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異世界料理道  作者: EDA
第五十一章 賑やかなりし日常へ
893/1681

祝賀の宴④~不可逆の幸福~

2020.5/3 更新分 1/1

・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。

『デデイットの帰還』という物語は、俺がかつてラダジッドから聞いたものとおおよそは同じ内容であるようだった。


 もちろんラダジッドとは屋台の前で立ち話をしたのみであるので、概要しか聞いてはいなかった。その際には省略されていた細かな部分を、俺はこの日の観劇で知ることになったわけである。


 たとえば、デデイットが聖域に招かれるシーンだ。

 俺たちは『封じの仮面』というもので視界をふさがれることになったが、デデイットに対する処置はさらに入念であった。彼は目隠しばかりでなく、耳栓にさるぐつわまでされて、物音を聞くことも言葉を発することも完全に禁じられてしまったのである。


 もちろんこれは古い伝承をもとにした御伽噺であるので、実情はわからない。長きの時間をかけて語り継がれる間に脚色が為されたのか、あるいはそちらの聖域ではそれが正しい作法であったのか――俺たちに、それを判ずるすべはなかったのだった。


 ともあれ、俺たちがその物語の内容に落胆することはなかった。

 細かなディテールに違いはあれど、それは俺たちが体験した聖域の在りようと大きな差異はなかったのである。


 聖域の民は、親切で、純真で――そして同時に勇猛であり、独自の厳しい掟を有している。シムの草原で暮らし、行商人として生きるデデイットの目を通して、俺たちは聖域の出来事を追体験させられたような心地であった。


 ジェノスの人々もこの演劇には心から満足したようで、終演が伝えられた際には惜しみない拍手を送っていた。俺とアイ=ファも、レイナ=ルウとディム=ルティムも、それは同様であった。


「如何でしたか? 僕もこの物語を演劇として拝見したのは初めてなのですが、内容に大きな不備はなかったように思います」


 舞台から離れて広間のほうに戻りつつ、フェルメスがそのように語りかけてきた。

「そうですね」と、俺は笑顔を返してみせる。


「聖域に足を踏み入れた俺にしてみても、その印象を壊されることはありませんでした。それにしても、聖域を題材にした演劇が存在するなんて、驚きです」


「ええ。この一座は、東の伝承をこよなく好んでいるようですね。東の言葉を体得して、シムにおいても巡業をしているようです。東の王都ラオリムには何度となく足を運んでいるという話であるのに、西の王都アルグラッドにはまだ足を踏み入れたことないとのことですよ」


「ああ、だから東の装束についても、あんなにリアル……じゃなかった、本格的なのですね」


 うっかり、外来語を使ってしまった。

 アイ=ファがわずかにぴりっとした気配を漂わせたが、フェルメスは澄みわたった微笑をたたえている。


「アスタがそのように楽しげな顔をされていると、僕も幸福な心地です。なんだか以前よりも、アスタの存在をうんと近くに感じられるかのようです」


「あ、はい。そのように言っていただけると、俺も嬉しいです」


「ところで、『りある』というのはアスタの故郷のお言葉なのでしょうか?」


「……ええ、まあ、そうですね」


 俺の顔色を見て取って、フェルメスは可憐にくすりと笑った。


「ご心配なさらずとも、僕はアスタの故郷に大きな関心は寄せていません。それはあまりに、僕の手に余るというか……大陸アムスホルンのすべてを解き明かす前に、手をのばすべきではないように思えるのですよね」


「大陸アムスホルンのすべて、ですか……壮大すぎて、俺には想像も及びません」


「僕とて、同じようなものですよ。ただ、夢想の翼を広げているにすぎません」


 フェルメスがそのように言ったとき、人の波からエウリフィアとオディフィアが近づいてきた。


「あら、アスタたちはフェルメス外交官とご一緒だったのね。……わたくしたちは、ちょっとあちらに呼ばれてしまったので失礼するわ。さ、オディフィアも挨拶をなさい」


「うん。……あとでまた、オディフィアとおはなしをしてくれる?」


「もちろんです。聖域についてもお話ししないといけませんしね」


 俺が笑顔で答えると、オディフィアは無表情のまま、もじもじとした。


「あと……オディフィアと、いっしょにおどってくれる?」


 俺は「え?」と驚いてしまったが、それはオディフィアとの身長差を危惧してのことであった。

 しかしどの道、俺は正式な舞踏の型など知らないし、森辺ではオディフィアもさまざまな相手と舞踏をともにしていた。形式にこだわる必要がないのなら、オディフィアの誘いを無下にする理由はなかった。異性との接触に関しても、10歳未満のオディフィアであれば問題はないのだ。


「俺は舞踏の作法など何もわきまえていないのですが、それでよければ喜んでご一緒させていただきます」


「ありがとう」と、オディフィアは灰色の瞳をきらめかせた。どこか、子犬がぶんぶんと尻尾を振っているかのような風情である。

 もしかしたらオディフィアは、トゥール=ディンに会えない寂しさを俺で埋めようとしているだけなのかもしれないが――何にせよ、俺はトゥール=ディンが抱いている幸福感を心から理解することができた。この幼き姫君に好意を寄せられるというのは、これほどに胸が温かくなることであったのだ。


 そうしてオディフィアたちが立ち去っていくと、入れ替わりでレイナ=ルウとディム=ルティムが近づいてくる。ふたりはさきほどまで一緒に観劇をしていたのだが、俺がフェルメスと話している間に別の誰かと語らっていたようだ。


「あの、申し訳ないのですけれど、わたしたちもしばらく行動を別にしてもよろしいでしょうか? リーハイムが、ジザ兄とメルフリードを交えて話をしたいと伝えてきたのです」


「あ、そうなんだ? 別にかまわないよな、アイ=ファ?」


「うむ。レイナ=ルウにとっても、それは重要な話であるのだろうからな」


 アイ=ファがきりりとした面持ちで応じると、レイナ=ルウは「ありがとうございます」と一礼して、ディム=ルティムとともに立ち去っていった。

 ディアルは劇が始まると同時にリフレイアと合流し、シリィ=ロウもどこかに姿を消している。よってこの場に残されたのは、俺とアイ=ファ、フェルメスとジェムドの4名のみであった。

 レイナ=ルウたちの背中を見送ってから、フェルメスはにこりと微笑を浮かべる。


「以前の祝宴では、ダリ=サウティやジザ=ルウがアスタを守るようにして、行動をともにしていましたね。そのような措置が為されなくなったのは、おふたりが僕のことを信頼してくれている証のように思えて、光栄です」


「……あなたがよからぬことを企んだとしても、レイナ=ルウやディム=ルティムではその意味を理解することも難しかろうからな」


 そんな風に答えつつ、アイ=ファの眼差しは穏やかであった。


「そして私は、あなたのことを信頼しようと心がけている。その心情を踏みにじられない限り、やたらと警戒心をあらわにするのは非礼となろう」


 フェルメスは「ああ……」と嘆息をこぼしてから、俺に向きなおってきた。


「アスタ、ぶしつけな質問かもしれませんが……アスタは最初から、アイ=ファと信頼し合うことがかなったのでしょうか? それともやはり、信頼を結ぶには長きの時間が必要であったのでしょうか?」


「え? 質問の意味がよくわからないのですが……もちろん信頼の絆を結ぶには、相応の時間が必要であったと思いますよ」


 それでもアイ=ファの気性を考えれば、最初からずいぶん気安い関係を築けていたように思えるが――だがやはり、本当の意味で信頼し合えるようになったのは、数々の苦難をともに切り抜けたのちのことであろう。

 俺の返答に、フェルメスは満足そうにうなずいた。


「やはり、そうなのですね。僕はずっとアイ=ファに冷たい眼差しを向けられていたように思うので、これほど温かな眼差しを向けられただけで、心を揺さぶられてしまいます。これではアスタがアイ=ファに心を奪われるのも当然でありましょう」


「……おい」


「失礼。軽口が過ぎました。これもまた打ち解けた証と思っていただけたら幸いです」


 フェルメスは無邪気に微笑み、アイ=ファは顔を赤くする。ジェムドはひとり、穏やかな無表情だ。


「申し訳ありませんが、どこかで腰を落ち着けて、ゆっくり語らせていただけませんか? まだ病み上がりであるためか、いささか疲れてしまったようです」


「……軽口をつつしむと約束するなら、承知しよう」


 ということで、小姓たちに椅子を準備してもらい、俺たちは広間の片隅に腰を落ち着けることになった。

 ごく少数であるが、同じように着席している人間もいなくはない。そのおおよそは、老境に差し掛かった貴族たちである。広間の中央ではダンスが再開され、楽団の奏でる演奏が心地好く広間をたゆたっていた。

 準備された椅子に腰を下ろしたフェルメスは「ふう」と息をついてから、あらためて俺とアイ=ファの姿を見比べてくる。


「それにしても……おふたりの宴衣装は見事なものですね。貴族ならぬ身であるというのが信じ難いほどです」


「あはは。アイ=ファはともかく、俺などは庶民まるだしではないですか?」


「とんでもありません。アスタとて、そのように凛々しきお姿をされているではないですか」


 1日に2度も凛々しいと評されるのは、光栄な限りである。

 しかし相手がフェルメスでは、額面通りに受け取ることもできなかった。フェルメスこそ、貴族の中の貴族といった風貌なのである。


(まあ……貴公子というよりは、絶世の貴婦人って感じなんだけどな)


 そして、フェルメスのかたわらに立ちつくしているジェムドなどは、従者でありながら貴公子そのものだ。アイ=ファとフェルメスとジェムドが顔をそろえていたならば、容姿で張り合える人間などそうそう存在しないはずだった。


「それに森辺の方々は、誰もが自然にこの祝宴に溶け込んでいるように感じられます。ジィ=マァムとディム=ルティムはいささかぎこちないようにも思えますが、彼らは初めての城下町であったのですよね?」


「はい。初めての城下町がこのように立派な祝宴というのは、大変な体験だと思います」


「まったくですね。それでも森辺の狩人には果断なる魂が宿されているので、怯んでいる様子はいっさい見られません。……本当に、得難く思います」


 フェルメスのヘーゼル・アイが、広間のほうに向けられる。

 それにつられて、視線を移すと――ジィ=マァムとデヴィアスが、若い貴族たちを相手に酒杯を酌み交わしている姿が見えた。いつの間にやら、ドーンもそこに加わっている。


 残りのメンバーは、ダンスを踊っている人々の向こう側で、密談だ。ジザ=ルウ、レイナ=ルウ、ディム=ルティムに、メルフリードとリーハイム――それに、マルスタインも加わっている様子である。


 確かに、誰もが自然に溶け込んでいるようだ。

 それでいて、すぐに所在を発見できるのは――彼らがもともと有している存在感ゆえだろう。巨体のジィ=マァムは言うに及ばず、ジザ=ルウやレイナ=ルウは他の人々と変わらぬ宴衣装でありながら、どこかオーラが異なっているのだ。


(他の人たちには、俺やアイ=ファもそう感じられるってことなのかな)


 アイ=ファに関しては、考えるまでもない。俺の欲目を差し引いても、アイ=ファはこれほどに輝かしい存在であるのだ。

 ただやっぱり、自分がそれに並び立つ存在であるなどとは、とうてい思えない。今日などは、ずいぶん若いご婦人がたにちやほやされることになってしまったが――そうでなければ、裏方の料理人がこんな場に参上してしまって申し訳ありません、というのが俺の偽らざる心情であったのだった。


「……聖域の一件が落着し、《銀の壺》もジェノスを出立して、アスタたちの生活もようやく落ち着いてきた頃合いでしょうか?」


 ふっと、フェルメスがそのように問うてきた。

 俺はひどく穏やかな心地で、「そうですね」と答えてみせる。


「復活祭を終えてからも、ずっと慌ただしい気分だったのですが、ようやく落ち着いてきたように思います。……こんな華やかな祝宴のさなかには、不相応な言葉かもしれませんが」


「そうですね。祝宴というのは、まぎれもなく非日常です。ただ、不測の事態ではありませんし、悲しい別れを内包しているわけでもありません。華やかさの度合いが少々異なるだけで、これも日常の範疇に収めることは可能でしょう」


 ゆったりとした声音で、フェルメスはそのように言いつのった。


「また、時間というものは不可逆であり、停滞することもありません。ならば、常に同じということはありえないのですから……平穏な日常でも非日常の範疇に収まってしまうのかもしれませんね」


「はい。ちょっと難しいですけれど、わかるような気はします。俺の日常というのは、慌ただしいのが常でありますので」


 広間の様相を見やっていたフェルメスの瞳が、また俺たちのほうに向けられた。

 見る者の魂をふわりと包み込むかのような、不思議な眼差しである。その瞳が、まずはアイ=ファのほうに向けられた。


「僕はこれから、『星無き民』に関わる話をいたします。ただし、それでアスタの反応を窺おうという意図などはありませんので、ご了承ください」


「……うむ。いったい何を語ろうというつもりであるのだ?」


「『星無き民』であるアスタが健やかな生を営んでいることを嬉しく思っている、という件についてです」


 フェルメスは、可憐な花のように口をほころばせた。


「『星無き民』というものは、きわめて複雑な出自を有しています。そこから生じる苦悩に魂をとらわれると、悲劇が生まれてしまうのでしょう。王都を出奔した聖アレシュや、王都を追放された白き賢人ミーシャのように。……アスタがそうならなかったことを、僕は心から寿いでいるのです」


「うむ……」


「『聖アレシュの苦難』では本人の苦難しか描かれておりませんでしたが、聖アレシュを失った王都においても、大きな苦難が生じていたのですよ。何せ聖アレシュは、始まりの聖剣たる『緋の灼炎』を携えたまま行方をくらましてしまったのですからね。あの時代には、まだ数多くの妖魅が存在したために、聖アレシュと聖剣を失った王都アルグラッドは、建立されるなり最大の苦難に見舞われることになったのです。聖アレシュが帰還していなければ、王都は早々に滅んでいたのかもしれませんね」


「しかし、それは……600年以上もいにしえの物語なのであろう?」


「はい。半分がたは、僕の夢想です。……ただもう半分は、書に残された真実です。その文面から誇張や脚色を削ぎ落として、本当の真実をつまびらかにしたいというのが、僕の生きる意味であるのです」


 白魚のような指先を組み合わせて、フェルメスは虚空に視線を飛ばした。


「そして、白き賢人ミーシャです。こちらはミーシャ自身でなく、彼を取り巻く人々が道を見失ってしまったのでしょうか。ミーシャの願いを聞き入れて、王女を伴侶にすることを許していれば、東の王都ラオリムはさらなる繁栄を迎えられたのかもしれません。かえすがえすも、残念なことです。王都を出奔したミーシャがその後にどのような人生を送ったのか……彼が失意を乗り越えて、新たな幸福をつかみ取ったことを、僕は願ってやみません」


「それで……あなたは、何を言いたいのであろうか?」


「ですから僕は、アスタがこの地に順応できていることを、喜んでいるのです」


 虚空をさまよっていたフェルメスの瞳が、アイ=ファではなく俺を見つめた。

 俺の心臓が、ちょっと不規則にバウンドする。フェルメスのヘーゼル・アイはひさかたぶりに、俺の魂を吸い込むような光をたたえていた。


「アスタはこの世界を受け入れて、この世界はアスタを受け入れた。それこそが、もっとも正しき道であると思います。これはアスタ個人の幸福よりも、世界が正しい運行を刻んでいることに喜んでいるだけなのかもしれませんが……結果としては、アスタが幸福であることを喜んでいます。ですから……僕の気持ちを忌避しないでいただけると、ありがたく思います」


「はい……別にフェルメスは、自分の理想のために俺を利用しているわけではありませんもんね。ただ……利害が一致している、とでも言うべきなのでしょうか」


 俺はなんとか魂を抜き取られてしまわないように苦心しながら、そのように答えてみせた。

 フェルメスは、何かの精霊のように微笑んでいる。


「利害の一致と言われてしまうと、あまりに味気なく思えてしまいますが……でも、間違ってはいないのでしょう。アスタが幸福であることが、僕の幸福になりえるのです。アスタにとっては世界の運行など知ったことではないでしょうから、どうぞそのままご自分の幸福を追求していただきたく思います」


 すると、俺の隣のアイ=ファがぐっと身を乗り出した。


「私が願うのは、あなたもアスタの幸福の一部になってもらいたい、ということであろうな」


 フェルメスは、けげんそうにまばたきをした。

 俺はその不思議な眼差しから視線をもぎ離し、アイ=ファのほうを振り返る。

 アイ=ファは静かな面持ちのまま、鋭い剣先のような眼光でフェルメスを見つめていた。


「いや、もはやあなたも、アスタの幸福の一部であるのだ。あなたに言われるまでもなく、アスタはこの地における生活を幸福だと感じている。そして、あなた自身もその世界を作りあげているひとりの人間であるのだということを、どうか自覚してもらいたい」


「そう……ですね。何をどのようにあがこうとも、僕は神ではありません。この世の一部を形成する、一個の存在にすぎないのでしょう」


 フェルメスはいったんまぶたを閉ざすと、あらためて俺を見返してきた。

 その瞳からはあの不思議な光がかき消えて、その代わりにちょっとけだるげな光が宿されている。


「だから僕も、アスタを不幸にしてしまわないように、細心の注意を払いたく思います。そのためにこそ、正しい絆を結ぶべきであるのですよね?」


「うむ。あなたがアスタの友となれる日を、私は心から待ち望んでいる」


 アイ=ファも小さく息をつき、その瞳の眼光をやわらげた。

 とたんに、ゆるやかな演奏の音色や祝宴の喧噪が、俺の耳に飛び込んできた。いつの間にか、俺はアイ=ファとフェルメスの言葉しか耳に入っていなかったようだった。


「何度もお話ししている通り、僕はアスタという個人を好ましく思っています。とても優しい気性を持ちながら、時には森辺の狩人にも似た果断さを閃かせる、アスタはとても魅力的なお人です。僕が女人であったなら、恋心を抱いてしまっていたかもしれません」


「…………」


「あれ? 今のはアイ=ファの気に障ってしまったでしょうか?」


 くすくすと、悪戯な妖精のように含み笑いをする。フェルメスは、すっかり普段のフェルメスに戻っていた。


「あ、そうだ。もう一点だけ込み入ったお話をさせていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」


「はい、何でしょう?」


「アスタの抱える、苦悩の根源……記憶の混乱や消失に関して、何か改善は見られましたか?」


 俺は思わず、きょとんとしてしまった。


「ええと、それは……俺が『星無き民』に関する誰かを非常に恐れている、という話のことですよね?」


「はい。それでもそのような人物にはまったく心当たりがないのだと、アスタはそのように仰っていました。その正体は、判明したのでしょうか?」


「いえ。実のところ、忙しさにかまけてすっかり忘れていたぐらいです」


「いけませんね」と、フェルメスは珍しく眉をひそめた。恋人の不貞をとがめる貴婦人のような風情である。


「苦悩を無意識の底に封じ込めるというのは、危険な行為です。しかもアスタは、その苦悩と僕に対する苦悩を混在させてしまっていた、という話であったのですから……それを無意識の底に追いやってしまうと、また同じ轍を踏んでしまうのではないでしょうか?」


「そうですね。でも、考えてもしかたのないことですので……というか、まったく記憶に残されていないので、考えようがないのですよね」


「記憶に残されていないのに、その人物が恐ろしいのですか? それは、どのような人物であるのです?」


「はあ。それが、顔すらもわからなくって……ただ、顔に火傷の痕がある男性だと思うのですが……いや、男性かどうかもはっきりしませんね。ただ、フェルメスよりは大柄であったように思います」


 それが、《ギャムレイの一座》のナチャラが操る術式によって導き出された、俺の恐怖の根源であった。それがフェルメスとは別なる存在だと確信できたために、俺は心を落ち着けることがかなったのである。


「顔に火傷の痕、ですか。そのような人物に、心当たりはないのですね?」


「はい。いっさい、ありません。……『星無き民』に詳しいフェルメスにも、思い当たることはありませんか?」


「ありません。また、ジェノスの貴族にもそのような御方はおられないでしょうね」


 そんな風に言いながら、フェルメスはすっと視線を傾けた。

 その先に見えるのは――広間の最奥に鎮座まします西方神セルヴァの神像である。


「西方神は、火を司ります。……僕が連想したのは、それぐらいのものですね」


「そうですか。まあ、こればかりはしかたがありませんね」


 俺が努めて明るく言うと、フェルメスがまた眉をひそめて俺をにらみつけてきた。


「手の打ちようがないというのは事実であるのかもしれませんが、どうか僕に対する心情と混在させることだけは、回避していただきたく思います。そのようにいわれのないことでアスタに嫌われてしまうのは、とうてい我慢がなりませんので」


「もちろんです。それだけは心がけますよ」


「……本当ですか? この際には、アスタの愛すべき軽妙なる態度が、いささか不安に思えてしまうのですが」


 フェルメスが、じっとりと俺を見つめてくる。これはまた、フェルメスが見せる新しい表情だ。それは喜ばしい限りであるのだが、やっぱり異性に不実をとがめられているような心地になり、はなはだ落ち着かない。それになんだか、アイ=ファにも右頬に視線を刺されているような気がしてならなかった。


「ほ、本当です本当です。不確かな理由でフェルメスを嫌ったりはしないとお約束します。ですからどうか、気をお静めください」


「……まあ、いいでしょう」と、フェルメスは椅子の背もたれに華奢な身体を預けた。

 やはりまだ、身体のほうが本調子ではないのだろうか。さきほどからフェルメスが普段以上に女性めいて見えるのは、ひとつひとつの所作が妙に憂いげであるためなのかもしれなかった。


「ずいぶん長きの時間を過ごしてしまいましたね。あちらの方々がアスタたちと話したそうにしているので、僕たちはそろそろ失礼しましょうか」


「お気遣いありがとうございます。……ジェムドも、お疲れ様でした」


 またこの御仁はフェルメスの影と化してしまっていたので、俺はそのように挨拶をしておいた。

 しかしジェムドは、無言で目礼をするばかりである。フェルメスは、からかうような目つきで忠実なる従者の長身を見上げた。


「聖域でともに一夜を明かしたというのに、ジェムドは相変わらずなのだね。少しは愛想を見せたらどうだい?」


「は……祝宴の場において、従者が余計な口を叩くことはつつしむべきかと思われます」


「この場には僕たちしかいないんだから、そんな堅苦しく考えることはないさ。何か言いたいことでもあれば、好きなだけ口にするといい。アイ=ファやアスタだって、それを喜んでくれるはずだよ」


「うむ。我々とて、貴族ならぬ身であるのだ。あなたばかりが心を押し殺す必要はあるまい」


 アイ=ファが粛然とした様子で言いたてると、ジェムドがそちらを振り返った。


「……心を押し殺す必要はないのでしょうか?」


「うむ? そうだな。我々に対しては、心を隠す必要はない」


「そうですか」と深いバリトンで答えてから、ジェムドはアイ=ファのほうに手を差し出した。


「では、舞踏を1曲、お願いできるでしょうか?」


 俺は、ぽかんとしてしまった。

 そしてアイ=ファも、俺と同じ表情になっていた。


「……舞踏が、どうしたと? まさか、一緒に踊れと誘っているのであろうか?」


 返答は、「はい」であった。

 フェルメスが、こらえかねたように咽喉で笑う。


「ジェムド、それはあまりに唐突だよ。アイ=ファも呆れてしまっているじゃないか。それとも君たちは、いつの間にかそんなに親密な間柄になっていたのかな?」


「いえ。親密の度合いに変化はないかと思われます」


「それではやっぱり、唐突だよ。まあ君は、従者であるにも拘わらず、たびたび貴婦人たちから舞踏を申し込まれているからね。君から誘いをかけたって、何も悪いことはないだろうけどさ」


 フェルメスはくすくすと笑いながら、立ち上がった。

 そして、ジェムドの鍛えられた胸板を、手の甲でぽんと叩く。


「だけど、失念してしまったのかな? 森辺の民というのは、家族ならぬ異性と触れ合うことを禁忌としているのだよ。だから、アイ=ファがその誘いを受けることはできないのさ」


「はい、失念していました。森辺の習わしを軽んじる気持ちはありませんので、ご容赦いただけたら幸いに存じます」


 ジェムドは落ち着き払った無表情のまま、アイ=ファに一礼した。

 アイ=ファは「う、うむ」と珍しくも動揺している。


「それじゃあ、僕たちは失礼します。……ところでアイ=ファとアスタは、舞踏を楽しんだりはしないのでしょうか?」


「うむ。取りたてて、そのようなつもりはない」


「そうですか。あちらの貴婦人がたは、またアイ=ファに舞踏を申し込みたそうにしているようですよ」


 フェルメスの指し示す方向では、若き貴婦人たちがこちらに熱視線を送りつけてきていた。かつての仮面舞踏会においても、アイ=ファは数多くの貴婦人たちからダンスを申し込まれていたのだ。


「老婆心ながら、城下町の習わしというものを教示いたしましょうか。……普通、このような祝宴において、青い花飾りをつけた人間は、まず同伴者と舞踏を楽しんでから、他の申し入れを受け入れるものなのですよ」


「……ほう。かつての仮面舞踏会において、あなたは私よりも先にアスタとの舞踏を楽しんでいたように思うが」


「あのときは、城下町の習わしよりも自分の欲求を優先させていただいたのです」


 最後にとびっきり可憐な表情で微笑んでから、フェルメスはふわりと身をひるがえした。


「では今度こそ、本当に失礼いたします。どうか最後まで、祝宴をお楽しみください」


 ジェムドを引き連れて、フェルメスが立ち去っていく。

 貴婦人がたは、今にもこちらに押し寄せてきそうな雰囲気だ。アイ=ファは溜め息をつきながら、山猫のようなしなやかさで立ち上がった。


「相手が女衆では、舞踏を断る口実もない。我々はジェノスの貴族とも正しき絆を結ばなければならないのだから、理由もなく断るべきではないのだろう。……それにお前も、さきほどオディフィアに舞踏を願われていたはずだな?」


「ああ、そういえばそうだったな」


「ならば」と、アイ=ファが俺に手を差しのべてきた。


「その前に、まずはお前と舞踏を楽しまなければならないということだ」


 俺は、胸の底から突き上げてくる幸福感に呼吸をさまたげられながら、アイ=ファの手を取って立ち上がった。


「まいったな。本当だったら、男の俺がアイ=ファを誘うべきだったんだろうと思うよ」


「それも、城下町の習わしか? そうでなければ、気にする必要もあるまい」


 そう言って、アイ=ファは可笑しそうに微笑んだ。

 天井から吊るされたシャンデリアが、アイ=ファの波打つ金褐色の髪を壮麗なまでにきらめかせている。これだけ長きの時間をともにしていながら、アイ=ファの美しさは俺の胸を揺さぶってやまなかった。


「それに、私は女狩人で、お前は男のかまど番だ。今さら男女がどうのと取り沙汰したところで、詮無きことであろう」


「うん、まあ、アイ=ファと舞踏を楽しめるなら、何がどうでもかまわないよ」


 俺たちは手を取り合いながら、広間の中央を目指すことになった。

 その姿に、さきほどの貴婦人がたが嬌声をあげている。そんなに注目されてしまうと、気恥ずかしいことこの上ないのだが――それでもなお、俺にとっては幸福感のほうがまさっていた。


 城の広間で、貴族のような宴衣装を纏って、アイ=ファと舞踏をともにする。考えてみれば、これだって非日常の極みであるはずだった。

 だけどまあ、日常であろうと非日常であろうと、かまいはしない。どちらにせよ、同じ時間は2度とやってこないのだから――今は、この瞬間の幸福を噛みしめるばかりであった。

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― 新着の感想 ―
[一言] オディフィアとアスタのダンスシーンがなかった…とても残念です…Orz たぶんスゴくホッコリできる話しになるはず! 読みたかった…
[気になる点] 顔に火傷…。 フェルメスは西方神セルヴァを連想してましたが、やっぱり火傷があってフェルメスより上背がある人物はアスタしか思い浮かばないんですよねー。 火傷の場所とか、自分が分からないの…
[一言] スカート踏ん付けて、すってんころりんのオチは無かったのか。
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