伏して待つ日々②~到来~
2020.7/21 更新分 1/1
「……そうか。さしあたって、あのシフォン=チェルという娘が罰せられることはなかったのだな」
その日の夜、ファの家の広間で晩餐を食しながら、アイ=ファは厳粛なる面持ちでそう言った。
「ジャガルの者たちがどのように判ずるかは、また別の話として……我々の君主でもあるジェノス侯爵が無情な裁定を下さなかったことを、まずは喜ぶべきであろう」
「うん。俺も心から、ほっとしているよ」
俺が笑顔で応じると、アイ=ファも満ち足りた様子で目を細めてくれた。
本来であればアイ=ファも笑ってくれていたのであろうが、本日はプラティカとニコラを客人として迎えているのだ。真剣な目つきで本日の晩餐を食していたプラティカは、ふっと俺たちのほうを振り返ってきた。
「アスタとアイ=ファ、とても親身です。リフレイア姫と侍女シフォン=チェル、大事な相手ですか?」
「ええ。リフレイアは、悪縁を乗り越えて絆を結んだお相手ですし、シフォン=チェルは……かつてリフレイアにさらわれた際、あれこれ親身になってもらったのです」
「そうですか。我々、北の民、友であるため、アスタたち、シフォン=チェル、忌避しないこと、嬉しく思っていました」
きりっと引き締まった無表情のまま、プラティカはそんな風に言ってくれた。
無言で食事を進めていたニコラは、いくぶんうろんげな面持ちとなって発言する。
「わたしはトゥラン伯爵家ともご縁が薄かったため、北の民というものをほとんど目にした覚えもありません。彼らは本当に、ジェノスや西の王国を恨んでいないのでしょうか?」
「それは俺にもわかりませんが、南方神に神を移すというのは、そういった恨みを捨てる覚悟がある証であるそうです。神を移してなお、かつての敵対国に恨みを抱くというのは、神に対する冒涜であるそうですよ」
「ああ……それはきっと、そうなのでしょうね」
ニコラは、上品な仕草でチャッチの茶をすすった。
「それにしても、数百名にも及ぶ北の民をジャガルに移住させようというのは、いかにも大ごとです。それで働き手を失うトゥランは、多くの新たな領民を受け入れることになるのですよね?」
「ええ。そちらの話も、順調に進んでいるようですよ。新たな領民のための家屋の再建工事も、ひと区切りついたという話ですしね」
その再建工事に携わっている人々の昼食は、森辺の民が準備していたのだ。その仕事も明日いっぱいまでという話を、俺たちは数日前に伝えられていたのだった。
間もなく北の民たちはジャガルに出立し、トゥランには新たな領民が受け入れられる。これもまた、途方もなく大きな変革であろう。同じジェノスの民として、俺もしっかりその様相を見守らせていただきたく願っていた。
「……それで、ジャガルの使節団、到着したならば、アスタたち、厨を任される可能性、あるのですね?」
と、プラティカが炯々とした眼光を俺に突きつけてくる。
「私、見学、願いたく思いますが……アスタ、迷惑、かかるようでしたら、自重いたします」
「迷惑? 俺はべつだん、迷惑とは思いませんけれど」
「しかし、ジャガルの使節団、王都の人間である、聞いています。ならば、シム、憎む気持ち、強いのではないでしょうか?」
それは俺にとって、想定外の指摘であった。
「俺もジャガルの情勢には疎いので、なんとも答えようがないのですが……それじゃあシムの王都の方々は、ジャガルを憎む気持ちが強いのでしょうか?」
「はい。というよりも、ジャガルとの戦、携わっている、リムの藩、およびドゥラの藩です。シムにおいて、リムの民、すなわち王都の民です」
「ああ、シムの王都はラオリムと呼ばれているのですよね。国王のおわすラオだけじゃなく、リムも王都の一部であるわけですか」
そのラオとリムは、『白き賢人ミーシャ』の活躍によって栄えた領土であるという話であるのだ。そのリムがジャガルとの抗争に明け暮れているというのは、なんとも切ない話であった。
「……ですが、南の王都はジャガルの中央部にあり、シムと近いわけではありません。直接刃を交えていないなら、シムを憎む気持ちがそこまで募ることもないのではないでしょうか?」
ニコラがそのように言いたてると、プラティカは「いえ」と首を振った。
「王都、王国を導く存在です。ならば、敵対国、憎む気持ち、弱いこと、ないかと思います」
「では、プラティカ様は厨の見学を断念されるのですね? ……それでわたしばかりが見学を願い出るのは、抜け駆けのようで気が引けてしまいます」
「いえ。ニコラ、その分、見届けてもらいたい、願います。そして、のちほど、詳細、聞かせてもらえれば、ありがたい、思います」
「それはそれで、責任が重いです。厨の様子を正確にお伝えする自信など、わたしにはありません」
いまだ正式に厨を預かるという話が舞い込んできたわけでもないというのに、両者はたいそう熱心に語らっていた。
「でも、仮に厨を預かることになっても、その場でいきなり目新しいことをやるわけではないのですからね。そこまで見学に固執する必要はないのではないですか?」
「いえ。アスタ、トゥラン伯爵家の晩餐会、目新しいこと、着手していました。鮮魚、調理です。森辺の勉強会、その手際、見ること、ありませんでした」
「その通りです。それに、同じ料理を手掛けるとしても、勉強会と実際の晩餐会では作業の工程が異なります。限られた時間で数々の料理を作りあげるその手際もまた、わたしたちにとっては見習うべき点であるのです」
と、両者の鋭い眼光がまとめて俺に向けられることになった。
黙って様子をうかがっていたアイ=ファが、そこで粛然と発言する。
「何にせよ、城下町における見学を許すか否かは、貴族によって取り決められる。騒ぎたてるのは、その返事を待ってからでもいいのではないか?」
「……仰る通りです。晩餐の場を騒がせてしまい、心よりお詫びを申しあげます」
むすっとした面持ちで、ニコラはアイ=ファに頭を下げた。
「森辺の民との調停役であるメルフリード様とポルアース様であれば、正しき判断を下してくださることでしょう。……ところで、本日の菓子は如何ですか?」
「うむ。べつだん、問題はないように思える」
本日の菓子は、アロウのジャムを使った焼き菓子であった。
常と変わらぬ様子でそれを食しているアイ=ファの姿に、ニコラは無念そうに目を伏せる。アイ=ファが菓子に無関心であると聞かされたニコラは、なんとか心から満足してもらえるようにと奮起しているのである。
「それでは、また明日。アイ=ファ、アスタ、よき眠りを」
やがて晩餐が終了すると、プラティカとニコラは表の荷車に戻っていった。
その姿を見届けて、母屋に戻ったアイ=ファは、戸板に閂を掛けたのち、広間の棚の前で足を止める。
家を再建したのちに新調した、それなりに立派な棚である。シュミラル=リリンから贈られた硝子の酒杯や、ラダジッドたちに贈られた硝子の大皿や、サウティ家に贈られた森の主の牙や、アルヴァッハたちから贈られた首飾りや――それに、俺がアイ=ファに贈った髪飾りなども、そこにはのきなみ収められている。
アイ=ファがその中で見つめているのは、傀儡使いのリコから贈られた、木彫りの小さな人形であった。
赤い豆粒のような目が、アイ=ファと隣に立った俺の姿を見返してくる。
アイ=ファは手をのばして、その人形の頭を指先で撫でた。
「いつか大神が目覚めれば、聖域の民と王国の民は、再び同胞になることが許されるという話であった。……その際には、王国同士の争いも諫められるのであろうか」
「ああ、どうなんだろうな。そうであればいい、とは思うけど……」
「うむ。生まれた場所が異なるというだけで、友にもなれないというのは……ひどく間違った行いであるように思えてならん」
「うん。でも、リフレイアとシフォン=チェルは正しい関係を築けそうで、本当によかったよ」
「そうだな」と、アイ=ファは静かに微笑んだ。
「そしてお前は、異国どころかこの大陸の生まれですらない。本来であれば、聖域の民よりも遠き存在であったのであろう」
「うん、そうだな」
「……そんなお前と正しき関係を築けたことを、私は何より得難く思っている」
そう言って、アイ=ファはティアの人形から指先を離した。
その青い瞳が、とても優しい光をたたえて、俺を見つめてくる。
「私はいまだ四大神というものに、母なる森と同じほどの重きを置くことはできていないのであろうと思うが……お前は西方神こそが、自分をこの地に遣わしたのではないかと感じている、と言っていたな?」
「うん。あくまで、直感的なものだけどな。西方神の洗礼を受けたときに、そんな感覚を抱かされたんだ」
「それが真実であったなら、私は心から西方神を父と仰ぐこともかなおう」
アイ=ファが一歩だけ、俺に近づいてきた。
俺の身には触れぬまま、その優しい眼差しが俺の心を包み込んでいく。
「そして、四大神というのはいずれも大神アムスホルンの身から分かたれた子たちであるという。……いずれの王国の民とも、我々は正しき絆を紡ぐべきなのであろうな」
「うん。俺もそう思うよ」
俺は、アイ=ファを愛している。
そして、アイ=ファが存在するこの世界そのものを愛している。
もしかしたら、アイ=ファも自分なりの道筋を辿って、それと同じような結論に達したのかもしれなかった。
◇
そして、翌日――茶の月の18日である。
今日も今日とて屋台の商売に励んでいた俺たちは、昼下がりに驚くべき一団を目の当たりにすることになった。
ジャガルの王都の使節団が、ついにジェノスに到着したのだ。
彼らは横幅が10メートルほどもある石の街道を埋め尽くさんばかりの質量で、南の方角から闊歩してきたのだった。
それを先導するのは、白銀の甲冑を纏った城下町の騎士たちだ。彼らは宿場町の最南端で、使節団の到着を待ち受けていたのであろう。
宿場町の法に従って、誰もが徒歩で進んでいる。トトスの騎兵も荷車の御者も地面に降りて、それぞれ手綱を引いているのだ。よって俺たちは、その威容を嫌というほどじっくり観察することができた。
使節団の面々も、おおよそは甲冑姿である。南の民の甲冑姿というものを、俺は初めて目の当たりにすることになった。正確に言えば、ジェノスの闘技会で何度かは目にしているのであろうが、あれは遠目であったので、そこまでつぶさに見て取ることはかなわなかったのだ。
南の民は、身長の振り幅が甚だしい。160センチ前後の小兵か、180センチを超える巨漢かに二分され、その中間というものがほとんど存在しないのである。そして、背丈がどうであろうとも、骨太の逞しい体格であることに変わりはなかった。
そんな南の民たちが、厳つい甲冑姿で歩いている。ジェノスにおいて、衛兵は革の鎧を纏っており、騎士などは革の上に鉄板を張り付けた壮麗なる鎧を纏っているのであるが――彼らが纏っているのは、黒光りする鎖かたびら、いわゆるチェーンメイルとかいうやつであるようだった。
頭には天辺のとんがった兜をかぶり、足には銀色に輝く金属製のすね当てが装着されている。腰に下げるのは長剣か、あるいは戦斧となる。頭から足まで金属ずくめで、並の人間では歩くだけでへたばってしまいそうだった。
しかし彼らは、屈強なる南の民であるのだ。
かつて浴堂をともにしたデルスやワッズなど、それはもう頑健なる肉体をしていた。荒事を生業とするワッズはともかく、商人に過ぎないデルスでさえ、全身がみっしりと筋肉に覆われていた。王都の兵士や武官ともなれば、さらなる修練によって肉体を鍛え抜いているのであろう。
「す、す、すごいですね。ま、まるで、戦いにでも赴いてきたかのようです」
隣の屋台では、マルフィラ=ナハムがそのように言いたてていた。
だけどきっと、この世界における使節団というのは、これぐらい武装しているものであるのだろう。唯一の例外は東の民で、彼らは毒の武器を扱うために、いずれも身軽な格好で大陸中を駆け巡っているようであるのだ。
(ただ……やっぱりこの人数は、ちょっと気圧されちゃうな)
何せ彼らは、数百名にも及ぶ北の民を移送するのである。それを乗せるための荷車の台数に応じて、護衛役の人数も定められているのだろう。荷車と兵士に関してはジェノスの側からも負担するという話であったが、それにしても大層な行列であった。
(目算で、荷車の台数は30台……人間の数は、100名弱ってところか)
そうしてその一団は、宿場町に大きなどよめきを残しつつ、街道を過ぎ去っていった。
往来では、俺たち以上に領民や旅人たちが騒いでいる。あれだけの異郷の兵士の姿を見たのは、かつて西の王都から200名の部隊が押し寄せてきたとき以来であったのだ。しかも今回は物々しい甲冑姿を目の当たりにしたものだから、人々の驚嘆もひとしおであるようだった。
「南の民ってのは気のいい人間が多いけど、あんな風に兜で顔を隠しちまったら、それも台無しだな」
マルフィラ=ナハムとは逆側の屋台で、レビはそのように言っていた。その目が、いくぶん心配そうに俺を見やってくる。
「でもって、アスタたちもいずれ城下町で、あの連中と対面するんだろ? 万が一にも、危険なことはないんだろうな?」
「うん。むしろあのお人たちは、森辺の民に好感を抱いてくれてるはずだよ。北の民たちの食事を改善するように提案した一件が、彼らのお気に召したみたいだね」
と、俺たちはジェノス城の使者からそのように聞かされていた。リフレイアが予告していた通り、次の休業日に城下町まで出向いてほしいと、そんな言葉がルウ家まで届けられたのである。
「それにしても……同じ時期に東と南の貴族様が居合わせるなんて、ちょいと剣呑な話でございやすね」
と、ラーズがそのように発言すると、レビがうろんげに振り返った。
「貴族様って? さっきの一団の中に、ジャガルの貴族がまじってたってのか? どうして親父に、そんなことがわかるんだよ?」
「そんなもんは、俺だって当てずっぽうだけどよ。あんな大勢の兵士を率いるのは、たいてい貴族様なんじゃないのかい? そもそもこんな大ごとで、貴族様が出張らないわけはないように思えるねえ」
そんな風に言ってから、ラーズはレビよりも心配そうに俺を見やってきた。
「くれぐれも気をつけてくださいよ、アスタ。あんたにもしものことがあったら、ジェノスは大変な騒ぎになっちまいますからねえ」
「はい。ご心配ありがとうございます。頼もしい狩人たちが同行してくれますので、何も危険はないと思います」
俺がそのように答えたとき、新たな集団が屋台の前に立ち並んだ。フードつきマントを纏っていてもそうと知れる、ゲルドの使節団の面々である。
「失礼します。料理、お願いいたします」
「いらっしゃいませ。今日はちょっとごゆっくりでしたね」
「はい。ジャガル、使節団、到着する、聞いていたため、通りすぎる、待っていました。念のため、用心です」
そう言って、身長2メートルはあろうかという取りまとめ役の男性は、穏やかだが迫力のある眼差しで往来を見回した。
「宿場町、逗留していた、ジギの商人たち、同じ考えであったのでしょう。人数、にわかに増えてきた、思います」
言われてみれば、南の方角からフードつきマントの人影がわらわらと接近してきていた。使節団が到着する旨は、宿場町でも朝方に通告されていたのだそうだ。
ちなみにゲルドの人々は、宿場町に逗留しているわけではない。彼らは北方の闘技場をねぐらとして、夜などは自炊で晩餐をまかなっているのだそうだ。しかも、フワノやポイタンだけは宿場町で買い求めつつ、肉や山菜は自力で調達しているらしい。狩人の一族の面目躍如といったところであろうか。
(まあ、これだけの人数で宿屋に宿泊していたら、それだけで大出費だもんな。商売のためにやってきたんだから、少しでも出費を抑えたいって気持ちはわかるけど……)
だが、仮にも藩主の第一子息が責任者を務める使節団のメンバーが、そこまでつつましく振る舞うというのは、やはり普通でないように思えてしまう。これはやはり、ゲルドの気風といったものであるのだろうか。
「……アスタ、何か、疑問ありますか?」
と、取りまとめ役の男性が遥かな高みから俺を見下ろしてくる。
俺は「いえ」と笑ってみせた。
「同じ使節団でも、東と南ではずいぶん作法が違うのだなと考えていました。まあ、甲冑を纏っているかどうかで、まるきり印象が変わってしまうのでしょうけれどね」
「はい。我々、俊敏な動作、重んじます。甲冑、装着する、稀です」
そう言って、その男性は大きな手の平を腹のあたりに押し当てた。
「では、注文、よろしいでしょうか? 私、空腹です」
「あ、これは失礼いたしました。今日は初見の料理もないかと思いますので、お好みの料理をどうぞ」
使節団の面々ばかりでなく、東の商人のお客らも大挙してやってきていたので、俺たちの屋台は時ならぬ混雑に見舞われることになった。
その仕事に従事しながら、俺はなおもぼんやりと考える。
(晩餐を自炊で過ごすぐらいつつましい生活を送っているのに、昼にはこうしてわざわざ料理を買いに来てくれるんだもんな。これだって毎日のことなんだから、彼らにとっては大きな出費であるはずだ)
相手がアルヴァッハたちの同胞であるという思いもあってか、俺はこの使節団の面々にも小さからぬ親近感を抱くようになっていた。
それにやっぱり、ゲルドの民というのは森辺の民と共通する部分が多いのだろう。ジギの商人たちとはまた異なる観点から、俺には馴染みやすい人々であるように思えた。
(それに比べると、南の民っていうのは西の民に近い存在であるように思えるな)
もちろん気性や風貌など、南の民は独自の特性を有している。ただ、西の民と同じ言語を使っているためか、それほど異国の民という感じがしないのだ。たとえばディアルやラービスなどは、最初に南の民であると聞かされていなければ、西の民と見間違えてもおかしくなかっただろうと思う。
(西と南は気候や土の質が似ている、なんてアルヴァッハが言ってたっけ。それに……もともとジャガルはマヒュドラと血の縁があるんじゃないかって伝承も残されてるんだよな)
その伝承が真実であったとしても、四大王国が生まれたのは600年以上もの大昔だ。マヒュドラから分かたれた一族が南の地に移住して、それだけの歳月が流れていれば、その地の風土に見合った気性や生活様式が構築されることだろう。
甲冑を纏って物々しく行軍するさっきの一団は、いかにも『石の都の民』という様相であった。きっとそれが、森辺の民やゲルドの使節団やジギの商人たちとの大きな差異であるのだろう。モルガの森辺やゲルドの雪山やジギの草原で暮らす人々とはまったく異なる、文明の香り――これこそが典型的な『王国の民』なのではないかと思えてならないのだ。
しかしもちろん、俺がそれを忌避する理由はなかった。
現在の俺は、城下町の貴族たちにすら、親愛の念を抱いている。また、かつて宿場町を脅かした王都の兵士ダグやイフィウスにだって憎からぬ気持ちを覚えていたし、監査官のドレッグとだって最後には和解することができたのだ。
ジェノスや森辺の民に悪辣な陰謀を仕掛けようとしたタルオンのような人間でない限り、どのような立場の相手とも絆を結ぶことはできるだろう。
また、万が一にもタルオンのように悪辣な人間が出現したならば――なんとしてでも、和解か打倒を果たさなければならないのだった。
「あ、あの……どうもご無沙汰しておりました、アスタ殿」
と、新たな人影が屋台の前に立った。
フードつきマントを纏っていたので東の民かと思いきや、護民兵団の兵士ガーデルである。その気弱げな微笑を見上げながら、俺は「あれ?」と声をあげることになった。
「い、いらっしゃいませ。今日は、お休みなのですか?」
「は、はい。10日に1度ぐらいは、非番の日がありますので……」
そう言って、ガーデルは色の淡い目を伏せてしまった。
「だ、だけど、ちょうど城門のところでジャガルの使節団と行きあってしまったため、すっかり遅くなってしまいました。……まだ料理を買わせていただくことはかないますか?」
「もちろんです。わざわざ、ありがとうございます」
おひまがあれば、是非また屋台に――と、声をかけてはいたものの、彼がこんなに早くから訪れてくれるとは考えていなかった。最後に挨拶をしたのはトゥラン伯爵家の晩餐会であったから、まだ4日しか経過していないのだ。
マントの前をかき合わせて、大きな身体をすぼめていたガーデルは、俺の顔をおずおずと見返しながら、また弱々しく微笑んだ。
「そ、それでは、料理をお願いいたします。……今日は、狩人の方々もいらっしゃらないのですね」
「はい。護衛役をお願いするのは、復活祭の期間だけです。そういえば、ガーデルとお会いするときはいつも狩人たちが一緒でしたね」
「は、はい。勇猛で知られる森辺の狩人であれば、俺のようにうじうじとした人間は目障りでしかたないでしょうから……いささか、ほっとしました」
今日も今日とて、内向的に過ぎるガーデルであった。
俺はガーデルの分の料理を作りあげながら、「そんなことはないですよ」と笑いかけてみせる。
「大罪人シルエルを討ち取ったガーデルは、すべての森辺の民にとっての恩人でありますからね。どうか胸を張っていただきたく思います」
「あんなのは……ただの偶然です。西方神の悪戯心というやつなのでしょう」
ガーデルは自分の右の手の平を見下ろすと、ぞっとしたように身体を震わせた。
たとえ相手が大罪人であっても、他者の生命を奪うというのは苛烈な体験であるに違いない。ガーデルは何かを打ち払うように首を振ってから、また俺の顔を見返してきた。
「そ、それよりも、アスタ殿が屋台で働くお姿を拝見して……俺もようやく、気持ちが和みました」
「気持ちが和んだ? 何故でしょう?」
「森辺の民でありながら、たびたび城下町に招かれるというアスタ殿は……どうにも、近づき難い存在であるように思えてしまうのです。俺のような人間が、うかうかと近づいてしまっていいのか、と……」
「俺なんて、ただの屋台の店主に過ぎませんよ。護民兵団の一員であられるガーデルが恐れ入る必要なんて、これっぽっちもないはずです」
いったいガーデルはどのような生の果てに、こうまで屈折してしまったのだろう。卑しき生まれと言い張っているが、それでも彼は城下町の領民であるのだ。それが俺などに恐れ入る理由なんて、どこにも存在しないはずであった。
「どうぞこれからも、絆を深めさせてください。なんだったら、森辺の集落に招待させていただけませんか?」
「と、とんでもありません! 森辺の集落なんて、俺には恐ろしくて……」
と、ガーデルは曖昧に微笑みながら、左右に並んだ屋台を見回した。
「……ただ、こうして時おり屋台まで出向いてくることを許していただけたら……俺には、それで十分です」
「そうですか。こちらは、いつでも歓迎いたします」
俺は精一杯の気持ちを込めて、もういっぺんガーデルに笑いかけてみせた。
「そういえば、南の使節団と城門で行きあったと仰っていましたね。彼らの様子は、如何でしたか?」
「い、如何と申しますと?」
「いや、俺も2日後に面会する予定があるので、ちょっと興味があったのです」
ガーデルは、子供のようにきょとんとしてしまった。
「ど、どうしてアスタ殿が、ジャガルの使節団と? あの者たちは、トゥランの北の民たちを移送するためにやってきたのでしょう?」
「はい。森辺の民はちょっと北の民と関わる機会があったので、あちらから面会を希望されることになったのです」
「そうですか……」と、ガーデルはまた目を伏せてしまった。
「お、俺は下っ端の兵士に過ぎないので、南の使節団と関わる機会もありませんでした。ただ、デヴィアス隊長殿などは……以前に彼らがおもむいてきた際に、兵士長の御方と大いに盛り上がったようです」
「大いに盛り上がった? 祝宴か何かでしょうか?」
「い、いえ。夜にこっそり、酒場まで連れ出したのだとか何だとか……詳しい話は、俺もうかがっていませんけれども……」
俺は、思わず笑ってしまった。
ガーデルは、びっくりした様子で目を泳がせる。
「お、俺は何か、おかしなことを言ってしまったでしょうか……?」
「いえ。デヴィアスらしいなと思って、ついつい笑ってしまっただけです。やっぱり南の方々というのは、兵士長という身分にあっても大らかなのかもしれませんね」
ガーデルは頼りなげに、「はあ」と眉を下げてしまう。
「お、俺にはよくわかりませんけれども……でも、北の民たちに移住が許されたことを、喜ばしく思います」
「あ、そうなのですか?」
「は、はい……このような言葉を口にするのは、西の民にあるまじき行いであるのかもしれませんが……たとえ相手が北の民であっても、人間を道具のように扱うなどというのは……決して許されないことのように思えてしまうのです……」
そんな風に言ってから、ガーデルは慌てた様子で手を振った。
「い、今の言葉はお忘れください。兵団の者たちにでも聞かれてしまったら、俺は……」
「誰にも言いません。そして、そのように考えるガーデルのことを、俺は心から好ましく思いますよ」
そうして俺は、自分の口もとに指先を当ててみせた。
「今の言葉も、西の民には不相応でしたかね。おたがい、秘密ということにいたしましょう」
ガーデルは、ほっとした様子で微笑んだ。
その表情は、これまででもっとも屈託がないように思えてならなかった。