長き暗がりの果てに(四)
2020.9/8 更新分 2/2
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
・他サイトで公開していた「終わりの魔女と始まりの世界」という作品をこちらでも掲載することにしました。作風は異なりますが、料理道とも関連性がなくもない内容ですので、ご興味をもたれた御方はよろしくお願いいたします。
それは、ゼイ=スンが29歳、トゥール=スンが10歳の、青の月の10日のことであった。
例年通りに行われた家長会議の場で、すべての運命がひっくり返されてしまったのである。
ゼイ=スンは、何も予兆など感じていなかった。どうせ分家の人間など、家長会議に関わることはないのだ。その日は家に閉じこもり、翌朝まで誰とも顔をあわせないまま、すべてが過ぎ去るのを待ち受ける所存であった。
ただこの日は一点だけ、例年と異なる事態が生じた。
女衆は日も高い内から、晩餐を作るようにと命じられたのだ。
「今日はファの家のアスタとルウの血族の女衆が、美味なる料理の手ほどきをしてくれるのよ。ルウの血族に従うのは癪でしょうけれど、今日ばかりはこらえなさい」
その日の朝、分家の人間を本家の前に集めたヤミル=スンは、そのように言いたてていた。
アスタというのは、ファの家に住みついたという異国人である。スン本家の男衆らが何やら悪縁を結んだという話は聞き及んでいたが、それがどういった内容であるのかもゼイ=スンには関わりのないことであった。
しかしトゥール=スンは、すでに10歳になってしまっている。スン家においてはその齢から、かまど仕事に取り組む習わしとなっていた。であれば、得体の知れない異国人や仇敵たるルウの血族とともに、トゥール=スンも仕事を果たさなければならないのだった。
「……それならば、男衆が見張りに立つべきではないだろうか?」
ゼイ=スンがそのように言いたてると、ヤミル=スンは蛇のように冷たく微笑んだ。
「そんな真似をしたら、かえってルウの血族を刺激してしまうのじゃないかしら? 家人が大切なら、余計な真似はつつしむべきでしょうね」
「いや、しかし……」
「かまど仕事を果たしている間、あちらの男衆は祭祀堂で家長会議なのだから、何も危険なことはないはずよ。ファの家のアスタというのも、女衆のように優しげな若衆なのだからね」
「なに? ファの家のアスタというのは、かまど番であるのに男衆であるのか?」
「ええ、そうよ。女狩人が家長をつとめるファの家には、お似合いでしょう?」
そうしてひとしきり笑ってから、ヤミル=スンはしなやかな腕を振り払った。
「さあ、あちらはそろそろ到着するはずよ。かまど番を果たさない人間は、自分の家に引っ込んでちょうだい。余計な真似をしたら、あとで処断させてもらうからね」
男衆や10歳未満の幼子たちは、すごすごと引き下がっていった。
ゼイ=スンは釈然としないまま、かたわらのトゥール=スンに向きなおる。
「おい、トゥールよ」
トゥール=スンはびくりと身体をすくめて、弱々しく視線をさまよわせた。
胸の奥に鈍い痛みを覚えながら、ゼイ=スンはゆっくりと言葉を重ねてみせる。
「決して油断をせぬようにな。ルウの血族は、誰もが我々に悪念を抱いているはずであるのだ」
「う、うん。わかった……」
かぼそい声で言いながら、トゥール=スンはうつむいてしまった。
その肩に手を置こうとして、ゼイ=スンは思い留まる。そのような真似をしても、娘を怯えさせるだけのはずだった。
(ヤミル=スンは、いったい何を考えているのだ。よりにもよって、ルウの血族の女衆を集落に呼びつけるなどとは……これも、ザッツ=スンの命令であるのか?)
大事なトゥール=スンと引き離されてしまい、ゼイ=スンは家で悶々と過ごすことになった。
若き家長も、体調を崩しているその末妹も、それぞれ自分の寝所に引きこもってしまっている。広間の窓から外の様子をうかがったが、分家の女衆らはすでにかまど小屋に向かってしまったようで、誰の姿も見えなかった。
それから、しばらくして――表のほうが、にわかに騒がしくなってきた。
広間で黙然と待機していたゼイ=スンは、弾かれたような勢いで窓に駆け寄る。
大勢の人間が、祭祀堂の横手を歩いているのが見えた。
狩人の数は15名ほど、女衆の数は10名ほど――まず間違いなく、これがルウの血族であろう。元来、家長会議で女衆を引き連れる理由はないのだ。
(なんと力にあふれた狩人たちだ……ルウの血族には、これほどの狩人が居揃っているのか)
家長会議の日にはいつも家に閉じこもっていたので、ゼイ=スンがその姿を目の当たりにするのも数年ぶりのことであった。
そしてその中に、奇妙な人間がひとり紛れ込んでいる。森辺の装束を纏ってはいるが、町の人間のように生白い色をした黒髪の若衆だ。
あれが、ファの家のアスタという異国人であろう。
ヤミル=スンの言っていた通り、その者が女衆のように優しげな風貌をしていることを確認し、ゼイ=スンは少しだけ安堵することができた。
さらにいくばくかの時間が過ぎると、本家のほうから10名足らずの人間がこちらの家に近づいてきた。
トゥール=スンと、家長の伴侶、他の分家の女衆が3名。ファの家のアスタと、ルウの血族と思しき女衆が2名。全員が、その手に大きな荷物を抱えている。どうやら、この家のかまど小屋で仕事に取り組む算段であるらしい。
ゼイ=スンは、よほど娘の様子を見にいこうかと、思い悩むことになったが――ヤミル=スンの言葉を思い出すと、それもかなわなかった。自分のせいで何か騒ぎが起きてしまったら、トゥール=スンまで責任を負わされてしまうかもしれないのだ。そんな事態だけは、避けなければならなかった。
(それにしても……このように日の高い内から晩餐の支度というのは、どういうことなのだろう。祭祀堂に集まった家長たちの分を作りあげるとしても、それほどの時間はかかるまいに)
ゼイ=スンは、今さらのように考えた。娘の身を思いやるあまりに、この奇妙な行いをいぶかしむゆとりもなかったのだ。
(たしか、美味なる料理の手ほどきなどと言っていたな。美味なる料理とは、何なのだ? どうしてそのようなものを、スン家の女衆が手ほどきされねばならんのだ?)
ゼイ=スンがその答えを得るには、数刻ばかりの時間が必要であった。
時間はのろのろと過ぎ去っていき、やがて太陽は西に傾いていく。その太陽が完全に没して、家の燭台に火が灯されたとき――ようやく、トゥール=スンと家長の伴侶が戻ってきた。
「遅くなって、申し訳ありません。家長らを呼んでいただけますか?」
ふたりは両手に掲げていた木の板を広場の端に置くと、また家を出ていってしまった。
木の板の上には、今日の晩餐が並べられている。木皿に注がれた煮汁と、ゴヌモキの葉に置かれた肉焼きだ。
ふたりはどこに向かったのだろうと首をひねりながら、ゼイ=スンは寝所から家長と末妹を呼びつけた。
死人のような目つきをした両名は、無言のままに広間へと出てくる。体調を崩している末妹は、とりわけ生気に乏しかった。
ゼイ=スンは、晩餐ののせられた木の板をそちらに運んでいく。
その道行きで、また不可解な気持ちにとらわれた。
(なんだ、これは? 焼いた肉が、どうしてこのように汁気を含んでいるのだ?)
ゴヌモキの葉にのせられた肉は、何かねっとりとした褐色の煮汁にまみれていた。
そこからたちのぼるのは、宿場町で売られているミャームーという香草だか野菜だかの香りだ。普段は森の恵みを荒らしているスン家であっても、祝宴や家長会議の日にはそういったものが買いつけられていた。
ともあれ、2枚の木の板を広間の中央に運び込み、ゼイ=スンが腰を下ろしたところで、トゥール=スンたちは戻ってきた。
その手には、また木の板が掲げられている。
「……今日はずいぶんと、晩餐の量が多いようだな?」
めっきり無口になってしまった家長も、さすがにうろんげな声をあげていた。
家長の伴侶はいくぶん困惑の面持ちで、「はい……」とうなずいている。
「ただ、そこまで量が多いわけではないかと……種類が多いので、別々に運ぶしかなかったのです……」
「種類……?」
ふたりの手によって木の板が運ばれると、その意味が判明した。そちらには、煮汁にまみれていない肉焼きや、それに得体の知れないものが積み重ねられていたのだ。
「……その、白くて平べったいものは、何なのだ?」
「これは……ポイタンです」
「ポイタン? ……ポイタンはそのような形をしていないし、煮込んで溶かさなければ口にすることもできないはずでは……?」
「はい……こちらは溶かしたポイタンを干して固めて、また水で溶いて焼きあげたものであるのです……」
家長は理解することをあきらめた様子で、小さく息をついた。
「まあ、なんでもいい。美味なる食事だか何だか知らんが……俺たちには関係のないことだ」
伴侶は家長の隣に座り、トゥール=スンはゼイ=スンの隣に座った。
それと同時に、ゼイ=スンは戦慄する。トゥール=スンのなめらかな頬が、まるで何者かに殴られたかのように赤らんでいたのだ。
「おい、トゥール! その顔は、どうしたのだ?」
たちまちトゥール=スンは小さな身体を震わせて、いっそう縮こまってしまう。
すると、家長の伴侶が「あ……」と声をあげた。
「それは、別の分家の女衆が、鉄鍋をひっくり返してしまって……熱い煮汁が、トゥールの顔や手にはねてしまったのです……」
「煮汁? では、火傷を負ってしまったのか。……大丈夫なのか、トゥールよ?」
「う、うん……ごめんなさい……」
何も謝る必要がない場面でも、トゥール=スンはすぐにその言葉を口にする。
胸の奥にひきつるような痛みを覚えながら、ゼイ=スンはトゥール=スンの姿から視線をもぎ離した。
(わけのわからぬ仕事をさせるから、トゥールがそんな目にあってしまうのだ。……この晩餐は、いったい何なのだ?)
木皿の煮汁と、茶色の汁気にまみれた薄い肉、わずかに湿り気を帯びた厚めの肉、骨のついたあばら肉、そしてポイタンであるらしい白くて平べったい奇妙なもの――これで、ひとり分の晩餐であるようだった。
確かに、それほどの量ではないのだろう。しかし、どうして肉焼きを3種類に分けているのか、その理由がさっぱりわからなかった。
「……では、食するとしよう」
陰気な声で、家長はそう言った。
秘密の掟に身を置いて以来、食前の文言というものは取りやめられている。ゼイ=スンも無言のまま、木皿を取りあげることになった。
こちらの煮汁には、ポイタンが使われていないらしい。ほとんど透明で、その内の肉や野菜が透けている。
まあ、普段のスン家ではポイタンを買いつけることもないので、そんな煮汁もまったく見慣れたものであるのだが――ファの家のアスタやルウの血族が、どうしてこのような食事を準備したのか、その理由は判然としなかった。
(……町で買った野菜を使おうが、森の恵みを使おうが、ギバの煮汁に大きな変わりなどないからな)
そんな風に考えながら、ゼイ=スンは木皿の煮汁をすすり――
そうして、思わず息を呑むことになった。
味が、まったく違っている。
ギバの香りが、まったくしない。
いや、見知った香りと味であるのだが、何かが大きく欠落しているのだ。
しかし、不快な感じはまったくしない。それどころか、不快な味や香りだけが削ぎ落とされて、心地好いものだけが残されているかのようだった。
「え……何、これ……?」
向かいに座した末妹が、驚きに目を見開いている。
彼女が口にしているのは、汁気にまみれた肉焼きであった。
「そ、それは、ファの家のアスタたちが『ミャームー焼き』と呼ぶ料理です」
と――ふいにトゥール=スンが口を開いたので、ゼイ=スンはそちらに驚かされてしまった。名指しで呼びつけられない限り、トゥール=スンが自分から声をあげることはなくなっていたのだ。
「ア、アリアとミャームーを形がなくなるぐらい細かく刻んで、それと一緒に肉を果実酒に漬け込んで……焼いている途中にも、またその汁をかけています」
「果実酒……? それじゃあこの甘みは、果実酒なのかしら……」
末妹は、困惑しきった面持ちで視線をさまよわせている。
同じものを口にしたゼイ=スンは、彼女の困惑と驚愕を共有することになった。
こちらはさきほどの煮汁と違って、強烈な味わいである。
ミャームーの風味が強く、そして甘辛い。この風味は確かに果実酒のものであろうが、それだけでこのような味になるわけはなかった。
そして、ギバ肉が美味である。
美味――としか言いようがない。こちらもギバ肉の持つ臭みが欠落しており、それでいて、肉の味はしっかりと残されていた。
「ル、ルウの家やファの家では、ギバに血抜きというものを施しているそうです。そうすると、ギバ肉の持つ臭みが消えるのだそうです」
トゥール=スンが、また自分から言葉を重ねていく。
その瞳が、おずおずとゼイ=スンを見上げてきた。決して目を合わせようとはしないが、ここまではっきりとゼイ=スンに顔を向けてくるのは、稀なことだ。
「ゼ……ゼイ父さんは、どう思う……?」
「ど、どう思う、と問われても……このようなものを口にしたのは、初めてだ。これが、美味なる食事というものであるのか……」
「うん……す、すごいよね……?」
ゼイ=スンは、また大きな驚きにとらわれることになってしまった。
トゥール=スンがこのように、自分に賛同を求めることなど、これまでには一切ありえなかったのだ。
トゥール=スンはハッとした様子で口をつぐむと、その目を悲しげに伏せてしまった。
「な、なんでもない……余計なことを言って、ごめんなさい」
「……何も謝る必要はない。俺も、すごいと思う」
トゥール=スンは、ぴくりと身体を震わせた。
その目が再びおずおずと、ゼイ=スンを見上げてくる。
その瞳は――曇天のように暗く陰りながら、その向こう側に太陽のごとききらめきを隠しているように思えてならなかった。
(トゥールは……トゥールの心は、まだ死んでいなかったのだ)
ゼイ=スンは、そんな思いを噛みしめることになった。
そうしてその後は、いずれの料理を口にしても、大きな驚きにとらわれることになったのだった。
◇
スン家に滅びがもたらされたのは、その夜のことであった。
時ならぬ喧噪に目を覚ましたゼイ=スンたちが本家に駆けつけると、そこで族長らが糾弾されていたのだ。
どうやらスン本家の人間が、ファの家人に悪さをしたらしい。その場に集った狩人たちは、ファやルウのみならず、すべての人間が怒りに目を燃やしていた。
そして――ファの家のアスタが、その言葉を放ったのだった。
「俺の言葉を否定したいなら、このスンの本家の食糧庫を見せてください。……俺が要求するのは、それだけです」
どうしていきなりそのような言葉が飛び出したのか、ゼイ=スンにはわからない。
しかしそれは、逃れようのない断罪の刃であった。
ファの家のアスタたちが食糧庫のほうに足を向けたので、ゼイ=スンたちも無言でそれにつき従っていく。
その場には、分家の人間がすべて居揃っているようだった。
ゼイ=スンのかたわらでは、トゥール=スンも歩を進めている。
まるで、夢を見ているような心地であった。
しかし、悪夢ではない。
悪夢であったのは、この十数年のほうであったのだ。
やがて、食糧庫の戸板は何者かの手によって開かれて――
禁忌の恵みが、すべての家長たちの前にさらされた。
その瞬間、スン家は悪夢から解放されたのだった。
気づくとゼイ=スンは、慟哭をあげていた。
すべての人間が、天に向かって吠えていた。
トゥール=スンはいつしかルウの女衆に取りすがって、「ごめんなさい……」と繰り返している。
その姿が、ゼイ=スンに新たな涙を流させた。
(俺は、トゥールを守れなかった……)
ゼイ=スンの胸には、悲嘆の嵐が吹き荒れていた。
しかし、それでも――悪夢は、終わったのだ。
泣きじゃくるトゥール=スンの瞳には、人間らしい輝きが蘇っている。
だからこれは、避けようのない道であったのだ。
スン家の人間が正しき道に戻るには、この身の罪を贖わなければならなかったのだ。
たとえこの場で頭の皮を剥がされるのだとしても、その瞬間までは、自分を偽らずに生きることができる。悪夢の中で長きの時を生きるよりも、それはかけがえのないことであるのだと――そのように思うしかなかった。
だが――
◇
だが、スン家の罪人たちが頭の皮を剥がされることはなかった。
それは間違った掟を強いた本家の者たちの罪であるとして、分家の者たちは許されることになったのだ。
かつてザザの若衆を殺めた者たちが生き永らえていたならば、さすがにその罪は許されなかっただろう。しかし、その大罪を果たした男衆らは、この数年でのきなみ魂を返していた。
そこまでの罪を犯していたスン家の者たちに、深い怒りを燃やしながら――それでもスン家の秘密を知った他なる氏族の者たちは、分家の人間を処断しようとはしなかったのだった。
「これからは、森辺の民として正しき道を歩んでもらう。お前たちにその力が残されていなければ、母なる森が罰を下すことになろう」
新たな族長となったザザの家長は、そのように言いたてていた。
男衆にギバを狩る力が残されていなかったならば、あえなく森に朽ちることになる。そして、幼子や女衆は飢えて魂を返すことになる。それが、分家の人間に課せられた試練であった。
しかし、どれほど過酷な試練であっても、悪夢の中で生きるよりは幸福であるに違いない。
スン本家の人間たちは、全員が大罪人として捕らえられた。病身のザッツ=スンも、現在の族長であるズーロ=スンと同罪であると見なされて、北の集落に連れ去られることとなったのだ。
悪夢は、唐突に終わりを迎えた。
そしてゼイ=スンたちは、生きることを許されている。
この降ってわいたような幸福と喜びに、分家の者たちは誰もが大きな混乱を抱え込んでいた。
そして――そこにさらなる混乱がもたらされることになった。
他の血族と血の縁を持つ人間は、そちらに引き取られることとなったのだった。
「……俺の家で他の血族と血の縁を持つのは、トゥールのみとなる」
すべてが変転した家長会議の翌日、まだ夢の中をさまよっているような様子で、若き家長はそのように言いたてた。
「トゥールが幼き頃に魂を返した母親は、当時のディン本家の末妹であったかと思うが……この10年ほどで、家長の座は長兄に受け継がれている。つまりトゥールは、現在の家長の妹の娘にあたるということだ」
若き家長は、淡々と言葉を紡いでいく。
しかしその面には人間らしい情感が蘇っており、トゥール=スンを見つめる眼差しは優しかった。家長の伴侶も、末妹も、同じ眼差しでトゥール=スンを見守っている。
そんな中、トゥール=スンはゼイ=スンのかたわらで深くうつむいていた。
「それほどの深き血の縁があるならば、トゥールをディンの家に迎えようと、ディンの家長はそのように言ってくれている。ディンの家も強き力を持つ氏族であるようなので、あちらであれば飢えに苦しむこともあるまい」
「…………」
「この年までともに過ごしたトゥールと別れるのは心苦しいことだが、しかしお前にとってはまたとない申し入れであろう。……どうかディンの家で、心正しく生きてもらいたく思う」
トゥール=スンは、ぴくりと肩を震わせた。
広間の床に敷きつめられたギバの毛皮を見つめたまま、囁くような声で反問する。
「あの……それじゃあ、ゼイ父さんは……?」
「ゼイはディンの女衆を嫁に迎えた身だが、血の縁を持つわけではない。こやつの親はどちらもスンの人間であったし――伴侶も、9年もの昔に魂を返してしまったしな」
たとえ伴侶が存命であっても、ゼイ=スンがディンの家に迎えられることはなかっただろう。この身には、ディンの血も流れていないのである。
しかしゼイ=スンは、すでに覚悟を固めることができていた。
トゥール=スンと離れて暮らすのは、半身をもがれるような苦しみであるが――それでトゥール=スンが幸福に生きていけるのなら、是非もない。ゼイ=スンが娘に与えられなかったものを、ディンの者たちは与えてくれるはずだった。
(それに俺は、遠からぬ内に魂を返すことになるだろう。この十数年間、たゆみなく修練を積んできたつもりであるが――それでも、罠にかかったギバとしか相対していなかったのだ。このような身で、真っ当な狩人として働けるわけがない)
そしてゼイ=スンは、娘の心を手ひどく傷つけたという罪を負っている。
このような人間が、父親面をするわけにはいかなかった。
「ディンの家には、明日にも向かう手はずが整えられるはずだ。それまでに、お前も――」
「……嫌です」と、トゥール=スンが家長の言葉をさえぎった。
家長はけげんそうに、「うん?」と身を乗り出す。
「いま、嫌と言ったのか? いったい何が、嫌だというのだ?」
「……わたしはディンの家に、行きたくありません」
トゥール=スンが顔をあげると、そこには滂沱たる涙があふれかえっていた。
そのあまりに悲しげな面持ちに、ゼイ=スンは言葉を失ってしまう。家長も、驚嘆の表情になっていた。
「な、何故だ? 俺たちは生きることを許されたが、それも森に朽ちるまでのことだ。ディンの家人となれば、飢えに苦しむ心配も――」
「でも、嫌です! わたしは……わたしは、ゼイ父さんと離れたくありません!」
トゥール=スンがこのように大きな声を出すのは、生まれて初めてのことだった。
その青い瞳は涙に濡れて、宝石のようなきらめきを隠してしまっている。それは昨晩と同様の、魂をさらけだした慟哭であった。
「ゼイ父さんがスンの集落に留まるなら、わたしもここに留まります! ゼイ父さんは、たったひとりの家族なのです!」
「ま、待て、トゥール。ディンの家には、お前の母親の兄弟やその子らが待っているのだ。俺のように不出来な父親など――」
「いや!」と叫んで、トゥール=スンはゼイ=スンの胸に取りすがってきた。
小さな指先が、こらえようもなく震えている。その涙に濡れた青い瞳が、数年ぶりに真正面からゼイ=スンを見つめていた。
「わたしは、ゼイ父さんと一緒にいたいの……もう絶対に、わるいことはしないから……わたしを、きらいにならないで……」
ゼイ=スンは6年前と同じように、見えざる拳で頭を殴られたような心地であった。
(それじゃあ、トゥールは……俺を恐れていたのではなく……俺に忌避されることを恐れていただけだったのか……?)
ゼイ=スンは無意識の内に、トゥール=スンの小さな身体を抱きすくめていた。
そのやわらかい髪に頬をうずめると、熱いものがまぶたからあふれかえってくる。
これはゼイ=スンが6年間、自分から遠ざけていた温もりであった。
娘を怯えさせないように――これ以上は傷つけてしまわないように、と――そのように念じて、ゼイ=スンはトゥール=スンに指1本ふれないように心がけていたのだ。
(俺は、どこまで愚かであったのだ……)
トゥール=スンの震える背中を、そっと抱きすくめる。
トゥール=スンは、声をあげて泣いてしまっていた。
「すまなかった、トゥール……決してお前を嫌ったりはしていない……お前だけが、俺にとっての生きる意味であったのだ……」
しばらくは、トゥール=スンの泣き声だけが広間に響いていた。
それがようやく静まると、家長の笑いを含んだ声が響いた。
「俺もこの10年ばかりは、世界がまともに見えていなかった。お前の気持ちを察することができなくて、すまなく思うぞ、トゥールよ。……それに、ゼイもな」
「…………」
「ディンの家長とは、俺が話をつけよう。父親のゼイとともに受け入れてもらえるかどうか……それがかなわぬ願いであれば、これまで通りにこの家で過ごせばいいだけのことだ」
「うん。今だったら、きっとわたしたちもトゥールたちと正しい絆を結べるはずだよ」
末妹が、涙声でそのように口をはさんだ。
「わたしも兄さんと同じように、ずっと目や耳をふさいでいたから……10年も一緒に暮らしていたトゥールのことを、なんにもわかってなかった。ゼイとだって、昔は兄妹みたいに仲良くしてたはずなのにね」
「わたしも、同じ思いです。わたしたちは、ようやくあるべき生に戻ることがかなうのでしょう」
穏やかな声で、家長の伴侶もそう言った。
そして、家長のほうを振り返る。
「わたしはこの幸福を、1日でも長く噛みしめたいと願っています。あなたも、どうか……強い気持ちで仕事をお果たしください」
「うむ。さっきは気弱なことを言ってしまったな。俺とて、むざむざ森に朽ちる気持ちはないぞ。間違った掟の中で魂を返してしまった父や母の分まで、家人に喜びと希望を与えたく思っている」
そんな家長たちの言葉を聞きながら、ゼイ=スンとトゥール=スンは涙をこぼし続けた。
ゼイ=スンたちが本当の意味で悪夢から脱することがかなったのは、その日のその瞬間であったのかもしれなかった。
◇
そして――現在である。
雨季を迎えた赤の月、ディンの氏を与えられたゼイ=ディンとトゥール=ディンは、ディンの本家の寝所で寄り添い合っていた。
屋根を打つ雨の音を聞きながら、足もとにだけ毛布をかけて、壁にもたれて座している。すでに晩餐は済ませており、ふたりは寝る前の語らいの時を楽しんでいた。
トゥール=ディンは先の茶の月で12歳となり、ゼイ=ディンは31歳になっている。
トゥール=ディンもずいぶん背丈がのびてきていたが、今日はゼイ=ディンにぴったりと寄り添っていた。どうもトゥール=ディンは、雨季になるといっそう父親の温もりを求めるようなのである。
(もしかしたら……雨季に母親を失ったということを、魂が覚えているのかもしれんな)
そんな風に考えながら、ゼイ=ディンもトゥール=ディンの温もりに心を癒やされていた。
ゼイ=ディンの胸もとに頭をもたれたトゥール=ディンは、さきほどから熱心に語らっている。
「……それでね、オディフィアがワッチとアマンサの菓子を喜んでくれたの。生のままだと酸っぱくてあんまり好きじゃなかったのに、だいふくもちに入ってるワッチとアマンサはとても美味しいって」
「そうか。あの菓子は、本当に見事な出来栄えであったからな」
トゥール=ディンは嬉しそうに微笑みながら、ゼイ=ディンの胸に頭をこすりつけてきた。
まるで幼子のような甘えようであるが、トゥール=ディンはここしばらくで数々の大きな仕事を果たしてきたのである。城下町の晩餐会や北の集落の収穫祭で、菓子の準備の取り仕切り役を任されて、それを見事に果たしてみせたのだった。
また、3日に1度はオディフィアに菓子を届けているし、北の集落では料理の手ほどきを行っている。屋台の商売についても、ディンやリッドの女衆を率いて、もう数ヶ月ばかりは取り仕切り役を果たしていた。
まだスンの家を離れて2年も経ってはいないというのに、恐ろしいばかりの成長ぶりである。
そんなトゥール=ディンの成長こそが、ゼイ=ディンにとっては何よりの誇りであった。
「もうすぐ雨季の野菜を使えるようになるから、そうしたらトライプの菓子を作ってさしあげるの。1年ぶりだから、すごく楽しみだって……こう、灰色の瞳をきらきら輝かせてね。わたし、オディフィアの瞳が大好きなの」
そのように語るトゥール=ディンの青い瞳こそ、宝石のように輝いていた。
幼い頃と同じ輝きであり、そしてひとたびはゼイ=ディンが曇らせてしまった輝きだ。
もう2度と、あのような過ちは繰り返さない。
それがゼイ=ディンの、心に刻まれた誓約であった。
(俺は今度こそ、トゥールの幸福を守ってみせる。いずれトゥールが立派な男衆を伴侶に迎えるまで……森に朽ちることなく、トゥールの幸福を守り抜くのだ)
すると、熱心に語らっていたトゥール=ディンが、不思議そうにゼイ=ディンを見上げてきた。
「どうしたの、ゼイ父さん? なんだか、狩りに行くときみたいな目になってるけど……」
「いや。お前の行く末を思っていただけだ」
ゼイ=ディンが笑いかけると、トゥール=ディンも花が開くように微笑んだ。
母親とそっくりの、優しげでやわらかい笑顔である。
その笑顔こそが、ゼイ=ディンが長き暗がりの果てにつかみ取った幸福そのものであったのだった。