箸休め ~ゲルドの旅人たち~
2020.6/22 更新分 1/1
・書籍版第21巻およびコミックス第4巻の刊行を記念して、ショートストーリーを公開いたします。
・本編の再開まで、もう少々お待ちください。
『こちらのキミュス料理は、きわめて不出来である』
ベヘットという名の宿場町にて、宿屋の食事に口をつけるなり、アルヴァッハはそのように言いたてた。
刻限はすでに夜であり、宿屋の食堂は旅人たちで賑わっている。しかし、シムの商人は見当たらないようであったので、アルヴァッハの東の言葉を聞き取れた者はいないだろう。それでもナナクエムは同胞を掣肘するために、『アルヴァッハ』と声をあげることになった。
『このような場末の宿屋にて、それほど豪勢な料理が出されるわけはなかろう。少しは口をつつしむがいい』
『しかし、この宿屋はベヘットにおいて、もっとも質の高い宿屋であるという話ではなかったか?』
アルヴァッハの青い目が、黙々と料理を食していた従者のほうに向けられる。従者はいったん膝の上に手を下ろしてから、『はい』と恭しく一礼した。
『複数の領民に確認しましたため、こちらの宿屋がベヘットにおいてもっとも質が高いことに間違いはないかと思われます』
『では、どうしてこのように不出来な料理が出されるのであろうか? 料理の出来栄えというものは、寝所の造りと同じぐらいに、宿屋においては重要な点であろう?』
『は……アルヴァッハ様の仰る通りであるかと思われます』
従者の男がますますかしこまってしまったので、ナナクエムは再び『アルヴァッハ』と声をあげることにした。
『そのように文句を言いたてても、料理の味が変わることはあるまい。このベヘットという宿場町においては、この宿屋が最高の宿屋であり、この料理が最高の料理であるということだ』
『しかしこのベヘットは、ジェノスからトトスで1日足らずの距離である。ジェノスではあれだけ質の高い料理が出されているのに、こうまで料理の質が低いというのは――』
『アルヴァッハがジェノスで口にしたのは、城下町と森辺の料理であろうが? 宿場町の料理と比較するべきではない』
『否。森辺の民たるファの家のアスタは、宿場町でも屋台を開いている。ならば、他の屋台や宿屋においても、相応の料理が供されるはずであろう。そうでなければ、ジェノスの宿場町がああまで賑わうこともあるまい』
アルヴァッハは、今にも感情をこぼしそうな勢いでそのように言いつのった。
そして、2名の従者とは反対の側で食事を進めていたプラティカのほうに視線を転じる。
『プラティカよ。お前はこの料理をどのように判じているか、言葉を飾らずに申し述べてみよ』
『はい。残念ながら、美味なる料理と判ずることはかなわないようです』
プラティカは主人たるアルヴァッハの姿を真っ直ぐに見返しながら、そのように答えた。
『私のような未熟者がこのように言いたてるのは、きわめて不遜なことなのでしょうが……塩加減も、熱加減も、使用している香草の取り扱いも、何もかもが不十分であるように思います』
『うむ、その通りである。そもそも、キミュスの肉料理というのは――』
アルヴァッハの長広舌が始まりそうであったので、ナナクエムは慌てて口をはさむことになった。
『だから、場末の宿場町の料理にそのような文句をつけても、意味はあるまい。このキミュスの肉料理などは、赤銅貨3枚の値であったのだぞ? 値段相応の味ではないか』
『否。アスタであれば、たとえ赤銅貨3枚でも満足のいく料理を出せるはずであろう』
そう言って、アルヴァッハは深々と溜め息をついた。
『やはり、夜を徹してジェノスを目指すべきだったのではないだろうか? 我々のトトスであれば、夜明けの前に辿り着けたはずであろう』
『夜明けの前に辿り着いて、なんとする? 城門の跳ね橋はあげられているし、宿場町の宿屋も閂を掛けて寝静まっている頃合いであろう』
『だが、夜明けと同時にギバ料理を食せるやもしれん』
『我々は、すでに本隊より3日も先行している。そのように無茶な真似をする理由はあるまい』
アルヴァッハは、不満げに口をつぐんでしまった。
これはもう、アルヴァッハの病なのである。故郷を出立したときなどはたいそう上機嫌であったのに、ジェノスが近づくにつれて、悪い虫が騒いでしまった。ジェノスで待ち受ける美味なる料理への期待感が、そのまま現状への不満に転化してしまっているのだ。
(美味なる料理さえ絡まなければ、このように頼もしい朋友もいないのだが……)
アルヴァッハは、いずれゲルの藩主となる身である。その立場に相応しい風格と力量を備え持っており、いずれドの藩主となるナナクエムは、それを心から頼もしく思っているのだ。
だが、美味なる料理が絡むと、とたんに幼子に戻ってしまう。いや、やたらと弁が立つために、幼子よりもよほど厄介であろう。鋭敏な舌と的確な判断力からもたらされる長広舌が、ターレス連山の吹雪のように荒れ狂ってしまうのだった。
(あまつさえ、修練のために屋敷の料理番を同行させようとはな……)
ナナクエムは中断していた食事を再開させながら、横目でプラティカの様子をうかがった。
まだ13歳の、幼いと言ってもいいぐらいの少女である。意思の強さが眼光や立ち居振る舞いに表れているため、年齢よりは大人びて見えるが、それでも体格はほっそりしているし、ふとしたときに見せる仕草はあどけない。それでも彼女は、ゲルの屋敷で一と言って二とない腕の料理番であったのだった。
このふた月ほどで、ナナクエムも何回かプラティカの料理を口にしている。彼女は父親とともに西の王国で修練を積んでいたため、ずいぶんと風変わりな料理を作ることができるのだ。ナナクエムなどは、ひたすら感心するばかりであるのだが――それでもアルヴァッハは、その出来栄えにまったく満足していなかったのだった。
『……このベヘットはジェノスの近隣の町であるのに、ギバ肉というものを買いつけていないのでしょうか?』
プラティカが、ふいにそのようなことを言いだした。
腕を組んで黙りこくっていたアルヴァッハは、重々しく『うむ』と応じる。
『ギバの肉は、先年にようやくジェノスの町で売りに出されたのだと聞いている。ギバは野生の獣であるので、領地の外にまで流通させるには至っておらぬのであろう』
『ですが、このたびはゲルドで買いつけることが許されたのですね?』
『うむ。長期の保存に耐え得る腸詰肉を、特別に準備してもらう約定を取りつけている』
そう言って、アルヴァッハはプラティカの姿を見据えた。
『やはり、料理人としての腕が疼くか』
『はい。アルヴァッハ様がそうまで美味と仰るギバ肉というものが、いったいどれほどの味わいであるのか……期待がつのってやみません』
『うむ。しかし、それを美味なる料理に仕上げるには、やはり料理番の腕が必要となる。お前はジェノスにて、その力を身につけるのだ』
プラティカはいっそう強く瞳を光らせながら、『はい』とうなずいた。
それから、アルヴァッハの前に置かれた料理の皿へと視線を転じる。
『……ところで、そちらの料理はもうお食べにならないのでしょうか?』
『否。いかに不出来な料理であっても、そのような傲慢は許されまい。……しかし、どうにも手が進まぬのだ』
『では、少々不作法をさせていただきます』
プラティカは、外套の隠しから革の物入れを取り出した。
開け口の紐をほどくと、とたんに香草の香りが舞う。袋には小さな木匙も仕舞われており、プラティカはそれで香草の粉末を木皿の料理に振りかけた。
『他者の料理に手を加えるなどというのは不作法の極みでありましょうが、これで多少はお口に馴染みやすくなったのではないかと思われます』
アルヴァッハは無言のまま木匙を取り上げて、香草をまぶされたキミュスの肉片をすくいあげた。
『ふむ。イラの葉の強い辛みで、不出来な部分をかき消したか』
『はい。それでも熱加減の至らなさから生じる食感の悪さまでは隠せませんが、邪魔な風味や味わいは覆い隠せるかと思います』
『うむ。口にするだけで不快な料理が、ただ辛いだけの料理に変じたようだな。粗末であることに変わりはないが、まだ我慢もきこうというものだ』
そうして赤く染まったキミュスの肉をもういくつか口にしてから、アルヴァッハは『ふむ』とうなった。
『プラティカよ、お前も自分の料理にイラの葉を掛けてみるがよい』
プラティカは、何故とも問わずに主人の命令に従った。
その細い眉が、きゅっとひそめられる。まだ若年である彼女は、時おり感情をこぼしてしまうのだ。
『その味わいを、お前はどう判ずる?』
『……はい。こちらの料理に使われている西の名も知れぬ香草が、イラの葉と思いも寄らぬ調和を果たしているように感じます』
『では、美味か?』
『いいえ。とうてい美味とは言い難い味わいです。ただ……ミャンツと、さらにいくつかの調味料を加えれば、もっと確かな調和を為せるのではないかと……』
『やはり、魚醤であろうか?』
『はい。魚醤は欠かせないように思います。それに、砂糖と……ムフルの脂も試してみたく思います』
『ムフルの脂か。確かに、悪くはないように思える。ならばいっそ、キミュスではなくムフルの肉を使うべきかもしれんな』
『はい。そこまで香草と調味料の味を重ねるとなると、キミュスの肉では力が足りません。ムフルか、あるいはギャマの肉が相応であろうと思われます』
ナナクエムは、たまらず声をあげることになった。
『それでは、まったく別なる料理になってしまうではないか。……貴殿らが無駄口を叩いている間に、我々は料理を食べ終えてしまったぞ。それほどジェノスが恋しいならば、明日に備えて早々に休むべきではないか?』
『しかし、論評を途中で取りやめては、プラティカの修練にならん』
『はい。恐れ多きことながら、今少しアルヴァッハ様のご意見をうかがいたく思います』
そうして両名は、再び熱心に語らい始めた。
護衛役でもある2名の従者たちは、酒を飲むことも許されず、ただ彫像のように座している。よく鍛えられた彼らはまったく感情をこぼそうとしないので、むしろナナクエムは心労がつのってしまった。
『……其方は、藩主の屋敷に仕える従者であったな。藩主の跡取りのこのような姿を見せつけられて、呆れてしまっているのではないか?』
ナナクエムがそのように耳打ちすると、従者は『いえ』と小声で応じた。
『私はアルヴァッハ様がそのお立場に相応しい御方であられることを、わきまえております。……それに、お屋敷でも見慣れた姿でありますため、ご心配には及びません』
『……それはまあ、そうなのであろうな』
言われてみれば、これはナナクエムがゲルの屋敷に招かれるたびに見せつけられていた光景であった。プラティカのさらなる飛躍を望むアルヴァッハと、アルヴァッハの期待に応えたいと願うプラティカの気持ちが、重なり合った結果であるのだ。
(これは……アスタを筆頭とするジェノスの者たちも、前回以上の苦労を負わされることになりそうだな)
表情を動かすことの許されないナナクエムは、ただ溜め息をつくしかなかった。
そんなナナクエムの心情も知らぬげに、アルヴァッハとプラティカは料理が冷めるまで延々と語り続けていた。