長き暗がりの果てに(二)
2020.9/7 更新分 1/1
・明日は2話同時更新です。
ディンの家から伴侶を娶って以来、ゼイ=スンはしばし心安らかな日々を過ごすことができた。
これは決して、自分の望んだ婚儀ではない。おそらくは、族長ザッツ=スンが彼女の抱いている思慕の情を見て取って、ゼイ=スンと婚儀をあげるように命じてきたのだろう。
しかしゼイ=スンは自分の心を偽ることなく、その女衆を愛することができた。
その女衆が微笑んでくれるだけで、ゼイ=スンの心にはまたとない喜びと幸福感が広がっていく。この感情に、疑念をさしはさむ余地は存在しなかった。
(まさかこのような形で、かけがえのない伴侶を娶ることができるとはな……)
スン家はいまだに、大きな秘密を抱えている。しかし、愛する伴侶さえかたわらにあってくれれば、どのような苦難でも乗り越えられるような気がした。
そして、婚儀をあげてから1年後には、さらなる幸福に見舞われることになった。
伴侶が、子を孕んだのだ。
ゼイ=スンは、自分ばかりがこのような幸福を授かっていいのだろうかと、そんな思いを抱くほどだった。父親代わりの家長とはほとんど口をきかないような状態に成り果ててしまっていたが、そんな苦悩を補って有り余るほどの幸福感であった。
そこに最初の暗雲がたちこめたのは、伴侶が子を孕んでから半年ほどが経った頃であった。
今度は別の分家の女衆が、ザザから婿を取ることになったのだ。
「ザザの勇猛なる狩人が、このような秘密を抱えることを肯んじるのでしょうか……?」
ずいぶんと大きくなってきた腹を撫でながら、伴侶はそんな風に言っていた。
ゼイ=スンは、ほとんど自分に言いきかせるような心地で「大丈夫だ」と答えてみせる。
「狩人といっても、ようやく一人前に認められた15歳の若衆という話だからな。族長ザッツ=スンが情理を尽くせば、それに逆らうことはあるまい」
「はい……そうだといいのですが……」
「大丈夫だ」と、ゼイ=スンは繰り返してみせた。
「そのように気に病むと、腹の子に障ってしまうぞ。何が起きようとも、お前のことは俺が守ってみせる。だから何も心配せず、お前は自分と子供のことだけを考えてくれ」
ゼイ=スンの言葉に、伴侶はようやく微笑んでくれた。
この笑顔を守るためであれば、どのような苦難でも退けてみせよう。ゼイ=スンは、そんな思いを新たにすることになった。
そうして、数日後――
ザザの狩人を婿に迎える婚儀の祝宴は、滞りなく果たされることになった。
祝宴が無事に終わったならば、眷族の人間はそれぞれの家に帰らされる。以前は祭祀堂で夜を明かすことが許されていたが、秘密の掟を打ち立てたのちは、それも禁じられることになったのだ。ひときわ家の遠いディンやリッドの者たちにしてみれば憤懣やるかたないところであろうが、彼らが族長ザッツ=スンに異議を申し立てることはなかった。
そうして眷族の者たちがスンの集落を出ていくのを見届けて、ゼイ=スンたちも家に戻る。
異変が生じたのは、それからしばらくののちのことであった。
伴侶とともに身を休めていたゼイ=スンの耳に、騒乱の気配が伝えられてきたのだ。
(……なんだ、今の声は?)
ゼイ=スンはすぐさま目を覚ましたが、伴侶は安らかな寝息をたてていた。
それを起こしてしまわないように気をつけながら、そっと寝所を忍び出ると、広間には燭台が灯されていた。
「ああ、ゼイ……今、何かおかしな声が聞こえなかったかい?」
それは、家長の伴侶であった。ゼイ=スンにとっては母親代わりの、大事な存在だ。
「うむ。そのように思って、俺も目を覚ましてしまったのだが……外で誰かが騒いだようだな」
「うん。それで、家長の姿が見えないんだよ。いつの間にか、寝所を出ていたみたいなのさ」
家長の伴侶は、ひどく怯えた顔つきになっていた。
もとは気丈な女衆であったのに、秘密の掟を言い渡されて以来、すっかり気が弱くなってしまったのだ。ゼイ=スンは、ずいぶんと肉の薄くなってしまったその肩に手を置いて、「大丈夫だ」と言ってみせた。
「ルウ家の連中が忍び込んできたのなら、このていどの騒ぎで済むはずがない。俺が様子を見てくるので、ここで待っていろ」
「ああ……ああ、頼んだよ、ゼイ……」
ゼイ=スンはそちらにうなずきかけてから、広間の壁に掛けられていた刀を取って、外に出た。
月の明るい夜であったので、燭台の準備は必要なかった。
それに、騒乱の出どころもすぐに判明した。無人であるはずの祭祀堂の入り口から、わずかに光がこぼれていたのだ。
ゼイ=スンは腰に差した刀の柄に指先を添えながら、巨大な祭祀堂に忍び寄っていく。
そうして入り口に垂らされた帳の隙間から、中の様子を覗き見ようとするなり、「何者か……?」という重々しい声音を投げつけられてきた。
これは、族長ザッツ=スンの声である。
ゼイ=スンは覚悟を固めて、帳の内へと踏み入った。
「失礼する。何かおかしな気配がしたので、様子を見に来たのだが――」
そこでゼイ=スンは、思わず言葉を呑み込むことになった。
祭祀堂に足を踏み入れるなり、強い血臭が感じられたのだ。
「いったい、何事だ? 誰か、手傷を負ってしまったのか?」
ゼイ=スンは、明かりの灯された祭壇のほうに近づいていった。
3名ほどの人間が祭壇の前に座し、もう3名ほどの人間がその周囲に立ち尽くしている。座しているのは族長ザッツ=スン、テイ=スン、ミギィ=スンで、立ち尽くしているのはいずれもスン家の男衆たちだ。
その場に駆け寄ったゼイ=スンは、さらなる驚愕に見舞われることになった。
立ち尽くす男衆らの足もとに、ふたりの人間の亡骸が転がされていたのだ。
その片方は、婿入りしたばかりのザザの男衆であり――もう片方は、ゼイ=スンを育ててくれた分家の家長であった。
家長は、腹から鮮血と臓物をこぼしている。
ザザの男衆などは全身が血まみれで、肌の色がわからないほどだ。
ふたりはすでに息絶えており、それぞれの手には刀が握られていた。
「なんだ、これは……まるで、ふたりが殺し合ったような有り様ではないか?」
惑乱して、ゼイ=スンはその場の男衆らを見回した。
しかし、男衆らは虚ろな目つきで立ち尽くすばかりである。
ゼイ=スンの言葉に答えたのは、果実酒の土瓶を掲げたミギィ=スンであった。
「まさしく、殺し合ったのだ。4名もの狩人に囲まれて、1名だけでも道連れにしてみせるとは……さすがはザザの狩人と褒めてやるべきなのであろうかな」
岩を彫ったように厳つい顔をしたミギィ=スンは、醜くせせら笑いながらそのように言いたてた。
「どういうことだ? どうして家長とこの男衆が、殺し合わなければならないのだ? ……いや、4名の狩人だと?」
「ああ。そこに立ち並んでいる者たちが、ザザの狩人の始末を受け持ったのだ。4名がかりでも手こずるなどとは、まったく不甲斐ない連中よ」
「意味がわからん。どうしてお前たちは、そのような真似をしたのだ?」
男衆らは、やはり答えようとしない。
すると、ザッツ=スンがのそりと立ち上がった。
暗がりの中で、黒い双眸が爛々と燃えている。
「このザザの狩人は、我々の掟に従うことを肯んじなかったのだ……よって、処断されることとなった……後の始末は頼んだぞ、ミギィ=スンよ」
「仰せのままに、偉大なる族長よ。……さ、そやつらをさっさと片付けろ。神聖なる祭祀堂に、血の臭いがこもってしまうわ」
ザッツ=スンは、後も見ずに祭祀堂を出ていった。
その姿が完全に消えてから、ミギィ=スンはいっそう醜悪に嘲笑する。
「ザザには強き血が宿されているのかもしれんが、こうまで頑迷では役に立たん。やはり、北の集落から婿を取ることは控えたほうがよさそうだな、テイ=スンよ?」
「…………」
「それにしても、15歳になったばかりの若衆に後れを取るなどとは……分家の家長にあるまじき失態よ。このように弱き人間を失っても、惜しむ気持ちにはまったくなれぬな」
「おい!」と、ゼイ=スンはミギィ=スンに詰め寄った。
「この家長は、俺を育ててくれた父親同然の存在だ! それを愚弄するつもりなら、黙ってはおらんぞ!」
「ほう? ならば、どうしようというのだ?」
ミギィ=スンの巨体に、どす黒い殺気があふれかえった。
それを知覚した瞬間、凄まじい衝撃がゼイ=スンの側頭部に弾け散る。獣のような敏捷さで起きあがったミギィ=スンに殴られたのだと理解したのは、地面に倒れ込んだのちのことであった。
「よせ、ミギィ=スン。今は、この者たちを弔うのが先であろう」
「ああ。森の端に、仲良く埋めてやるがいい。ザザの家には、狩りの仕事で魂を返したとでも伝える他なかろうな」
ミギィ=スンは高笑いをあげながら、祭祀堂を出ていった。
テイ=スンは、虚ろな眼差しでゼイ=スンを見下ろしてくる。
「お前も、弔いを手伝ってもらいたい。まずはふたりの亡骸を、森の端に運ぶのだ」
「家長を弔うならば……家人を呼んでこなくては……」
「不要だ。迂闊に火を焚けば、余所の氏族の者たちに気取られる恐れが生じる。秘密の内に、ふたりの亡骸を埋めるのだ」
ゼイ=スンは、心の中でまた何か重要なものが崩れさる音色を聞いたように感じた。
しかしこれは、族長ザッツ=スンの定めた掟に従う行いであるのだ。スンの人間が、それにあらがうすべはなかった。
(ギバではなく、同胞の刀で魂を返すことになるなんて……さぞかし無念なことであっただろう)
まだ温もりを残している家長の身体を抱えながら、ゼイ=スンはそのように考えた。
しかし、家長の死に顔は意外なほど安らかな表情をたたえていた。
それはまるで、長きに渡る苦難から解放されたことを喜んでいるかのようだった。
◇
家長が魂を返したのち、その伴侶も後を追うようにして魂を返してしまった。
もともと気が弱くなっていたところに愛する伴侶の死を告げられて、心のほうが先に参ってしまったのだろう。病魔によって熱を出すと、ほんの数日であっけなく力尽きてしまったのだった。
(こんな形で伴侶を失えば、それが当然だ。まだ婚儀をあげてから1年半ていどしか経っていない俺だって……そんな悲運に耐えることはかなわないだろう)
族長ザッツ=スンらの非情さを目の当たりにしたゼイ=スンは、いっそう暗鬱とした気持ちを抱え込むことになった。
もしもゼイ=スンの伴侶が秘密の掟を受け入れていなければ、その場で処断されていたのかもしれないのだ。そんな風に想像すると、胃の腑が焼けただれるような激情が駆け巡った。
(俺たちは本当に、正しい道を進んでいるのか? これから産まれてくる俺たちの子供は、いったいどのような心地で日々を生きることになってしまうのだ?)
そして、ゼイ=スンの苦悩に追い打ちをかけるかのような事態が訪れた。
族長ザッツ=スンが、病魔に倒れたというのだ。
ゼイ=スンは、何かとてつもない冗談でも聞かされたような心地であった。
(あのザッツ=スンが、病魔に倒れただと? なんの志も果たさぬままに、さっさと森に魂を返そうというつもりであるのか?)
ゼイ=スンの内には、不穏な炎が燃えあがることになった。
怒りとも悲嘆ともつかない、激情の炎である。ザッツ=スンも決して若くはなかったが、危険なギバ狩りを果たしていないのだから、まだまだ魂を返すような齢ではない。そして、このような掟でゼイ=スンたちを縛っておきながら、ひとりでさっさと魂を返してしまうというのは、とうてい許されない行いであるように思えてならなかった。
(どうせ族長の座は、腑抜けのズーロ=スンではなくミギィ=スンが受け継ぐのだろう。そうだとしても……俺たちの苦しみも見届けないまま、ひとりで楽になろうというのか?)
ゼイ=スンは、そんな風に考えていた。
そしてスンの集落には、同じ思いがふつふつと煮えたっているように感じられた。
そうしてさらに、変事はそれに留まらなかった。
ザッツ=スンが病魔に倒れた数日後、今度はミギィ=スンが魂を返すことになったのだ。
ミギィ=スンは何名かの男衆とともに、貴族から命じられた仕事を果たすのだと聞かされていた。そのさなかに、ギバに突き殺されてしまったのだという話であった。
「いったい、どうなっているのだ? 族長の座は、ミギィ=スンが受け継ぐんじゃなかったのか?」
「本家の長兄は、ズーロ=スンだ。普通に考えれば、もともとミギィ=スンではなくズーロ=スンが受け継ぐところだが……」
「しかし、ズーロ=スンなどに族長は務まるまい。さらに俺たちは、秘密の掟も守り抜かなければならないのだからな」
本家の人間の耳が及ばない場所では、そのように囁かれていた。
誰もが、大きな不安にとらわれている。そして、その不安の中にはかすかな期待が含まれていた。
あの腰抜けのズーロ=スンであれば、秘密の掟を打ち捨てて、もとの生活に戻るべきだと言い出すのではないか――そんな風に思えてならなかったのだ。
「いや、だけど、あいつは狩人の修練も積まずに、自堕落に生きている。あれでは狩人の仕事など果たせまい」
「しかし、あいつがザザやドムの連中と渡り合えると思えるか? 秘密が露見することを恐れれば、あるいは――」
そんな言葉を聞く限り、誰もが秘密の中で暮らすことに倦んでいるのは明白であった。
スン家の人間は、すでに4年近くも秘密の中で暮らしていたのだ。どれだけ修練を積んでもギバを狩るあてもなく、家長会議や祝宴のたびに、余所の氏族の目に怯えて暮らす――そんな生活が、幸福なわけはなかった。
「もちろんザッツ=スンには、大きな志があるのだろう。しかし、そのザッツ=スンが族長の座を退くなら――ルウ家を討ち倒すために、新たな手段を探すべきなのではないのか?」
「ああ。これだけの時間が過ぎても、スンの家人はほとんど増えていない。こんなやり方では、何年かけても力を蓄えることはできないのかもしれん」
そんな風聞が吹き荒れる中、すべての家人を祭祀堂に集めるように言い渡された。ミギィ=スンが魂を返してから、5日後のことである。
おそらくは、ズーロ=スンに族長の座を継がせるという話が為されるのだろう。分家の者たちは、誰もが大きな不安と期待を抱え込みながら、祭祀堂に身を寄せ合うことになった。
招集されたのは昼下がりであるが、窓のない祭祀堂は夜のように暗い。
燭台は、族長の座する祭壇の周囲にだけ灯されている。
しばらくして、本家の家人たちが祭祀堂に踏み入ってきた。
先頭は、やはりズーロ=スンである。つい先日に19歳となったゼイ=スンよりも10歳ほど年長で、本来であれば狩人としての風格にあふれて然りであるが、怠惰に肥え太ってしまっている。
次に続くは、長兄のディガ=スンと次兄のドッド=スンである。まだ10歳にも満たない彼らは幼子の装束を纏っており、いつでも怯えたような眼差しをしていた。
ズーロ=スンの伴侶であるオウラ=スンは、姿を現さない。おそらくは、末弟のミダ=スンと末妹のツヴァイ=スンが5歳にも満たない幼子であるため、家で面倒を見ているのであろう。
最後に、ザッツ=スンが現れた。
左右に控えているのは、しばらく前に本家の家人となったテイ=スンと、長姉のヤミル=スンである。
その姿に、ゼイ=スンは何がなし悪寒を覚えていた。
理由は、わからない。その3名が、ひどく不吉な空気を纏っているように感じられたのだ。
(なんだ、この感覚は……ザッツ=スンは、あれほど弱り果てているというのに……)
誰よりも魁偉な風貌をしていたザッツ=スンは、見る影もなく痩せ細ってしまっていた。髪も半分がた抜け落ちて、20歳ばかりも老け込んでしまったかのようである。
しかし――その双眸には、以前と変わらぬ黒い火のごとき眼光が灯されていた。
テイ=スンに支えられなければ倒れてしまいそうな様子であるのに、その痩身も気迫に満ちている。それはまるで、人間の皮をかぶった獣のごとき迫力であった。
「よくぞ集まったな、我が同胞よ……今日は、きわめて重要な話を聞いてもらいたい……」
祭壇の前に座したザッツ=スンは、くぐもった声音でそのように言いたてた。
真ん中の族長の席は、やはり空けられている。そのすぐ右側にザッツ=スンが、左側にズーロ=スンが座していた。
「我は病魔で身体が不自由となったため、ひとまず族長の座を退くこととなった……新たな族長は、本家の長兄たるズーロ=スンとする……ズーロ=スンよ、族長の席に座するがいい……」
「はい」と硬い声音で答えて、ズーロ=スンは真ん中の席に移動した。
そのたるんだ顔も、緊張に引きつっている。彼は誰よりも、かたわらの父親を恐れていたのだ。
「ズーロ=スンはまだ若く、狩人としての力も足りていない……その分は、スン家の家人が一丸となって支えるのだ……新たな族長たるズーロ=スンのもとで、今後も心正しく生きてもらいたく思う……」
まずは、尋常な挨拶である。
すると、分家の家長のひとりが意を決したように発言を求めた。
「ぞ、族長ズーロ=スンと先代族長ザッツ=スンにうかがいたい。我々は……これから、どのように生きていけばよいのだろうか?」
「ふむ……どのように、とは……?」
ズーロ=スンは黙して語らず、ザッツ=スンがその家長へとゆっくり向きなおる。
ぎらぎらと光る黒い双眸に見据えられて、分家の家長は身体を強張らせた。
「そ、それは……もちろん、かつて先代族長ザッツ=スンが打ち立てた、秘密の掟についてだ。族長の座がズーロ=スンに受け継がれるのならば……今後はズーロ=スンが、我々を導く存在になるのであろう?」
「むろん……であれば、それに答えるのは新しき族長たるズーロ=スンの役目であろうな……」
ザッツ=スンは痩せこけた顔でにたりと笑い、かたわらの息子を振り返った。
ズーロ=スンは頑なに正面を向いたまま、「う、うむ!」とうなずく。
「わ、我々は、今後も偉大なる先代族長ザッツ=スンの取り決めた掟のもとに、生きていく! そ、そのようなことは、わざわざ論じるまでもあるまい!」
薄暗い祭祀堂の中を、冷たい風のような気配が吹きすぎていった。
人々は、惑乱しきった面持ちで顔を見交わしている。ゼイ=スンと伴侶も、それは同様であった。
そんな中、ザッツ=スンのひび割れた笑い声が響き渡る。
「貴様たちの案ずる気持ちは、わからなくもない……この新たな族長ズーロ=スンに、血族を正しき道に導いていく力が備わっているのか……貴様たちは、それを案じているのであろう……?」
もちろん、答える者はいなかった。
ザッツ=スンは、愉快でたまらぬように顔を引き歪めている。
「しかし、案ずる必要はない……我の血は、正しく受け継がれておるのだ……たとえ我が族長の座から退こうとも、我の意志が消え去ることはない……」
と――ザッツ=スンの節くれだった指先が、さりげなくヤミル=スンの肩に置かれた。
当時のヤミル=スンは、まだ11歳の幼き少女である。同じ年頃の娘よりは大人びているものの、身体つきもほっそりとしており、どこにもおかしなところはない。
しかし、暗がりの中で目を凝らしたゼイ=スンは、思わず息を呑むことになった。
ザッツ=スンの隣に座したヤミル=スンの黒い瞳には、とうてい幼子とは思えないような眼光が灯されていたのだ。
何もかもを見透かしているかのような、鋭く理知的な眼差しである。
そしてヤミル=スンは、その美しい面に冷たい微笑をたたえていた。
それもまた、幼子には似つかわしからぬ冷酷な笑みであった。
かつてミギィ=スンは、本家の長姉であるヤミル=スンが15歳になるのを待って、婚儀をあげるのではないかと噂されていた。
分家の家長であるミギィ=スンが新たな族長となるには、本家の人間と血の縁を結ぶしかないのだから、それも不思議な話ではなかったのだが――
(ザッツ=スンは……ミギィ=スンを頼りにしていただけではなく、ヤミル=スンこそを自分の後継者と見定めていたのかもしれない)
ゼイ=スンは、自分の心に芽生えかけていた希望の光がすうっと消え去っていくのを感じた。
ザッツ=スンは、さらに不吉な声音を響かせる。
「それにしても……まさか今さら、そのような話が取り沙汰されようとはな……貴様たちは、何か勘違いをしているのではないか……?」
「か、勘違いとは?」
最初に声をあげた分家の家長が、頼りなく震えた声で反問する。
ザッツ=スンはその場にいる全員を見回すように視線を巡らせてから、言った。
「我々は、森辺の民として正しき力を取り戻すために、秘密の掟を打ち立てたのだ……4年もの歳月が過ぎたことにより、それを失念してしまったのであろうかな……?」
「い、いや、もちろんそれはわきまえているつもりだが……」
「であれば……先のような言葉が口をつくはずはなかろうに……」
ザッツ=スンの痩せこけた肉体が、ふいに倍ほども膨らんだかのようだった。
その迫力に、幼子や女衆らは悲鳴を呑み込んでいる。ゼイ=スンでさえ、刀も下げていない腰を思わずまさぐることになった。
「元来、森の恵みを荒らすことは、大きな禁忌である……しかし我々は、より大きな志のために、あえて禁忌を犯すことにした……それを途中で打ち捨てるというのは、決して許されぬ行いであるのだ……それでは貴様たちは、この4年に渡る歳月を消し去ることがかなうとでも考えているのであろうか……? 秘密は固く守られているが、母なる森はすべて見ている……そして貴様たち自身も、決してこの記憶を消し去ることはできぬ……今から秘密の掟を捨て去るということは、かつて頭の皮を剥がされるほどの大罪を犯していながら、すべての氏族の人間を欺き、何食わぬ顔で生きていく、ということであるのだ……そのように卑劣な行いが森辺の民として許されるかどうか、まずはそれを考えるべきであろうな……」
ザッツ=スンのくぐもった声音は、まるで煮詰めた毒草の煮汁のように、ゼイ=スンの心に染み入っていった。
「多少なりとも恥を知る人間であれば、そのような罪を抱えて生きていくことはできまい……しかも我々は、秘密を破らんとしたザザの男衆をこの手で殺めている……あの勇猛なる北の一族が、そのような真似を許すわけはないし……また、我々がそのような大罪を忘れ去ることもできまい……?」
「…………」
「我々は、この行いが正しいことであると、自らの在りようをもって証明せねばならぬのだ……森の恵みを荒らすという禁忌を犯してでも、大きな志を果たす……我々が罪を贖うには、もはやその道しか残されてはおらぬのだ……」
ザッツ=スンが口をつぐむと、祭祀堂には重い静寂が垂れこめた。
まるでこの場には生きている人間も存在しないかのような、それは虚無的な静寂であった。
そして――黒い瞳を冷たく光らせたヤミル=スンは、まるで毒蛇のような顔で微笑んでいたのだった。
◇
それからまた、数ヶ月後――町の人間が1年の区切りと考える紫と銀の月を過ぎて、雨季を目前とした茶の月である。
ゼイ=スンの伴侶は、ついに赤子を産み落とすことになった。
いくぶん身体は小さいが、とても元気な女児である。名前は、トゥール=スンと名付けることにした。
「あなたと同じ、青い瞳です……」
伴侶はそのように語っていたが、ゼイ=スンには愛しい伴侶に生き写しであるように感じられた。
しかしどちらにせよ、娘はゼイ=スンたちの希望そのものであった。
スン家には暗澹たる空気がたちこめているが、この娘だけは何としてでも守らなければならない。同じ家に住む他の家人たちはまったく頼りにならない存在に成り果ててしまっていたので、ゼイ=スンは我が身の力だけで愛する伴侶と娘を守り抜く覚悟であった。
それからしばらくは、まぎれもなく幸福な日々であったろうと思う。
秘密の掟に心を蝕まれながらも、伴侶と娘の笑顔さえ見れば、またとない力を得ることができる。大事な家族を守るためであれば、どのような苦難でも乗り越えてみせようと、そんな風に思うことができたのだ。
だが、そんな日々はわずか1年ていどで崩れ去ることになった。
トゥール=スンが1歳となって、すぐに迎えた赤の月――冷たい雨が降りそぼる、雨季のある日の夜、病魔に見舞われた伴侶が魂を返すことになってしまったのだ。
「申し訳ありません……どうやらわたしは、これまでであるようです……」
高熱を出して数日ばかりも寝込んでいた伴侶は、すっかり痩せ細ってしまっていた。
その指先を握りしめ、「馬鹿を言うな」とゼイ=スンは励みの言葉を絞り出してみせた。
「お前は、まだ若い。このような病魔に屈せず、生きるのだ。トゥールを置いて、森に魂を返してしまうつもりであるのか?」
「わたしはもとより、身体の強いほうではなかったので……でも、トゥールをこの世に残すことができたのですから……何も悔いる気持ちはありません……」
死相を浮かべた顔で、伴侶はこれまで通りのやわらかい微笑をたたえた。
「トゥールを、どうぞよろしくお願いいたします……どうかあの子に、幸せな生を……」
その言葉を最後に、伴侶は息を引き取った。
ゼイ=スンは奥歯が軋むほど噛みしめながら、草籠の中で寝かされていたトゥール=スンを抱きあげる。
「……トゥールよ、母に別れを告げるのだ」
ようやく1歳になったばかりのトゥール=スンは、宝石のようにきらめく青い瞳でゼイ=スンを見返すばかりであった。
その小さな身体を抱きしめながら、ゼイ=スンは声もなく泣き崩れることになった。