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異世界料理道  作者: EDA
第五十五章 群像演舞~六ノ巻~
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    最果ての神殿(下)

2020.10/17 更新分 1/1

「こちらでございます……お足もとにお気をつけください……」


 ロロとニーヤはいったん礼拝堂に出てから、今度は左端の扉をくぐらされることになった。

 その先に待ち受けていたのは、薄暗い回廊である。先頭を進む老婆が灯籠を掲げていたが、それでも照らしきれないぐらい回廊は長々と続いていた。


「こ、こちらはずいぶんと立派な神殿なのですね。自由開拓地にこれほど立派な神殿をかまえている場所など、そうそうないように思います」


 ロロはきょときょとと視線をさまよわせながら、そのように言いたてた。

 老婆は落ち着きはらった声で、「さようでございますか……」と応じる。


「この地に生まれ落ちた者は、おおよそこの地で魂を返しますため……余所の土地については、さっぱり様子がわからないのでございます……」


「な、なるほど……そういえば、礼拝堂には神像が見当たりませんでしたね。西方神の神像は、普通でしたら礼拝堂に設置するのではないでしょうか?」


「西方神……何故にこちらが、西方神の神殿であると……?」


「え? これだけ立派な神殿であれば、普通は父なる西方神を祀るものではないですか?」


「いえ……こちらは小神を祀る神殿にてございます……」


 そのように答えてから、老婆は足を止めた。

 突き当たりの壁に、大きな扉が照らし出されている。


「神官長……吟遊詩人なるお客人をお連れいたしました……」


 中からの返事を待つことなく、老婆は扉を引き開けた。

 扉の向こうは、回廊とさほど変わらぬ暗さの部屋である。その奥側に大きな寝台が設置されており、そこにひとりの女人が身を起こしていた。


「ようこそ、おいでくださいました……どうぞそちらにお掛けください」


 寝台の女人が、鈴を転がすような声音で語りかけてくる。

 確かに、20歳ていどの若い女人であるのだろう。しかし彼女は顔の下半分を織布で覆っているために、涼やかな目もとしかあらわにされていなかった。


 長い黒髪は腰のあたりにまで自然に垂らされており、そのほっそりとした身体には絹の薄物を纏っている。やわらかそうな毛布に下半身を隠してしまっているが、立ち上がればずいぶんと背が高そうだ。そして、夜着の袖が長いために、その指先もすっぽりと隠されてしまっていた。


「お初にお目にかかります。自分は吟遊詩人のニーヤと申します」


 ニーヤは敷物に膝をついて、恭しげに一礼してから、準備されていた椅子に腰を下ろした。

 椅子は一脚しかなかったので、ロロはニーヤのかたわらまで歩を進めつつ、ぺこぺこと頭を下げる。


「ボ、ボクは《ギャムレイの一座》という旅芸人の一座で下働きをしている、ロロと申します。今日は突然おしかけてしまって、本当に申し訳ありません」


「いえ……この地で客人をお迎えすることはとても稀でありますため、わたくしも嬉しく思っております……」


 艶やかな黒髪と口もとを覆った織布の狭間で、切れ長の目が優しげに細められる。


「吟遊詩人というのは、いにしえの物語を歌として聞かせてくださるのでしょう……? よろしければ、わたくしにもそれをお聞かせ願えますか……?」


「ええ、もちろん。どのような物語をご所望でありましょうか?」


「それでは……なるべく古い物語を……」


「古い物語」と反復しながら、ニーヤは楽器の弦を爪弾いて調律した。


「では、シムの聖人ユーハオの物語は如何でしょう? 歴史の闇に葬り去られた、古い古い物語でございます」


「ええ……そちらの物語でお願いいたします……」


 ニーヤは小さく咳払いをしてから、やがて優雅に楽器をかき鳴らした。

 しばらくして、そこに美声がかぶせられる。せまい室内であったので、彼としては十分に声を抑えた歌い方であったが、それでも人の心をつかんでやまない力強さと流麗さを兼ね備えていた。


 すぐ隣で聞いていたロロも、うっとりと目を閉ざしている。彼女はニーヤと相性が悪かったが、その歌の技量には心酔していたのだ。

 寝台の神官長も、まぶたを閉ざしてニーヤの歌声に聞き入っている。背後の扉のかたわらに控えた老婆は、わずかにうつむいて表情を隠していた。


 聖人ユーハオの働きによって、東の地には王国シムが建立される。しかしそれは、200年と待たずに瓦解してしまう、ひとときの栄光だ。その内容が明るく希望にあふれていればいるほどに、シムの滅びを伝える最後の一節は物悲しく響いた。


 ニーヤの歌声が薄闇に溶け、最後の旋律も余韻を残して消え去ると、まずはロロが感極まったように手を打ち鳴らした。


「すごいですすごいです! その歌は初めて耳にしました! ニーヤって、本当にお歌が上手なんですねえ!」


「神官長の前だぞ。控えろよ」


 ニーヤはうるさそうに言ってから、寝台の神官長に微笑みかけた。


「如何でしたでしょう? 神官長のお気に召しましたでしょうか?」


「はい……胸に食い入るような内容でございました……」


 神官長は長い袖に隠された手の先で、自分の胸もとをかき抱いた。


「そうしてシムの王国は、滅びを迎えたのでございますね……?」


「はい。シムの第一王朝が400年以上の昔に滅んだことは、歴史の伝える通りです。その後、ラオの一族が新たな王国を築くまで、シムの民は蛮族と蔑まれながら戦乱の時代を過ごすことになったわけですね」


「なるほど……ひとたび滅びを迎えながら、シムの人々は王国を打ち立てるという執念を決して忘れなかったのですね……」


 まぶたを閉ざし、自分の肢体を抱きすくめたまま、神官長は囁くような声で言った。


「浅ましい……本当に、浅ましい限りです……」


「はい? なんと仰いましたか?」


「浅ましい……と、言ったのです」


 神官長が、まぶたを開いた。

 色の淡いその瞳に宿されていたのは――燃えるような、憎悪の炎である。


「シムはそのまま、王国の夢など捨てるべきだった……不浄の存在を打ち捨てて、魔術の技を磨きぬくべきだった……どうして彼らはそれほどに浅ましく、愚かであったのでしょう……」


「し、神官長?」


「彼らもしょせんは、忌み人です……魂を砕かれるその瞬間、己の愚かしさを思い知ることでしょう……」


 ニーヤは泡を食って、立ち上がろうとした。

 それと同時に、床ががくんと斜めに傾ぐ。ニーヤとロロは悲鳴をあげながら、床に口を開けた深淵へと吸い込まれることになった。


 さきほどの荷車よりも長い距離を滑落したのち、ふたりは硬い岩盤の上に放り出される。

 そうしてふたりの頭上では、みしみしと音をたてながら落とし穴の蓋が閉まっていき――最後には、完全なる闇に包まれることになった。


「な、なんだよ、こりゃ! いったい何がどうなってんだ!?」


「ど、ど、どうやら落とし穴だったみたいですね。き、きっと後ろに立っていたあのお婆さんが、何か細工をしたのでしょう」


「どうして俺たちが、そんな罠に掛けられなきゃいけねえんだよ! 神官なんざに恨みを買う覚えはねえぞ!」


「と、とにかく落ち着きましょう。ほらほら、あっちに光が見えますよ!」


 そこは完全なる暗闇であったが、遠くにぽつんと小さな光が灯されていた。

 ふたりはほとんど這いずるようにして、そちらの光に向かっていく。その道行きで、ロロが「あはは」と力なく笑った。


「わ、わけもわからぬまま転げ落ちて、闇の中を明かりに向かって近づいていくって、まるきりさっきの繰り返しですね。1日に2度もこんな目にあうとは想像もしていませんでした」


「ふざけた口を叩いてる場合かよ! ここにはピノも団長もいねえんだぞ!」


 ニーヤの声は、ほとんど泣き声になってしまっていた。

 その間にも、赤い光はじょじょに近づいている。どうやらそれは、小さな燭台の明かりであるようだった。


「ど、どうしてこんな場所に燭台が……?」


 ロロがそのように言いかけたとき――奥の暗がりから、「ああ……」と小さな声が響いた。

 ニーヤは「ぎゃーっ!」とわめきたてて、かたわらのロロにしがみつく。それでロロも、「ひょえーっ!」と雄叫びをあげることになった。


「は、離してくださいよぅ! ボク、ニーヤの歌声しか好きじゃないんです!」


「だ、だ、誰かいるぞ! ほら、人影が動いてる!」


 ニーヤにしがみつかれたまま、ロロはその手の得物を振り上げた。彼女は一緒に滑落した椅子を手探りで発見し、それを持ち歩いていたのだ。


「だ、誰ですかー! ボクたちなんて、食べても美味しくないですよ!」


 暗がりの奥で黒い人影が蠢いたが、何も答えようとしなかった。

 ロロは小首を傾げつつ、足もとに置かれていた燭台を取り上げる。その明かりを突きつけると、闇の中で小さな幼子たちが身を寄せ合っていた。


「き、君たちは誰ですか? こんなところで、何をやっているのです?」


「…………」


「ボ、ボクたちは怪しい者じゃありません。神官長とかいうお人に歌を聞かせていたら、いきなりこのような場所に追いやられてしまったのです」


 ロロはにへらっと笑いながら、燭台を手もとに引き寄せた。


「ほ、ほらほら、怖くなさそうな面相でしょう? ボクはロロで、こっちはニーヤです。……ニ、ニーヤもしゃんとしてくださいよぅ。こんな小さな子供たちを怖がる必要はないでしょう?」


 ニーヤはしばらく震えていたが、やがて脱力した様子でへたり込んだ。その手には、しっかりと愛用の楽器が抱えられている。


「き、君たちも神殿の関係者なのですか? それとも、もしかして――」


「……僕たちは、供物です」


 幼子の片方が、感情の欠落した声音でそう応じた。


「僕たちは神に魂を捧げるため、この場で身を清めておくように申しつけられました……あなたたちも、供物なのですか?」


「く、供物? 供物って、なんの話です?」


「……神をこの世に顕現させるための、生け贄です」


 そう言って、その幼子は目を伏せた。

 もう片方の幼子は、やはり虚ろな眼差しでロロたちを見やっている。


 それは、妖精のように愛くるしい幼子たちであった。

 年齢は、まだ10歳にもなっていないぐらいだろう。くりくりの巻き毛を首の横で切りそろえて、なめらかな黄白色の肌をしており――そして、そっくり同じような顔をしている。その身に纏っているのは、薄汚れた灰色の夜着だ。


 また、燭台のおかげでこの場所の様相も見て取ることができた。ここはじっとりと湿気を含んだ、鍾乳洞であったのだ。

 ごつごつとした岩肌は黒く照り輝いており、天井からはときおり水滴が落ちてくる。幼子たちの足もとには、空の木皿と革の水筒だけが置かれていた。


「か、神に生け贄を捧げるなんて、そんな話は聞いたこともありません。四大神であろうと七小神であろうと、そんな禍々しい儀式を許すはずがないでしょう?」


 ロロがそのように言いたてても、幼子たちは答えようとしなかった。


「だ、だいたい神をこの世に顕現させるって何ですか? 神というのは、天の上から子たる人間たちを見守っているものでしょう? 神の復活を願うなんて、そんなのはせいぜい邪神教団ぐらいしか――」


 と、ロロはそこで目を丸くした。


「あ、あれ? もしかして、あの神殿は邪神を祀るための神殿だったのでしょうか? だから、神像がなかったとか……?」


「そんな話は、どうでもいいだろ! とにかく、とっとと逃げるんだよ!」


 ニーヤが上ずった声で言うと、目を伏せている幼子が静かにつぶやいた。


「逃げられません。僕たちの魂は、神に捧げなければならないのです。それが唯一の、正しい運命であるのです」


「ふ、ふざけんな! 邪神だか何だか知らねえが、俺の魂は俺のもんだ! 最後にそいつを捧げる相手は、西方神って決まってるんだよ!」


「この地に、四大神の力は及びません。この地は、四大神よりも古き神に守られているのです」


 ロロは眉尻を下げながら、おそるおそる幼子のほうに近づいていった。

 幼子たちはびくりと身体を震わせたが、その表情は動かない。まるで東の民のごとき無表情だ。


「も、もしかして、君たちはどこかからさらわれてきたのですか? 神殿には、行方知れずのお人らを捜している《守護人》の御方がいらっしゃるのですけれど……」


「いえ。僕たちは、この地で生を受けました」

「わたしたちは、魂を捧げるために生まれてきたのです」


 もう片方の幼子も、初めて口を開いた。その声までもが、そっくり同じである。

 その姿を見比べながら、ロロは再びとぼけた笑みを浮かべた。


「そ、そりゃあ誰だって、最後には魂を返すものなのでしょう。でも、それを決めるのは神々です。たとえ神殿に仕えるお人らでも、他人の生命をどうこうすることは許されないはずですよ?」


「…………」

「…………」


「ボクたちは、さっき名乗りましたよね。よければ、君たちの名前も教えてもらえますか?」


「……僕は、アルンです」

「……わたしは、アミンです」


「アルンとアミンですか。おふたりはよく似ているけど、兄弟か何かなのですか?」


「…………」

「…………」


「こ、答えたくない話は、答えなくてかまいません。ボクたちの他にも、こうして余所から連れ去られてきたお人たちがいたのでしょうか?」


「……いつだったか、とても綺麗な顔立ちをした男の人が、供物として捧げられました」

「……そちらのニーヤというお人ぐらい、端正なお顔立ちをしていたように思います」


「なるほど……」と、ロロがニーヤに向きなおった。


「これはきっと、ニーヤが男前なお顔をしているために、目をつけられてしまったということなのでしょうね」


「な、なに? 俺がなんだってんだよ!?」


「ほら、最初に雨宿りをお願いした家のお人も、ニーヤの顔立ちを気にしていたでしょう? それで、これは神への供物としての資格あり、と判じられたのではないでしょうか?」


「ふ、ふざけんな! また俺に責任をおっかぶせようってのか!?」


「いえいえ。ニーヤがボクぐらいお粗末な姿をしていたら、その場でどうにかされていたのかもしれません。ここが邪神教団の隠れ里だとしたら、うかうかと迷い込んだ旅人を生かして返すとも思えませんからねぇ」


 そんな風に言ってから、ロロは幼子たちを覗き込んだ。


「ちなみに、神への供物ってどんな風に捧げられるんでしょうか?」


「……天井から吊るして、首をかき切ります。神の代行者たる神官長が、その身に供物の血を浴びるのです」


 ニーヤは再び、へなへなと崩れ落ちてしまった。

 足もとに置いた椅子に燭台を乗せながら、ロロは「うーむ」と腕を組む。


「これは、由々しき事態でありますねえ。いったい、どうしたものでありましょう」


「な、何を落ち着きはらってやがるんだよ! 俺がやられたら、お前だって無事にはすまねえぞ!」


「はい。だけど何だか一周回って、恐怖心が吹き飛んでしまったのですよね。ボクも、びっくりしています」


 そう言って、ロロはふにゃんと微笑んだ。

 そして、幼子たちに向きなおる。


「でも、できればボクたちは死にたくありません。君たちは、どうですか?」


「…………?」

「…………?」


「いや、そんな不思議そうな顔をされても……君たちは、自分の意思で神に魂を捧げようとしているのですか?」


「僕たちの意思は……関係ありません」

「わたしたちは……神の供物となるために生まれてきたのです」


「うんうん。ボクもそうやって、自分の運命をあきらめていましたよ。自分はけっきょく、周囲のお人らに面倒をかけるために生まれてきたんだなあって……でも、そんなボクを団長やピノたちが救い出してくれたんです」


 ふにゃふにゃと笑いながら、ロロはさらに幼子たちのほうに身を寄せた。

 幼子たちは無表情ながらも、いくぶん困惑した眼差しでその姿を見つめ返す。


「占星師でもない限り、人の運命なんて読み取ることはできないでしょう? だから、運命なんてどうでもいいんです。人間は、好き勝手に生きていいんですよ。ボクは団長たちから、そう教わりました」


「だんちょう……?」


「はい、団長です。ギャムレイっていうそのお人は、世界中からはぐれ者を集めて、旅芸人の一座に仕立てあげているんです」


 そこでロロは、ぼしょぼしょと声をひそめた。


「ボクも詳しくは聞かされていないのですけれど、座員の中にはとんでもない出自を抱えているお人もいるみたいなんですよね。ボクだって、決して大きな声では言えないような生まれですし……でも、ボクたちは過去のしがらみを捨て去って、その日暮らしの生活を楽しんでいるんです」


「…………」

「…………」


「邪神教団の隠れ里で、供物となるために生まれつくって、なかなか大変な出自ですよね。でも、そんなのどうでもいいんです。大事なのは、自分がどう生きたいかなんですよ。どんなとんでもない出自を抱えていたって、そんなものは捨てちゃえばいいんです」


「…………」

「…………」


「うーん、ボクみたいな若輩者がどんなに言葉を重ねたって、説得力がないですよねぇ。ここはやっぱり、ピノか団長にお出ましを願いたいなぁ」


「お、お前はさっきから、何をべらべらとしゃべくってやがるんだよ? そんな餓鬼ども、どうでもいいだろうが?」


 ニーヤがわめきたてると、ロロは「えー?」と口をとがらせた。


「だって、こんなの放っておけないじゃないですか。気が大きくなってるついでで言っちゃいますけど、ニーヤのそういう薄情なところ、ボク嫌いです」


「う、うるせえよ! とにかく、早く逃げねえと――」


 そこに、地鳴りのような音色が響きわたった。

 ニーヤは顔面蒼白となって、すくみあがる。


「な、なんだよ、今の音は!」


「……神官たちが、やってくるのでしょう……供物を捧げる準備を進めるために……」


 アルンとアミンは感情のゆらぎを見せていた瞳をまぶたの裏に隠すと、祈るように手を組み合わせた。

 闇の奥に、ぼっと赤い光が灯る。それはまばたきを繰り返すごとに数を増やし、そしてゆらゆらとこちらに近づいてきた。


 ニーヤは女のような悲鳴をあげると、椅子の上に置かれていた燭台を取り上げて、逆の方向に走り始める。

 闇の中に取り残されたロロは、「ちょっとー!」と非難がましく声をあげた。


「それを持っていかれると、動きが取れませーん! ニーヤ、戻ってきてくださーい!」


「うるせえよ!」とわめきながら、ニーヤはひた走る。

 しばらくすると、背後から喧噪の気配が伝わってきた。神官たちが、ロロたちのもとに到達したのだろう。ロロのあげる「うひゃあ!」という雄叫びが、闇の中に陰々と木霊した。


 ニーヤは起伏の激しい岩盤に足を取られつつ、必死に逃げまどう。

 やがて――向かう先に、ぽっかりと大きな光が浮かびあがった。


「やった! 出口だ!」


 ニーヤはそのように叫んだが、現在がすでに夜半であるということをすっかり失念してしまっていた。それは外界への出口ではなく、さらなる脅威への入り口であったのだ。


 ニーヤは何を考えるゆとりもなく、光の中に飛び込んだ。

 そこは、石造りの一室であった。

 鍾乳洞ではなく、石を組んで造られた人工の部屋である。さして広くもないその部屋には、濃密なる血臭が満ちていた。


「うわ……」とうめいて、ニーヤは立ちすくむ。

 天井からは鎖が垂れており、床には赤黒いしみがひろがっていた。

 この場所こそが、神に供物を捧げるための忌まわしき祭壇であったのだ。

 そして――その中央に、神官長たる女人がひっそりと立ち尽くしていた。


「あら……神官たちの案内もなく、おひとりでやってきてしまったのですか……?」


 鈴を転がすような声で、神官長はそう言った。

 ニーヤは燭台を放り捨て、両手で楽器を抱え込む。


「こ、この野郎! よくも騙しやがったな! 手前らなんぞの好きにはさせねえぞ!」


「愚かなことですね……あなたもしょせんは、忌み人であるのです……その魂は、蛇神ケットゥアに捧げられることで、ようやく浄化されるでしょう……」


「蛇神ケットゥア? はん! やっぱり邪神教団かよ! 言っとくがな、俺だって女1匹に怯んだりはしねえぞ!」


 楽器を抱え込んだまま、ニーヤは得物になりそうなものを探して視線を巡らせた。

 その姿を見やりながら、神官長は咽喉をのけぞらせて笑う。


「さきほどの歌声とは打って変わって、聞き苦しい声ですこと……蛇神に魂を捧げるとき、その声がどのような響きを帯びるものか……想像しただけで、身体が疼いてしまいますわ……」


 そんな風に言いながら、神官長はやおら口もとの織布を引き剥がした。

 ニーヤは声にならない悲鳴をあげて、冷たい床にへたりこむ。


 神官長の顔は、茶色くささくれた鱗に覆われていた。

 両方の頬も、口もとも、咽喉もとも――すべてが蛇のごとき鱗に覆われていたのである。


「さあ、大人しくなさい……あなたの魂は神の代行者たるわたくしを通して、神の血肉となるのです……」


 神官長は異様に細長い舌でひび割れた唇を舐めながら、ニーヤのもとに近づいた。

 長い袖からはみだした手の先も鱗に覆われており、そこには鋭い爪も生やされている。ニーヤはすでに魂を奪われてしまったかのような様子で、呆然とその異形を見返した。


「……なるほど。つまりは君が、首魁であるわけだね」


 と――場違いなほどに呑気な声が、ニーヤの背後から響きわたる。

 そこに現れたのは、長剣を手に下げたカミュア=ヨシュであった。

 神官長は、憎悪に燃える目でそちらに向きなおる。


「あなたなどをこの場に呼びつけた覚えはありません……早々に去りなさい……」


「おやおや、そちらは俺の姿を見知っているようだね。あの部屋を覗き見たり盗み聞いたりして、供物に仕立てる相手を選別していたわけか」


 長剣の切っ先をぶらぶらと揺らしながら、カミュア=ヨシュは飄然と微笑んだ。


「だけどまあ、君たちの悪事もここまでだよ。神官たちは、俺とロロで一掃してしまったからね」


「黙りなさい……誰にもこの儀式の邪魔はさせません……」


 神官長は腰の後ろから、短剣を抜き放った。湾曲した刀身が青紫色に濡れて輝く、毒の短剣である。


「悪いけれど、まがりなりにも《守護人》がかよわい女人に後れを取ることはないよ。それに君は……病人なんだろう? 邪神の崇拝などにうつつを抜かさず、君は正しい手段で自分の身を思いやるべきだったね」


「黙れえええええええっ!」


 鱗に覆われた顔を憤激に歪ませて、神官長が突進した。

 悲鳴をあげるニーヤの頭ごしに、カミュア=ヨシュはふわりと長剣をひるがえす。その斬撃に弾かれて、短剣がくるくると宙に舞い上がった。


「おのれ――!」と神官長は頭上に手をのばした。

 その手の平をかすめて、短剣は床に落ちる。

 鱗に覆われた手の平から、つうっと赤い鮮血が流れ落ち――神官長は、この世のものとも思えない絶叫をほとばしらせて、棒のように倒れ込んだ。


「やれやれ、生命まで奪うつもりはなかったのに。……だけどまあ、罪人として外界に引き立てられるよりは、よほど幸福であったのかな」


 カミュア=ヨシュは長剣を鞘に収めて、ニーヤを見下ろした。

 ニーヤはがくがくと震えながら、楽器を抱え込んでいる。


「ずいぶん怖い目にあわせてしまったようだね。神官たちの目が君たちのほうに向いたんで、ようやくこの刀を取り戻すことができたんだよ」


「…………」


「だけど、ロロと一緒にいさえすれば、そうまで怖い目にあうこともなかったろうにねえ」


 と――とぼけた笑みをたたえつつ、カミュア=ヨシュは目を細めた。

 紫色をした瞳に、普段と異なる光がたたえられている。ニーヤは「ひっ」と声をあげ、へたりこんだまま後ずさった。


「君はロロや気の毒な幼子たちを置いて、ひとりで逃げてしまったそうだね。《ギャムレイの一座》というのは家族以上の絆で結ばれた一団だと思っていたのだけれども……君だけは、ちょっと毛色が異なるのかな」


「な……なんだよ、その目は……お、俺をどうしようってんだ……?」


「別に、どうもしたりはしないさ。俺は、《ギャムレイの一座》が好きだからね」


 そう言って、カミュア=ヨシュは静かにニーヤの姿を見つめ続けた。


「ただ……君の存在は、いくぶんあの一団の調和を乱してしまっているようだ。俺は決して、弱さを罪だと思ったりはしていないのだけれども……己の弱さを顧みず、仲間の存在をないがしろにしようというのは……あまり感心した行いではないよねえ」


 カミュア=ヨシュの声音はいつも通りの飄々とした笑いを含んでいるし、その長剣は鞘に収められたままである。

 しかしニーヤは、神官長を見るのと同じ目でカミュア=ヨシュを見つめていた。その端正な顔には、怯える子供のような表情がへばりついてしまっている。


 そうして、奇妙に緊迫した時間が過ぎた後――

 カミュア=ヨシュの背後からひょこりと顔を出したロロが、「あーっ!」と素っ頓狂な声をあげた。


「だ、駄目ですよぅ、カミュア=ヨシュ! ニーヤをいじめないであげてくださーい!」


「やあ、ずいぶん遅かったね、ロロ」


 カミュア=ヨシュは、にこりと笑ってロロを振り返る。

 ロロは左右の手でそれぞれ幼子たちの手をつかんでおり、幼子たちがひとつずつ灯籠を掲げていた。


「だってこの子たち、走ることができないぐらい弱り果ててたから……そ、それよりも、ニーヤをいじめたら駄目ですってば!」


「まいったなあ。べつだん、いじめていたつもりはなかったのだけれども」


「だって、ニーヤはこんなに怯えちゃってるじゃないですか! ニーヤはこの子たちよりも性根が据わっていないから、いじめちゃ駄目なんです!」


 そんな風に言ってから、ロロはふにゃりと微笑んだ。


「まあ、それよりも性根が据わってないのは、このボクなんですけどね。ニーヤが何をしたのかはわかりませんけれど、どうぞいじめないであげてください」


 そのとき、がたりと硬い音色が響いた。

 ニーヤは身をすくめ、ロロとカミュア=ヨシュは音のした方向を振り返る。壁の一部が回転して、その隙間から目にも鮮やかな真紅の色合いが覗いた。


「ああ、やっと見つけたよォ。まったく、手のかかるボンクラどもだねェ」


「ピ、ピノ! やっと迎えに来てくれたんですねー!」


「やっとってェのは、どういう言い草さァ。こんな雨ン中、人を走らせまくってさァ」


 それは、赤く染めあげた外套を着込んだ、ピノであった。

 ピノは室内の惨状を見回してから、にいっと唇を吊り上げる。


「ま、面倒な話は後回しだねェ。生命が惜しかったら、さっさとズラかるんだよォ」


「い、生命が惜しかったらって? まだ何かおかしなお人らが残ってるんですか?」


「そうじゃなくって、土石流が押し寄せてるんだよォ。うかうかしてると、集落ごと生き埋めにされちまうよォ?」


                       ◇


 そして――悪夢のような一夜が過ぎ去って、翌日の朝である。

 ピノが宣言した通り、邪神教団の隠れ里は土石流に呑み込まれてしまった。

 ピノたちは、森の中に切り開かれた道の上から、かつて集落の存在した場所を見下ろしている。石造りの巨大な神殿も、その周囲に身を寄せ合っていた木造りの家屋も、その姿を人目から隠していた森の茂みも、すべてが土砂の下であった。


「けっきょく集落の連中は、ひとりも逃げ出さなかったみたいだねェ。ま、不浄に満ちみちた外界で生きる気力もなかったんだろうけどさァ」


 ピノがそのように言いたてると、そのかたわらにたたずんでいたカミュア=ヨシュが「不浄、か」とつぶやいた。

 その声の響きに、ピノはカミュア=ヨシュの長身を振り仰ぐ。


「なんだい? 何か言いたげだねェ?」


「いやいや、昨日は本当に大変な騒ぎだったね。ピノたちが来てくれなかったら、俺たちも危うかったかな」


「そっちは自力で面倒ごとを片付けてたろォ? アタシらなんて、雨ン中を走り回っただけのことさァ」


 ロロたちがはぐれたことに気づいたピノたちは、慌てて道を引き返し、崖の下に転落した荷車を発見したのである。それで、ピノとゼッタとシャントゥと、3頭の獣たちが救出部隊として崖の下に降り、そうして件の集落を発見したのだった。


「だけどこうして、俺のトトスまで助け出してくれたのだからね。なんべん御礼を言っても足りないぐらいさ」


「そんなのは、うちの大事なトトスを助け出すついでさァ。コッチはふたりもボンクラを助けてもらったんだから、礼には及ばないよォ」


 そこでピノは、大きく切れ上がった目を妖艶に細めた。


「ついでに、大ボンクラの躾までしてくれたってんだろォ? あのボンクラは蛇女よりもアンタに震えあがっちまって、寝小便でもしそうな怯えようさァ」


「ああ、うん……ちょっと余計なことをしてしまったなあと、俺は反省しているのだよね」


 カミュア=ヨシュが申し訳なさそうに頭をかくと、ピノは赤い唇をにっと吊り上げた。


「あのボンクラには、いい薬だったろうさァ。……ただ、あんなボンクラでもいちおうウチの座員なんでねェ。手出し口出しはほどほどにってェのも素直な心情さァ」


「うんうん。きっと君たちは、俺よりも器が大きいのだろうからね。今後は余計な真似をしないと誓うから、お目こぼしをもらえるかなあ?」


「何もそうまで下手に出ることはないさァ。アンタみたいに愉快なお人と縁切りしちまうのは、あまりに惜しい話だからねェ」


 そんな風に言いながら、ピノは挑発するようにカミュア=ヨシュを見つめた。


「で、親愛の証として、さっき言いかけたお言葉を聞かせちゃもらえないもんかねェ?」


「うん? 俺は何か言いかけたかな?」


「とぼけるねェ。不浄がどうたらって意味ありげに言ってたじゃないかさァ」


「ああ」と、カミュア=ヨシュは笑った。


「べつだん、たいした話ではないよ。ただ、あの集落の神殿は、ずいぶん立派な石造りだったなあと思ってね」


「うン? ソイツはつまり――」


「そう。邪神っていうのは、大神アムスホルンの眠りとともに、闇へと追いやられた存在だろう? それは四大神の子となることを拒んだ存在なのだから、石と鋼の文明を忌避しているはずだよね」


 外套の内側をまさぐりながら、カミュア=ヨシュはそう言った。


「百歩譲って、木造りの家はいいだろう。鋼の力に頼らずとも、家を建てることはできるのかもしれない。でも、石造りの神殿っていうのはねえ……さすがに邪神の神殿には不相応なのじゃないかな?」


「それじゃあ、あの蛇女は――」


「世の中には、肌が鱗のような形状に変質する病魔も存在するそうだよ。……それに、人の血肉を薬とする野蛮な療法というものも存在するはずだね」


 微笑まじりに言いながら、カミュア=ヨシュは懐から手を抜き取った。

 その指先につままれていたのは、丸い赤銅貨である。


「もちろん彼女は蛇神の名を口にしていたそうだから、立派な邪教徒であったんだろう。ただ、本気で邪神に帰依していたのか、病魔で頭がおかしくなっていただけなのか……真相は、闇の中ならぬ土砂の下だね」


「なァるほどォ。そいつは詮索するだけ、野暮ってモンだねェ」


「そうそう。まあ、この銅貨と同じように、まがいものであってほしいものだよ」


 カミュア=ヨシュは、親指で銅貨を弾き飛ばした。

 まがいものの銅貨は赤くきらめきながら、土砂の上に落ちていく。


「さて、と……そういえば、あの幼子たちはどうするのかな? よければ、俺が安全な場所までお連れするよ」


「あァ、アイツらはまだ肚が据わらないみたいだねェ。ま、座員になりたいってェんなら芸を仕込んでやってもいいし、その気がないならどこかの聖堂にでも放り込ませてもらうさァ」


 そんな風に言ってから、ピノはいくぶん無邪気な感じに微笑んだ。


「ただ、アイツらはアンタに心を寄せたみたいだから、最後に挨拶でもしてもらえたらありがたいねェ」


「俺に? 何も心を寄せられるような覚えはないのだけれども……」


「アンタはアイツらに群がる神官どもを、お得意の剣技でバッタバッタと薙ぎ倒していったんだろォ? その姿が、悪しき運命を打ち砕く救世主にでも見えたんじゃないかねェ」


 ピノはくつくつと、咽喉で笑った。


「アンタが暴れ回る姿を、アイツらは目を輝かせて見守ってたんだってさァ。その場ではロロも暴れてたんだろうけど、アイツはいまひとつ華ってェもんがないからねェ」


「ロロだって、たいそうな活躍だったのだけれどね。……まあいいや。そういうことなら、挨拶をさせてもらおうかな」


 カミュア=ヨシュは、道に並んだ荷車を振り返った。昨晩はひどい騒ぎであったので、他の座員たちはまだ眠りこけているのである。


「俺が探していた相手は供物として捧げられてしまったようだし、君たちは荷車を1台失ってしまったし……まったく、さんざんな一夜だったねえ」


「トトスもボンクラどもも無事だったんだから、どうってことないさァ。こうやって、アンタともひさびさに語らえることができたしねェ」


 カミュア=ヨシュとピノはにんまり笑い合ってから、どちらともなく頭上を振り仰いだ。

 昨晩の豪雨が嘘のように、天空は青く晴れわたっていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] この過去話はもっと膨らませる余地あったと思うけど、あっさり2話で終わってちょっと残念。 それにしてもニーヤの小物感に草。自分だけ助かろうと灯り持って逃げ、逆に怖い目に遭うというピエロっぷり…
[気になる点] ニーアいつも懲らしめられるみたいな雰囲気になってるけど、別段悪いことしてないと思うけどなぁ。
2020/10/17 23:38 退会済み
管理
[良い点] 曲者揃いのギャムレイ一座の中でピュア枠のロロちゃんと双子ちゃん達のエピソード面白かったです。 [気になる点] 訳アリキャラNo1、ピノ様エピもいつか公開されるのでしょうか。 [一言] 本作…
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