幕間 ~雨季の前に~
2020.8/31 更新分 1/1 ・9/6 誤字を修正
今回は、本編が6話で番外編が3話です。
北の集落の収穫祭を終えて、茶の月も終わりに近づくと、いよいよ雨季の到来が間近に迫ってきた。
日を重ねるごとに気温は下がっていき、豪快なスコールじみた驟雨がしとしととした小雨に変じていく。雨の勢いが弱まる代わりに、太陽の隠れる時間が増えるのだ。
ただし、そういった予兆を感じてから、本格的な雨季がやってくるまでには、数日ほどの猶予が存在する。気温が低下しても衣替えをするほどではなく、曇り空が増えてもそれほどの雨には見舞われない――そんな日々が5日や10日ほど続いてから、ようやく雨季の到来となるのだ。
積み荷を運ぶゲルドの使節団の本隊が、いよいよ明日にジェノスを出立することになったと告げられたのは、そうして雨季の予兆が表出してからすぐの頃――茶の月の29日のことであった。
「アスタ、および、森辺の方々、再会の日、願っています」
使節団の取りまとめ役である人物は、その日も宿場町の屋台を訪れて、そんな風に告げてくれた。
アルヴァッハと同じぐらい体格のいい、いまひとつ年齢のつかみにくい御仁である。おそらく彼は南の使節団における戦士長フォルタのような立ち位置になるのではないかと思われたが、まったく城下町に招かれる気配のないところを見ると、貴族ならぬ武官に過ぎないのだろう。それでいて、大事な積み荷の移送をアルヴァッハたちに一任されているのだから、全幅の信頼が置かれていることに疑いはなかった。
ともあれ、彼らのジェノス逗留はほとんど丸ひと月にも及んだのだ。その間、ずっと屋台のお客として迎えていた俺は、たいそう名残惜しい心地を味わわされることになった。
「道中は、どうかお気をつけて。またお会いできる日を楽しみにしています」
「はい。この任務、再び、受け持てること、東方神、祈ります」
ゲルドとジェノスは定期的な交易の約定を締結したので、数ヶ月に1度は誰かしらがジェノスを訪れることになるのだ。
それを得難く思いながら、俺は使節団の人々と別れの挨拶をすることになった。
「では、プラティカたちが森辺に逗留するのも、これでひとまず終了ということですね。なんだか、物寂しく思います」
屋台の商売の後、俺がそのように呼びかけると、プラティカは紫色の瞳でじっと見つめ返してきた。
「私、世話、かけてばかりでした。お気遣い、不要です」
「いえいえ、本心から言っているのですよ。プラティカやニコラと一緒に働くのは、俺にとっても大変勉強になりました」
アルヴァッハやプラティカたちは、これから20日以内にジェノスを出立することになる。荷車を引かせるとひと月がかりの道行きも、トトスにまたがって駆けさせれば10日ほどに短縮することがかなうのだ。もちろん本隊に先んじて帰郷をしても何の問題もないのであろうが、アルヴァッハは1日でも長くジェノスに逗留したいという旨を表明していた。
ただし、寝床の代わりにしていた荷車がなくなってしまえば、プラティカとニコラが森辺に逗留する手段も失われてしまう。プラティカはたいそう無念そうにしていたが、それでもファやルウの家に宿泊させてほしいと言いだすことはなかった。
「今日まで、習い覚えたこと、城下町にて、実践いたします。その際、味見、お願いいたします」
「ええ。まずは3日後の、返礼の祝宴ですね。プラティカの料理を楽しみにしています」
ということで、俺はプラティカやニコラとも、ひとまずお別れの挨拶をすることになった。
次に会うのは、城下町で行われる返礼の祝宴である。ジェノスで歓待されていたアルヴァッハたちが、その返礼のために祝宴を開く。俺たち森辺のかまど番は、またもやその日の厨を取り仕切るように依頼を受けていたのだった。
(なんだかんだで、茶の月も慌ただしかったけど……これでひと段落って感じだな)
3日後に大きな祝宴を控えながら、俺はそんな風に考えていた。
薄墨色に染まった空が、俺を感傷的にさせているのだろうか。雨季の間は屋台の売れ行きもがくんと下がってしまうため、そういった思いもいっそう募るのかもしれなかった。
ただ俺は、胸の奥底に弾むような気持ちも潜ませていた。
それは先日の収穫祭において、ついにディック=ドムとモルン=ルティムの婚儀が取り決められたためである。
折しも雨季がやってくるため、婚儀そのものはふた月後となってしまう。
しかし、長い雨季の後にそのような一大イベントが待ちかまえているとなれば、心も弾もうというものであった。
また、同じ頃にはシフォン=チェルが南の王都から戻る予定となっている。
さらには、第二子を懐妊したサティ・レイ=ルウの出産予定日も、ちょうどその頃と見込まれていたのだった。
(それに、赤の月の10日はアイ=ファの生誕の日だもんな。雨季の間だって、退屈しているいとまはなさそうだ)
そんな風に考えたところで、屋台の片付けも終了した。
それでは、いざ帰還――といったタイミングで、大小の人影がこちらに近づいてくる。俺たちの姿を見て、その片方が悲嘆の声をほとばしらせた。
「ああ、ほら、やっぱり屋台が終わっちまってるよお。だからもっと急げって言っただろお?」
「やかましいわ。荷車が故障したのは、誰のせいでもなかろうが?」
およそふた月ぶりに聞く、懐かしい両者の声である。
俺は笑顔で「おひさしぶりです」と挨拶をしてみせた。
「そろそろジェノスにいらっしゃる頃合いと思っていました。でも、こんなに遅い到着になるのは珍しいですね?」
「ふん。街道の真ん中で、荷車が故障してしまったのだ。日が暮れる前に到着できて、幸いだ」
それは、ミソの行商人たるデルスと護衛役のワッズであった。
彼らは隔月でジェノスを訪れることになっていたので、そろそろ来訪する時期であったのだ。
「それに、お前さんがたと出会えたのも、幸いだな。城下町に出向く前に、あれこれ話を聞いておきたかったのだ。この後、時間をもらえるか?」
「そうですね。この後は、いちおうファの家で勉強会を行う予定になっているのですが……なんだったら、森辺までご一緒しますか?」
「それはけっこうな話だが、こちらはまだ荷を下ろしていないので、荷車を使えんのだ。大事な荷物を積んだまま、あちこち動き回りたくはないのでな」
すると、どこからともなくリミ=ルウがぴょこりと姿を現した。
「だったら今日は、ルウの家で夜を明かせば? あなたたちが来てくれたら、ジバ婆は喜ぶと思うよー!」
「それもけっこうな話だが、あまりにいきなりの申し出ではないか?」
「ドンダ父さんが駄目って言ったら、リミが荷車で送ってあげるよー! たぶん駄目とは言わないと思うしねー!」
ということで、とりあえず俺たちはともに森辺を目指すことになった。
ワッズが空腹だと騒ぐので、行き道で宿屋の屋台村を紹介する。そこで働いているナウディスに、デルスは気安く「よお」と声をかけた。
「ちょうどついさっき、お前さんの宿に荷車を預けてきたところだ。またしばらく世話になるぞ」
「はいはい、毎度のご利用ありがとうございます。今日はずいぶん遅くの到着でありましたな」
「道端の石を踏んで、荷車の車輪が割れちまったのさ。西方神に歓迎されていないのかと、肝を冷やしちまったぜ」
そんな挨拶を交わしながら、デルスとワッズは屋台の料理を購入した。
まだいくぶん悄然としていたワッズは、その料理を口にするなり「おお」と目を輝かせる。
「なんだか、復活祭のときより腕が上がったみたいだなあ。森辺の屋台と遜色のない出来栄えじゃねえかあ」
「それは最大の賛辞でありますな。よろしければ、明日からもごひいきに」
デルスとワッズは別の屋台でも手づかみで食べられる料理を2点ほど購入し、その場を離れることになった。
そうして再び街道を歩きながら、ワッズは「んがあ」と奇妙な声をあげる。
「こっちの料理は上出来だけど、こっちの料理はいまひとつだなあ。銅貨を無駄にしちまったぜえ」
「いちいちやかましいやつだな。ギバの料理を口にできたのだから、文句を抜かすな」
「ギバの料理だからこそだろお? あんなに美味いギバ肉を、こんな粗末な料理にしちまうなんて、もったいねえ話だよお」
俺も屋台村のすべての料理を味わったわけではないが、その調理レベルに大きな隔たりが存在することは、プラティカやニコラから聞き及んでいた。彼女たちは今日の今日まで、毎日のように屋台の料理を買い求めていたのである。
「やっぱり明日からは、アスタたちの屋台で料理を買おうぜえ? ジェノスまで来て、粗末な料理に銅貨を払いたくねえよお」
「わかったから、少し黙っとれ。俺は、アスタと話があるのだ」
「あ、少々お待ちくださいね。まずは、屋台を返却してきます」
ワッズのぼやきを拝聴している間に、《キミュスの尻尾亭》が目前に迫っていた。
レビに頼んで屋台を倉庫に収納してもらい、別れの挨拶を交わしたのちに、いざ森辺に出発である。デルスは何やら腰を据えて話したがっているようなので、ギルルの手綱はユン=スドラに預かってもらうことにした。
「聞きたいことというのは、他でもない。ゲルドの連中との商売は、上手くまとまったのか?」
荷車が発進するなり、デルスはそのように言いたててきた。
その質問を予期していた俺は、「はい」とうなずいてみせる。
「ちょうど明日、ゲルドの使節団の本隊がジェノスを出立するところですよ。荷車には、ミソもタウ油もどっさり詰め込まれているはずです」
「そうか。俺の準備したミソとタウ油が、東の民にかっさらわれてしまったわけだな」
デルスが口をへの字にすると、隣のワッズが陽気に笑った。
「それで稼ぎがあがるんなら、けっこうなことじゃねえかあ? 誰の口に入ろうとも、銅貨の重さが変わるわけじゃねえだろお?」
「ふん。ゲルドの連中と商売をしたのは、ジェノスの連中なのだからな。俺はシムの丸っこい銅貨なんぞ受け取るつもりはないぞ」
「それは大丈夫です。基本的に、ジェノスとゲルドは商品同士で取り引きをしていますからね。銅貨や銀貨のやりとりはほとんどないはずです」
笑いながら、俺もそのように答えておくことにした。
ゲルドとの交易が締結された以上、デルスの稼ぎは飛躍的に向上するはずであるのだ。デルスは苦い顔をしていたが、そこに深刻な色は見受けられなかった。
(デルスたちだって、復活祭の期間は《銀の壺》の人たちと交流を深めてたもんな。それでもまあ、東の民に気安く甘い顔は見せられないんだろう)
俺がそんな風に考えていると、デルスが底光りする目でこちらをねめつけてきた。
「ところで、トゥランという場所で働かされていた北の民たちについてだが――」
「ああ、そちらも無事に話がまとまりました。つい先日、南の王都の方々が迎えに来られたのですよ」
「知っている」と、デルスは言い捨てた。
俺は「え?」と小首を傾げてみせる。
「どうしてデルスが、そのことをご存じなのですか? ……ああ、もしかして、道中でその一団と行きあったのでしょうか?」
「ああ。あんな行列を見逃すはずがあるまいよ。行く先々でも、たいそうな評判になっていたからな」
そう言って、デルスは肉厚の肩をすくめた。
「だいたい、俺の畑でも奉公人を引き受ける段取りになっておるのだ。この時期に使節団がジェノスに向かうという話は、事前に聞かされていた」
「ああ、そうだったのですか。北の民であった方々がデルスのもとで働くことになるなんて、なんだか感慨深いです」
「神を移せば、南の民だ。感慨もへったくれもあるまい。……それよりも、北の民たちは滞りなく引き取られていったのか?」
「はい。1名だけ、貴族の侍女としてジェノスに戻ることになりましたが、それ以外は事前の取り決め通りに話がまとまったと聞いています」
「そうか」と、デルスは大きな鼻から息を噴いた。
この一件の真なる発起人は、誰あろうデルスなのである。言葉の内容とは裏腹に、デルスこそが誰よりも大きな感慨を噛みしめているはずであった。
「使節団の方々も、ミソに関しては大きな関心を寄せておられましたよ。もしかしたら、南の王都でも買いつけたいという話が持ち上がるかもしれませんね」
「なに? どうしてお前さんが、そんな話を聞き及んでいるのだ?」
「ああ、実は使節団の方々を歓待する晩餐会の厨をお預かりすることになったのです」
「……南の王都の連中に、お前さんが料理を出したというのか」
デルスは呆れたような声をあげ、ワッズは「へえ」と笑み崩れた。
「ついに南の貴族まで、アスタの料理を口にすることになったのかあ。まあ、アスタたちの腕だったら、文句を言われることもねえんだろうなあ」
「はい。幸いなことに、喜んでいただけたようでした」
「……本当か?」と、デルスは立派な眉をひそめた。
「南の人間は、気性が荒い。その上、貴族は気位が高いからな。ろくでもない貴族に難癖をつけられることはなかったのか?」
「はい。使節団の方々は、みんな好ましい人柄でありましたよ」
そういえば、デルスはかつて南の王都で貴族と悶着を起こしたため、ミソを売る相手をジェノスに求めたという話であったのだった。
デルスは「うーむ」とうなりながら、大きな鼻をひとこすりする。
「まあ、北の民を引き取るという話も落着したのだから、今後は顔をあわせる機会もないか。ジェノスには、そうそう南の貴族が訪れることもなかったはずだな?」
「どうなのでしょう? そこのところは、俺にもよくわかりません。……ただ、ジェノスは南の王都とも交易を開始するかもしれないので、その際にはまた貴族のお人が使節団を率いるのかもしれませんね」
「なに?」と、デルスは目を剥いた。
「南の王都からジェノスまでは、ひと月がかりではないか。そんな遠方の領地と交易を始めようというのか?」
「はい。それよりも遠い西の王都やゲルドとも、ジェノスは交易しているわけですからね。べつだん、不思議はないのではないでしょうか?」
デルスは再び、「うーむ」とうなった。
「では、次にやってくる貴族が、あまり厄介な人間でないように祈っておくことだな。南の貴族は、西の貴族のようになよやかではないぞ?」
「そうですか。ご忠告、ありがとうございます」
話がそこまで及んだところで、荷車はルウの集落に到着した。
まずはリミ=ルウが、本家にぴゅーっと駆けていく。30秒と待たずして、その小さな姿は広場の入り口まで舞い戻ってきた。
「きっと大丈夫だって、ミーア・レイ母さんが言ってたよー! ドンダ父さんが帰ってくるまで約束はできないけど、夕刻にまた来てほしいってさー!」
「承知した。ミーア・レイ=ルウに、感謝すると伝えておいてくれ」
ということで、デルスたちはいったんファの家に向かうことになった。夜はルウ家でお世話をしてもらえるなら、それまでは俺がもてなそうという判断である。
「傀儡使いのリコたちも、まだジャガルを巡っているようなのですよね。そちらとはお会いしませんでしたか?」
「ふん。あいつらは、ネルウィアに向かったのであろうが? ネルウィアとコルネリアでは方角が違うから、そうそう顔をあわせることもあるまい」
「ああ、だけどデルスの兄貴がどんな傀儡に仕立てられたのか、ちっと拝んでみてえもんだなあ。あんな劇に登場できるなんて、すげえことだよお」
およそ2ヶ月ぶりの再会ということで、話題はなかなか尽きなかった。
同乗していた他のメンバーも、興味深そうに俺たちの話を聞いている。復活祭の期間には、彼女たちもデルスたちとぞんぶんに交流を深めることがかなったのだ。
ただ1名だけ、デルスたちと初対面になる人間が存在した。
その人物は、本日の勉強会に参加するために、ファの家のかまど小屋にて待ち受けていた。
「みなさん、お疲れ様でした。本日も、どうぞよろしくお願いいたします」
普段通りの礼儀正しさで、彼女は深く頭を下げてきた。
その姿に、ワッズが「ほええ」と声をあげる。
「こりゃまた、別嬪じゃねえかあ。……あ、別嬪って言葉もまずかったんだっけかあ? ひさびさなもんで、悪かったなあ」
外見上は強面であるワッズが陽気に謝ると、その人物は「いえ」と微笑みを返す。彼らと初対面になるその人物は、もっとも新参であるクルア=スンであった。
美麗な容姿とひそやかな雰囲気をあわせもつ、森辺でもちょっと珍しいタイプの女衆である。浮かれるワッズのかたわらで、デルスは軽く眉をひそめていた。
「なんだか、東の民めいた娘だな。……いや、俺も東の娘なんざ、ろくに見たことはないのだがな。悪気はないんで、聞き流してくれ」
「はい。わたしも東の女衆は存じませんが、あなたのお言葉から悪念を感じることはありませんでした。どうぞお気になさらないでください」
銀灰色の瞳を静かに光らせながら、クルア=スンはそう言った。
そういえば、彼女はまだアリシュナとも対面していないのである。最近はアリシュナも忙しいのか、すっかり屋台に姿を現さないようになってしまっていた。
「それじゃあ、勉強会を始めようか。デルスたちは、よかったら味見をお願いいたします。ミソやタウ油と引き換えに買いつけたゲルドの食材を、ひと足先に味わうことができますよ」
「へえ。そいつはまだ宿場町に出回ってねえのかあ?」
「はい。ようやく値段が定まったところなのですが、まずは使い方を手ほどきしなければなりませんからね。城下町では、数日前から販売が開始されたそうです」
といっても、そちらでも買いつけているのは料理店や貴族お抱えの料理人ばかりであるのだろう。宿場町においては、また俺やヤンが取り扱いの講師をつとめる予定になっていた。
何はともあれ、俺たちは勉強会の準備をする。
そうして段取りが整うと、いつでも元気なレイ=マトゥアが発言した。
「これから祝宴の日までは、宴料理のおさらいをさせていただけるのですよね? 今日はどの料理の修練をするのでしょうか?」
「そうだなあ。生きた魚を使う料理は修練できないから、ギバ肉を使って似たような料理を作ってみようか」
すると、入り口の付近に待機していたデルスが、うろんげに声をあげた。
「何か、祝宴が迫っているのか? 多忙な折に押しかけてしまって、悪かったな」
「いえいえ。ひと通りの手ほどきは済んでいますので、とりたてて忙しいわけではありません。ゲルドの食材が届けられて以来、ずっとこんな感じですしね」
「お前さんたちにとっては、忙しいのが当たり前ということか。……今度はどういった祝宴であるのだ?」
「3日後に、ゲルドの方々が返礼の祝宴というものを開くので、その厨をお預かりすることになりました」
それでまた、デルスは呆れかえることになった。
「では、またもやゲルドの貴族の依頼で、宴料理をこしらえるわけか。本当に、お前さんがたは相変わらずだな」
「ははあ。ついこの間は、ジャガルの貴族のために宴料理を作ったってんだろお? 南と東の貴族の両方に料理を出す人間なんて、ジェノスぐらいにしかいねえんだろうなあ」
相棒のワッズは、あくまで屈託がない。
しばらくして、宴料理の試作品が完成すると、両名は大きな驚きの表情とともに賞賛の思いを表明してくれた。
「なんだか、面白え料理ばっかりだなあ。さすがは、シムの食材だあ」
「はい。シムばかりでなく、こちらの果実なんかはマヒュドラの食材でありますよ」
「マヒュドラかあ。雪だの氷だの、俺たちにとっては御伽噺でしか見聞きすることはねえから、どんな場所なのか想像もつかねえなあ」
「ふん。そんなものは、お目にかかれなくて幸いだ。先祖返りの血が疼くなら、雪山を目指してトトスを駆けさせるがいい」
仏頂面を保持しつつ、デルスはぎょろりとした目を鋭く光らせている。
「……ゲルドの交易の責任者は、たいそうな美食家だとかいう話だったな?」
「はい。その御方も、ミソやタウ油には深く感銘を受けていました。実のところ、王都の方々に交易のお許しを得るのにも、その御方の尽力があったのですよ」
「ふん。これらの料理にだって、ジャガルの食材が不可欠なのだろうからな。食い意地の張った人間ならば、必死になるのが当然であろうよ」
そんな風に語りながら、デルスもこれらの料理の出来栄えに満足している様子であった。
これらはゲルドから買いつけた食材とジャガルから買いつけた食材が両方そろって、初めて作りあげることのかなう料理であるのだ。なおかつそこにはマヒュドラの食材までもが含まれているため、四大王国の恵みが網羅されているのだった。
「まあ、こちらはきちんと代価をいただければ、文句を言う筋合いでもない。……大きな取り引きが台無しになってしまわないように、せいぜいもてなしてやることだな」
「はい。そのつもりです」
そうして時ならぬ客人を迎えた本日の勉強会も、和やかに過ぎていったのだった。
◇
そして、夜である。
ゲルドの使節団が明日出立するという旨を報告すると、アイ=ファは「そうか」と息をついた。
「では、プラティカとニコラを森辺に招くことも、今後はなくなるということだな」
「うん。祝宴でもあれば、また話は違ったのかもしれないけど……雨季に祝宴を開く氏族はないからな。たぶん、昨日が最後の逗留ってことになるんだろうと思うよ」
俺の返答に、アイ=ファはまた「そうか」と息をつく。
どことなく、不明瞭な表情である。
「どうしたんだ? もしかしたら、プラティカたちとお別れするのが残念なのかな?」
「残念というか……何か、中途半端な心地でな」
そう言って、アイ=ファは3日後にも供される予定であるギバ肉料理を豪快にかじり取った。
「あやつらは、ひと月の内の半分ほどを、このファの家で過ごしたことになるのであろう。それほどの滞在を客人に許したのは初めてであるはずなのに、なんというか……それほど確かな絆は結べなかったように思う」
ティアは状況が特殊であったため、客人にはカウントされないのだろう。
そんな風に考えながら、俺は「なるほど」と応じてみせる。
「だけどまあ、アイ=ファがふたりと顔をあわせていたのは、晩餐と朝方だけだもんな。寝床も別々だったわけだし、そういった部分が物足りなく感じられちゃうのかな?」
「べつだん、寝床をともにしたかったわけではない。あやつらがこちらの迷惑にならぬようにと荷車を準備したことは、得難く思っている。ただ……」
「ただ?」
「……ただ、プラティカが故郷に戻ったならば、このまま2度と顔をあわさないという公算が高い。それが、奇妙な心地であるのだ」
「奇妙というと? それも、残念という気持ちとは異なるのかな?」
俺のしつこい追及に、アイ=ファは唇をとがらせた。
「何なのだ? そうまで執拗に言葉を重ねるような話ではあるまい」
「いや、アイ=ファとプラティカはけっこう相性がいいように思っていたからさ。そんなプラティカに何か思うところがあるなら、聞いておきたいなと思ったんだよ」
するとアイ=ファは木皿を置いて、沈思のかまえになってしまった。
アイ=ファ自身も、自分の不明瞭な気持ちを見定めたいと考えたのかもしれない。アイ=ファが食事を中断するというのは、なかなかない話であるのだ。
「そうだな……むろん私も、あやつを憎からず思っている。いささかならず未熟な面はあろうが、あやつの覚悟や誇りというものは、森辺の狩人にも劣らぬように思うのだ。しかし私は、あやつのことを半分も知らないような気がするし……また、自分のことも知られていないように思う。それが、中途半端という言葉を導きだしたのやもしれん」
「ふむふむ。まあ、たったひと月でそこまで気心が知れることはないだろうな。昼の間も一緒に過ごしていた俺だって、それは同じことだろうと思うよ」
「うむ。城下町で暮らすニコラとは、今後も絆を深める機会が得られよう。また、アルヴァッハやナナクエムとて、いずれはまたジェノスを訪れるはずだ。しかしプラティカとは、これが今生の別れになるかもしれん。もっと絆を深めていれば、それを惜しむ心地になろうし、ろくに絆も深まっていない相手であれば、何も惜しむことはないのだが……自分の気持ちがあやふやであるために、私は落ち着かないのかもしれんな」
そう言って、アイ=ファはようやく笑顔を見せた。
「そして、このように曖昧な心情を余人にさらしたのは、初めてであるように思う。こんな話を聞かされて、お前は満足なのか?」
「うん、満足だよ。アイ=ファのことなら、なんでも知っておきたいしな」
アイ=ファはわざわざ腕をのばして、俺の頭をかき回してきた。
「だけどまあ、プラティカたちが出立するまでまだ20日間ぐらい残されてるんだからな。その間に、もっと絆が深まるかもしれないぞ。……というか、1度や2度ぐらい、ファの家に招待してもいいんじゃないか?」
「うむ。まずは3日後にも、顔をあわせる機会があるわけだしな」
そうしてその日のディスカッションは、後日に保留という形で幕を閉じることになった。
俺たちがこんな風に思い悩むことになるのも、プラティカがそれだけ魅力的な人物であるという証左であるのだろう。絆が深まれば深まるほどに、別れの時はつらくなってしまうわけだが――それでも俺たちは、そんなことを理由に他者との交流をためらう気性ではなかったのだった。




