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異世界料理道  作者: EDA
第五十五章 群像演舞~六ノ巻~
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第五話 星の円舞(上)

2020.10/12 更新分 1/1

・今回は全8話です。

 冷たい雨が降りそぼる森の中、ティアはひっそりと息をひそめていた。

 雨は、すべての感覚を鈍らせる。それでも獲物を逃してしまわないように、ティアは目と耳と鼻を研ぎ澄ませていた。


 しばらくして、騒乱の気配が近づいてくる。

 ヴァルブの狼たちが、首尾よく獲物を追い立ててきたのだ。

 ティアはいっそう息をひそめながら、梢の内で刀の柄を握りなおした。


 やがて――鬱蒼とした茂みを突き破って、巨大な影が出現した。

 丸っこい身体に黒褐色の獣毛を生やした、鋭い牙と角を持つ狂暴な獣――ギバである。


 あちこちの梢や茂みから、まずは一斉に矢が射かけられた。

 その何本かはギバの胴体に突き立ったが、突進の勢いは変わらない。このギバはひときわ巨大であったので、矢じりが急所まで届かなかったのだろう。ギバはこのモルガにおいて、もっとも頑丈な毛皮と筋肉を有しているのだ。


 ならば、いよいよティアたちの出番である。

 ティアはギバの進む方向を読み取って、先回りできるように梢から梢へと移動した。


 その間に、早くも最初の狩人がギバに飛びかかっている。

 あれは――ティアの家族である、ライタだ。

 梢から飛び降りたライタは、ギバの背につかみかかっていた。

 そうして何とかベルゼの刀を繰り出そうとするが、ギバがおもいきり巨体を揺すると、その背中から振るい落とされてしまう。


 ギバの進路がずれたので、ティアもまた進路を変更する。

 すると、ふたり目の狩人が梢から飛び出した。ティアの妹である、メグリだ。

 しかし目算を誤ったのか、メグリはギバの尻をかすめる格好で地面に着地しただけだった。


 ギバは、茂みに飛び込もうとする。

 そこからぬるりと、巨大な鎌首がもたげられた。

 マダラマの族長、《ベルゼ》である。

 さすがのギバも度肝を抜かれた様子で、鼻先を別の方向に転じた。

 その足が3歩ほど進んだところで、ティアは梢から身を投じる。


 ティアは、ギバの背中にへばりついた。

 ギバは怒って、咆哮をほとばしらせる。同時に物凄い勢いで巨体を揺すったが、ティアは右腕と両足だけで、何とかこらえてみせた。


(モルガの子たるギバよ、我らの血肉となれ)


 心の中で感謝の祈りを捧げながら、ティアは左腕を横合いに振りかぶった。

 逆手に握ったベルゼの刀を、ギバの咽喉もとに突き立てる。

 ギバは苦悶のうめきをあげるや、行き先を見失って樹木の幹に突っ込んだ。

 その鼻面が樹木の幹と激突するより早く、ティアは刀を引き抜いて跳躍する。


 樹木に激突したギバは、そのまま伏して動かなくなった。

 濡れた地面に、赤い鮮血が広がっていく。ティアの刀は、心臓と咽喉もとを繋ぐ血管を正しく断ち切ったはずであった。


「やったー! またティアが、ギバを仕留めたね!」


 と、頭上の梢から末妹のカシャが降ってきた。カシャは、矢を射る役割であったのだ。

 ティアは慌てて刀を持ち換えて、空いた左腕でそれを抱き止める。


「危ないぞ、カシャ。刀を抜いている相手に飛びかかるものではない」


「へへーん! ティアだったら、カシャをうっかり斬ったりはしないでしょ?」


「ティアは右肩が不自由だから、刀を持ち換えるのが面倒なのだ。……皆、ご苦労だったな」


 ともに狩りをしていたナムカルの狩人たちと、ギバをここまで追い立ててきたヴァルブの《白》たち、そしてたまたま通りかかったマダラマの《ベルゼ》が集結する。

 その中から、不満そうな面持ちをしたライタが進み出てきた。


「ううむ。またティアが仕留めたのか。今日はもう、これで2頭目ではないか」


「ふふーん! ティアはナムカルで一番の狩人なんだから、当たり前だよ!」


 まだティアの身体に抱きついているカシャが、そのように言いたてた。もうティアとは拳ひとつ分ぐらいしか背丈も変わらないのに、カシャはなかなか子供の面が抜けないのである。

 そして他の狩人たちも、ティアの手際に感心してくれている。仏頂面をさらしているのは、ライタひとりであった。


「手足の力では、身体の大きいライタのほうが勝っているはずだ。そのライタが振るい落とされてしまったのに、どうしてティアはこらえることができたのだ?」


「このギバは、《ベルゼ》の姿に驚いて足を止めていた。それで勢いが減じられたのだろうと思う」


「しかし、《ベルゼ》がその場にいたのは、たまたまであろう?」


「うむ。ティアは《ベルゼ》の気配を感じたので、きっとギバは方向を転じるだろうと思い、その先で待ち受けたのだ」


 ティアがそのように答えると、ライタはがっくりと肩を落としてしまった。


「あの騒がしい中で、《ベルゼ》の気配をも察していたのか……お前はどういう耳をしているのだ」


「ティアは、こういう耳をしている」


 ティアが左手で耳もとの髪をかきあげると、ライタではなくその父親が笑い声をあげた。


「本当に大したものだ。もはやギバ狩りに関して、ティアには誰もかなわぬな。……さて、ギバの血もおおよそは抜けたようだ。家に持ち帰る準備をするか」


 そのとき、《ベルゼ》の背後の茂みが鳴った。

 雨に濡れた狩人の一団が、ぞろぞろと姿を現す。近くの狩り場で仕事を果たしていた、ラズマの狩人たちである。


「おお、騒がしいと思ったら、やはりお前たちか。……ふむ。またずいぶんと、立派なギバを仕留めたものだな」


 ラズマの族長の長兄たるルジャが、そのように声をあげてきた。ラズマの狩人たちは、ギバではなく腐肉喰らいのムントを3頭ばかりも担いでいる。


「そちらは、ムントか。《ベルゼ》が通りかかったおかげで、首尾よくギバを仕留めることができた」


「ほう、それは僥倖だ。きっと《ベルゼ》も、早くお前たちと心を通い合わせたく思っているのであろうよ」


 ルジャは白い歯をこぼしながら、黒き大蛇の鱗に触れた。

《ベルゼ》は黒い瞳を冷たく光らせながら、ティアたちの姿を見下ろしている。ナムカルの狩人は、いまだマダラマと心を通じ合わせることができていなかった。


「こちらは家に戻る途中であったのだが、そちらはどうだ? まだ狩りを続けるのか?」


「いや……ずいぶん暗くなってきたので、夜が近いのだろう。すでに2頭のギバを狩っているので、これで切り上げようと思う」


「では、ともに帰るか」


 ティアのほうに異存はなかったが、ライタはまた不満そうな面持ちになってしまっていた。ライタはいまだに、このルジャを嫌っているのである。

 いっぽうメグリやカシャなどは、たいそう複雑そうな面持ちでルジャのことを見やっている。ナムカルの人間にとって、このルジャというのは恩人であり厄介者でもあるのだった。


(ティアが狩人として生きることを許されたのは、このルジャのおかげだ。……それでこいつがティアに婿入りなどを願わなければ、厄介者あつかいされることもなかったろうにな)


 そんな風に考えながら、ティアは帰り支度を始めることにした。


                       ◇


 ナムカルとラズマの新たな家は、水の涸れた峡谷の底に作られていた。

 峡谷の左右には、岩の断崖がそそりたっている。この断崖にいくつもの洞穴ができていたので、そこを仮の住処としたのだ。


 ナムカルとラズマがこの地に移り住んでから、すでにひと月以上の時間が過ぎている。

 ここは、モルガの山ではない。その山麓に広がる、森である。

 赤き民は族長会議によって、山麓の森にまで狩り場を広げる決断を下したのだった。


 これまでの赤き民は、ヴァルブを友とする一族とマダラマを友とする一族で、反目し合っていた。その行いを改めるべく、ヴァルブとマダラマの両方を友として生きていくことになったのだ。

 そのために必要なのは、まず食料である。赤き民とヴァルブとマダラマがそれぞれを獲物とすることを取りやめるならば、急激に民の数が増えることになろう。そうしてこれまで通りに狩りを続けていれば、ペイフェイやリオンヌやナッチャを狩り尽くすことになってしまうかもしれない。そんな事態を避けるには、狩り場を広げる他なかったのだった。


 ナムカルとラズマが移り住んだのは、モルガの山の東側に広がる森である。

 シャウタルタや他の一族は、北側の森に移り住んだはずであった。

 モルガの山の東側と北側の森は、外界において聖域と見なされている――外界の客人ジェムドからの言葉を信じて、赤き民はそれらの場所に足を踏み入れたのだ。


 しかしもちろん、そのような決断を簡単に下せるはずがない。族長たちは、まず炎の託宣によって大神の意思をはかり、そののちに、長きの時間をかけて移住の準備を進めることになった。


 北側と東側の森は、本当に外界の人間の領土ではないのか。そしてその場に、飢えをしのげるだけの恵みは存在するのか。幼子や年老いた人間でも、安全に暮らすことはできるのか。それらのことを確認するのに、ひと月ていどの時間が費やされていた。


 その結果、ナムカルとラズマの一族はこの地に移り住むことになったのだ。

 北側の森に移り住んだのは、シャウタルタとマダラマ狩りであった一族であり、移住を果たしたのはこの4つの一族のみとなる。まずはこの4つの一族が我が身をもって、この新たな生が正しいものであるかどうかを判ずることになったのだった。


「いずれの一族も、家人の数は100名ていどとなろう。この400名が、森の中で健やかな生を得られるかどうか……まずはそれを、最初の試しとする」


 シャウタルタの族長であるラアルは、族長会議の場でそのように宣言していた。

 モルガの山に居残る一族は、20ほどとなる。もしもそちらで収獲が足りなくなるようであれば、さらに多くの一族が森に居を移すように取り決められていた。


 ただし、これが正しき生であるかは、まだわからない。

 最初の試しとして定められた期間は、1年であった。この期間内に、これは間違った行いであると判じられたならば、速やかに元の生活に戻ることになってしまうのだ。


 よって、ヴァルブの毛皮とマダラマの鱗で作られた狩人の衣も、まだ捨てられずに保管されていた。

 現在は、ギバやリオンヌの毛皮で作られた狩人の衣を纏っている。モルガの山に居残った者たちも、ヴァルブやマダラマを獲物としないという取り決めに変わりはないので、それは同様だ。そちらにはギバも存在しないので、のきなみリオンヌの毛皮が使われていることだろう。


 1年後には、いったいどのような裁定が下されるのか。

 すべての魔術を禁じられた赤き民に、それを見通すことはかなわなかったが――しかし少なくとも、ティアはこれまでと同じぐらい幸福で満ち足りた生を歩むことができていた。


                     ◇


「実際、ティアの力量は大したものであると思うぞ」


 晩餐の場でそのように言いたてていたのは、ルジャであった。

 その手に握りしめられた木の串には、ティアが仕留めたギバの肉焼きが掲げられている。


「1日に2頭のギバを仕留められた狩人など、他にはあるまい? しかも、あのように巨大なギバをな! おまけに血抜きまで成功できているのだから、感心するのを通り越して呆れかえってしまうほどだ」


「……とどめを刺したのはティアだが、すべての狩人の働きあっての収獲であろう。ことさらティアばかりを褒めたたえる必要はない」


 誰も文句を言おうとしないので、ティアが自分で文句を言うことになった。

 しかしルジャは、「いやいや」と首を振っている。


「ギバ狩りでもっとも厄介なのは、とどめを刺す役割であろう。何せギバというのは、モルガにおいてもっとも頑丈な肉体をしているのだからな。頭どころか胴体でも、ひとつ間違えば刀をへし折られることになる。暴れるギバの背中の上で急所を狙うというのがどれだけ難しい技であるかは、もはや誰もがわきまえているはずだ」


「うむ。しかも的確に血の筋を断たねば、肉が臭くなってしまうのだから、なおさらにな」


 そのように言葉を返したのは、ライタの父親であった。


「自分もこれまでに何頭かのギバを仕留めてみせたが、血の筋を上手く断つことはできなかった。……森辺の狩人は、どのようにしてギバを仕留めているのであろうな?」


 ひさびさにその名前を耳にして、ティアはどくりと心臓を騒がせることになった。

 こっそりと呼吸を整えながら、ティアは「知らない」と答えてみせる。


「ただ、森辺の狩人は鋼の武器を使っているので、ギバの胴体を斬りつけても刀を折られたりはしないのだろうと思う」


「なるほど。しかもあのように大きな身体をしていれば、ギバの骨をも断ち切れるのかもしれんな」


「ふん」と鼻を鳴らしたのは、子たるライタであった。


「不浄の鋼を使っていれば、ギバを狩ることも容易かろう。そのようなものに頼っている人間が、狩人としての誇りを手にできるのであろうかな」


 反射的に、ティアは文句を言おうとしてしまった。

 しかしそれより早く、ルジャが皮肉っぽい声をあげる。


「では、ライタはヴァルブやマダラマの力なくして、ギバを狩ることができるのか?」


「なに? ナムカルの狩人は、いまだマダラマと狩りの仕事を果たしたことはない」


「であれば、ヴァルブだけでいい。ヴァルブの力なくして、ギバを狩れるのか?」


 ライタは険しく眉を寄せながら、ルジャの顔をねめつけた。


「ラズマの長兄は、何を言っているのだ? ヴァルブはギバよりも速く駆けることができるので、ギバ狩りにおいては大きな役目を果たしている」


「だったら、ヴァルブという友を持たない森辺の狩人のほうが、こちらよりも苦労は大きいのではないか?」


 ライタはむっつりと押し黙り、ルジャはさらに言葉を重ねた。


「森辺には、狼に似た犬という獣が存在するそうだ。ギバ狩りにおいては、その犬なる獣がたいそうな役目を果たしているのだと聞いている」


「それなら――」


「しかしその犬なる獣は身体が小さく、斜めに傾いだ木にのぼることも難しいと聞く。飢えたギバに出くわした際などは、人間よりも危険な目にあってしまうのだそうだ。逃げ場がないときなどは、森辺の狩人が犬なる獣を担いで木をのぼることさえあるのであろう?」


 それはティアに対する問いかけであったので、「うむ」とうなずいてみせた。


「アイ=ファは、そのように言っていた。複数のギバに囲まれたときなどは、特に危うくなってしまうらしい」


「うむ。少なくとも、ヴァルブの狼ほどの力を持つ獣ではないのだろう。しかも、森辺の狩人が犬なる獣を手に入れたのは、ほんのつい最近であるらしいぞ」


 ルジャは、得々と言葉を重ねていく。


「それまで森辺の狩人は、自分たちの力だけでギバを狩っていたのだそうだ。森辺に移り住んでからの数年間で、民の数は半分にまで減じたそうだな。……それだけの苦難を乗り越えてきた森辺の狩人に、誇りが存在しないというのか?」


「いや、ライタは――」


「それに我々は、森辺の狩人らをこの目で見ている。あの者たちは、立派な狩人としての誇りと力を備えているように思えてならなかったな」


 そこで、ルジャの母たる族長ホルアが声をあげた。


「ルジャよ、そのようにくどくどと言葉を重ねる必要はない。ナムカルのライタは鋼の力に頼ることをよしとしない、と言いたてただけではないか」


「ふむ? 誇りがどうとかいう言葉が聞こえたので、ルジャは自分の考えを述べるべきだと考えたのだ」


「我々が、外界の人間の誇りに関して取り沙汰する必要はない。そのような話で同胞と諍いを起こすべきではないのだ」


 そう言って、ホルアはティアの母たる族長ハムラに頭を下げた。


「毎夜のようにホルアの子ルジャが晩餐の場を騒がせてしまい、申し訳なく思っている」


「いや。ルジャやライタほど若き人間は、血の気をもてあますこともあろう。心を隠すことなく言葉をぶつけあい、その上で絆を深められればと思う」


 ハムラは落ち着いた声音で、そのように答えていた。

 この場には、50名ほどの赤き民が居揃っている。その半分はナムカルで、もう半分はラズマだ。ナムカルとラズマは正しく絆を深められるように、どの家でも半分ずつの人数で晩餐を食するように定めていた。


 そして同じ場に、何名ずつかのヴァルブとマダラマも顔をそろえている。赤き民を間にはさんで、ヴァルブとマダラマの間に絆を結ぶことは可能であるのか、それもこの1年間で見定めなければならなかったのだった。


「この地に移り住んで、ようやく月がひと巡りしたかと思うが……今のところは、大きな問題もないようだ」


 ハムラは、そのように言葉を綴った。


「森の恵みは豊かであるし、ギバとムントの数も申し分ない。雨季でもこれだけの収獲があるのだから、飢えに苦しむことはあるまい」


「うむ。しかもギバの肉というのは、これほどに美味であるからな」


 ホルアも厳粛なる面持ちで、そのように応じた。


「魂を返した父や母からは、ギバの肉など臭くて食えたものではないと聞いていたのだが……まさか、これほどに美味であるとはな」


「うむ。時にはペイフェイの肉が恋しくなってしまうが、リオンヌやナッチャよりはよほど美味であろう。もちろん、血抜きに成功すればの話だが」


 その技は、森辺の狩人たちから学んでいた。森でギバを狩るならば必要な知識であるとして、ガズラン=ルティムらが帰りがけに教示してくれたのだ。


 今のところは、血抜きに成功した肉だけで腹を満たすことができている。血抜きに失敗した肉は、ヴァルブやマダラマの糧となるのだ。ヴァルブやマダラマは、それを臭いと嫌がることもなかった。


 また、ムントの肉はリオンヌよりも筋張っており、血抜きをしても不快な臭みがあったので、それもヴァルブやマダラマの糧とされていた。なおかつ、ムントの毛皮は薄っぺらくてすぐに破けてしまうため、ヴァルブやマダラマは毛皮ごと食していた。


「問題は、果実や香草の名がさっぱりわからないことぐらいであろうかな」


 少し冗談めかした調子で、ハムラはそう言った。


「森で初めて手にした恵みは、いずれも名前がつけられていない。これらのすべてに名前をつけるのは、なかなかの手間になりそうだ」


「確かにな。まあ、そのような話は1年の後でよかろう。手間をかけて名前をつけて、けっきょく山に戻ることになっては、無駄な苦労になってしまうからな」


 すると、しばらく大人しくしていたルジャが発言した。


「森での暮らしを捨てることにはなるまい。母ホルアは、森での暮らしに文句でもあるのか?」


「今のところ大きな問題はないと、ハムラもそう言っていた。この先も問題は生じないか、それを見定めるのが我々の役割であろう」


「ふん、慎重なことだ」と、ルジャは肩をすくめた。

 その後は場が乱れることもなく、すべての食事が腹の中に収められる。しばしの会話を楽しんだのち、ラズマの家人らは腰を上げることになった。


「今なら、雨もやんでいるようだな。今の内に、ラズマの家に戻ろうと思う。ナムカルの一族も、健やかな眠りを」


「健やかな眠りを」と挨拶を返して、ナムカルの一族はラズマの一族を見送った。当然のこと、マダラマの一族もラズマとともに洞穴を出ていく。他の洞穴でも同じ挨拶が交わされて、じきに20余名の家人たちがこちらに戻ってくるはずだ。


 山では血の近い家族だけで寝場所を作っていたが、こちらでは4つの洞穴で50余名ずつの血族が過ごしている。寝場所に適した洞穴が、その数しか発見できなかったためである。ティアの眠る洞穴では、ナムカルの4つの家族がともに過ごしていた。


「雨季の夜は、やっぱり冷えるよねー! もっとたくさんギバを狩って、敷物をたくさん作らないと!」


 そのように語るカシャとともに、ティアも寝床を整えた。

 すると、暗い顔をしたライタが近づいてくる。


「どうしたの? 男衆の寝床は、あっちでしょ?」


「うむ。……ティア、少しいいだろうか?」


 ティアは、誰の寝床でもない洞穴の端まで招かれることになった。

 ライタは余人の耳をはばかるように、小さな声で語り始める。


「……ライタは、ティアを怒らせてしまっただろうか?」


「うむ? 何の話だ?」


「さきほどの、森辺の狩人についての話だ。ライタがあやつらに誇りがないなどと言ってしまったから……ティアは怒ってしまったのではないか?」


 ライタは、とても申し訳なさそうな顔になっていた。


「途中で、気づいたのだ。ラズマの長兄があのように言葉を重ねてきたのは、ティアの怒りをおさめるためだったのではないかと……ライタはどうして、あいつみたいに頭が回らないのだろう」


「うむ。確かにティアも、最初は嫌な気分だった。ライタがどうして森辺の狩人を悪く言うのか、理由がわからなかったのだ」


「ライタは、森辺の狩人を悪く言いたかったわけではない。ただ、鋼の武器が憎かっただけであるのだ」


 悄然とした面持ちで、ライタはそう言った。


「鋼の武器は、ティアを大きく傷つけた。それを考えたら、鋼の武器を使う人間まで憎らしくなってしまったのだ。森辺の狩人が立派な心や誇りを持っていることは、ライタもこの目で見届けていたのに……」


「うむ。鋼の武器は不浄の存在だが、それは聖域の民の魂を穢してしまうゆえであろう? 外界の人間が鋼の武器を使うのは正しいことであるのだろうから、それを罪とすることはできないのだろうと思う」


 ティアは、そのように答えてみせた。


「外界の人間は大地を守るために鋼と石の文明を築いたのだと、客人ジェムドはそのように言っていた。その言葉が真実であるのなら、聖域の民が外界の民を憎んではいけないと思う。外界の民というのは、大神の子としての力を失ってでも、この大地を守ってくれたということなのだろうからな」


「うむ……」


「きっとどのような武器であっても、使う人間次第であるのだ。ティアを傷つけた人間は悪しき心を持っていたから、鋼の武器で災いを為した。森辺の狩人であれば、鋼の武器で災いを為すことはないのだと思う」


「わかっている。ただライタは、ティアを傷つけた人間を許せなかったのだ」


「それでもティアは、狩人として働くことを許された。だからもう、ティアを傷つけた人間を憎む必要もない」


 そう言って、ティアはライタに笑いかけてみせた。


「ライタも森辺の狩人たちを立派な人間と思ってくれているなら、嬉しく思う。だからそのように、暗い顔をする必要はない」


「……本当に、怒っていないのだな?」


「怒っていたら、ティアは笑わない」


 それでようやく、ライタも笑みをこぼすことになった。


「ライタの不始末をティアが許してくれて、嬉しく思う。……だけどやっぱり、ライタはラズマの長兄が気に食わない」


「それは、別の話だ。ティアだって、ルジャのことは……少し、苦手に思う」


「本当か?」と、ライタは顔を寄せてきた。

 ティアは、おもいきり顔をしかめてみせる。


「ティアが婚儀をあげるのは、次の年を迎えてからになる。それまでティアは、狩人として生きることだけを考えていたい。だから、いちいち婚儀の話を持ち出すルジャのことが、少し苦手なのだ。……ライタもそのような話を持ち出すつもりなら、ライタのことも苦手になるだろう」


「ラ、ライタは別に、そのようなつもりでは……」


 と、ライタは赤く塗られた顔をいっそう赤くしてしまった。

 そういう部分が、ティアには苦手なのである。


「ライタを苦手になる前に、ティアは眠ろうと思う。ライタも、健やかな眠りを」


 そうしてティアは、妹たちのもとに戻ることにした。

 寝床のそばでは、《白》も身を伏せている。それらの姿を目にすると、ティアの心は速やかに晴れわたった。


(狩人として生きることを許されて、家族や友とともにあることを許された。ティアは、とても幸福だ)


 ただ――家族や友と同じぐらい大事に思っている相手とは、顔をあわせることも許されない。


(アスタやアイ=ファも、幸福な気分で眠りについているだろうか)


 そんな思いを胸の奥底に秘めながら、ティアは毛皮の中に潜り込むことにした。

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― 新着の感想 ―
[一言] ティアのその後が読めて嬉しい。
[一言] うおー! 続きも楽しみです。
[良い点]  あの後のティア達を知ることが出来て楽しめました。 [一言]  この前編だけでお腹いっぱいな感じなのに、後半があるとは……楽しみが増しますね。  そらにしても、ティアがギバ狩りの名手にな…
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