第一話 長き暗がりの果てに(一)
2020.9/6 更新分 1/1 ・9/8 誤字を修正
今からおよそ、16年ほど前――ゼイ=スンは、ついに自らの手でギバを仕留めて、一人前の狩人に認められることになった。
「やったな、ゼイ。見事な手腕であったぞ」
育ての親である分家の家長が、笑いを含んだ声で呼びかけてくる。
しかしゼイ=スンは、自分の中に脈動する血のうねりに息が詰まり、それに返事をすることもなかなかできなかった。
足もとには、鮮血にまぶれたギバが倒れ伏している。
ゼイ=スンよりも、遥かに重量を持つギバであろう。自分がそれを一刀のもとに斬り伏せたという事実が、信じ難いほどであった。
しかし確かに、ゼイ=スンが両手で握りしめた刀はギバの血に濡れており、それを斬り伏せたときの重い感触も手の平に残されている。
ゼイ=スンは、ついにこの手でギバを仕留めることがかなったのだ。
熱くたぎった腹の底から、歓喜の激情が噴きあがってくるかのようだった。
「呆けているいとまはないぞ、ゼイよ。すでに太陽は、大きく傾いている。あの日が沈む前に、毛皮を剥いで角と牙を収獲するのだ」
「う、うむ。わきまえている」
「俺たちは周囲を見張っておくので、お前が毛皮を剥げ。……その毛皮でこしらえた狩人の衣こそが、お前が一人前になったという証だ」
いつも厳しい家長の声が、また隠しようもない笑いの響きを帯びる。
それを得難く思いながら、ゼイ=スンはギバの始末に取りかかった。
当時のゼイ=スンは15歳になったばかりで、見習いの狩人として森に入ってから、ちょうど2年が過ぎたところであった。
おおよその狩人は、2年ていどで見習いの期間を終える。自分もまた、15歳になってすぐに狩人としての力を示せたことを、ゼイ=スンは何より嬉しく思っていた。
ゼイ=スンは、親を持たない身である。両親は、ゼイ=スンが幼い頃に魂を返してしまっていた。
まだ5歳にもなっていなかったゼイ=スンは、余所の分家に引き取られて、そこで今日まで育てられてきた。そうして10年ほどが過ぎた今日、ついに一人前の狩人として認められることになったのだ。
(これで俺も、本当の狩人だ。ルウ家の連中が攻め込んできたら、このギバのように斬り伏せてやる)
まだ温かいギバの肉体から分厚い毛皮を剥ぎ取りつつ、ゼイ=スンは新たな闘志をたぎらせた。
スン家とルウ家は、ゼイ=スンがごく幼い頃から悪縁を結んでしまっていたのだ。聞いたところによると、ルウ家がスン家にあらぬ疑いをなすりつけて、族長筋の座を譲るべしなどと言いたててきたらしい。
(確かにミギィ=スンは気性が荒いけれど、理由もなく余所の女衆を殺めるはずがない。そんな虚言を吐いてまで、族長筋の座を奪おうなどとは……許し難い痴れ者どもだ)
ゼイ=スンはふだん物静かに過ぎるなどと揶揄されていたが、今日ばかりはギバを仕留めた昂揚にとらわれてしまったようだった。
「どうだ、ゼイよ。助力が必要か?」
「いや、もう済んだ。足の肉ももいでいくべきか?」
「うむ。家にはまだこの前の肉が残されているはずだが……明日は、お前の祝いだしな。どうせなら、そのギバの肉をいただくとしよう」
ゼイ=スンの父親代わりである家長は、ゼイ=スン自身よりも嬉しそうな様子を垣間見せている。それがいっそう、ゼイ=スンに深い喜びを与えてくれた。
しかし――その喜びが、長く続くことはなかった。
毛皮に包んだ足肉を抱えて、スンの集落に帰りつくと、別の分家の家長であるテイ=スンが待ち受けていたのだった。
「おお、テイ=スン。これを見るがいい。ついにゼイが、自らの手でギバを仕留めてみせたのだ」
こちらの家長がそのように呼びかけても、テイ=スンは暗い面持ちで「うむ」とうなずくばかりであった。
「それは、めでたきことだ。……ところで、お前に話がある。本家のほうに出向いてもらいたい」
「なに? これからか? もう日が暮れる寸前ではないか」
「長きの時間は取らせん。すべての分家の家長を集めるべしと、族長ザッツ=スンが申し述べているのだ」
ザッツ=スンの名前を聞いて、家長は表情を引き締めた。
「ならば、是非もないな。……お前たちは、先に家に戻っていろ。晩餐は、少し待たせておけ」
そうして家長はテイ=スンとともに、暗がりの向こうへと消えていった。
ゼイ=スンは眉をひそめつつ、ともに森から戻ってきた家長の長兄を振り返る。
「こんな刻限に、どうしたのだろう? 何か厄介ごとだろうか?」
「さてな。集落は平穏そのもののようだし、俺たちが案ずる必要はあるまいよ」
長兄はそのように言っていたが、ゼイ=スンはいささか腑に落ちなかった。
しかしまあ、それは自分がギバを仕留めた件をないがしろにされて、面白くなかっただけなのかもしれない。ゼイ=スンは、狩人として卓越した力を持つテイ=スンを、ひそかに敬愛していたのだった。
(族長ザッツ=スンやミギィ=スンの力が際立ってしまっているために、皆はあまり気に止めていないようだが……テイ=スンだって、それに次ぐ力を持つ狩人であるはずだ)
なおかつテイ=スンは族長ザッツ=スンからの信頼も厚く、ジェノスの貴族から報償金を受け取る際などにも同行を果たしている。それでいて、気性は沈着であり、居丈高なところはひとつもない。ゼイ=スンは、そんなテイ=スンを見習いたいと、かねてより念じていたのだった。
(ミギィ=スンなどは、居丈高というも愚かしいほどの勇猛さだからな。あれでテイ=スンの半分も沈着であれば、こうまで疎んじられることもあるまいに)
そんな思いを胸に、ゼイ=スンは自らの暮らす家に戻った。
母屋には入らず、裏手のかまど小屋へと足を向ける。そちらの窓からは、芳しい香りとともに白い湯気がたちのぼっていた。
「おや、お帰り、ゼイ。毛皮と肉を運んできてくれたのかい?」
鉄鍋を煮込んでいた家長の伴侶が、笑顔で振り返ってくる。
ゼイ=スンは頬がゆるみそうになるのをこらえながら、「うむ」と応じてみせた。
「毛皮はあちらに干しておくので、肉をピコの葉に漬けてもらいたい。……このギバは、俺が仕留めたのだ」
「まあ、本当に! そいつはすごいじゃないか、ゼイ!」
一緒に働いていた長姉と末妹も、笑顔でこちらを振り返ってきた。次姉は病魔で魂を返していたので、これでこの家の家人はすべてである。
「すごいね、ゼイ! これであなたも、一人前だね!」
「もうちょっと早ければ、その肉を晩餐で使えたのにね! まあ、お祝いは明日になるから、別にいいか」
誰もが心から、ゼイ=スンを祝福してくれていた。たとえ血の繋がりは薄くとも、この家の者たちは分け隔てなくゼイ=スンを家族と認めてくれていたのだった。
(俺が狩人として恥ずるところのない力をつけることができたのも、皆のおかげだ。……ありがとう)
面と向かって口にするのは気恥ずかしかったので、ゼイ=スンは心の中でそのようにつぶやくことになった。
この瞬間までは、誰もが喜びにひたっていたのだ。
それが打ち崩されたのは、本家に呼ばれた家長が戻ってからのことだった。
「お前たちに、告げねばならぬことがある」
家の広間にあぐらをかいた家長が、青ざめた顔でそのように言いたてた。
晩餐の準備はすでに整えられているのに、それを食することさえ許さない。ひきつった顔の中でぎらぎらと両目ばかりを輝かせる家長は、まるで別人のようだった。
「しかしその前に、まずは誓うのだ。これから俺が語る言葉を、決して余所の氏族の人間に伝えてはならない。……たとえそれが、ザザやドムなどの眷族であってもだ」
「眷族にも? それでは、道理が通るまい」
長兄がそのように言い返すと、家長はいっそう激しく両目をぎらつかせた。
「それも確かに、森辺の道理だ。しかしこの夜、族長ザッツ=スンによって、新たな掟が定められた。この掟に背いた人間は、誰であっても魂を返して罪を贖うことになる。そして……それは本人のみならず、血を分けた家族にまで及ぶのだ」
そうして家長は、語り始めた。
スン家における、新たな掟――ギバ狩りの仕事を取りやめて、森の恵みで腹を満たすという、信じ難い掟についてである。
◇
それからしばらく、ゼイ=スンは地面から足が浮いているような心地で日々を過ごすことになった。
ギバを狩ることこそが最大の誇りであったはずであるのに、それを一夜にして禁じられることになってしまったのだ。
外界の者たちは、森辺の民を人間扱いしていない。このままでは、いずれ森辺の民が滅ぼされてしまうだろう。それを未然に防ぐために、森辺の民はひそかに力を蓄えなければならない――それが、族長ザッツ=スンからもたらされた言葉であった。昨日、晩餐を終えた後、スン家の家人は全員が祭祀堂に集められて、族長ザッツ=スンの言葉をじきじきに授かることになったのだった。
「そもそも森の恵みを収獲することを禁忌と定めたのは、ジェノスの貴族どもである……脆弱にして卑劣なるジェノスの貴族どもは、森辺の民の力を恐れる余りに、そのような取り決めを考えついたのだろう……しかし、ガゼの族長はその忌まわしき命令をはねのけることもできず、貴族どもの言いなりとなってしまった……そのために、森辺の民は本来の力を失い、小さき氏族においては飢えで苦しむ人間も少なくはない……我は森辺の族長として、かつての族長の過ちを正さねばならぬのだ……」
黒い双眸を爛々と燃やしながら、族長ザッツ=スンはそのように語らっていた。
「しかし現在、スン家はルウ家に平穏を脅かされている状態にある……我が新たな掟を打ち立てようとしても、それを理由にまた族長筋の座を簒奪せんと目論むに違いあるまい……また、スンの眷族たる北の狩人たちは、きわめて優れた力を持っている反面、思慮に欠けるきらいがある……森辺の古き掟に縛られたあやつらでは、我の言葉を正しく理解することも難しいに違いない……」
よってスン家は秘密の内に、これまで以上の力を蓄える。
そうして北の狩人たちを力ずくで従えられるまでに力が備わったら、ルウ家を滅ぼした上で、すべての氏族に新たな掟を守らせる。それでようやく森辺の民は、外界の如何なる存在にも屈しない力を手にすることができるだろう――というのが、族長ザッツ=スンの遠大なる計略であった。
(しかし、まさかギバ狩りを禁じられるなどとは……これが本当に、現実の出来事であるのか?)
ギバ狩りを禁じるのは、家人の生命を守るためであった。スン家には狩りと病魔で魂を返す人間が多かったため、まずはもっとも危険であるギバ狩りの仕事が取りやめられることになってしまったのだ。
これまで通りに罠だけは仕掛けて、それで捕らえたギバを食料とする。これまでは足肉だけで飢えを満たすことができていたのだから、胴体の肉をも喰らえば飢えることはあるまい――というのが、家長から伝えられた言葉であった。
なおかつ、集落のそばから森の恵みを収獲していけば、ギバの糧が失われるので、いっそうの安全を確保することができる。とにかく今は危険を回避して、力を蓄えることを最優先にするのだと命じられた。
(俺はせっかく、一人前の狩人に認められたところであったのにな……)
そのように考えると、ゼイ=スンの心には冷たい風が吹きすぎていくかのようだった。
ギバ狩りの仕事を禁じられるのだから、新たな狩人の衣などは必要ない。昨日持ち帰ったギバの毛皮は、そのまま宿場町に売り払われることになってしまったのだった。
「しかし俺たちは、ザザにもルウにも負けない力を身につけなければならないのだ。ギバ狩りの仕事を果たさずとも、修練を怠ることは許されん。母なる森に恥じぬよう、これまで以上の気持ちで修練に打ち込むがいい」
昨晩、家長は自分に言いきかせるように、そう言っていた。
もとより、族長に逆らうすべはないのだ。族長が示す正しき道を信じて突き進むというのもまた、森辺の掟であることに違いはなかった。
それに――族長ザッツ=スンに逆らえる人間など、スン家には存在しないことだろう。ただ狩人として優れた力を持っているというだけではなく、ザッツ=スンにはギバよりも恐ろしい野獣のごとき迫力が備わっていたのだった。
あの燃えるような黒い双眸を思い出しただけで、ゼイ=スンの背筋には冷たいものが走ってしまう。荒くれものとして知られるミギィ=スンとて、ザッツ=スンの前では幼子同然であったのだった。
(だからテイ=スンは、あのように暗い顔をしていたのだな。さしものテイ=スンでも、ザッツ=スンを説得することはかなわなかったということか)
ならば――と、ゼイ=スンは虚ろになりそうな心に情念を注ぎ込んだ。
(ならば俺は、ギバ狩りの仕事を果たさぬまま、誰よりも立派な狩人になってやる。いずれ目的を達成することがかなえば、また狩人として生きることが許されるはずなのだからな)
そうしてゼイ=スンは、その日から修練に打ち込むことになった。
罠の見回りや森の恵みの収獲などは、半日もかからずに終えることがかなうのだ。それ以外の時間は、すべて狩人の修練に捧げる。それ以外に、ゼイ=スンの内なる熱情を発散させるすべは存在しなかった。
(それにしても、すべての氏族からこのような秘密を守ることなど、本当に可能なのだろうか?)
ゼイ=スンはそのように考えたが、スン家の秘密が露見することはなかった。
そのために、ザッツ=スンはさまざまな計略を打ち立てていたのである。
まず、収穫祭はそれぞれ家の近い血族とのみ、ともに行われることになった。
これまでも、ひときわ家の遠いディンやリッドは独自に収穫祭を行っていたが、北の一族もダナもハヴィラも、それと同じ習わしに身を置くことになったのである。
そうすると、余所の人間がスン家に足を踏み入れるのは、家長会議と婚儀の祝宴のみとなる。
そういった日には、晩餐や宴料理を準備しなければならない。それは、罠で捕らえたギバの肉と、宿場町で買い求めた食材でまかなわれる。銅貨が足りなければ、報償金をつかえばいい。あとは家人さえ口をつぐんでいれば、決して秘密がもれることもなかったのだった。
そしてもう一点、新たに取り決められた掟がある。
それは、眷族に嫁や婿を出してはならないという内容であった。
たとえ相手が眷族であっても、スン家を離れてそちらの家人になってしまえば、何かのはずみで秘密をもらしてしまうかもしれない。そんな危険を防ぐための取り決めであった。
むろん、こちらが嫁や婿を迎える場合も、慎重に慎重を期するべきであろう。しばらくはスン家の内でのみ婚儀を繰り返して、一族の絆を深めるべしと、そのように通達されることになった。
そうして、1年が過ぎ、2年が過ぎ――ゼイ=スンが17歳となった頃である。
その日も修練に励んでいたゼイ=スンは、家に呼び出されて思いも寄らぬ言葉を聞かされることになった。
「ゼイよ。ディンから迎える女衆と、婚儀をあげてもらいたい」
ゼイ=スンは、思わず言葉を失ってしまった。
家長はどこか鬱屈した面持ちで、ゼイ=スンの顔を見ようともせず、淡々と語り継いでいく。
「婚儀の祝宴は、3日後に執り行われる。急な話だが、そのつもりでいてくれ」
「ちょ、ちょっと待ってほしい。その女衆は、いったい何者であるのだ? 俺はディンの女衆など、ほとんど見知ってもいないのだが……」
「相手は、ディン本家の末妹となる。お前は先日に、ディンとリッドの婚儀を祝うために、ディンの集落におもむいたろうが?」
それは確かに、その通りであった。婚儀の祝宴において、血族の家長は未婚の男女を供とする習わしがあるのだが、スンでは未婚の人間もずいぶん少なくなってきたため、ついにゼイ=スンがその役目を負うことになったのだ。
族長ザッツ=スンの供として余所の集落に出向くというのは、きわめて気の張る行いであった。しかもこちらは大きな秘密を抱える身であったため、祝宴を楽しむゆとりなど皆無である。このような役目を負わずに済むように、自分もさっさと婚儀をあげるべきか――と、ゼイ=スンもそんな風に考えていたところであったのだった。
「その夜に、ディンの女衆が俺を見初めたというのか? 俺はずっと族長のかたわらにあり、見知らぬ相手とはいっさい口をきいていないのだが」
家長はいっそう重苦しい面持ちになりながら、「いや」と首を横に振った。
「あちらはかろうじて、お前の姿を見覚えていたようだが……この際は、お前があちらを見初めたということにしてもらいたい」
「何なのだ、それは? さっきから、まったく意味がわからんぞ。もっとわかるように説明してもらいたい。そもそも、眷族から嫁を迎えるのは控えるようにと言い渡されていたはずだし――」
「……それが、族長ザッツ=スンの命令であるのだ」
重い溜め息とともに、家長はそんな言葉を吐き出した。
「スン家が新たな掟を打ち立ててから、早くも2年の歳月が流れたが……病魔で魂を返す人間が少なくなかったため、スン家の家人はほとんど増えていない。よって、早急に眷族から嫁や婿を取るように命じられた。これがその、最初の試みとなるのだ」
「では俺は、スン家の家人を増やすためだけに、顔も覚えていない女衆を伴侶にしなければならないわけか」
ゼイ=スンは発作的に、笑いそうになってしまった。
それが抑制されたのは、家長の目に浮かんだ苦悶の光を見て取ったためである。
「俺とて、お前には自分の選んだ相手と添い遂げてもらいたく思っている。しかし、俺の家で婚儀をあげていない男衆はお前だけであるし……族長に逆らうことは許されんのだ」
「族長に従うのは、森辺の掟だ。しかし、虚言を吐いて伴侶を娶るというのは、森辺の掟に背く行いなのではないのか?」
そう言って、ゼイ=スンは立ち上がろうとした。
「俺はもう17歳だし、2年前には自分の力でギバを狩っている。森辺において、子供と呼ばれる立場ではない」
「待て。お前は、何をするつもりだ?」
「族長と、じかに語らってくる。そうでもしない限り、納得することはできそうにない」
「よせ! やめるのだ!」
家長が両手で、ゼイ=スンの肩を押さえつけてきた。
骨が軋むほどの力を加えられて、ゼイ=スンは眉をひそめてみせる。
「何故だ? 俺は何か、おかしなことを言っているか?」
「何もおかしくはない。しかしそれは、森辺の古き習わしだ。我々は、族長の定めた新たな掟を守らなければならないのだ」
家長の双眸には、恐怖と惑乱の光が躍っていた。
ゼイ=スンは肩の痛みも忘れて、その眼光に見入ってしまう。
「俺たちは2年前、族長ザッツ=スンの言葉に従うと誓った。これもその、誓いのひとつであるのだ。決して破ることは許されんのだ」
「俺が婚儀を断ったら、この家で暮らす全員が魂を返すことになるとでもいうのか? そのような暴虐は、決して許されないはずだ」
「……お前は、ザッツ=スンとミギィ=スンの恐ろしさをわかっていない」
家長は、小さく肩を震わせていた。
あの、勇敢で厳格であった家長が、幼子のように身体を震わせているのだ。
ゼイ=スンは、自分の心から何か大事なものが抜け落ちていくのを感じた。
「……わかった。俺は、家長に従おう」
「本当か? 裏切りは、決して許されぬぞ?」
「……俺をここまで育んできたのは、この家で暮らす皆だ。それを危険にさらすような真似はしない」
ゼイ=スンはその内の感情を押し殺しながら、家長の指先をもぎ離した。
「それに、自分が見初めた相手に虚言を吐くよりは、見も知らぬ相手に虚言を吐くほうが、まだしも気は楽であろう。ディンの女衆には気の毒なばかりだが、俺などの伴侶に選ばれた運命を呪ってもらう他ない」
それだけ言って、ゼイ=スンは家を後にした。
胸の内には、空虚感だけが漂っている。実の父親のように敬愛していた家長のぶざまな姿を見せつけられて、怒る気力もわいてこなかった。
もはや家長には、家人であるゼイ=スンの心情を思いやるゆとりも残されていないのだ。
ゼイ=スンは、大切な相手に見捨てられたような心地であった。
もしもゼイ=スンが無力な幼子であったなら、身も世もなく泣き崩れていたことだろう。
しかしゼイ=スンは、17歳の狩人だ。ゼイ=スンは腹の底からせりあがってくる得体の知れない感覚をぐっと呑み下して、晴れ渡った青空をにらみつけることになった。
(どうせ俺には、好いた女衆も存在しない。虚言で手に入れる伴侶など、知ったことか。俺はこれからも、狩人の修練に取り組むだけだ)
当時のゼイ=スンは、そんな風に考えていたのだった。
◇
3日後――その女衆は、スン家にやってきた。
小柄で、いささか線の細い女衆である。年齢はゼイ=スンより1歳年少で、あまり丈夫そうには見えなかった。
ほとんど言葉も交わさぬ内に、婚儀の祝宴が粛然と執り行われる。その間、ゼイ=スンの心はずっと虚ろなままであった。儀式の火に照らし出される祝宴の様相も、すべてがまがいものであるようにしか思えなかった。
すべての祝宴を終えたのち、女衆は家に迎え入れられる。
部屋の数にはゆとりがあったので、ゼイ=スンもこれまでと同じ家で暮らし続けるように定められていた。この2年で、長兄は別の分家から嫁を娶っており、長姉もまた別の分家に嫁いでいたため、家人の数に変わりはなかった。
「親筋たるスン家に嫁入りすることがかない、心より光栄に思っています。どうぞこれから同じ家の家人として、よろしくお願いいたします」
宴衣装を纏ったまま、ディンの女衆――いや、ゼイ=スンの伴侶となった女衆は、深く頭を垂れていた。
家人たちは、曖昧な表情でその姿を見守っている。ゼイ=スンがこの娘を見初めたというのは虚言であると、誰もが察しているのだろう。末妹などは、たいそう気の毒そうな面持ちになってしまっていた。
「では、ゼイの部屋に迎え入れるがいい。……頼んだぞ、ゼイよ」
家長が思い詰めた眼差しで、そのように呼びかけてくる。
スン家の秘密の掟については、ゼイ=スンの口から語られることになっていたのだ。ゼイ=スンは無言でうなずき返してから、伴侶たる女衆を自分の部屋に案内した。
「さて……お前には、語っておかなければならない話がある」
戸板を閉めて、寝具の脇に腰を下ろすなり、ゼイ=スンはそのように言ってみせた。
女衆は、七色に輝く薄物の向こう側から、ゼイ=スンを見つめ返している。その澄みわたった眼差しに、さしものゼイ=スンも口ごもることになった。
「お、お前は俺の伴侶となり、今後はスンの氏を抱いて生きることになる。ならばスン家の人間として、この話を受け入れなければならないのだ」
「はい。どういったお話でありましょうか?」
ゼイ=スンは努めて感情を殺しながら、秘密の掟について語ってみせた。
それを聞く内に、女衆は驚愕の表情になっていく。しかし意外に、取り乱した様子を見せることはなかった。
「そんな……そんな秘密が、スン家には存在したのですね……ギバ狩りの仕事を取りやめて、森の恵みで飢えを満たしていようなどとは……わたしは、想像もしておりませんでした」
「そのようなことを想像できる人間はいまい。森の恵みを荒らしたならば、頭の皮を剥ぐというのが、本来の掟であるのだからな」
ゼイ=スンは、胸中に穏やかならぬ感情が満ちていくのを感じた。
「お前も明日からは、同じ大罪を犯すことになる。これが余所の氏族に露見したならば、スン家の人間は全員が魂を返すことになろう。……このような家に嫁いでしまって、さぞかし無念なことであろうな」
「無念……では、ありませんけれど……わたしはこれまで、森辺の行く末などに思いを馳せたこともございませんでした。そんなわたしでは、族長ザッツ=スンのお心を理解することも難しいので……いささかならず、恐ろしいように思えてしまいます」
そんな風に言ってから、女衆ははかなげに微笑んだ。
「でも……スン家においては、すべての家人がその新しき掟に身を置いているのですね?」
「当然だ。族長の言葉に逆らえば、魂を返すことになるのだからな」
「であれば、わたしもスン家の家人として、同じ苦難を背負いたく思います」
女衆は、まだひそやかに微笑んでいる。
その姿に、ゼイ=スンはいっそう心をかき乱されることになった。
「お前はそれで、不満はないのか? もはや実の家族にも、秘密を明かすことは許されぬのだぞ?」
「わたしはディンの家を出て、スンの家人となった身です。不満などを抱くことは許されませんでしょう」
「しかし……しかし、俺がお前を見初めたというのは、虚言であるのだ。お前はただ、家人を増やすためにスン家に招かれただけであるのだぞ?」
衝動的に、ゼイ=スンはそのように口走ってしまった。
しかし女衆は、まだ微笑んでいる。
「それは、承知しています。あなたはきっと、わたしのことなど見覚えていらっしゃらないのだろうと……そのように思っていました」
「ならば何故、嫁入りの話を断らなかったのだ?」
「スン家からの申し出を断ることなど、決して許されませんでしたし、それにわたしは……」
と、女衆は薄物の向こうで頬を赤らめた。
「……わたしは、あなたを見初めてしまっていたのです。あなた以外の男衆と婚儀をあげよという話であれば、わたしはまたとない苦しみに見舞われたかと思いますが……自分の想いを遂げることができるのですから、不満も後悔もありません」
「な……何を言っているのだ、お前は? 俺たちは、言葉のひとつも交わしてはいないはずだぞ?」
「はい。ですがわたしは先の祝宴で、ずっとあなたの姿を目で追っておりました。それでも目が合うことはなかったのですから、あなたがわたしを見初めることなどありえない……ならばこれは、きっと強いられた婚儀なのだろうと察することがかなったのです」
そう言って、女衆はわずかに身を寄せてきた。
「あなたのためなら、どのような秘密でも守りましょう。ですから……どうかわたしを、あなたの伴侶にしていただけませんか……?」