北の集落の収穫祭④~北の習わし~
2020.8/13 更新分 1/1
次なる力比べは、荷運びである。
引き板の上に幼子や女衆を乗せて、それを引きながら100メートルていどの距離を駆け比べる、なかなか過酷な競技だ。
その競技が行われるにあたって、俺たちはまた新たな驚きを得ることになった。
競技が開始されるなり、一部の人々の間から聞き覚えのない掛け声があげられたのだ。
いったい何と叫んでいるのか。さしあたって、俺の耳には「ムーアムーア!」と聞こえていた。
アイ=ファもうろんげな顔をしていたので、やっぱり森辺でも特異な習わしであるのだろう。想像の通り、その掛け声を発しているのはいずれも北の集落の住人たちであるようだった。
「……この掛け声、ゲルド、相似している」
と、青い目を半眼にしたアルヴァッハが、そのように言いたてた。
「また、ゲルドのみならず、シム、共通、掛け声である。森辺、何故、伝わっているのであろうか?」
「ふむ。そちらでも、力比べの際に掛け声を発しているのか?」
「うむ。あらゆる競技、用いられている。由来、トトス、早駆けである。ムーア、東の言葉、意味、『疾走』、あるいは『速く』である」
その言葉に、アイ=ファは目を丸くすることになった。
「ムアではなく、ムーアか? 森辺においては古き言葉で、『疾き矢』をドゥルムアと言い表すのだが」
「シム、『疾き矢』、ドゥルゥ・ムーアドである」
「……ああ。シムではふたつの言葉を並べるとき、最後にドという言葉をつけるという話であったな。旅芸人の娘から、そのように聞いた覚えがある」
言われて、俺も思い出した。復活祭にて《ギャムレイの一座》の天幕にお邪魔した際、ピノがそのような雑学をお披露目してくれたのだ。
「ドの言葉、省略する、古語である。やはり、シム、古の文化、森辺、伝わっているのであろうか?」
「うむ。そのような伝承も、いちおうは存在する」
用心深く、アイ=ファは多くを語ろうとしなかった。雲の民が森辺の民のルーツであるというのは、あくまで御伽噺の伝承に基づく仮説に過ぎなかったし――その伝承の中で、雲の民は山の民との争いを避けるためにシムを捨てた、とされているのだ。俺のすぐ隣で力比べを観戦しているフェルメスも、ゆったりと微笑んだまま口をつぐんでいた。
「なるほど。森辺の民、シムの血、流れているならば、我、誇らしく思う」
それだけ言って、アルヴァッハは競技の行われている広場のほうに向きなおった。
「ムーア!」の歓声に背を押されるようにして、狩人たちは地を駆けている。これはやはり、大柄な狩人の多い北の一族に分があるようだった。
何せ、運ぶ重量は70キロぐらいで統一されているのだ。ならば、筋力でまさる人間こそが有利であるのだろう。この競技ばかりは、アイ=ファも確たる結果を残すことはできていなかったのだった。
1回戦目が終了する頃には、ダナとハヴィラの狩人たちもほとんど敗退してしまっている。また、さすがにレム=ドムもこの競技では勝ち残ることがかなわなかった。
「この力比べは、愉快だな! ルウの血族でも取り入れてもらいたいものだ!」
周囲の歓声に負けない大声で、ダン=ルティムはそのように言っていた。巨体に似合わぬ俊足を有しているダン=ルティムであれば、この競技で勇者の座を獲得しそうなところである。
そうして行われた、準決勝戦――ここで勝ち抜けば勇者か勇士の座が決まるという、大一番である。
最初の組ではジーンの家長が勝ち残り、ディック=ドムが敗退することになった。
次の組ではグラフ=ザザが勝ち残り、ディガとゲオル=ザザが敗退することになった。
最後の組ではドムの分家の家長が勝ち残り、ドッドとザザ本家の家人である若い男衆が敗退することになった。
かくして、北の一族による決勝戦である。
ドムの分家の家長というのは、ディック=ドムに迫るほどの巨体となる。そしてジーンの家長は俺と同じていどの背丈であったが、きわめて幅の広い壁のような体型をしていた。
結果、勝利を収めたのはジーンの家長であった。
重心の低さが、何か利点になっているのだろうか。分厚い身体を屈めて地を這うように駆けるジーンの家長は、蜘蛛の妖怪か何かのような迫力で、グラフ=ザザたちをまったく寄せ付けなかったのだった。
再び太鼓が乱打され、勇者となったジーンの家長を祝福する。
やはり本家の家長というのは、並々ならぬ力を持っているようだった。
「素晴らしい。トトスの早駆け、劣らぬ興奮である」
アルヴァッハとナナクエムとプラティカも、ご満悦の様子であった。
いっぽう、ツヴァイ=ルティムはぶすっとしてしまっている。またもやディガたちが惜しいところで敗れてしまったので、消沈しているのだろう。しかし、彼らが見習いの身であることを考えれば、大健闘の部類であるはずだった。
次なる競技は、木登りである。
これはやはり、身軽な人間に有利な競技であろう。
それでも北の狩人たちは尋常でない膂力を有しているようで、1回戦目を見る限りでは、5氏族が等しく熱戦を繰り広げていた。
そんな中、見習い狩人たちはさらなる健闘を見せることになった。
レム=ドム、ディガ、ドッドの3名が、また1回戦目をそろって勝ち抜いてみせたのである。
これはもう、快挙といってもいいのではないだろうか。見習いの狩人は他にも何名か存在するのに、これまでの3種目で1回戦目を勝ち抜くことができているのは、その3名のみであったのだ。
(まあ、他の見習い狩人はみんな15歳未満だろうから、ディガやドッドは体格でまさっているんだろうけど……16歳かそこらで女衆のレム=ドムが勝ち抜いてるのは、快挙だよな)
しかも彼女は、的当ての力比べにおいて勇士の座を授かっているのだ。
アイ=ファは厳しい表情ながらも、満足そうな眼差しでレム=ドムの活躍を見守っていた。
そうして、準決勝戦にあたる2回戦目が行われたわけであるが――ここでは、ダナやハヴィラの狩人たちが意地を見せることになった。
まず、最初の試合では、ダナの家長がディック=ドムを下すことになった。
かつて右拳を痛めてしまったディック=ドムは、やはりまだ十全の力ではないのだろうか。北の一族の面々は、やや驚きのまじった様子でディック=ドムの敗退する姿を見守っていた。
そして2試合目では、ハヴィラの家長がグラフ=ザザとゲオル=ザザとジーンの家長をまとめて打ち負かしていた。
しかしこれはハヴィラの家長がよほど優れていたらしく、北の一族の面々も感嘆しきった様子で手を打ち鳴らしていた。
そして、3試合目――運命の悪戯で、レム=ドムとディガとドッドは全員が同じ組であった。そこに、的当ての力比べで勇者となったハヴィラの長兄を加えての勝負である。
(これはちょっと、期待できるんじゃないか?)
もちろんこういった勝負は、確率で決まるわけではない。しかし、4名の内の3名までもが親しい間柄となれば、俺も否応なく期待感をかきたてられてしまった。
勝負の内容は、大接戦だ。最初の勝負では、全員が同着であると見なされた。
「次の勝負で決着がつかなければ、ダナとハヴィラの家長も加えて、6名で勝負をしてもらう!」
俺たちの収穫祭の反省を踏まえてか、グラフ=ザザがそのように宣言をした。あまり再戦を重ねると、体力を消耗して次の勝負に支障が出てしまうためだ。
この場でも、「ムーア!」の叫びが連呼されている。いつしか、ハヴィラやダナや、それにディンやリッドの人々も追従して、同じ掛け声をあげ始めていた。
そんな中、4名が再びの勝負に挑み――2名が、同着の勝者と見なされた。
「よし! ハヴィラの長兄とドムの家人ドッドの勝利とする! 残る2名は、退くべし!」
レム=ドムは天を仰いで息をつき、ディガは悔しそうに地面を踏み鳴らしていた。
そしてツヴァイ=ルティムは、いつしか母親の腕に取りすがってしまっている。その眉はきゅっとひそめられ、黒い瞳の三白眼は食い入るようにドッドの背中を見据えていた。
ダナの家長とハヴィラの家長も進み出て、4名が樹木と向かい合う。
有利不利はないように思えたのに、けっきょく決勝戦に進めた北の狩人は、見習いのドッドひとりとなってしまった。なおかつ、勇者と勇士の座を授かれるのは、上位3名のみとなる。
「始め!」
グラフ=ザザの号令に、太鼓の音がかぶせられる。
それと同時に、4名の狩人たちは樹木に跳びついた。
樹木には枝葉があるので、その姿はすぐに隠されてしまう。
10メートルほどの高さに巻かれた印にタッチをして、最初に姿を現すのは誰か――人々は「ムーア!」の掛け声をあげながら、その瞬間を待ち受けた。
がさりと大きな音をたてて、樹木の中ほどからひとりの狩人が飛び出してくる。
ダナの家長である。
しかし、2秒と遅れずに、ハヴィラの家長も隣の樹木から飛び出してきた。
それを追うようにして、ドッドとハヴィラの長兄も樹木から飛び降りた。
4名が、弾丸のように地面を目指す。その中で、ハヴィラの家長だけが、飛び抜けた勢いを有していた。おそらく、他の3名よりも強い力で樹木の幹を蹴ったのだろう。
最初に地面に着地したのは、やはりハヴィラの家長であった。
残る3名の差は、俺の目にはわからない。もっとも早くに飛び降りたダナの家長が2番手であるように思えたが――とても確信はもてなかった。
「勇者は、ハヴィラの家長とする!」
審判役のグラフ=ザザが、重々しい声音で宣言した。
「2番手は、ダナの家長であろう。3番手は――ドムの家人ドッドであろうか?」
樹木の向こう側にたたずんでいた5名の狩人が、進み出てくる。ディック=ドムを始めとする、副審の役を果たしていた狩人たちである。
「グラフ=ザザの見立てに、異論はない」
ディック=ドムが言いたてると、残りの4名も首肯した。
グラフ=ザザは、「うむ」とうなずく。
「では、勇士はダナの家長とドムの家人ドッドとする!」
一瞬遅れて、歓声が爆発した。
俺は両手を打ち鳴らしながら、ツヴァイ=ルティムのほうを振り返った。
オウラ=ルティムの腕に取りすがったまま、ツヴァイ=ルティムはぽかんとしている。その目に、やがてじんわりと涙が浮かべられることになった。
「すごいわね。ドッドもディガも、これほどの力をつけたのよ」
優しい声で言いながら、オウラ=ルティムがツヴァイ=ルティムの頭を撫でる。
「うん……」とぼんやり答えてから、ツヴァイ=ルティムは慌てた様子で目もとをぬぐった。
そんな姿をこっそり見届けてから、俺はアイ=ファに向きなおる。
「やったな。勇者じゃなくって勇士だけど、これでも十分に凄いだろう?」
「当然だ。これだけの狩人がある中で、3番手にまでのぼりつめたのだからな」
アイ=ファも、微笑をこらえているような表情になっていた。
そこに再び、グラフ=ザザの声が響きわたる。
「では、次なる勝負の前に、一刻ていどの小休止とする! 女衆は、軽食の準備を願いたい!」
やはりこのあたりの段取りも、俺たちの収穫祭と同一であった。
ただし、力比べの開始時間は一刻ばかりも早められていたので、現在はまだ下りの一の刻の半ていどであろう。5氏族による初めての収穫祭ということで、ゆとりをもってスタートさせることになったのだ。
5氏族の男衆と客人たちは敷物や丸太の上に座り込み、女衆はかまど小屋へと急ぐ。軽食を準備するとともに、宴料理の調理に取りかかるのだ。
貴族たちはグラフ=ザザのもとに招かれていたので、俺たちはルティムの面々と席を同じくすることになった。
「いやあ、いずれも素晴らしい勝負であったな! やはりこれはルウの血族でも、5種の力比べを行いたいものだ!」
ダン=ルティムは、酒でも飲んでいるように上機嫌である。
しかしそのかたわらに控えたディム=ルティムは、きわめて厳しい面持ちになってしまっていた。
「まだ見習いの身であるレム=ドムやドッドが、あそこまで勝ち抜くとは思っていませんでした。俺も、いっそうの修練を積みたく思います」
「うむ! お前さんは器用だし身軽であるから、的当てや木登りで結果を残すことができよう!」
大きな声で笑いながら、ダン=ルティムはディム=ルティムの背中をばんばんと叩いた。
「しかし、的当てに関してはルド=ルウやジーダがかなりの腕を持っているし、木登りであれば俺も負けんぞ! そのつもりで修練を積むがいい!」
「はい」とうなずくディム=ルティムの目には、闘志の炎がめらめらと燃えているようだった。
そこに、盆を掲げた女衆が近づいてくる。どうやら昼の軽食は、ミソを使った肉野菜炒めをポイタンではさんだものであるようだった。
これもレシピは、トゥール=ディンが授けたものであるのだろう。シンプルながらも力強い味わいで、ミャームーやケルの根の風味もきいている。いかにも力のつきそうな献立であった。
「ふむ。ゲルドから買いつけたという食材は使われておらぬようだな」
ボリュームたっぷりの軽食をあっという間にたいらげてしまったダン=ルティムが、そのように言いたてた。
まだ食べ途中であった俺は、口の中身を呑みくだしてから、「はい」と答えてみせる。
「まだ北の集落では、ゲルドの食材を取り扱っていませんからね。祝宴でも、菓子にだけゲルドの食材を使うそうです」
「なるほど! まあ、これだけ美味ければ文句はないぞ!」
ダン=ルティムは常に元気いっぱいであったが、現在の広場はいずれもそれに負けないぐらい賑わっていた。ザザを筆頭とする7氏族の男衆らも、城下町から招かれた客人らも、ルティムからの客人らも、その多くが熱気に頬を火照らせて、思い思いに語らっている様子だ。
(初めて貴族と相まみえるお人らも、上手くやってるみたいじゃないか)
中央の敷物で騒ぐ人々の姿を見やりながら、俺はそんな感慨を抱いていた。
おそらくは、貴族と交流の深いゲオル=ザザや、それにディンやリッドの人々が潤滑油となっているのだろう。閉鎖的で知られる北の集落においても、外界の人々がこれだけ速やかに受け入れられるというのは、なんとも心強い限りであった。
(それに、こういう催しの興奮を共有できるっていうのは、大きいよな。森辺の民のほうでも、闘技会やトトスの早駆け大会を見物したりしていたし……そういうことの積み重ねが、絆を深めていくんだろう)
すると、ダン=ルティムの巨大な顔が、いきなりぬうっと俺の鼻先に突き出されてきた。
「どうしたのだ、アスタよ? 何やら初めての孫でも迎えたような顔つきだな」
「ええ? そんな顔をしていましたか? ……俺はただ、北の集落に貴族のお人たちが迎えられている姿を、感慨深く思っていただけでありますよ」
「ふむ。しかし、お前さんとて、同じ客人の立場であるのだぞ?」
「それなら、大丈夫です。俺もみなさんと同じように、この場を楽しんでおりますので」
俺がそのように答えると、ダン=ルティムはにんまりと微笑んだ。
「ならば、いいのだ! 楽しみは、まだまだこれからであるからな!」
ダン=ルティムの大きな手の平が、今度は俺の背中をばしばしと叩いてきた。
俺のあばらは頼りなく軋んだが、そんな痛みまでもが収穫祭の熱気に取り込まれていくかのようだった。
「アイ=ファ、アスタ、失礼いたします。調理、見学、如何でしょうか?」
しばらくすると、プラティカが俺たちのもとにやってきた。
そこに追従しているのは、メリムとニコラ、オディフィアとゼイ=ディンという顔ぶれだ。その中から、メリムがにこりと微笑みかけてきた。
「よろしければ、わたくしたちもご同行させてください。決してお邪魔にならないように気をつけますので」
「ええ、もちろん。それでは、ご一緒いたしましょう」
立場のある殿方たちは、ザザの血族と語らうのに忙しいのだろう。ガズラン=ルティムとダン=ルティムもそちらに突撃するかまえであったので、こちらのなよやかな一団には俺とアイ=ファだけが同行することになった。
「外交官のフェルメス殿には、マロールや乾酪を使ったポイタンの窯焼きが準備されていました。あんなに美味しいギバ肉を食せないというのは、お気の毒なお話ですわね」
かまど小屋に向かってしずしずと歩を進めながら、メリムは言葉を重ねてくる。本当に気の毒そうな表情であったので、皮肉や嫌味ではないのだろう。彼女は俺より年長であるようだったが、とても屈託がなくて可愛らしい貴婦人であるのだ。
「それと、ゲルドの方々は――狩人の力比べというものが、とてもお気に召したご様子です」
と、今度は幼子のようにくすりと笑う。そうしてころころと表情が移り変わるのも、彼女の大いなる魅力であった。
「西の言葉ではとうてい気持ちを伝えきれないと仰って、フェルメス殿に通訳をお願いしていましたの。たしか、森辺の料理をお食べになられた際にも、アルヴァッハ殿はああして通訳をお願いしておりましたよね?」
「はい。自分としては、光栄な限りです。……でも、グラフ=ザザたちは大丈夫でしたか?」
「ええ。ずいぶん驚かれているご様子でしたけれど……お気を悪くされたりはしていなかったように思います」
それならば、幸いである。あのグラフ=ザザがどのような顔をしてアルヴァッハの長広舌を聞いているのか、ちょっと見てみたいところであった。
そうして俺たちが語らっている間、ゼイ=ディンとオディフィアは無言のままに歩を進めている。どことなく、会話の糸口がつかめずに困っているように見えなくもなかったが――しかし、幼いオディフィアの歩調にあわせて、ゼイ=ディンがゆっくりと歩いているその姿は、微笑ましく思えてならなかった。
「も、申し訳ありません! ここからは、僕がご案内しますので!」
と、後方から駆け寄ってくる者があった。午前中にも案内役をしてくれた、あの男の子である。
おそらく客人だけで集落をうろつかせるのは不相応だと判じ、グラフ=ザザが遣わしてきたのだろう。その少年を交えた8名で、俺たちはまずトゥール=ディンの働くかまど小屋に向かうことになった。
取り仕切り役であるトゥール=ディンが本拠地としているのは、ジーンの女衆が集められたかまど小屋となる。そして現在、その場所では『ギバ骨ラーメン』が作製されていた。
かまど小屋に近づいていくと、ギバ骨を煮込む強烈な香りが漂ってくる。それに気づいたオディフィアは小さな鼻をひくつかせてから、かたわらのゼイ=ディンを振り仰いだ。
「ぎばのほねをにこんでいるの?」
「うむ。俺たちの収穫祭でも、ぎばこつらーめんは出されていたな。……町の人間にはこの香りを苦手に思う者もいるという話であったが、オディフィアは大丈夫であろうか?」
「うん。ぎばこつらーめんは、だいすき」
オディフィアがそのように答えると、ゼイ=ディンは「そうか」と優しげに微笑んだ。その顔を見て、オディフィアは灰色の瞳を輝かせる。まだ多少のぎこちなさを残しつつ、この調子ならばすぐに2ヶ月ほどの空白期間を埋められそうに思えた。
「これは、ギバの骨を煮込んでいる香りであったのですか。確かに、独特の香りであるように思えますね」
こちらではメリムがそのように語らっていたので、俺が応じることにした。
「ギバの骨ガラは、キミュスやカロンよりも風味が強烈であるのですよね。ですがその分、力強い料理に仕上げられるのだと思います。これがどのような料理に化けるか、夜を楽しみにしていてください」
「ええ、とても楽しみです。……ニコラはもう、その料理を口にしているのかしら?」
「いえ。ギバの骨から出汁を取るには長きの時間が必要であるため、祝宴のみで扱われる特別な料理と位置づけられているそうです」
ニコラは張り詰めた面持ちで、そのように答えていた。
そしてその目が、ちらりとプラティカを見る。
「……プラティカ様は、以前の祝宴ですでにその料理を口にされているのですよね?」
「はい。味わい、格別でした。屋台、売られているラーメン、別物です」
屋台で売られているキミュス骨のラーメンであれば、ニコラも何度となく口にしているのだ。
ニコラはいくぶん不満げな面持ちになりながら、さらに言葉を重ねた。
「宴料理が通常の晩餐よりも豪華であるのは、当然の話です。森辺の祝宴に2度までも参席を許されたプラティカ様を、心から羨ましく思います」
「はい。得難き経験です。……ニコラ、怒っていますか?」
「怒ってなどはいません。ただ羨ましいと言っているだけです」
すると、メリムが「あら」と口をほころばせた。
「ニコラはプラティカとずいぶん絆を深められたようですね。あなたはよほど心を開かないと、それほど心情をこぼしたりはしませんものね」
「いえ、わたしは……」と言いかけて、ニコラはぶすっと口をつぐんでしまった。
その姿に、プラティカは小首を傾げている。
「ニコラ、絆、深められたなら、嬉しい、思います。それ、真実ですか?」
「知りません。それよりも、調理の見学を始めるべきではないでしょうか?」
ということで、俺たちはかまど小屋にお邪魔することになった。
戸板は開け放しであったので、案内役の少年に許可をもらってから入室をする。強烈な香りを放つ湯気の中で、トゥール=ディンは麺打ちに励んでいるさなかであった。
「ああ、いらしたのですね。どうぞごゆっくり見物なさってください」
オディフィアと父親の並んだ姿を認めたトゥール=ディンは、幸せそうに微笑みをたたえる。それを見返すオディフィアは、もちろん灰色の瞳をきらきらと輝かせていた。
トゥール=ディンの他には、10名の女衆が働いている。8名がジーン、2名がリッドの女衆である。骨ガラの出汁から灰汁を取っていたり、ギバのチャーシューを煮込んでいたり、トゥール=ディンとともに麺打ちをしていたりと、誰もが忙しそうな様子であった。
ジーンというのは、数十年前にザザから分かたれた眷族となる。よって、外見や気風もザザと大きく変わるところはない。毛皮の胸あてや帯を巻いて、誰もが実直そうである。そしてやっぱり、年配の人間は多くなかった。
「森辺では、このようにして料理が作られているのですね。なんだか、胸が高鳴ってしまいます」
にこにこと笑いながら、メリムはそう言った。
すると、麺を切り分けていたジーンの女衆が手を止めて、そちらを振り返る。
「……あなたは、城下町でも由緒ある家の人間であるのですよね? そのような人間が森辺で食事をすることに、何か抵抗は生じないのでしょうか?」
「抵抗? 何故でしょう?」
「わたしたちはザザの家人から、城下町の様子をつぶさにうかがっています。城下町では、料理を作る前にわざわざ身を清めたりもするのでしょう? 森辺とは、あまりに習わしが異なるのではないでしょうか?」
どこか、詰問するような口調である。
しかしメリムは臆する様子もなく、「うーん」と可愛らしく視線をさまよわせた。
「そうですね……習わしは、ずいぶん違うのでしょう。ただ、わたくしは堅苦しい作法を苦手にしていますので、森辺においてはずいぶん安らかな心地で過ごすことができています」
「堅苦しい作法が苦手なのですか? 貴族というのは、作法を重んじるものであるのでしょう?」
「はい。もっと貴婦人らしいたしなみを身につけるようにと、以前はしょっちゅう叱られてしまっていました」
そう言って、メリムは小さく舌を覗かせた。
古い言葉で言うならば、きわめてチャーミングな仕草である。
「だからあまり、貴族の一般的な例にはならないのかもしれません。わたくしはたびたび森辺に招かれていた伴侶のことを、ずっと羨ましく思っていたのです」
「…………」
「それに、森辺の方々も城下町に招かれるたびに、さまざまな習わしを強いられていますよね。調理や祝宴の前に身を清めさせられたり、窮屈な宴衣装を纏わされたり……それでも森辺の方々は、非難の声をあげることもなく、城下町の習わしを受け入れてくださっていました。それならわたくしたちも、森辺の習わしに従わさせていただきたく思います」
しばらく沈思してから、ジーンの女衆は「そうですか」とつぶやいた。
「わたしは、いらぬ言葉を発してしまったようです。どうぞさきほどの言葉はお忘れください」
「いえ。決していらぬ言葉ではないように思います。もっともっと語らって、森辺の方々と絆を深めさせてはいただけませんか?」
メリムがにっこり微笑むと、厳しい表情をしていたジーンの女衆もついに相好を崩すことになった。
「今は仕事のさなかであるため、のんびり語らっているいとまもありません。……夜の祝宴で、また語らっていただけますか?」
「はい。その時間を心待ちにしております」
どうやら殿方ばかりでなく、女性陣の間にもご縁の架け橋が渡されたようだった。
北の集落の多くの人々は、風聞でしか貴族を知らない。しかも以前は、サイクレウスの悪しき風聞が蔓延していたはずであるのだ。初めて目の当たりにする貴族の中に、この無邪気なメリムが加えられていたのは、誰にとっても幸いであるはずだった。