南の王都の使節団⑥~貴き人々~
2020.7/27 更新分 1/2
「ああ、アスタにアイ=ファ。もう料理の説明をするお役目を終えられたのですか?」
そのように声をかけてくれたのは、ジザ=ルウと行動をともにしていたレイナ=ルウであった。円卓の座席には座っておらず、サトゥラス伯爵家の面々と言葉を交わしていたようだ。
「うん。ダリ=サウティとリミ=ルウが来たら、俺たちは追い払われてしまったよ。あちらもなるべく大勢の相手と言葉を交わしたいのかもね」
「そうですか。わたしたちも、もうしばらくしたら挨拶に出向こうかと話していたところであったのです」
レイナ=ルウの言葉にうなずいたジザ=ルウが、俺たちのかたわらにふっと視線を差し向けた。
「ところで、そちらは……闘技会で勇者となった、デヴィアスだな」
「おお、ジザ=ルウ殿か! 壮健なようで、何よりだ!」
デヴィアスは、けっきょく俺たちにひっついてきていたのだ。ルイドロスは、相変わらずの優雅なたたずまいで酒杯を掲げていた。
「デヴィアスも、森辺の方々と懇意にしていたのだな。さすがは闘技会で覇を争った仲というべきか」
「ええ、まだまだ懇意にし足りないぐらいでありますな」
そんな挨拶を交わしてから、ルイドロスは俺とアイ=ファの姿を見比べてきた。
「今、ジザ=ルウ殿らの話をうかがっていた。南の使節団について、何か思うところがあるそうだな」
「うむ。あの者たちは、どこか真情を覆い隠しているように感じられるのだ」
ルイドロスとアイ=ファが挨拶以上の言葉を交わすというのは、珍しいことである。
ルイドロスは綺麗に形の整えられた口髭を撫でながら、「ふむ」とうなずいた。
「貴族という身分にある者は、個人としての感情よりも自分の立場を重んじなければならない場面が多い。むしろ、自分の感情を覆い隠さない人間のほうが希少なのではなかろうかな」
「うむ……あなたもかつては、そうしてジザ=ルウに問い詰められることになってしまっていたな」
「おお、苦い記憶を掘り起こしてくれるものだ! ……しかしあれとて、サトゥラス伯爵家の当主として正しく振る舞おうと念じてのことだ。率直さを旨とする森辺の民には歯がゆい面もあろうが、貴族というのはそういうものであるのだよ」
ルイドロスは気分を害した様子もなく、酒杯の果実酒で口を湿した。
「そしてまた、隠された内心に悪念が潜んでいると決めつけたものではない。南の客人らが率直ならぬ態度であっても、それをもって悪と断じるのは早計であると、わたしはそのように語らっていたのだ」
それは貴族として、実に中立的な意見なのかもしれなかった。
ジザ=ルウはその言葉を噛みしめるようにしばし沈黙を保ってから、「うむ」とうなずく。
「同じ貴族であるあなたの言葉は、しっかりと心に留めさせていただこう。……では、これで失礼する」
「なんだ、もう行ってしまうのか?」と言いたてたのは、子息のリーハイムであった。その目は名残惜しそうに、レイナ=ルウを見やっている。
「俺はまだ、感謝の言葉を伝えきっていない。またのちほど、時間をもらえるだろうか?」
「感謝のお言葉は、もう十分です。あなたのお言葉は、わたしに大きな誇りと喜びを与えてくださいました」
レイナ=ルウは、屈託のない笑顔でそのように答えていた。
「そして、わたしのほうこそ、あなたに感謝の言葉を伝えさせていただきたく思います。わたしにあのような仕事を任せてくださり、ありがとうございます、リーハイム」
「ああ。他の貴族にやっかまれないぐらいの時間を空けたら、またお願いするよ」
リーハイムは、はにかむように笑っていた。
この偏屈なる若君がこんな表情を見せるのは、おそらく初めてのことである。過去の悪縁を乗り越えて、レイナ=ルウとも正しく絆を結べなおせた様子であった。
そうしてジザ=ルウとレイナ=ルウは、広間の中央へと戻っていく。おそらく、あちこちに散っている使節団のメンバーを捜しに行ったのだろう。本日の俺たちは、貴き人々と絆を深めるのと同時に、南の使節団の真情を見定めなければならなかったのだ。
俺たちもサトゥラス伯爵家の面々に挨拶をして、ジザ=ルウたちとは別の方向に足を向ける。俺としては、早めにリフレイアと言葉を交わしておきたかったのだが――その前に、あたりをはばからぬ大声で呼び止められることになった。
「おお、アイ=ファにアスタではないか! こちらの者たちが、お前さんたちと言葉を交わしたがっておるぞ!」
森辺の民の最後の小隊、ダン=ルティムとガズラン=ルティムの親子コンビである。同じ円卓を囲んでいるのは使節団のメンバーであったため、俺たちも素通りすることはできなかった。
「ほうほう、こちらが傀儡の劇に登場していた、ファの家の方々ですか。お目にかかれて、光栄であります!」
「さあ、どうぞどうぞ。よろしければ、我々にもご挨拶をさせてくだされ」
片方は、日中にガズラン=ルティムらと会談していた書記官であり、もう片方は、フォルタと同じような格好をした武官であった。どちらも壮年の男性で、厳つい顔に陽気な笑みを浮かべている。想像以上に、友好的なお出迎えであった。
「遠目にもおうかがいしていたが、実にお美し――あ、いやいや、そのように褒めそやしてはいけないのでしたな! ついさきほどガズラン=ルティム殿に忠告されたところであったのに、うかうかと心情をこぼしてしまいました!」
「わかりますぞ!」と応じながら、デヴィアスは真っ先に着席した。アイ=ファは円卓に手をついて、懸命に溜め息を呑み下している。
「……どうしてあなたまでもが、同じ場に居座ろうとするのだ?」
「まあまあ、よいではないか。こちらの森辺の御仁とは初対面であるように思うので、紹介していただきたく思うぞ」
ガズラン=ルティムとは、かつて城下町でも対面している。よって、初対面となるのはダン=ルティムであった。
ダン=ルティムは好奇心にどんぐりまなこをきらめかせながら、愛息を振り返る。
「ガズランよ、こやつは何者だ? 町の人間にしては、ずいぶんな手練れであるようではないか!」
「こちらは護民兵団の、デヴィアスです。闘技会で、その名はお聞きになったでしょう?」
「おお、デヴィアス! ディム=ルティムを打ち負かした、あの男か! ならば、これほどの力をみなぎらせているのも当然だな!」
「おや、あなたがたは、ディム=ルティム殿をご存じで?」
「ご存じも何も、あやつは俺たちの血族だ!」
ということで、ダン=ルティムとデヴィアスは実に騒々しく初対面の挨拶を交わすことになった。
また、使節団の両名にはジェノスの闘技会についてが語られていく。武官であるほうの御仁は、子供のように目を輝かせてその言葉を聞いていた。
(さすがはダン=ルティムとガズラン=ルティムだな。もう旧知の友人みたいな雰囲気じゃないか)
そうして俺が感心していると、小姓たちによって料理が届けられた。『マイム流のミソ煮込み』と、ホボイのドレッシングをかけた『ギバしゃぶ温野菜サラダ』である。
「こちらの方々は、長きに渡って使節団として働いているそうです」
料理の到着によっていくぶん座が静まる頃合いを狙って、ガズラン=ルティムがそのように説明してくれた。
「使節団の団長であるロブロスという御方や、兵士長のフォルタという御方とも、浅からぬ間柄であるとのことですね」
「ええ。ロブロス殿は、王陛下の覚えもめでたき名士であられますよ。このたびも、斯様に難儀な案件を首尾よくまとめあげてしまいましたからな!」
書記官たる人物が、にこにこと笑いながらそのように言いたてた。
「森辺の方々は、北の民たちに憎からぬ心情を抱いておられるのでしょう? ロブロス殿におまかせすれば、何も案ずることはございませんぞ! 北の民たちが南の民として心安らかに暮らしていけるように、ロブロス殿は寝る間も惜しんで最善の道筋を立案されたのですからな!」
「そうですか。……そこでいきなりシフォン=チェルの一件を持ち出されて、さぞかし困惑されてしまったのでしょうね」
俺がそのように切り出すと、書記官は「んぐ」と言葉を詰まらせた。
しかし、すぐに笑顔を取り戻して、ジャガルの発泡酒の注がれた酒杯を持ち上げる。
「いえいえ、ロブロス殿の手腕にかかれば、どうということもございません! あのシフォン=チェルなる者が、幸福な行く末を迎えられるかどうかは……当人の心がけ次第でございましょう」
「心がけ次第」と、アイ=ファが低く繰り返した。
「しかしシフォン=チェルは、ジェノスで働きたいならば北の民のままでいるようにと申しつけられた。それで幸福な行く末を迎えることがかなうのであろうか?」
書記官は、きょとんと目を丸くした。
だが、やはりその顔はすぐに笑みくずれる。
「実のところ、わたくしも仔細はうかがっておりません。しかしまた、ロブロス殿が大事ないと仰るならば、それを疑う気持ちにはなりませんな。ロブロス殿は厳格な御方でありますが、決して迷える人間を見捨てるような御方ではございませんのです」
アイ=ファは無言で、相手の瞳を見つめ続けた。
すると書記官は、照れた様子で自分の顔を撫で回し始める。
「そのように真剣な眼差しで見つめられてしまうと、なんとも心を乱されてしまいますな。故郷の伴侶に知られたならば、卓をひっくり返されてしまいます」
「おお! アイ=ファ殿、俺にもその鋭き眼光を賜れないものだろうか?」
アイ=ファはデヴィアスを黙殺して、俺の耳もとに唇を寄せてきた。
「この者は、まったく真情を隠していないように思える。酒と料理とダン=ルティムらが、この者の心を解きほぐしてくれたのであろうな」
では、ロブロスはこの書記官から絶大な信頼を得ているということだ。
もちろん俺も、ロブロスに悪念があると疑っているわけではない。ただ、王国の民の規範であるように感じられるロブロスが、いったいどのような思いでシフォン=チェルとリフレイアの動向を見守っているのか、それを判じることができないのだ。
「アイ=ファ、そろそろ俺はリフレイアのところに向かいたいんだけど、どうだろう?」
俺がそのように囁き返すと、アイ=ファは「うむ」とうなずいた。
「ただし、出された料理を残すわけにはいかんし、この者たちとももうしばし言葉を交わしておくべきであろう」
ということで、俺たちは皿の料理がなくなるまでの間、その円卓で交流を重ねることになった。
まあ、使節団の両名は陽気であるし、ダン=ルティムとデヴィアスは言わずもがなだ。城下町の晩餐会らしく、ゆったりとした雰囲気に包まれたこの広間の中で、もっとも騒がしいのはこの一画であるはずだった。
「なるほど! ジャガルにおいては、黄色や金色がもてはやされておるのか! だからそのように、誰もが黄色い宝石をぶら下げておるのだな!」
「セルヴァにおいては、火神の赤が聖なる色とされているぞ。森辺の民とて西方神の洗礼を受けた身であるのだから、それぐらいのことはわきまえておかねばな」
「それにしても、森辺の民というのは不思議な一族でありますな。あの御伽噺めいた傀儡の劇が事実そのものであるというのだから、驚きです」
「ダン=ルティム殿がスンの集落という場所でアスタ殿をお救いする場面などは、胸が躍りましたなあ。そしてアイ=ファ殿が、このようにお美しい女人だとは……ああいけない! また口がすべってしまいました!」
「俺などは、顔をあわせるたびに口をすべらせておりますぞ! これもアイ=ファ殿の罪深さゆえでありましょう!」
「…………」
「ジャガルにおいても、貴族は爵位というもので身分が定められているのでしょうか?」
「ええ。ロブロス殿などは、公爵家の血筋であられますな。格式で言えば、外交官のフェルメス殿にも劣らないはずですぞ」
「しかしあのゲルドの貴人らというのは、藩主の第一子息であられるそうですな。シムにおいて藩主と言えば、王に次ぐ格式であるはずなのですから……いやはや、剣呑な方々と相まみえてしまったものです」
話題はあちこちに拡散し、すべてを把握するのも難しいほどであった。
ともあれ、使節団の面々は心からこの晩餐会を楽しんでいるようだ。ひと月にも渡る長い旅を終え、数日後にはまた旅立つことになる彼らにとって、こういった時間はかけがえのないものであるのだろう。また、使節団としてさまざまな土地に出向く彼らは、それを十全にわきまえているに違いない。美味なる酒と料理、そして陽気で愉快な異郷の人間に囲まれて、彼らは心から幸福そうであるように見えた。
だからやっぱり――このような場で難しい顔をしているのは、ロブロスとフォルタのみであるのだ。
俺たちは、その真情こそを探らなければならないのだろうと思われた。
「アイ=ファ、そろそろ――」
「うむ。……我々は、そろそろ失礼する。また時間があれば、言葉を交わしてもらいたい」
「なんだ、もう行ってしまうのか? そういえば、我々はずいぶん同じ場所で腰を落ち着けてしまっていたな!」
そう言って、ダン=ルティムは書記官に笑いかけた。
「武官という身分にある他の4名とは、すでに言葉を交わしている。よければ、ロブロスやフォルタなる者たちにも挨拶をさせてもらえないだろうか?」
「承知いたしました。では、我々がお引き合わせいたしましょう」
そうしてダン=ルティムたちも、席を立つことになった。
ガズラン=ルティムは、落ち着いた面持ちで俺たちにうなずきかけてくる。頃合いはよし、とガズラン=ルティムも見定めたのだろう。心強い限りであった。
そしてこちらでは、アイ=ファがデヴィアスをねめつける。
「デヴィアスよ。こちらはいささか込み入った事情を抱えているのだ。しばし同行は遠慮してもらいたく思う」
「ふむ。ではまたのちほど、語らせてもらえるのであろうかな? 俺はまだまだ、おふたりと語り足りないのだ!」
「……時間が余れば、考えなくもない」
「では、その時を心待ちにさせていただこう」
デヴィアスはにっと白い歯をこぼしてから、ダン=ルティムらの後を追いかけていった。
ようやく自由の身となった俺たちは、リフレイアの捜索である。晩餐会に参席しているのは40名足らずであっても、大勢の小姓や侍女が行きあっているため、通常の祝宴に負けないぐらい広間は混雑してしまっている。
そんな中、アイ=ファは狩人の眼力でもって、リフレイアたちを発見してくれた。広間の中で、もっとも出入口に近い場所にある円卓である。アイ=ファに追従して歩を進めていくと、そこに座しているのがトゥラン伯爵家とダレイム伯爵家の面々であることが見て取れた。
「おお、アスタ殿にアイ=ファ殿。ようやくお会いすることができたね」
まずはポルアースが、笑顔で呼びかけてくる。その隣では、本日も少女のように愛くるしいメリムがにっこりと微笑んでいた。
しかしその場には、いささかならず張り詰めた空気がたちこめているように感じられる。リフレイアなどはすました面持ちでお茶をすすっているのだが、トルストは叱りとばされたパグ犬のように悄然としてしまっていた。
「アスタ、いずれも素晴らしい料理だったわ。特に、ゲルドの食材を使った料理が秀逸だったわね。これならロブロス卿たちも、文句のつけようがないのじゃないかしら」
「それは、ありがとうございます。……ええと、俺たちもお邪魔させてもらってよろしいでしょうか?」
「もちろん」と、リフレイアは微笑んだ。
しかしその瞳は、日中に別れたときと同じように炯々と光り輝いている。そして本日も人前に出ることを許されたシフォン=チェルは、リフレイアのかたわらで静かに微笑んでいた。
「アスタたちは、さきほどまでロブロス卿たちと卓を囲んでいたのよね? あちらのご機嫌は如何だったかしら?」
「ええ……日中より、ほんの少しだけくつろいでいるように感じられました」
「そう。お話をさせていただくのが、楽しみなところね」
するとトルストが、すがるような目で「リフレイア姫」と身を乗り出した。
「やはり、その……どうあっても、お気持ちを変えるおつもりはないのですね……?」
「ええ。悪いけれど、こればかりは譲ることができないの」
リフレイアは眼光の鋭さを保持したまま、トルストをなだめるように微笑んだ。
「あなたには、苦労ばかりをかけてしまうわね。本当に、申し訳なく思っているわ」
「はあ……わたくしは、リフレイア姫の後見人でありますため……」
すると、メリムが可愛らしく小首を傾げながら、口をはさんだ。
「後見人のトルスト殿は、まだお若いリフレイア姫に正しき道を示すべきお立場であられるのですよね? それではトルスト殿も、リフレイア姫のお考えが間違ってはいないとお認めになられているのでしょうか?」
「それは、まあ……リフレイア姫が、こちらのシフォン=チェルにどれほど目をかけられていたかは、わたくしも間近でお見守りしておりましたので……」
「本当に感謝しているわ」と、リフレイアがトルストのしなびた手に自分の手を重ねた。
「このような話は、トゥラン伯爵家の損にしかならない話だものね。その分は、わたしが身を粉にして働いてみせるから、どうか今回だけは許してちょうだい」
「リ、リフレイアはいったい何をしようとしているのです?」
俺がそのように言いたてると、リフレイアは実に力強い笑みをたたえた。
「それは以前に、伝えた通りよ。わたしはもう、心を偽ったりしない。シフォン=チェルが南の民としてジェノスで暮らしていけるように、使節団のお人たちを説得するの」
「その道筋が、立ったのか?」と、アイ=ファも鋭く言葉をはさんだ。
「そうね」と、リフレイアは栗色の髪をかきあげる。
「別にそれは、難しい話じゃなかったのよ。正規の手順を踏んで、シフォン=チェルをジェノスに招くだけのことね。あのお人たちが王国の法を重んじているというのなら、これを拒むことはできないはずだわ」
「そうだね」と、ポルアースも相槌を打った。
「僕が聞いた限り、どこにも不備はないように思う。ジェノス侯やメルフリード殿だって、異論をはさむことはないだろうと思うよ」
「そうか」と、アイ=ファは息をついた。
「それは、得難き話であろう。……しかし、ならばどうしてこれまでは、このように話がこじれていたのであろうか?」
「そうね……それはきっと、わたしたちが甘かったのよ。甘くて、世間が見えていなかったの。本当に、至らない人間で嫌になってしまうわ」
するとシフォン=チェルが、いくぶんおずおずとした様子で進み出てきた。
「でも、リフレイア様……本当にこれでよろしいのでしょうか……? わたくしは、ひどく気が引けてしまうのですが……」
「それならあなたは、ジャガルで兄たちと暮らすべきでしょうね。それに文句をつけようとする人間なんて……きっと今では、わたしぐらいしか存在しないはずよ」
そう言って、リフレイアはシフォン=チェルの指先を握りしめた。
「でも、あなたがそうしたいなら、そう言って。わたしの文句になんて耳を貸す必要はないの。あなたはあなたの好きにすればいいのよ、シフォン=チェル」
シフォン=チェルは今にも涙をこぼしそうな面持ちで微笑み、リフレイアの小さな手を両手で包み込んだ。
「わたくしは……リフレイア様とともにありたく思います……」
「それなら黙って、わたしについてくることね」
シフォン=チェルの顔を見上げながら、リフレイアはわずかに目を細めた。
シフォン=チェルよりも早く、その目には涙が光ってしまっている。
「あなたはわたしなんかのために、あんな無茶をしてくれた。だから今度は、わたしの番なの。……これでやっとわたしたちは、自分たちの望む行く末をつかみ取ることができるのよ」
「はい……すべてをリフレイア様におまかせいたします……」
そのとき、侍女のひとりがこちらに近づいてきた。
「アスタ様。ジェノス侯爵様が、あちらでお呼びです。ゲルドとの通商に関して、お伝えしたいことがあるとのことです」
「あら、そちらの問題も片付くみたいね」
リフレイアはそっと目もとをぬぐってから、トルストを振り返った。
「ねえ、トルスト。さっきの件を、この場でロブロス卿たちにお伝えしてもいいかしら?」
「ええ? 今は晩餐会のさなかでありますぞ?」
「でも、アスタたちにも事の顛末を見届けてもらいたいのよ。それに、こういう場のほうが、ロブロス卿たちも和やかな気持ちで話をできるのじゃないかしら」
そうして俺たちは、一丸となってロブロスのもとに向かうことになってしまった。
ポルアースたちは辞退したので、俺とアイ=ファ、リフレイアとシフォン=チェル、そしてトルストの5名となる。トルストは胃でも痛むかのように、ひょこひょこと歩を進めていた。
「たびたびすまんな、アスタよ。……おや、今度はリフレイア姫らがご一緒か」
最奥部の円卓は、ダリ=サウティとリミ=ルウがルティムの親子に入れ替わっているだけで、あとはさきほどと同じ顔ぶれであった。マルスタイン、フェルメス、ロブロス、フォルタ、アルヴァッハ、ナナクエム――そしておまけの、デヴィアスだ。俺たちが参じると、ガズラン=ルティムとダン=ルティムが立って席を空けてくれた。
「どうぞ、アスタにアイ=ファ。私たちは、こちらで見守らせていただきます」
「ありがとうございます」と、俺たちが歩を進めようとすると、その鼻先にダン=ルティムがででんと立ちはだかった。
そして、酒樽のように分厚い身体を折り曲げて、俺とアイ=ファの間に大きな顔を差し込んでくる。その顔には、実に朗らかな笑みが浮かべられていた。
「アスタにアイ=ファよ。こやつらは、大丈夫だ」
それだけ言って、ダン=ルティムはさっさと引っ込んでしまう。
いったい何が「大丈夫」であるのかは、さっぱりわからなかったのだが――ともあれ、俺はそこはかとない心強さを胸に、着席することができた。
「ご苦労であったな。……さきほど、ゲルドの食材がふんだんに使われた料理というものを味見させていただいた」
俺たちが席に着くなり、ロブロスが重々しい声でそのように宣言した。
卓にはまだ、いくつかの皿が残されている。おそらくは、そこにゲルドの食材を使った料理が盛りつけられていたのだろう。
「ありがとうございます。いささか辛みの強い料理もあったかと思いますが……お気に召しましたでしょうか?」
「香草を使った料理というのは、何もシムにおいてのみ食べられているわけではない。また、ケルの根やミャームーとて、香草に負けない辛みというものを有している。ただ辛いというだけで、その料理を貶める理由はなかろう」
それでけっきょく俺の出した料理に満足がいったのかどうか、その厳しい声音から察することは難しかった。
ちなみに俺が準備したのは、豆板醤めいたマロマロのチット漬けをふんだんに使った、汁物料理であった。俺の記憶にあるチゲ鍋を参考にしつつ、コチュジャンではなく豆板醤に似たマロマロのチット漬けで美味なるスープを仕上げることはできないものかと、そのような思いで開発した献立であった。
出汁はキミュスの骨ガラで、味付けにはタウ油、ミソ、砂糖、ケルの根、ミャームー、ホボイの油、それに魚醤を使っている。具材は、白菜のごときティンファ、モヤシのごときオンダに加えて、長ネギのごときユラル・パ、小松菜のごときファーナ、カブのごときドルーと、こちらでもゲルドから買いつけた食材をぞんぶんに使っていた。ギバ肉は、薄切りにしたバラ肉である。
いっぽうルウ家で準備されたのは、粒状のシャスカを使った『スパイシー・マロールピラフ』であった。こういう形式の晩餐会では炊きたてのシャスカを味わってもらうことも難しいので、保存のききやすいピラフが選ばれることになったのだ。
具材はアマエビのごときマロールと、アリアとネェノンとマ・プラという無難な組み合わせであったが、その代わりに山椒のごときココリとセージのごときミャンツを使っている。ゲルドから届けられる食材の中で、野菜や調味料は俺が、シャスカや香草はレイナ=ルウが受け持とうと取り決めた結果であった。
あとはトゥール=ディンが、夏みかんのごときワッチやブルーベリーのごときアマンサを餡にした大福餅を準備している。こちらも生地はシャスカであるし、ゲルドの食材の素晴らしさを伝えるにはうってつけであると任じていた。
「いずれの料理も、実に物珍しい仕上がりであったが……あの汁物料理などには、ゲルドばかりでなくジャガルの食材も少なからず使われているとの話であったな?」
ロブロスにそのように問われたので、俺は説明をしようとした。
が、それは途中でさえぎられてしまう。
「如何なる食材が使われているかは、そちらのゲルドの貴人が滔々と語ってくれたわ。レイナ=ルウに確認したところ、ひとつの外れもないとのことであった」
どうやらルティムの父子が参じる前に、レイナ=ルウとジザ=ルウもこの場を訪れていたらしい。
ロブロスはこれ以上ないぐらい眉間に深く皺を寄せながら、言った。
「あの料理は、実に素晴らしい出来栄えであった。また、ゲルドとジャガルの両方の食材がそろって、初めて完成させることのできる味わいであるのだろう。其方の並々ならぬ力量には、ひたすら感服するばかりである。……そして、レイナ=ルウの料理とトゥール=ディンの菓子においては、これまで想像したこともないような目新しさが存在した。それらもまた、質の高い食材と料理人の力量あっての仕上がりであったのだろう」
「光栄です。では――」
「ゲルドが南の恵みを買いつけることを、許そうと思う」
俺の言葉を断ち切るようにして、ロブロスはそう言った。
「こちらのアルヴァッハ殿がどのような思いで南の恵みを求めているかも、溜め息を禁じ得ないほどに長々と聞かされることになった。そして、これほどに美味なる料理を作りあげることが可能であるならば、そのような執着が生まれるのも然りであろう。そのように考えると、其方たちがそれほどまでに見事な腕を持っているゆえに、アルヴァッハ殿はいっそうの執着心をかきたてられることになったのだと言えるのであろうな」
「は、はい。恐縮です」
俺のいない場で、アルヴァッハは得意の長広舌を振るったらしい。その片棒を担いだと思われるフェルメスは、可憐な笑顔で酒杯を傾けていた。
「……ただし、ゲルドに南の恵みを売り渡すには、条件がある」
と、ロブロスの眼光がかたわらのマルスタインへと転じられた。
マルスタインは落ち着き払った表情で、「条件?」と反問する。
「うむ。これはあくまでジェノスとゲルドの取り引きであるので、我々が条件を出せる立場ではない。しかし、日中にも語らせていただいた通り、すべての領地は王都の意向に従うべき立場である。王都の王陛下が布告を回せば、ジェノスに食材を売り渡す行いを禁ずることも可能であろう」
「それは、由々しき事態でありますな。ジャガルとの交易は、ジェノスにとって豊かさの基盤であるのです」
「それはジャガルの各領地にとっても同様であろう。もちろん我々としても、理不尽な要求を突きつけて、おたがいの領地を衰退させるつもりはない。ただ我々は、西の領土たるジェノスがジャガルとシムの双方に変わらぬ信義を抱いているということを示してもらいたく願っている」
青紫色の瞳を炯々と輝かせながら、ロブロスはそのように言いつのった。
「我々が望むのは、ただひとつ――ゲルドの恵みを、こちらにも引き渡してもらいたいという一点である」
「ほほう」と、マルスタインは微笑んだ。
「つまりジェノスは、南の王都にてゲルドの食材を買いつけるための、仲介役を担うべしと……そのように仰っているのですな?」
「うむ。南の王都もまた、シムとの戦乱に多くの兵を出している立場ではない。ゲルドがジャガルの恵みを買いつけることが許されるならば、我々がゲルドの恵みを買いつけることも許されるはずであろう」
「ふむ……」
「そして王都には、さまざまな区域から届けられる食材というものが存在する。その内のいくつかは、いまだジェノスの民にとって未知なる食材となろうな」
「では」と、アルヴァッハが身を乗り出した。
「それらの食材、ジェノス、流入するのであろうか?」
「ふん。それをゲルドに売り渡すか否かは、ジェノス侯の判断となろう。ただし我々は、銀貨ではなく食材を引き換えにする通商を望んでいる」
マルスタインはゆったりと微笑みながら、アルヴァッハに向きなおった。
「であれば、ゲルドからはさらなる量の食材を買いつけなければなりませんな。そのようなことが、可能なのでしょうか?」
「可能である」と、アルヴァッハは言いきった。
ナナクエムはちょっと口を開きたそうな素振りをしていたが、けっきょくは無言のまま溜め息をつく。
「無論、こちらから提示する食材に買いつける価値があるか否かは、実際に確認していただく必要があろう。北の民の移送に関しては、ジェノスの側からも半数の荷車を出していただく手はずとなっているので、そちらに確認用の物品を持ち帰っていただきたく思っている」
「承知いたした。では、仔細はふた月後ということですな」
マルスタインは、満足そうに微笑んでいた。
いっぽう俺は、この急展開にいささか我を失ってしまっている。期待通りというか、期待以上の結果であったために、いっそう心を乱されてしまうのだった。
(というか、移送用の荷車に物品を持ち帰らせるなんて、この場で急に決められることじゃないよな。ロブロスは最初っからそこまで想定した上で、この晩餐会に臨んだんだろうか)
だとしたら、用意周到なことである。アルヴァッハたちを忌避するような素振りを見せておきながら、水面下ではこのような構想を練り続けていた、ということであるのだ。
(でも、それだったら――)
と、俺がとある想念にとらわれかけたとき、隣のアイ=ファが音もなく立ち上がった。
「ゲルドとの取り引きが認められたこと、私としても喜ばしく思う。――では、こちらの席はリフレイアとトルストに譲りたく思うのだが、よろしいだろうか?」
「うむ。我々はかまわんよ。ご足労だったね、アイ=ファにアスタ」
マルスタインの許しを得て、俺たちは円卓の脇に引き下がることになった。
そして、空いた席にはリフレイアとトルストが着席する。もともと2名分の座席は他にも空いていたのに、リフレイアたちは出番を待つ格好でずっと立ち尽くしていたのだ。
(……ロブロスは、シフォン=チェルについても何か考えがあるんじゃないだろうか?)
俺は、そんな風に考えていた。
俺の思いを知ってか知らずか、リフレイアはすました顔で微笑んでいる。しかし、色の淡いその瞳には、ずっと挑むような光がたたえられたままであった。