北の集落の収穫祭⑤~咆哮~
2020.8/14 更新分 1/1
一刻ほどの小休止を経て、力比べの再開である。
広場には、休憩前と変わらぬ熱気が漂っている。一刻ばかりの小休止では、熱が冷めやるいとまもなかったのだろう。力比べを行う男衆らはもちろん、それを取り巻く女衆や客人たちも、目を輝かせながらグラフ=ザザの再開の号令を聞いていた。
「では、狩人の力比べを再開する! 次の力比べは、棒引きである!」
その競技も、俺たちの収穫祭と同じように、縄を使ったくじ引きにて対戦相手が決せられていた。
ただ一点、異なる点がある。前回の闘技の力比べで勇者となった面々は緒戦で対戦とならないように、組が分けられたのである。やはりこの競技は、闘技に通ずるものであると見なされているのだろう。
ちなみに前回の勇者というのは、グラフ=ザザ、ゲオル=ザザ、ディック=ドム、ジーン本家の家長、ドムの分家の家長、ザザの分家の長兄、ジーン本家の長兄、ドムの分家の長兄、およびハヴィラ本家の家長という顔ぶれであった。
「これらの9名は、2回を勝ち抜くまで他なる勇者と対戦しないように取り計らっていく。いささかややこしい取り決めであろうが、9名もの勇者が存在するのは今回限りのことであるので肯んじてもらいたい」
そんなグラフ=ザザの宣言とともに、棒引きの力比べは開始された。
これはやはり、北の集落の狩人たちに分があるに違いない。かつて勇者であった8名は当然として、他の面々もなかなかダナやハヴィラの狩人に後れを取ることはなかった。
ただし、北の狩人たちの戦法は、ずいぶん力まかせであるようにも感じられる。「始め!」の号令がかけられるなり、おもいきり棒を引っ張るか押し込むかして勝利を収める、という姿が頻繁に見られた。
また、ダナやハヴィラの狩人たちもそこまで力が足りていないわけではない。同じ立場であるディンやリッドにだって、あれだけの実力者が控えていたのだ。とりわけラッド=リッドなどは、ゲオル=ザザにもまさる力量とされていたのである。
しかしそれでも、平均値を取れば大きな差があるのだろう。なおかつ、ハヴィラやダナの狩人は20名ていどで、北の狩人はその倍近い人数であったのだ。どうしたって、勝率が偏ることは否めなかった。
1回戦目が終了すると、人数は29名となる。
その中で、ダナとハヴィラの狩人は7名ほどであった。男衆らはこの競技においても狩人の衣を纏っていたので、計測も容易かったのだ。
なおかつ、勝者のグループにはレム=ドムとディガとドッドも含まれていた。3名ともに、1回戦目はダナやハヴィラの狩人が相手であったのだ。それでもレム=ドムは見習いならぬダナの男衆を打ち倒していたので、実に立派なものであった。
しかしここからは、かつての勇者と当たる確率がぐんと上がる。何せ29名の中の9名であるのだから、確率としてはおよそ3分の1であるのだ。
その確率から免れたのは、レム=ドムひとりであった。というか、人数が奇数であったため、彼女は戦わずして3回戦目に進むことになった。
いっぽうディガは、ゲオル=ザザに敗れてしまっていた。
ドッドは、これも勇者であるハヴィラの家長に敗れてしまっていた。
ハヴィラの家長は、さきほどの木登りでも勇者の座を獲得している。長身で、体格にも優れており、さすがは闘技の勇者という貫禄であった。
そうして2回戦目が終了しても、9名の勇者たちは全員が勝ち残っていた。
残る人数は、15名である。ダナとハヴィラで残っているのは、ハヴィラの家長とその長兄、およびダナの家長の3名のみであった。
「ふーむ! 棒引きの力比べというのも、なかなか血がたぎるものだな! 闘技に必要となる力を、いっそう研ぎ澄まさなくてはならぬようだ!」
ダン=ルティムも、これまで以上に昂揚しているようだった。
アイ=ファは静かな面持ちであるが、その青い瞳はいつになく鋭く輝いている。俺にしてみても、北の狩人たちの暴風雨めいた迫力には度肝を抜かれてしまっていた。
ということで、15名による3回戦目だ。
最初の対戦は、さきほど不戦勝であったレム=ドムと、ダナの家長であった。
相手が勇者ならぬダナの狩人であれば、あるいは――という望みもむなしく、レム=ドムは接戦の末に敗れることになった。ダナの家長は、的当てと木登りの力比べで勇士の座を勝ち取った実力者であったのだ。
最終的に棒を奪われることになったレム=ドムは、再び天を仰いで息をついていた。
そんなレム=ドムに、まだ若いダナの家長が声をかける。
「見習いの身でそこまでの力を持つ者は、ダナにもハヴィラにも存在しない。ドムの家の底力を思い知らされた心地だぞ、レム=ドムよ」
「どういたしまして。わたしこそ、ダナの力を思い知らされたわよ」
太鼓の音色と歓声に見送られて、両名は退いていった。
その後も、数々の激戦が繰り広げられていく。ここからは勇者同士の対戦も多いので、広場にはいっそうの熱気が吹き荒れることになった。
グラフ=ザザは、ドム分家の家長を打ち倒した。
ディック=ドムは、ザザ分家の長兄を打ち倒した。
ジーンの家長は、ドム分家の長兄を打ち倒した。
そして――ハヴィラの家長は、ジーン本家の長兄を打ち倒した。
このジーン本家の長兄も、かつての勇者のひとりである。
ハヴィラの勇者がジーンの勇者を打ち負かしたということで、その一戦は並々ならぬ反響を巻き起こしていた。闘技ではなく棒引きであったが、それでも確かな力を示したと言えることだろう。とりわけハヴィラの家人たちは、まるで新たな勇者が決せられたかのような勢いで歓声をあげていた。
そして、最後の勇者となるゲオル=ザザである。
その対戦相手は、トゥール=ディンともゆかりのある、あの的当てで勇者となったハヴィラの長兄であった。
ハヴィラの長兄は相手の呼吸を読むことに長けているらしく、体格でまさるゲオル=ザザを大いに苦しめた。その父親が大金星をあげた直後であったためか、ハヴィラの家人たちはいっそうの熱を込めて歓声をほとばしらせていた。
しかし最後には、ゲオル=ザザが膂力をふるって相手を地面に転がすことになった。
さきほどのお返しとばかりに、ザザの家人たちが歓声を爆発させる。しかしそこには、ゲオル=ザザをここまで苦しめたハヴィラの長兄に対する賞賛の思いも、しっかりと込められているように感じられた。
「ずいぶんと肝を冷やされたぞ。優しげな顔をして、なかなかやるではないか」
ゲオル=ザザは笑いながら、ハヴィラの長兄に手を差しのべた。
その手を取って立ち上がったハヴィラの長兄も、汗だくの顔でゆったりと笑っている。次代には、彼らが本家の家長として一族を導いていくのだった。
その後は、勇者ならぬザザとドムの狩人たちの対戦が行われ、後者が勝利を奪取することになった。
不戦勝で残ったのは、ザザ本家の家人である若き男衆である。
これにて、棒引きの力比べのベスト8が出そろった。
「すごいわねえ。ゲオル=ザザは、いったいどこまで勝ち進めるのかしら」
俺の斜め後方では、エウリフィアがはしゃいだ声をあげていた。
「というか、あなたはあのゲオル=ザザに闘技会で勝っているのよね。それが信じられなくなりそうなほどだわ」
「……ゲオル=ザザは、この1年ほどで大きく力をつけたように思う。こちらに利のある闘技会でも、もはやわたしが勝利することは難しいだろう」
メルフリードは感情をこぼすことなく、そのように答えていた。
いっぽうディム=ルティムは、食い入るように戦いの場を見据えている。彼としては、自分が敗れたレイリスに打ち勝ったというゲオル=ザザも看過できぬ存在であるのだろう。
そんな人々に見守られながら、準々決勝戦となる4回戦目が開始される。
グラフ=ザザは、同じ家に住まう若き男衆を一蹴した。接戦にもつれこまなかったのは、その一戦のみであった。
2試合目は、ディック=ドムとハヴィラの家長である。
さきほどはジーンの若き勇者を退けたハヴィラの家長であるが、これはさすがに相手が悪かった。ここ近年の北の集落においては、ディック=ドムとグラフ=ザザのどちらかが毎回優勝を果たしていたという話であったのだ。
よって、最終的に勝利を収めたのはディック=ドムであったが、接戦にもつれこんだというだけで、ハヴィラの家長には惜しみない賞賛が与えられていた。
「ふむ……やはりディック=ドムは、右腕の力が十全ではないのかもしれんな」
と、アイ=ファは俺にだけ聞こえるような小声で、そのようにつぶやいた。
ディック=ドムは右の拳を痛めて、ひと月以上も狩人の仕事を休んでいたのだ。それからさらに、ひと月ていどの時間が過ぎているはずであったが――ひと月の休養を必要とする怪我を完全に癒やすには、その倍ぐらいの時間が必要なのではないかと思われた。
(だいたい、棒引きなんて利き腕の握力がかなり重要だろうからな。やっぱり、そのへんに問題があるんだろうか)
こっそりモルン=ルティムの様子をうかがってみると、彼女は胸の前で両手を組み合わせながら、深く息をついていた。力比べで敗北しても狩人の恥になることはないが、それでも勝つに越したことはない。アイ=ファの力比べを何度となく見守ってきた俺にも、モルン=ルティムの気持ちは痛いほど理解できるように思えた。
しかし何にせよ、ディック=ドムは勝ち進むことがかなったのだ。優勝までは、あと2勝である。
3試合目は、ゲオル=ザザとジーンの家長であった。
これもかなりの大接戦であったのだが、ゲオル=ザザは惜しくも敗れてしまっていた。ジーンの家長というのは、グラフ=ザザとディック=ドムに次ぐ実力者であったのだ。それにドム分家の家長を含めた4名が、前回の闘技の力比べのベスト4であるのだと俺は聞いていた。
そして4試合目は、ダナの家長とドムの家人である。
前回の勇者であったドム分家の家長と長兄はすでに敗退しているので、この家人は別の分家の男衆である。組み合わせの妙で、ここまで勝ち進むことができたのだ。
しかしもちろん、ドムの家に未熟な狩人などは存在しないのだろう。さきほどの試合にも劣らぬ大熱戦の末に、彼は惜敗することになった。
ジーンの勇者を打ち負かしたハヴィラの家長は敗れ、いまだ勇者と当たっていないダナの家長が勝ち進んだ。これもまた、組み合わせの妙である。
かくして、準決勝戦に進むベスト4は、グラフ=ザザ、ディック=ドム、ジーンの家長、ダナの家長という顔ぶれに相成った。
ダナの家長は健闘しているが、やはり北の一族の強靭さを証し立てる結果であろう。それに、全員が本家の家長であるというのも、何やら象徴的であった。
「本家の家長には、一族を導くという重責が存在する。それゆえに、誰よりも強き意思でもってギバ狩りの仕事や修練に取り組むことになるのであろう」
間つなぎの力比べが行われている間、アイ=ファはそのように語らっていた。
「また、己の子らが育つ前に家長が魂を返すようであれば、本家の座は次に血の近い分家に移される。本家の座は、強き力を持つ家だけが受け継いでいくということだ」
自分以外の狩人が絶えてしまったファの家のアイ=ファが、いったいどのような心情でそんな風に語っているのか、俺にはわからない。しかし、アイ=ファの眼差しや表情に暗い陰りは見受けられず、そこにはただ狩人としての誇りだけがたたえられているように感じられた。
四半刻ほどの後、いよいよ準決勝戦が開始される。
ここで勝ち抜けば、勇者か勇士の座は確定である。
第1試合目は、グラフ=ザザとジーンの家長であった。
さすがのグラフ=ザザも、この相手に簡単に勝つことはできない。
しかしそれでも、負けることはなかった。3分近くにも及ぶ熱戦の末、グラフ=ザザの勝利である。
衝撃が走ったのは、第2試合目であった。
これもかなりの長期戦であったのだが、持ち前の巨体と怪力で相手を翻弄していたディック=ドムが、最後にふっと棒を奪われてしまったのだ。
審判を務めていたハヴィラの家長も、しばらくは呆気に取られていた。それほどに、あっけない幕切れであったのだ。
「ダ……ダナの家長の勝利である!」
一瞬遅れて、歓声が巻き起こる。
しかし、歓声をあげているのは、ダナやハヴィラの人々ばかりであった。北の一族の人々は、男女を問わずに困惑の表情である。モルン=ルティムも、気の毒なぐらい悄然とした面持ちでまぶたを閉ざしてしまっていた。
(やっぱり、右腕の調子が悪いのかな)
そんな疑惑は、続く勝負によっていっそう深められることになった。
グラフ=ザザはダナの家長に、ジーンの家長はディック=ドムに、あっさりと打ち勝つことになったのである。
決勝戦と3位決定戦でこれほどの実力差が生じることは、そうそうあるまい。グラフ=ザザとディック=ドム、ジーンの家長とダナの家長の勝負であれば、もっと接戦になっていたのではないか――と、誰もがそのように考えているはずだった。
かくして、棒引きの勇者はグラフ=ザザとなり、2名の勇士はジーンとダナの家長となったわけであるが、やはりこれまでのように無心の歓声があげられることはなかった。
「大丈夫か、ディック=ドムよ? 右手の古傷が、痛むのか?」
グラフ=ザザは、公衆の面前でそのように問うていた。
人々は、固唾を呑んでそのやりとりを見守っている。とりわけ北の集落の人々は、不安と困惑の表情をあらわにしていた。
それらの眼差しを振り払うように、ディック=ドムは「いや」と答える。
「痛みはないし、熱を帯びたりもしていない。ただ、物を握る力が完全には戻っていないだけだ。やはりこれでは、棒引きの勝負にも支障が出るのだろうと思う」
「……では、闘技の力比べは、なんとする?」
「無論、参加する。傷が痛むわけでもないのに、退く理由はあるまい」
グラフ=ザザはしばらくディック=ドムの姿をじっと見据えてから、重々しくうなずいた。
「了承した。……では、闘技の力比べを開始する! 狩人は、準備をせよ!」
「準備?」と、俺は首を傾げることになった。闘技の力比べに特別な準備などは必要ないはずであるし、棒引きの道具を片付けるのは13歳未満の若衆の仕事である。俺の周囲では、アイ=ファやダン=ルティムたちもいぶかしそうにしていた。
そんな俺たちが見守る中、若衆や女衆が狩人たちに近づいていく。
狩人たちがそちらに頭骨のかぶりものや狩人の衣を受け渡していく姿を見て、俺は「ああ」と納得した。さすがに闘技の力比べでは、そういったものも邪魔になってしまうのだろう。
しかし俺は、すぐさま新しい驚きに打たれることになった。
狩人たちはそのまま胴着も脱ぎ捨てて、鍛え抜かれた裸身をさらし始めたのである。
もちろん、腰あてや履物まで脱いだりはしない。しかし、たとえ上半身だけであっても、それは一驚に価した。いずれも浅黒い色合いをした、古傷だらけの逞しい裸身――しかも、その過半数は体格に恵まれた北の集落の狩人たちであるのだ。俺はさっぱりわけもわからないまま、肉の圧力に圧倒されることになってしまった。
「うふふ。これはさすがに驚いたかしら? 余所の氏族では、闘技の力比べで裸身をさらすこともないようだものね」
と、いつの間にか接近していたレム=ドムが、俺やアイ=ファに笑いかけてきた。ありがたいことに、彼女は装束や狩人の衣を纏ったままである。
「ええと、ディム=ルティムは……ああ、いたいた。そういうわけで、わたしはこの力比べだけは参加できないのよ。たとえ狩人でも、女衆が乳をさらすわけにはいかないでしょうからね」
「あ、当たり前だ。というか、どうしてわざわざ装束を脱がなければならないのだ?」
「古よりの、習わしよ。たぶん、装束が傷むことを嫌ったのじゃないかしらね。北の集落の狩人たちが取っ組み合ったら、装束なんですぐに破けてしまうもの」
「なるほど」と、俺のすぐそばから声があげられる。それは、普段通りのやわらかい微笑みをたたえたフェルメスであった。
「森辺の民は黒き森で暮らしていた時代、外界の人間との接触を絶っていたのでしょう? ならば、身に纏う装束も自分たちでこしらえていたはずです。森の中で織物を紡ぐというのは大変な手間でしょうから、いっそう大事に扱われていたのではないでしょうか?」
「ああ、そういうことなのかもしれないわね。何にせよ、わたしが力比べに加われないのは口惜しい限りだわ」
そんな風に言いながら、レム=ドムは地面にあぐらをかいた。この場所にはアイ=ファやトゥール=ディンもいるので、腰を据えることにしたのだろう。
そんなレム=ドムに、モルン=ルティムがこらえかねた様子で「あの」と声をかけた。
「ディック=ドムは……本当に大丈夫なのでしょうか?」
「大丈夫って? 右腕の力が十全でないのなら、最後まで勝ち進むことは難しいかもしれないわね」
「そ、それは母なる森の思し召しでしょうから、わたしが何を言いたててもしかたないのでしょうが……ただ、古傷が痛んだりはしていないのでしょうか?」
「そんな状態で力比べを続けていたら、また狩人の仕事を休むことになってしまうでしょうからね。ディックはそれほど愚かな人間ではないはずよ」
そう言って、レム=ドムは白い歯をこぼした。
「あなたは心置きなく、ディックを応援してあげて。それがディックには、一番の力になるはずよ」
モルン=ルティムはかすかに頬を染めながら、「はい」とうなずいた。
その間に、狩人たちの準備は完了したようである。女衆や若衆が退くと、そこにはむくつけき裸身の男衆だけが残された。
その中から、ひときわ逞しい体躯をしたグラフ=ザザが進み出る。彼は頭部ばかりでなく、左肩にも同様の古傷を負っていたので、凄まじいばかりの迫力であった。
「では、勝負の組み合わせを取り決める! 縄の準備をせよ!」
若衆らが、くじ引きのための縄を準備する。もちろん今回も、9名の勇者は別の組になるように取り計らわれた。
対戦相手が決定されると、また太鼓が乱打される。北の集落の人々に限っては、「ムーア!」の掛け声もいっそうの熱が込められたようだった。
(やっぱりどの氏族でも、この闘技の力比べが一番重要なんだろうな)
しかし、裸身で行われる闘技の力比べというのは、いったい如何なるものであるのか。俺も腰を据えて見届けさせてもらうことになった。
第1回戦目の第1試合は、ジーンの家長とザザの分家の男衆である。
上背はほどほどで幅の広い体格をしたジーンの家長と、長身で均整の取れた体格をしたザザの分家の男衆が、向かい合う。どちらも筋骨隆々で、野生の獣めいた迫力だ。
グラフ=ザザが「始め!」という号令をあげると、両者は腰を屈めてじりじりと間合いを測り始めた。
ザザの男衆が探るように右腕をのばすと、ジーンの家長はそれをいなすようにぱしんと払いのける。それだけの仕草で、青白い火花が散ったかのような緊張感であった。
なかなか大きく動かない両者を鼓舞するように、太鼓の音色と「ムーア!」の掛け声があげられる。
そして――ジーンの家長が、大きく踏み込んだ。
荷運びの時と同じように体勢を低くして、頭から相手の懐に潜り込む。その頭が相手の腹にぶつかると同時に、ジーンの家長は相手の腰帯に手をかけていた。
「ぬおっ!」と声をあげ、ザザの男衆は踏ん張った。
そして、右腕を相手との間にこじ入れる。ジーンの家長は上体を起こされて、その咽喉もとを相手の右前腕に圧迫されることになった。
しかしジーンの家長は、帯から手を離そうとしない。
相手を引き寄せようという力と相手を突き離そうとする力が拮抗し、数秒ほど動きが停止させられた。
咽喉もとを圧迫されているために、ジーンの家長の厳つい顔はどんどん赤くなっていく。
このままでは、さしものジーンの家長も窒息してしまうのでは――などと、俺が考えた瞬間、いきなり決着が訪れた。
底ごもる咆哮とともに、ジーンの家長が身体をねじったのだ。
両足を地面から引っこ抜かれたザザの男衆は、肩から地面に叩きつけられることになった。
太鼓が乱打され、ジーンの家長の勝利がコールされる。
大歓声の中、俺は詰めていた息を「ふう」と解放した。
「想像以上の迫力だな。こっちまで力がこもっちゃったよ」
「うむ。やはりジーンの家長というのは、並々ならぬ力量であるようだ」
アイ=ファがそのように答えると、レム=ドムが色っぽい流し目をくれてきた。
「でも、アイ=ファだったら勝てるのじゃない? ダン=ルティムとジーンの家長なら、ダン=ルティムのほうが上回っているのでしょうからね」
「……私がダン=ルティムと力比べを行ったのは、もはや1年以上も前のことだ。今さら取り沙汰する甲斐はあるまい」
「だったら、若いアイ=ファはいっそうの力をつけているのじゃないかしら? 本当に、アイ=ファの背中を追いかけるというのは見果てぬ長旅よねえ」
そんなレム=ドムの感慨も余所に、試合は続けられていく。
腰から上が裸身であっても、基本の部分に変わりはないようだ。正面から組み合って力でねじ伏せるか、相手の隙をついて転ばせようとするか――決まり手のおおよそは、その2パターンである。やはり、相手を傷つけてはならないという取り決めが存在する以上、相撲やレスリングや柔道に類する戦い方となるのだろう。
それにこの場には、ライエルファム=スドラほど身軽な人間も存在しないし、北の狩人には正面から組み合うことを好む人間が多いようだ。体格で劣るダナやハヴィラの狩人たちはフットワークでそれを回避しようと試みていたが、おおむねは途中で腕や帯をつかまれて、無慈悲に投げ飛ばされてしまっていた。
そんな中で金星をあげたのは、やはりハヴィラの家長である。
もちろん彼は前回の闘技の勇者であるのだから、相応の実力者であるのだろう。それでも彼がザザの若き狩人を打ち倒すと、人々は驚きの入り混じった歓声をあげていた。
もちろん北の集落の勇者たちも、順当に勝ち進んでいく。
ドッドなどはいきなりグラフ=ザザとぶつかってしまい、秒殺されてしまっていた。
右手の古傷に不安の残るディック=ドムは、ザザ本家の家人である若者との対戦であった。
棒引きの一件があったので、俺もいささかハラハラしながら見守っていたのだが――相手の突進を正面から受け止めたディック=ドムは、なんの苦もなく相手を地面に転がしていた。
人々も、安堵の息をつくようにして歓声をほとばしらせる。いまだ若年でありながら、本家の家長であるディック=ドムは、多くの人々に期待をかけられているのだろう。モルン=ルティムも何かをふっきった様子で、一心に手を打ち鳴らしていた。
そうして1回戦目が終了すると、ダナとハヴィラの狩人は4名だけになっていた。ダナの家長、ダナの分家の長兄、ハヴィラの家長、ハヴィラの長兄という顔ぶれである。ただし、ハヴィラの家長を除く3名は、いずれも見習い狩人やダナおよびハヴィラの狩人が相手であったので、まだその真価は示されていない。ダナの見習い狩人を下したディガも、それは同様である。
「あーあ、わたしもやっぱり参加したかったわ。こんなの、血がたぎってしかたがないわよね」
と、試合の合間にまたレム=ドムがぼやいていた。
その黒い瞳にふつふつと闘志を燃やしながら、レム=ドムは妖しくアイ=ファに微笑みかける。
「ねえ、あとでわたしたちも力比べをしましょうよ。アイ=ファだって、血がたぎっているのでしょう?」
「気分は昂揚しているが、それを静められぬほど未熟ではない。明日のギバ狩りで力を振るえばいいだけのことだ」
「だってわたしは、明日から休息の期間だもの……女同士なら、乳をさらしても問題はないでしょう? どこかの家で、こっそり楽しみましょうよ」
「うつけ者」と言い捨てて、アイ=ファはレム=ドムの頭を引っぱたいた。
よからぬ想像を頭から打ち払いつつ、俺は試合に集中する。
2回戦目も、白熱した勝負が続いた。
その中で、番狂わせと言えるのは――ハヴィラとダナの家長たちであろうか。その両名はそれぞれザザとドムの狩人が相手であったが、俊敏なる足さばきを武器として、見事に勝利をもぎ取っていた。
いっぽう、ハヴィラの長兄はジーンの長兄、ダナの分家の家長はグラフ=ザザという難敵とぶつかり、あえなく敗退である。これにてダナとハヴィラの生き残りは、それぞれの家長のみと相成った。
そして、ディガである。
その相手は、再びのゲオル=ザザであった。
棒引きではあっけなく倒されていたディガであるが、この勝負は接戦にまでもつれこんだ。体格的にはほぼ互角である両者が、正面からがっぷり四つで組み合って、持久戦にもつれこむことになったのだ。
「……なんだよ、モウ! そこまで粘るんなら、勝っちゃいなヨ!」
ツヴァイ=ルティムが、こらえかねたようにわめき声をあげていた。
人々も、それに負けないぐらい湧きたっている。かつての勇者と見習い狩人でここまで接戦になるとは、予測していなかったのだろう。ゲオル=ザザとディガの両方とそれなりの交流を持つトゥール=ディンは、オディフィアの手をぎゅっと握りしめながら、勝負の行方を見守っていた。
そうして、短からぬ時間が過ぎ――
ゲオル=ザザが、ふいに身を引いた。
ここぞとばかりに、ディガは突進する。その勢いに圧されて、ゲオル=ザザは背中から倒されるかに思えたが、すんでのところで身をよじって、相手の足に自分の足をひっかけた。
大きく上体を泳がせてから、ディガは前のめりに倒れ込む。
大歓声の中、ゲオル=ザザは「ふう」と汗をぬぐい、ディガは「畜生!」と地面を叩いた。
「まだまだ腕力頼りだな。その腕力をもっと活かせるように、せいぜい修練を積むことだ」
そんな風に言いながら、ゲオル=ザザはディガに手を差しのべた。
立ち上がったディガは、しょぼんと肩を落としてしまっている。ゲオル=ザザは笑いながら、その背中をどやしつけた。
「俺をここまで手こずらせておきながら、そのようにしょぼくれた顔をするな! まったく、締まらぬやつだ」
ディガは悄然としていたが、それを見守る人々の眼差しは温かかった。つい近年までギバ狩りの仕事を果たさず、怠惰な生活に身を置いていたディガが、これほどの力を身につけることになったのだ。なおかつ北の集落の人々は、その成長を間近から見守り続けていたのだった。
そんな一幕を経て、2回戦目も終了である。
残る狩人は、15名。そして、9名までもが前回の勇者だ。
ここからは、勇者同士がぶつかることになる。否応なく、人々は熱狂していたのだが――あらためて対戦相手のくじ引きが為されると、勇者同士の対戦はわずか1戦のみであった。
その一戦に選ばれたのは、ディック=ドムとザザの分家の長兄だ。
多少の苦戦を強いられつつ、それでもディック=ドムは勝利することができていた。
シードはグラフ=ザザとなり、他の勇者たちは順調に勝ち進んでいく。
その過程で、ジーンの家長はダナの家長を下し、ハヴィラの家長はドムの男衆を下すことになった。
ということで、4回戦目は8名の勇者によって組み合わせが決せられる。
ジーンの家長は、息子である長兄を打ち倒した。
グラフ=ザザは、ドムの分家の長兄を打ち倒した。
ゲオル=ザザの相手は、ハヴィラの家長である。ここまで快進撃を続けていたハヴィラの家長も、ついにゲオル=ザザに屈することになった。
そして最後の勝負は、ディック=ドムとドム分家の家長である。
この人物は、前回の収穫祭でベスト4にまでのぼりつめたという強豪であった。
体格も、決してディック=ドムに負けていない。年齢も40歳の手前ていどで、狩人としては円熟期であろう。
ディック=ドムは、大いに苦しめられることになったが――それでも最後は、豪快なスープレックスのような大技で勝利をもぎ取ってみせた。
「うむ、さすがはディック=ドムだな! ……しかし、ずいぶんと右腕がくたびれてしまっているようだ」
ダン=ルティムの言葉に、ガズラン=ルティムが「そうですね」と相槌を打った。
「痛みはないという言葉に嘘はないのでしょうが、もはや物を握る力は残されていないのかもしれません。あの腕で次の勝負に勝ち残るのは……いささか難しいかもしれませんね」
そんな風に言ってから、ガズラン=ルティムは妹のほうを振り返った。
モルン=ルティムは自分を励ますように微笑みながら、「すべては森の導きですね」と応じる。
そうして間つなぎの勝負ののち、準決勝戦が開始された。
グラフ=ザザの相手はゲオル=ザザ、ディック=ドムの相手はジーンの家長となる。
ゲオル=ザザは、強大なる父親に善戦を見せていた。
俺の目には、それほどの力量差も感じ取れない。むしろ、若いゲオル=ザザのほうが躍動感に満ちみちており、力強く感じるほどであった。
しかしやっぱり、グラフ=ザザの力は図抜けていた。一説によると、グラフ=ザザとディック=ドムの実力はドンダ=ルウやダン=ルティムに匹敵するものと囁かれているのだ。
組み合っては飛び離れ、飛び離れては組み合ってという攻防が繰り返されたのち、激しく動いていたゲオル=ザザのほうが、じょじょに息が切れてきた。
その間隙を見逃さずに、最後にはグラフ=ザザのほうから飛びかかって、有利な組手を取り、息子の身体を地面に叩きつけていた。
人々は、大きな歓声で激闘を繰り広げた親子を祝福する。
それは、現在の族長と次代の族長に相応しい一戦であった。
そして2試合目、ディック=ドムとジーンの家長である。
広場には、どこか諦念に似た空気が感じられた。ディック=ドムが不調であるのは残念だが、相手がジーンの家長ではやむなし――とでも言いたけな空気である。
また実際、ジーンの家長というのは凄まじい力を持つ狩人であった。重心の低さを利用した投げ技は見事であったし、それに、正面からぶつかりあうだけでなく、いざとなれば俊敏に動いて相手を翻弄することもかなうのだ。どっしりとした見かけからは想像がつかないぐらい、ジーンの家長は勝負巧者であるように感じられた。
いっぽうディック=ドムは、明らかに右腕を庇うようになっていた。
いや、庇うというよりは、もはや右手の握力が残されていないために、やむなく左腕を多用する事態に至っているのだろう。たとえ右手で相手の腕や帯をつかんでも、簡単に振り払われてしまうために、フェイントの役にすら立たなくなってしまったのだ。
これではさすがに、3番手の実力であるジーンの家長に打ち勝つことは難しく思われたが――しかし、ディック=ドムはあきらめなかった。あきらめずに、虎視眈々とチャンスの到来を待ち受けていた。
それが訪れたのは、激しい攻防が5分ほども続けられたのちのことであった。
ジーンの家長がディック=ドムの左腕をつかみ取り、一本背負いのような技を繰り出したのだ。
万事休すか、と俺には思われた。
が、完璧なタイミングであったように見えたのに、ディック=ドムの巨体は浮きあがらなかった。左腕を取られたまま、ディック=ドムは相手よりも深く腰を落として、なんとか耐えてみせたのだ。
そうしてディック=ドムは、相手の首を抱え込むような形で、右腕を巻きつけた。
さらに、右の手首を左手でつかむ。これならば、右手の握力は関係ない。そうしてディック=ドムが竜巻のように巨体をひねると、ジーンの家長はもんどり打って地面に倒れ込むことになった。
「それまで! ドムの家長の勝利である! ジーンの家長は退くべし!」
審判であったハヴィラの家長が宣言すると、広場には歓声が吹き荒れた。
ディック=ドムはだらりと右腕を下げたまま、荒く息をついている。敗者であるジーンの家長よりも、ディック=ドムのほうが消耗は激しい様子であった。
「ついに最後の勝負にまでもつれこんだか! これは案外、わからぬのではないか?」
ダン=ルティムが嬉々とした声をあげると、ガズラン=ルティムはまた「そうですね」と応じた。
「ディック=ドムの底力を見誤っていたようです。私にも、最後の勝負の行方は想像がつきません」
俺はなんだか、むやみに心臓が高鳴ってしまっていた。
いつも沈着なディック=ドムが懸命に戦っている姿に、ほだされてしまったのだろうか。あるいは、俺のすぐかたわらで祈るように手を組んでいるモルン=ルティムに感情移入してしまっているのだろうか。グラフ=ザザに恨みはないのだが、俺はディック=ドムの勝利を願わずにはいられなくなっていた。
(それにディック=ドムとは、ルティムの家で一緒に夜を明かした仲だしな)
しかしその前に、まずは間つなぎの力比べと、そして3位決定戦である。
3位決定戦は、ゲオル=ザザとジーンの家長だ。
これもつきあいの深さから、俺はこっそりゲオル=ザザを応援させていただいた。そんな願いが聞き届けられたわけではないのだろうが――5分以上にも及ぶ大熱戦の末、勝利を収めたのはゲオル=ザザであった。
北の集落の人々は、ここでも物凄い歓声を張り上げていた。
おそらくゲオル=ザザは、初めてジーンの家長に打ち勝ったのだ。俺のかたわらでは、トゥール=ディンとゼイ=ディンも感嘆しきった様子で手を打ち鳴らしていた。
そうしてついに、決勝戦である。
中天から始められた力比べの、最後の一戦だ。
蓋を開ければ、もともと北の集落において最強と称されていた2名の対戦である。
しかしディック=ドムは、明らかに十全なコンディションではない。さきほどの対戦ではそれが諦念のムードを織り成していたのに、今度は起爆剤のごとき要素になっているようだった。
それに――ディック=ドムは、いまだ勇者どころか勇士の座も獲得していないのだ。
グラフ=ザザは棒引きの勇者、ジーンの家長は荷運びの勇者、ゲオル=ザザは闘技の勇士、ドムの分家の家長は荷運びの勇士、ドッドは木登りの勇士――それに、妹のレム=ドムは的当ての勇士となっている。組み合わせの妙と言ってしまえばそれまでであるし、この勝負に負けても勇士の座は得られるのであるが、それにしてもドム本家の家長には勇者の称号こそが相応しいのではないか――北の集落の人々は、そんな想念にとらわれているのかもしれなかった。
「では、始め!」
ハヴィラの家長の号令で、決勝戦が開始された。
それと同時に、グラフ=ザザは正面からディック=ドムにつかみかかる。
ディック=ドムは逃げることなく、その突進を受け止めた。
上背は、ディック=ドムのほうがまさっている。しかしそれも、せいぜい5センチていどのものだ。なおかつ、がっぷり四つの組み合いでは、重心が低いほうが有利な面もあるはずだった。
それを証し立てるかのように、グラフ=ザザはディック=ドムの巨体を左右に揺さぶる。
右側に揺さぶられるときだけ、振れ幅が大きいように感じられた。
ディック=ドムの右手は相手の腰帯にかけられているが、やはり相手を制御する役には立っていないのだろう。
それを十分に見越している様子で、グラフ=ザザは激しく身をひねった。
ひねりながら、左手を相手の帯から離して、身体を開く。同時にディック=ドムの右手も相手の帯から離れて、大きく体勢を崩すことになった。
同時に、グラフ=ザザは右足を突き出している。それでディック=ドムの左足を刈ろうという目論見だ。
ディック=ドムは腰を落として、なんとかその場に踏み留まった。
間髪いれずに、グラフ=ザザは横合いから圧力をかける。
ディック=ドムの両足は大地を踏みしめたまま、砂ぼこりをあげて電車道を築くことになった。
ディック=ドムは黒褐色の蓬髪を振り乱して、右腕を相手の腰にのばす。
その指が腰帯に絡んだが、グラフ=ザザがおもいきり身体をゆすると、それだけで弾かれてしまった。
そしてグラフ=ザザは赤黒い古傷の広がる頭を相手の胸もとに押し込んで、再び左手で腰帯をつかみ取る。
グラフ=ザザは十分に腰を落としており、両手でがっちりと腰帯をつかんでいた。
いっぽうディック=ドムは身体が斜めに傾いており、右手は相手の腰に届いていない。背中ものびてしまっているため、踏ん張りのきかない体勢であった。
グラフ=ザザの頭が、ごりごりとディック=ドムの下顎を圧迫する。
そのまま背中から押し倒すべきか、あるいは手前に引き崩すべきか、どちらが有効であるかを探るように、グラフ=ザザは足場を整えた。
人々は、咽喉も嗄れよとばかりに歓声をあげている。
不利なディック=ドムに肩入れをしているわけではない。真の強者はどちらであるのかと、誰もがその答えを求めて熱狂しているようだった。
グラフ=ザザが、相手の身体をぐいっと引き寄せる。
ディック=ドムはたたらを踏んで、なんとか耐えた。
すると今度は、前方に体重をあびせかける。
背中ののびた苦しい体勢で、ディック=ドムはそれでも踏み留まった。
「いいわよ、ディック! あなたの力を、森に示してみせなさい!」
大歓声の中、レム=ドムもそんな風に叫んでいた。
モルン=ルティムはほとんど泣きそうな面持ちで、ぎゅっと指先を組んでいる。
俺もまた両手の拳を握り込み、もうじきに訪れるであろう決着の瞬間を見届けるべく、目を凝らした。
そのとき、アイ=ファが「む……?」とうろんげな声をあげるのが、かすかに聞こえてきた。
ディック=ドムは、なんとか身体が正面を向くようにと、じわじわ体勢を立て直している。
その、小山のような筋肉の盛り上がった右腕が、カタツムリの這うようなスピードでグラフ=ザザの腰帯を目指していた。
握力の足りない右手で腰帯をつかんでも、さしたる効果はないように思える。
しかし、ディック=ドムの黒い瞳は、炎のように燃えていた。その腰帯をつかむことさえできれば、勝利は自分のものであるのだと――そんな風に、確信しているかのようである。
そのとき、グラフ=ザザが大きく動いた。
再び、前方に体重をあびせている。助走もつけていないのに、凄まじい突進力である。
ディック=ドムは頼りなくよろめきながら、それでもなんとかこらえきった。
そして――よたよたと後ずさりながら、懸命に右腕をのばしていた。
その腕が、ついに腰帯まで到達する。
しかし、ディック=ドムは腰帯をつかもうとはしなかった。
腰帯と脚衣の間に、自分の手首をねじこんだのである。
次の瞬間、グラフ=ザザの巨体がふわりと浮きあがった。
ディック=ドムが、右腕1本でグラフ=ザザの巨体を持ち上げてしまったのだ。
手首を腰帯に引っ掛けているので、握力は必要なかっただろう。しかし、ディック=ドムは背中をのばされた体勢であったため、あれでは腰を入れることもできない。ディック=ドムは、上半身の筋力だけでグラフ=ザザの巨体を持ち上げてしまったのだった。
グラフ=ザザは狂ったように両足を泳がせたが、ディック=ドムの巨体は揺るがない。
そうしてディック=ドムは身体をねじると、そのままグラフ=ザザの身体を背中から地面に叩きつけた。
凄まじい地響きとともに、歓声が爆発する。
「ドムの家長の勝利である! 闘技の勇者は、ドムの家長とする!」
ハヴィラの家長が宣言すると、いっそうの歓声が響きわたった。
ここぞとばかりに、太鼓も乱打される。
そして――それをも圧する勢いで、雷鳴のごとき咆哮が炸裂した。
ディック=ドムが天を仰いで、勝利の雄叫びをほとばしらせたのだ。
一瞬、広場はしんと静まりかえり――
それから、津波のように歓呼の嵐が吹き荒れた。
「何よ、もう……いくら何でも、意気込みすぎじゃない?」
歓声の向こうから、レム=ドムのつぶやきが聞こえてくる。
俺が手を打ち鳴らしながら振り返ると、レム=ドムはその目に涙を溜めていた。
モルン=ルティムも幼子のように笑いながら、はらはらと涙をこぼしている。
きっとディック=ドムも、毎回このような姿を見せていたわけではないのだ。
右腕に不調を抱えながらも、絶対に勇者の座を勝ち取ってみせるのだと、そんな決意を胸に秘めていたのだろう。
天に向かって吠えるディック=ドムの姿は、まるで初めての勝利をつかみ取った若い獅子か何かのようで――血族ならぬ俺までもが、深く胸を打たれることになったのだった。