分かたれた道(四)
2020.9/27 更新分 1/1
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そして――グラフ=ザザが家長の座を継いでから、およそ9年後である。
ズーロ=スンは、グラフ=ザザの前に頭を垂れていた。
その年の、家長会議の翌日である。家長会議の夜に大罪を暴かれたズーロ=スンは、両腕を縄で縛られて、他の家族たちとも引き離されていた。
ここは分家の家の一室であり、他の人間の姿はない。
グラフ=ザザは敷物の上に立ちはだかり、ズーロ=スンはがっくりと肩を落としている。
すべての罪が、昨晩に暴かれたのだ。
スン家の人間は、ギバを狩っていなかった。あまつさえ、森の恵みを荒らしていた。先代族長ザッツ=スンの取り決めた秘密の掟に従って、そこまでの大罪を犯していたのである。
確かにグラフ=ザザも、スン家の様子がおかしいことには気づいていた。本家の家人らはあまりに傲岸であり、分家の家人らは死人のような目つきをしていた。それでもきちんと仕事を果たし、ザザよりも豊かな生活を送っているのだからと、グラフ=ザザはあえて疑念を呑み込んでいたのだが――彼らはまったく、仕事を果たしていなかった。森辺の誇りを失ったがゆえに、スン家の者たちはあのような姿をさらしていたのだった。
(……俺はスン家を守ることも、正しい道に引き戻すこともできなかった)
グラフ=ザザは、これでも懸命にスン家を守っているつもりであった。偽りの傲岸さで虚勢を張っているズーロ=スンを盛り立てて、不遜なるルウの血族を牽制し、スン家こそが唯一絶対の族長筋であるのだと――そのように信じて、自分なりに力を尽くしていたつもりであったのだ。
しかしその行いは、何の役にも立ってはいなかった。
スン家に必要であったのは庇護ではなく、叱咤であったのだ。もっとスン家の内情に踏み込んで、正しき道に引き戻そうとしていれば、このような罪などとっくに露見していたはずであった。
(スン家を守るなどと誓いながら、俺はやはり二の足を踏んでしまっていたのだろうか)
グラフ=ザザは、年に1度の家長会議と、時おり行われる婚儀の祝宴でしか、スンの集落に足を踏み入れていなかった。用もないのに余所の家を訪ねるというのは森辺の習わしにそぐわぬ行いであったし、それにグラフ=ザザは――ザザの血族を導くことにも、懸命であったのだ。
この9年で、長兄と次兄は魂を返してしまっている。残された男児は、末弟のゲオル=ザザしかいない。そちらに家長としての心得を叩き込むのにも、大きな苦労がともなったし、それに――それは、純然たる喜びに満ちた日々でもあったのだった。
きっとグラフ=ザザは、自分でも気づかぬ内に、スン家から目をそらしてしまっていたのだろう。
傲岸に過ぎる本家の者たちにも、死人のような目つきをした分家の者たちにも、グラフ=ザザは確固たる信頼や情愛を抱くことができていなかったのだった。
(だから、これは……やはり俺の罪でもあるのだ)
そんな風に考えながら、グラフ=ザザはズーロ=スンに語りかけた。
「今後は俺が、新たな族長として一族を導いていく。……貴様の果たせなかった仕事を、俺が果たしてみせよう」
ズーロ=スンは、何も答えようとしなかった。
ズーロ=スンは間もなく、すべての罪を背負って首を刎ねられることとなるのだ。
そのときは、自分がこの手で刀を振るおう――グラフ=ザザは、そのように決意していた。
「貴様を処断するのは、ジェノスの貴族らとの決着をつけてからとなる。それまでは、己の罪を噛みしめるがいい」
そのような言葉を残して、グラフ=ザザはズーロ=スンのもとから立ち去った。
ズーロ=スンは最後まで、何も語ろうとはしなかった。
◇
その後にも、さまざまな変転が訪れた。
ザッツ=スンがテイ=スンらを連れて逃亡し、シムに向かう商団を襲撃し――ザッツ=スンは捕縛され、城下町で魂を返すことになった。さらに逃れたテイ=スンは、宿場町で魂を返すことになった。しかも、シムに向かう商団というのは、スン家の大罪人を炙り出すための謀略であったのだった。
それがようやく一段落して、ついに最後の大罪人たるズーロ=スンにも処断の時が訪れるかと思われたが――それも、ままならなくなってしまった。ジェノスの貴族サイクレウスが、スン本家の人間たちを城下町に引き渡すべし、などと言いたててきたのである。
「もしかしたら、あちらは再びスン家を族長筋に据えようと考えているのかもしれません」
そのように言いだしたのは、ファの家に住みついた異国のかまど番――ファの家のアスタであった。
もっともそれは、かつてズーロ=スンの娘であったヤミル=レイが言いだしたことであるらしい。ズーロ=スンにとっては、最初の伴侶の子――ズーロ=スンがほとんど恐れるようにして、避けていた娘である。
新たな族長となったグラフ=ザザたちが御し難いため、サイクレウスはスン家が族長筋でいることを望んでいるのではないか――さもなくば、本家の人間を皆殺しにして、口封じをしようとしているのではないか――ヤミル=レイは、そのように言いたてていたとのことである。
何にせよ、サイクレウスの申し出を聞き入れることはできない。ズーロ=スンを除く本家の者たちにはすでに罰を下しているし、ズーロ=スンは森辺の大罪人として処断するべきであるのだ。
しかもサイクレウスたちは、ひそかに大きな罪を働いているのではないかと疑われている。ザッツ=スンやテイ=スンなどは、そちらの罪にも加担していたのではないかと、そんな疑惑までかけられているのだ。
グラフ=ザザは、ほとほと呆れかえることになった。
スン家の犯した罪が、この身や大事な家族たちの存在をも穢してしまうのではないかと、そんな思いにまでとらわれることになってしまった。
「我々は、この地を捨てるべきなのではないだろうか?」
かつてグラフ=ザザは、そのように言ってしまったこともある。
スン家の犯してしまった罪と、スン家に罪を犯させたジェノスの貴族たちと――そして、それを止めることのできなかった自分たちの罪を、すべて捨て去ってしまいたかったのだ。
もちろんそれは、他の族長や家長たちにたしなめられることになった。グラフ=ザザ自身、それは逃げるも同然の行いであり、また、数多くの同胞に大きな苦難をもたらす道であるということを理解していた。
しかしグラフ=ザザも、決して軽はずみな気持ちでそのような言葉を吐いたわけではなかった。
もしもジェノスの領主というものが、サイクレウスと同じぐらい下劣な存在であったならば、とうてい君主と仰ぐことはできない。森辺の民としての誇りを守るためであれば、どれだけの苦難を背負うことも避けるべきではないだろう――それが、グラフ=ザザの真情であった。
だからまずは、サイクレウスとの決着をつけねばならない。
そのために、グラフ=ザザたちは城下町に向かうことになった。
そして、その前夜――城下町に向かう人間は、ルウの集落に集められた。明日の会談に臨む人間は、ファの家のアスタがもたらした美味なる食事というものを口にしておくべきではないかと、他の族長らがそのように言いたてたためである。
「ザッツ=スンは、間違った方法で力と富を得ようとした。ならばスン家の者たちは、正しき方法で力と富を得ようとしているファの家の行いを、もうひとたびその身で思い知るべきであろう」
三族長のひとり、ドンダ=ルウはそのように言っていた。
黒褐色の髪をした、凄まじいまでの気迫を有する狩人である。彼はグラフ=ザザよりも何年か先んじて、ルウの家長の座を受け継いでいた。グラフ=ザザが若かりし頃に見た赤毛の狩人から、正しくその志を引き継いだのだろう。北の狩人に劣らぬほど勇猛でありながら、その奥底には長老めいた思慮深さが隠されているようだった。
「であれば、会談に臨む我々も、同じ思いを分かち合うべきではないだろうか? スン家の罪は、それを見逃してしまっていた俺たちの罪でもあるのだからな」
そのように言い出したのは、もうひとりの族長たるダリ=サウティである。
こちらはドンダ=ルウと反対で、若さに似ぬ沈着さや思慮深さを漂わせつつ、その内に果断な気性を秘めているように感じられる。自分が同じ年頃であったとき、これほど大局を見る目は育っていたものかと、グラフ=ザザはひそかに感服していた。
ともあれ――その夜に、多くの人間がルウ家に集結することになった。
三族長と、スン本家の家人たち、ルウの血族たち、フォウとベイムの家長たち、そしてファの家の家人たちだ。人数は、30名以上にものぼるとのことであった。
この人数では家に収めることもできないので、集落の広場に敷物が持ち出される。そうして祝宴のように明かりが焚かれて、外で晩餐を食することになった。
グラフ=ザザのかたわらには、スン家の者たちが居並んでいる。その内の、ズーロ=スンとディガとドッドは、グラフ=ザザ自身が北の集落から連れてきたのだ。
すべての運命が変転した家長会議から、およそひと月――その間、ズーロ=スンはずっと北の集落で捕縛されていた。ディガやドッドはドムの集落を逃げ出した罪を贖わせるために、ザッツ=スンが焼き払った家の修復に取り組ませていたが、ズーロ=スンは朝から夜まで寝所に閉じ込められていたのだ。
その期間で、ズーロ=スンはやつれ果ててしまっていた。
急激に肉が落ちてしまったために、顔にも腕にも皮がたるんでしまっている。とうていグラフ=ザザと同じ齢とは思えない。すべての希望を失った、老人のごとき姿である。
このひと月、グラフ=ザザはズーロ=スンとほとんど言葉を交わしていなかった。せいぜいが、何か隠し事はないかと詰問したぐらいだ。また、ズーロ=スンもそれ以外の言葉を語ろうとはしなかった。
肉体よりも先に、魂のほうが死んでしまったのだろうか。それはかつてのスン分家の者たちよりも生気に乏しい、生ける屍ともいうべき有り様であった。
「ズーロ=スン。……それに、ディガとドッドも、おひさしぶりです」
と――晩餐が始められてしばらくすると、大きな木皿を手にしたファの家のアスタがこちらに近づいてきた。
ズーロ=スンたちは、顔をあげようともしない。敷物の上に木皿を置いたファの家のアスタは、切実な光をたたえた目でズーロ=スンたちの姿を見回した。
「……俺の料理を食べていただけませんか、ズーロ=スン?」
ズーロ=スンたちは、まだどの料理にも手をつけていなかったのだ。
罪人たる3名ばかりでなく、すでに罪を贖った他の者たちも、それは同様である。ヤミル=レイ、ミダ、オウラ、ツヴァイ――それらの者たちも、それぞれの気性に見合った眼差しで、ズーロ=スンたちの姿を見守っていた。
「……ドンダ=ルウの言葉は貴様たちも聞いていたはずだな」
グラフ=ザザは、そのように言ってみせた。
「貴様らの父であり祖父であったザッツ=スンの罪を贖うために、我らはサイクレウスという貴族に立ち向かおうとしている。貴様たちには、かつての恥をすすごうという誇りと信念の持ち合わせも存在しないのか?」
かつての長兄であったディガが、「お……俺は……」と声を絞り出す。
しかし、それ以上は続かなかった。
「ザッツ=スンは我らを裏切り、我らに隠れてジェノスの者たちに災厄をふりまいた。やり方はどうあれ、このファの家のアスタはそうしてザッツ=スンに乱されたジェノスとの縁を取り持とうと尽力しているのだ。それゆえに、アスタが宿場町で売りさばいている料理というものを貴様たちも口にするべき、とドンダ=ルウは考えた。……ここまで言われて、貴様たちは知らぬ顔を決めこもうというのか?」
「ちょ、ちょっと待ってください、グラフ=ザザ。あなたにそのように問い詰められてしまったら、誰だって萎縮してしまいますよ」
ファの家のアスタが、グラフ=ザザの言葉をさえぎった。
その黒い瞳が、とても申し訳なさそうにグラフ=ザザを見つめてくる。
「無理矢理に食べても、料理は美味しくありません。どうせだったら、楽しく食べましょう」
グラフ=ザザには理解できない、たわけた言葉である。
しかし――ファの家のアスタの瞳には、とても真摯な輝きも宿されていた。
スン家の罪を暴きたてたのは、この生白い顔をした小僧であるのだ。
その行いによって、ズーロ=スンは間もなく魂を返すことになる。このひ弱そうなかまど番は、それに責任を感じているのかもしれなかった。
(……責任を感じるべきは、そのような罪を見抜くことのできなかった俺たちのほうであるのだ)
グラフ=ザザは果実酒とともに、そんな思いを呑み下すことになった。
その後は、ヤミル=レイやルウ家の幼子たちまでもが寄り集まって、ようようズーロ=スンたちに料理を食べさせることがかなった。
ディガはぼろぼろと涙をこぼし、ドッドは飢えた獣のように木皿の中身をかき込んでいく。
そんな中、やはりズーロ=スンだけは虚ろであった。
汁物料理をすすりながら、その目はどこも見ていない。死者には、その日の糧を得る喜びも存在しないのだろう。
(こいつは……一刻も早く、母なる森に魂を返すべきであるのだ)
その場に満ちたざわめきを遠くに聞きながら、グラフ=ザザはそんな風に考えていた。
(もはや俺たちに、ズーロ=スンの魂を救うことはできない。それができるのは、母なる森だけだ。母なる森の腕に抱かれたとき、こいつはようやくすべての罪と苦しみから解放されるのだろう)
そのとき、新たな人影がこちらに近づいてきた。
ルウ家の最長老と、ファの家の女家長である。女家長に身体を支えられながら、最長老はズーロ=スンの前に膝を折った。
「……ちょっとお邪魔してもいいかねえ……?」
そうしてルウ家の最長老は、静かに語り始めた。
今から70年ほど前、族長筋たるガゼ家が滅んで、スン家がその座を引き継いだこと――当時のスン本家の家長が、どれだけ立派な狩人であったかということ――そして、その子たるザッツ=スンが、大きく道を踏み外してしまったこと――
最長老は、さまざまな話を語って聞かせた。
すると――ズーロ=スンの澱んだ瞳に、わずかな揺らぎが生じたようだった。
ズーロ=スンの手に自分の手を重ねて、最長老はさらに語っていく。
最初にジェノスの貴族たちと正しい関係を築くことができなかったのは、ガゼの族長だ。
ガゼから族長の座を受け継いだスン家もまた、その間違った道を突き進むことしかできなかった。
そして父親から族長の座を受け継いだザッツ=スンは、これを間違った道だと判じ――さらに大きく道を踏み外してしまったのである。
ならば今度こそ、正しい道に戻らなければならない。
スン家の無念を、新たな族長たちと森辺の同胞が晴らすのだ。
最長老は、そのように語らっていた。
「我は、父ザッツが、恐ろしかったのだ……」
と――ついにズーロ=スンが、その口を開いた。
虚ろであった瞳には、涙が浮かべられている。
グラフ=ザザは、息を呑んでその言葉を聞くことになった。
「しかし、父ザッツの切り開いた道の他に、道を見つけることはできなかった……いずれはザザやドムたち眷族もともにこの道を歩み、貴族に屈することのない新しい生を得ることができるのだと……我はそのように、父ザッツの言葉を信じるしかなかった……そうせねば、我らは全員、ルウの一族に討ち滅ぼされてしまうと思っていたのだ……」
「ああ……スンの集落に住まう何十人もの血族の運命が、あんたの行動ひとつにかかってしまっていたのだものねえ……あたしもかつては家長だったから、そのしんどさはわきまえているつもりだよ……」
最長老はどこか遠くを見つめているような眼差しで、そう言った。
「だけど、あんたの肩にはもう何ものっかっちゃいない……大事な家族の存在も、ともに罪を犯してきた血族の存在も、他のみんなが背負ってくれているよ……だからあんたは、みんなと一緒にその存在を負いながら、1番正しいと思える道を探せばいいんじゃないのかねえ……」
ズーロ=スンは涙をこぼしながら、木皿に盛られたギバ肉を食べ続けた。
グラフ=ザザはひそかに呼吸を整えながら、族長としての言葉を発してみせる。
「……最後にひとつだけ問わせてもらうぞ、ズーロ=スン。貴様は本当に、ザッツ=スンらが町でも大罪を犯していたということは知らなかったのだな? ……森辺の民の誇りにかけて、真実を述べてみせろ」
「知らなかった……いや、父ザッツらがどこからともなく大量の銅貨を運んでくることを、不思議には思っていたが……恐ろしくて、とうていその出処を問うことはできなかったのだ……」
「貴様の罪は、その性根の弱さだ、ズーロ=スン」
グラフ=ザザはふいに手ひどい空腹感に見舞われて、皿の上のギバ肉をつかみ取った。グラフ=ザザこそ、ここに至るまでどの食事にも手をつけていなかったのだ。
そのギバ肉は奇妙な皮に包まれていたが、かまうことなく口に放り入れた。
とたんに、これまで想像したこともないような味わいが口の中に広がったが――かまわず、グラフ=ザザは言葉を重ねてみせた。
「貴様は父親のザッツ=スンを恐れ、ルウの一族を恐れ、ジェノスの貴族どもを恐れ――しまいには、眷族であるザザやドムさえをも恐れた。それは森辺の民にあるまじき弱さだ。貴様のように脆弱な人間を族長と仰いでいたことを、俺は一生の恥と考えている」
「…………」
「……しかし、貴様がザッツ=スンか、あるいはそこの長姉の半分ほどのしたたかさでも持っていたならば、ザッツ=スンはすべての大罪を貴様に明かし、それを受け継がせようと目論んでいたかもしれん。そのときは、より多くの血がジェノスに流れることになっていたのだろう」
やはりズーロ=スンは、答えようとしない。
しかしその目には、生気が蘇っていた。自分の言葉は、確かにズーロ=スンの心に届いているのだと――グラフ=ザザは、そう信じることができた。
「貴様の弱さは、森辺の民としてとうてい許されるものではなかったが――しかし、その弱さこそがザッツ=スンの執念、怨念を食い止める役に立っていたというのは、笑えないぐらい皮肉な話であるし……あるいは、それもまた森の導きであったのかもしれん」
グラフ=ザザは、20歳以上も若返ったかのような心境であった。
ズーロ=スンと初めて言葉を交わしたときも、グラフ=ザザはその柔弱なる性根に呆れかえり、あれこれ諭すことになったのだ。
あの夜と同じように、ズーロ=スンは気弱そうな目つきをしていた。
そんなズーロ=スンに向かって、グラフ=ザザは心のままに言葉を届けてみせた。
「何にせよ、貴様を処断するのは貴族どもと決着をつけた後だ。森に魂を返すその最後の瞬間まで、貴様は森辺の民として、生きろ」
ズーロ=スンは、ぽろぽろと涙をこぼしている。
グラフ=ザザが最初にズーロ=スンの涙を見たのは――たしか、最初の伴侶を失って、新たな婚儀をザッツ=スンに迫られていた時代であろう。
その最初の伴侶が産み落としたヤミル=レイも、これほどまでに大きく育っている。いつの間にか、それだけの歳月が過ぎていたのだった。
(あのときに、俺たちがもっとしっかりと絆を深められていれば……また違った道も存在したのだろうか)
グラフ=ザザは、そんな思いにとらわれてしまっていた。
だが、過去に戻って人生をやりなおすことはかなわない。道を間違えてしまったのなら、新しい道を探して進む他なかった。
ズーロ=スンは、長きに渡った偽りの人生を洗い流したいかのように、いつまでも涙をこぼし続けていた。
◇
そして――別れの日がやってきた。
トゥラン伯爵家の大罪を暴いてから、半月ほどの日が過ぎてからのことである。
すべての罪は、白日のもとにさらされた。
トゥラン伯爵家の大罪人、サイクレウスとシルエルも捕縛され、その罪に相応しい罰が下されることになった。
そして、ズーロ=スンもまた、その身をジェノスにゆだねていた。
自分がジェノスの法によって正しく裁かれれば、他の者たちに罪はなかったのだと世に知らしめることができるのではないか――そのように言いたてて、ズーロ=スンはジェノスの法に裁かれる道を選んだのである。
その結果、ズーロ=スンには10年の苦役の刑という罰が下されることになった。
死罪でも足りぬ大罪人にのみ与えられるという、死よりも苦しい罰である。普通の人間であれば、5年ももたずに魂を返すことになるという、それほどに過酷な生を強いられることになるのだ。
ジェノス侯爵マルスタインは、それならば森辺の同胞に首を刎ねられたほうがまだしも安楽なのではないかと、ズーロ=スンをたしなめていた。
しかしズーロ=スンは、己の決意をひるがえそうとはしなかった。10年ののちに森辺に戻ることが許されるなら、それこそが何よりの希望である、と――そのように言いたてていたのだった。
森辺の罪を贖うならば、森辺で魂を返せばいい。もとより罪というのは本人のみが負うべきものであるのだから、他の人間に累が及ぶことはなかっただろう。
しかしズーロ=スンは、それ以上の罰を望んだ。森辺の集落のみではなく、ジェノスや王国の者たちが得心できるように、王国の法で裁かれたいと願ったのだ。
かつての家族や、スンの分家の者たちが、外界の者たちと正しく絆を結びなおせるように――そんな思いに駆られての行いであったのだろう。
ズーロ=スンは、最後の最後で森辺の民としての魂を取り戻すことがかなったのだった。
そうしてズーロ=スンの罰が定められた後、グラフ=ザザは供の男衆だけを引き連れて、城下町に向かうことになった。
ズーロ=スンは、間もなく西の王都に移送されることになる。そちらで罪人の刻印を刻まれて、しかるべき場所に運ばれるのだそうだ。
その前に、ひと言だけでも言葉を交わしておきたいと、グラフ=ザザはそのように願い出た。ジェノス侯爵マルスタインは、鷹揚にその申し出を受け入れてくれた。
また、ドンダ=ルウやダリ=サウティは、すべてをグラフ=ザザに一任すると言ってくれた。もともと血族でもなかった自分たちは、もはやズーロ=スンにかけるべき言葉も持ち合わせていないので、狩人の仕事を休んでまで同行する必要はなかろう――などと言っていた。
「お待ちしておりました。森辺の族長グラフ=ザザ殿。……どうぞこちらに」
石造りの建物を、兵士の案内で進んでいく。そこはこれまでに見てきた城下町の建物の中で、もっとも陰気で薄暗い場所であった。
「面会の時間は、四半刻のさらに半分と定められております。お話は、どうぞお手短に」
「それがどれだけの時間かはわからぬが、100を数えるていどの時間をもらえれば十分だ」
やがてグラフ=ザザたちは、頑丈そうな扉の前まで案内された。
見張りの番を果たしていた兵士が、無言のままに扉を開く。その向こう側は、回廊よりもなお薄暗かった。
「我々はこちらに控えておりますので。時間がきたら、お声をおかけいたします」
兵士らと供の男衆を残して、グラフ=ザザだけが扉の向こうに踏み入った。
背後で扉が閉められて、グラフ=ザザは3歩ばかり前進する。目の前は石の壁にふさがれており、顔の高さに四角く窓が切られていた。
「……ズーロ=スンよ、最後の言葉を届けに来た」
グラフ=ザザが声をかけると、窓の向こうにズーロ=スンの顔が現れる。
そのたるんだ顔には、力ない笑みが浮かべられていた。
「グラフ=ザザ……本当に来てくれたのだな……今さら我に、用事などなかろうに……」
「ふん。この半月ほどで貴様が変心していないか、それを確かめにきただけのことだ」
ズーロ=スンは、とても落ち着いた表情をしていた。
たいそう気弱げな目つきだが、それこそがズーロ=スンの素顔であるのだ。
「変心などはしておらぬから、何も案ずることはない……なんとか10年を生き抜いて、この罪を贖ってみせよう……しかし、それだけの罰で本当に我の罪を贖えるかはわからぬから……その後のことは、どうか頼んだぞ……」
「貴様が10年後に戻ったら、この俺がしっかりと見定めてやる。……俺が魂を返していれば、俺の子がその役目を果たすであろう」
「10年も経てば、おたがいに50の齢を数えてしまうからな……しかし、かなうことならば、生きて再会したいものだ……」
「ふん。それを定めるのは、母なる森だ」
グラフ=ザザは胸中に渦巻くさまざまな思いをねじ伏せながら、きびすを返そうとした。
「それでは、森辺に戻る。この10年で、己の罪を噛みしめるがいい」
「あ……待て……最後に、礼を言わせてほしいのだが……」
「礼だと? 貴様に礼を言われる筋合いなどはない」
「うむ……そちらは森辺の民として、ごく当たり前の言葉を語らっていただけなのであろうが……もはや魂の穢れてしまっていた我には、その言葉こそが重く響きわたったのだ……」
ズーロ=スンの黒い瞳が、わずかに涙を浮かべている。
「ルウ家の最長老やファの家のかまど番、それにヤミルたちの言葉も、我の心を揺さぶってやまなかったが……最後にとどめを刺してくれたのは、やはりグラフ=ザザであろう……だから、礼を言っておきたく思う……」
「無駄に言葉を重ねるな。俺が何を言ったというのだ?」
「森に魂を返すその最後の瞬間まで、貴様は森辺の民として、生きろ……グラフ=ザザは、そのように言ってくれたのだ……」
それは、トゥラン伯爵家の大罪人たちと対決する前夜に発した言葉であった。
あの夜のざわめきや、かがり火の熱、それに不可思議な料理の味や香りなどが、一瞬の内にグラフ=ザザの心を通りすぎていく。
「我は何度となく、その言葉を噛みしめることになった……だから、覚悟を固めることがかなったのだ……かつての家族たちや、間違った道に導いてしまった血族たちや、森辺のすべての同胞のために、この身で罪を贖うのだと……そのように決断することができたのだよ……」
「そんなものは……森辺の民として、当然のことだ」
「うむ……お前は初めて出会ったときから、強くて正しかったな……我もグラフ=ザザのように、強くて正しい魂を手に入れたく思う……」
そう言って、ズーロ=スンは幼子のように微笑んだ。
「10年後……再会できることを願っている……」
グラフ=ザザはきびすを返して、ズーロ=スンに背を向けた。
そして、さまざまな感情を押し殺したまま、ひと言だけ告げてみせた。
「生きて戻れ」
グラフ=ザザは、薄暗い石造りの部屋を出た。
兵士たちに礼を言い、外界に向かって足を踏み出す。
グラフ=ザザの脳裏では、16歳の少年であったズーロ=スンが見たこともない顔で微笑んでいた。