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異世界料理道  作者: EDA
第五十五章 群像演舞~六ノ巻~
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     長き暗がりの果てに(三)

2020.9/8 更新分 1/2

 そうして、3年の月日が過ぎた。

 状況は、何も変わっていない。スン家の秘密を抱えたまま、ゼイ=スンたちは諾々と日々を過ごしていた。


 ゼイ=スンの拠り所は、もはや狩人の修練とトゥール=スンの存在のみである。日が高い内は修練に明け暮れて、夜にはトゥール=スンと晩餐を食し、身を寄せ合って眠りにつく。それを繰り返すだけの日々であった。


 4歳となったトゥール=スンは、きわめて健やかに育っている。母親に似て物静かな気性ではあるが、その無垢なる笑顔はいつでもゼイ=スンを幸福な心地にさせてくれた。

 しかしまた、トゥール=スンを愛しく思えば思うほど、ゼイ=スンの心には暗い感情が鬱積されていく。

 トゥール=スンも齢を重ねれば、いずれスン家の秘密の重さを知ることになるのだ。5歳になれば祝宴に出ることも許されるようになるので、それまでにはすべてを打ち明けなければならなかったのだった。


(俺たちは、いつになったらこの秘密の掟から解放されるのだ? トゥールには……せめてトゥールにだけは、明るい行く末を示してやらねばならんのだ)


 そんな思いを抱えて、ゼイ=スンが煩悶していると、スンの集落ではまた婚儀の祝宴が開かれることになった。

 今回は、ダナから女衆を迎え入れるらしい。かつての失敗を踏まえて、婚儀では従順そうな女衆ばかりが迎えられるようになっていた。


 婚儀の祝宴は、祭祀堂の外で行われる。本家の前に儀式の火が焚かれて、結ばれるふたりを祝福しながら、ありったけの肉と野菜をぶちこんだ鍋をすすり、果樹酒をあおる。しかし祝宴では相手方の家人ばかりでなく、それぞれの眷族の家長と供をも迎えるので、秘密が露見してはならじと、スン家の人間は気が休まるいとまもなかった。


(あのダナの女衆は、スン家の秘密を受け入れられるだろうか……それとも秘密を受けいれられずに、魂を返すことになるのだろうか……)


 ゼイ=スンは鬱々とした思いで、そんな風に考えていた。

 すると足もとに、何か小さなものがぶつかってきた。驚いて目をやると、7、8歳の幼い少女が地面にへたり込んでいた。


「お前は……クルア=スンだったな。祝宴のさなかに、走り回るものではない」


 ゼイ=スンは手を差しのべてやったが、少女――クルア=スンは動こうとしなかった。

 最近の森辺では珍しい銀灰色の瞳で、ゼイ=スンの姿を見上げている。その顔が血の気を失っていることに気づいて、ゼイ=スンは眉をひそめた。


「いったい、どうしたのだ? 何かあったのなら、俺に言ってみろ」


「き……北の集落の男衆らが……お、幼子の集められている家に……」


 ゼイ=スンは、愕然と立ちすくむことになった。

 その場所には、トゥール=スンもいる。

 そして――5歳に満たない幼子たちは、まだ自分たちがどれほど重い秘密を抱えているのかも教えられていなかったのだった。


 ゼイ=スンはへたり込んだクルア=スンを顧みるいとまもなく、広場を駆け出した。

 幼子たちが集められているのは、本家からもっとも遠い分家の家だ。巨大な祭祀堂を回り込んで、そちらに駆けつけると――果たして、ギバの毛皮や頭骨をかぶっている魁偉な男衆らが、その場に立ち並んでいた。


 人数は、3名。こちらに背を向けて、家の戸板の前に立っている。

 その戸板が、半分ほど開かれていた。

 そこから顔を覗かせていたのは――トゥール=スンに他ならなかった。


 ゼイ=スンは何を考える余裕もなく、「おい!」と怒鳴りつけていた。

 男衆らが、うろんげに振り返る。その足もとで、トゥール=スンはきょとんと目を丸くしていた。


「どうした、血相を変えて? 俺たちが、何か不始末でも犯したか?」


 毛皮のかぶりものをした男衆が、うろんげに問うてくる。おそらくは、ザザの家長の供であろう。身体はゼイ=スンよりも大きいが、まだ若々しい顔をしている。


「いや……このような場所で、何をやっているのだ? 今は、祝宴のさなかだぞ?」


 心臓が激しく騒ぎたてるのを感じながら、ゼイ=スンは何とか平静な態度を取りつくろってみせた。

 ザザの男衆は顔をしかめたまま、その手の土瓶を胸もとに掲げる。


「言われずとも、スン家の恵みをありがたくいただいている。ただ気まぐれに、祭祀堂の周囲を巡っていただけのことだ。……そうしたら、この幼子が戸板から顔を覗かせていたのでな」


「……この家には、5歳に満たない幼子が集められている。まだ祝宴に加わる資格は与えられていない」


「うむ。だからこうして、祝宴の様子を覗き見ようと試みたのだろうな。が、祭祀堂が邪魔になって何も見えなかったというので、俺たちが祝宴の様子を話して聞かせてやっていたところだ」


 そこで、ザザの男衆の黒い瞳がぎらりと光った。


「それで? お前は何の文句があるというのだ? 俺たちを怒鳴りつけたからには、相応の理由があるのだろうな?」


「……その幼子は、俺の娘であるのだ」


 ゼイ=スンがそのように答えると、ザザの男衆は「ほう」と目を丸くした。

 それから、にやりとふてぶてしく笑う。


「つまりは、娘を案じてのことか。どれだけ血の気の多い俺たちでも、このような幼子に乱暴な真似を働くことはありえんぞ?」


「…………」


「しかしまあ、最近のスン家の狩人にしては、なかなかの気迫であった。その調子で、せいぜい族長を盛りたててやるがいい。……それではな」


 男衆らは、ゼイ=スンが駆けてきた道を辿って、祝宴の場に戻っていった。

 ゼイ=スンは、トゥール=スンを土間のほうに追いやってから、戸板を閉める。

 トゥール=スンはもじもじとしながら、ゼイ=スンを見上げてきた。


「あのね、ゼイとうさん……」


 ゼイ=スンは土間に膝をつき、トゥール=スンの両肩をつかんだ。


「あの者たちと、何の話をしていたのだ?」


「え? だから……しゅくえんのおはなし……」


「それだけか? 家のことを、何か聞かれたのではないのか?」


 すると、広間の奥から青ざめた顔をした女衆が近づいてきた。


「も、申し訳ありません。ついつい微睡んでしまっていました。外で何かあったのでしょうか……?」


 ゼイ=スンはトゥール=スンの肩をつかんだまま、そちらに怒鳴りつけてみせた。


「幼子の面倒を見るのが、お前の仕事であろうが!? お前は、スン家を滅ぼしたいのか? だったら広場で、好きなだけ真実を語ってやるがいい!」


 女衆はその場にくずおれて、広間の敷物に額をこすりつけた。

 他の幼子たちは広間の奥で身を寄せ合い、怯えた顔でゼイ=スンたちの様子をうかがっている。


「も、申し訳ありません……け、決してそのようなつもりでは……」


「お前がどのようなつもりでも、ひとつの間違いでスン家は滅ぶのだ! お前の子も、親も、血族のすべてが魂を返すことになるのだぞ! この……この、大馬鹿者め!」


 荒い息をつきながら、ゼイ=スンはトゥール=スンに向きなおった。

 ゼイ=スンのつかんだその小さな肩が、頼りなく震えている。

 そしてトゥール=スンは、その青い瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい、ゼイとうさん……トゥールが、わるいことをしたから……」


 繊細な気性をしたトゥール=スンが泣くことは、珍しくない。

 しかし、今のトゥール=スンは――ゼイ=スンに、怯えていた。涙に濡れたその瞳には、はっきりと恐怖の光が宿されていた。


 ゼイ=スンは頭を殴られたような衝撃を受けて、トゥール=スンの肩から手を離す。

 トゥール=スンはその場にしゃがみこみ、「ごめんなさい……」と繰り返した。


(俺は……何をやっているのだ?)


 大事な家族に手をかけて、相手の気持ちを思いやるゆとりもないままに、自分の不安を叩きつける。それはかつて、ゼイ=スンが父親代わりの家長にされた行いであった。

 あの日にゼイ=スンは、大事な何かをひとつなくしたのだ。

 きっとトゥール=スンも、大事な何かをなくしてしまったのだろう。

 小さな身体を震わせて泣きじゃくる幼い娘の姿を見下ろしながら、ゼイ=スンは自分の魂がどす黒い泥の中に沈み込んでいくのを感じた。


                    ◇


 それからトゥール=スンは、まったく笑わない子供になってしまった。

 ゼイ=スンの姿を見かけると、びくりと身体を震わせて、目をそらしてしまう。それぐらい、心をひどく傷つけられてしまったのだ。


 ゼイ=スンには、それをなだめる方法がわからなかった。

 もちろんあの夜に取り乱してしまったことは、なんべんも詫びている。しかし、4歳のトゥール=スンには理解が及ばなかったのだろう。最後にはトゥール=スンのほうが涙をこぼして、「ごめんなさい……」と泣き崩れてしまうので、あまり言葉を重ねることもかなわなかった。


(俺はけっきょく、自分の不安や恐怖を押し殺していただけであったのだ……それを、こんなに幼いトゥールにぶつけてしまったのだ……)


 やがてトゥール=スンは5歳となり、スン家の秘密を知る齢になった。

 そうしてゼイ=スンの口から真実が語られても、トゥール=スンは力なく目を伏せるばかりであった。


 5歳で虚言や隠し事を強要されるというのは、いったいどのような心情であるのだろう。

 それもまた、ゼイ=スンには理解できなかった。

 トゥール=スンのみならず、この数年で生まれた幼子たちは、生まれながらに秘密を抱え込むことになるのだ。秘密の中で生まれ、秘密の中で暮らし、そして――秘密の中で魂を返すことになるのだろうか。


 そうと意識して見てみると、他の家の幼子たちも、ほとんど笑顔を見せることはなかった。

 また、若い夫婦たちは子が生まれることを恐れるようになってしまっていた。

 そんなことにも、ゼイ=スンは気づいていなかったのだ。

 ゼイ=スンはスンの集落で生きながら、ずっと目や耳をふさいでいたのかもしれなかった。


(俺はきっと……ずっと自分を騙していたのだ。狩人の修練に打ち込んで、伴侶や娘の存在に取りすがりながら……まったく自分の罪と向き合っていなかったのだ)


 トゥール=スンが5歳になった頃、ゼイ=スンは24歳であった。

 自分の手で初めてギバを仕留めたあの日から、すでに9年もの日が過ぎていたのだ。


 その間に、自分を育ててくれた家長と伴侶は魂を返している。

 新たな家長となった長兄は伴侶を娶ったが、いまだ子を生していない。余所の分家に嫁いだ長姉はふたりの子を生したが、いずれも3歳を迎える前に《アムスホルンの息吹》で魂を返していた。

 末妹はすでに20歳となっていたが、病がちであるために、いまだ未婚の身であった。スン家にとっては家人を増やすことこそが命題であったが、それゆえに、弱い人間は顧みられなかった。決して口にはしなかったが、末妹は伴侶を娶らずに済むことをひそかに安堵している様子であった。


 また、眷族から嫁取りした女衆らも、あまり長く生きることはなかった。

 従順そうな娘ばかりを選んでいたので、かつてのザザの男衆のように逆上する人間はいなかったのだが――しかし、ほとんどの女衆は子を生す前に、魂を返してしまっていた。


 理由は、わからない。

 やはり、このような秘密の中で生きていくことに耐えられなかったのだろうか?

 狩人の仕事を果たしもせず、森の恵みを荒らしながら、口をつぐんでただ茫漠と生きていく――そんな生に、耐えられなかったのだろうか?


(……では、俺たちは何なのだ?)


 スン家の人間は、全員が秘密の掟を受け入れていた。

 9年の歳月が過ぎ去っても、秘密を破って処断された人間はひとりとして存在しなかったのだ。


(俺たちは苦悩しながらも、ザッツ=スンの言葉をあっさりと受け入れてしまっていた……そんなにも、ザッツ=スンが恐ろしかったのか? 俺たちには、森辺の民としての誇りが備わっていなかったのか?)


 あるいは――ザッツ=スンの言葉が正しいと、そのように信じてしまっていたのだろうか。

 今となっては、それもわからなかった。

 わかるのは、もうこの道を引き返すことはできないという、その厳然たる事実のみであった。


(秘密が露見すれば、あのように幼いトゥールまでもが魂を返すことになってしまう。それだけは、させてなるものか)


 この期に及んで、ゼイ=スンはまだ娘の存在にすがってしまっていた。

 たとえ娘と正しい絆を育むことができなくとも、その生命だけは守ってみせる――それだけが、ゼイ=スンの生きる意味になってしまっていた。


 狩人の修練も、いまだに続けている。しかしそれは、救いのない生から目をそらしているだけのことだった。自分が再び狩人として生きることはないのだろうと、ゼイ=スンはそのように確信していた。


 もはやスン家に、希望は残されていない。本家の人間を見れば、それは明らかであった。家長であり族長であるズーロ=スンを筆頭に、本家の者たちは仕事も修練も果たさずに怠惰な生活に埋没してしまっていた。


 長兄や次兄は自堕落に生きながら、立場の弱い相手をいたぶって楽しんでいた。それはまるで、死したミギィ=スンが取り憑いたかのような暴虐さであった。

 末弟はぶくぶくと肥え太り、末妹は銅貨にばかり執着し――家長の嫁であるオウラ=スンや、その父親であるテイ=スンは、死人のような目つきになっていた。


 また、死人のような目つきをしていたのは、分家の人間も同じことである。

 きっとゼイ=スンも、同じような目つきになってしまっているのだろう。

 宝石のように明るくきらめいていたトゥール=スンの瞳すら、ゼイ=スンの心ない仕打ちのために輝きを失ってしまっていたのだった。


 そんな中、長姉のヤミル=スンだけが毒々しいまでの生命力を発散させている。

 ヤミル=スンは、まったく得体が知れなかった。家人のテイ=スンを引き連れて、しょっちゅうスンの集落を離れているようだが、どこを徘徊しているのかもわからない。もしかしたらザッツ=スンの命令で、余所の集落や宿場町の様子などを見回っているのかもしれなかった。


 そう――ザッツ=スンもまた、魂を返すことなく、生き永らえていたのだ。

 その肉体は年々弱っているようだが、魂を返す気配は微塵もない。髪の毛のほとんどが抜け落ちて、骨と皮ばかりの姿に成り果てても、ザッツ=スンはその煮えたぎるような執念でもってスン家を支配していた。


(あのヤミル=スンであれば、ザッツ=スンの意志と執念を受け継ぐことができるのかもしれん。しかし、それは……スン家の希望と呼べるのか?)


 これだけの歳月を重ねても、スン家は悲願を果たせずにいる。

 北の一族を従えて、ルウ家を滅ぼしたのちに、すべての氏族を新たな掟に従わせる――そんな行く末が、本当にやってくるのだろうか?

 そしてそれは、トゥール=スンが健やかに生きていけるような行く末であるのだろうか?


 ゼイ=スンには、わからなかった。

 そして――さらに5年の歳月が過ぎた後、スン家は突如として滅びを迎えたのだった。

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