ダレイム伯爵家の晩餐会①~下準備~
2020.4/9 更新分 1/1
ディアルたちを晩餐に招いた日から、2日後――銀の月の22日である。
その日はダレイム伯爵邸において厨をあずかるため、俺たちは城下町を目指すことになっていた。
俺が手伝いをお願いしたかまど番は、4名。レイナ=ルウ、シーラ=ルウ、トゥール=ディン、ユン=スドラという顔ぶれである。
いっぽう護衛役のほうは、2名。アイ=ファにルド=ルウという組み合わせに相成った。相手が懇意にしているポルアースであれば、護衛役も最低限の人数でよかろうという、ドンダ=ルウの判断だ。
その日は屋台の営業日のど真ん中であったため、そちらをきちんと最後までつとめあげてから、城下町に向かうこととする。本日はポルアースからの提案で、ちょっと変則的な献立であったため、それぐらいの出陣でもゆとりを持てたのだった。
屋台の終業時間にあわせて、早めに仕事を切り上げたアイ=ファとルド=ルウが、新たに持ち出してきた荷車で合流してくれる。俺たちはそちらの荷車に乗り換えて、いざ城下町に出立することになった。
「ヴァルカスとお会いするのは、ずいぶんひさびさとなりますね。どのような料理が出されるのか、今から楽しみでなりません」
そんな言葉とは裏腹に、レイナ=ルウはとても真剣な面持ちになってしまっていた。森辺のかまど番にとって、ヴァルカスの料理を口にするというのは、修練の意味合いが強いのである。
「でも、今日はあのフェルメスってやつもいるから、ギバ料理は作れねーんだよな。それだけが残念なところだぜ」
荷車の運転をアイ=ファに任せたルド=ルウは、あくびまじりにそう言っていた。本日は7名の人間を乗せているので、トトスに負担をかけないよう、アイ=ファもゆるやかに荷車を走らせている。
「あいつも森辺の民と仲良くなりてーって言い張るんなら、ギバ肉ぐらい食ってみりゃいいのになー。そもそも獣の肉を食えねーとか、俺には意味がわかんねーよ」
「うん。俺としても、フェルメスにギバ料理を食べてもらえないのは残念なところだけどね。でも、こればかりはしかたがないよ」
俺たちがそんな言葉を交わしている間に、荷車は城門へと辿り着いていた。
本日は、いつもの手順で案内役の武官に手続きをお願いする。今後は好きに通行証を申請すればいいという話をいただいていたが、なかなかそれを実践する機会には恵まれていなかった。
ということで、箱形の大きなトトス車に乗り換えをさせられて、一路、ダレイム伯爵邸を目指す。これだけたびたび城下町に足を踏み入れている中で、その場所に向かうのは舞踏会以来の2回目であるはずだった。
「えーと、この中でダレイム伯爵邸で厨をあずかったことがあるのは、レイナ=ルウとトゥール=ディンだけだったよね?」
トトス車の中で揺られながら、レイナ=ルウは「はい」とうなずいた。
「あの日、アスタとシーラ=ルウは客人として招かれる立場でありましたからね。わたしとトゥール=ディンと、あとはリミがかまど仕事を果たすことになりました」
「それもほとんど1年ぐらい前の話になるんだよね。なんだか感慨深いなあ」
俺はちらりと、アイ=ファの横顔を盗み見た。
あの日、舞踏会の貴賓として招かれた俺たちは、城下町の宴衣装に着替えさせられることとなったのだ。ちょっとエスニックなパーティドレスとでもいうべき宴衣装に身を包んだアイ=ファの姿は、今でも俺の脳裏にくっきりと焼きつけられていた。
ほどなくしてトトス車は動きを止め、俺たちは外界にいざなわれる。
およそ1年ぶりに見る、ダレイム伯爵邸である。煉瓦造りの立派な建物で、青い屋根などは俺の記憶にある通りであった。
「お待ちしておりました、森辺の皆様方」
と、屋敷の入り口ではお行儀のいい微笑みをたたえたシェイラが待ちかまえていた。
その目がアイ=ファをとらえると、嬉しそうに細められる。そうそう顔をあわせる機会もない両者であるのだが、シェイラのアイ=ファに対する思い入れは減ずる気配もないようだった。
「それでは、浴堂にご案内いたします。こちらにどうぞ」
「ありがとうございます。今日はヤンの手伝いではなかったのですね」
「はい。わたしがヤン様を手伝うのは、宿場町における仕事のみとなります。こちらには、十分な数の厨番が控えておりますので」
むしろ、その厨番の負担にならないよう、宿場町の仕事においてはシェイラとニコラに白羽の矢が立てられた、という背景なのかもしれない。もともと彼女たちの身分は、厨番ではなく侍女であったのだ。
「ところで、お召し物に関してなのですが……厨番の方々にはこちらで準備した装束を纏っていただいてもよろしいでしょうか?」
「はい。それがこちらの習わしなのでしたら、異存はありません」
「いえ。本日は内々の晩餐会でありますため、本来であればお召し替えをお願いする必要もないのですが……ただ、本日は普段と異なる趣向であるため、可能であればお願いしたいとのことです」
普段と異なる趣向というのは、料理人たちも貴き方々と同じ場で料理の味見をする、という内容である。ポルアースは自分の家族と森辺の民の絆が深まることを願っていたので、そのような趣向をひねり出してくれたのだ。
「承知しました。それでは、着替えさせていただきます。……レイナ=ルウたちも、それでいいかな?」
「はい、もちろんです」
かつての舞踏会においても、レイナ=ルウやトゥール=ディンは貴き方々に挨拶をする役目があったため、調理着に着替えさせられていたのだ。俺としても貴婦人の茶会などではお馴染みのことであったので、今さら異存はなかった。
そうして浴堂に到着したならば、二手に分かれて身を清めさせていただく。そののちに、脱衣の間で小姓に手渡されたのは、想像していた通りの白装束であった。
ルド=ルウは着替えの必要もなしという話であったので、森辺の装束を着込んでいく。そうして狩人の衣まで纏いつけると、ルド=ルウは「あっちーな」と面白くもなさそうに笑った。蒸し風呂でさんざん温められているのであるからして、当然の帰結であろう。こちらの浴堂には、冷水の浴槽も存在しなかったのだ。
着替えを済ませた俺たちは、小姓とともに回廊に出て、女衆らの帰りを待つ。
しばらくして、そちらの扉が開かれると――ルド=ルウが「へえ」と声をあげた。
「シーラ=ルウは、ずいぶん雰囲気が変わったなー。もちろん他の連中だって、それは一緒なんだけどよー」
俺も、心から同意することができた。年長組の3名は俺と同じデザインの白装束であり、トゥール=ディンはエプロンドレスを思わせる侍女のお仕着せであったのだが――その中で、やたらとシーラ=ルウの存在に目をひかれることとなったのだ。
この白装束というのは、俺の故郷の調理着とそれほど差異のないデザインである。おそらくは、ジャガルから伝来した様式であるのだろう。上衣も脚衣もすとんとしたシャープな形状をしている。
で、レイナ=ルウなんかは、けっこう胸もとやおしりのあたりが窮屈そうであるのだが――もともとスレンダーな体型をしているシーラ=ルウは、やたらと格好よく見えてしまったのだった。
それに、シーラ=ルウはやや肩幅がせまくて、撫で肩でもあるのだが、それが調理着の角張ったシルエットに補正されて、普段よりも凛々しく感じられる。あとは、婚儀をあげてからショートにしている黒褐色の髪もまた、その格好にはよく似合っているように感じられた。
「ふーん……なんかこうして見ると、やっぱシーラ=ルウとシン=ルウってちょっと顔とかも似てるんだな。普段はそんな風に思わねーんだけどさ」
「そうでしょうか」と、シーラ=ルウは静かに微笑んだ。
確かに、ルド=ルウの言うこともわからなくはない。いつもきりっとしていてあまり表情を動かさないシン=ルウと、常に柔和な表情をしたシーラ=ルウであるので、印象はずいぶん異なるのであるが――切れあがった目もとや筋の通った鼻筋や、全体的に繊細な顔の作りなど、共通点も多いのだ。それでシーラ=ルウが男性と変わらぬ装束を纏ったために、ちょっと印象が近づいたのかもしれなかった。
「それに引き換え、レイナ姉は相変わらず似合ってねーよなー。もうちっと胸とか尻とかを引っ込めたほうがいいんじゃねーの?」
「ば、馬鹿! そんなの、引っ込めようがないでしょ?」
レイナ=ルウは顔を赤くして、恥ずかしそうに身をよじった。レイナ=ルウは小柄であるため、背丈でサイズをあわせるとどうしてもあちこちが窮屈になってしまうのだろう。レイナ=ルウの卓越したプロポーションと、この装束の伸縮性の乏しさが招いた、ささやかなる弊害であった。
そんなレイナ=ルウにつられたように、ユン=スドラもちょっと頬を染めながら、おずおずと俺のほうを見やってくる。
「わたしはこのような装束を纏うのも初めてですので、ずいぶん落ち着かない心地です。……やっぱり滑稽な姿になってしまっているでしょうか?」
「滑稽だなんて、そんなことはまったくないよ。よく似合ってるじゃないか」
ユン=スドラはちょうどシーラ=ルウと同じぐらいの背丈であり、女性らしいプロポーションをしてはいるものの、レイナ=ルウほど極端ではない。活動的なサイドテールと相まって、可愛らしいボーイッシュな女の子という風情であった。
白い上衣の裾を下のほうに引っ張りつつ、ユン=スドラははにかむように笑う。
「シリィ=ロウも、仕事の際にはこのような格好をしていますものね。……アスタと同じ装束に身を包むのは、とても光栄に思います」
「うん。みんなで同じ格好っていうのは、なかなか楽しいもんだね。……あ、トゥール=ディンを仲間外れにしているわけじゃないよ?」
「はい。わたしもいつか、みなさんと同じ装束を纏えたら嬉しく思います」
トゥール=ディンはまだ幼年であるため、いつもこういう侍女のお仕着せを準備されているのだ。あともう2、3年もしたならば、背丈もレイナ=ルウに追いついて、白装束が準備されるようになるのかもしれなかった。
「……それでは、厨にご案内をいたします」
微笑みをこらえているような面持ちのシェイラの案内で、俺たちは再び回廊に足を踏み出した。
アイ=ファもルド=ルウと同様に元の格好であるが、やっぱり蒸し風呂の熱気が残されているのだろう。頬がわずかに赤らんでいて、金褐色の髪もしっとりとしているので、湯上りの色っぽさが尋常でなかった。
「こちらが、厨となります」
シェイラの案内された扉には、小姓と守衛が1名ずつ立ち並んでいた。やはり外部から料理人を呼びつけたときは、守衛を立てるものであるのだろうか。その場には、ルド=ルウが居残る手はずとなっていた。
扉を開くと、濃密なる芳香が鼻腔に飛び込んでくる。
当然のこと、他の料理人たちはすでに調理を始めているのだ。さすが伯爵家の厨だけあって、3組の料理人がゆとりをもって働けるだけの規模であるようだった。
「森辺の皆様方がご到着されました。晩餐の刻限まで、何卒よろしくお願いいたします」
シェイラはそのように通達してから、俺たちに会釈をして厨を出ていった。
入り口で渡した食材や調理器具は、右手側の作業台に並べられている。俺たちがそちらに足を向けると、芳香の向こうからヤンとニコラが近づいてきた。
「お待ちしておりました。本日は、どうぞよろしくお願いいたします」
「どうも、よろしくお願いいたします。ヤンと同じ日に厨をおあずかりすることができて、光栄です」
「滅相もございません。本日の主役はあくまでアスタ殿とヴァルカス殿であるのですから、わたしはお邪魔にならないように心がけたく思います」
そう言って、ヤンはやわらかく微笑んだ。
「それにしても、今日はなかなかに不可思議な趣向でありますね。こちらのお屋敷ではそこまで趣向を凝らす機会もありませんでしたので、わたしもどのような結果になるのかと、いささか胸が騒いでおります」
「そうですね。もとを質せば俺が原因であるようなので、ちょっと心苦しく感じています」
それは、スケジュール調整が上手くいかなかったことから生じた、一種風変わりな趣向であった。この日は屋台の商売があったので、6種の料理を準備するのは難しいかもしれないと伝えたところ、それでは各人が3種ずつの料理を準備することにしようと取り決められたのだった。
「主菜である肉料理――というか、今回は魚料理になるのか。とにかく魚料理は全員が準備するとして、食後の菓子はヤンと森辺の方々にお願いしよう。で、残り4種の料理を3名の料理人に割り振るという形がいいんじゃないのかな!」
伝聞であるが、ポルアースはそのように言っていたらしい。
つまり、西の王国においてフルコースとされる6種の料理を、3名の料理人が分担して受け持つ、という趣向なのである。
結果的に、俺たちは魚料理と菓子の他に、フワノ料理を受け持つことになった。それで、ヤンは魚料理と菓子の他に、前菜。ヴァルカスは魚料理の他に、汁物料理と野菜料理を受け持つことになる。
「俺としては面白い趣向だなと思う気持ちもあるのですが、ヴァルカスなんかはどうなのでしょうね。ヴァルカスは料理の出される順番まで計算ずくで味を組み立てているという話だったので、他の人間の料理とごっちゃにされてしまうのは不本意であるかもしれません」
「はい。しかしそれでも、アスタ殿の料理を口にできるという喜びのほうがまさるのではないでしょうか」
そう言って、ヤンはまた穏やかに微笑んだ。
「ともあれ、わたしはまだまだ魚料理なども不慣れでありますため、前菜と菓子で彩りを添えられたらと思うばかりです。アスタ殿がどのような料理をお出しするのか、心待ちにしております」
「はい。俺たちも、ヤンの料理を楽しみにしています」
ヤンはひとつうなずくと、無言のニコラを引き連れて自分の仕事場に戻っていった。
奥まった場所に陣取っているヴァルカスたちは、黙々と作業に励んでいる。せめて挨拶だけでもさせていただこうかと、俺はレイナ=ルウをともなって、そちらに近づいてみることにした。
「お仕事のさなかに、失礼します。今日はよろしくお願いします、ヴァルカス」
ヴァルカスの一行は相変わらず白覆面を着用しているが、身長と体格で見分けることは難しくない。鉄鍋を攪拌していたヴァルカスは、横目でちらりと俺を見やってから、すぐに鉄鍋へと視線を戻した。
「本日はよろしくお願いいたします。……今は手を離せませんので、挨拶はまたのちほど」
「はい。失礼いたしました」
俺に会いたいと切望していたという噂であったのに、この扱いである。しかしこれこそが、ヴァルカスのヴァルカスたる所以であった。
他のメンバーも忙しそうにしているので、俺たちは大人しく退散する。俺たちにしてみても、こうまで段取りを整えてもらえたのだから、万が一にも遅延することは許されなかった。
「それじゃあ、こっちも開始しよう。各自、事前の取り決めの通りにお願いします」
そうして俺たちも、その日の仕事に取りかかることになった。
城下町で本格的な調理に取り組むのは、実にひさびさの話である。ここ最近は、客人として招かれる機会のほうが多かったのだ。そうして城下町の料理を堪能させていただけるのは得難いことであったが、やはり料理人としてはこうして調理に励むのが本分であろう。
「最後にきちんとした料理を出したのって、ゲルドの方々の晩餐会までさかのぼるのかな? 《銀星堂》にお招きされたときは、完成品を温めなおしただけだったし……ああ、同じ日に貴婦人の茶会があったっけ」
「はい。ですがあれは菓子でしたので、料理を手掛けるのはずいぶんひさびさなのではないでしょうか?」
「やっぱりそうだよね。……で、その茶会からも、もうひと月以上は経ってるのか。そろそろオディフィアが焦れてきてる頃なんじゃないのかな?」
「はい。オディフィアには3日置きに菓子をお届けしていますけれど……わたしのほうこそが、オディフィアに会える日を待ち望んでしまっています」
可愛らしく頬を染めながら、トゥール=ディンはそう言った。茶会以降もトトスの早駆け大会の祝宴でオディフィアとは会っているのだが、それもひと月近く前の話だ。おたがいに、早く再会したいと願っている頃合いであろう。
「またオディフィアを森辺に招待できるような機会もあるといいね。せっかく家族ぐるみのおつきあいができるようになったんだからさ」
「そ、そうですね。……あの日のことを思い出すと、今でも胸がいっぱいになってしまいます」
手もとは的確に動かしつつ、トゥール=ディンは幸福そうに微笑む。オディフィアと出会って1年と少しが過ぎ、いよいよ情愛も深まってきた様子である。
それから小一時間ばかりは、何事もなく時間が過ぎ去っていった。
フワノ料理の下準備は済んだので、二手に分かれて魚料理と菓子に取りかかる。そのタイミングで、厨の扉が叩かれた。
「おーい、外交官のフェルメスが挨拶をしたいって言ってるぜー」
扉の隙間からにょっきりと顔を覗かせたルド=ルウが、そのように告げてきた。俺は壁際にたたずんでいたアイ=ファと視線を見交わして、すみやかに扉の外へと足を向ける。
「お仕事の最中に申し訳ありません。挨拶だけでもさせていただければ幸いです」
扉の外では、笑顔のフェルメスが待ち受けていた。
そのななめ後方には、もちろん従者のジェムドも控えている。俺とアイ=ファはフェルメスの正面に立ち並び、一礼してみせた。
「どうも、おひさしぶりです。わざわざご足労いただき、ありがとうございます」
「とんでもありません。お仕事の邪魔になってはと考えたのですが、どうしても気持ちを抑えることがかないませんでした。……アスタもアイ=ファも無事に聖域から戻ることができて、何よりです」
フェルメスはわずかに首を傾けつつ、いっそう嬉しそうに微笑んだ。
フェルメスと対面するのは半月ていどぶりであったが、なんだか優美さに磨きがかかったように感じられる。茶色と緑色の入り混じったヘーゼル・アイは幻想的にきらめき、首から上だけを見ていれば、可憐な姫君そのものであった。
「フェルメスは……いささか肉が落ちてしまったようだな」
アイ=ファが低い声で問い質すと、フェルメスは逆の側に首を傾けた。
「さすが、森辺の狩人の眼力ですね。わずかな差異も隠すことはできないようです」
そうなのだろうかと、俺はいっそう目を凝らすことになった。
確かに――そこまで痩せたとまでは思わないが、もともと華奢であった肩のあたりのシルエットや、なめらかな曲線を描く頬の線などが、いっそう繊細になったように感じられる。以前よりも優美に感じられたのも、それが原因であるのかもしれなかった。
「それはやはり、熱を出して寝込んでしまったゆえなのであろう? まだ体調が思わしくないのであろうか?」
「いえいえ。僕はもともと、すぐに肉が落ちてしまう質であるのです。ご心配には及びませんよ」
そう言って、フェルメスはくすぐったそうに目を細めた。
「数日前から公務に戻りましたし、それ以降も熱を出したりはしていません。矢傷を負ってしまったジェノス侯のほうが、よほど不自由な身であることでしょう。……それにしても、アイ=ファに体調を気遣っていただけるとは光栄の限りです」
「あなたは聖域の民と正しき絆を結ぶために、無茶な真似をしたのだという話であったのだからな。その件に関して、私もアスタも心から感謝の言葉を伝えたいと願っていた」
そうしてアイ=ファがさきほどよりも深々と頭を下げたので、俺も慌ててならうことになった。
「聖域の民と理解し合い、ティアを故郷に帰すことができたのは、あなたとそちらのジェムドの尽力あってのことであろう。あらためて、礼を言わせてもらいたい」
「いえ。僕は王都の外交官としてのつとめを果たしただけのことです。アイ=ファとアスタに頭を下げていただくには及びません」
俺たちが顔を上げると、フェルメスは同じ表情で微笑んでいた。
「ジェムドの言葉をお聞きになったのなら、アイ=ファたちにも理解できたでしょう? 王国の民と聖域の民は、なんとしてでも正しき絆を結ぶべきであるのです。……いえ、正しき絆を結びなおすべきであるのです。数百年もの時を経て、再び同胞として生きようというのは、あまりに困難な話なのかもしれませんが……それこそが唯一の正しき道であるのだと、僕はそのように信じています」
「うむ。あなたのその言葉が、我々にとっては何よりの希望となったのだ」
アイ=ファは感情を隠したいかのように、そっと金褐色の睫毛を伏せた。
フェルメスは、幼子のようににこりと微笑む。
「僕は世界の行く末のために尽力したつもりであったのですが、アイ=ファたちにそうまで感謝していただけるというのは、ありがたいお話です。これでかつての失敗も、多少はお目こぼしをいただけるのでしょうか?」
「……あなたの犯した間違いと、あなたに対する感謝の念は、別に分けて考えるべきであろうと思う。あなたが同じ間違いを犯すようであれば、我々に容赦をする理由はない」
「それはもちろん、僕とて同じ失敗を重ねるつもりはありません。……ああ、なるほど。ここでこうして過去の話を持ち出すことは、森辺の民にとって不誠実という印象になるのですね。これは失礼をいたしました」
フェルメスは片手を頬にあてて、いくぶん気恥ずかしそうに目を細めた。女性さながらの仕草であるが、そんな振る舞いが異様に似合ってしまうフェルメスである。
「僕の気持ちは、『滅落の日』にお話しした通りです。今後は自分の行いがアスタの心にどのような作用を及ぼすか、それを念頭に置くことをお約束します。……僕の言葉を信じていただけますか?」
それは俺に向けられた言葉であったので、「はい」と応じてみせた。
「それでもフェルメスの行いに心を乱されるようなことがあれば、その場でご指摘させていただきます。それでよろしいのですよね?」
「はい。よろしくお願いいたします」
フェルメスは、ふわりと花弁が開くように微笑んだ。
実に多彩な笑顔を持つフェルメスである。
そしてその不可思議な色合いをしたヘーゼル・アイには、あけっぴろげな情愛の光が宿されているように感じられた。
(フェルメスのことだから、また俺の心情を読み損なう可能性も十分にありえるんだろうけど……でも、俺を傷つけるつもりはないっていう言葉は、信じることができるからな)
そんな風に考えながら、俺もフェルメスに笑いかけてみせた。
「今日はフェルメスのためにも、心を尽くして料理を準備いたします。たくさん食べて、力をつけてくださいね」
「ありがとうございます。ひさびさにアスタの料理を口にできることを、僕も昨晩から楽しみにしていたのです」
そのように言いながら、フェルメスは一歩だけ足を踏み出した。
そして、何かに驚いた様子で目を見開き、その足をもとの位置まで引っ込める。
「今……無意識に、アスタの身体を抱擁してしまいそうになりました。そのようなことをしたら、きっとアイ=ファの気分を害してしまうでしょうね?」
「…………異性でなければ、触れ合うことを禁ずる習わしは存在しないが……アスタはかまど仕事のさなかであるので、むやみに触れ合うべきではないように思う」
「では、仕事の後ならばかまわないのでしょうか?」
「…………」
「今のは、冗談です。僕の中にも、抱擁によって親愛の念を示す習わしは存在しません」
フェルメスはくすりと笑ってから、身を引いた。
「それでは、晩餐の刻限をお待ちしています。お仕事のさなかに失礼いたしました」
ジェムドと案内役の小姓を引き連れて、フェルメスは立ち去っていく。
アイ=ファは深々と溜め息をつき、ルド=ルウは「なんだかなー」と頭の後ろで手を組んだ。
「あいつ、ますますアスタに心を寄せたみてーじゃん。ま、アスタたちがいいんだったら、それでいいけどよ」
「うん。以前に比べれば、真っ当な信頼関係を築けたように思うよ。なあ、アイ=ファ?」
「……そうであるはずなのだがな」
と、アイ=ファは口をへの字にして、俺をじっとりと見やってきた。
ここには守衛と小姓の目もあったので、俺はアイ=ファの耳もとに口を寄せることにする。
「なんだよ? たとえフェルメスに抱きつかれたって、どうってことないだろ? あの人が俺に抱いてるのは恋情じゃないって、いつだったかもきっぱり言い切ってたんだからさ」
「……しかしそれは、恋情よりも強き執心なのではないだろうか?」
アイ=ファは、そのように囁き返してきた。
俺はこっそり呼吸を整え、とっておきの言葉を口にする。
「それがどんな執心だろうと、俺がアイ=ファに抱く執心にはかなわないさ」
予想に違わず、アイ=ファは電光石火の反射速度で俺の頭を引っぱたいてきた。
ルド=ルウたちは目を丸くしていたが、俺としては満足な結果である。俺はべつだん、冗談や軽口でそんな言葉を口にしたわけではないのだ。
(俺は『星無き民』である前に、森辺の民であるファの家のアスタだ。その思いが揺るがない限り、フェルメスが何をどんな風に考えたって、悪い結果にはなりっこないさ)
俺はほとんど直観で、そのように考えていたのだった。
おそらくフェルメスは、余人には想像もつかないほどの強烈さで、『星無き民』である俺の存在に執着している。それはきっとアイ=ファが言う通り、生半可な恋情よりもなお強くて激しい気持ちであるのだろう。フェルメスがときおり見せる、不思議な眼差し――あの、俺の魂を吸い込むような眼差しこそが、その証左であるのだろうと思うのだ。
だけど俺は、現在の生活を何よりもかけがえのないものだと考えている。天の神々がどのような思惑で俺に第2の人生を与えてくれたのかはわからないが、俺は全身全霊で現在の生を――アイ=ファとともに生きるこの生を、大事に、愛おしく思っているのだ。
だから俺は、フェルメスの執心に呑み込まれたりはしない。
そんな気持ちの一番根っこの部分を支えてくれているのが、このアイ=ファの存在であるのだった。
「……いいからお前は、とっとと自分の仕事に戻るがいい」
アイ=ファは俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら、扉のほうに追いやってきた。
その指先から感じられる体温や、痛みとすれすれの力強い感触を心地好く感じながら、俺は笑顔で「了解」と答えてみせた。