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異世界料理道  作者: EDA
第五十五章 群像演舞~六ノ巻~
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第八話 その輝きのために(上)

2020.10/18 更新分 1/1 ・10/29 誤字を修正

 ジェノスに本格的な雨季がやってきた、赤の月のある日のこと――

 その日もトゥール=ディンは、菓子を売る屋台の商売に励んでいた。


 さすがに雨季がやってきてからは、屋台の売り上げも落ちてしまっている。雨季の前に比べると、いずれの屋台でも半分ていどの数しか売れていなかった。

 しかしまた、昨年に比べれば屋台の数は格段に増えている。それでもこれだけの料理や菓子が売れているということは、昨年の雨季よりも多くのお客が訪れている、ということであるはずだった。


(今日もなんとか、すべての菓子を売り切ることができそうでよかった……)


 小粒の雨が屋台の屋根を叩く音色を聞きながら、トゥール=ディンはそんな風に考えた。

 すると、一緒に働いていたリッドの女衆が「あ」と小さく声をあげる。


「珍しいですね、貴族の車であるようですよ。雨季になってからは、初めてではないですか?」


 北の方角に目をやると、確かに貴族のものであるらしい立派なトトスの車の姿が見えた。さらに、トトスにまたがった兵士たちが、車の前後をはさみこんでいる。時おり訪れるポルアースよりも、その車中の人物は厳重に警護されているようだった。


(誰だろう? アルヴァッハたちがアスタに会いに来たのかな)


 車と騎兵は町の入り口で停止して、トトスから降りた兵士のひとりだけが屋台に近づいてくる。案に相違して、その人物は真っ直ぐトゥール=ディンの屋台へと接近してきた。


「失礼いたします。あなた様が、トゥール=ディン様でありましょうか?」


「は、はい。そうですけれど……」


「お仕事の最中に申し訳ありません。ジェノス侯爵家の第一子息夫人エウリフィア様がご面会をご所望でありますため、お手すきになられたらこちらに参じていただけますでしょうか?」


 トゥール=ディンは、心から驚かされることになった。エウリフィアが自ら宿場町にやってきて、しかも自分を名指しで呼びつけるなど、これが初めてのことであったのだ。


「は、はい。アスタやルウ家の方々ではなく、わたしにご用事であるのですね?」


「はい。お仕事が忙しければその後でかまいませんので、何卒よろしくお願いいたします」


 さすがにトゥール=ディンは困惑して、あてどもなく視線をさまよわせることになった。

 すると、トゥール=ディンの横合いから赤い髪をした何者かがにょっきりと顔を出す。


「ふーん。トゥール=ディンが呼び出されるなんて、珍しいね。他の人間は、一緒じゃないほうがいいのかな?」


 それは、ルウ本家の三姉であるララ=ルウであった。その引き締まった横顔の頼もしさに、トゥール=ディンは思わず安堵の息をついてしまう。

 いっぽう兵士のほうは、外套の頭巾の陰で申し訳なさそうな顔をしていた。


「はい。エウリフィア様は、トゥール=ディン様のみとお言葉を交わしたいと仰っています。ぶしつけな申し出ではございますが、どうかご配慮をお願いしたく思います」


「ふーん……ま、ディンだって族長筋の眷族なんだから、いちいちあたしらが立ちあう必要はないと思うけどさ」


 そう言って、ララ=ルウは青い瞳をきらめかせた。


「ただし、あの車の中にいるのが本当にエウリフィアだって証はないから、それだけは確認させてもらえるかな? 見も知らぬ貴族にトゥール=ディンをさらわれたりしたら、一大事だからさ」


「は……それは問題ないかと思いますが……」


「ん、ありがと。トゥール=ディンも、それでいい?」


「は、はい。ありがとうございます、ララ=ルウ」


 トゥール=ディンも不安な気持ちは否めなかったが、相手が本当にエウリフィアであれば固辞することはできない。いったい何のためにトゥール=ディンのもとを訪れてきたのか、それを確かめずにはいられなかった。


「こっちはすぐにでも動けるけど、どうする? 屋台の菓子が売り切れるまで待ってもらう?」


「え、ええと……」とトゥール=ディンが言いよどむと、リッドの女衆がにこりと笑いかけてきた。


「こちらの残りはもうわずかですので、わたしひとりで問題はありません。どうぞよろしくお願いいたしますね、ララ=ルウ」


「うん、まかしといて」と、ララ=ルウは白い歯をこぼした。最近のララ=ルウはめっきり大人びてきており、これまで以上に頼もしい存在となっていたのだ。

 そんなララ=ルウとともに雨除けの外套を纏い、雨の降りそぼる街道に身を投じる。ララ=ルウはトゥール=ディンを庇うような位置取りで街道を進み、外套の内側ではこっそり短刀の柄に指先を添えているようだった。


 兵士の案内で車の後部に回り込むと、そちらには8名もの騎兵たちが立ち並んでいる。その物々しさに、ララ=ルウはいっそう表情を引き締めていたが――車の扉が開かれると、そこで待ち受けていたのはまぎれもなくエウリフィア本人であった。


「このような雨の中をごめんなさいね、トゥール=ディン。……それに、ララ=ルウも」


 荷台の内部は夜のように暗いため、あちこちに明かりが灯されている。炎を硝子の囲いで覆った、灯籠という器具だ。ララ=ルウは鋭く目を細めながら、エウリフィアの背後に視線を走らせた。


「他には誰もいないみたいだね。……でも貴族の女衆って、こういうときは侍女とか小姓とかって人らを連れ回すもんじゃなかったっけ?」


「ええ。今日はトゥール=ディンとふたりきりで語らいたかったから、誰も連れてきていないのよ」


 穏やかに微笑みながら、エウリフィアはそう言った。

 かつての合同収穫祭のときと同じように、あまり飾り気のない装束を纏っている。その笑顔は、普段通りのたおやかさをたたえていたが――ほんの少しだけ、元気がないように感じられた。


「それじゃああたしは、ここで待たせてもらってもいいかなあ? エウリフィアを信用していないわけじゃないんだけど……こういうのって初めてだから、あたしもどう振る舞うべきか判断がつかないんだよね」


「ええ、もちろん。雨の中を、ごめんなさいね。きっと四半刻もかからないだろうから……どうぞお願いね」


 ララ=ルウはひとつうなずくと、トゥール=ディンの耳もとに口を寄せてきた。


「大丈夫だとは思うけど、何かあったら声をあげてね。あたしは、ここで待ってるから」


「は、はい。ありがとうございます」


 トゥール=ディンは、単身で車に乗り込むことになった。

 入り口の辺りにまで屋根がかかっていたので、そこで外套を脱いで雨水を払う。そうして扉が閉ざされると、その場には雨が屋根を打つ音色だけが遠く響いた。


「外套は、そこのところに掛けておいてね。……さあ、こちらにどうぞ」


 エウリフィアは、車内の中央にまでトゥール=ディンを導いた。

 左右の壁際にはずらりと席が設えられているというのに、床に敷かれた敷物の上に膝を折る。


「こんなところで、ごめんなさい。席に座ると、壁ごしに声がもれてしまうかもしれないから……」


「そ、そんなに秘密めいたお話であるのですか?」


 トゥール=ディンは、さきほどからずっと心臓が騒いでしまっていた。エウリフィアは貴族らしからぬ奔放な一面も持っているので、いきなり宿場町を訪れるというのも彼女らしいといえば彼女らしいのだが――それにしても、普段とはあまりに様子が違っているように思えるのだ。

 そんなトゥール=ディンの不安や困惑を見て取ったように、エウリフィアは静かに微笑んだ。


「このように仰々しい形で呼びつけてしまって、本当に申し訳なく思っているわ。……でも、少しだけわたくしに時間をいただけるかしら?」


「は、はい。でも、いったいどうしたのですか?」


「オディフィアについて、トゥール=ディンに聞いてほしいことがあるの」


 エウリフィアの瞳が、真っ直ぐにトゥール=ディンを見つめてきた。

 そこに、エウリフィアらしからぬ頼りなげな光を見て取って、トゥール=ディンはいっそう困惑してしまう。


「オディフィアにとって、あなたはかけがえのない存在であるのよ、トゥール=ディン。あなたにとっても、そうであるといいのだけれど……」


「も、もちろんです。オディフィアの身に、何かあったのですか?」


「何かあった……というべきなのでしょうね……」


 エウリフィアは、迷うように口ごもる。それもまた、果断な彼女らしからぬ仕草であった。


「ごめんなさいね。わたくしは、あなたの優しさに甘えてしまっているのかもしれないわ。でも……どうか力を貸していただきたいの」


「は、はい。オディフィアのためであれば、どのような苦労でも厭いません」


「ありがとう」とつぶやいてから、エウリフィアは意を決したようにその言葉を口にした。


「実は、オディフィアは……決して治らない病魔を抱えてしまっているの」


                       ◇


 その夜である。

 トゥール=ディンは千々に乱れる気持ちを抑え込みながら、ディンの家人らと相対していた。


 晩餐は、すでに済ませている。これは晩餐の片手間に語れるような話ではなかったのだ。

 トゥール=ディンのかたわらには父親のゼイ=ディンが並び、家長とその伴侶、長兄とその伴侶、そして年若い次兄が輪を作って座している。晩餐の食器が片付けられると、家長は「さて」と重々しく発言した。


「では、聞かせてもらおうか。ジェノスの貴族エウリフィアから、いったいどのような話がもたらされたというのだ、トゥールよ?」


「はい。エウリフィアは……オディフィアを元気づけるために力を貸してほしいと、そのように願ってきたのです」


 トゥール=ディンは懸命に自分を律しつつ、そのように答えてみせた。


「わたしには、菓子を作ることぐらいしかできませんので……わたしが城下町まで出向き、オディフィアに菓子を届けることを許していただけるでしょうか?」


「待て。そのオディフィアは、何故に力を落としているのだ? 年端もいかぬ幼子といえども、理由もなく力を落とすことはあるまい?」


 それは、当然の疑問であった。

 トゥール=ディンは、精一杯の思いを込めて答えてみせる。


「それが……理由は秘密にしてほしいと願われているのです」


「なに? エウリフィアは、理由も告げずにお前を城下町に呼びつけようとしているのか?」


「いえ。わたしは、理由を聞いています。ただ、それを秘密にしてほしい、と……そのように願われているのです」


 トゥール=ディンが予想していた通り、家長は厳格なる面持ちをいっそう厳しく引き締めた。他の家人たちも、みんな心配そうな顔つきになっている。


「トゥールよ。家人に秘密を持つことは、決して褒められた行いではない。お前にも、それぐらいのことは理解できるはずだな?」


「はい。エウリフィアも、その点を心配してくださっていました。ですから、それが森辺の習わしにそぐわないということなら……決してジェノスの町では吹聴しないという約束のもとに、ディンの家人には明かしてもかまわないと言ってくれていました」


「ならば、語ってみせるがいい。貴族にとって都合の悪い話を、俺たちが町で吹聴する理由はない」


「はい。わたしも最初はそのように思いました。でも……やっぱり語るべきではない、と思いなおしたのです」


「何故だ?」と、家長は双眸を鋭く光らせた。

 決してトゥール=ディンを威圧しているわけではない。家人たるトゥール=ディンがどのような思いでそんな言葉を口にしているのか、真意をはかろうとしているのだ。

 トゥール=ディンはその眼差しを真正面から受け止めながら、答えた。


「これはきっと、貴族にとってのみ重要な話であるのです。森辺の民だけではなく、宿場町やダレイムの人々にとっても、大きな意味を持つ話ではないのだろう……と、わたしはそのように考えています」


「ならばいっそう、お前が口をつぐむ理由はあるまい?」


「いえ。わたしたちにとって重要でない話なら、それは知らぬままでいるほうが正しいように思えるのです」


 そんな風に語りながら、トゥール=ディンは思わず自分の胸もとに手をあてた。


「家長の言う通り、秘密を持つというのは好ましくない行いです。たとえばこの場で、わたしがみんなにこの秘密を打ち明けたとして……みんなは明日から、他の氏族や町の方々に対して秘密を抱え込むことになってしまうのです。それは心苦しいばかりで、何の益もない行いなのではないでしょうか?」


「しかし……それは俺たちにとって、重要ならぬ話であるのであろう?」


「重要でないなら、いっそう心苦しくなってしまうのではないでしょうか? どうしてこのような話を、同胞や友に対して包み隠さなければならないのか……いわれもない罪悪感を抱え込むことになるのではないかと思います」


「トゥールよ」と、父親のゼイ=ディンが静かに声をあげた。


「今のお前は、まさしくそういった罪悪感を抱えてしまっているのだな?」


 トゥール=ディンは自分の胸もとを押さえたまま、「うん」とうなずいてみせた。

 家長はいっそう難しい顔になりながら、四角く張った下顎を撫でさする。


「ならば、そういった苦しみも家人で分かち合うべきではないか? お前ばかりが重荷を抱え込む理由はあるまい」


「いえ、わたしはいいのです。わたしにとって、オディフィアはかけがえのない存在なのですから……このような苦しみなど、どうということもありません。きっとオディフィアを元気づけることができれば、この苦しみも去ってくれるのだと思います」


 トゥール=ディンは何とか自分の思いを伝えるべく、懸命に言葉を綴ってみせた。


「それに、エウリフィアは森辺の民を信じて、家人に秘密を打ち明けていいと言ってくれましたが……オディフィア自身は、まだ秘密にしておきたいと願っているかもしれません。その心情を確かめるまで、わたしはそれを語りたくはないのです」


 家長は「ううむ……」と考え込んでしまった。

 すると、朗らかな気性をした長兄が「いいではないか」と発言する。


「城下町には城下町の習わしというものが存在するのだろう。俺たちにとっては取るに足らない話でも、城下町の貴族にとっては大ごとだ、と……つまりは、そういう話であるのだろう? ならば、俺たちが知る必要はないように思えるな」


「しかし、家人に秘密を持つというのは、感心できる行いではあるまい?」


「うむ。しかし、家人に無用な重荷を背負わせたくないというトゥールの気持ちも、理解できるではないか」


 そう言って、長兄は悪戯小僧のように笑った。


「たとえばだな……オディフィアにとっての秘密というのが、おねしょであったとしよう」


「お、おねしょ?」


「うむ、おねしょだ。貴族の姫君にとって、それは何としてでも守り抜かなくてはならない秘密の大ごとなのだとする。それを打ち明けられた俺たちは、どうしてそんな話を秘密にしなければならないのかと馬鹿馬鹿しく思いながら、友や同胞に秘密を抱えなければならなくなってしまうのだ」


「…………」


「しかし、オディフィアをかけがえのない存在と思っているトゥールにとっては、オディフィアが力を落としているというだけで大ごとに思えてしまう。そして、オディフィアのためであれば秘密を守ることを馬鹿馬鹿しく感じたりもしない、と……そんな風に思えるのではないのかな」


 家長は溜め息をこらえながら、トゥール=ディンと長兄の姿を見比べた。


「こやつはこのように語らっているが、どうなのだ? 少しは的をかすった言葉であるのか?」


「は、はい。オディフィアはもう7歳なので、きっとおねしょをすることはないかと思いますが……たとえ話としては、決して間違っていないように思います」


「うむ。俺たちは、隠し事などに慣れていないからな。どのように些細な話であっても、秘密を抱えるというのは重荷になってしまうように思う」


 いくぶん口調を改めて、長兄はそのように言いたてた。


「俺たちは今、他の氏族とも町の者たちとも正しき絆を深めようとしているさなかにある。そんな中、貴族に関しての秘密ごとなどを抱え込んでは、いらぬ心労になってしまうのではないだろうか? うっかり秘密をもらしてしまわないように、言葉を選ぶ必要なども出てきてしまうかもしれんし……それではいかにも、窮屈そうだ」


「そうだな。しかもそれが取るに足らない内容であれば、余計に気が張ってしまいそうだ」


 と、次兄までもが発言した。


「さっきトゥールの言っていた言葉が、ようやく理解できたように思う。それが重要な秘密であったほうが、うっかり語る恐れもなくなるのだろう。あまりに取るに足らない話であれば、秘密であることを忘れてしまうかもしれんからな」


「それほど迂闊な人間はいなかろうが……」と、家長は深く眉を寄せた。


「……トゥールよ、お前は自分の意思で、オディフィアの力になりたいと願っているのだな?」


「はい。もちろんです」


「そうか」と言ったきり、家長はしばらく沈思した。

 その末に、「わかった」と重々しく首肯する。


「この場においては、お前の判断を信じよう。しかし、族長らの許しも得ぬままに、お前を城下町に出向かせることはできんぞ?」


「はい。明日の朝、城下町から使者というものをディンの家に送ってくれるそうです。ディンの家で了承をもらえたら、その使者たちを族長たちのもとに向かわせる、と……」


「ならば俺たちも、それに同行するべきであろうな」


 家長は光の強い目で、長兄と次兄を見比べた。


「俺はザザの家に出向くので、お前たちはルウとサウティの家に同行しろ。そして、この夜に語った話をかいつまんで説明するのだ」


 そして家長は、最後にゼイ=ディンのほうを見る。


「族長たちからの許しが出たならば、ゼイはトゥールとともに城下町に向かうがいい。……帰り道には、ファの家の荷車を借りるのか?」


「いえ。エウリフィアのほうで、トトスの車を準備してくれるそうです」


「ふん。用意周到なことだな」


 普段はなかなか笑わない家長が、ふっと苦笑をこぼした。

 情緒が不安定であったトゥール=ディンは、それだけで涙を流しそうになってしまう。しかしまだ話は終わっていなかったので、トゥール=ディンは何とかこらえてみせた。


「それで、あの……これはエウリフィアではなく、わたしからの願いであるのですが……」


「なんだ、まだ何かあるのか?」


「はい。オディフィアに、贈り物をしたいのです。わたしに預けてくださった銅貨を、それにつかうことを許していただけますか?」


 トゥール=ディンが屋台の商売で得た銅貨は、すべてディンの家に捧げている。その中から、家長は小さからぬ額をトゥール=ディンに与えてくれていたのだ。

 家長は厳粛な面持ちで、「かまわん」と言ってくれた。


「お前に与えた銅貨をどのようにつかおうとも、それはお前の自由だ。いちいち俺に断りを入れる必要はない。……それはお前が尽力して手に入れた代価であるのだから、お前が正しいと思うことにつかうがいい」


「はい。ありがとうございます」


 トゥール=ディンは、深く頭を下げてみせた。

 そうして顔を上げると、家長はとても気がかりそうにトゥール=ディンを見つめていた。


「……最後にもう1度聞いておくが、お前は本当に身に余る重荷を負っているわけではないのだな?」


「そうだよ、トゥール。あなたひとりが重荷を負う必要はないのだからね?」


 家長の伴侶も、そのように言ってくれていた。

 また涙をこぼしそうになりながら、トゥール=ディンは「大丈夫です」と答えてみせる。


「もっとも苦しいのはオディフィアであるのですから、わたしの苦労などどうということもありません。……ご心配くださって、ありがとうございます」


「家人を案ずるのは、当たり前のことだ。いちいち礼を言う必要はない」


 そう言って、家長はのそりと腰を上げた。


「話は、終わりだな? 明日は早くに起きる必要があろうから、俺は眠らせてもらう。……ゼイ、あとは頼んだぞ」


「うむ」とうなずいて、ゼイ=ディンがそっとトゥール=ディンの肩に触れてきた。


「明日に備えて、お前も休むがいい。……皆も、ゆっくり休んでくれ」


 そうしてトゥール=ディンも、父親とともに寝所に向かうことになった。

 雨季用の寝具を整えて、ふたりでその上に身を横たえる。燭台の火を消すと、あたりはたちまち闇に包まれた。


「トゥールよ、今日は大変な1日であったようだな」


 闇の中に、ゼイ=ディンの静かな声音が響く。

 その逞しい左腕をぎゅっと抱きすくめながら、トゥール=ディンは「ううん」と答えてみせる。


「本当に大変なのは、オディフィアのほうだから……父さんは、怒ってない?」


「うむ? どうして俺が、怒らなければならないのだ?」


「だってわたしは、父さんにも秘密を持ってしまったから……」


 雨雲のせいで、窓からは月明かりも差し込んでいない。

 それでもゼイ=ディンの手は、正確にトゥール=ディンの頭に触れてきた。


「俺は、お前の正しさを信じている。オディフィアが自ら打ち明けようと考えたなら、そのときは俺もお前と同じ秘密を抱えよう」


 こらえようもなく、トゥール=ディンは涙をこぼしてしまった。

 それをなだめるように、父親の指先が髪を優しく撫でてくる。


 オディフィアは、どのような心地でこの夜を過ごしているだろうか。

 それを考えると、トゥール=ディンのまぶたからはいっそうの涙がこぼれ落ちてしまった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 物語全体を通じて建築物に本来あるべき機能の記述がなかったりアスタがアイ=ファの猛攻を鋼の意思で抑制している理由にある種とんでもないとある仮定をして第一話から読み返しながら「ひょっとしたら仮説…
[良い点] 糖尿病ですね、間違いない!(確信 甘いもんばっか食ってるせいだー
[一言] さて、直らぬ病といえば恋の病ですが?
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