南の王都の使節団②~得難き時間~
2020.7/23 更新分 1/1
「こちらの者は、トゥランで働く北の民たちの取りまとめ役だよ」
俺とエレオ=チェルが再会の挨拶を果たしたのち、ポルアースがそのように説明してくれた。エレオ=チェルの隣に並んでいた年配の男衆は、ひどく静かな眼差しで貴族や森辺の民の姿を見回している。
「シルエルたちの誘いをはねのけて、斬り伏せられてしまったのがこの者ということだね。しかしそこで息絶えることなく、カミュア殿に襲撃者の正体を伝えることがかなったのだから、まぎれもなく功労者だ。森辺の方々にとっても、それは同じことなのではないのかな?」
「うむ。カミュア=ヨシュが森辺に危急を伝えていなければ、森辺の同胞にどれほどの被害が出ていたかもわからない。功労者であり、恩人であろう」
ジザ=ルウが、落ち着いた声でそのように応じた。
すると、すかさずロブロスが口をはさんでくる。
「総出で襲撃してきた凶賊どもを、森辺の民たちは自力で返り討ちにしたのだと聞いている。其方たちは、いかにも手練れの剣士であるように感じられるが……其方たちも、凶賊の討伐に加わっていたのであろうか?」
「いや。その際には我が父にして族長たるドンダが出向いたため、長兄たる俺は家を守ることになった」
「サウティの家はルウからもファからも遠いので、俺も参じることはできなかった。……この場でシルエルたちを迎え撃ったのは、アイ=ファのみとなるな」
ダリ=サウティの言葉に、ロブロスはわずかに眉をひそめた。
「アイ=ファとは、そちらのファの家長たる女狩人であるな。……其方は、それほどの手練れであるのか?」
「私は剣士ではなく狩人だが、森辺の狩人として恥ずべきことのないように修練を積んでいる」
アイ=ファは粛然たる面持ちで、そのように答えた。
ロブロスはいくぶん疑わしげに鼻を鳴らしつつ、かたわらのフォルタを振り返る。
「兵士長フォルタよ。歴戦の勇士たる其方は、今の言葉をどのように判ずるか?」
「は……そちらの3名は、いずれも一騎当千の剣士であるかとお見受けいたします」
大男のフォルタが、初めて発言した。その外見に相応しい、野太い声音である。
「このわたくしでも、尋常の勝負で一本を取れるかどうか……噂にたがわぬ力量でありましょう」
「そうか。このようにうら若き女人までもがそれほどの力量とは、驚くべき話であるな」
ロブロスはさして感銘を受けた様子もなく、またアイ=ファたちに向きなおった。
「それで、凶賊どもの正体を見抜いた北の民は、其方たちにとっての恩人であるとの話であったが……それを理由に、北の民たちの食事の面倒を見たわけではない、という話であったな?」
「うむ。我々が北の民を集落に迎えたのは、凶賊が現れるよりも遥かに前のことだ。あれは雨季であったのだから、ちょうど1年ほどの昔となろう」
ダリ=サウティの言葉に、ロブロスは「ふむ」と口髭をしごいた。
「そうであるにも拘わらず、其方たちは北の民に便宜をはかった。……まあそれは、北の民たちに過酷な労働を強いるならば、もっと滋養のある食事を与えたほうが効率的であろう、という主旨であったそうだな」
「うむ。敵対国たるマヒュドラの民に温情をかけることは許されないと、俺たちはジェノスの貴族らに言いつけられていた」
「だが、そこには北の民たちにもっとまともな食事を与えたいという心情も含まれていたのではないのか?」
ロブロスの追及に、ダリ=サウティは微笑をこぼした。
「森辺の民に、虚言は許されない。確かに俺たちは、北の民の食事があまりに粗末であったため、胸を痛めることになった。それゆえに、まずは当てがわれた食材でもっと立派な食事を作ることはできぬかと、アスタに相談することになったのだ」
「そしてそののちに、フワノやタウ油や砂糖を追加するようにと、ジェノス城に申し出たのであるな?」
「正確には、追加を望んだのはフワノのみとなる。去年の雨季にはポイタンが不足しており、北の民が口にする分が失われてしまっていたのだ。その代わりにフワノが準備されたのだが、その量があまりに少なかったため、きちんと1人前ずつの分量を与えるべきではないかと、そのように申し出ることになった」
「そうね」と、リフレイアが口をはさんだ。
「その申し出を受けて、他に必要な食材は存在しないかと問うたのは、わたしどものほうとなりますわ。北の民たちがさらなる力を振るえるようになれば、それはトゥランの益になり、ひいてはジェノスの益になるはずだと考えましたの」
相手がジャガルの貴族であるためか、リフレイアは普段以上におしとやかな口調になっていた。
「そこに、こちらのシフォン=チェルに対する温情が介在していたのかと問われるのなら……わたしも、心を偽ることはできません。確かに、そのような思いも存在いたしました。でも、西の民が北の民に情けをかけることは許されなかったので、ジェノスの益と北の民たちの益を重ねられる道筋を考案してみせたのですわ」
そういった話は、俺たちも当時に聞かされていた。
しかしリフレイアは、それ以外にももっと北の民たちの生活を改善できるように、あれこれ苦心していたのだろう。それを達成できなかったために、無力感に打ちひしがれることになって――その末に、シフォン=チェルはジャガルで幸福に暮らすべきだと思い詰めるようになってしまったのだ。
だが、今のリフレイアは晴ればれとした顔になっていた。
自分の無力さを受け入れて、シフォン=チェルの存在をも受け入れて、彼女とともに生きていく覚悟を固めることができたのだ。
侍女らしく貞淑に目を伏せたシフォン=チェルも、とても満ち足りた面持ちでリフレイアの言葉を聞いているようだった。
「リフレイア姫もダリ=サウティらも、北の民に情けをかけてはならじという王国の法を守りつつ、正しき方法で北の民たちに人間らしい生活を与えたいと考慮したのであろう。我が父たるジェノス侯爵マルスタインも、それを罪と判じることはなかった」
メルフリードがそのように言いたてると、隅のほうに引っ込んでいたフェルメスも「そうですね」と楽しげに声をあげた。
「王都において、北の民は憎悪の対象です。しかし、マヒュドラからこれほど遠く離れたジェノスの民に、同じ心情を強いることはできないでしょう。奴隷たる北の民たちをより強き力で働かせるために、十分な食事を与えようというのは、何も王国の法に反する行いではないかと思われます」
「ふむ。そして、北の民たちが南方神に神を移すという行いにも、異論はないという話であるのだな?」
「はい。ただ一点の約定さえ、守っていただければ」
フェルメスは、可憐な少女のように微笑んだ。今日も今日とて周囲には魁偉なる人物が寄り集まり、可憐さが際立ってしまうフェルメスである。
そんなフェルメスの笑顔を見返しながら、ロブロスは傲然と胸をそらした。
「そのように念を押さずとも、我々が約定をたがえることはない。……そもそも、そのような話は不可能であるとおたがいに判じたからこそ、このたびの話は締結されたのであろうが?」
すると、ダリ=サウティが「失礼する」と声をあげた。
「約定とは、いったい何の話であろうか? 差し支えなければ、聞かせてもらいたい」
「それは、南方神に神を移した彼らをシムに対する兵力としては扱わない、という約定になります。そのような事態に至ったならば、セルヴァとシムの友好に亀裂が入ってしまいますからね」
そんな風に答えてから、フェルメスは華奢な手の先をエレオ=チェルたちのほうに差しのべた。
「しかし幸いなことに、そのような不安を抱える必要はありませんでした。トゥランで働く北の民たちは、いずれも荒事を忌避しているために、最初から兵力に成り得ないのです」
確かに、彼らがそのような闘争心を携えていたならば、シルエルたちの誘いに乗って、《颶風党》に仲間入りをしていたかもしれない。いつだったか、ポルアースあたりがそんなようなことを言っていたような覚えがあった。
「自分たちを奴隷として扱っていた西の王国にすら牙を剥かなかった彼らが、なんの恨みもない東の王国に刃を向けようという気持ちにはならないことでしょう。彼ら自身も、そのように証言しています」
「……われら、あらそい、このまない」
エレオ=チェルよりもつたない西の言葉で、取りまとめ役の男衆がそのように発言した。
「われら、せんそう、まきこまれ、どれい、なった。われら、せんそう、にくんでいる。みなみのたみ、なって、ひがしのたみ、せんそう、するならば、われら、どれいのまま、のぞむ」
言葉はつたないが、その声音には重い真情が込められているように感じられた。
その姿を鋭い眼差しで見守っていたロブロスが、「うむ」と首肯する。
「其方たちは、シムとの戦乱とは無縁な領地に割り振られることが、すでに決定されている。その多くは、畑を耕す農夫となろう。南方神の子となったあかつきには、王国の繁栄と自身の幸福のために働くがいい」
年配の男衆とエレオ=チェルは、うっそりと頭を垂れた。
それを見届けてから、ロブロスは「さて」とシフォン=チェルに向きなおる。
「其方たちは数日前にも面会を許されたという話であったが、数年もの間を引き離されていたのなら、なかなか話も尽きぬことであろう。我々の視察が完了するまで、しばし兄妹で語らっておくがいい」
「……シフォン=チェルに、そのような温情を授けてくださいますの?」
鳶色の瞳を明るく光らせながら、リフレイアが身を乗り出した。
ロブロスは、愛想のない顔でそれを見返す。
「それもあって、そちらの侍女シフォン=チェルをこの場に呼びつけたのだ。シフォン=チェルの申し出がどのような形でジェノス侯らに受け入れられたか、兄としても気になるところであろうしな」
「寛大なおはからい、感謝いたしますわ。……シフォン=チェル」
「はい……心よりの感謝をお捧げいたします……」
シフォン=チェルとリフレイアが、エレオ=チェルのほうに近づいていく。すると何故だか、寡黙な大男たるフォルタもそれに追従した。
そしてロブロスのほうは、よく光る目をリミ=ルウへと差し向ける。
「其方もずっと口をつぐんでいるな、リミ=ルウよ。心のままに振る舞うべしという吾輩の言葉が聞こえなかったのであろうか?」
「はい……だけど……」と、リミ=ルウはすがるような目でジザ=ルウを見上げた。
ジザ=ルウは、メルフリードのほうにゆっくりと向きなおる。
「我々は、ジェノス侯爵家を君主とする身だ。これまで交流を禁じられていた北の民と言葉を交わすならば、そちらの許しが必要なのではないだろうか?」
「うむ。この場においては、北の民との交流を許そう。サウティの集落において接していたときと同じように、王国の民としての節度をもって振る舞ってもらいたい」
「了承した」と答えてから、ジザ=ルウはリミ=ルウにうなずきかけた。
リミ=ルウはぱあっと顔を輝かせて、女衆らのほうに向きなおる。女衆らは食事の準備を進めながら、ずっとこちらの様子をちらちらとうかがっていたのだった。
「みんな、ひさしぶりだねー! あなたとあなたとあなたのことは、リミも覚えてるよー!」
「はい。りみ=るう、おひさしぶりです」
女衆のひとりが、やわらかい表情でそのように応じた。
以前よりも、いっそう肉づきがよくなっただろうか。また、屋外で肉体労働に励んでいるために、その肌は赤く焼けており、腕にはけっこうしっかりと筋肉が乗っている。それでも、彫りが深くて端正な顔立ちをした、シフォン=チェルに通ずる美しさであった。
そして、石窯に薪をくべていた女衆も、こちらに近づいてくる。その女衆は、もう40歳を超えていようかという年頃であった。サウティの集落において、取り仕切り役を果たしていた年配の女衆である。
「りみ=るう、またあえるとおもっていませんでした。さいかい、うれしくおもいます」
エレオ=チェルや、あるいは多くの東の民のように、とぎれとぎれの言葉ではない。だが、幼子のように舌足らずでイントネーションにクセのある口調であった。どういった経緯で西の言葉を習得したかで、こういう差異が生まれるのだろうか。このトゥランで働く北の民たちは、それぞれ数十名単位で別々の区域から集められた身であるという話であったのだ。
(そういえば……)
と、とある疑念にとらわれて、俺が身体をむずむずさせていると、ロブロスが目ざとく振り返ってきた。
「ファの家のアスタよ。何か言いたげな面持ちであるな」
「え? ああ、はい……北の民たちに行く末について、自分があれこれ詮索するのは、許される話であるのでしょうか?」
「それは、詮索の内容次第であろう。まずは、言葉を飾らずに語るがいい。それが不相応な内容であっても、其方に罰を下すことはない。ただ、沈黙で報いるのみである」
それでは、と俺は問うてみることにした。
「この地で働く北の民たちは、みんな出自がバラバラなのですよね? ジャガルにおいては、なるべく同郷の者同士で過ごすことができるのでしょうか?」
ロブロスは、ふさふさの眉毛をうろんげにひそめた。
「無論、血の縁を持つ者が引き離されることはないし、同郷であれば可能な限りは同じ地に割り振られることになろう。そのための目録も、すでにトゥラン伯爵家の者たちが完成させている」
「そうでしたか。ぶしつけなことをお尋ねしてしまい、申し訳ありませんでした」
「謝罪には及ばない。……其方は、この女衆らに声をかけずともよいのか? 我々は数日の内に出立する予定であるので、其方たちにとってはこれが今生の別れとなるはずであるぞ」
俺はリミ=ルウほど、彼女たちと交流を結んでいなかった。リミ=ルウやサウティ家の女衆に調理の手ほどきをした直後に、《アムスホルンの息吹》で倒れてしまったからだ。
しかし、1度や2度は対面したことがある。リミ=ルウが指名した3名の内、2名まではうっすらと見覚えがあった。
「あの……俺のことを覚えておいでですか?」
俺がそのように声をかけると、年配の女衆が薄く微笑んでくれた。
「もちろんです、ふぁのいえのあすた。わたしたち、あなたのおかげでびみなるしょくじをくちにすることができるようになったのです」
すると、年若い女衆もこちらを振り返ってきた。
「わたし、おなじきもちです。ふぁのいえのあすた、りみ=るう、みる・ふぇい=さうてぃ……じゃがる、うつりすんでも、あなたたち、わすれません」
俺の胸に、熱いものがこみあげてきてしまった。
俺たちは、1年もの昔に数回顔をあわせただけの間柄であったが――それでも確かに、絆というものが存在したのだ。
そして、彼女たちがジャガルに移り住んだのちには、再びまみえる機会もないのだろう。ロブロスの言う通り、これが今生の別れになるはずであった。
「みなさんが南方神に神を移すと聞いて、俺も心から喜ばしく思っていました。……喜ばしく思って、いいのですよね?」
「はい。もちろん、ふあんはありますが……わたしたち、けつだんしました。ただしいうんめい、つかみとりたいとねがっています」
年配の女衆が、そのように答えてくれた。
「わたしたち、ふこうでした。ほっぽうしん、わたしたちをみすてた、おもっていました。ですが、なんぽうしん、わたしたちをすくってくれるなら……すべて、かみのはからいであったのでしょう。ろぶろすさま、そのようにいいました」
俺は小さからぬ驚きにとらわれて、ロブロスのほうを振り返った。すると、こちらの様子をうかがっていたロブロスと、真正面から目があってしまう。
「どのような境遇であれ、奴隷という身は不幸であろう。その者たちが、どうしてそのような不幸に見舞われることになったのか、我々に判ずるすべはない。すべては、神の御心である」
「神の御心、ですか……」
「うむ。それは、北方神の与えた罰であったのかもしれん。あるいは、試練であったのかもしれん。その御心を、人間が判ずるすべはない」
ロブロスは、他の者たちにも聞かせたい様子で声を大きくした。
「しかし、すべての四大神は兄弟である。その者たちが北方神の子として幸福な生をつかむことがかなわなかったならば、南方神の子として新たな道を進むべきであろう。その末に、幸福な生をつかみとることがかなったならば……それこそが、正しき道を選んだという証になる。神の御心を判ずるすべを持たない我々は、そうして正しき道を探りながら進んでいく他ないのだ」
「至言である」と、アルヴァッハが低く声をあげた。
ロブロスはたちまち渋面となって、そちらを振り返る。
「今、至言と申したか? 東の民というのは、神の御心を妖しき術によって読み取らんとする不埒な風習を持っていたように思うが」
「星読み、神の御心、沿うための、術式である。より正しき道、進むための、叡智である」
そんな風に言ってから、アルヴァッハはわずかに目を細めた。
どことなく、微笑を連想させる目の細め方だ。
「ただし、ゲルの地、星読みの術式、廃れている。シムにおいて、もっとも武骨、称される所以である」
「ふん。その言葉自体が、星読みの妖術を礼賛しているようなものではないか。王国の民にあるまじき発言であるな」
鼻のあたりに皺を寄せて、ロブロスはそのように言い捨てた。
「まあいい。……ともあれ、王国とは人の手に支えられ、人の生は王国に支えられている。其方たちが正しき王国の民となれるか否か、ジャガルの地にてもうひとたび、己の存在を天に問うてみるがいい」
「はい。ろぶろすさま、かんしゃしています」
「吾輩は、王都におわす王陛下の代理人に過ぎん。……王とは何か、王国とは何か、それもジャガルにて学びなおすべきであろうな」
俺は何だか、新たな感慨にとらわれてしまっていた。
このロブロスという人物は、俺が思っていた以上に、「王国の民」の規範であるように感じられたのだ。
西の王都の出身であるフェルメスや、かつての監査官ドレッグにも、そこまでの気概を感じることはなかった。フェルメスはあまりに浮世離れしてしまっているし、ドレッグは逆に俗人じみているため、規範と呼ぶには値しないように思えてしまうのである。
(四大神や四大王国の存在を心から信奉するっていうのは、こういう姿勢のことを言うんだろうか)
俺はなんだか、下腹のあたりがむずむずとしてしまった。
しかし、決して嫌な感覚ではない。フェルメスの論を信ずるならば、王国の民と聖域の民は再び交わることによって、もっとも正しき姿を得られるはずであるのだ。
聖域の民がどれだけ魅力的で力にあふれた存在であるかは、もう嫌というほど実感できている。いっぽう王国の民というのは、俺が知る「普通の人間」と重なる部分が多かったため、これまではいまひとつピンとこなかったのだろうか。
(俺はもうちょっと、このお人とじっくり語らってみたいな)
それからしばらくは、北の民との交流が許されることになった。
ダリ=サウティやアルヴァッハたちも、わずかながらに北の民たちと言葉を交わし、ロブロスやメルフリードらはその姿を静かに観察していた。
そうして四半刻ほどが過ぎ、太陽がじわじわと中天に近づいてきた頃合いで、ロブロスが「よし」と声をあげた。
「北の民らも、そろそろ食事の時間となろう。我々も、城下町に引き返す頃合いではなかろうか?」
「承知いたした。では、こちらに」
メルフリードの先導で、人々はきびすを返し始める。
俺は最後に、エレオ=チェルへと声をかけておくことにした。
「エレオ=チェルも、どうかお元気で。みなさんの健やかな生を、この地で祈っています」
「アスタ、感謝する。……そして、シフォン、ジェノス、働くこと、許されたら、どうか、見守ってもらいたい」
「はい。シフォン=チェルが南方神の子となって、誰にはばかることなく友と呼べるようになる日を心待ちにしています」
そう言って、俺は心からの笑顔をエレオ=チェルに届けてみせた。
「そして、エレオ=チェルも……たった数回顔をあわせただけの間柄ですが、あなたのことも友と思わせていただけませんか?」
「……シフォンの友、自分の友である。ジャガルにて、アスタたち、幸福、祈っている」
エレオ=チェルは、とても優しい顔で微笑んでくれた。
その笑顔を心に刻みつけてから、俺もジザ=ルウたちの後を追った。
そうして表の道に戻り、アイ=ファと並んで最後尾を歩いていると、さりげなく歩調を落としたフェルメスが小声で囁きかけてきた。
「アスタ。とても心の躍る一瞬でしたね」
「あ、はい。エレオ=チェルと最後の挨拶ができて、とても嬉しく思っています」
俺がそのように答えると、フェルメスはきょとんと目を丸くした。彼にしては、珍しい表情だ。
「……ああ、アスタは彼と顔馴染みであったのですよね。それもまた、アスタには大事な時間であったのでしょう」
「フェルメスにとっても、これは大事な時間であったのですか?」
「もちろんです」と、フェルメスはヘーゼル・アイを神秘的にきらめかせた。
「あの場には、四大王国のすべての民が居揃ったのです。600年以上も続く王国の歴史の中でも、それは特筆するべき出来事でありましょう。アスタは、そのように思いませんか?」
「ああ……もちろんそれは、そうなのでしょうね。北の民だけが奴隷の身であるというのが、だいぶ残念なところでありますけれど」
「はい。誰もが対等な立場として、同じ場で語らうには……やはり、大神の目覚めを待たなくてはならないのでしょうかね」
そう言って、フェルメスはうっとりと目を細めた。
フェルメスの不思議な色合いをした瞳は、心を奪われるぐらい美しくきらめいていたが――魂を奪われるような恐怖や焦燥を喚起されることはなかった。