ダレイム伯爵家の晩餐会②~再会と前菜~
2020.4/10 更新分 1/1
晩餐の始まりである、下りの六の刻――の、少し前である。
無事に担当の料理を作りあげた俺たちは、ようやくヴァルカスたちと再会の挨拶をすることができた。
「おひさしぶりです、アスタ殿。ひと月以上もの間、アスタ殿の料理を口にすることがかなわず、わたしは消沈の思いで日々を過ごすこととなりました」
小姓たちの手によって数々の料理がワゴンに移動されているさなか、白覆面を外したヴァルカスがそのように口火を切ってきた。
その左右には、4名の弟子たちが立ち並んでいる。その中で、湿った髪をかき回していたロイが、こっそりヴァルカスの脇腹をつついた。
「……なんでしょうか、ロイ?」
「いや、なんでしょうかじゃなくて、アレですよ、ほら」
「…………?」
「アレですってば。朝っぱらにも、さんざん話したでしょう?」
ヴァルカスは茫洋とした面持ちでしばらく視線をさまよわせていたが、やがて「ああ」と俺に向きなおってきた。
「アスタ殿は、モルガの山に足を踏み入れるという役回りを果たされたそうですね。無事なお戻りを、喜ばしく思っています」
「はい、ありがとうございます」
「……その一件さえなければ、こうまで日が空くことはなかったのでしょう。かえすがえすも、口惜しく思います」
ロイは大きな溜め息とともに、「もういいです」という言葉を吐いた。
「ちょっと俺たちからも挨拶をさせてもらいますよ。……本当に、無事で何よりだったな。まったく、大蛇や狼の出る山の中に踏み込むなんて、無茶が過ぎるってんだよ」
「はい。ご心配をかけてしまい、申し訳ありませんでした」
ロイたちには、ルウ家で行われた祝宴の席で、その話を打ち明けることになったのだ。南の民であるボズルはともかくとして、ジェノス在住のロイやシリィ=ロウなどはたいそう仰天させることになってしまったのだった。
「まあ、無事だったからいいけどよ。シリィ=ロウなんざ、お前らが無事に戻ったと聞かされるまで、ずっと心ここにあらずだったんだぜ?」
「そ、そんなことは決してありません! 憶測でものを言うのはおやめください!」
噛みつくように言ってから、シリィ=ロウは神妙な面持ちで目を伏せた。
「ただ……わたしはいちおう、旧家と呼ばれる家の出ですので……ジェノスで暮らす他の人々よりは、モルガの禁忌というものについてわきまえているつもりです。モルガの山に足を踏み入れるなんて……それは、何よりも危険な行いであるはずなのです」
「ええ。この地で暮らしていた人々は、ジェノスが建立される前から、その禁忌を破らないように心がけていたのですものね」
そしてシリィ=ロウは、そういった暮らしに身を置いていた自由開拓民の末裔であるのだ。おそらくは、ジェノスの貴族の人々よりも、モルガの山の恐ろしさをわきまえているはずだった。
「でも、なんとか無事に話を収めることができました。聖域の民たちの怒りに触れることもありませんでしたので、どうかご安心くださいね」
「……本当に、全員が無事に戻ることができたのですよね?」
「はい。俺が慣れない山歩きで、ちょっと足腰を痛めたぐらいです」
俺が明るく答えてみせると、シリィ=ロウは「そうですか」と息をついた。森辺の民には決して甘い顔を見せない彼女であるが、きっと俺たちの安否を心から案じてくれていたのだろう。その姿を見やるシーラ=ルウたちも、とても温かな眼差しになっていた。
「ところで本日は、マイム殿もマルフィラ=ナハム殿もいらっしゃらないのですね」
と、ヴァルカスが何事もなかったかのように発言した。
そちらに向かって、俺は「はい」とうなずいてみせる。
「今日は貴族の方々と同じ場所で試食をすることが許されるというお話であったので、あまり大勢で押しかけるのはご迷惑かと思い、調理に必要な最低限の人数でお邪魔することになりました。でも、マイムだけでなくマルフィラ=ナハムもですか?」
「はい。彼女のように鋭敏な舌を持つ人間は稀でありますので、今日もわたしの料理の感想をおうかがいしたく思っていました。おいでいただけなかったことは、非常に残念に思います」
たちまちシリィ=ロウは、対抗心の炎を双眸に宿した。マルフィラ=ナハムが参じていたならば、さぞかし盛大に目を泳がせていたことだろう。
「彼女も残念がっていましたよ。次の機会には、是非よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。……マルフィラ=ナハム殿を差し置いてまでお連れしたということは、そちらの御方もアスタ殿のお目にかなったお弟子なのでしょうか?」
と、感情の読めないヴァルカスの瞳が、ユン=スドラのほうに向けられる。ユン=スドラの名誉のために、俺は「はい」と答えてみせた。
「マルフィラ=ナハムはちょっと特別な才能を持つ人間だと思いますが、こちらのユン=スドラも調理の手際では決して負けていません。……あと、いちおう彼女たちは俺の弟子ではなく、手伝いのかまど番という立場になります」
「ですが、アスタ殿みずからが手ほどきをした方々であられるのでしょう?」
「そうですね。どちらかというと、自分が師匠を名乗るのはおこがましいという心理なのかもしれません。何にせよ、正式な師と弟子という立場ではないので、彼女たちの腕を見込んで手伝いをお願いした、という格好になりますね」
ヴァルカスは「なるほど」と答えたが、大した関心は抱いていない様子であった。ヴァルカスが重んじるのは立場や呼称でなく、その人間が持つ料理人としての腕だけであるのだろう。
「ともあれ、アスタ殿らがどのような料理を準備されたのか、大いに楽しみなところでありますな! ギバ肉ではなく魚介の料理であるのですから、なおさらです!」
いつでも陽気なボズルがそのように言いたてたとき、小姓らに指示を送っていたヤンがこちらに近づいてきた。
「お待たせいたしました。運搬の準備が整いましたので、食堂までご案内いたします」
俺たちは、熱気の漂う厨から、燭台の灯された回廊に出ることになった。
ワゴンを押す小姓たちを追うようにして、歩を進めていく。その先頭に立つヤンのかたわらには、ニコラの存在しかなかった。
「ヤンは、ニコラしかお連れしないのですか?」
俺がそのように呼びかけると、ヤンは「ええ」とうなずいた。
「わたしは料理長としてこちらの厨を取り仕切っておりますが、弟子と呼べる人間はニコラのみとなります」
「ああ、そうなのですね。これまでは、お弟子を取る機会がなかったのですか?」
「はい。トゥラン伯爵家の前当主が失脚するまで、そちらに伝手のない料理人はごく限られた食材しか扱うことが許されませんでしたので……わたしは弟子を取る意義というものを見いだせずにいたのです」
そう言って、ヤンは静かに微笑んだ。
「そして現在は、わたし自身が修行をやりなおしているような状態にありますので、とうてい師を名乗る心持ちにもなれないのですが……それでも若き人間のために、道を切り開く役を果たしたいと願った次第です」
「そうですか。それは、俺と同じような心持ちであるのかもしれません」
「アスタ殿も? しかし、アスタ殿は――もはやジェノスでも屈指の料理人と呼ばれるべきお立場ではないですか」
「それは、身に余る光栄です。でも、俺だって修行中の身ですからね。それでも、森辺の同胞が今後も美味なる料理を楽しめるように、なけなしの力をふるっているつもりです」
ヤンは肉の薄い顔に皺を刻んで、またやわらかく微笑んだ。
「ならば確かに、同じような心持ちであるのかもしれません。わたしも老い先短い自分が魂を返した後も、お屋敷の方々にご満足いただけるような料理をお届けできるよう、弟子の育成に励みたく思います」
「老い先短いなんて、とんでもない。どうか俺たちにも、先達として手本をお示しください」
そんな言葉を交わしている間に、俺たちは食堂に到着した。
ワゴンを運んでいた小姓たちに先を譲られ、ヤンが扉の前に立つ。すると、扉の脇に控えていた侍女が入室の許しを求めるべく声をあげた。
「失礼いたします。料理人らが到着いたしました」
扉の向こうからは、「うむ」という言葉だけが返されてきた。
侍女の手によって扉が開かれ、俺たちは一列になって入室する。
「お待たせいたしました。これより今宵の晩餐を始めさせていただきたく思います」
「うむ。大儀であったな」
太い声音が、ヤンをねぎらう。いや、それは俺たちにも向けられた言葉であるのだろう。横並びになったヴァルカスたちが粛然と一礼したので、俺も慌てて頭を下げることになった。
その場に待ち受けていたのは、ダレイム伯爵家の面々とフェルメスである。
当主であるパウド、その伴侶であるリッティア、第一子息のアディス、その伴侶である――たしか、カーリアであっただろうか。彼女は子を生したばかりであり、最近になってようやく祝宴にも参席するようになったという話であったので、まともに挨拶をしたこともない相手であった。
あとはお馴染みのポルアースと、その伴侶であるメリムだ。左右の壁際には侍女がずらりと立ち並んでおり、シェイラもその中にまぎれ込んでいた。あとは客人たるフェルメスも含めて、席についている人間の総勢は7名である。
ちなみに本日は、ちょっと奇妙な形に卓が並べられていた。横長の形状をした卓が、底辺の長い二等辺三角形となるように配置され、貴族の人々はその底辺の部分に横並びとなっているのだ。本日は料理人たちも同じ場所で味見をすることが許されていたので、残りの2面に俺たちが座することになるのだろう。
「やあやあ、今日はお疲れ様! いったいどのような料理が出されるのかと、みんな心待ちにしていたよ!」
と、右から2番目の席に座したポルアースが、楽しげに笑いながら発言した。今宵のホストは、第二子息であるポルアースであるのだ。
ポルアースはついさきほども厨を訪れて、俺にねぎらいの言葉をかけてくれていた。ヤンを通じて現状は伝えられていたものの、聖域から戻って顔をあわせたのはこれが初めてであったのだ。ポルアースは俺のほうにウインクでも送ってきそうな表情で笑いかけてから、無人の卓へと手を差しのべた。
「とりあえず、席についていただこうかな。それから、それぞれの紹介をさせていただくからね」
侍女らの案内で、俺たちは決められていた場所に着席することになった。向かって右側の卓が森辺のかまど番とヤン、左側の卓がヴァルカス一派とニコラという配置であり、責任者が先頭に座らされる。貴族側の右端はメリムであったので、俺はこっそり会釈をしておくことにした。
「アイ=ファ様は、こちらにどうぞ」
と、またルド=ルウを扉の外に残して入室したアイ=ファは、シェイラによって衝立の向こう側に導かれることになった。フェルメスの従者たるジェムドや守衛の姿も見えなかったので、そういった人々は衝立の裏に待機させられているのだろう。その衝立から俺までの間には2メートルぐらいの距離しかなかったので、アイ=ファも不本意そうな表情を見せることなく、そちらに歩を進めていった。
「では、まずこちらの側から紹介させていただくね」
ポルアースはにこにこと笑いながら、家族とフェルメスの名前を並べていった。
当主のパウドと第一子息のアディスは、南の民のようにがっしりとした体躯と風格を持つ、ちょっと気難しそうな親子である。顔立ちなどもひどくよく似ており、父親のほうはたいそう立派な口髭ともみあげをたくわえている。
いっぽう当主の伴侶たるリッティアはころころとした体格と優しげな表情を持つ年配の女性で、ポルアースが母親似であることは一目瞭然だ。ほとんど交流のない男性陣と異なり、彼女とは舞踏会や茶会でそれなりの交流を結ばせてもらっていた。
そして、ほとんど初対面に近いカーリアは――小柄だが、なかなか恰幅のいい女性である。しかし、眉のあたりがきりっとしており、眼光もけっこう鋭めであったので、義母のリッティアとは対照的な印象だ。気難しそうな伴侶のアディスとは、似たもの夫婦であるのだろうか。
ポルアースの伴侶であるメリムは、とても可愛らしい貴婦人である。たしかもう20歳は超えているはずだが、俺より年長とは思えないぐらいに愛くるしくて、いつもやわらかい微笑をたたえている。ふわふわの栗色の髪と、明るく輝く茶色の瞳が印象的で、絵本に出てくるお姫様のような風情であった。
「お次は、料理人の方々だね。《銀星堂》の主人であるヴァルカス殿に、森辺の料理人であるアスタ殿、そしてこの屋敷の料理長であるヤンだ。お弟子については、それぞれのご主人に紹介していただこうかな」
「かしこまりました。こちらから順に、弟子のタートゥマイ、ボズル、シリィ=ロウ、ロイとなります」
ヴァルカス一派が席を立ち、あらためて一礼をした。
当主のパウドは立派な口髭をいじりながら、「ふむ」とそちらをねめつける。
「以前の舞踏会では、そちらの弟子の何名かに厨を預かってもらったのだったな。ずいぶん昔の話となるが、見事な出来栄えであったことは強く心に残されておるぞ」
「過分なお言葉、光栄に存じます」
「……それに、其方もな。以前はジェノス城の祝宴や会議においても、トゥラン伯爵家の前当主がたびたび其方を同行させておったものだが……ここ最近では、其方の料理を口にする機会もなかった。どのような料理が出されるものか、心待ちにしておるぞ」
「ご期待に添えれば幸いに存じます」
やはりヴァルカスは、つかみどころのない無表情で頭を下げるばかりである。パウドは仏頂面で手を振って、ヴァルカスたちを座らせることになった。
「それではお次に、森辺の方々だね。アスタ殿、よろしくお願いするよ」
「承知しました。こちらから順に、レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、トゥール=ディン、ユン=スドラとなります」
この席順も、事前に決められていたものである。おそらくは、族長筋を上位とする森辺の格式に基づいて定められているのだろう。
そうして彼女たちの名前が明かされると、メリムが「あら」と瞳を輝かせた。
「そちらの御方は、ユン=スドラと仰るのですね。もしかしたら、イーア・フォウ=スドラのご家族なのでしょうか?」
「はい。わたしはスドラ本家の家人であり、イーア・フォウ=スドラは分家の家長チム=スドラの伴侶となります」
そのように答えてから、ユン=スドラはにこりと微笑み返した。
「わたしもメリムのお名前は、イーア・フォウ=スドラにうかがっていました。トトスの早駆け大会の祝宴で、ご縁を結ばせていただいたそうですね」
「はい。イーア・フォウ=スドラとはもっとたくさん言葉を交わしたかったなあと、ずっと心残りに感じておりました」
メリムもいっそう朗らかに笑みくずれる。そうすると、彼女はさらに幼く、そして魅力的に見えた。
「森辺では、伴侶を娶ると新しい分家を立てるという習わしがあるそうですね。もしかしたら、ユン=スドラはチム=スドラの妹なのでしょうか?」
「いえ。確かにチムが婚儀をあげるまでは、同じ家に住む家人でありましたが……わたしはもともと眷族の血筋であったので、そこまでの血の縁は存在しません。でも、今でも大事な家人だと思っています」
「そうですか。スドラの方々というのは、みなさんそれぞれ好ましいお人柄をされているのですね」
すると、ポルアースがいくぶん困ったように笑いながら「いいかな?」と言葉をはさんだ。
「そうして料理人の方々とも絆を深めてもらえたら幸いだけれども、まだヤンたちを紹介していないからね。続きは、料理を食べながらでお願いするよ」
「あ、申し訳ありませんでした。スドラと聞いて、ついつい浮き立った気持ちになってしまったのです」
メリムは可憐に頬を染めながら、並み居る人々に頭を垂れた。
気難しそうな面々は大丈夫であろうか、と視線を巡らせてみると――パウドとアディスは仏頂面を保持しており、カーリアはぴくりと口もとを引きつらせている。ただそれは、こぼれそうになる微笑をこらえているように見えなくもなかった。
「それじゃあ最後に、我が屋敷の料理人だね。紹介が必要なのはフェルメス殿ぐらいでしょうけれども……あちらの娘は、ヤンの弟子でニコラと申します」
「ああ」と応じかけたフェルメスは、思いなおしたように口を閉ざして、ニコラに会釈を返した。そのヘーゼル・アイが、さりげなくヴァルカスたちの姿を見回したように感じられる。
(もしかして、フェルメスはニコラの素性を知っていたのかな)
それは、ありえそうな話である。外交官としてジェノスの内情を調査しているフェルメスであれば、1年半前までさかのぼる貴族の不祥事も把握していそうなところであった。
(でも、料理人に過ぎないヴァルカスたちは知らない可能性があるから、あえて口に出さなかったってことだろうか)
そうだとしたら、慧眼である。実際にロイたちは、ニコラの前身を知らぬ様子であったのだ。
それに、フェルメスがそうしてニコラの立場を慮るというのは、俺にとっても喜ばしく思えてならなかった。
(他者の気持ちを察するのが苦手だなんて言ってたけど、もともとこれだけ頭が回る人なんだもんな。俺に対してだけ、ときどきピントがズレちゃうのは……きっと『星無き民』に対する執心のせいなんだろう)
俺がそのように結論づけたところで、ポルアースが料理の配膳を小姓に命じた。
「それでは、晩餐会を始めましょう。まずは、ヤンの担当である前菜からです」
彫像のように立ち並んでいた小姓たちが、楚々とした足取りで卓に皿を並べていく。それらの皿にかぶせられていた銀色のクロッシュがオープンされると、貴族の人々が「ほう」と声をあげた。
「これが、其方の作であるのか? このような前菜を目にするのは、初めてであるように思うのだが」
第一子息のアディスが、うろんげに問うた。風貌ばかりでなく、声音までもが父親によく似ている。
そちらに向かって、ヤンは「はい」と静かに応じた。
「こちらは最近に開発した献立となります。食べ慣れた料理では興を削ぐかと思い、この日にお披露目をさせていただきました」
「ほうほう、そいつは気がきいているね!」
ポルアースは気さくに笑い、メリムは期待に瞳を輝かせている。いっぽうヴァルカスの弟子たちは、それなりに真剣な目つきで皿の上を見つめていた。
そこにちょこんとのせられていたのは、小さなパイのような料理である。
大きさは、俺の拳よりも小さいぐらいだろう。厚みも3センチほどであるし、前菜に相応しいつつましさだ。
「まるで菓子かフワノ料理のようですね。どのような味なのか、とても楽しみです」
そんなメリムの言葉を聞きながら、俺たちも食器を取り上げることになった。突き匙と呼ばれる銀色のフォークと、小ぶりのナイフが適切であろう。
突き匙で押さえながらナイフをあてがってみると、想像よりもやわらかい手応えでパイ生地は断ち割れた。断面を見てみると、ほのかにピンクがかったジャムのようなものと生地が何重もの層になっている。
(本当に、菓子みたいだな)
俺は突き匙で刺した分を、口もとに持ち上げた。
とたんに、バターのような乳脂の芳香が鼻をくすぐる。そしてそこには、アマエビに似たマロールの香りも入り混じっていた。
それを口に入れてみると、乳脂とマロールの香りが豊かな味わいとなって舌に広がる。
さらに、生地の食感が軽やかで、たとえようもなく心地好かった。おそらく窯焼きで仕上げられているのであろうが、普通のパイ生地よりも遥かに軽妙で、マロールのジャムとともに溶けていくかのようなのである。
「……こちらは、トトスの卵の白身を主体とした生地であるようですね」
俺の向かい側から、ヴァルカスがそのように発言した。
そちらに向かって、ヤンは「はい」と小さくうなずく。
「トトスの卵の白身とカロンの乳を攪拌しながらフワノの粉を振るい入れ、塩と砂糖で味を調えております。手順に難しいことはありませんが、理想の噛み心地を求めるのにはいささか苦労いたしました」
「その苦労が報われたことを喜ばしく思います。ただ――」
と、そこでヴァルカスはぼんやりとポルアースのほうを見やった。
「……本日は忌憚なく意見を交わし合うようにとの仰せでありましたが、それで間違いはなかったでしょうか?」
「うん、もちろんさ。料理人の双璧として知られるヴァルカス殿が、ヤンの料理に対してどのような感想を持つのか、興味深いところだね」
「では、率直に申し上げますと……こちらに使われているマロールの具材に関しては、もういくばくかの手直しが必要であるように感じます。塩加減や味付けについては申し分もないのですが……湿り気の度合いが、わずかに食感の調和を乱しているように感じられます」
「湿り気?」と、ポルアースは目を丸くした。
ヴァルカスは「はい」と無表情にうなずく。
「こちらの料理は、食感こそが生命であるように存じます。然して、具材の湿り気がその食感に若干の悪い影響を与えております。あともう少しだけ湿り気を抑えれば、またとない調和が得られるのではないでしょうか」
「湿り気ねえ。僕にはちょっと、理解が及ばない話だなあ。……味のほうに、不満はないのかな?」
「はい。香りづけに使われているミンミの果汁も、タウ油やミソの分量も、不備はないように思われます」
「こちらには、ミソやタウ油が使われているのですか? わたくしは、ちっとも気づきませんでした」
メリムが驚いたように声をあげると、ヴァルカスはぼんやりと首を傾げた。
「マロールの味を引き立てるために、それらの食材が使われているものと思われます。わたしであれば、何種かの香草でさらなる風味を加えたくなるところでありますが……この軽やかな食感や乳脂の風味との調和まで考えると、1年がかりの仕事となりましょう。ここを引き際と見定めることに異存はございません」
そんな風に言ってから、ヴァルカスはヤンのほうに視線を戻した。
「ただ、味の調和が見事なだけに、食感の不具合がいっそう惜しく感じられます。具材の湿り気についてご一考いただけたら幸いに思います」
「得難いご意見をありがとうございます。今後もさらに研鑽を重ねたく思います」
ヤンは恭しげに一礼し、ニコラは悩ましげに眉をひそめている。おそらくは、なんとかヴァルカスの言葉の意味を理解しようと、懸命に頭を働かせているのだろう。俺にしてみても、それでどれだけこの料理の質が高まるものか、想像することは難しかった。
そこでフェルメスが、笑いを含んだ声をあげる。
「これは確かに、なかなか楽しい余興であるようですね。まるで学士の議論を聞いているような心地です。……そちらのお弟子たちも、やはり師たるヴァルカスと同じ意見なのでしょうか?」
「いやいや。恥ずかしながら、わたしにも理解が及びませんでした。具材の湿り気を調節することで、どのような変化が生まれるものか、なんとか想像しようと頭をひねっておったところであります」
まずは陽気に、ボズルがそのように答えた。タートゥマイは、同意するようにうなずいている。
「わたしはそれよりも、味の組み立ての見事さに感服していました。そちらのヤンという御方は菓子作りに関して確かな力量をお持ちですので、それがこちらの料理にも活かされているのでしょう」
礼儀正しく応じながら、シリィ=ロウはなかなか強めの眼光をヤンに突きつけている。彼女が対抗意識を触発されたということは、それだけ見事な出来栄えだと感じられたのだろう。
「自分も、兄弟子たちに同意いたします。かなうことならば、このままヤンの手掛けた6種の料理を味わいたくなってしまったほどです」
ロイもまた、貴族たるフェルメスに如才なく言葉を返す。総じて、ヴァルカスの弟子たちはヤンの前菜に感服した様子であった。
それを見届けたフェルメスは、ゆったりと微笑みながら俺を振り返ってくる。
「では、森辺の方々は如何でしょう? 是非ご意見を聞かせていただきたく思います」
「はい。素晴らしい出来栄えだと思います。かねがねヤンは、繊細な手際をお持ちになる御方だと思っていましたが、その力量をあらためて思い知らされた心地です」
ヤンを賞賛するためであれば、俺もなけなしのボキャブラリーを総動員させたいところであった。
「それにこれは、前菜として考え抜かれた料理なのだと思います。この優しくてやわらかい味わいは、まだ舌の疲れていない最初の料理にこそ相応しいのでしょう。それに加えてこの軽やかな食感も、次の料理を求める気持ちをぞんぶんに刺激してくれるように思います」
「なるほど。料理人というのは、そこまでさまざまなことに思いを巡らせながら、料理を手掛けているのですね。……他の方々は如何でしょう?」
「はい。わたしもこれをフワノ料理として中盤に出されていたなら、こまかな風味や味わいなどをしっかりと感じ取れていなかったように思います。もしもヤンが、フワノ料理にこの手法を使おうと考えたなら、どのような味わいに仕上がるのかと……アスタの言葉を聞いて、そのように思いました」
真剣きわまりない表情で、レイナ=ルウはそのように答えた。
隣のシーラ=ルウは、落ち着いた表情でうなずいている。
「この生地の出来栄えは素晴らしいので、きっとさまざまな味付けで楽しむことができるのでしょう。また、森辺においてはトトスの卵を買いつける機会もなかったので、とても興味深く思います」
「わ、わたしもそう思いました。やはり、キミュスの卵でこのような噛み心地を生み出すことはかなわないのでしょうか?」
トゥール=ディンは、ヤンに向けて言葉を発した。
ヤンは「はい」と微笑まじりに答える。
「わたしも最初はキミュスの卵を使って、こちらの料理を手掛けておりました。しかし、どうしても理想の噛み心地が得られなかったため、トトスの卵に切り替えた格好となります」
「やはり、そうなのですね。……こちらの生地を使って菓子を作ったらどのような仕上がりになるのか、とても気になります」
「それは現在、考案しているさなかとなります。完成したら、トゥール=ディン殿には是非とも味見をお願いしたく思います」
「は、はい! 楽しみにしています!」
内気なトゥール=ディンが、せいいっぱい気持ちを伝えようと、声を大きくしていた。
最後に末席のユン=スドラが、思案深げな面持ちで声をあげる。
「わたしはもう、見事な料理だとしか感じることができませんでした。ヴァルカスの言う湿り気についてや、アスタの言う料理の順番についてなど……自分の見えていなかった場所に光を当てられたような心地で、とても胸が高鳴っています」
「なるほど。こういった体験が、料理人の糧となるのですね」
フェルメスは茶を注がれた杯を手に、にこりと微笑んだ。
「非常に楽しい論議でした。これから出される料理ではどのような言葉が交わされるのか、とても楽しみです」
フェルメスとポルアースとメリムは、ご満悦の様子であった。他の貴き人々はいささか不明瞭な面持ちであるが、それはきっとこれからの料理でご満足いただけるだろう。俺はともかくとして、ヴァルカスの料理にはそれだけの破壊力があるはずだった。
そして俺自身は、十分以上に昂揚している。きわめて完成度の高いヤンの前菜が、俺の気持ちを大きく刺激してくれたのだ。内心の読めないヴァルカスを除く料理人の面々は、全員が同じ心地であるのだろうと思われた。