第六話 スドラの家のかまど番
2020.10/15 更新分 1/1
間もなく雨季を迎えようかという、ある日のこと――
その日のルウ家の勉強会においては、マルフィラ=ナハムの作りあげた香草の料理がお披露目されることになった。
「こいつはすごいね! アスタじゃなくって、あんたがこいつを作りあげたってのかい?」
ルウ本家の家長の伴侶たるミーア・レイ=ルウがそのように言いたてると、マルフィラ=ナハムはいつもの調子で目を泳がせながら、「は、は、はい」とうなずいた。
「も、も、もちろんアスタの助言がなければ、このような料理を思いつくことすらできなかったでしょうけれども……」
「いや、この料理の基盤にあるのは、どちらかというとヴァルカスの料理だろう? ……というか、これはマルフィラ=ナハムがこれまでに習得してきた知識や経験の結晶なんだろうと思うよ」
アスタは笑顔で、そのように答えていた。
その言葉をかたわらで聞いていたユン=スドラも、心から納得する。この料理にはアスタっぽさとヴァルカスっぽさが混在して、深く絡み合っているのだ。どちらの存在が欠けたとしても、この料理が生まれることはなかったのだろう。
(本当にすごいな、マルフィラ=ナハムは。アスタに出会ったのもヴァルカスに出会ったのも、わたしよりずっと後のはずなのに)
ユン=スドラがそんな風に考えている間にも、ルウの女衆らは熱っぽい表情でマルフィラ=ナハムを賞賛していた。
その中から、きりっと真剣な面持ちをしたレイナ=ルウが進み出る。
「確かにこちらの料理は、以前に食べさせていただいたときよりも格段に完成度が上がったように思います。これでしたら、きっと城下町の料理人たちを驚嘆させることがかなうでしょう。……わたしも本当に、心から感服いたします」
レイナ=ルウは、かつてラヴィッツの集落で行われた合同収穫祭において、まだ未完成であったこの料理を口にしたのだという話であった。
レイナ=ルウはいっそう表情を引き締めながら、長身のマルフィラ=ナハムに詰め寄っていく。
「こちらの料理は、ヴァルカスにも味見をお願いするのでしょう? そのときには、わたしもぜひ同行させていただきたく思います。日取りなどは、すでに決められているのでしょうか?」
「い、い、いえ、具体的には何も……べ、べつだんヴァルカスとそのような約束をしたわけではありませんし……」
「だけどヴァルカスは、あなたの料理を口にしてみたいと仰っていました。この完成度であれば、きっとヴァルカスも心から満足することでしょう」
すると、マルフィラ=ナハムはあちこちに泳がせていた視線をレイナ=ルウのもとで固定させ、その口もとにやわらかい微笑をたたえた。
「わ、わ、わたしは森辺の同胞のために立派な料理を作りあげたいと願っているだけなのですが……で、でも、あれほど凄い料理を作ることができるヴァルカスにご満足いただけたら、光栄に思います」
「……ええ。きっとあなたは、アスタやマイムにも負けない誇りを抱くことがかなうのでしょう」
そんな風に言ってから、レイナ=ルウはアスタに向きなおった。
「何かの仕事の片手間では、ヴァルカスにマルフィラ=ナハムの料理を味わってもらうことも難しいように思います。やはりここはポルアースに通行証をお願いして、《銀星堂》に向かうことになるのでしょうか?」
「うん、たぶんね。でも最近は、ヴァルカスもゲルドから買いつけた食材の研究で忙しいみたいなんだよ」
にこにこと笑いながら、アスタはそのように答えていた。
見る者をほっとさせる、優しくて魅力的な笑顔だ。最近は、そこに男衆らしい頼もしさも増してきているように感じられた。
「ヤンやニコラがときどき、朝の市場でお弟子さんに出くわすらしいんだけどね。ヴァルカスはどうしても外せない予約済の仕事だけをこなして、あとはずっとゲルドの食材の研究に取り組んでいるっていう話だよ。貴族の屋敷に招かれる仕事なんかは、のきなみお弟子さんらに丸投げしてしまっているっていう話だね」
「……ではきっと、ゲルドの食材が使われたヴァルカスの料理も、近日中に完成するのでしょうね」
レイナ=ルウはちょっと切なげに眉をひそめながら、そう言った。
「それもまた、楽しみでならないのですが……いまだにゲルドの食材を使いこなせない自分の至らなさを不甲斐なく思ってしまいます」
「そんなことないよ。レイナ=ルウだって、あんな立派な香味腸詰肉を完成させたじゃないか」
「でもあれは、料理と言えるようなものではありませんし……」
すると、ミーア・レイ=ルウが陽気に笑いながら娘の背中を引っぱたいた。
「でも、城下町の貴族たちがさっそくそいつを買いつけたいって申し出てきたんだろう? 十分に、大したことなんじゃないのかねえ?」
「はい。香味腸詰肉、完成度、見事です。私、感服いたしました」
と――ゲルドの料理人たるプラティカも、そのように追従した。彼女は城下町で新たなトトスと荷車を購入し、また森辺で夜を明かすようになったのだ。
レイナ=ルウは何かを吹っ切るように頭を上げて、「ありがとうございます」とプラティカに答えた。
「何にせよ、城下町におもむく際はご一緒させていただきたく思います。……よろしいでしょうか、アスタ?」
「うん、もちろん。ヴァルカスのほうの手が空いたら、みんなで押しかけさせてもらおう」
そうしてようやく、話は一段落したようだった。
笑顔でみんなの様子をうかがっていたリミ=ルウが、そこで「はーい!」と元気に発言する。
「あのね、砂時計の最後の砂が落ちきったよ! 勉強会もおしまいの時間だね!」
「おや、もうそんな時間かい。それじゃあ、後片付けをしないとね」
今日も曇り空で日時計が頼りにならないので、もっとも大きな砂時計で常に時間を計っていたのだ。
かまど小屋に集まっていた面々は、手分けをして後片付けに取りかかる。
すると、レイナ=ルウが人目を忍ぶ様子でユン=スドラに近づいてきた。
「あの、ユン=スドラ……ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい。何でしょう?」
レイナ=ルウがこのように声をかけてくるのは、なかなか珍しいことだった。
レイナ=ルウはちょっともじもじしながら、いっそうの小声で語り始める。
「あの……ユン=スドラはマルフィラ=ナハムの料理を口にして、どのような気持ちを抱いたのでしょうか?」
「どのような気持ち? それはもう、心から驚かされました。あれは本当に、素晴らしい味わいでしたよね」
「はい。あれはきっと、アスタやマイムの料理に劣らぬ完成度だろうと思います。……それで、あの……妙に胸が騒いだりはしないものでしょうか?」
レイナ=ルウの声は、ほとんど囁き声のようになっていた。
ユン=スドラは小首を傾げつつ、「いえ」と答えてみせる。
「べつだん、胸が騒いだりはしません。レイナ=ルウは、胸が騒いでしまうのですか?」
「はい。もちろん悪い意味ではなくて……自分ももっと頑張ろうという意欲をかきたてられるのです。だけどやっぱりその中には、焦りや口惜しさという気持ちも含まれてしまっているのでしょう」
そう言って、レイナ=ルウはまた切なげに眉をひそめた。
「それもまた、向上心から発する気持ちであるのでしょうから、決して間違ったものだとは考えていません。ただ……そういう気持ちが外にこぼれてしまう自分の未熟さを、いささか気恥ずかしく思います」
「はあ……どうしてわたしに、そのような話を?」
「いえ、ユン=スドラはそういった気持ちがまったく見えないので、いったいどういう心情であるのかと……それが気になってしまったのです」
レイナ=ルウの青い瞳が、ふいに真剣な光を帯びる。
「ファの近在の氏族において、あなたとトゥール=ディンの力量は抜きん出ていたように思います。ですが今は、マルフィラ=ナハムが横並びとなって……ついにはあのような料理を作りあげたでしょう? それでもあなたは、胸が騒いだりはしないのでしょうか?」
「はい。マルフィラ=ナハムは最初から、さまざまな才覚を垣間見せていたように思うので……とりたてて、焦りや口惜しさというものを感じることはありませんでした。ただひたすらに、感心するばかりです」
レイナ=ルウはしばらくユン=スドラの瞳を見つめてから、やがて深々と溜め息をついた。
「ではやはり、わたしが子供じみているだけなのでしょうね。ユン=スドラはわたしより年少であるのに……やっぱり、不甲斐なく思います」
「そ、そんなことはありません。きっとレイナ=ルウは、それだけ熱心にかまど仕事に取り組んでいるということなのでしょう」
「……ユン=スドラだって、それは一緒でしょう?」
「はい。ですがわたしは、城下町の料理人というものをあまり気にかけていません。もちろんその力量には感服していますし、自分の料理にも影響を与えているのだろうと思うのですが……自分の料理を食べてほしいという気持ちは、あまり持ち合わせていないのです」
レイナ=ルウの様子が気がかりであったので、ユン=スドラはそんな風に言葉を重ねてみせた。
「レイナ=ルウはわたしよりも強くヴァルカスの存在を気にかけているために、マルフィラ=ナハムの存在も気にかかってしまうのではないでしょうか? それはきっと、子供じみているとかそういうこととは、別の話であるのだと思います」
「そう……かもしれませんね」
レイナ=ルウははにかむように微笑むと、ふいにぺこりと頭を下げた。
「余計な時間を取らせてしまって、申し訳ありませんでした。でも、ユン=スドラのおかげで少し気持ちが落ち着いたように思います。どうもありがとうございました」
「い、いえ。何かお役に立てたのなら、幸いです」
レイナ=ルウはもういっぺん頭を下げてから、母親のほうに戻っていった。
「ふう」と息をついて後ろを向いたユン=スドラは、そこに立ち尽くしていたプラティカを発見して、ぎょっとする。
「わ、びっくりした。プラティカも、わたしに何かご用事でしょうか?」
「はい。本日、スドラ家、お邪魔しますので、荷車、同行、如何でしょう?」
プラティカは、森辺のさまざまな家で晩餐の準備を見学したいと願い出ており、本日はスドラの家に迎えることとなっていたのだ。
ユン=スドラは少し考えて、その申し出を了承することにした。
「承知しました。そうすれば、他の荷車はスドラに立ち寄る必要もありませんものね。お気遣いありがとうございます」
「いえ。謝礼の言葉、申し述べるべき、こちらです。逗留、了承していただき、感謝しています」
そうして後片付けを済ませた後、ユン=スドラはプラティカの荷車に乗り込むことになった。
荷車を引くトトスは1頭で、荷台の大きさも森辺で使われている荷車と同程度であるが、革の幌ではなく木造りの頑丈な荷台である。彼女は荷車の中で夜を明かすため、獣や虫の侵入を警戒しなければならなかったのだ。
「それじゃあ、今日もお疲れ様でした。ユン=スドラもプラティカも、また明日!」
アスタはギルルの手綱を取って、ルウの集落を後にする。
さらにファファの荷車も発進すると、それを追う格好でプラティカもトトスを駆けさせた。
荷台の前面には大きな扉がつけられていたので、それを開けば普段の荷車と同じように、御者台の背中を見守ることができる。荷台にはユン=スドラひとりであったので、語りかけるべき相手は御者台のプラティカしか存在しなかった。
「あの、ひとつおうかがいしたかったのですが……プラティカはどうしてフォウやディンではなく、スドラの家にかまど仕事の見学を願ったのでしょうか?」
「フォウ、ディン、後日、見学、願います」
「はい。それよりもスドラを先んじる理由がわからなかったのです。フォウはスドラの親筋で家人も多いですし、ディンにはトゥール=ディンもいるでしょう?」
「スドラの家、ユン=スドラ、存在します」
その返答には、ユン=スドラも首を傾げることになった。
「それは光栄なお言葉ですが、トゥール=ディンよりもわたしを重んじる理由はないように思います」
「いえ。ユン=スドラ、トゥール=ディン、上回っています。個人の力量、トゥール=ディン、上回っていますが、かまど仕事、取り仕切る力、ユン=スドラ、上回っています」
そんな風に答えてから、プラティカは一瞬だけユン=スドラに視線を向けてきた。
「申し訳ありません。ユン=スドラ、貶める意図、ないのですが……西の言葉、拙いため、誤解、与えたかもしれません」
「いえ。トゥール=ディンがわたしよりも優れたかまど番であることは事実なのですから、どうぞお気になさらないでください」
「いえ。トゥール=ディン、菓子作りの力量、際立っていますが、それ以外、ユン=スドラ、遜色ない、思います。私、言葉、足りていません」
と、今度はプラティカのほうが首を傾げた。
「ユン=スドラ、寛容です。さきほど、レイナ=ルウとの会話、同じ思い、抱きました」
「え? レイナ=ルウとのやりとりをお聞きになっていたのですか?」
「はい。自然、耳、入りました。……ゲルドの民、狩人の一族です」
確かに森辺の男衆であれば、あれだけ声をひそめたやりとりも聞き取れるのかもしれない。しかし、女衆の身で料理人であるプラティカがそこまで鋭い耳を持っているというのは、なかなか驚嘆に値する話であった。
「では、プラティカのそばで内緒話をするときは、もっと声をひそめなければなりませんね」
ユン=スドラの言葉に、プラティカはまたちらりと視線を向けてきた。
「……ユン=スドラ、気分、害しましたか?」
「あ、いや、そういうわけではありません。ただの軽口ですので、どうかお気になさらないでください」
「はい。安堵しました。ユン=スドラ、嫌われたら、私、悲しいです」
プラティカはユン=スドラの知る東の民の中でもっとも感情をこぼしやすい人間であろうと思われるが、さすがに背中を向けた状態では真情をはかることも難しかった。
ただ、プラティカと言葉を交わすのは、心地好い。彼女はやはり、町の人間よりも森辺の民に近い気質を有しているのかもしれなかった。
(もちろん、町の人間が不快なわけではないけれど……やっぱり自分に気質が近いほうが、安心はできるよね)
しばらくすると、スドラの家に到着した。
曇り空であるためか、ピコの葉や毛皮を干している家人の姿も見当たらない。ただ、裏手のかまど小屋からは薪を割る音色が聞こえていた。
「では、荷車は家の横にお願いいたします。そうしたら、鋼やお荷物をお預かりいたしますね」
「はい。調理刀、持ち込み、了承いただけますか?」
「ええ、もちろんです」
荷車を降りたユン=スドラは、プラティカから短剣と外套を預かった。毒の武器は、この外套に隠されているのだそうだ。
プラティカは着替えをするとのことで荷車に残し、ユン=スドラはひとり母屋へと向かう。
母屋には、リィ=スドラともっとも年をくった女衆、それに双子の赤ん坊が待ち受けていた。
「おかえりなさい、ユン。今日もお疲れ様でした」
「はい。すぐに晩餐の支度に取りかかりますね」
プラティカの荷物を物置に片付けてから、ユン=スドラは赤ん坊の寝かしつけられている草籠を覗き込んだ。
ホドゥレイル=スドラもアスラ=スドラも、健やかに寝息をたてている。その寝顔を見ただけで、ユン=スドラの胸には温かい幸福感が広がった。
「ふたりともよく寝ていますね。……また少し大きくなったみたい」
「まあ。朝にもふたりの姿を見ているでしょう?」
リィ=スドラが、おかしそうに微笑する。もうひとりの女衆も、ゆったりと笑っていた。
「それじゃあ赤子らも寝入っていることだし、あたしも晩餐の支度を手伝おうかねえ」
「あ、こちらは大丈夫ですから、赤子たちについてあげていてください。何かあったら大変ですので」
「何も大変なことなんてありはしないと思うけど……今日はゲルドの客人がおいでなんだよね? それじゃあ、あたしは余計かねえ」
「余計なことはないけれど、人手は十分だと思います」
そのように答えて、ユン=スドラは母屋を後にした。
それと同時に、荷車からはプラティカが姿を現す。ファの家や城下町で見た、藍色の調理着というものを纏っており、その手には調理器具を詰め込んだ鞄というものを下げている。そうするとプラティカは、いっそう颯爽として見えた。
「お待たせしました。案内、お願いします」
「はい。こちらにどうぞ。……あの、プラティカはかまど仕事に取り組むとき、いつもその姿であるのですか?」
「はい。何か問題、ありますか?」
「いえ、問題はありませんけれど……ジェノスは間もなく、雨季を迎えます。雨が降っていると、こうしてかまど小屋に向かう道のりでも装束が濡れてしまいそうですね」
プラティカは、何かをこらえるように眉をひそめた。こういう部分が、他の東の民とは異なるのだ。
「そうですか。雨季、訪れたら、考慮します。ご忠告、感謝いたします」
「いえ、そんな大それた話ではありませんので」
裏手に回ると、イーア・フォウ=スドラが薪割りに励んでいた。ユン=スドラたちの姿に気づくと、「まあ」とやわらかく微笑む。
「お帰りなさい、ユン。お客人は、スドラの家にようこそ」
「はい。私、プラティカ=ゲル=アーマァヤです。本日、逗留、了承いただき、感謝しています」
「わたしは、イーア・フォウ=スドラと申します。みんなもう、かまどの間であなたをお待ちしています」
そうしてイーア・フォウ=スドラも加えた3名でかまど小屋に向かうと、そちらには3名の女衆が待ち受けていた。
年配の女衆、若い女衆、そしてランから嫁いできた女衆である。母屋に控えているリィ=スドラたちを含めて、これがスドラ家の女衆のすべてであった。
誰もが興味津々の面持ちで、プラティカの姿を見やっている。最近はユン=スドラ以外の女衆がファの家におもむく機会も少なくなっていたので、全員が初の対面であったのだ。
「では、晩餐の準備に取りかかりましょう。プラティカは、わたしの仕事を手伝っていただけますか?」
「はい。何でも、お申しつけください」
プラティカを晩餐に招く引き換えに、その支度を手伝ってもらうという約定が交わされていたのだ。
また、ゲルドの食材を買いつけられるようになったあかつきには、その使い方も手ほどきしてもらうことになっている。現在のところ、ゲルドの食材の研究を行っているのはファとルウとディンのみであったので、ユン=スドラもその日を心待ちにしていた。
「汁物料理の鉄鍋は、もう火にかけてくれているのですよね? ……はい、ありがとうございます。では、わたしはシャスカの準備をしますので、そちらはギバ肉の準備をお願いいたします」
ユン=スドラの指示によって、4名の女衆はてきぱきと動いていく。
その姿を横目に、プラティカは「あの」と声をあげた。
「汁物料理、すでに調理、始められているのですね。ユン=スドラ、指示ですか?」
「はい。勉強会の終わりを待っていると時間が足りなくなってしまうため、あらかじめ下準備をお願いしています」
「ユン=スドラ、朝からファの家、出向いています。その前、献立、決定しているのですか?」
「はい。最近は、そのようにしていますね」
すると、年配の女衆がこちらを振り返ってきた。
「以前はあたしらが自分たちで献立を決めて、ユンが帰ってくる前から準備を進めていたんだけどねえ。ここ何ヶ月かは、ずっとユンにお願いしているんだよ」
「何故でしょう? 理由、ありますか?」
「理由がなければ、そうまでユンを頼ったりはしないさ。……あたしらの頭じゃあ、香草をまるきり使わない料理なんて、そうそう思いつけないんだよ」
プラティカは、ぴくりと眉を動かした。
「何故、香草、使わないのでしょう? 忌避する人間、いるのでしょうか?」
「いえ。ただ、家長の伴侶であるリィが赤子に乳をやるため、香草を避けているだけです」
そんな風に答えてから、ユン=スドラはプラティカに笑いかけてみせた。
「それに、香草をいっさい使わないわけではありません。香草を使うと乳の味に影響があると聞きましたので、なるべく避けようとしているだけなのです」
「……はい。香草、害になること、ないでしょう。ただし、乳の味、変化するので、ゲルドにおいても、多少、控えます」
プラティカの紫色をした瞳が、じっとユン=スドラを見つめている。
シャスカを水で洗いながら、ユン=スドラは首を傾げてみせた。
「どうしました? もしも香草の料理をお望みでしたら――」
「いえ。ユン=スドラ、献立、決める役割、受け持った、いつからですか?」
「ええと、赤子たちが産まれたのは黄の月の終わり頃であったので……もう9ヶ月ほどが経つようですね」
プラティカは「なるほど」としか言わなかった。
何かの感情を懸命に抑え込んでいる様子であるが、ユン=スドラにはその正体がわからない。ともあれ、悪い感情ではないように思えたので、仕事を続けることにした。
「では、シャスカの鍋を火にかけようかと思います。鉄鍋を運ぶのを手伝っていただけますか?」
「はい、了解です。仕事中、余計な言葉、失礼いたしました」
「いえ。きっとプラティカにとっては余計な言葉ではなかったのでしょうから、お気になさらないでください」
ふたりで鉄鍋を運びながら、プラティカはまたユン=スドラのことをじっとを見つめてくる。
「ありがとうございます。ユン=スドラ、寛容であり、聡明です。私、敬服しています」
「わたしなんて、そんなたいそうな人間ではありませんよ」
そんな風に答えながら、ユン=スドラは何だかくすぐったいような心地であった。プラティカはいささか西の言葉が不自由であるためか、時として飾り気のない言葉が直截的にぶつけられてくるのである。
しかしそれもまた、プラティカの美点であるはずだった。
◇
そして、日没――
狩りの仕事から戻った男衆を迎えて、スドラの家では晩餐が始められることになった。
嫁を娶った2名の若い男衆は分家の家長とされて別の家で暮らすことになったが、晩餐だけは本家でともにしている。4名の男衆と7名の女衆で、総勢は11名だ。あとは草籠で双子の赤ん坊が寝かされており、客人のプラティカがユン=スドラのかたわらに控えていた。
「これまでスドラの家においては、傀儡使いの一団の他に外界の人間を客人に招いたことがない。色々と至らぬ点はあろうが、ゲルドの民プラティカと絆を深められれば嬉しく思う」
本家の家長ライエルファム=スドラがそのように言いたてると、プラティカは指先を奇妙な形に組み合わせて一礼した。
プラティカを初めて見る他の男衆らも、とりたてて警戒している様子はない。プラティカがどういった人間であるかは、ユン=スドラ自身がこのひと月ほどでさんざん語り尽くしていたのだ。プラティカを見やる家人らの目には、純然たる好奇心だけが瞬いていた。
そうして食前の文言を唱えたのち、晩餐を開始する。
本日の献立は、『オムライス』と『ギバ肉のタラパ煮込み』と『クリームシチュー』であった。
「これらの料理は、彩りからして美しいですね」
そのように言い出したのは、この中ではもっとも新しい家人である若い女衆であった。昨年の白の月に、ランの家から嫁いできた女衆である。
それよりも3ヶ月ほど先んじて嫁入りしたイーア・フォウ=スドラも、「そうですね」と微笑みを返している。もっとも年少であるユン=スドラがこのように思うのは筋違いであるのかもしれないが、若い女衆が2名までも増えたことで、スドラ家の晩餐の場はいっそう華やいだように感じられた。
「しかしタラパは、昨日の晩餐でも汁物料理に使われていたな。このように立て続けに使われるのは、ちょっと珍しいのではないか?」
そのように応じたのは、ランの女衆を娶った若い男衆である。
『クリームシチュー』を取り分けながら、ユン=スドラは「そうですね」と答えてみせた。
「雨季にはタラパやティノやプラが使えなくなってしまうので、今の内にたくさん使っておこうと考えました。もしもタラパに飽きてしまっていたのなら、申し訳ありません」
「いや、俺はタラパを好んでいるのだから、2日ぐらいで飽きることはない。そもそもタラパを使っていても、これらはまったく別なる味わいであるのだろうからな」
そんな風に答えてから、若い男衆は眉尻を下げてしまった。
「しかし、そうか。雨季にはタラパを使えなくなってしまうのだな。これが2度目の雨季であるのに、すっかり忘れてしまっていた。……間もなくタラパを食べられなくなってしまうのは、心から残念に思う」
すると、背筋をのばして『オムライス』を食していたプラティカが、うろんげに声をあげた。
「失礼します。2度目の雨季、どういう意味でしょう? ジェノス、雨季、毎年ではないのですか?」
「うむ? ああそれは、気兼ねなくタラパを買えるようになって、2度目の雨季という意味だ。それまでは、タラパを口にしたことすらなかったからな」
「そうだな」と、ライエルファム=スドラも言葉を重ねる。
「ファの家にアスタが現れるまで、俺たちはずっと飢えに苦しんでいた。アリアやポイタンを買うことすらままならなかったのだから、タラパなどは余計に手が出なかったのだ」
「……森辺の民、飢え、苦しんでいたこと、傀儡の劇、知りました。それほど、苦しかったのですね」
プラティカは『オムライス』の木皿を敷物に置くと、その場の全員に頭を下げてきた。
「私、無礼、お許しください。配慮、足りなかったこと、心苦しい、思います」
「べつだん、謝罪には及ばない。今はこれほどに豊かな生活を送れているのだからな」
そう言って、ライエルファム=スドラは草籠で眠る双子たちのほうに目をやった。
かつて失った幼子たちのことを思い出しているのだろう。薬や食材を手にする銅貨さえあれば、それらの幼子たちも健やかに育っていたかもしれないのだ。
「それらもすべて、アスタや族長たちのおかげであろう。それに、森辺の民を受け入れてくれた町の者たちにも、感謝せねばなるまい。……そういった気持ちを思い出させてくれたことを、むしろ感謝したく思う」
他の家人たちも、安らいだ面持ちでプラティカの姿を見守っていた。
プラティカは、また感情がこぼれるのをこらえるように眉をひそめている。
「……森辺の民、さまざまである、理解しました」
「うむ? どういう意味であろうか?」
「ファ、ルウ、ザザ、少しずつ、気質、異なっています。スドラ、同様です。ルウ、ザザ、祝宴でなくとも、炎のごとき熱気、渦巻いていますが……スドラの家、清らかな川、想起させます。私、汚れた魂、洗われるようです」
「べつだんお前は、そのように汚れてはいないように思うぞ。このていどの言葉を交わしただけでも、お前の誠実な人柄は感じ取れるように思う」
ライエルファム=スドラは、もともと皺深い顔にさらなる皺を刻みながら微笑んだ。
「ともあれ、料理が冷めぬ内に食するがいい。おむらいすの味はどうだ?」
「はい、美味です。肉料理、汁物料理、同様です」
そう言って、プラティカはユン=スドラに向きなおってきた。
「『オムライス』、ファの家、食した時、ケチャップ、使われていました。今日、ケチャップ、使っていない、タラパの味、重なること、避けるためですか?」
「はい。もともとおむらいすのシャスカにもけちゃっぷを使っていますし、今日は肉料理にもタラパを使っているので、でみぐらすそーすを使うことにしました」
「配慮、素晴らしい、思います。また、味付け、申し分ありません」
「ありがとうございます。貴族に仕えるプラティカにそうまで言っていただければ、光栄です」
ユン=スドラが笑顔を返すと、プラティカはまた感情を抑えたいかのように口もとを動かした。
その後は他の家人たちも声をあげ、プラティカにゲルドの話をせびり始める。おおよその人間は、それを楽しみにしていたのだ。寒冷の厳しい雪山の様相や、ムフルの大熊を始めとする未知なる獣について、ゲルドの狩人の狩猟術、祝宴の習わしや不可思議なしきたりなど――プラティカの口から語られるゲルドの話は、傀儡使いのリコたちにも負けないほど、刺激的で面白かった。
「ムフルの大熊というのは、それほどに巨大な獣であるのだな。2本の足で立ち上がるというのも、なかなかに厄介そうだ」
「寒さの余りに水が凍る、というのがよくわからん。雪や氷というのは、いったいどのような代物であるのだろうな」
「ギャマというのは、6本もの足を持っているのでしょう? ユンは城下町で目にしたことがあると話していましたが、なかなか想像がつきません」
家人は誰もが、子供のように瞳を輝かせていた。これだけでも、プラティカを家に招いた甲斐があったというものであろう。
すべての料理を食した後は、食後の菓子としてチャッチ餅を口にする。それをもすべてたいらげて、半刻ほども語らうと、やがてチム=スドラが名残惜しそうにしつつ「さて」と声をあげた。
「話は尽きぬが、そろそろ家に戻るべきであろう。プラティカよ、機会があれば、またゲルドの話を聞かせてもらいたく思う」
分家の家人となる他の3名も、それぞれ腰を上げる。物置から外套と短刀を持ち出したユン=スドラも、プラティカを見送るために一緒に外に出ることにした。
チム=スドラたちは2名ずつ左右に分かれて家に戻っていき、ユン=スドラとプラティカは本家の脇にとめられた荷車へと向かう。虫や獣を避けるために、プラティカのトトスもすでに荷台に詰め込まれていた。
「それじゃあ、また明日の朝に。どうぞごゆっくりお休みください」
荷車の前でそのように声をかけると、プラティカがユン=スドラに向きなおってきた。
燭台に照らされるその顔は、何やら普段以上に張り詰めた雰囲気を漂わせている。
「本日、来訪、許してくださり、ありがとうございます。心から、感謝しています」
「いえ。プラティカの来訪を許したのは、家長ライエルファムですので。わたしなどにそうまで言葉を重ねる必要はありません」
「ですが、ユン=スドラ、手際、感服しました。厨の取り仕切り、献立の設定、細かな配慮、見習うべき点、多大です。ユン=スドラ、優れた料理番です」
「いえ、わたしなんてそんなたいそうなものでは――」
「でも、そうなのです」と、プラティカは強い声で言いきった。
「私、藩主の屋敷、料理長、目指しています。料理長、2種の技術、必要です。ひとつ、宴料理です。藩主の名、汚さぬため、立派な宴料理、必要であるのです」
「ええ。それはきっと、そうなのでしょうね」
「はい。そして、もうひとつ……日々の食事、作る技です。日常の食事、宴料理、同じぐらい重要です。藩主の屋敷、厨、任されるならば、貴き方々、満足いただける料理、毎日、準備しなければならないのです。言うまでもなく、献立の設定、重要です」
そこで息継ぎをしてから、プラティカはさらにまくしたててきた。
「ユン=スドラ、9ヶ月間、献立の設定、受け持ってきたこと、感服しました。スドラ家の人々、毎日の食事、満足している、瞭然です。晩餐の場、喜び、幸福感、ユン=スドラ、もたらしているのです。その手際、私、感服しました。よって、来訪、許してもらえたこと、感謝しているのです」
「あ、ありがとうございます。でも、プラティカはファやルウの家で晩餐をともにしてきたのでしょう? わたしばかりが褒めそやされるいわれはないように思うのですが……」
「いえ。ファの家、家人、ふたりです。献立の設定、家人、多いほど、難度、あがります。また、ルウの家、献立の設定、さまざまな人間、受け持っています。レイナ=ルウ、ミーア・レイ=ルウ、リミ=ルウ、さまざまです。……そして、赤子、存在しないので、香草、制約、ありません。11名の家人、満足させる、ユン=スドラ、手腕、見事です」
「そうですか……でもきっとアスタやレイナ=ルウであれば、これぐらいのことは簡単にやってのけるのだと思います。トゥール=ディンやマルフィラ=ナハムやレイ=マトゥアや……きっと他の家でも、誰かしらがその役を負っているのでしょう」
ユン=スドラがそのように答えると、プラティカは何やら切なげな面持ちで身をよじらせた。
「ユン=スドラ、心、清涼で、強靭です。それもまた、羨望、抱きます」
「きょ、強靭ですか? そのように言われたのは、初めてであるように思います」
「いえ。マルフィラ=ナハムの存在、焦燥、覚えない、ユン=スドラ、清涼、強靭ゆえです。レイナ=ルウ、感服する、理解できます。ユン=スドラ、料理番のみならず、人間として、見習うべき点、多大です。森辺の民、皆、善良で、好ましい、思いますが……ユン=スドラ、際立っています。私、ユン=スドラ……好ましい、思います」
なんとか無表情を保ちつつ、プラティカはとても気恥ずかしそうであった。
そうまでして、ユン=スドラに心情を伝えようとしてくれているのだ。その振る舞いこそが、ユン=スドラを温かい心地にさせてくれた。
「わたしこそ、たったひとりでジェノスに居残ろうというプラティカの勇敢さには、感服していました。今日はプラティカと長きの時間を過ごせて、とても楽しかったです」
「……再び、来訪、許してもらえますか?」
「もちろんです。家長ライエルファムも、その申し出を断ることはないでしょう」
プラティカは、口もとをおかしな風に動かした。
東の民のそういう仕草は、微笑をこらえようとするときに出るのではないか――と、かつてアスタがそのように言っていたのを思い出す。そうしてアスタは、そういう東の民の仕草をとても嬉しく、好ましく思うのだとも言っていた。
(うん。確かにアスタの言っていた通りみたい)
自分よりもずいぶん高い位置にあるプラティカの顔を見上げながら、ユン=スドラはそんな風に考えた。
ユン=スドラを見つめ返すプラティカの紫色をした瞳には、羞恥と喜びの感情が入り乱れているようで、それもまたとても好ましく感じられたのだった。