北の集落の収穫祭①~北の集落へ~
2020.8/10 更新分 1/1 ・8/11 誤字を修正 ・8/13誤表記を修正
・今回は、全7話か8話の予定です。
ジャガルの使節団がジェノスを出立したのは、俺たちが厨を預かった晩餐会から3日後の、茶の月の23日であった。
ジャガルの使節団は30台もの荷車と100名ばかりの兵士たちを引き連れていたが、それとほとんど同数の荷車と兵士が、ジェノスからも出されたのだという話である。数百名にも及ぶ北の民たちを移送するには、それだけの準備が必要であったのだ。
また、それらの荷車にはゲルドから買いつけられた食材が多少ばかり積み込まれていたらしい。それをサンプルとして持ち帰り、王都の然るべき人々に味見をしてもらった上で、交易を開始するかどうかが決せられるのだ。
もちろん使節団のロブロスたちは、それを直接アルヴァッハたちから買いつけたわけではない。あくまでも、ジェノスから買いつけた異国の食材として、それを持ち帰るのだ。ジェノスを間に仲介しながら、南の王都とゲルドの間に交易が開始されるか否か――答えが出るのは、ふた月後である。
「そして、シフォン=チェルという御方がジェノスに戻るのも、ふた月後ということになるのですね」
しんみりとした口調でそのように言っていたのは、トゥール=ディンであった。彼女はかつての茶会でシフォン=チェルの姿を見ていたので、森辺の民の中ではまだしも面識のあるほうであったのだ。
「そうまで絆を深めた相手と、ふた月も離ればなれになってしまうというのは、いったいどのような心地であるのでしょう……わたしには、想像もできません」
「うん、そうだね。こればかりは、強い気持ちで乗り越えるしかないんだろうと思うよ」
俺自身は、シフォン=チェルとふた月ばかり顔をあわさないことも、ざらであった。というか、彼女と出会ってからすでに1年半ほどが経過しているというのに、実際に顔をあわせたことは数えるほどしかないぐらいであったのだ。
いっぽうリフレイアは、もちろん毎日顔をあわせる間柄であったのだろう。そんな相手とふた月も離れて暮らさなければならないのは、苦痛以外の何ものでもないのであろうが――それでも、その先にはこれまで以上の幸福な生が待ちかまえているはずであった。
そしてこれは余談であるが、南の王都を目指す一団には、リフレイアの従者たるサンジュラも加えられていた。名目は、シフォン=チェル個人のための護衛役である。
この世界において、長旅というのはきわめて危険なものであるのだ。もちろんこれだけの兵士に守られていれば無法者に襲われることはそうそうないだろうと思うのだが、リフレイアとしては楽観的にかまえてはいられなかったのだろう。
それにそもそも、南の王都からシフォン=チェルを連れ帰るというのはトゥラン伯爵家の都合であるため、ジェノスの兵士たちが生命を賭してまで守り抜く義務は存在しないのである。そういう面での義理を通す意味でも、サンジュラの同行が必要であるのだという話であった。
「よって、私、ふた月の間、不在です。……ライエルファム=スドラ、くれぐれも、よろしくお伝えください」
ジェノスを出立する前日、俺たちの屋台を訪れたサンジュラは、そのように言っていた。彼はずいぶんな昔に、「もっと森辺の民と絆を深めるべきではないか」とライエルファム=スドラに言いたてられた一件を、ずっと重く受け止めていたようだった。
「サンジュラも、どうかお気をつけて。またお会いできる日を楽しみにしています」
「はい。アスタ、このようなこと、頼む、筋違いですが……リフレイア、どうぞよろしくお願いいたします」
サンジュラとしても、リフレイアのもとを離れるのは断腸の思いであるのだろう。しかしまた、リフレイアにそうまで願われては、拒むこともできないに違いない。なかなか内心の読めないサンジュラであるが、彼が自分よりもリフレイアの存在を重んじていることだけは、疑いがなかったのだった。
そうして北の民を移送する一団は、ジェノスを出立していった。
けっきょく使節団は6日ていどしか滞在しておらず、俺などはひとたびしか顔をあわせていないのに、なんだかぽっかりと胸に穴でも空いたかのような心境である。まあ、使節団のロブロスやフォルタというのはそれだけ印象的な人々であったし、シフォン=チェルを除く北の民たちとはこれが今生の別れになるのであろうから、それもおかしな話ではないのだろう。
しかしまた、俺がそんな感慨にふけっていられるのも、わずか数日限りのことであった。この茶の月の終わりから赤の月の始まりにかけて、俺たちにはまだまだ大きなイベントがふたつばかりも残されていたのである。
それはすなわち、北の集落における収穫祭と、ゲルドの人々の送別の祝宴であった。
◇
まずは、北の集落の収穫祭である。
その日取りは、茶の月の26日と決せられた。まったくもって恐縮の限りであるが、その日取りも屋台の休業日に合わせられることになったのだ。
その日の朝、俺たちは3台の荷車で北の集落を目指すことになった。
このたび収穫祭に招待されたのは、ファとルティムの面々である。ファの家は、収穫祭に変革をもたらした責任者として、ルティムの家は、モルン=ルティムとディック=ドムにまつわる関係から、それぞれ招待される運びとなったのだ。さらに、ザザの眷族たるディンとリッドからも家長やかまど番の手伝いなどが招かれていたが、それは前日から泊まり込んでいるとのことで、行動を別にしていた。
「狩人の力比べも宴料理も、楽しみなところだな! 可能であれば、俺も力比べにまぜてほしいほどだ!」
ギルルの荷車に同乗したダン=ルティムは、そのように言いたてていた。ルティムからは10名ばかりの家人が出向くとのことであったので、1台の荷車に乗りきれなかった分はこちらがお世話をすることにしたのだ。
ちなみに3台目の荷車に乗っているのは、プラティカとニコラであった。城下町からの客人らとともに、彼女たちの見学も認められる運びとなったのである。森辺の中でも閉鎖的なきらいのある北の集落としては、実に寛大なはからいと言えるはずであった。
「ダン=ルティムやガズラン=ルティムは、すでに何度も北の集落を訪れているのですよね。あちらは、どのような様子なのでしょう?」
「うむ? べつだん、他の集落と変わるところはないように思うぞ! 初めて北の集落を訪れた際などは、いささか空気がぴりついていたようだがな!」
もともとルウの血族とスンの血族は、激しく対立する間柄であったのだ。スンの眷族の筆頭であった北の狩人たちがどれだけ恐ろしげな存在であったかは、俺も最初の家長会議でぞんぶんに味わわされていた。
しかし、あれだけ角突きあっていた北の一族の集落に、俺たちは客人として招かれている。それこそが、森辺にもたらされた変革の証に他ならなかった。
「ディム=ルティムも、北の集落を訪れたことはあるのかな?」
俺がそのように問いかけると、見習いの狩人たる少年ディム=ルティムは仏頂面で「いや」と首を横に振った。
「ルウの血族と北の集落は家人の行き来を多くしていたが、俺のような若輩者が出張る理由はなかった。今日の収穫祭とて、俺が無理を言って加わらせてもらったようなものなのだ」
「べつだん、無理な願いではないでしょう。若い人間こそ余所の氏族と絆を深めるべきであると、私はそのように考えています」
ルティムの家長たるガズラン=ルティムは、普段通りの穏やかな表情でそのように答えていた。
「また、北の集落の力比べは、あなたに大きな刺激をもたらすことでしょう。それを糧にして、あなたもいっそうの修練に励んでください」
ディム=ルティムは張り詰めた面持ちで、「はい」とうなずいた。
そうして小一時間ばかりも森辺の道を駆けていると、先頭の荷車が速度を落とし始めた。
「うむ! 北の集落に到着したようだな!」
道の左右に、細い横道が見えていた。
しかし荷車はゆったりとした足取りながら、そのまま真っ直ぐに進んでいく。ガズラン=ルティムいわく、それはドムやジーンの集落に至る横道であるのだそうだ。
そうして道の行き詰まりに、ザザの集落が現れた。
森辺に長々と切り開かれた、南北の道の最果てに、ザザの集落は存在したのである。
先頭の荷車は、広場の入り口で停止する。
すると、広場から小さな人影がちょこちょこと駆けてきた。まだ幼い、10歳ぐらいの男児である。
「ザザの家にようこそ! ルティムとファの方々ですね? ドムの家にご案内しますので、そちらに荷車を置いていただけますか?」
その男の子はミム・チャーの御者に呼びかけているのに、俺たちのほうにまで声が聞こえてきた。
ともあれ、3台の荷車はUターンである。さきほど素通りした横道のひとつに入っていくと、そちらにも小さからぬ広場が広がっていた。
「荷車は、広場の端にお願いいたします! トトスは、ザザの家でお預かりしますので!」
少年の案内に従って、俺たちはトトスを荷車から解放してやった。プラティカが操っていたのはゲルド生まれのトトスが2頭なので、その途方もない大きさに少年は目を丸くしてしまっている。
しかし俺としては、ミム・チャーの荷車から降りてきた人々の様子こそが気になっていた。ルティムからは男女5名ずつの家人がおもむいてきていたが、その内の2名はツヴァイ=ルティムとオウラ=ルティムであったのだ。
両名がルティムの家人となってからこの場所を訪れるのは、初めてであると聞いていた。なおかつ、まだ若年のツヴァイ=ルティムに至っては、スン家の家人であった頃にも北の集落を訪れる機会はなかったらしい。
ツヴァイ=ルティムは仏頂面で、オウラ=ルティムはやわらかい表情で、それぞれドムの集落を見回している。その胸にどのような思いが去来しているかは、推し量ることも難しかった。
「あら。もう来たのね、アイ=ファにアスタ」
と、そこに長身の人影が近づいてくる。ドム本家の家長の妹、レム=ドムである。レム=ドムはアイ=ファに色っぽい流し目を送ってから、ルティムの面々にも笑みを振りまいた。
「ガズラン=ルティムとダン=ルティムも、おひさしぶり。息災なようで、何よりだわ」
「ええ、そちらも」と、ガズラン=ルティムは折り目正しく応じる。
そして、ディム=ルティムの姿を発見したレム=ドムは、また「あら」と言って目を丸くした。
「あなたはたしか、分家のディム=ルティムよね。あなたまで来てくれたなんて、嬉しい限りだわ」
「うむ? 何故にレム=ドムが、俺の来訪を嬉しく思うのだ?」
「わたしは闘技会の見物に出向いていたのよ。あれはなかなか、面白い見世物であったわ」
レム=ドムはにんまりと笑いながら、ディム=ルティムの前に歩を進めた。ディム=ルティムもめきめき成長中であるものの、まだ14歳の若年である。180センチ近い長身を有するレム=ドムよりは頭半分ぐらいも小柄であり、なんなら筋肉量でも負けているのかもしれなかった。
「あなたとわたしって、そんなに力量に差がないように思えるのよ。そんなあなたが町の剣士たちとやりあっている姿を見て、わたしは身体を疼かせることになったわ。今日はあなたにも同じ思いを抱いてもらえたら、幸いね」
「……やはりレム=ドムも、力比べに加わるのであろうか?」
「当たり前じゃない。わたしは女衆の見習いでも、れっきとした狩人であるのよ?」
ディム=ルティムの仏頂面を見下ろしながら、レム=ドムはいっそう不敵に笑った。
「まあ、今日は楽しんでいってちょうだい。ルウの血族の収穫祭にも負けないぐらい、面白いものを見せてあげるわ」
そのとき、あらぬ方向から「おおい!」という声が聞こえてきた。
振り返ると、大小の人影がこちらに駆け寄ってくる。ドムの家人たる、ディガとドッドである。
「も、もう来たんだな。待ってたよ、オウラ――オウラ=ルティムに、ツヴァイ=ルティム」
オウラ=ルティムは目を細めて、「ええ」と微笑んだ。
「おひさしぶりですね、ディガにドッド。お会いできて、嬉しく思います」
オウラ=ルティムとディガは、おそらく10歳も離れていない。しかし彼らは、もともと義理の親子であったのだった。
義理ではなく本当の親子であったツヴァイ=ルティムは、腹違いの兄たちを見上げながら「フン!」と鼻を鳴らす。
「アンタたち、また身体がでかくなったんじゃないの? そのうち、ミダ=ルウみたいにぶくぶくの姿になるんじゃないのかネ!」
「そういうお前は、ちっとも大きくならねえなあ。ルティムの家だったら、美味い食事を食い放題だろうによ」
ドッドのほうが、笑いながらそんな風に答えていた。確かに彼は、俺よりも背丈は低いものの、また肉づきがよくなったように感じられた。
ただし、余分な肉などは一片たりとも存在しないのだろう。装束の上からでも、僧帽筋や広背筋の尋常でない盛り上がりを見て取ることができる。なおかつ、最近は長めの髪をオールバックにしているので、狛犬のように厳つい顔もあらわにされているのだが、その表情はとても柔和で優しげであった。
いっぽうディガは、また背がのびたように感じられる。上背も身体の厚みも、もはやガズラン=ルティム以上であるようだ。成長期などとっくに終わっているであろうに、美味なる食事が彼にさらなる発育をうながしたのだろうか。
そして、以前よりも引き締まったその顔には、ドッドと同様の表情がたたえられている。ひさかたぶりにかつての家族たちと会うことができて、子供のように喜んでいる様子だ。
「あ……アイ=ファとアスタも一緒だったんだな」
と、せかせかとした足取りでこちらにも近づいてくる。その姿を見て、レム=ドムが苦笑をこぼした。
「何よ、あなたたち。まるで、腹を空かせた猟犬みたいね」
「うるせえなあ。ひさしぶりなんだから、いいだろう?」
ディガもドッドも、はにかむような笑顔であった。ここ最近は俺たちとも顔をあわせる機会が増えたためか、いよいよ屈託がなくなってきたようだ。かつては俺とアイ=ファを害そうとしていたなどとは、信じ難いほどである。
「今日は俺たちも、力を尽くすからな。まだまだ見習いだけど、みっともねえ姿は見せられねえからさ」
「ああ。ダナやハヴィラの前で醜態をさらしたら、ドムの恥になっちまうからよ」
「そうか」と、アイ=ファは目だけで微笑んだ。
「お前たちがどれだけの力をつけたのか、私も楽しみにしている。勇者の座を手にする心意気で、力を尽くすがいい」
「へへ。それはさすがに、望みすぎだけどな」
以前にも思ったことであるが、ディガとドッドはひときわアイ=ファに心を寄せているようだった。狩人としての力をつけるにつれ、アイ=ファの力量が体感できるようになり、それで感服するに至ったようであるのだ。さきほどのレム=ドムの発言も言い得て妙で、それは主人になつく猟犬の様相を思わせた。
ちなみにファの家の人間ならぬ家人たちも、もちろんこの場に集結している。俺の左肩に乗った黒猫のサチは無関心の態であるが、ブレイブたちはディガとドッドの様子をうろんげに見やっていた。
「では、ザザの集落に案内したいのですが、よろしいでしょうか?」
と、俺たちをここまで導いてくれた男の子が、そのように声をかけてきた。やはりこれだけの客人を迎えるのが珍しいのか、緊張の面持ちで頬を火照らせている。ギバの毛皮でできたたすきのようなものを肩に掛けている他は、余所の集落の幼子と変わりのない姿であった。
「グラフ=ザザには、これから挨拶をするのね? それじゃあ、それが済んだらこっちにいらっしゃいよ。あっちは宴料理の準備やら何やらで、慌ただしいでしょうからね」
レム=ドムがそんな風に声をかけたのは、オウラ=ルティムに対してであった。
オウラ=ルティムは人をそらさぬ微笑をたたえて、そちらに向きなおる。
「親切なお申し出をありがとうございます。わたしたちは、家長のお言葉に従おうかと思います」
「あら。ガズラン=ルティムだって、それを咎めたりはしないでしょう?」
「はい。かまど仕事の見物を望む者もいるでしょうから、それ以外の家人は自由にさせようかと思います」
すると、ダン=ルティムが「そうだな!」と大きな声を張り上げた。
「グラフ=ザザはもちろん、モルンにもディック=ドムにもジーンの家長にも挨拶をせねばならんからな! 力比べが始まるまで、俺は適当に動き回らせてもらいたく思うぞ!」
ダン=ルティムがそのように言いたてると、レム=ドムは「ふふん」と色っぽく鼻を鳴らした。
「申し訳ないけれど、ディックへの挨拶は後回しにしてもらえるかしら? 今はちょっと、気を静めているさなかであるのよ」
「ふむ? 何か気を立たせるようなことでもあったのであろうか?」
「ううん。ただ、今回はやたらと狩人の力比べに意気込んでいるようなのよね。たぶん、右手の古傷が気になっているのじゃないかしら」
そう言って、レム=ドムは咽喉で笑った。
「狩人の仕事では、なんの不備もないのだけれどね。それでもやっぱり、万全とは言えない状態なのでしょうよ。いつも取りすましているディックが朝からカリカリしているのが、もうおかしくって」
「なるほどな! 俺も深手を負って力比べに出られぬことがあったから、その気持ちはわかるように思うぞ!」
ということで、俺たちはひとまずザザの集落を目指すことになった。
その道中で、ディム=ルティムがアイ=ファへと語りかけてくる。
「アイ=ファよ。お前は『弱者の眼力』なるものを有しているのであろう? あのレム=ドムは、本当に俺と同程度の力量なのであろうか?」
「うむ。確たることは言えぬが、同程度と言って差しさわりはないように思う」
「そうか」と、ディム=ルティムは口をへの字にしてしまった。
アイ=ファはいぶかしそうに首を傾げる。
「どうしたのだ? 何やら、不服そうな面持ちだな」
「うむ……あのレム=ドムは、まだ森に出てから1年ていどであるのだろう? また、それまでは男衆ほどの修練を積んではいないはずだし……そんなレム=ドムと同程度の力量であるというのは、不甲斐なく思えてしまうのだ」
「ふむ」と、アイ=ファは思案顔になった。
「そういうお前は、森に出てどれほどの月日となるのだ?」
「俺は灰の月の生まれとなるので、もう1年と4ヶ月は過ぎている」
「しかし、その内の数ヶ月は、深手を負って身を休めていたはずだな」
確かに、彼はその期間に城下町やダバッグでの護衛役を果たしてくれたのだ。ダン=ルティムよりも復帰は早かったはずであるが、最低でも2、3ヶ月は休養していたはずであった。
「何にせよ、狩人は2年ていどで見習いの期間を終えることになっている。お前もレム=ドムもいまだ見習いの身であるのだから、ここで力量を比べても意味はあるまい」
「だが、俺が不甲斐ないことに変わりはないように思う」
「いや。見習いの身に、不甲斐ないも何もない。肝要であるのは、2年を終えるまでにどれだけ正しく力を身につけるかであるのだ」
いくぶん厳しい眼差しになりながら、アイ=ファはそう言った。
「強き力を求めるのは、決して間違った思いではない。しかし、思いも過ぎれば邪念となろう。今は他者の力量など気にせずに、たゆみなく修練に励むのが本道であろうと思う。それが、お前の力となるはずだ」
「……アイ=ファも15歳になるまでは、そのような心持ちで修練に励んでいたのか?」
アイ=ファの厳しい眼差しが、ふっと遠い眼差しとなった。
「そうだな。……15歳になるまで、私のかたわらには父の存在があった。父の背中を追ってはいたし、自らの力量と比べていたからこそ、『弱者の眼力』なるものが育まれたのやもしれんが……それでも、自分の至らなさを気に病んだ覚えはない。ただ、父のように立派な狩人になるべく、奮起したまでだ」
ディム=ルティムは、愕然としたように目を見開いた。
「アイ=ファは……いったいいつから、ひとりで森に入っていたのだ?」
「15歳となった赤の月の、翌月からとなる。私はその月に、父を失ったからな」
アイ=ファがこのように家族のことを語るのは、きわめて珍しいことであった。
ディム=ルティムは、悄然とした様子で肩を落としてしまう。
「アイ=ファはそれだけの試練を乗り越えたからこそ、それほどの力と心がまえを身につけることがかなったのであろうか。……本当に、自分の至らなさを不甲斐なく思う」
「だから、そのように他者の存在を気に病むなと言っているのだ。まったく、わからぬやつだな」
口調は厳しいが、アイ=ファの表情は優しかった。
「そもそもお前には、あれほど心強い血族が山ほどいるではないか。お前を正しく導くのは、ガズラン=ルティムやダン=ルティムらの役割であるはずだぞ」
「家長やダン=ルティムに、こんなぶざまな姿を見せたくはない。……あ、いや、決してアイ=ファの存在を軽んじているわけではないのだが!」
と、ディム=ルティムは珍しくも顔を赤くした。
「ただ、アイ=ファは……そのように若くて、しかも女衆であるのに、それほどの力を身につけているから……俺もついつい頼ってしまうのかもしれん」
「おかしなやつだな。出会った当時は、ずいぶん険しい目つきで私をにらみつけていたように思うのだが」
「だ、だからあれは、アイ=ファがダン=ルティムと互角の勝負をしたということがなかなか信じられなかったので……そ、そんな古い話を蒸し返さなくてもいいではないか」
「べつだん、お前をからかっているわけではない。ただ、私などの背中を追う必要はないと伝えたかっただけだ」
優しい表情のまま、アイ=ファはそう言った。
「私は『贄狩り』によって、無理に収獲をあげていたにすぎん。そうして自らを窮地に追い込むことによって、他の狩人よりも手早く力をつけることがかなったのであろうが……それは自らの死を顧みない間違ったやり方であったのだと、今では思っている。死を恐れないことと死を顧みないことは、似ているようでまったく異なったものであるのだ」
「…………」
「ファの家は家人が少なかったため、ギバ寄せの実に頼らざるを得なかったのであろう。私の父もまた、卓越した力量の狩人であったのだが……最後には、若くして魂を返すことになった。『贄狩り』とは、それだけ危険な作法であったゆえに、他の家では禁じられることになったのであろうと思う。かつてはドンダ=ルウとて、『贄狩り』を行っていた私に強い怒りを抱いていたはずであるのだ」
「…………」
「しかし我々は、猟犬を家人にすることができた。また、ギバの肉や料理を売ることによって、豊かな暮らしを手に入れることができた。今後はいずれの氏族であっても、『贄狩り』などは行わずに確かな収獲をあげることがかなおう。よって、『贄狩り』で力を得た私の背中など、追う必要はないということだ」
「いや」と、ディム=ルティムは言い張った。
その目には、なんだか子犬のようにきらきらとした光が浮かべられている。
「やっぱり俺は、アイ=ファを尊敬する。お前はたぶん、俺が思っていた以上に……立派な狩人であり、立派な家長であるのだ」
ずっと無表情を保っていたアイ=ファは、こらえかねたように苦笑をこぼした。
「本当に、よくわからんやつだな。まあ、邪道の狩人などと蔑まれるよりは、ましか」
「アイ=ファを邪道な狩人だなどと言いたてるやつがいたら、俺が代わりに叩きのめしてくれよう」
どうやらディム=ルティムもまた、いっそうアイ=ファに魅了されてしまったようだった。
まあ、それも致し方のない話であるのだろう。狩人として振る舞うアイ=ファは、俺の目から見たって抜群に格好よく、そして力にあふれているのだ。ディガやドッドやディム=ルティムのような見習いの狩人には、光り輝くような存在であるに違いない。語らうふたりの隣を歩きながら、俺はひそかに得もいわれぬ誇らしさを抱くことができた。
「あらためまして、こちらがザザの集落となります」
少年の案内で、俺たちはザザの集落に足を踏み入れた。
確かにダン=ルティムの言う通り、ぱっと見には他の集落と変わるところはない。ルウの集落にも負けないほどの広さであり、家も6軒はありそうであった。
それらの家屋の裏からは、煙や湯気があがっている。まだ上りの四の刻にもなっていないはずであったが、かまど仕事が始められているのだ。広場の中央には儀式の火のための薪が積み上げられ、勇者が座すると思しき壇や、保温のための簡易かまどもぬかりなく準備されていた。
「ダナやハヴィラの女衆も、すでに到着しているのですか?」
ガズラン=ルティムが問いかけると、少年は元気に「はい!」と答えた。
「宴料理の準備をするために、すべての女衆が居揃っています! 赤子や幼子なども荷車で運ばれて、今は分家に集められているはずです!」
そうして少年は、アイ=ファのほうをくりんと振り返った。
「猟犬たちも、それらの分家に集められています! そちらの猟犬もお預かりしましょうか?」
「いや。力比べが始められる刻限までは、こうして連れ歩きたく思う。こやつらは、日の光を浴びることを好んでいるのでな」
「そうですか」と答えてから、少年はちょっともじもじとした。
「ところで、あの……そちらの黒い猟犬は、ずいぶん身体が大きいのですね。そのような猟犬は、初めて目にしました」
「これは猟犬ではなく、番犬というものだ。かつて王都の貴族に譲られたもので、普段は家の留守を守る役目を与えている」
「そうだったのですね! ……あの、あとでその番犬をさわらせていただけますか?」
アイ=ファが「かまわんぞ」と答えると、少年は嬉しそうに顔を輝かせた。
のしのしと広場を進みながら、ジルベは不思議そうに太い首を傾げている。
そうして俺たちは、ザザの本家に辿り着いた。
少年が声をかけると、見知らぬ男衆がぬっと現れる。まだ若そうだが、ダン=ルティムのように図体の大きな男衆だ。毛皮のかぶりものはしていないため、その厳つい顔もあらわにされている。
「ルティムとファの客人らか。しばし待たれよ」
何か、先日の合同収穫祭を思い起こさせる展開であった。あのときも、ラヴィッツの本家を訪れた俺たちを、厳つい風体の末弟が迎えてくれたのだ。まあ、女衆らはかまど仕事や幼子の面倒にかかりきりであろうから、自然とこういう展開になるのだろう。
しかし、そこからは展開が違っていた。
家長のグラフ=ザザより先に、複数の男衆がどやどやと姿を現したのだ。
「おお、待っていたぞ! ひさかたぶりだな、ダン=ルティムよ!」
「おお、リッドの家長か! 確かにこれは、ひさかたぶりだな!」
ラッド=リッドとダン=ルティムは、まるで兄弟のように豪快な笑い声を響かせた。先乗りしていたリッドとディンの男衆らは、このザザの本家でくつろいでいたのだ。ディンの家長の隣にゼイ=ディンの姿を認めた俺は、そちらに挨拶をさせていただいた。
「おひさしぶりです、ゼイ=ディン。今日は待ちに待った、ザザの収穫祭ですね」
「うむ。このような場に参じることができて、心から得難く思っている」
渋みのきいた30歳前後の男衆であるゼイ=ディンは、口髭の生えた口もとにやわらかい微笑をたたえながら、そんな風に言ってくれた。
本来、こういう場には未婚の若い家人を同行させるのが通例であるが、ゼイ=ディンは合同収穫祭の勇者ということで参席が認められたのだ。それを俺に教えてくれたときのトゥール=ディンは、それはもう心から嬉しそうな顔をしていたものであった。
もちろん俺も、トゥール=ディンの大事な父親と祝宴をともにすることができるのだから、とても嬉しく思っている。
その気持ちを表明するべく、俺は言葉を重ねようとしたのだが――最後に現れた男衆の姿に、ぎくりと身体をすくませることになってしまった。
見覚えのない男衆である。少なくとも、ディンやリッドの家人ではない。
その場にいる誰よりも長身で、鍛え抜かれた体躯をしており、しかも魁偉な風貌をしている。ドンダ=ルウにも負けない迫力で、黒褐色の髭に覆われたその顔は、ギバの化身とでも言いたくなるような様相であった。
なおかつその人物には、余人と異なる大きな特徴があった。
その人物は、頭部にひどい古傷を負っていたのだ。
いったいどのような奇禍に見舞われたら、このような深手を負うことになるのか。頭の右半分が赤黒く引き攣れており、外耳もまるまる欠損してしまっている。それでいて、頭の左半分には黒褐色の蓬髪が垂れていたので、古傷の生々しさがいっそう際立ってしまっていた。
「ひさしいな、ルティムにファの者たちよ。ずいぶん早くに参じたものだ」
ごわごわとした髭に覆われた口もとから、重々しい声が吐き出される。
その声で、俺はまた驚かされることになった。それはずいぶんひさびさであったが、まぎれもなくグラフ=ザザの声であったのだ。
「うむ、ひさしいな、グラフ=ザザよ! 息災なようで、何よりだ!」
そんな風に言ってから、ダン=ルティムはにっこりと微笑んだ。
「しかし、ギバの毛皮の下には、そのような顔が隠されておったのだな! ずいぶん派手な古傷だが、いったいどのような目にあったのだ?」
「ふん……まだ未熟であった頃、ギバによって崖から突き落とされたのだ。岩盤に頭を削られて、しばらくは生死の境をさまようことになった」
聞いているだけで、こちらが痛くなるようなエピソードであった。
しかし、よくよく見ればその顔は、ギバの毛皮の陰に見え隠れしていた顔に他ならない。それが大きな古傷によって、いっそうの迫力をかもし出していた。
「スフィラはかまど仕事で、ゲオルもそれを見物しているのであろう。お前たちも、かまど仕事の見物か?」
「うむ。そしてこちらの両名は、グラフ=ザザとも初めてであるはずだな」
アイ=ファの視線を受けて、プラティカとニコラが進み出る。プラティカはいつも通りの凛々しい無表情であったが、ニコラはいくぶん顔色をなくしてしまっていた。さすがにグラフ=ザザの迫力に気圧されてしまっているのだろう。
「ふん。ゲルドと城下町のかまど番というやつか。……いちおう、名前を確認させてもらおう」
「私、ゲルの料理番、プラティカ=ゲル=アーマァヤです」
「わ、わたしはダレイム伯爵家の料理長ヤン様の下で働く、ニコラと申します」
グラフ=ザザは底光りする黒い瞳で、両名の姿を均等にねめつけた。
「俺はザザ本家の家長にして森辺の三族長のひとり、グラフ=ザザという者だ。お前たちがこのザザの集落において森辺の掟を踏みにじることあらば、俺が罰を下すことになる。……森辺の掟については、わきまえていような?」
「はい。森辺の掟、破らないこと、誓約いたします」
「は、はい。わ、わたしも誓います」
「……森辺の掟を破らぬ限りは、客人だ。何か不便があれば、家人に申しつけてもらいたい」
そうしてグラフ=ザザは、かたわらの男衆を振り返った。最初に出迎えをしてくれた、大柄な若者だ。
「力比べの刻限までは、お前も案内に加わるがいい。決して客人を粗略に扱うのではないぞ?」
「うむ。わきまえている」
そうして俺たちは、ザザの本家を辞することになった。
案内役に加わった男衆が、あらためて挨拶をしてくる。彼は、グラフ=ザザの姉の子であるとのことだった。もっと若い時分に両親と弟を失ってしまったため、妹ともども本家の家人になったのだそうだ。
(そういえば、ザザの本家でも長兄と次兄が魂を返してしまったから、末弟のゲオル=ザザが跡継ぎになったって話だもんな。やっぱり他の集落よりも、若くして魂を返す人間が多いんだろうか)
何にせよ、俺が知る北の集落の狩人というのは、いずれも尋常でない迫力を備え持っている。この若い男衆も、その印象から外れる存在ではなかった。
これだけの狩人が居揃っていれば、力比べもさぞかし激戦を極めるのだろう。荒事が苦手である俺は、狩人の力比べでそうそう血がわきたつこともないのだが――そんな俺でも、今日ばかりは何だか胸の高鳴りを覚えてしまっていた。