北の集落の収穫祭⑧~結実~
2020.8/16 更新分 2/2
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「ディック=ドム、肉団子の炒め物はいかがでしょうか?」
嬉しそうに笑いながら、モルン=ルティムはそう言った。
ディック=ドムは不動のまま、「いや」と応じる。光の加減で、その目もとはまた頭骨の陰に隠されてしまっていた。
「どうされました? もしかして、右手の具合がお悪いのでしょうか?」
モルン=ルティムがたちまち心配そうな表情を浮かべると、ディック=ドムは少し強い口調で「いや」と繰り返した。
「古傷は、まったく痛まない。しかし、右腕はずいぶん疲弊してしまったので……棒引きの力比べに加わることはできん」
「そうですか。古傷が痛んでいないのなら、よかったです」
モルン=ルティムは、ほっとしたように息をつく。彼女もまた、メリムに負けないぐらい表情の多彩な少女であるのだ。
ただ、ディック=ドムの様子があまり普通ではない。モルン=ルティムのかたわらで働くドムの女衆らも、そんな家長の姿を心配そうに見やっていた。
「……モルン=ルティムは、まだ仕事のさなかであったのだな。少しだけ、時間をもらうことはかなうだろうか?」
「ええ、それはかまいませんけれど……いったいどうされたのですか?」
モルン=ルティムはドムの女衆にレードルを手渡して、かまどの横合いにまで出てきた。
こうして向き合って立ち並ぶと、身長差のはなはだしい両者である。モルン=ルティムの頭はディック=ドムの胸もとまでにしか届いていないので、40センチぐらいは隔たりがありそうであった。
「……本当は、明日まで待とうと思っていた。だから、広場の外で頭を冷やしていたのだが……どうにも、我慢がならなかったのだ」
重々しい声音で言いながら、ディック=ドムはふいに片方の膝を折った。
そうしてモルン=ルティムの顔を見上げながら、ギバの頭骨を草冠ごと外して胸もとに抱え込む。
「ルティム本家の家長の妹、モルン=ルティムよ。ドム本家の家長ディック=ドムは、モルン=ルティムに婚儀を申し入れたい」
モルン=ルティムは、きょとんと目を丸くした。
それから、ゆっくりと驚きの顔になっていく。
「ど、ど、どうしたのですか、ディック=ドム? どうしていきなり、そのような話を……」
「いきなりではない。俺はずっと、この日に心を決すると定めていたのだ」
黒い瞳で真っ直ぐにモルン=ルティムの顔を見上げながら、ディック=ドムはそう言った。
「この収穫祭の力比べで、勇者の座を得ることができたなら、モルン=ルティムに婚儀を申し入れようと……俺はずっと、そのように考えていた。正確に言うならば、紫の月に手傷を負い、ルティムの集落で逗留を始めた日からとなる」
モルン=ルティムは、まだ何が起きているかも理解しきれていない様子で、目をぱちくりとさせていた。
そしてそれは、俺も同じことである。数メートル先では狩人たちが棒引きに興じ、人々は「ムーア!」の歓声をあげているのだ。待ちに待った瞬間であるとはいえ、これではなかなか実感がわかないのもしかたないように思えてならなかった。
すぐ近くのかまどにたたずむドムの女衆らも、呆然とした様子でふたりのやりとりを見守っている。
そして、グラフ=ザザは――
グラフ=ザザは、力比べに挑む勇者のように、黒い双眸を鋭く輝かせていた。
「ただ、誤解しないでもらいたいのは……俺は、母なる森に運命をゆだねたわけではない。俺はただ……自分が本当にモルン=ルティムの伴侶に相応しい人間であるのかと、自分自身に問いたかっただけであるのだ」
周囲の喧噪など耳にも入っていない様子で、ディック=ドムは言葉を重ねた。
「俺は、未熟な人間だ。これまでに何度となく勇者の称号を得て、ドムの家長に相応しい力を森に示してきたつもりだが……それでも、何かが足りていない。何かが、欠けてしまっている。不出来で、未熟な人間であるのだ」
「ディック=ドムが未熟だなんて、そんなことは……」
「しかし、そうなのだ。これは俺だけの話ではなく、ドムのすべてにまつわる話であるのだろう。だからドムは、こうまで力を失うことになった。80年の昔には、ザザよりもルウよりも強大な力を持っていたはずのドムが、こうまで力を失ってしまったのは……きっと、何かが欠けているからなのだろうと思う」
ディック=ドムの重々しい声音に、隠しようもない苦悶の感情がにじむ。
「黒き森において、ドムはガゼとスンに次ぐ氏族であったのだろう。それがモルガの森辺に移り住んでから、力を失うことになってしまった。ドムには何が足りていないのか、何が欠けているのか、それは俺にもわからない。だから俺は、これまで通りの力を示した上で、さらなる正しさを求めたいと願っている。その道を……モルン=ルティムとともに、歩いていきたいのだ」
「ディック=ドム……」
「ドムに何が欠けているのか、俺にはわからない。ただ俺は、モルン=ルティムとともにあることで、心が満たされていくのを感じた。そうして心を決するのに、これほどの時間がかかってしまったことを、どうか詫びさせてほしい。そして……どうか魂を返すその日まで、俺とともに過ごしてもらいたい」
「はい……」と、モルン=ルティムは微笑んだ。
その頬に、透明な涙がこぼれていく。
「それを望んでいたのは、わたしです。どうか……わたしをディック=ドムの伴侶にしてください」
ディック=ドムは片膝を折ったまま、深くうなだれた。
そうすると、黒褐色の蓬髪が表情を隠してしまう。
しばらくして、ディック=ドムが再び顔をあげると――
古傷だらけのその顔には、年齢よりも幼く見えるぐらいの、屈託のない微笑がたたえられていた。
そうしてディック=ドムは、ちょっとおずおずとした様子でギバの頭骨をモルン=ルティムに差し出す。
それを受け取ったモルン=ルティムは、頭骨の額にそっとくちづけをしてから、ディック=ドムの頭にかぶせた。
ディック=ドムは立ち上がり、今度は頭上からモルン=ルティムに微笑みかける。
涙をこぼし続けながら、モルン=ルティムも幸福いっぱいの顔で微笑んでいた。
そこに――感情を押し殺した、グラフ=ザザの声が響く。
「ディック=ドムよ、お前は森辺の習わしを踏みにじるつもりか?」
俺は思わず首をすくめながら、グラフ=ザザを振り返ることになった。
グラフ=ザザは、食い入るようにディック=ドムとモルン=ルティムの姿をねめつけている。
「ドムはザザの眷族であり、俺はザザの家長となる。であれば、このような不始末を見過ごすことはできん」
「お、お待ちください、グラフ=ザザ!」
と、かまどの裏からドムの女衆らがまろび出てきた。
「家長はようやく、心を決することがかなったのです! どうか……どうかお慈悲を……」
「わたしからも、お願いいたします! 必要であれば、ドムの家人をすべて呼び集めます!」
グラフ=ザザは黒い火のような目で、ドムの女衆らを見下ろした。
「出過ぎた真似をするな。これは、ディック=ドムの罪であるのだ。ドムの家人には、関係なかろう」
「ですが……!」
女衆らがなおも食い下がろうとすると、ディック=ドムが「いいのだ」と進み出た。
「グラフ=ザザの言う通り、これは俺の罪となる。お前たちがそのように頭を垂れる必要はない」
「でも、わたしたちはずっとこの日を待ちわびていたのです!」
「そうです! 家長とモルン=ルティムが結ばれる日を……モルン=ルティムをドムの家人として迎え入れる日を、ずっと心待ちにしていたのです!」
モルン=ルティムは新たな涙をこぼしながら、女衆らに微笑みかけた。
「ありがとうございます。みなさんに、そんな風に言っていただけるなんて……わたしは、幸福者です」
「その幸福に、水を差すような真似をするな」
グラフ=ザザが、憤然とした声をあげる。
「婚儀の約束とは、まず家長同士で取り交わすべきものである。あちらにはルティムの家長ガズラン=ルティムが控えているというのに、どうしてお前は森辺の習わしを踏みにじったのだ、ディック=ドムよ?」
「本当に、心から申し訳なく思っている。最初に申し述べた通り……我慢がきかなくなってしまったのだ」
ディック=ドムは分厚い胸もとに手をやって、グラフ=ザザに頭を垂れた。
その姿を、女衆らはぽかんと見やっている。
「え……グラフ=ザザは、おふたりの婚儀に反対しているわけではなかったのですか?」
「どうして俺が、反対せねばならぬのだ。ディック=ドムはモルン=ルティムが伴侶に相応しい人間かどうかを見定めるために、逗留を許していたのであろうが?」
憤懣やるかたないといった様子で、グラフ=ザザはそう言った。
「ようやく心を決せられたというのなら、俺はディック=ドムの血族としてそれを祝福する。しかし、森辺の習わしを踏みにじることを許すわけにはいかん。家長の許しもなしに約定のくちづけを授かるとは何事だ、ディック=ドムよ?」
「……本当に、申し訳なく思っている」
「お前はまず、モルン=ルティムに詫びるべきであろうが? これだけ長きの時間を待たされたあげく、約定の儀式で不始末をつけられてしまったのだからな」
そんな風に言いながら、グラフ=ザザはモルン=ルティムのこともにらみつけた。
「ただし、モルン=ルティムも返礼してしまっている。お前が約定のくちづけを授けなければ、それで済んだ話なのだからな。お前とて、ディック=ドムと同罪であるぞ?」
「申し訳ありません。わたしも、我慢がならなくなってしまったのです」
そうして頭を下げつつも、モルン=ルティムは喜びの気持ちを抑えることができず、涙をこぼしながら微笑んでいた。
その姿を見返しながら、グラフ=ザザは「まったく……」と息をつく。
「ドムとルティムは、親筋の関わらない婚儀という新たな習わしに、初めて取り組む氏族であるのだ。そうであればこそ、守るべき習わしは守るべきであろうが? これでは、先が思いやられるな」
「今後は、厳しく自分を律することを誓う。どうか、信じてもらいたい」
ディック=ドムはその精悍な顔に真摯そのものの表情を浮かべながら、そう言った。
その姿をしばらく見返してから、グラフ=ザザはドムの女衆らを振り返る。
「ガズラン=ルティムを呼んでこい。約定の儀式の、やりなおしだ。……あと、お前たちは鍋が焦げつかないように見張る役割ではなかったのか?」
「は、はい! 申し訳ありませんでした!」
女衆のひとりはかまどのほうに舞い戻り、もうひとりは広場の中央に駆けていく。
が、折しもガズラン=ルティムはザザの狩人と力比べに興じているさなかであったため、しばらく時間がかかりそうなところであった。
横並びになったディック=ドムとモルン=ルティムは、身長差もものともせずに、おたがいの姿を見つめ合っている。
グラフ=ザザは傲然と腕を組みながら、俺のことを見下ろしてきた。
「アスタよ。親筋の関わらない婚儀については、わきまえていような?」
「はい。血の縁を結ぶのはドムとルティムだけで、ザザやルウや他の血族たちは無関係、という話ですよね?」
それはガズラン=ルティムが発案し、かつての家長会議で決せられた内容であったので、もちろん俺も忘れたりはしていなかった。
「その取り決めとファの家に、直接の関わりはない。しかし、そもそもスン家の罪を暴くことがかなったのは、ファの家の力が大きかったはずだ」
「はい。そのように言っていただけるのは、光栄です」
「スン家の罪が暴かれなければ、ザザとルウに親交が生まれることもなかった。また、お前が美味なる料理というものを森辺にもたらしていなければ、ルウとザザの血族で家人を貸し合う事態にも至らなかったはずだ。そう考えれば、この事態の遠縁にはファの家が存在するはずだな」
「はい。僭越ながら、それも光栄に思います」
「では、お前たちもこの儀を見届ける資格があろう。婚儀が行われるのは雨季が明けてからになろうが、そのつもりでいろと家長に伝えておけ」
「俺とアイ=ファを、おふたりの婚儀に招いていただけるのですか?」
俺が顔を輝かせると、グラフ=ザザは「ふん」と鼻を鳴らした。
「ずいぶん呑気に笑うものだ。これもまた、森辺の習わしを根底からくつがえすような行いであるのだぞ? もしもこの行いに不始末が生じれば、モルン=ルティムにはルティムとの血の縁を絶ってもらうことになるのだ」
「はい。それでもこの話が家長会議ですべての家長たちに許されたことを、俺はずっと喜ばしく思っていました。俺も森辺の民として、これが本当に正しき行いであるかどうか、見届けたく思います」
グラフ=ザザの黒い双眸が、探るように俺を見据えてくる。
その末に、グラフ=ザザは「変わったな」とつぶやいた。
「お前とこのように顔をあわせるのは、数ヶ月ぶりのことであろうか?」
「はい。最後にきちんとお話をしたのは……それこそ、フェルメスに招集された日以来になるのでしょうかね? だとすると、ほぼ5ヶ月ぶりということになりそうです」
「5ヶ月か。若い人間が成長するには、十分な時間であるのだろうな」
そう言って、グラフ=ザザは硬そうな髭に覆われた口もとで、にやりと笑った。
「俺もまだまだくたばりはしないが、お前たちよりも長く生きることはあるまい。森辺の習わしをくつがえして、大きな苦労をするのも大きな幸福を得るのも、お前たちであるのだ。それを忘れるな、アスタよ」
「はい。肝に銘じます」
俺はなんだか、初めてグラフ=ザザと真情を打ち明け合うことがかなったような心地であった。
そこに、「うおおおお!」という雄叫びが聞こえてくる。ダン=ルティムが、砂ぼこりをあげてこちらに突進してきたのだ。
その後には、アイ=ファとガズラン=ルティムも追従している。
ディック=ドムとモルン=ルティムは幸福そうにしながらも、すいぶん気恥ずかしそうな様子であった。
俺とグラフ=ザザはもうひとたび、あの幸福な瞬間を見届けることかなうのだ。
それを心から嬉しく思いながら、俺はアイ=ファたちが到着するのを待ち受けることになった。