは、父親とともに足を踏み出した。
トゥール=ディンの理想に合致するような食器と巡りあえるのか。まずはこれが、最初の正念場であった。
「ほう……これは何とも、見事なものだな」
最初の店に足を踏み入れるなり、ゼイ=ディンが感じ入ったように声をあげた。
店の中にはずらりと棚が並べられており、そこに鍋や皿などが陳列されている。森辺の民は宿場町でもおおよそは露店区域で買い物を済ませてしまうため、こういった場所にはほとんど縁がなかったのだった。
「いらっしゃいませ。外套は、そちらにお掛けくださいね。お手やお顔はこちらでお拭いください」
と、店番をしていた壮年の女性がにこやかな面持ちで織布を差し出してくる。
外套を脱いだトゥール=ディンが礼を言うと、その女性は「あら」と目を丸くした。
「もしかして、あなた……復活祭の前にもいらっしゃった、森辺の娘さんですかねえ?」
「あ、はい。1度だけお邪魔させていただきましたが……わたしなどのことを見覚えていてくださったのですか?」
「それはまあ、森辺の民のお客様をお迎えしたのは、あの日限りでしたからねえ」
そう言って、女性はいっそうにこやかな顔をした。
「今日は、おふたりだけで? 何をお探しでしょうかねえ?」
「実は、こういう形をした硝子の器を探しているのですが……」
「硝子の器ですか。それなら、こちらです」
女性の案内で、奥の棚へと導かれる。その場所には、さまざまな硝子の器が置かれていた。
トゥール=ディンが熱心に目を走らせていると、新たな客がやってきたようで、店番の女性はそちらに向かっていく。すると、ゼイ=ディンが腰を屈めてトゥール=ディンに囁きかけてきた。
「話には聞いていたが、城下町の民というのは森辺の民を忌避する気持ちが薄いようだな」
「うん。森辺の民と城下町の民はこれまで触れ合う機会もなかったから、忌避する気持ちすらわかないんじゃないかって、アスタはそう言っていたよ」
「では、俺も身をつつしんで、忌避されぬように心がけねばな」
「ゼイ父さんだったら、大丈夫だよ」
トゥール=ディンが思わず笑みをこぼすと、ゼイ=ディンも嬉しそうに目を細めた。
「ようやく、笑ってくれたな。……オディフィアのために、力を尽くすといい」
「うん、ありがとう」
トゥール=ディンがこれほど気丈に振る舞えているのは、きっと父親がずっとそばにいてくれているおかげであった。
そんな思いを込めてゼイ=ディンに笑いかけてから、トゥール=ディンは棚に目を戻す。そこにはさまざまな器が並べられていたが、なかなかトゥール=ディンの理想に合うものは見いだせなかった。
「あの、この形で透明なものは置いていませんか?」
トゥール=ディンの声に呼ばれて、店番の女性が戻ってくる。
「こちら? そうですねえ。最近は硝子でも、差し色の入った器が人気なんですよ。この緑色の渦巻きなんて、綺麗なもんでしょう?」
「そうですね……では、匙も見せてもらえますか?」
匙のほうは、いくつか理想に合いそうなものが存在した。
ただし、器のほうを先に決定しないと、それもなかなか判断がつかない。トゥール=ディンは店番の女性に礼を言って、ひとまず次の店に向かうことにした。
「申し訳ありません。次の店をお願いいたします」
「承知いたしました。わたしは商店区のすべての店を見て回る覚悟でいるようにと申しつけられておりますので、どうぞご遠慮なくお申しつけください」
とても武官とは思えぬような、やわらかい物腰である。
同じ気持ちを抱いたのか、ゼイ=ディンが彼の素性を問い質すと、若き武官は涼やかに微笑んだ。
「わたくしは近衛兵団において、メルフリード団長直属の親衛隊を務めさせていただいております。以前には、森辺における警護役を拝命したこともございました」
「ふむ。それはあの、森辺の収穫祭で広場の周囲を警護していた役目であろうか?」
「はい。私的な話はつつしむべきでしょうが……ゼイ=ディン殿が森辺の力比べというものに取り組んでいたお姿も、遠目に拝見させていただいておりました」
雨に濡れた頭巾の陰で、若き武官はまた微笑する。
「その勇姿に心を奪われて任務がおろそかになってしまわぬようにと、何度も自分を戒めることになってしまいました。間近な場所から観戦することのできた団長殿のことを、心より羨ましく思ったものです」
「そうか。まさかそちらが、俺たちを見知っているとは思わなかったぞ」
「はい。ゼイ=ディン殿は、以前の収穫祭で勇者の称号を得られたのでしょう? そんなゼイ=ディン殿にご挨拶することができて、光栄の至りであります」
そう言って、若き武官はいくぶん切なげに眉尻を下げた。
「また、そちらのトゥール=ディン様は病身のオディフィア姫のために、力を尽くしてくださっておられるのでしょう? わたくしごときが口を出すのは、はばかられることなのですが……オディフィア姫のために、どうぞよろしくお願いいたします」
城下町において、オディフィアは雨季の寒さによる病魔を患ったとされているのだ。トゥール=ディンは多くを語らず、ただ「はい」とうなずいてみせた。
この若き武官は心からオディフィアの身を案じているのであろうが、トゥール=ディンが真実を語ることは決して許されない。秘密を持つとは、こういうことであるのだ。これから町の人々と絆を深めていくにあたって、このような心苦しさとは無縁でいてもらいたい――そんな思いで、トゥール=ディンは家長らに秘密を持つことを許してもらったのだった。
(わたしは、大丈夫。オディフィアのためだもん)
そして、この若き武官が心からオディフィアの身を案じてくれていることを、とても喜ばしく思う。いずれオディフィアが秘密を明かす日が来たとしても、こういった人々であれば決して変心したりはしないはずだった。
◇
それから、一刻と少しが過ぎて――トゥール=ディンは、ようやく目当ての品を手にすることができた。
それらを大事に抱え込みながら、いざジェノス城を目指す。いよいよオディフィアに面会できるのかと思うと、胸が騒いでならなかった。
城門をくぐって、ジェノス城に到着したならば、幅の広い石の階段をのぼって、両開きの扉へと導かれる。ジェノス城を初めて目の当たりにしたゼイ=ディンはたいそう驚かされたはずだが、それを表に出すことはなかった。
持参した食材と買いつけた食器を侍女に託して、ふたりは浴堂へと案内される。
ひとりきりで身を清めるというのは心細くてならなかったが、オディフィアのことを思えば何ほどのものでもなかった。
ゼイ=ディンも身を清めるのを待って、あらためて石の回廊に足を踏み出す。雨季で太陽が隠されているためか、城内にはあちこちに明かりが灯されていた。
「こちらが、オディフィア姫の寝所となります。……ディン家の御二方をお連れしたので、そのようにお伝えせよ」
寝所の前に控えていた衛兵が扉の向こうに声をかけると、やがて年老いた侍女が姿を現した。
「どうぞ、こちらへ……侯爵家の皆様がお待ちでございます」
次の間という場所を踏み越えて、さらにもう1枚の扉をくぐらされる。
その先には、昼間のように明るい部屋が待ち受けていた。
「ああ、トゥール=ディンにゼイ=ディン……ようこそいらしてくれたわね」
長椅子に座していたエウリフィアが立ち上がり、貴婦人の礼をした。
そしてもうひとり、灰色の瞳をした貴公子も立ち上がる。その場には、メルフリードまでもが待ちかまえていたのだ。
「このような足労をかけさせてしまい、心から申し訳なく思っている。……そしてオディフィアの父として、感謝の言葉を述べさせてもらいたい」
メルフリードは普段通りの、鋼のごとき無表情であった。
ただし、眉のあたりに憂慮の影が落とされている。彼がエウリフィアに劣らぬほど娘の身を案じていることは、瞭然であった。
「オディフィアはトゥールにとってかけがえのない友であり、俺は父親としてそれを喜ばしく思っていた。友のために力を尽くすのは当然のことなので、謝罪には及ばない」
ゼイ=ディンは普段通りの沈着さで、そのように答えていた。
明るい室内を隅々まで見回してから、トゥール=ディンは「あの」と声をあげる。
「オディフィアは、どちらにいらっしゃるのでしょう? ここは、オディフィアの部屋なのですよね……?」
「ええ。そちらの扉の向こうに寝台があって、オディフィアはそちらで休んでいるわ。……今日もまだ、ちょっとした汁物料理しか口にしていないの」
憂いげに微笑みながら、エウリフィアはそう言った。
「トゥール=ディンの作ってくれた菓子なら、オディフィアも喜んで口にしてくれるでしょう。それに、トゥール=ディンと顔をあわせるだけでも、きっと元気を取り戻してくれるはずだわ。……本当にありがとう、トゥール=ディン」
「いえ。オディフィアのためなのですから、どうということはありません」
「ありがとう。……けっきょく他の方々にも、オディフィアのことについては語らずにいてくれたのよね? ゼイ=ディンだけは、知らされたのかしら?」
「いや。俺も聞かずにいた。オディフィア自身が語りたいと思わぬ限り、聞く必要はないように思う」
「そう……きっとゼイ=ディンであれば、オディフィアも語ろうとするのじゃないかしら」
そう言って、エウリフィアはなよやかな腕で室内にいる人々を指し示してきた。
「すべてを知っているのはオディフィア本人と、わたくしとメルフリード、そちらの乳母とジェノス侯、そして……シムの医術師と、トゥール=ディン。その7人だけであるはずよ」
案内役の武官も「病身」という言葉を口にしていたせいか、ゼイ=ディンは「医術師」という言葉を聞いても表情を変えなかった。ただ、心配そうに眉を曇らせている。
「わたくしたちも、決してそれをオディフィアの恥だとは考えていないのだけれど……でも、貴族というのはとても外聞を気にするものであるから、まだしばらくは伏せておきたいの。オディフィア自身が、そんな外聞を気にしないでいられる年齢になるまで……あなたにこのような秘密を抱えさせてしまって、本当にごめんなさいね、トゥール=ディン」
「いえ、わたしはまったくかまいません。家族でもないわたしにそのような秘密を明かしてくださったことを、心から嬉しく思っています」
トゥール=ディンは、なんとか笑顔を作ってみせた。
「そしてわたしも、そのような話がオディフィアの恥になるなどとはこれっぽっちも考えていません。森辺の民であれば、誰しもがそのように思うことでしょう」
「ええ、きっとそうなのでしょうね。城下町の人々が森辺の民ぐらい清廉な気性をしていたら、わたくしも思い悩む必要はなかったのだけれど……」
エウリフィアは目を伏せて、ふっと息をつく。
するとメルフリードが、こらえかねたように深く眉をひそめながら、トゥール=ディンに声をかけてきた。
「わたしはこれまで侯爵家の第一子息として、また、森辺の民との調停役として、節度を守ってきたつもりだ。しかし今日は、オディフィアの父親として言わせてもらいたい。……どうか、オディフィアをよろしく頼む」
「はい。オディフィアのために、力を尽くしたいと思います」
そうしてトゥール=ディンは、乳母と呼ばれる侍女の案内で、備えつけの小部屋に導かれた。寝台が置かれているのとは別の部屋で、小さなかまどと作業台が準備された部屋である。普段はこの場所で、オディフィアのために茶をいれているのだという話であった。
「食材はこちらに準備させていただきましたが、本当にこれだけの設備でよろしいのでしょうか?」
「はい。手間のかかる作業は家で済ませてきましたので、これで十分です」
トゥール=ディンは揺れる心を抑えつつ、菓子の下準備に取りかかった。
ゼイ=ディンは、部屋の入り口からトゥール=ディンの様子を見守ってくれている。それだけで、しっかりと背中を支えてもらっているような心地であった。
下準備は、半刻ほどで完了する。
必要なものを台車にのせてさきほどの部屋に舞い戻ると、エウリフィアが不思議そうに目を丸くした。
「もう出来上がったの? ずいぶん早かったのね」
「はい。ほいっぷくりーむなどは時間が経つとつぶれてしまうため、オディフィアのもとで仕上げようと思います」
「ありがとう。それじゃあ、わたくしが案内をするわ」
エウリフィアが立ち上がり、オディフィアの引きこもっている部屋の扉に手をかけた。
「オディフィア……トゥール=ディンが、菓子の準備をしてくれたわよ」
そちらの部屋は窓も閉め切りで、夜のように暗かった。
寝台のそばにひとつだけ灯籠が灯されており、あとは闇に沈んでいる。寝台に敷かれた毛布は真ん中のあたりが丸くふくらんでいたが、エウリフィアが声をかけても動こうとしなかった。
「あなたもトゥール=ディンとゆっくり語らいたいでしょうから、わたくしたちは隣の部屋に控えているわね。……トゥール=ディン、お願いね」
トゥール=ディンが「はい」とうなずくと、エウリフィアは気がかりそうな視線を寝台に向けてから、扉を閉ざした。
トゥール=ディンが運んできた台車にも、燭台がのせられている。それを手近な卓に移してから、トゥール=ディンは寝台のほうに近づいた。
「お休みのところを申し訳ありません、オディフィア。……菓子の準備をしたのですが、いかがでしょうか?」
トゥール=ディンが声をかけると、毛布がもぞりと蠢いた。
森辺でもダバッグでもダレイムでも見たことのない、ふかふかの分厚い毛布である。その隙間からオディフィアの小さな顔が出現すると、トゥール=ディンの胸にこらえようもない激情がふくれあがった。
「ああ、オディフィア……元気をなくされてしまったと聞いて、とても心配していました。菓子をお出しする前に、少しお話をさせていただけますか?」
「うん……」と言いながら、オディフィアは毛布から出てこようとしない。毛布の陰で、その灰色の瞳はとても不安そうな眼差しになっていた。
「オディフィアも、トゥール=ディンにあいたかった……きてくれて、ありがとう」
「はい。わたしもオディフィアに会いたかったです」
トゥール=ディンははやる気持ちを抑えながら、寝台の手前で膝をついた。
さらに腰を屈めると、ようやく寝台に伏せたオディフィアと同じ目線になる。
オディフィアは――怖いものでも見るように、トゥール=ディンを見つめていた。
「トゥール=ディンは……かあさまから、びょうまのことをきいたんでしょ?」
「はい、うかがいました。それでオディフィアが元気をなくしてしまったと聞いて、とても心配していたのです」
「トゥール=ディンは……オディフィアのこと、きらいにならない?」
「わたしがオディフィアのことを嫌うなんて、そんなことは絶対にありえません」
オディフィアは、とてもゆっくりとした動作で身を起こした。
分厚い毛布を外套のようにかぶったまま、トゥール=ディンを見つめ返してくる。その目を赤く泣きはらしていることに気づいたトゥール=ディンは、自分も涙をこぼしながら、オディフィアの小さな身体を毛布ごと抱きすくめることになった。
「大丈夫です。わたしにとって、オディフィアはかけがえのない存在です。どのような病魔に見舞われても、その気持ちに変わるところはありません」
「うん……」と弱々しく応じながら、オディフィアはされるがままであった。
たとえトゥール=ディンやエウリフィアたちが変わらぬ思いであったとしても、それはオディフィアにとって小さからぬ出来事であったのだろう。それぐらいのことは、トゥール=ディンも最初から理解できていた。
「……始まりは、オディフィアの喋り方であったの」
昨日、宿場町の車の中で、エウリフィアはそのように語っていた。
「オディフィアはもう7歳になったというのに、ずいぶんと言葉がたどたどしいでしょう? ちょっと舌足らずで、それはとても可愛らしいのだけれど……何か問題があったら大変なので、シムから訪れていた高名な医術師にオディフィアのことを診てもらったの」
そのシムの医術師から、オディフィアは驚くべき診断を下されることになった。
オディフィアは生来、表情を動かすことのできない病魔であるというのだ。
「こちら、シムにおいて、仮面症、呼ばれています。東の民、表情、動かすこと、恥と考えていますが……生来、動かせない者、時おり、産まれるのです。しかし、もともと習わしにおいて、表情、動かさないため、発見、遅れます」
医術師は、そのように語らっていたらしい。
「また、仮面症、2種、存在します。生命、脅かすもの、脅かさないもの、2種です。前者、いずれ、顔のみならず、全身の筋肉、動き、鈍ります。生命、脅かす、恐るべき病魔です」
「それじゃあ、オディフィアは……」
「オディフィア姫、後者です。舌の力、弱いため、言葉を語る、やや不自由でしょうが、生命、心配ありません」
それを聞いて、もちろんエウリフィアは胸を撫でおろしたという。
だが、安堵ばかりもしていられなかった。その仮面症なる病魔は、シムにおいても癒やすすべがないという話であったのだ。
「齢、重ねれば、言葉、もう少し、自由、なるでしょう。ただし、表情、動きません。生命、心配ない代わり、癒やすすべ、存在しないのです。そのように、思し召しください」
エウリフィアとメルフリードはさんざん思い悩んだ末に、それを本人に打ち明けることにした。オディフィアはずっと自分の表情が動かないことを不思議がっていたので、それに答えを与えるべきだと考えたのだ。
「メルフリードなんて、病魔でもないのにほとんど表情を動かさないでしょう? それに東の民だって、表情が変わらなくとも魅力的なお人がたくさん存在するのだから……何も気にする必要はないと、そのように思ってもらいたかったの」
エウリフィアは、そのように語っていた。
平静な表情を保ちながら、その指先は自分の装束をきつく握りしめていたものである。
「でも……わたくしたちは、早計だったわ。もっとオディフィアが齢を重ねるまで、口にするべきじゃなかった。わたくしたちは、一番大事なところで判断を誤ってしまったのよ」
トゥール=ディンには、エウリフィアの気持ちが痛いほどわかるような気がした。
たとえそのような病魔に冒されていようとも、オディフィアの価値に変わりが生じるはずもない。そんな気持ちを、オディフィアに伝えたくてたまらなくなってしまったのだろう。
愛する相手に秘密を抱えるというのは、とても苦しいことであるのだ。
しかし、迂闊に秘密を漏らせば、相手に重荷を背負わせることになってしまう――トゥール=ディンも今回の一件で、その真実を嫌というほど思い知らされていた。
「……オディフィアは、おおきくなったらみんなみたいにわらえるんだっておもってたの」
囁くような声で、オディフィアはそう言った。
「オディフィアは、トゥール=ディンやかあさまのわらったかおがだいすきだったから、いつかオディフィアもいっしょにわらいたいって……」
トゥール=ディンはオディフィアのかぶった毛布に涙をしみこませながら、その小さな身体をぎゅっと抱きすくめた。
「大丈夫です。オディフィアは表情を動かさなくても、きちんと気持ちが表に出ています。オディフィアが嬉しそうにしているとき、わたしはとても幸福な気持ちであるのです」
「うん……とうさまもかあさまもおじいさまも、みんなそんなふうにいってくれた」
オディフィアの小さな手が、おずおずとトゥール=ディンの背に回されてきた。
「トゥール=ディンもそういってくれたから、すごくうれしい……ありがとう、トゥール=ディン」
トゥール=ディンは、どうしても涙を止めることができなかった。
オディフィアは、まだたった7歳の幼子であるのだ。それが、病魔によって永遠に表情を動かすことができないなどと知らされたら、どれだけ不安であるか――どれだけ心細いものであるか――エウリフィアたちを責める気持ちにはなれなかったが、オディフィアの心中を思いやらずにはいられなかった。
「……オディフィアを元気づけるためにやってきたのに、わたしのほうが涙を流したりしてしまって申し訳ありません」
やがてトゥール=ディンがそのように告げると、オディフィアは「ううん」と首を振った。
その小さな身体から身を離すと、灰色の瞳がすがるようにトゥール=ディンを見つめてくる。
「トゥール=ディンのからだ、すごくあたたかかった。……オディフィアのために、おかしをつくってくれるの?」
「はい。オディフィアが食べられそうであれば、すぐに準備をします」
「たべたい。……トゥール=ディンのかみからあまいかおりがして、すごくおなかがすいちゃったの」
確かに7歳の幼子としても、オディフィアの言葉は少したどたどしいのかもしれない。だけどそれすらも、トゥール=ディンにとってはオディフィアの魅力であるのだった。
「それでは、すぐに準備します。ちょっと時間がかかりますので、あちらの部屋に移動しましょうか? 今日は、ゼイ父さんも来てくれているのです」
「ゼイ=ディンもきてくれたの?」
オディフィアは瞳を輝かせてから、小さな身体をもじもじとさせた。
「ゼイ=ディンともおしゃべりしたいけど……もうちょっとだけ、トゥール=ディンとふたりでいてもいい?」
「もちろんです。それじゃあ菓子を食べ終えたら、あちらに移りましょう」
トゥール=ディンは涙をふいてから、入り口のあたりに置いておいた台車のほうに引き返した。
オディフィアに背を向けて、準備していた食器に食材を盛りつける。ホイップクリームを泡立てながら後方を振り返ると、オディフィアは毛布にくるまったままそわそわと身を揺すっていた。
「ちょこれーとのいいにおい。……きょうはけーきをつくってくれるの?」
ホイップクリームにチョコソースの香りで、ケーキを連想したのだろう。トゥール=ディンは微笑みながら、「いいえ」と答えてみせた。
「今日は、初めての菓子となります。次に茶会に招かれることがあったら、お出ししようかと考えていたのですが……気に入っていただけたら嬉しいです」
そうしてトゥール=ディンはホイップクリームも盛り付けて、最後の仕上げまで完了させた。
「できました。こちらの卓までいらしていただけますか?」
オディフィアは「うん」とうなずいて、寝台のそばに置かれていた履物を履いた。
かぶっていた毛布を脱ぎ捨てて、壁に掛けられていた上衣を羽織る。普段よりも飾り気のない格好であったためか、オディフィアはいっそう小さく可憐に見えてしまった。
そうして卓のほうに近づいてきたオディフィアは、目を見開く代わりにぱちぱちとまばたきをする。
その灰色の瞳には、驚嘆の光がくるめいていた。
「すごくきれい……これは、なんていうおかしなの?」
「これはアスタの故郷で、ちょこれーとばふぇと呼ばれているそうです」
アスタの言葉を思い出しながら、トゥール=ディンはそのように答えてみせた。
「本来は、あいすくりーむというものを使うようなのですが、それはどうしてもジェノスでは代わりのきかないものであるらしくて……それでも物足りなくならないように、せいいっぱい趣向を凝らしました」
その菓子は、商店区で買いつけた器に盛りつけられている。透明の硝子で、上のほうが大きく広がっており、どちらかといえば酒杯に近い形状であった。
食材は三層に分かれており、その上にホイップクリームを盛って、細く糸のようにチョコソースを掛けて、さらに細かく砕いたラマンパの実をふりかけている。オディフィアはまばたきを繰り返しながら、硝子の器の内側を透かし見ていた。
「この、いちばんしたにあるのは、なに?」
「それはマヒュドラのメレスという食材で作った、こーんふれーくというものです」
それもまた、アスタからの教えを頼りに、トゥール=ディンが頭をひねって作りあげた存在であった。
アスタ自身、コーンフレークというものの作り方を正確には知らなかったのだ。ただ、アスタの故郷でメレスに似た食材は、ポイタンやフワノと同じような手段で加工されていた、とのことであった。
「とりあえず、煮込んでやわらかくしたら入念にすりつぶして、あとは布で濾してみたらいいんじゃないのかな。それで水分を飛ばせば、とりあえず固まってくれそうだしね」
アスタの助言に従って、トゥール=ディンはこのコーンフレークを完成させた。現在はなかなか日干しができないので、石窯で焦がさないように気をつけながら、入念に水分を飛ばしたのだ。
最初にできあがった生地は、フワノやポイタンのようにややしっとりとした仕上がりであった。それを細かくちぎってさらに水分を飛ばすと、シャスカで作った煎餅のように硬くなる。アスタに確認してもらったところ、かなり故郷のコーンフレークに近い仕上がりだという話であった。
「俺の故郷では、これを乳でふやかしたり、チョコの衣をつけたり、あとはパフェの材料なんかにしたりしてたんだよね」
そうしてトゥール=ディンは、この『チョコレートパフェ』を手掛けることになったのだ。器や匙の形状も、アスタが絵に描いて説明してくれたのである。
硝子の器には、下からコーンフレーク、チャッチ餅、チョコ風味のスポンジケーキの順番で積み上げている。チャッチ餅とスポンジケーキは小さく四角く切り分けており、匙で簡単にすくえるようになっていた。
さらに、器の上側にはミンミやアマンサも盛りつけている。そこにホイップクリームとチョコソースまで使っているのだから、トゥール=ディンがこれまで手掛けてきた菓子の中でもとりわけ手がかかっているはずであった。
「ダイアの作る菓子は、見た目からして美しいでしょう? だからわたしも、この菓子に相応しい器を探し求めることになったのです」
トゥール=ディンは、そのように説明してみせた。
「どうか、食べてみてください。オディフィアに気に入っていただけたら、とても嬉しいです」
オディフィアは我に返った様子で、椅子に座った。
それからもうひとたび硝子の内側を覗き込んでから、銀色の細長い匙を取り上げる。それもまた、この器の底にまで届くようにと、商店区で買いつけたものであった。
オディフィアは器の下側を押さえつつ、ホイップクリームとチョコソースに彩られたスポンジケーキをすくいあげる。
小さな口で、それを頬張ると――オディフィアは、灰色の瞳を明るくきらめかせた。
「トゥール=ディン、すごくおいしい」
「ありがとうございます。果実やチャッチもちやこーんふれーくも、お好きなように食べてみてください」
アスタいわく、そうして各種の食材を自分の好みで取り分けられるのが、この菓子の特性であるのだった。
上から順番に食していこうが、すべての食材をまとめて口にしようが、すべて自分の自由であるのだ。それは確かに、他の菓子にはない大きな特徴であるはずだった。
いつしかオディフィアは、夢中になって『チョコレートパフェ』を食している。口のまわりがすぐにクリームだらけになってしまうのは――もしかしたら、口があまり大きく開かないゆえなのだろうか。
トゥール=ディンはさまざまな思いに心をかき乱されながら、オディフィアの隣に腰を下ろす。
するとオディフィアは、クリームだらけの顔でトゥール=ディンを見つめてきた。
「このおかし、いままででいちばんおいしい。トゥール=ディン、どうもありがとう」
「いえ……とんでもありません」
トゥール=ディンは涙がこぼれそうになるのをこらえながら、器に添えられたオディフィアの小さな手にそっと自分の手を重ねた。
「オディフィアは今、とても幸福そうに瞳を輝かせてくれています。わたしにとって、それは笑っているのと変わりのない姿であるのです。だから、たとえオディフィアの表情が変わらなくても……わたしはこんなに幸福な心地でいられるのです」
オディフィアの顔は、やはり仮面のように動かない。
だけどその灰色をした瞳には、すべての感情が表されている。
トゥール=ディンが、それを見誤ることはなかった。
「オディフィアを大事に思う人間であれば、みんなこうしてオディフィアの気持ちを感じ取ることができるのでしょう。だから、何も心配はいりません。オディフィアは今のままで、十分に気持ちを伝えることができているのです」
「うん」とうなずいた拍子に、オディフィアの目から涙がこぼれた。
しかしそれは、喜びの涙であるはずだった。
同じものが頬を伝うのを感じながら、トゥール=ディンはオディフィアのやわらかい髪を撫でてみせた。
「それを食べ終えたら、隣の部屋でたくさん語らいましょう。エウリフィアもメルフリードもゼイ父さんも、あの乳母という御方も、みんなオディフィアのことを待ってくれています」
「うん」
ぽろぽろと涙をこぼしながら、オディフィアは匙を口に運んだ。
その姿を、何よりもかけがえなく、愛おしいと思う。
きっと自分は、この光景を一生忘れることはないだろう。
夜のような暗がりの中、涙をこぼし、口もとをクリームだらけにして『チョコレートパフェ』を食べ続けるオディフィアの姿は、トゥール=ディンの心のもっとも深い部分に刻みつけられることになったのだった。