ダレイム伯爵家の晩餐会④~喜びの一夜~
2020.4/12 更新分 1/1
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
「それでは主菜の準備をいたしますので、少々失礼いたします」
そんな言葉を残して、ヴァルカスは弟子たちとともに食堂を出ていった。
俺とヤンはこの場で保温をお願いしているので、貴き人々とともに待機のかまえである。するとその間隙を突いて、ポルアースが俺に語りかけてきた。
「僕はさきほども挨拶をさせていただいたけれども、聖域についてはご苦労様だったね、アスタ殿。城下町でも、あの件についてはしばらく大騒ぎだったのだよ」
「はあ、大騒ぎですか」
それが悪い内容でないといいのだが――と、俺がそのように考えていると、ポルアースはふにゃりと微笑んだ。
「こちらではレイリス殿とジェムド殿が、余すところなく聖域での顛末を報告してくれたからね。あれほどの話を聞かされては、それは騒ぎになろうというものさ」
そんな風に言ってから、ポルアースはシェイラのほうに向きなおった。
「アイ=ファ殿にも、お話をうかがわせてもらおうかな。シェイラ」
「かしこまりました。アイ=ファ様、どうぞこちらに」
豪奢の織物の張られた衝立の裏から、アイ=ファがすうっと現れる。その青い瞳にも、普段以上に真剣な光がたたえられていた。
「話は、こちらにも聞こえていた。城下町では、あの一件がどのように取り沙汰されていたのであろうか?」
「どのような思いを抱いたかは、人それぞれだろうけどね。僕としては……なんだか御伽噺でも聞かされていたような心地だよ」
やわらかい笑顔のまま、ポルアースはそのように言葉を重ねた。
「大神アムスホルンの復活だとか、魔術の文明の再興だとか、そんなのは御伽噺そのものだろう? それに、聖域の民についてもね。ヴァルブの狼やマダラマの大蛇と人間のように意思の疎通ができるだなんて、それもやっぱり御伽噺めいているじゃないか?」
「そう……なのであろうかな。私も最初は驚かされたが、すぐに自然なこととして受け入れることができた。理解し難いのは、伝聞で耳にしているゆえなのではないだろうか?」
「いやいや、レイリス殿なんかは、まるで夢でも見ていたような心地であったと言っていたよ。人間と獣が心を通じ合わせられるだなんて、それはやっぱり信じ難い話であるはずさ」
すると、フェルメスが横からするりと言葉をはさんだ。
「森辺の民はトトスや猟犬と心を通じ合わせているのだと聞きます。それゆえに、僕たちほどの驚きを受けることもないのでしょう。……それはまた、森辺の民の出自にも関わりのある話であるのかもしれませんね」
「森辺の民の出自というと……森辺の民が、シムと聖域の間に生まれた一族であるかもしれないという、例の一件でありましょうか?」
「ええ、その通りです。ジェムドからその一件を伝え聞き、僕は心から腑に落ちたものです」
フェルメスはゆったりと微笑みながら、椅子に深くもたれた。
「もちろんそれは、何も確証のない推測に過ぎないのでしょうが……だけど僕には、それが真実なのであろうと思えてなりません。森辺の民がどうしてこれほどに特異な存在であるのか、その疑問にこれほど相応しい解答はないように思うのです」
「ふーむ。しかし、それが真実であろうとなかろうと、森辺の民が王国の民として生きていくことには、なんの問題もありはしませんよね?」
ポルアースがいくぶん心配そうに問いかけると、フェルメスは「もちろんです」と可憐に微笑んだ。
「雲の民として知られるガゼの一族は、まぎれもなくシムの民です。なおかつ、黒き森で暮らしていたという白の一族というのは、ガゼの一族を受け入れた時点で、聖域の民としての資格を失っています。そうして数百年を経て、森辺の民は西方神の洗礼を受けたのですから、まぎれもなく王国の民ですよ。森辺の民が聖域の民になりたいと望んだところで、それが受け入れられることはないでしょう」
「そうですか。それなら、何よりでありますよ」
「……ですが僕は、森辺の民の存在をいっそう得難く思いました。聖域と王国の間に生まれた森辺の民というのは、その双方を繋ぎ止めるための重要な存在になりえるかもしれません。自然の中で生きる聖域の民と、新たな文明を授かった王国の民の、両方の特性を有する存在――そのような一族は、森辺の民の他に存在しないのでしょうからね」
「ふむ。自由開拓民というのも、そこに含まれるのではないのですか?」
「自由開拓民は、すでに王国の民と同化しつつあります。たとえば、勇猛な狩人の一族として知られるドラッゴやシャーリの民なども、王国の民に他ならないマサラの一族と大差のない存在に成り果てているのではないでしょうか」
夢見る乙女のような眼差しになりながら、フェルメスはそう言った。
「もちろんそういった一族も、森辺の民に次ぐ存在ではあるのでしょうけれどね。マサラの一族であったバルシャやジーダといった人々がすんなりと森辺の同胞に迎え入れられたことが、その証左となります。いつか大神アムスホルンが蘇ったあかつきには、森辺の民が大きな役目を果たすことになるかもしれません」
「ふーむ。僕には理解の及ばない話であるようですが……でも、森辺の民がかけがえのない存在であるということには、心から同意いたしますよ」
にこやかに笑いながら、ポルアースは穏便な場所に話を不時着させた。
「ともあれ、聖域での一件は僕たちにも大きな感銘を与えることになったのだよ。闘技会の祝賀の宴では、アスタ殿たちにそういった話題を持ちかけてくる人間も多いだろうから、今のうちにそれを伝えておきたかったのさ」
「承知しました。お心づかい、ありがとうございます」
俺とアイ=ファは、そろってポルアースに頭を下げることになった。
すると、にこにこと微笑みながらこのやりとりを聞いていたリッティアが、「そうそう」と手を打ち鳴らした。
「料理があまりに見事であったから、わたくしもついつい言いそびれてしまっていたわ。わたくし、アイ=ファとアスタにお伝えしたいことがあったのよ」
「はい、どういったお話でしょうか?」
「実はね、おふたりに新しい宴衣装をお贈りしたいの」
「宴衣装」と、アイ=ファが低く繰り返した。
「それは、何の話であろうか? むろん、祝賀の宴というものに関しては、また女衆として宴衣装を纏うべきなのであろうと考えていたが……」
「ええ、あの森辺の宴衣装というのも、とても素敵な装いだったわ。でも、あれからまだひと月も経っていないのですから、同じ宴衣装を纏うわけにもいかないでしょう?」
「いや、森辺においては常に同じ宴衣装を纏っているのだが……」
「でも、城下町の貴婦人はなるべく異なる宴衣装を纏うように心がけているの」
柔和なお顔に無邪気な微笑みをたたえつつ、リッティアはそのように言いつのった。
「復活祭を終えてからは仕立て屋の手も空いたので、おふたりの新しい宴衣装を仕立ててもらうことができたのよ。今日の素敵な料理の御礼として、どうか受け取っていただけるかしら?」
「いや、しかし……その祝宴には我々のみならず、ルウ家の者たちも参ずる手はずになっているので……」
「ええ、そちらのレイナ=ルウと、兄君のジザ=ルウね?」
リッティアの目が、俺の隣のレイナ=ルウへと向けられる。
「そちらの方々は採寸をする時間もなかったけれど……でも、大丈夫。おおよその背格好は仕立て屋に伝えることができたので、準備はできているの。あとは当日に手直しをすれば、十分に間に合うことでしょう」
レイナ=ルウは、きょとんと目を丸くしてしまっていた。
「あの……それはかつての舞踏会で、アイ=ファやシーラ=ルウたちが纏っていたような装束なのでしょうか?」
「ええ、そうですわよ。あなたの黒髪に似合いそうな生地を選んだから、喜んでいただけたら嬉しいわ」
「はあ……ですが、家長の断りなく贈り物を受け取ることはできませんので、まずはそちらの了承を得るということでよろしいでしょうか?」
「あら、そうなのね。それじゃあそちらは、ポルアースにおまかせしましょう」
ポルアースは苦笑を浮かべながら、俺たちの顔を見回してきた。
「まあ、そういうわけなのだよね。森辺の方々は城下町の宴衣装などに興味はないだろうけれども、これは母上の趣味のようなものだから、受け取ってもらえたらありがたく思うよ」
「……私も、族長の決定に従いたく思う」
懸命に溜め息をこらえている様子で、アイ=ファはそのように答えていた。アイ=ファは城下町の窮屈な宴衣装を、あまり好んではいないのだ。
しかし俺は、ひそかに胸を高鳴らせてしまっている。アイ=ファには申し訳ないが、俺にとっては森辺の宴衣装に匹敵するぐらい、城下町の宴衣装も素晴らしいものであるように思えるのだ。アイ=ファが再びああいった宴衣装を纏うのだと想像しただけで、心が浮き立ってやまなかったのだった。
そうしてアイ=ファがいくぶん肩を落としながら衝立の向こうに引っ込んだところで、「失礼いたします」という小姓の声が響きわたる。ようやくヴァルカスたちが、料理を完成させて戻ってきたのだ。
「お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした。こちらがわたしどもの準備した魚料理となります」
「おお、待ちかねていたよ! それじゃあ、アスタ殿とヤンの料理もお願いするよ!」
ポルアースの言葉に従って、俺たちも配膳の準備に取りかかった。魚料理は、3名の料理人が同時に供する手はずになっていたのだ。
食堂に、さまざまな芳香が入り乱れる。それだけで、メリムやリッティアやポルアースは喜色満面になっていた。
「おお、これは見事だ! まるで示し合わせたかのように、趣の異なる料理であるようだね!」
ポルアースの評した通り、そこには実にバラエティにとんだ魚料理が並べられることになった。
俺が準備したのはシンプルに、『シーフード・グラタン』である。魚介の具材はさきほどと同じくマロールとヌニョンパとホタテモドキの3種で、それ以外にはアリアとマッシュルームモドキとブロッコリーのごときレミロムを使用している。あとはフワノ料理に分類されないていどに、ニョッキのパスタもわずかながらに加えていた。
それに対してヤンは、ミソを使った煮込み料理である。主体となるのはホタテモドキで、ダイコンのごときシィマやサトイモのごときマ・ギーゴやズッキーニのごときチャンにまじって、マロールの身もわずかに加えられている。ミソ独特のまろやかで香ばしい芳香の中に香草の存在も感じ取れて、いったいどのような味であるのかと期待をかきたてられた。
そしてヴァルカスは、魚の切り身の揚げ焼きだ。
ひとつの皿にみっつの切り身が並べられており、それぞれが鮮烈なる赤、緑、青紫の衣に覆われている。その上から透明のソースが掛けられているために、カラフルな衣がきらきらと照り輝いて、まるで菓子のような仕上がりであった。
「ううむ。これはどれから食したものか、いささか迷ってしまうな」
パウドがそのようにつぶやくと、ヴァルカスがすかさず声をあげた。
「揚げ焼きの料理は、時間が経つほどに味が落ちてしまいます。よろしければ、わたしの料理からお召し上がりください」
パウドは若干うるさそうに眉をひそめたが、ヴァルカスの料理に突き匙を突きたてた。
そしてそれをひと口で食すると、ひそめられていた眉がたちまち開かれる。
「これはまた……鮮烈なる味わいだ。たったひと口なのが惜しいところだな」
「本日は3種の魚料理が準備されるとのことでありましたので、そちらの大きさとさせていただきました。お喜びいただければ幸いに存じます」
「ふうむ。最初にこのような料理を口にしてしまうと……」
と、パウドはその後の言葉を呑み込んだ。
最初にこのような料理を口にしてしまうと、他の料理を味気なく感じてしまうかもしれない――とでも考えたのであろうか。
しかしこちらも、ヴァルカスの力量は承知の上である。俺は大いに発奮しながら、ヴァルカスの魚料理を口にすることになった。
きっとこちらの料理は、色合いで味が分けられているのだろう。俺はまず、味の想像がつかない緑色の切り身を口にすることにした。
透明のソースが掛けられているものの、衣にはまだ軽妙な食感が残されている。竜田揚げなどを連想させる、心地好い噛み応えだ。そしてその緑色の衣には、抹茶のような苦さと香ばしさが隠されていた。
透明のソースは、ほのかに甘い。甘さと苦さの配分が絶妙で、しっとりとした白身魚の味わいと相まって、溜め息をつきたくなるほどの美味しさであった。
(ヴァルカスにしては、けっこうストレートな味わいだな。あんな野菜料理の後だから、少し手心を加えているんだろうか)
俺はそんな風にも考えたが、残りのふたきれを食べ終える頃には、また別なる心情に至っていた。
赤い衣は見た目の通りに鮮烈な辛さであり、青紫の衣は酸味を主体にしている。それらはどちらも透明のソースがもたらすやわらかい甘みと調和をしており、甲乙つけ難い味わいであった。
そしてもう一点、そこには小さからぬ細工が施されていた。肝心の魚の切り身のほうが、それぞれ異なる味わいと食感を有していたのである。
最初の切り身は油分も豊かで瑞々しく、赤い衣の切り身はさっぱりとしていて噛み応えが強く、そして最後の切り身はほろほろとした食感で魚の風味が強い。そして、それらの味や食感が、異なる色合いをした衣とそれぞれまたとなく調和しているようだった。
「こちらの魚料理は、3種の魚を使っているのですね?」
俺の言葉に、ヴァルカスは「はい」とうなずいた。
「緑はリリオネ、赤はギレブス、紫はラットンとなります。最終的には4種の魚の盛り合わせを完成させたく思っていますが、まだ研鑽のさなかでありますので」
「ほう、これらはすべて違う魚で作られていたのか! それはちっとも気づかなかったよ!」
ポルアースが、弾んだ声でそのように言いたてた。
「やっぱり僕には、微細な違いなど感じ取れないのだなあ。……でも、いずれも素晴らしい仕上がりであったと思うよ! ひとつひとつは食べやすくて、ヴァルカス殿にしては細工が少ないように感じられたのだけれども、食べ終えてみれば大変な満足感だ!」
そう、俺もポルアースと同じ心地であった。
さきほどの野菜料理のように、ひと口で度肝を抜かれることはなかった。しかし、まったく異なる3種の味わいを口にするごとに、別の方向へと意識を引っ張られて、まるで違った景色を見せられるような――実にしみじみとした幸福感を味わうことがかなったのだ。
「……これだけ異なる味わいであるというのに、すべてが同じ甘さで調和を保っていることが、いっそ不思議に感じられてしまいます」
レイナ=ルウは、そんな風に評していた。
シーラ=ルウは、感服しきった様子で目を伏せている。
「これらは、揚げ焼きであるのですよね? 緑色をした分だけ、ホボイの油を使っているのでしょうか?」
「はい。残りの2種は、レテンの油となります。そちらには、ホボイの風味も不要ですので」
「わたしもヴァルカスの料理にしては細工が少ないように感じたのですが、これだけ細やかに味を組み立てるにはどれだけの修練が必要であったのかと……なんだか、気が遠くなってしまいそうです」
「わたしはきっとあなたの倍以上は生きておりますので、時間に困ることはありませんでした。とはいえ、有限なる時間を無駄にできないという事実に変わりはありませんが」
「本当に、素晴らしい味わいです」と、ヤンも深く息をついた。
「これだけの腕を持つヴァルカス殿であるからこそ、さきほどのような野菜料理を考案することもかなうのでしょう。わたしもいっそうヴァルカス殿の力量を思い知らされた心地です」
「ありがとうございます。しかしヤン殿の料理も、不出来のそしりを受けることはないように思います」
ヴァルカスはとっくに自分の料理を食べ終えて、ヤンの料理に手をつけていたのだった。
すっかり余韻にひたってしまっていた俺も、慌ててヤンの皿に手をのばす。煮込み料理とて、熱いうちにいただくのが礼儀であった。
そうして、ヤンの料理を口にしてみると――なんだか、ほっとするような美味しさであった。
ミソに、砂糖に、ニャッタの蒸留酒も使われているだろうか。俺がこしらえるミソ料理と同じ範疇にありながら、さらに何種かの香草が加えられている。これはおそらく、熱を加えると辛みの消えるサルファルと、強い苦みを持つナフアのようだった。
ナフアは苦いばかりでなく、かなり強烈な青臭さを有しているので、隠し味ていどにしか使われていない。そのほのかな苦みと青臭さが、こってりとしたミソの味わいに若干の清涼感と奥深さを与えているのだ。
それにサルファルは、辛みが消えてもマスタードのような風味が残る。そちらの風味も相まって、俺にとっては馴染み深いミソ料理でありながら、どこか異国的な風情をも醸し出しているようだった。
それらの調味料でじっくりと煮込まれたホタテモドキは、しっとりとやわらかくて、風味も甘みも豊かである。そして、ホタテモドキ自身から抽出された出汁が、この料理の完成度を跳ね上げているように感じられた。
「おそらくミソの扱いには、アスタ殿の影響を受けておられるのでしょう。砂糖とニャッタの蒸留酒を使ったこの味わいには、わたしも覚えがあります。そこにサルファルとナフアを加えるご判断に間違いはないように思いますし、またその分量も火加減も、まずは及第でありましょう。貝やマロールの扱いにも不備は見られませんし……ヤン殿は、引き際というものをわきまえているように思われます」
「引き際ですか。前菜においても、同じお言葉を頂戴しましたね」
「はい。わたしであれば、もっと多くの細工を凝らしたく感じてしまうのですが、これはこれで完成されているように思うのです。この料理に新たな細工を施すよりは、別なる料理の考案に取りかかるべきなのでしょう。素晴らしく美味、とまでは思いませんが、十分に満足な仕上がりです。ヤン殿には、如何なる食材をも扱う資格があるのだと感じます」
「資格?」と、アディスが顔をしかめた。
「我が屋敷の料理長が、其方に資格を問われる筋合いはないように思うぞ。もしや、トゥラン伯爵家の前当主が食材の流通を取り仕切っていた時代は、其方がそのようにして売りつける相手を選別しておったのか?」
「いえ。わたしがどれだけ言葉を重ねようとも、前当主が聞き入れてくださることはありませんでした。わたしは同じ屋敷で働くティマロ殿にも、食材を無駄に扱う資格はないと判じていたのです」
まったく臆した様子もなく、ヴァルカスはそのように言葉を返した。
「また、あの時代にすべての食材を扱う資格があると思えたのは、ジェノス城のダイア殿ただおひとりでありました。ジェノス城の他にも希少な食材が流通していたならば、わたしの思いなど何ひとつ反映されていなかったということになりましょう」
アディスは呆れて言葉を失い、代わりにポルアースが「あはは」と笑い声をあげた。
「ヴァルカス殿は、食材を不出来な料理に使われるぐらいなら、土に返したほうがまだマシだ、なんて言っていたものね。さすがにそのような言葉を聞き入れる人間は、トゥランにもどこにもいなかっただろうと思うよ」
そんな風に言ってから、ポルアースはヤンと俺の姿を見比べてきた。
「何にせよ、ヤンの料理もアスタ殿の料理も、ヴァルカス殿の料理に見劣りすることはなかった。魚介の扱いではやはりヴァルカス殿に一日の長があるのだろうから、これは立派なことだと思うよ」
「ええ、本当に。これが味比べであったのなら、わたくしは誰に星をつけたものか、さんざん迷ってしまっていたわ」
リッティアがそのように声をあげると、あちこちから賛同の声があがった。
その中で、カーリアはひとり切なげに息をついている。
「本当に、どれもが見事な料理であったから、すべて余さず食べ尽くしてしまいました。……これではまた、余計な肉がついてしまいますわ」
「あら、あなたはまだそのようなことを気にしていたのね。子を生せば、誰でも肉がつきやすくなるものよ」
「でも、ジェノス侯爵家のエウリフィアなどは、お若い頃と同じお姿のままでしょう? わたくしも、トトスに乗って駆けさせるべきなのかしら」
カーリアは、なんだかしゅんとしてしまっていた。最前までの毅然とした様子と異なり、そうするとずいぶん幼げに見えてしまう。
「僕なんかも、耳が痛いところですね。でもまあトトスを駆けさせるのは明日にして、今宵は晩餐を楽しみましょう」
ポルアースが取りなすように言い、料理人の面々を見回してきた。
「そういえば、まだアスタ殿の料理について、語られていなかったようだね。僕は十分に満足したけれど、皆はどうであったのかな?」
「美味であったとは思います」
と、ヴァルカスがまた率先して口を開く。
「ただ……アスタ殿がこれまで手掛けてきた料理の中では、中の下といったところでしょうか。カロンの乳や乳脂を使った煮汁の扱いには非の打ちどころもないのですが、魚介の食材との調和には一考が必要であるように感じます」
「そうですか。自分としては最善を尽くしたつもりなのですが、まだまだ修練が足りていないようですね」
「はい。かれー料理に不備が見られなかったのは、かれーの強い風味に助けられたという面もあるのやもしれません。アスタ殿は生きた魚よりも、乾物である貝やヌニョンパの扱いが不得手であるのでしょうか?」
「そうですね。故郷でも、ああいった食材はあまり扱った経験がなかったので、それが露呈してしまったのかもしれません」
言ってから、俺はちらりとフェルメスのほうをうかがってみた。
しかしフェルメスは可憐に微笑んだまま、口を開こうとはしない。やはり、俺の故郷にはそれほど関心もなさそうな様子である。
「わたしはアスタ殿の料理に不備を感じることはありませんでした。自分の料理が賞賛されて、アスタ殿の料理が批判されるというのは、いささか不思議であるように感じられます」
ヤンがそのように言いたてると、ヴァルカスは「そうでしょうか?」とぼんやり首を傾げた。
「わたしは、調和を重んじています。あなたの料理は調和を保っていましたが、アスタ殿の料理は調和が崩れていたのです。煮汁の素晴らしさと魚介の扱いの不出来さが、主たる要因であるのでしょう。きっとギバ肉を使っていれば不備のない料理が完成されるのであろうと予想できるため、いっそう口惜しく思うのかもしれません」
「ならばそれは、ギバ肉を口にできない僕の責任ということになりますね。アスタには、申し訳ない限りです」
フェルメスが、ゆったりと言葉をはさんできた。
「だけど僕は、心から満足することができました。ダレイム伯爵家の方々も、それは同じことでしょう。アスタとヴァルカスとヤンという3名に一夜の晩餐を作りあげてもらうことが、どれだけ贅沢な話であるか……誰もがその喜びを噛みしめているかと思います」
「ええ、そのお言葉には心から同意いたしますよ! では、素晴らしい晩餐を素晴らしい菓子でしめくくっていただきましょうか」
ポルアースの合図で、小姓が最後のワゴンを運んできた。
それに対して立ち上がったのは、トゥール=ディンとニコラである。その姿を見て、リッティアが「あら」と微笑んだ。
「もしかしたら、今日もニコラが菓子を手掛けてくれたのかしら?」
「あ、いえ……わたくしは、ヤン様の手ほどきの通りに作業を進めたのみとなります」
「それじゃあやっぱり、手掛けたのはニコラであるのね」
同じ微笑みをたたえたまま、リッティアは料理人たちを見回していった。
「最近では、ヤンの弟子であるニコラが菓子を手掛けてくれているの。皆様にどのような評価をいただけるか、楽しみなところですわ」
ヴァルカス一派の情感豊かな3名、ロイとボズルとシリィ=ロウが「ほう」とばかりにニコラを見やった。それらの視線を浴びながら、ニコラは相変わらずの仏頂面である。
そうしてワゴンの上のクロッシュがふたつ同時に開けられると――あちこちから、感嘆のざわめきがあげられた。奇しくも両者は、どちらも大きなホールケーキを準備していたのだった。
トゥール=ディンのほうはしっとりとしたギギのチョコレートでスポンジケーキを包み込んだ、チョコケーキである。
いっぽうニコラのほうは――いったいどういう菓子であるのだろう。生地はピンクがかっており、それが半透明のつやつやとした皮膜に覆われていた。
ホールケーキを切り分けるべく調理刀を取り上げたトゥール=ディンは、びっくりまなこでニコラに呼びかける。
「そ、それはもしかして、チャッチもちでけーきをくるんでいるのですか?」
「……はい。けーきというのはよくわかりませんが、生地を覆っているのはチャッチの粉を煮込んだものとなります」
愛想のない声で答えながら、ニコラは菓子を切り分けていった。
トゥール=ディンも我に返った様子で、それに続く。さらにトゥール=ディンには、切り分けた菓子にホイップクリームで彩りを添えるという作業も残されていた。ホイップクリームは時間が経つと萎んでしまうため、食べる直前に泡立てなければならないのだ。
そうして2種のケーキが供されると、女性陣から嬌声があげられた。いつの間にやら、カーリアも無邪気な顔を見せるようになってしまっている。なおかつパウドやアディスらも、まんざらでもなさそうな目つきで皿の上の菓子を見やっていた。
「僕たちは、みんな甘い菓子に目がないのでね。これはまた、どちらから手をつけるべきか迷ってしまうなあ」
「あ……あの、わたしの準備したちょこけーきは、かなり味が強いので……もしかしたら、後に回したほうがいいかもしれません」
「ほうほう。それじゃあ、ニコラの菓子からいただこうかな」
俺たちも、トゥール=ディンの助言に従うことにした。チャッチ餅の皮膜に覆われたニコラの菓子は、淡いピンク色の生地の印象から、なかなか繊細な味を予感させたのだ。
(それにしても、まさかチャッチ餅をこんな風に使うなんてな。いつの間にか、ヤンはこんな菓子を考案してたのか)
チャッチ餅とは、片栗粉でこしらえるわらび餅のようなものである。森辺においても菓子の材料として大いに使用されていたが、それを洋菓子に使おうという発想は誰からも生まれていなかった。
断面から覗くピンク色の生地はしっとりとしており、ところどころに半透明の果肉が見える。きっとこれは、モモに似たミンミの実であろう。
俺はチャッチ餅の皮膜ごと生地を切り分けて、それを口に投じ入れた。
たちまち口の中に広がるのは、甘酸っぱいベリー系の風味だ。この生地のピンク色は、アロウの果汁であるらしい。なおかつフワノの生地はスポンジケーキのようにやわらかく仕上げられており、わずかに弾力のあるチャッチ餅の食感と相まって、とても心地好い食べごたえであった。
「美味ですね……チャッチもちとフワノの生地の組み合わせが、とても新鮮です」
シーラ=ルウがそのように評すると、隣のトゥール=ディンがぶんぶんとうなずいた。
「ほ、本当に美味です。これはヤンが考案して、ニコラが手掛けたということなのですね?」
「はい。ですが、フワノの生地にアロウの果汁を使うように考案したのは、こちらのニコラとなります」
穏やかに微笑みながら、ヤンはそのように答えた。
「わたしが最初に考案した際にはラマムの実を使っており、それをミンミに切り替えたところで、ニコラがそのように考案いたしました。ラマムの実にはあまり合わなかったのですが、ミンミの実とは調和するようです」
「はい。素晴らしい仕上がりです」
トゥール=ディンは陶然とした表情でヤンとニコラの姿を見比べた。
「それにやっぱり、チャッチもちが素晴らしいと思います。甘さの加減が、とても優しくて……おふたりの気性がそのまま表れているかのようです」
「わ、わたしはそのようなお言葉に似つかわしい人間ではありません」
ニコラは仏頂面のまま、頬を赤く染めていた。
そこでヴァルカスが「そうですね」と口をはさむ。
「やはり、ヤン殿らの菓子を先に食するのが正しかったようです。3種の魚料理を食した後にはこちらの菓子のやわらかい味わいが相応しく、そして、トゥール=ディン殿の菓子の鮮烈な味わいにより、再び目を覚まされたような心地です。……これらも事前に打ち合わせをしたわけではなく、たまさかこのような組み合わせとなったのでしょうか?」
「は、はい。それが本日の趣向とうかがっていましたので……」
「ならばこれこそが、西方神のはからいであったのでしょう。食後の菓子として、またとない調和が完成されておりました」
ヴァルカスが西方神の御名を口にするなど、きわめて珍しい話である。しかし、そんなことまで関与はしていないぞと、西方神も苦笑を浮かべそうなところであった。
というか、大半の人々はまだニコラの菓子を味わっている段階であるのに、ヴァルカスはとっくにトゥール=ディンの分まで食べ終えている。他のみんなが突き匙を動かしている中、ひとりでぼんやりと椅子に座しているヴァルカスの姿が、何やら可笑しかった。
「……さきほども申し上げた通り、そちらのヤンは菓子作りにおいて確かな腕をお持ちです。その技は、お弟子である彼女にも正しく受け継がれているようですね」
と、シリィ=ロウはかなり眼光が鋭くなっている。それだけニコラの腕に感服したのだろう。シリィ=ロウばかりでなく、ダレイム伯爵家を除く面々は、この場で初めてニコラの手掛けたものを口にすることになったのである。
(やっぱりヤンも、伊達や酔狂でニコラに弟子入りを認めたわけじゃないんだな)
少なくとも、ニコラにはヤンのレシピを十全な形で再現する力量と、さらに新たなアレンジを考案する発想力も備わっていたのだ。前身は貴族の姫君であったという話であるのだから、それはこの1年半ばかりの期間で開花したものであるのだろう。
「ところで……このチャッチもちというのは、アスタ殿が考案した菓子でありましたね?」
と、ヴァルカスがぼんやりとした視線を俺に向けてくる。
そしてその目は、ゆるりとヤンのほうに転じられた。
「さらに言うならば、このフワノの生地の扱いに関しても……トゥール=ディン殿の手掛けた菓子と多くの類似点が見られます。それもまた、アスタ殿の考案した生地の扱い方を参考にしておられるのでしょうか?」
「はい。直接アスタ殿から手ほどきを受けたわけではありませんが、強い影響を受けたことは否めません」
「なるほど。なおかつあなたは魚料理においても、アスタ殿の考案したミソの扱い方を取り入れておりましたね。あなたがたはそうしてアスタ殿の作法を取り入れつつ、自分なりの料理や菓子を考案されているわけですか」
そうして最終的に、ヴァルカスの目はロイへと向けられることになった。
「どうやらあなたは、ヤン殿に一歩も二歩も先を行かれているようですね。師としては、奮起をうながすべきでしょうか」
「こんな菓子を食べさせられたら、嫌でも奮起させられてしまいますよ。……ただ、自分はアスタの作法ばかりじゃなく、あなたの作法も取り入れようと四苦八苦しているんですから、少しはお目こぼしをいただきたいところですね」
「はい。そのような真似がかなうのかどうか、はなはだ疑問に感じてやみません」
「そこはもうちょっと、師匠らしく励ましてくださいよ!」
ロイがわずかに声を荒らげると、またメリムが可愛らしくふきだした。どうやらメリムは、彼らのやりとりがツボにはまってしまうようだ。
「本日は、とても有意義な晩餐会でありましたね。3名の料理人たちはもちろん、そのお弟子たちからも強い熱情を感じることがかないました」
全員がすべての菓子を食べ終えたタイミングで、フェルメスがそのように語り出した。
「噂によりますと、ヴァルカスのお弟子たちは師の代理として仕事を引き受けることもできるほどの腕だと聞きますし……アスタに手ほどきを受けた森辺の方々がどれだけの力量を有しているかは、僕もすでに思い知らされています。そして、ヤンにもニコラという将来有望な弟子がおられる。ジェノスを美食の町にしたいと願うポルアース殿の思いも、決して絵空事ではないのでしょう」
「ええ。本当に、心強い限りです。ヤンによると、宿場町における料理の質も、ここ最近でずいぶん高まったようでありますからね」
「素晴らしいことです。その繁栄には、アスタの存在が大きく関わっているのでしょうね」
フェルメスのヘーゼル・アイが、ふわりと包み込むような視線を送ってきた。
俺の魂を吸い込むような眼差しではない。その水際でぎりぎり踏みとどまっているような、そんな眼差しだ。
「……ですからきっと、アスタを領民として迎え入れたジェノス侯のご判断は、完全に正しかったのでしょう。これからジェノスがどのような繁栄を迎えるのか、僕も外交官として見届けるのを楽しみにしています」
「はい。自分ひとりの力なんてたかが知れていますけれど、ジェノスで暮らしている大勢の方々とともに、力を尽くしていきたく思います」
フェルメスの視線を真正面から受け止めつつ、俺はそのように答えてみせた。
フェルメスは言外に『星無き民』の影響力というものを示唆しているのであろうし、俺は俺でひとりの森辺の民として生きていきたいと主張している。しかし決して腹の探り合いをしているわけではなく、それぞれの素直な気持ちを言葉にできている――という、そんな感覚があった。
「さて、それじゃあこの後は茶と酒を楽しみつつ、親睦を深めさせていただこうかな」
ポルアースが、明るい声でそのように言いたてた。
「シェイラ、アイ=ファ殿と、それにルド=ルウ殿も呼んでおくれよ。それでよろしいのですよね、父上?」
「……うむ。この夜の取り仕切りは、お前に一任しているからな」
この後は、森辺の民と城下町の料理人をまじえて、しばし歓談が為されるのである。エウリフィアの主催する茶会でも見られる光景であるが、厳格さで知られるダレイム伯爵家においては、ここまでこぎつけるのに1年半の時間が必要であった、ということなのだろう。
パウドやアディスは重要な会議に臨むかのような面持ちになっているし、カーリアも取りすました表情を復活させている。
しかしそのぶんポルアースたちは和気あいあいとしており、ヴァルカスの弟子たちにもそこまで大きな緊張感はない様子であった。
これもまた、森辺の民にとってかけがえのない一夜となるだろう。
その場にフェルメスが立ちあっていることを、俺は大きな喜びとして感じることができた。