北の集落の収穫祭②~宴の準備~
2020.8/11 更新分 1/1
族長グラフ=ザザへの挨拶を済ませた俺たちは、そこで二手に分かれることになった。かまど仕事を見物させていただく組と、ドムの集落で身を休める組である。
かまど仕事を見物させていただくのは、10名。俺とアイ=ファ、プラティカとニコラ、ガズラン=ルティムとダン=ルティムとディム=ルティム、そして3名の女衆と相成った。その中には、ルウ家の屋台を手伝っているうら若き女衆も含まれている。
ドムの集落に向かうのは、4名。オウラ=ルティムとツヴァイ=ルティム、そして2名の男衆だ。力比べの開始までにはまだ三刻ほども残されているので、その間にじっくりと絆を深められるはずであった。
4頭のトトスは母屋の脇に繋いで、まずは本家のかまど小屋から見物をさせていただく。
そこで待ち受けていたのは、スフィラ=ザザを筆頭とする女衆らである。案内役の男衆が声をかけると、その全員が作業の手を止めて、深々と一礼してきた。
「ザザの家にようこそ。どうぞご遠慮なく見物なさってください」
普段通りの引き締まった表情で、スフィラ=ザザはそんな風に言ってくれた。
プラティカたちはスフィラ=ザザとも2度目の対面であるが、それ以外の女衆は初見となる。が、異国の民たるプラティカと城下町の民たるニコラを迎えても、彼女たちは心を乱す様子もなく、かまど仕事を再開させていた。
人数は、スフィラ=ザザを含めて7名。全員が、森辺の装束の上から毛皮の胸あてや帯などを装着している。ザザとジーンでは毛皮の装飾品を、ドムでは骨の装飾品を身につけるというのが、北の集落の習わしであったのだった。
「こちらで働いているのは、みんなザザの方々なのですか?」
俺がそのように尋ねると、スフィラ=ザザは仕事を続けながら「ええ」とうなずいた。
「本家のかまど小屋には、ザザの人間だけを集めることになりました。残りの何名かは、別の場所でディンやリッドの女衆らと仕事に取り組んでいます」
なるほどと思いつつ、俺は視線を巡らせる。
目当ての人物は、奥のかまどでぐつぐつと鉄鍋を煮込んでいた。
「ああ、おひさしぶりです、メイ・ジーン=ザザ。俺のことを覚えておいでですか?」
骨太のがっしりとした体格の女衆が、ゆっくりとこちらを振り返る。青い瞳をした、年配の女衆だ。
「おひさしぶりです、ファの家のアスタ。……あなたのほうこそ、わたしなどを見覚えておいでだったのですね」
「もちろんです。その節は、お世話になりました」
「……わたしはたびたび世話になりましたが、こちらが世話をした覚えはないように思います」
愛想の欠片もない返答である。が、彼女はもともとこういう気性であるのだ。遥かなる昔日、スフィラ=ザザとともにルウの集落に逗留して、かまど仕事の修練を積んでいた人物であった。
プラティカとニコラは真剣に、ルティムの女衆らは興味深そうに、それぞれかまど仕事の様子をうかがっている。ザザの面々が口をつぐんでいるために、しばらくは無言のままに時間が過ぎることになった。
その静寂が破られたのは、そろそろ次のかまど小屋に向かおうかと、俺がみんなに呼びかけようとした瞬間であった。
「あ、みなさん、いらっしゃっていたのですね」
入り口のあたりに固まっていたルティムの女衆らが、道を空ける。そこから姿を現したのは、トゥール=ディンに他ならなかった。
「おお、ずいぶん早かったな。力比べの開始には、まだ何刻も残されているぞ」
トゥール=ディンの後からは、ゲオル=ザザも現れる。彼も毛皮のかぶりものを外していたので、その意外に若い顔が惜しみなくさらされていた。
俺たちが挨拶の声をあげるより早く、スフィラ=ザザがそちらに向きなおる。
「ゲオル、あなたはやっぱりトゥール=ディンの後をついて回っていたのですね。力比べに備えて、身を休めておくべきなのではないですか?」
「集落を歩いて回っても、力が損なわれることはあるまいよ。いいから、俺のことは放っておけ」
そんな風に答えてから、ゲオル=ザザは俺たちににやりと笑いかけてきた。
「お前たちは、かまど仕事の見物か。こやつらは愛想がないので、退屈だったろう」
「いえ。手際、興味深く、拝見していました」
率先して、プラティカがそのように答えることになった。こちらもアルヴァッハたちを招いた晩餐で席を同じくしていたので、2度目の対面である。
そんな両名の間から、トゥール=ディンがかまど小屋の内部に踏み入ってくると、たちまち3名ばかりのザザの女衆がそれを取り囲んだ。
「トゥール=ディン、火加減はこれで問題なかったでしょうか?」
「あの、こちらの帳面の数字を確認していただきたいのですが……」
「こちらの野菜は、中天を過ぎてから切り分けるのでしたね? アリアは細切りで間違いありませんでしたか?」
なんだか、かつての合同収穫祭におけるマルフィラ=ナハムを彷彿とさせる様相である。が、トゥール=ディンはもうずいぶん昔から北の集落の祝宴を任されていたので、マルフィラ=ナハムよりも遥かに先輩格であったのだった。
そんな経験によって、トゥール=ディンも鍛えられているのだろう。ちょっぴりおずおずとしているのは普段通りであったが、質問には的確な答えを返していく。俺としては、なかなか――いや、かなり感慨深い光景であった。
「あなたたち、トゥール=ディンを頼りすぎですよ。朝方にも、あれこれ確認してもらったばかりでしょうに」
と、スフィラ=ザザが厳粛なる面持ちでそのように言いたてた。
その光の強い目が、ひとりの若い女衆をキッと見据える。
「あなたは火加減も覚束ないままに、鍋を煮込んでいたのですか? でしたら、もっと早くに確認をしておくべきでしょう」
「いえ、きっと間違いはないはずだと思っていたのですが……いちおう、念のためにと思って……」
「ならば、わたしや他の人間にまず確認するべきでしょう。トゥール=ディンに甘えてばかりいたら、修練は成りませんよ」
「でも」と、その女衆は口をとがらせた。
「わたしはトゥール=ディンに手ほどきしていただくのも、ずいぶんひさびさであるのです。スフィラ=ザザはしょっちゅうディンの家まで出向いているので、不足はないのでしょうけれど……」
「しょ、しょっちゅうではありません。この前は、そちらのプラティカやゲルドの貴人らを迎えるために、足を運ぶことになったまでです」
「でも、その日もディンの家で一夜を明かしたのですよね? わたしがトゥール=ディンと会ったのは、もうひと月以上も前のことになります」
トゥール=ディンは現在でも、休業日の前日に北の集落まで出向いて、調理の手ほどきをしている。が、最近は休業日に用事が入ることが多いので、月に1度か2度ぐらいしか出向く機会がないのだと聞いていた。
それはともかくとして、この北の集落でもトゥール=ディンがみんなに愛されている姿を見届けることができて、俺としてはまた感無量である。当のトゥール=ディンがあたふたしてしまっているのも、微笑ましい限りであった。
「あ、あの、わたしはかまいませんので、何か不安なことがあったら、遠慮なく聞いてください」
そんな風に言ってから、トゥール=ディンはおずおずとスフィラ=ザザに微笑みかけた。
「ス、スフィラ=ザザも、お気遣いありがとうございます。そちらも何か、問題はありませんでしたか?」
「え、ええ、こちらは大丈夫です。トゥール=ディンに、しっかり手ほどきをされていますので」
スフィラ=ザザは、いくぶん顔を赤くしてしまっている。彼女は彼女でトゥール=ディンのことを慕わしく思っているので、家人に対する厳粛な振る舞いとの折り合いをつけるのに苦労しているのだろう。大人めいて見えるスフィラ=ザザであるが、たしか彼女も17歳かそこらであるのだ。
そうしてしばらく女衆らの手際を見て回ってから、トゥール=ディンは退室した。引き際をはかっていた俺たちも、それに便乗させていただく。
「今回はハヴィラとダナも加わっているから、取り仕切り役のトゥール=ディンは大変だね。規模としては、俺たちの収穫祭と同じぐらいなのかな?」
「いえ。5氏族の総数は100名以上にも及びますので、わたしたちの収穫祭よりも10名以上は多いことになるかと思います」
「100名以上か。やっぱりね」
俺が納得顔でうなずくと、トゥール=ディンは不思議そうに首を傾げた。
「あの……何がやっぱりなのでしょうか?」
「あ、ごめん。この話は、トゥール=ディンにはしてなかったんだっけ。……実は、ザザの血族は申告以上の人数なんだろうなって、前々から考えていたんだよ」
「しんこく……? 申し訳ありません。やっぱりわたしには、よくわからないのですが……」
そういえば、トゥール=ディンはその場にも立ちあっていなかったのだ。
べつだんトゥール=ディンが気にかけるような話ではないので、俺はかいつまんで説明することにした。
「俺が初めて家長会議に招かれたとき、ザザの血族は70名ていどだって言われていたんだよ。どの氏族が次の族長筋を担うべきかっていう話し合いをしていた時のことだね。で、7つの氏族で70名っていうのは少なすぎるから、きっと計測の方法が違ってたんだろうなと考えていたわけさ」
「ああ、なるほど……ディンとリッドを加えれば、血族の数は140名以上にものぼります。それがどうして、半分の数字になってしまったのでしょう?」
「そこまで極端に人数が違うってことは、やっぱり13歳か15歳未満の人数を申告してなかったってことなのかな。森辺の習わしを考えると、その辺りが区切りのいい数字だろうしね」
「ほう!」と大きな声をあげたのは、少し離れた場所にたたずんでいたダン=ルティムであった。ダン=ルティムは嗅覚ばかりでなく、聴覚もきわめて優れているのだ。
「当時のルウの血族は、100名ていどであったはずだぞ! それよりも、40名ばかりも数が多かったのか?」
「ああ、いえ、当時のルウの血族も、110名から120名ぐらいはいたのだと思います。ガズラン=ルティムの婚儀の祝宴であっという間に料理が尽きてしまったのは、きっとそれが原因なんだろうなと考えていたのですよ」
「そうでなくとも、アスタの料理は美味であったからな! ……しかし、当時のスン家は40名ほどの家人であったはずだぞ。眷族を含めて180名であれば、もっとでかい顔をしていてもおかしくなかったように思えてしまうな」
すると、明敏なるガズラン=ルティムがその疑問に答えてくれた。
「現在のザザの血族には、そこのトゥール=ディンのようにスンから氏を移した分家の15名と、それにディガやドッドも含まれます。であれば、当時のスンの血族の総数は163名ていどであったということになるのでしょう」
「ふむふむ。しかしそれでも、ザッツ=スンがルウ家に悪さを仕掛けようと考えるには十分な人数ではなかろうか?」
「ザッツ=スンも、正しい人数を把握していなかったのかもしれません。あるいは……家長会議を終えてからの1年半ほどで、ザザの血族の人数が大幅に増えたのではないでしょうか?」
とても穏やかな微笑みをたたえながら、ガズラン=ルティムはそう言った。
ダン=ルティムは「ふむ?」といぶかしげに首を傾げる。
「確かにザザの血族も、ここしばらくで大層な力をつけたことだろう。美味なる料理と、ギバ肉を売った銅貨のおかげでな! ……しかし、いずれの氏族であっても、5歳に満たない幼子の人数は数えんぞ。ならば、いきなり家人の数が増えることはあるまい」
「であれば、魂を返す人間の数が減ったのではないでしょうか?」
どこか透徹した眼差しになりながら、ガズラン=ルティムはそのように言葉を重ねた。
「我々はギバ肉を売ることで富を得て、美味なる料理で心を満たし、より強い力で狩人の仕事に臨むことができるようになりました。また、猟犬を手にしたことによって、より安全に仕事を果たせるようになっています。ルティムにおいても、この1年ほどで魂を返した狩人はいませんでしょう?」
「なるほど! 狩りや飢えで魂を返す人間がいなくなれば、家人も増えるいっぽうということか! ようやく理解したぞ!」
ダン=ルティムは呵々大笑しながら、俺とアイ=ファに向きなおってきた。
「ならばそれは、いずれもファの家とシュミラル=リリンのおかげということだな! ファの友として、リリンの血族として、誇らしく思うぞ、アスタにアイ=ファよ!」
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、「うむ」とうなずくばかりであった。
ただその瞳には、とても誇らしそうな光が宿されている。その眼差しこそが、俺の胸にさらなる誇りを抱かせてくれた。
「……トゥール=ディンよ、いつまでこの場で語らっているのだ? 他のかまどでも、お前がやってくるのを待ちかまえているのであろう?」
ゲオル=ザザが横合いからそのように呼びかけると、トゥール=ディンはあたふたと視線をさまよわせた。
「そ、そうでした! 申し訳ありませんが、わたしはここで失礼いたします」
「いや。せっかくだから、俺たちもご一緒させてもらうよ」
それでも血族の交流をお邪魔するのは気が引けたので、トゥール=ディンとゲオル=ザザに先頭を歩いてもらうことにした。
身長差のはなはだしい両名が、屈託なく言葉を交わし合っている。トゥール=ディンもじわじわ成長しているのだが、ゲオル=ザザも同じぐらい成長しているようで、両者の身長差は初めて見た頃からまったく変わっていないように感じられた。
(俺がこれだけ成長してるんだから、年下のゲオル=ザザが成長するのも当然か)
と、俺は隣を歩いているアイ=ファの横顔をこっそり見やりながら、そんな風に考えた。
出会った頃は2、3センチぐらいの差しかなかった俺たちであるが、今では5センチほども差がついている。また、アイ=ファはアイ=ファで多少ながらも背がのびたように思うので、俺はそれ以上に成長しているということだった。
(でも、俺もアイ=ファももうすぐ19歳だもんな。そうそうディガみたいに背がのびることは、もうないんだろう)
俺がそんな風に考えたとき、アイ=ファが横目できろりとにらみつけてきた。
「……私の顔に、何かついているか?」
「いや。俺が森辺にやってきて、もうすぐ2年になるんだなあって感慨を噛みしめてただけだよ」
アイ=ファは表情の選択に迷った様子で、結果的に唇をとがらせた。
「お前の生誕の日まで、まだ3ヶ月は残されているのだぞ? 感慨を噛みしめるのは早かろう」
「うん。でも、アイ=ファの生誕の日までは、もう半月ていどだな。今から楽しみでならないよ」
アイ=ファはいくぶん頬を染めて、俺のこめかみを小突いてきた。
とたんに、すぐ後ろを歩いていたプラティカが「どうしましたか?」と問うてくる。
「どうもせん。我々のことは、放っておけ」
「しかし、目の前ですので、視界、入ります」
「ならば、まぶたを閉ざしておけ!」
「それでは、歩くこと、ままなりません」
アイ=ファは顔を赤くしたまま、俺をにらみつけることになった。
先日のデヴィアスではないが、このような顔をしたアイ=ファににらまれるというのは、至福のひとときである。
そうして次なるかまど小屋に到着すると、そこにはモルン=ルティムやドムの女衆らが控えていた。
その姿に、ダン=ルティムが嬉々として大声を張り上げる。
「おお、ひさかたぶりだな、モルンよ! それに、ドムの女衆らも息災そうで、何よりだ!」
ドムの女衆らは、ひかえめながらも笑顔でダン=ルティムを迎えていた。ルティムの面々はドムの集落を訪れる機会も多かろうし、ダン=ルティムの社交性は規格外であるのだ。また、モルン=ルティムをルウやルティムの集落に呼び寄せるときなどは、いつもダン=ルティムが率先してミム・チャーを走らせていたはずであった。
しかし、俺がよく知るドムの女衆というのは、レム=ドムただひとりである。大いなる好奇心をもって検分させていただいたところ、レム=ドムのように筋肉隆々の女衆は他に存在しないようだった。
平均身長は、それなりに高いように感じられる。ギバの骨の飾り物を上腕や腰に垂らしているのも、レム=ドムと同様だ。それに、ザザよりもいっそう年配の女衆が少ないようだった。
(それで、人数は10人足らずなのか……まあ、森辺の氏族ってのは親筋に人数が集中するものだしな)
しかもスン家が親筋であった時代は、嫁や婿を取られるばかりで、眷族に家人が送られることは決してなかったのだと聞いている。スン家の秘密を守るために、そういった手段が取られていたのだ。そのせいで、勇猛で知られる北の集落も他の氏族と変わらぬほどの衰退を余儀なくされてしまったのだろう。
だが、ガズラン=ルティムの言葉を信じるならば、いずれの氏族でも家人の数は増えつつあるはずだ。ザザの血族がいっそうの繁栄を迎えられるように、俺はこっそり祈りを捧げることになった。
「アスタとアイ=ファも、おひさしぶりです。おふたりと祝宴をご一緒できることを、心から嬉しく思います」
と、ルティムの家人と挨拶を果たしたのち、モルン=ルティムはそのように言ってくれた。
背丈は150センチそこそこであるが、ころころとふくよかな体型をした、とても可愛らしい少女である。それに彼女も、そろそろ17歳を迎えたのであろうか。愛嬌のある丸顔に大きな変化は感じられなかったが、それでも見るたびに大人っぽくなっているように思えた。
「あ。あなたがたが、プラティカとニコラですね。わたしはルティムの家長たるガズラン=ルティムの妹で、モルン=ルティムと申します。祝宴の終わりまで、どうぞよろしくお願いいたします」
「挨拶、ありがとうございます。……ところで、あなた、何故、働いていますか? 本日、調理、取り組む、ザザの血族のみ、聞いています」
「はい。わたしはドムの家に逗留している身となりますので、本日も宴料理の準備に取り組むことになりました」
モルン=ルティムは朗らかに笑いながら、そのように答えていた。
俺などはルウの祝宴でたびたび顔をあわせているので実感を抱きにくいが、彼女はもう10ヶ月ぐらいもドムの家に逗留しているのだ。ディック=ドムとの関係性に、何か進展は生じていないのか――その屈託のない笑顔から推し量ることは難しかった。
「こちらのかまどではわたしが取り仕切り役を任されることになりましたので、ご質問があったらご遠慮なく声をおかけください。……それでは、失礼いたします」
モルン=ルティムの尽力あってか、こちらではトゥール=ディンが質問責めにあうこともなかった。ただし、ドムの女衆らもトゥール=ディンには敬愛の眼差しを向けている。
ただ――それとは別に、鋭い視線をアイ=ファに向けてくる人間が多かった。アイ=ファはレム=ドムの去就に大きく関わった立場であるので、やはり看過はできないのだろう。しばらくすると、手の空いた女衆のひとりが決然とした面持ちでアイ=ファに近づいてきた。
「失礼します。あなたがファの家長アイ=ファなのですね。あなたの名は、レム=ドムからたびたび聞かされています」
アイ=ファは、「うむ」としか答えなかった。
その凛々しいたたずまいにいくぶん怯む様子を見せてから、女衆は体勢を立て直す。この女衆も、上背だけならばアイ=ファにまさっているようだった。
「レム=ドムは、あなたに力を認められたことによって、狩人として生きることを許されたそうですね。もちろん最後に決断を下したのは本家の家長たるディック=ドムであるのですから、あなたには何の責任もない話ですが……レム=ドムが狩人として力比べに臨む姿を、あなたにしっかりと見届けていただきたく思っていました」
「うむ。私も、そのつもりだ」
アイ=ファはあくまで、淡々としていた。
しかしその青い瞳には、真剣きわまりない光が浮かべられている。それに満足した様子で、女衆は引き下がっていった。
「では、またのちほどおうかがいいたします。何かあったら、こちらのかまどに声をおかけください」
トゥール=ディンに追従して、俺たちもかまど小屋を出ることにした。
残るかまど小屋では、ザザ、ジーン、ハヴィラ、ダナの女衆がそれぞれ働いており、ディントとリッドの女衆はそこに2名ずつ配置されているのだという話であった。
ハヴィラやダナの家人とも、俺は復活祭の期間に何名か挨拶を交わしている。そちらのかまど小屋では、それらの女衆が笑顔で出迎えてくれた。
「おひさしぶりです、ファの家のアスタ。アスタにわたしたちの料理を食べていただけるなんて、とても光栄です」
復活祭でも思ったことであるが、ハヴィラやダナというのは俺の知る小さき氏族の人々とあまり変わるところのない人柄をしているようだった。北の集落とスンの集落の狭間に生きるというのは、いささか特異な環境であるように思えるのだが、これといって際立った個性は有していないように思えるのだ。
「それはやはり、スン家も北の一族も閉鎖的で、ハヴィラともダナとも交流が薄かったためなのではないでしょうか? 家人を奪うばかりであったスン家はもちろん、強き血に執着する北の一族も、あまり他の血族と血の縁を深めてこなかったのだろうと思われます」
のちのち、ガズラン=ルティムはそのように語らっていた。
確かに、この近年ではスン家とも北の集落とも収穫祭をともにしてこなかったのだから、そういう面でも絆を深める機会が少なかったのだろう。
「ですが、スン家を廃して新たな族長筋となって以来、グラフ=ザザは他の血族と絆を深めるべく心を砕いてきました。決してもう、北の一族に委縮したりはしていないように思います」
そんなガズラン=ルティムの感慨を証明するように、ダナやハヴィラの女衆らはこのザザの集落でも屈託のない振る舞いを見せていた。
また、トゥール=ディンに対する親愛の念も、北の女衆らに負けてはいないようだ。トゥール=ディンが北の集落で手ほどきをする際には、ダナやハヴィラからも数名ずつの女衆が参じており、そちらでも絆が深められているのだという話であった。
「トゥール=ディン、こちらの出来栄えは如何でしょう? よければ、味見をお願いできませんか?」
とあるかまど小屋でそんな風に呼びかけてきたのは、ハヴィラの女衆であった。
この女衆はとりわけトゥール=ディンを慕っているらしく、茶色の瞳をきらきらと輝かせている。なんとなく、アイ=ファを慕うディガやドッドやディム=ルティムのような風情である。
「はい。とても素晴らしい出来栄えだと思います。残りの分も、よろしくお願いいたします」
「ありがとうございます。わたしたちがこれほどの料理を作りあげることができるようになったのも、すべてトゥール=ディンのおかげです」
その女衆は、感極まった様子でトゥール=ディンの手を握りしめていた。
俺が充足した気持ちでその姿を見守っていると、トゥール=ディンが気恥ずかしそうに説明をしてくれる。
「あ、あの、こちらの御方はハヴィラの長兄の伴侶で……以前にわたしが、婚儀の祝宴の料理を取りしきることになったのです」
「ああ、なるほど。そういういきさつがあったんだね」
確かにその女衆はまだずいぶんと若そうであったが、既婚の装束を纏っていた。
すると、ゲオル=ザザがしたり顔で口をはさんでくる。
「言われて、俺も思い出したぞ。お前がハヴィラの長兄の伴侶だったか。……トゥール=ディンと正しく絆を結びなおせたようで、何よりだったな」
「は、はい。その節は、ザザの末弟にもお世話になりました」
と、ハヴィラの女衆はほんのりと頬を染めた。
何の話だろうと思っていると、ゲオル=ザザが笑いながら言葉を重ねる。
「こやつは婚儀をあげる前、ハヴィラの長兄がトゥール=ディンに懸想をしているのではないかと疑って、悪念を抱いていたのだ。たしか、かまど仕事のさなかにトゥール=ディンを突き飛ばしたのだったか?」
「はい。誓って、わざとではなかったのですが……トゥール=ディンに謝罪もせずに、逃げてしまったのです」
ハヴィラの女衆が、おずおずとした様子でトゥール=ディンを振り返る。
トゥール=ディンは、とても優しげな表情でそれを見返した。
「すべては、過ぎたことです。今日はひさびさに祝宴をともにすることができるので、ずっと心待ちにしていました」
「……ありがとうございます、トゥール=ディン」
トゥール=ディンの手を再び握って、その女衆は目もとを潤ませた。
斯様にして、トゥール=ディンは俺の知らない場所でもさまざまな相手と絆を深めていたのだ。俺は胸が温かくなるのと同時に、一抹の寂しさを覚えるような――なんだか、大事な妹の成長でも見守っているような心地になってしまっていた。