合間の一日②~午後~
2020.7/3 更新分 1/1 ・7/6 誤字を修正
俺たちが屋台の商売に励んでいると、やがてプラティカだけが舞い戻ってきた。
「あれ? プラティカおひとりですか?」
「はい。ニコラ、宿屋にて、身を清める、言っていました」
身を清めると言っても、宿場町に浴堂を設置した宿屋などは存在しないはずだ。であれば、宿場町の多くの領民がそうしているように、濡らした手拭いか何かで身を清めるのだろう。その場所を、懇意にしている《タントの恵み亭》に借りているのであろうと思われた。
「『ミートソースのパスタ』はまだ売り切れておりませんよ。お腹に余裕があったら、是非どうぞ」
「はい。そのため、ゆとり、持たせたのです」
プラティカは、ユン=スドラの担当する屋台から目当ての料理を買い求めて、青空食堂に立ち去っていった。
するとそれと入れ替わりで、フードつきマントを纏った長身の人物が近づいてくる。東のお客かと思いきや、それはひさびさに見るサンジュラであった。
「ああ、サンジュラ。ちょっとおひさしぶりですね」
「はい。屋台、訪れる、間遠になってしまい、申し訳ない限りです」
プラティカに負けないぐらいなめらかな西の言葉で、サンジュラはそう言った。外見は東の民にしか見えないが、彼は西の王国で生まれ育った身であるのだ。それでも東の言葉のほうが流暢であるというのは――やはり、複雑な生い立ちを持つゆえなのであろう。サイクレウスの隠し子であった彼は、余所の領地の郊外で人知れず、東の生まれである母親に育てられた身であったようなのだ。
「どの料理もまだ売り切れておりませんので、お好きな品をどうぞ。パスタ以外は、問題なく持ち帰れるかと思います」
「ありがとうございます。……その前に、御礼の言葉、よろしいでしょうか?」
フードを外したサンジュラは、やわらかく微笑みながらそう言った。西の民である彼は、感情を表すことを厭わないのだ。
「晩餐会、提案、ありがとうございます。リフレイア、心情、推し量り、提案してくれたのでしょう?」
「ああ、はい……俺なんかが出向いたところで、なんの気休めにもならないかとは思いますが……」
「そのようなこと、ありません。アスタ、リフレイアとシフォン=チェル、両方を知る、貴重な御方であるのです」
俺はかつて、もうひとりの従者であるムスルからも、そのように言われていた。俺や森辺の民というのは、リフレイアが真情を打ち明けることのできる、数少ない相手である、と――そのような期待をかけられることになってしまったのだ。
シフォン=チェルは、間もなく南の王国に出立することになる。そうして北から南に神を移せば、奴隷の身分から解放されるのであるから、シフォン=チェルにとっては幸福なことであるのであろうが――この近年で、シフォン=チェルはリフレイアにとってかけがえのない存在になっていたのだと、ムスルはそのように語っていた。そんなシフォン=チェルを失うことになったら、リフレイアはどれほどの悲しみを負うことになるかと、そんな懸念を抱くことになってしまったのである。
(シフォン=チェルは、まだどうするべきか決めかねてるって話だったけど……でも、たったひとりの家族であるエレオ=チェルと血の縁を絶ってまで、奴隷の身でいようとは思わないだろうからなあ)
そんな風に考えながら、俺はサンジュラに笑顔を返してみせた。
「俺の料理で、リフレイアが少しでも元気を出してくれたら、嬉しく思います。あと……他の方々の目のないところで、リフレイアやシフォン=チェルと言葉を交わすことは可能なのでしょうか?」
「はい。そちら、お伝えするため、やってきました。アスタ、一刻ほど、ゆとりをもって、城下町、訪れること、可能ですか? その時間、リフレイアたち、会見していただきたく思います」
「承知しました。お手間を取らせて、申し訳ありません」
「謝罪、および感謝の言葉、伝えるべき、こちらです。私とムスル、おそらく、リフレイア本人より、アスタ、感謝しています」
そう言って、サンジュラは深く頭を下げた。
ムスルはリフレイアが生まれた頃から世話をしていた従者であり、そしてサンジュラは――リフレイアの腹違いの兄であるのだ。肉親との縁が薄かったリフレイアにとっては、彼らとシフォン=チェルこそが、もっとも近しい存在となるのだろう。
そうしてサンジュラは、持参した器にいくつかのギバ料理を詰め込んで、城下町に戻っていった。
しばらくして、自分の担当の料理を売り切った俺は、青空食堂の手伝いに向かう。そちらでは、何故だかプラティカまでもが皿洗いの仕事に従事していた。
「あれ? どうされたのですか、プラティカ?」
「私、数々の迷惑、かけています。せめてもの、感謝の気持ちです」
プラティカは、感謝の気持ちを銅貨で示そうという提案もしたのだが、それはドンダ=ルウにもアイ=ファにも固辞されることになったのだ。ドンダ=ルウなどは、「迷惑だと思うならば、森辺に近づかなければいい」と、にべもなく言っていたものであった。
「かえって申し訳ありませんね。宿屋の方々の料理は、如何でしたか?」
俺も皿洗いに励みながらそのように聞いてみると、プラティカは「はい」と眼光を鋭くした。
「刺激、大いに受けました。《南の大樹亭》、南の食材、扱い、巧みです。《タントの恵み亭》、味わい、繊細です。《アロウのつぼみ亭》、菓子の出来栄え、見事です。城下町の料理、決して負けていない、思います」
「はい。《タントの恵み亭》なんかは、ヤンの考案した料理を売りに出していますからね。なおかつ、宿場町の人々の好みにあわせて、複雑な味わいというのを避けているので、とても食べやすかったでしょう?」
「はい。それでいて、細かな細工、散見されます。ヤン、尊敬すべき料理人です」
あちらの屋台の料理もプラティカの糧になったようで、何よりであった。
その後は無事に商売を終えて、ニコラとも再び合流して、森辺の集落に帰還である。営業3日目である本日は、俺個人の修練の日であった。
「トゥラン伯爵家の晩餐会が間近に迫っているので、今日はその修練に当てようと思います。新たな食材もふんだんに使うので、よかったらみなさんの家でも今後の参考にしてみてください」
本日は、ユン=スドラ、トゥール=ディン、マルフィラ=ナハム、レイ=マトゥア、フェイ=ベイム、ラッツの女衆、そしてクルア=スンという面々が集結してくれていた。クルア=スン以外のメンバーは、晩餐会の調理の手伝いを頼んでいる顔ぶれであるので、俺のほうから声をかけさせていただいたのだ。
そんな中、クルア=スンは恐縮しきった様子で頭を下げていた。
「このような大事な日に参加を願ってしまって、申し訳ありません。なるべくお邪魔にならないように振る舞いますので、どうぞご容赦ください」
「そんなに恐縮することはないよ。いつでもおいでって誘ったのは、俺のほうだしね」
研修を終えたクルア=スンは、他の多くのかまど番たちと同じように、数日置きの出勤となっている。ただ、ファの家で行われる勉強会については、ほとんど皆勤賞の状態にあったのだった。
「それだけ修練に熱心なのは、俺にとっても嬉しいことだからさ。いずれはクルア=スンにも手伝いをお願いする機会が巡ってくるかもしれないから、どうぞよろしくね」
「とんでもありません。わたしのような未熟者には、なかなか出番など巡ってこないことでしょう」
「そんなことはありませんよ」と笑顔でたしなめてくれたのは、気さくなラッツの女衆であった。
「クルア=スンは一番の新参ですが、どんどん手際がよくなっていますからね。わたしなんて、すぐに追いぬかれてしまいそうです」
「ええ。それに今回だって、ルウ家に助力さえ頼めたら、わたしなどに声がかかることもなかったでしょう」
そのように口をはさんだのは、フェイ=ベイムであった。実は同じ日に、レイナ=ルウたちはサトゥラス伯爵家で晩餐会の仕事を受け持つことになったのだ。まあ種を明かせば、どちらの伯爵家も屋台の商売が休業の日を選んでくれただけの話であった。
「でも、今後はこうしてルウ家と行動を別にする機会が増えるかもしれませんからね。俺にとっては、近在のみなさんが頼りでありますよ」
「無論、お引き受けしたからには、死力を尽くす所存です。不手際があれば、遠慮なく叱りつけていただきたく思います」
四角い顔に気迫をみなぎらせて、フェイ=ベイムはそのように言いたてた。
「きっとアスタはすべての氏族に公平に機会を与えるべきだと思いたち、わたしなどにも声をかけてくださったのでしょう。だけどそれで僻むほど、わたしは不出来な人間ではないつもりです。アスタに後悔をさせてしまわないように、ベイムの人間としての仕事を果たしたく思います」
確かに俺がフェイ=ベイムとラッツの女衆に白羽の矢を立てたのは、公平性を重んじたゆえであった。ちょうど主力であるトゥール=ディンたちの出自がばらけていたため、そこに含まれないベイムとラッツに声をかけさせていただいた、という顛末である。
「それじゃあ、修練を始めましょう。プラティカとニコラも、今日のところは見学でお願いします」
両名には勉強会の参加者として振る舞ってほしいと告げたばかりであったが、今日は勉強会ではなく晩餐会の予行演習であったので、手を借りるわけにもいかなかった。もちろん両名は不満を言いたてることもなく、厳しい眼差しで俺たちの手際を検分している。
「トゥラン伯爵家というのは、かつてスン家とともに罪を働いていた家ですものね。そんな相手と手を取り合うことができるようになって、わたしは心から嬉しく思っています!」
作業中、そんな風に言いだしたのはレイ=マトゥアであった。
「そうだねえ」と、俺も笑顔で答えてみせる。
「もちろんすべての罪人は裁かれたんだから、今のトゥラン伯爵家を恨む理由はひとつもないけれど……でも本当に、こんなありがたい話はないと思うよ」
「そうですよね! いつかクルア=スンも仕事を手伝えるようになったら、いっそう素敵じゃないですか?」
クルア=スンは銀灰色の瞳を静かに光らせながら、「はい」とうなずいた。
「かつて大きな罪を犯したスン家とトゥラン伯爵家の人間が、そうして手を取り合うことができたら、得難く思います。……当主のリフレイアという御方は、どのような御方であるのでしょう?」
「リフレイアはわたしと変わらないぐらいの年齢であるようですけれど、すごく毅然としていて、それに綺麗なお人でしたよ! あんなお人がアスタをかどわかしただなんて、ちょっと信じられないぐらいです!」
かつてレイ=マトゥアは、リフレイアも招かれた6氏族の合同収穫祭に参席していたのだ。また、そこにはクルア=スンの父親たるスン本家の家長も参じていたので、これぐらいの情報はすでに伝えられているはずであった。
「リフレイアはちょっと特殊な環境に育ったみたいだから、ずいぶんと複雑な気性をしているように思うよ。でも、根っこの部分は情が深くて、とても芯が強いだろうから……これまでに背負ってきた苦労が、彼女を立派な人間に育むんじゃないのかな」
ちょっと偉そうな言い回しになってしまったが、俺もそのように補足をしておくことにした。
クルア=スンは、「そうですか」とひそやかに微笑む。
「家族の罪と自分の罪を乗り越えるというのは、きわめて過酷な道であると思います。リフレイアという御方は……強き星のもとに生まれたのでしょうね」
すると、あちこちに検分の視線を走らせていたプラティカが、うろんげにクルア=スンを振り返った。
「……あなた、占星師ですか?」
「え? なんでしょうか?」
「あなた、強き星、言いました。占星師、好んで使う、言葉です」
そう言って、プラティカは鋭く目を細めていく。
「……また、シムにおいて、白銀の瞳、すなわち星読みの瞳、言われています。白銀の瞳、持つ人間、星読みの力、きわめて強いためです」
「そうなのですか。……わたしは東の民ではなく森辺の民ですので、星読みという技そのものと無縁な存在となります」
クルア=スンは年齢にそぐわぬ沈着さで、そのように答えていた。
プラティカ「そうですか」と、あっさり引き下がる。
「詮無きこと、言いました。ゲル、星読み、盛んでないため、物珍しい、思ったまでです。気分、害されたなら、謝罪いたします」
「謝罪には及びません。アスタの友にも、占星師という御方がおられるのだと聞いていますので」
それで話は終わってしまったが、俺としては若干の好奇心をかきたてられていた。
「プラティカ、シムにも銀色の瞳をした御方がおられるのですか? 今のところ、俺はお会いしたことがないのですが」
「はい。ただし、希少です。私自身、出会ったこと、ありません。遥かな昔、絶えたとも、言われています」
「そうですか……」
俺の中に巡っているのは、もちろんモルガの山にて聞き及んだ数々の逸話であった。かつてジャガルの黒き森で暮らしていた『白き民』は、族長筋が銀色の瞳をしており――そしてそれは、森辺の民のかつての族長筋であったガゼの一族に引き継がれたのではないか、という考察だ。
(それでもって、シムにも銀色の瞳をした人間がいたとなると……『白き民』と出会った『雲の民』のほうにも、銀色の瞳をした人間がいた可能性が出てくるわけか)
もちろん、西の領土に他ならないモルガの聖域にだって銀色の瞳をした幼子がいたのだから、どこに銀色の瞳をした人間がいてもおかしくはないのだろう。聖域の民も王国の民も、600年以上の昔には、すべてが同胞であったのだ。
ただ、星読みというのは魔術に類する技であるのだと聞いている。それでもって、シムにおいては白銀の瞳が星読みの才覚の証だと伝えられているのなら――クルア=スンの銀灰色の瞳が、『白き民』と『雲の民』のどちらの血筋の表れであっても、強い星読みの才覚を示しているのではないのかと、俺にはそんな風に思えてしまった。
「……どうかされたのですか、アスタ?」
クルア=スンが、いくぶん心配そうに俺を見つめてくる。
俺は、「なんでもないよ」と笑ってみせた。
クルア=スンが言っていた通り、俺には占星師のアリシュナという友がいる。《ギャムレイの一座》のライラノスとはほとんど面識もないが、《銀の壺》の星読みを得意にするお人だって、俺にとっては大事な友だ。たとえ俺が『星無き民』であったとしても、占星師を忌避する理由はないはずだった。
(でも確かに、クルア=スンのこの瞳だったら……何か不思議な力を持っていてもおかしくないような気がしちゃうな)
俺がそんな風に考えていると、クルア=スンはわずかに頬を染めて目を伏せた。
「申し訳ありません。そのように瞳を見つめられるのは、いささか気恥ずかしく思います」
「え? ああ、ごめんね! 何もおかしな意味じゃなかったんだよ」
すると、プラティカがいくぶん非難がましい声を届けてきた。
「アスタの視線、心、食いこむのです。配慮、必要である、思います」
「あー、わかります! アスタって、真っ直ぐ人を見るのですよね! でも、わたしはそれを美点だと思っています!」
「わ、わ、わたしもそのように思っています」
レイ=マトゥアとマルフィラ=ナハムが、そのようにフォローをしてくれた。ユン=スドラとトゥール=ディンも、どこかはにかむような感じで微笑んでいる。それらの姿を見回してから、プラティカは「そうですか」とうなずいた。
「では、アイ=ファ、可否、求めようと思います」
「い、いや、何もアイ=ファまで巻き込むことはないんじゃないのかな?」
「罪の心、ないならば、慌てる理由、ないかと思います」
プラティカの意地悪な物言いに、レイ=マトゥアやラッツの女衆は笑い声をあげていた。
そうしてその日もファの家における修練の時間は、賑やかに過ぎていったのだった。
◇
そしてまた、晩餐の刻限である。
本日の客人は、プラティカとニコラの2名のみだ。昨日の賑やかさに比べればささやかなものであるが、それでもふたりの家人しかないファの家においては、これでも人口密度は倍増していた。
「……よもやお前たちは、ゲルドの者たちがジェノスを出立するその日まで、連日ファの家で過ごすつもりではあるまいな?」
食事中、アイ=ファがそのように問い質すと、プラティカは「はい」とうなずいた。
「ルウ家、勉強会の行われる日、そちらで過ごすこと、許し、いただきました」
「……ルウ家で勉強会が行われるのは、3日に1度と聞いているが」
「はい。もちろん、それ以外の日、すべて、ファの家で過ごす、考えていません。そのような所業、ぶしつけ、極みです」
「そうか」
「ただ、今日と明日、滞在、許してもらいたく思います。それ以降、日程、思案中です」
「…………そうか」
露骨に迷惑そうな顔をしながらも、拒絶はしない心優しきアイ=ファであった。アイ=ファはアイ=ファで、プラティカやニコラが望む成果を手にできるように、心から願ってくれているのだ。
「アスタ、手際、見事です。連日、学んでも、学びきれません」
紫色の瞳を炯々と光らせながら、プラティカはそう言った。
「こちらの料理、調和、素晴らしいです。香草、調味料、美しき調和です」
本日のメインディッシュは、スパイスをふんだんに使ったハンバーグであった。セージに似たミャンツはギバ肉にもよく合ったので、それを基調にしてさまざまな香草を組み合わせてみたのだ。
もちろん強い辛みを嫌うアイ=ファのために、加減は心得ている。辛みではなくギバ肉の風味を活かすことを念頭に置いた調合である。オーソドックスなデミグラスソースとの相性も、ばっちりであると自負していた。
「こちら、ギャマの肉、応用、可能でしょう。故郷、戻ったならば、取り組みたく思います」
「ギャマの肉のハンバーグですか。腸詰肉があれほどに美味だったのですから、きっと素晴らしい仕上がりになるでしょうね」
ちなみに本日の料理は、すべてこの3人で作りあげたのだ。その完成度に問題がないことは、アイ=ファの食べっぷりが証明してくれていた。
「ゲルドから届けられた食材も、惜しみなく使っているようだな。これらはすべて、トゥラン伯爵家の晩餐会でも供するつもりであるのか?」
「うん。今日の修練の成果だよ。当日にはもっと品目を増やすけど、今日の分はみんな採用にできそうだ」
晩餐会は、3日後に迫っている。それはゲルドの貴人を歓待するための会であるのだから、主賓たるアルヴァッハたちにこそ、そんぶんに楽しんでもらわなくてはならなかった。
そうして食事を終えたならば、食後のデザートだ。
ニコラはぴりぴりと張り詰めた表情で、菓子の皿を配膳してくれた。
「こちらは、わたしがヤン様から学んだ菓子となります。アスタ様やプラティカ様のお手もお借りしましたが、不出来であった場合はわたしが責任を取らせていただきたく思います」
「うむ。しかし私には菓子の善し悪しなど判ずることはできないので、そのように気負うことはないぞ」
そんな風に語るアイ=ファの前にも、菓子の皿が届けられた。
その内容は、洋風の焼き菓子である。フワノの薄い生地で具材をくるみ、春巻きのような形に仕上げてから石窯で焼きあげた、城下町では王道の菓子であるのだろうと思われた。
キツネ色に焼けた生地には、桃のごときミンミをベースにした甘いソースが掛けられている。それをひと口かじったアイ=ファは、「ふむ」とわずかに首を傾げた。
「奇妙な噛み心地だな。この噛み心地は……チャッチもちか?」
「はい。森辺の方々がチャッチもちと呼ぶものを、具材に織り交ぜています」
ちなみに具材は、タウの豆をカロン乳で煮込み、砂糖と蜜とシールの果汁と卵黄を加えて練り上げた餡である。その中に、細かく刻んだチャッチ餅を練り込んでいるのだ。
卵白のほうは生地に使っているので、なかなか軽やかな食感に仕上げられている。タウ豆の餡はねっとりとしており、そこにチャッチ餅のぷるぷるとした噛み心地が楽しいアクセントになっていた。
「……如何でしょうか? どうぞご遠慮なく、お言葉をお聞かせください」
「べつだん、悪くはないように思える。まあ、私の言葉など気にする必要はないぞ」
そう言って、アイ=ファはすみやかにニコラの菓子をたいらげた。
斯様にして、菓子には反応の薄いアイ=ファなのである。ニコラはいくぶん無念そうに、きゅっと眉をひそめていた。
「俺は美味だと思いますよ、ニコラ。こちらの菓子は、ヤンとニコラのおふたりで考案したのでしょう?」
「……ふたりで考案したというよりは、ヤン様がチャッチもちの新たな使い道を模索した結果となります」
「でも、そもそもチャッチ餅を焼き菓子に取り入れようと最初に考案したのは、ニコラなのでしょう? まずその考案がなければ、この菓子も生まれなかったということです」
するとアイ=ファが、どこか遠くを見るような眼差しで口をはさんできた。
「ふむ。つまりこれは……もともとアスタの考案したチャッチもちを、ニコラが城下町の菓子に取り入れたということであるのだな?」
「うん、その通りだな」
「なるほど。先日の収穫祭で出されたマルフィラ=ナハムの宴料理も、アスタが森辺に広めたギバ肉の取り扱いと、ヴァルカスのごとき香草の取り扱いを組み合わせらようなものであるように感じたのだが……」
「おお、鋭いな。俺もまさしく、そんな風に考えてたよ。もちろん、俺やヴァルカス以外の影響もあるんだろうけど、あそこまで色々な香草と調味料を組み合わせるのは、やっぱりヴァルカスっぽいよな」
「そうか。しかし、そもそもアスタの作法とヴァルカスの作法を組み合わせたいなどと言い出したのは、あのロイとかいうヴァルカスの弟子ではなかったか?」
その一件は、もちろん俺の記憶にも強く残されていた。そうしてロイは、香草を多用した揚げ物料理を俺たちに試食させてくれたのである。
「うん、あれも印象的な出来事だったよな。でも、それがどうかしたのか?」
「いや。あまり縁を深めていないように思える3名が、それぞれ別の場所で同じような試みをしていることを、いささか奇妙に思っただけのことだ」
「ああ、なるほど。まあ、この1年ちょっとぐらいで、城下町の料理人たちは森辺の料理を知り、森辺のかまど番たちは城下町の料理を知ることになったからな。それぞれ別の道筋から、同じような結論に至ったってことなのかもな」
俺がそのように答えると、アイ=ファはうろんげに眉をひそめた。
「……お前は何をそのように、楽しげな顔をしているのだ?」
「え? いや、アイ=ファがそんな風に料理の話をするのは珍しいから、ちょっと楽しくなっただけだよ」
アイ=ファはしばらく俺の顔を見据えてから、ことさら厳粛な声音で言った。
「かまど番ばかりに囲まれて、料理の話ばかりを聞かされていたものだから、私までもが感化されたのやもしれんな。余計な口を叩くなと言うのなら、それに従おう」
「こんなに楽しい気分なのに、そんなことを言うわけがないじゃないか」
そうして俺が笑っていると、アイ=ファは何故だかぷいっとそっぽを向いてしまった。
すると、俺たちの会話が途切れるのを待っていたかのように、プラティカが発言する。
「今日も、さまざまなこと、学ばせていただきました。アスタ、ニコラ、感謝いたします。……また、ファの家、招いてくれたこと、アイ=ファ、感謝しています」
「うむ。荷車に戻るのか?」
「はい。また明日、お願いいたします」
いささか唐突なような気もしたが、プラティカはすでに腰を上げかけていた。
空の食器は水を張った鉄鍋の中にひたして、全員で玄関を出る。荷車はすぐ目の前にとめられているが、アイ=ファは用心して刀を持参していた。
「では、また明日に」
「おやすみなさいませ」
プラティカとニコラが荷台に収まるのを見届けて、俺たちも母屋に引き返した。
歯木と呼ばれる歯ブラシで歯を磨いたならば、就寝前のおしゃべりタイムだ。
が、アイ=ファは敷物に腰を下ろそうとはせずに、真っ直ぐに寝所へと向かってしまった。
「あれ? もう寝ちゃうのか?」
「うむ。いつ眠気が襲ってきてもいいように、今日は寝所で過ごそうと思う」
アイ=ファがそのように言うなら、俺にも異存はない。俺は壁際で丸くなっていたサチの身体をすくいあげて、アイ=ファに追従することにした。
燭台を枕もとに置き、長い髪をほどいたアイ=ファは、さっさと寝具に横たわってしまう。隣の寝具にあぐらをかいた俺は、この段に至ってようやく首を傾げることになった。
「なあ、アイ=ファは何か、怒ってるのか?」
「……私に何か、怒る理由でも存在するのか?」
「いや、心当たりはないんだけど、俺が何か不作法をしたなら、そのままにはしておけないだろ」
「……私が気分を害したなら、それをお前に隠す理由があるか?」
しどけなく横たわったアイ=ファは、顔のほうにこぼれ落ちた金褐色の髪の向こう側から、俺を横目でねめつけてきた。
「……お前だけが座していると、声が遠い」
「ああそう」と曖昧に応じながら、俺も寝具に横たわってみせた。
アイ=ファは横向きに寝ているので、俺もそれと向かい合う姿勢を取る。
俺を見つめるアイ=ファの顔は、ちっとも怒っていなかった。
それどころか、とても幸福そうに微笑んでいる。
「……私が怒っているように見えるか?」
「いや、俺の勘違いだったみたいだな」
「そうであろう。私は、ただ……いささか窮屈に思っていただけだ」
「窮屈?」
「うむ。客人の前で、柔弱な姿は見せられぬからな」
そう言って、アイ=ファが俺のほうに腕をのばしてきた。
ただ、俺の身に触れようとはせず、胴着の裾をきゅっとつかんでくる。
「……お前がいきなり可愛らしい笑顔を見せるものだから、私も心を乱されかけてしまったのだ。そういう意味では、責任はお前にあろう」
「そうか。それじゃあ客人の前では、俺も笑顔を控えたほうがいいのかな?」
「うつけ者」と、アイ=ファはいっそうやわらかく微笑んだ。
「そのような真似をすれば、そのときこそお前を叱りつけることになろう。……お前が私の前で感情を隠す必要など、ない」
「それなら、よかったよ。アイ=ファだって、客人の前で感情を隠す必要はないように思えるけどな」
「それでは、家長の威厳が保てまい。このような姿を、客人の前でさらせというのか?」
すねたような口調で言いながら、アイ=ファが俺に近づいてきた。
もちろん、俺の身に触れたりはしない。が、その顔はピントがぼやける寸前ぐらいの至近距離にまで接近していた。
青い瞳が、静かに明るく輝いている。
アイ=ファが抱いている幸福感が、そのまま俺の中に流れ込んでくるかのようだった。
「……あの娘たちは、立派だな」
ふいにアイ=ファが、そのように言いたてた。
「レイナ=ルウやシーラ=ルウ、ユン=スドラやトゥール=ディン、レイ=マトゥアやマルフィラ=ナハム……それに、ロイやシリィ=ロウなる者たちとて、並々ならぬ意気込みで、かまど番の仕事に取り組んでいる。しかし、プラティカとニコラには……それとも異なる、生命を懸けた気迫のようなものを感ずるのだ」
「なるほど。それはあのふたりの、もともとの気性も関係しているのかもしれないけど……ただ、他の人たちよりも思い詰めているっていう面もあるのかもな」
「それは、何故であろう?」
「俺にもよくわからないけど、それぞれの立場ってやつが関係してるんじゃないのかな。料理番として大成しないと、帰る場所もない、とか……たぶんあのふたりって、身寄りらしい身寄りがないだろう? 文字通り、生命を懸けて料理番の仕事に取り組んでいるんじゃないのかな」
「では、私やお前と同じようなものか」
そう言って、アイ=ファは昔を懐かしむように微笑んだ。
「狩人が仕事に生命を懸けるのは当然だが、お前もまた……森辺にやってきた当初は、ずいぶん思い詰めていたように思う」
「それはまあ、俺にも帰る場所がなかったからな。そんな俺を助けてくれたアイ=ファを喜ばせたいと思って、必死になってたよ」
「そうか」と、アイ=ファは目を細めた。
慈愛に満ちた眼差しが、俺の心を温かくくるんでいく。
「プラティカたちがあれほどまでの気迫をみなぎらせていなければ、私もこうまで連日、ファの家を訪れることを許しはしなかっただろう」
「うん。迷惑そうにしながらも、明日や明後日の来訪も許してくれたもんな」
「迷惑になどは思っていない。ただ、いささか窮屈に感ずるだけだ」
甘えるように、アイ=ファが胴着の裾を引っ張ってきた。
「プラティカたちの力になってやるがいい。お前には、それだけの力が備わっているはずだ」
「うん。俺なりに力を尽くそうと思うよ」
そうしてその日も、ファの家の夜は静かに更けていった。
アイ=ファの甘い香りと温もりで始まり、アイ=ファのやわらかい笑顔で締めくくられる。これこそが、俺の幸福なる日常であったのだった。