第三話 とある老女の追憶
2020.9/23 更新分 1/1
母親のわたくしから見ても、ヴァルカスというのはずいぶん奇妙な子供でございました。
いつもぼんやりと上の空で、いったい何を考えているのか。あの子は東の方々みたいに表情が変わらないものですから、こちらもさっぱり見当がつかなかったのでございます。
それにあの子は身体が弱くて、もっと幼い頃なんかは起きている時間よりも寝台に臥せっている時間のほうが長いぐらいでしたし、長じてからも人混みが苦手で、なかなか学舎に通わせることもできませんでしたので……同じ年頃の子供と遊ぶ機会も少なくて、それでそういう一風変わった人間に育ってしまったのでございましょうかねえ。
ただ、親に迷惑をかけるような子供ではございませんでした。
家の手伝いもよくしてくれますし、野蛮な真似をすることもございませんし……空いた時間には椅子に座って、ぼうっと窓の外を眺めているような、どこぞのご隠居みたいな風情でありましたのでねえ。
だけどやっぱり親としては、あれこれ心配だったのでございますよ。
何せヴァルカスは、子供らしい遊びにもまったく興味を持たないで、いつもひとりでぼんやり過ごしているものですから……わたくしどもが魂を返した後、きちんとひとりで身を立てることがかなうのかと、はなはだ不安であったのでございます。
「ヴァルカスよ、お前は将来、どのような人間になりたいのだ?」
同じ心配を抱えた父親なんかは、しょっちゅうそんな風に尋ねておりました。
そんなときも、ヴァルカスはぼんやりと父親の顔を見返しておりましたねえ。
「どのような人間……すみません、質問の意図がよくわかりません」
ヴァルカスは、子供の頃からずいぶん丁寧な言葉を使っておりました。
それもやっぱり、同じ年頃の子供とふれあう機会が少なかったからなのでございましょうか。
「わたしは学舎に勤める人間であり、母親は仕立て屋の手伝いを生業にしている。どちらも子供に継がせられるような仕事ではないので、お前は自分で自分の進むべき道を定めなければならんのだ」
「自分の進むべき道……」
「いっそ学舎に通いなおして、学士を目指すか? お前はずいぶん頭が回るようなので、それも悪くはないかもしれんぞ」
「はあ……」
「それに、手先も器用なようだが……しかし身体が弱いので、職人などには向いていないだろう。何か、生業にしたいような仕事はないのか?」
「とりたてて……父さんは、僕ぐらいの年齢からもう学士を目指していたのですか?」
「いや、はっきりとそのように考えていたわけではないが――」
「でしたら、僕もはっきりしません」
終始、そのような感じでございました。
ひらひらと風にそよぐ、絹の帳のような気性でありましたねえ。
そんな中、最初の予兆が表れたのは、ヴァルカスが12歳ぐらいの頃でありました。
親子3人で晩餐をいただいていたら、ヴァルカスが小首を傾げながら、このように言うのです。
「母さん、また味が違っていますね」
最初は何を言っているのかもわかりませんでした。
父親も、けげんそうにヴァルカスを見ております。
「違うって、何がだい? 何かおかしなものでも入っていたかねえ?」
「いえ。使っている食材は3日前と同一であるはずなのに、味が違っています」
そこまで聞いても、わたくしにはやっぱり理解が及びませんでした。
その日に出した晩餐は、たしかキミュスと野菜の汁物料理であったかと思います。恥ずかしながら、わたくしはそんなに料理が得意ではなかったもので……塩とチットの実を入れたぐらいの、ごく簡単な味付けでありました。
「3日前の晩餐なんて覚えていないけれど、まあ使う食材にそんな変わりはないだろうねえ。タラパとティノとネェノンと……あとはミャームーを入れたぐらいだよ」
「はい。ミャームーとチットの実の加減が異なっているのでしょう。ただ、他にも理由はあるように思うのですが……どうしてこれほどに味が違ってしまうのでしょう?」
「ううん、どこがどんな風に違うっていうんだい?」
「深み……でしょうか。僕は、3日前のほうが美味であったように思います」
すると、父親が眉をひそめてヴァルカスをたしなめました。
「ヴァルカスよ、出された料理に文句をつけるのは、品のない行いだぞ。使っている食材に変わりがなければ、そうそう違いが生じることもあるまい」
ヴァルカスは父親の顔をぼんやりと見返してから、わたくしのほうに頭を下げました。
「余計なことを言ってしまい、すみませんでした。以後、つつしみます」
それ以降、ヴァルカスは何も語らないまま、晩餐を食べ終えました。
だけどわたくしは、そのときのヴァルカスの様子がとても気にかかってしまったのでございます。
普段はなかなか自分から声をあげることもないヴァルカスが、突然そのようなことを言いだしたものですから、すっかり驚かされてしまったのでしょう。
その翌日、晩餐を作る頃合いに、わたくしはヴァルカスを厨に呼びつけることにいたしました。
「ヴァルカス。わたくしは昨日と同じように料理を作ってみせるから、それを見ていてもらえるかい?」
ヴァルカスは何も答えないまま、ただうなずいておりました。
そんなヴァルカスの前で、わたくしは昨日の通りに晩餐を作ってみせたのです。
とはいえ、わたくしの料理なんて簡単なものでございます。キミュスの皮つき肉と野菜を鉄鍋で煮立てて、最後に塩とチットの実で味を調えるだけでございますから、見るべきものがあるようにも思えません。
「これで完成だよ。味見をしてみるかい?」
ヴァルカスはうなずいて、小皿に移した煮汁をすすりました。
その緑色をした目が、ぼんやりとわたくしを見返してきます。
「昨日より、ミャームーが少ないようです」
「ミャームーが? それはまあ、目分量で切り分けてるから、まったく同じにはならないだろうけれど……」
「昨日はむしろ、ミャームーの香りが強すぎたように思うので、こちらのほうが好ましく思います。ただ、やっぱり深みが足りないように思いますし……どこか、タラパの酸味がとがっているようにも感じられます」
その言葉で、わたくしはひとつだけ思い当たることがございました。
「これはまだ出来立てだから、タラパの味が馴染んでいないのかもしれないねえ。晩餐を食べる時間まで火にかけておけば、もうちょっと味が落ち着くと思うよ」
「……煮込む時間で、そうまで味が変わるのですか?」
「うん、おそらくね。……そういえば、4日前は晩餐を始めるのが少し遅れたから、それで味が変わったのかもしれないねえ」
その日は父親の帰りが遅かったために、半刻ほど晩餐の開始が遅れていたのでございます。その間、いつでも晩餐を始められるようにと、わたくしはずっと弱い火で鉄鍋を温めておりました。
「それじゃあ明日は、半刻ぐらい早くから同じものを作ってみようか? そうしたら、4日前と同じ味になるかもしれないよ」
翌日は、なんとか夕刻に時間を作れるようにと、仕立ての仕事を急いで仕上げることになりました。わたくしは仕立て屋からいただいた裁縫の仕事を家に持ち帰っておりましたので、そういった加減も自分次第であったのでございます。
そうして、半刻ばかりも長めに煮込んだ煮汁をすすると――ヴァルカスは、眉をひそめてわたくしを見返してきました。
「味が、違っています。5日前の味に、かなり近づいたように思います」
「そうかい。やっぱり煮込む時間が関係していたんだねえ」
「でも、同一の味ではないように思います。深みは出ているし、タラパの酸味も落ち着いたようですが……今度は、辛みが乱れているように思います。チットの実とミャームーの比率が違っているのではないでしょうか?」
そんな風に言いながら、ヴァルカスは腕を組んで考え込んでしまいました。
「それにそもそも、どうして煮込む時間を長くすると、タラパの酸味が落ち着くのでしょうか? 長く煮込んで水気が減れば、深みが増すことにも納得はいくように思いますが……だったら、酸味だっていっそう増すのが道理であるように思います」
「よくわからないけれど、じっくり煮込んだほうがいい出汁が出る、なんて話は聞いたことがあるねえ」
「出汁? とは、何でしょう?」
「何でしょうって言われると、困ってしまうけれど……食材からにじみ出る、味や滋養のことなのかねえ?」
「食材からにじみ出る、味や滋養……では、他なる食材からにじみ出る味や滋養が、タラパの酸味を落ち着かせたということなのでしょうか? タラパだって同じぐらい味や滋養を出しているはずなのに、どうしてそれが圧されてしまうのでしょうか?」
「わたくしなんかに、そこまでのことはわからないよ」
そう言って、わたくしはヴァルカスに笑いかけてみせました。
「だったらいっそ、明日はあなたが晩餐を作ってみるかい? 自分で手掛ければ、何か見えてくるものがあるかもしれないよ」
そんなわたくしの申し出を、ヴァルカスはあっさりと受け入れてくれました。
釈然としないのは、父親でございます。何せこれで3日も同じ晩餐を食べさせられているのですから、父親はげんなりしてしまっておりました。
「どうしてこう、毎日毎日キミュスとタラパの汁物料理なのだ? カロンの肉を買う銅貨がないわけではあるまい?」
「申し訳ありませんねえ。もう1日だけ、辛抱していただけますか?」
翌日は、ヴァルカスが晩餐を作ることになりました。
もちろんヴァルカスはこれまで調理刀を握ったこともなかったのですから、わたくしも手を貸しております。ヴァルカスの言いつけ通りに野菜を刻んで、鉄鍋を火にかけて……考えるのがヴァルカスで、実際に動くのがわたくしといった風情でございます。
今にして思えば、ヴァルカスにとっての初めての調理助手を、このわたくしなどが務めあげたということになるのでしょうか。
まったくもって、栄誉な限りでございますねえ。
ともあれ、料理は完成いたしました。
その日も仕事を早く切り上げて、半刻ぐらいは長めに煮込んでおります。
最後まで丹念に味を調えていたヴァルカスは、やがて満足そうに吐息をつきました。
「タラパの酸味が落ち着く理由がわかりました。これはきっと、キミュスの肉の出汁の影響であるのです。タラパよりも肉のほうが力強い出汁が出るため、それがタラパの酸味を抑えて、全体の味を支えることになったのでしょう」
「ふうん? よくわからないけれど、これは上出来な仕上がりだねえ」
「はい。あとは食材によって煮込む時間を調節すれば、さらなる調和を求められるかもしれません」
おそらく、ヴァルカスが「調和」という言葉を口にしたのは、そのときが初めてであるかと思われます。
ヴァルカスの緑色をした瞳は――これまで見たこともないような、たいそう真剣な光をたたえておりました。
「またキミュスとタラパの汁物料理か……」
晩餐の時間、悄然とした面持ちで煮汁をすすった父親は、いくぶんぎょっとした様子で目を剥いておりました。
「……なんだかずいぶんと、味が違っているな。新しい香草でも買いつけたのか?」
「いえ。食材は同一です。ただ、火加減や食材の分量を調整しました」
そうしてその日から、わたくしはヴァルカスとともに晩餐を作りあげるようになったのでございます。
ヴァルカスは、乾いた砂が水を吸い込んでいくように、わたくしの教えを取り込んでいきました。調理刀の扱いも、かまどや窯の扱いも、ひと月ていどでわたくしよりも巧みになったかと思われます。
当時のジェノスにはまだそれほどさまざまな食材が流通していたわけではございませんので、ヴァルカスは限られた食材で研鑽を積んでいくことに相成りました。
野菜でしたら、ティノ、タラパ、ネェノン、ギーゴ、チャッチ、プラ、ナナール――香草でしたら、ミャームー、ペペ、ゾゾ、ピコ、チット――調味料なんかは、それこそ塩とママリアの酢ぐらいでございましたかねえ。ジャガルから買いつけるタウ油や砂糖なんかはまだまだ数が少なくて、貴き方々の口にしか入らないような時代であったのでございます。
何にせよ、それでヴァルカスの進むべき道が定まったのでしょう。
16歳になったとき、ヴァルカスは料理店で働きたいと申し出てきました。
「料理人か……べつだん恥ずべき仕事ではないが、まさかわたしの子が料理人を志すとはな……」
父親はずいぶん難しげな顔をしておりましたが、ヴァルカスの決心に異を唱えることはございませんでした。
わたくしと同様に、安堵する思いのほうが大きかったのでございましょう。あれほどぼんやりとしていたヴァルカスが自分で進むべき道を見出すことがかなったのですから、それにまさる喜びはなかったのでございます。
ただし、その後の道行きは決して安穏としてはおりませんでした。
16歳で働きに出たヴァルカスは、わずか1年ていどで3度も仕事場を変えることになってしまったのでございます。
理由は、ふたつほどございまして……まずヴァルカスはその齢になってもまだ人混みなどが苦手でありましたので、下働きの人間として朝の市場などに出向くと、すぐに気分が悪くなってしまい、たびたびご迷惑をかけることになってしまいました。
そして、もうひとつの理由は……ヴァルカスの気性でありましょうか。
みなさんもご存じの通り、ヴァルカスは言葉を飾るということができなかったのでございます。
こと料理に関しては、自分の意見を曲げることも、口をつぐむこともできない……そんな気性が、災いとなってしまいました。家で料理を手掛ける分には家族であるわたくしが相手であったので、何もはばかることはなかったのでございますが、下働きの人間としてはすこぶる不相応でございましょう?
「こちらの料理は、火加減を見直すべきであるかと思われます」
「こちらの料理は、香草の組み合わせが調和を壊しているのではないでしょうか?」
「こちらの料理の味付けは、キミュスよりもカロンの肉に適しているように思われます」
そのような言葉をずけずけと口にしてしまうものですから、立場のある方々からたいそう疎まれることになってしまったのでございますね。
3軒目の料理店から暇を出されたとき、父親は厳格なる態度でヴァルカスをたしなめました。
「ヴァルカスよ。それではいずれ、ジェノスのすべての料理店からそっぽを向かれてしまうことになろう。それでお前は、満足であるのか?」
「いえ。わたしはどうあっても、料理人として身を立てたく思います」
「ならば、自重するのだ。今は修行中の身であるのだから、自分の意見は腹の中に呑み込んで、腕を磨くことのみに集中するがいい」
ヴァルカスにも、思うところがあったのでしょうか。それからしばらくは、同じ料理店に腰を落ち着けることがかないました。
ただやっぱり、料理人の道というのは険しいものであるのでしょうねえ。2年が過ぎ、3年が過ぎても、ヴァルカスはずっと下働きの身でありました。
そして……ヴァルカスが修行を積んでいる間に、ジェノスの情勢が少しずつ変わっていったのでございます。
そう、当時のトゥラン伯爵家のご当主様が、さまざまな領地からさまざまな食材を買いつけるようになったのでございますね。
以前は貴き方々の口にしか入らなかったような食材も、城下町ではそれなりに買いつけられるようになってきました。
タウ油や砂糖は言うに及ばず、チャムチャムやロヒョイ、マ・ギーゴやマ・プラ、ラマンパの実やレテンの油――それに、香草の種類もずいぶん増えたように思います。
当時のヴァルカスは、ずいぶん瞳を輝かせていたものでございました。
「タウ油や砂糖が手に入れば、味付けの幅が格段に広がります。それに香草のことまで考えると……ああ、時間がいくらあっても足りません」
そうしてヴァルカスは、料理の研究というものに没入していきました。
料理店での仕事は給金のためにと割り切って、ひとりでひたすら研究に打ち込むようになってしまったのでございます。
だけどやっぱりどのような仕事でも、他人様との繋がりというものをおろそかにしてはいけないのでございましょうね。
ヴァルカスはきっと当時から、人並み以上の技量を身につけていたかと思うのですが……料理店において、重宝されることはございませんでした。同じ年頃の人間が貴き方々のお屋敷に招かれたり、料理長や副料理長の座を授かったりするようになっても、ヴァルカスは独りよがりの偏屈者として捨て置かれるようになってしまったのでございます。
父親は、そんなヴァルカスの行く末をたいそう案じておりました。
いっぽう、わたくしは……遅く咲く花こそ大きく美しいという格言を胸に抱いて、我が子の去就を見守っておりました。
本心を打ち明けますと、当時のヴァルカスはとても満ち足りているように思えたので、口出しをする気にはなれなかったのでございますね。
それから、長きの時間が過ぎました。
ヴァルカスは住み込みの店で働くことが多かったので、顔をあわせるのは年に1度か2度ていどであったでしょう。その間にも何度か店を移ったようでしたが、とにかくひたすら修練の毎日で、出世にも婚儀にも目をくれないような有り様でございました。
父親が魂を返したのは、ヴァルカスが30歳となってからでございます。
父親も丈夫な人間ではありませんでしたので、その年の雨季で肺を病んでしまい、50歳を過ぎたところで魂を返すことになってしまいました。
弔いの場で、ヴァルカスがひどく思い詰めた眼差しをしていたことをよく覚えております。
「……父さんは、満足のいく生を歩むことがかなったのでしょうか?」
「そうだねえ。後に残されるあなたのことを、たいそう案じてはいたけれど……まずは満足のいく人生であったろうと思うよ」
わたくしがそのように答えますと、ヴァルカスは思い詰めた眼差しをわたくしのほうに向けてきました。
「わたしは16歳の齢で働きに出て、すでに14年もの時間が過ぎています。もしもわたしが父さんと同じ齢で魂を返すとしたら……きっと何を成し遂げることもできないまま、朽ちることになりましょう」
「あなたは、きっと大丈夫だよ。大事なのは、どちらに向かって進んでいくかということなんだから……そのまま真っ直ぐ進めばいいのさ」
ヴァルカスは珍しく口惜しそうに唇を噛んでから、わたくしのほうに身を寄せてきました。
「このような日に、自分の心情ばかり語ってしまって申し訳ありません。……母さんは、今後どのように過ごすのでしょうか? 仕立て屋の手伝いだけでは、生活していくことも難しいでしょう?」
「わたくしは、妹の家に身を寄せさせてもらおうと思うよ。仕立て屋の手伝いは、どこでも続けられるしねえ」
「では、わたしが仕送りをしますので――」
「いいんだよ」と、わたくしは言ってあげました。
「あなたは自分の給金で食材を買いつけて、腕を磨いているさなかなんだろう? 親の面倒を見ることより、自分の身を立てることを一番に考えておくれ。……父さんだって、それを望んでいるはずさ」
「……では、もう何年かだけ、時間をください。料理人として身を立てて、母さんを迎えにあがります」
ヴァルカスがジェノスを出たのは、その次の年のことでありました。
東に向かう商団にまぎれこんで、シムへと旅立ってしまったのでございます。
あんなに身体の弱い子がそんな長旅をして大丈夫なのかと、わたくしはたいそう気を揉むことになってしまいましたが……ヴァルカスは、1年も経たずにひょっこりと帰って参りました。
その際にお連れしていたのが、タートゥマイ様でございますね。
「今後は彼と手を携えて、自らの道を切り開きたく思います。もう少しだけお待ちください」
その翌年ぐらいから、仕送りの銅貨が送られてくるようになりました。
食材を買いつけるだけの銅貨は確保しているので、遠慮は無用……ヴァルカスは、そんな風に言ってくれたのでございます。
それからさらに、3年後ぐらいでしょうか……同じ家に住む妹が、血相を変えて呼びかけてきました。
「ねえ、うちの娘が聞きつけてきたんだけど……料理人のヴァルカスっていうのは、姉さんの息子のことだよね?」
「そうだねえ。ヴァルカスってのはそんなにありふれた名前じゃないだろうから、たぶんうちの息子のことだと思うよ」
「うちの娘の働くお屋敷に、ヴァルカスって料理人が乗り込んできたらしいんだよ。なんでも、ジャガルで高名な料理人と味比べの勝負をさせていただきたいって……こいつは、どういう騒ぎなのかねえ?」
もちろんわたくしにも、仔細を知るすべはございませんでした。
妹の娘が働いているのは、トゥラン伯爵家のお屋敷であったのです。当時のご当主様はたいそうな美食家として知られておりましたので、ジャガルの高名な料理人であるという御方がお招きされていたのでございましょうね。
ヴァルカスがタートゥマイ様をともなって妹の家にやってきたのは、それから3日後のことでございました。
「わたしは明日から、トゥラン伯爵家のお屋敷で働くことになりました。そちらでは研究用の食材を自由に使ってよいとのことであったので、今後の給金は自由に扱うことがかないます。ひいては、どこかに住む場所を借り受けて、母さんを引き取りたく思うのですが、如何でしょう?」
「それはおめでたいことだねえ。……でも、貴き方々のお屋敷だったら、住み込みになるんじゃないのかい?」
「はい。伯爵様からは、そのように申しつけられています」
「だったら、無理に家を借りることはないよ。こんな老いぼれがひとりで暮らしていたら、魂を返してもなかなか気づいてもらえないだろうからねえ」
「ですが、いつまでも叔母君のお世話になるわけにもいかないでしょう?」
「妹の孫が大きくなったら、聖堂のお世話にでもなろうかと思っているよ。あなたは大事な時期なのだから、わたくしなどにかまいつける必要はないさ」
ヴァルカスは、しばらくわたくしの顔を無言で見つめておりました。
「……では、仕送りの額を増やしますので、叔母君にはくれぐれもよろしくお伝えください。いずれ自分の家を持てたら、必ず母さんを迎えにあがります」
そうしてヴァルカスは、トゥラン伯爵家のお屋敷で働くことと相成りました。
「ジェノスの三大料理人」などと呼ばれだしたのも、ちょうどその頃なのでしょうねえ。妹の娘に聞きましたところ、ジャガルの高名な料理人との味比べで勝利を収めて、トゥラン伯爵家のご当主様に見初められることになったようでございました。
ヴァルカスはついに大きく美しい花を咲かせることができたのだと思い、わたくしはそれだけで十分に満足でございました。
ヴァルカスからの仕送りはそのまま妹に渡しておりましたので、肩身がせまいこともございません。あとは姪の孫が大きくなったら、聖堂で下働きの仕事をいただいて、ひっそりと魂を返せばいい……そのように考えていたのでございます。
それから、5年後ぐらいでございましょうか。
トゥラン伯爵家のご当主様とその弟君が大罪人として召し捕られたと、そのように伝えられました。
姪もお屋敷を出ることになって、どこぞの子爵家で働くように申しつけられたのでございます。
ヴァルカスも、他のお屋敷に引き取られることになるのかと……そのように案じておりましたら、ヴァルカスはまたひょっこりと現れました。
「トゥラン伯爵家の料理長を解任されることになりましたので、自分の店を出すために商店区の建物を借り受けました。今後は、そちらで暮らそうかと思います」
そうしてヴァルカスは、とても申し訳なさそうな目つきで、わたくしの手を取ってくれたのでございます。
「母さんを迎えにあがるのに、けっきょく10年もかかってしまいました。長々と待たせてしまって、本当に申し訳ありません」
◇
「……そうしてわたくしは、こちらで働かせていただくことになったわけでございますね」
老女がそのように締めくくると、ロイは「なるほど」と感じ入ったようにうなずいた。
「とても興味深いお話でしたよ。シムでタートゥマイと出会った話やジャガルの料理人と対決した話なんかは、けっこう前に聞き及んでいたのですが……そんな背景があったとは知りませんでした」
「ええ……あの子はあんまり、自分の話をしたがらない性分でございますのでねえ」
そう言って、老女はシリィ=ロウのほうに向きなおる。
「大丈夫でございますか、シリィ=ロウ様? お茶でもお持ちいたしましょうか……?」
「いえ、大丈夫です」と、シリィ=ロウは洟をすすった。織布でぬぐうその顔は、すっかり涙で濡れてしまっている。そんなシリィ=ロウの有り様に、ロイは呆れたような声をあげた。
「あのさ、ご母堂の前で何なんだけど……他人が聞いて、むせび泣くような話だったか?」
「他人ではありません! わたしたちはヴァルカスの弟子なのですから、家族も同然ではないですか!」
そう言って、シリィ=ロウは老女の手に取りすがった。
「母上様に見守られながら、ヴァルカスはあれほどの名を成すことがかなったのですね……きっと母上様のために、ヴァルカスはひたすら修練に打ち込んでいたのでしょう」
「いえいえ、それはどうでございましょう……わたくしなどがおらずとも、ヴァルカスは同じ道を進んだように思います。料理の修練に打ち込んでいる間は、わたくしや父親のことなど頭に浮かびもしなかったのではないでしょうかねえ」
「あー、俺もそう思います。厨にいる間は、料理のことしか頭にないんでしょうね、あのお人は」
「お黙りなさい! あなたはヴァルカスを何だと思っているのですか?」
「いや、俺もあのお人をそこまでの冷血漢だと思ってるわけじゃねえよ。こうやって、きちんとご母堂をお迎えにあがったんだしさ」
ロイは悪びれる様子もなく、老女に向かって白い歯を見せた。
「厨にいる間は料理に集中して、厨を出た後にご母堂を思いやってたんですよ、きっと。ご母堂の存在がヴァルカスに力を与えていたことに変わりはありません」
「ええ……そうであれば、幸いでございますねえ」
すると、ようやく厨へと通じる扉が開いた。
そこから姿を現したヴァルカスが、客席でくつろいでいるロイたちの姿をうろんげに見回す。
「……何をしているのですか、あなたがたは?」
「何をしてるって、そっちが厨に入れてくれないから、よもやま話に花を咲かせていたんですよ。香草の調合は完了したんですか?」
「……ええ。必要な食材があるのなら、どうぞお持ちください」
「はいはい。こっちはあなたが研究に没頭できるように、外での仕事を肩代わりしてるんですからね。少しはねぎらってくださいよ」
そう言って、ロイは唇をとがらせた。
「それに、集中が乱れるから厨を出ていけって言い草もどうかと思いますよ。新しい香草を手に入れてご満悦なのはわかりますけど、俺たちはあなたの弟子なんですからね」
「でしたら、厨で騒ぎたてるような真似はおひかえください。口を開かずとも、修練は成るはずです」
「さ、さきほどは申し訳ありませんでした! ついつい、ロイの軽口に腹が立ってしまって……」
と、シリィ=ロウは慌てた様子で頭を下げる。
その赤くなった目もとと濡れそぼった織布を見比べて、ヴァルカスはわずかに眉をひそめた。
「……あなたがたは、いったい何の話をしていたのですか?」
「はい! ヴァルカスの幼き頃や、修行時代のお話などをうかがっていました! わたしもいつか家族に認めてもらえるよう、いっそう励みたく思います!」
シリィ=ロウは兵士のように敬礼をしてから、まだ椅子に座っているロイの耳をひねりあげた。
「さあ、食材の準備をして、マーデル子爵家のお屋敷に向かいますよ! 《銀星堂》の料理人として、ヴァルカスの弟子として、恥ずるところのない料理を作りあげるのです!」
「いててて! いてーって! そんなに慌てなくたって、仕事は逃げやしねえよ!」
そうして賑やかな若き料理人たちが厨に消えると、ヴァルカスは老女に近づいていった。
「……母さん。弟子たちに幼い頃の話などを聞かせるのは、控えていただけませんか?」
「あら、どうしてだい?」
「どうしても何も、そのような話を聞かせる必要はないからです」
老女は柔和に、にっこりと微笑んだ。
「それは申し訳なかったねえ。ついついひまを持て余して、息子の自慢話をしたくなってしまったんだよ。最近は外の仕事ばっかりで、給仕の仕事もさっぱりだからねえ」
「……何も、母さんが無理に働く必要はないのですよ? 店の給仕など、いくらでも雇えるのですから……」
「だって、一緒に働いていれば、あなたの仕事ぶりをこの目に焼きつけられるじゃないか?」
そう言って、老女は幸福そうに目を細めた。
「どうか足腰が立つ間は、この仕事をやりとげさせておくれよ。父さんの分まで、しっかり見届けてあげるからさ」