エピローグ~別れの刻限~
2020.3/22 更新分 2/2
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
そして――別れの刻限であった。
シュミラル=リリンやラダジッドたちとともに、心尽くしの宴料理を堪能し、たくさんの人々と絆を深め、横笛の音色とともに歌い、踊り、リコたちによる別の劇もお披露目されて――あっという間に、幸福な時間は過ぎ去っていった。
「それじゃあ、元気でね! 無事に戻ってくる日を楽しみにしてるよ!」
「たとえ森辺を離れようとも、森辺の民としての誇りを忘れるのではないぞ。……まあ、お前であれば心配はなかろうがな」
「シュミラル=リリンを、どうぞよろしくお願いいたしますよ。あなたがたのご無事も、森と四大神に祈っておりますのでねえ」
ルウの眷族の人々は、シュミラル=リリンやラダジッドたちにそんな言葉をかけてから、それぞれの集落に戻っていった。
荷車の数には限りがあるので、遠い家の老人や幼子から優先して運ばれていく。それ以外の人々は徒歩でのんびり帰路を辿りつつ、逆戻りしてきた荷車と出くわすことができたら同乗させてもらうという、そんな手はずになっていた。
そうしてルウの人々はそれぞれの家に戻り、今宵はこの場所で休ませてもらうというリコたちも荷車に引っ込むと、広場の片隅には燭台を掲げたリリン本家の人々と、《銀の壺》の面々と、そして俺とアイ=ファだけが残されることになった。
「この後は、朝までリリンの家で過ごすのですね」
俺の言葉に、シュミラル=リリンは「はい」とうなずいた。
「《銀の壺》のトトス、1頭、借り受けたので、明朝、日の出とともに、《玄翁亭》、目指します」
《銀の壺》は、夜明けとともにジェノスを出立する。それでも最後の1秒まで家族とともに過ごすために、シュミラル=リリンは朝までリリン家で過ごすのだろう。
長兄と手をつないだギラン=リリンと、長姉を胸に抱いたウル・レイ=リリンは、とても穏やかに微笑んでいた。
シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンも、同じように微笑んでいる。今日まで同じ家で過ごしてきた彼らは、ずっとひそやかに覚悟を紡いでいたのだろう。その表情に、悲嘆や未練の色はなかった。
「……では、我々、出立します」
と――ラダジッドが、そのように発言した。
「皆、どうか、お元気で。シュミラル=リリン、必ず、無事、戻らせます」
「うむ。半年の後は、再会の祝宴を楽しみにしているぞ」
目もとに笑い皺を刻みながら、ギラン=リリンが鷹揚に応じた。
俺も笑顔で、ラダジッドたちを見返してみせる。
「旅の安全を祈っています。お戻りになられたら、とっておきのギバ料理で歓待させていただきますよ」
「はい。心より、楽しみ、しています」
ラダジッドは最後にふっと目を細めて、俺を見つめてきた。
「そして、アスタの無事、祈っています。アスタ、人生、目まぐるしいので、いささか心配です」
「あはは。こちらもみなさんと無事に再会できるように、心します」
「はい。それでは。……森辺の民、良き風、吹くこと、祈っています」
ラダジッドたちは2頭引きの荷車に乗り込み、ルウの集落を出ていった。
これで残るは、俺たちとリリンの人々のみである。
シュミラル=リリンは、とても優しい顔で俺に微笑みかけてきた。
「……アスタ、アイ=ファ、今日、ありがとうございました。この夜、かけがえのない、思い出です」
ついにこれで、最後の挨拶だ。俺の胸には数々の感情が渦巻いていたが、悲哀の念が表出してくる気配はない。俺は、心からの笑顔をシュミラル=リリンに返そうとした。
そのとき――サイレンのような泣き声が、突如として響きわたった。
俺たちは仰天して、泣き声のあがった方向に視線を転じる。
泣いているのは、5歳の長兄であった。
もっと幼い長姉は、母親の腕の中ですやすやと眠っていたのだ。長兄と手をつないでいたギラン=リリンは、微笑をこぼしながら地面に膝をついた。
「いきなり何を泣いているのだ。俺たちがシュミラルと別れの挨拶を交わすのは、明日の朝であるのだぞ?」
長兄は父親の手を振り払い、わんわんと泣き続けた。
ギラン=リリンの視線を受けて、シュミラル=リリンも長兄の前でひざまずく。とたんに長兄は、小さな腕でシュミラル=リリンの首もとを抱きすくめた。
「やっぱり、いっちゃやだー! どうしてシュミラルとはなればなれにならないといけないの!?」
「申し訳ありません。すべて、私、責任です」
シュミラル=リリンは銀色の睫毛を伏せて、長兄の小さな頭をそっと撫でた。
「ですが、私、必ず戻ります。それまで、家族、お願いします」
「やだ!」と長兄は言い張った。
「ぼくたちみんな、シュミラルがだいすきなのに! ヴィナ=ルウも、いもうとも、すごくかなしくなっちゃうよ! ぼくだって……シュミラルとずっといっしょにいたいよ!」
「申し訳ありません」と、シュミラル=リリンは繰り返した。
「森辺、離れる、私、我が儘です。私、自分、幸福のため、家族、苦しめる……申し訳ない、思います」
「でも……それを受け入れたのは、わたしたちだからねぇ……」
ヴィナ=ルウも膝をつき、長兄の小さな頭に手を置いた。
「わたしなんかより、幼いあなたのほうが、ずっとつらかったのでしょう……それでも今日まで涙をこらえていたのだから、あなたは立派よぉ……」
「……ヴィナ・ルウだって、かなしいでしょ?」
とめどもなく涙をこぼし、シュミラル=リリンの首もとに取りすがったまま、長兄はヴィナ・ルウ=リリンを振り返った。
ヴィナ・ルウ=リリンは、慈母のような表情で「そうねぇ……」と微笑む。
「悲しくないと言ったら、虚言になってしまうわぁ……でも、わたしはそれ以上に嬉しく思っているのよぉ……」
「……シュミラルがいなくなっちゃうのに、うれしいの?」
「ううん、そうじゃなくって……シュミラルと出会えたことが、嬉しいの……シュミラルと婚儀をあげて、リリンのあなたたちと家族になれたことが、とっても嬉しいのよぉ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは、長兄の額にこつんと自分の額を当てた。
「それに、もうひとつ……シュミラルが幸福でいられることが、嬉しいの……わたしも最初は、不安で不安でたまらなかったわぁ……伴侶と半年も離れて暮らすなんて、わたしみたいに弱い人間が本当に耐えられるのかしらって……でもねぇ……それがシュミラルの幸福なんだって考えたら、なんとか耐えられるようになったのよぉ……」
「…………そうなの?」
「うん、そうなの……シュミラルは、ありのままのわたしを愛していると言ってくれたわぁ……だからわたしも、ありのままのシュミラルを愛したい……それで、王国と王国の間をあちこち駆け巡るのが、ありのままのシュミラルであるのよぉ……その生活を打ち捨てたら、シュミラルはシュミラルでなくなってしまうかもしれない……そんなのは、あなたも嫌でしょう……?」
「うん……」
「それにね……わたしたちが離ればなれになるのはシュミラルひとりだけれど、シュミラルは家族や血族の全員と離ればなれになってしまうの……《銀の壺》の同胞とは一緒にいられるけれど、それだって9人だけでしょう……? わたしたちよりも、シュミラルのほうがずっと寂しいはずであるのよぉ……」
そのように語りながら、ヴィナ・ルウ=リリンはすうっとひと筋の涙をこぼした。
しかしその顔には、優しい微笑が宿されたままである。
「わたしも、すごく寂しいわぁ……でも、わたしにはあなたたちがいるもの……だから決して、つらくはないの……だからあなたも、シュミラルと離れて暮らす悲しさより、シュミラルと出会えた喜びを思って、一緒に生きていきましょう……?」
長兄はシュミラル=リリンの首を解放すると、そのままヴィナ・ルウ=リリンの首もとを抱きすくめた。
ヴィナ・ルウ=リリンはその小さな身体をぎゅっと抱きしめて、ゆっくり身を起こす。シュミラル=リリンも立ち上がると、ヴィナ・ルウ=リリンはそちらに向かって気恥ずかしそうに微笑んだ。
「ごめんなさい……涙を流さない自信はあったのだけど……」
「謝罪、不要です」
シュミラル=リリンも微笑みながら、ヴィナ・ルウ=リリンの頬を伝う透明のしずくを指先でぬぐった。
シュミラル=リリンの黒い瞳とヴィナ・ルウ=リリンの淡い色合いをした瞳が、正面からおたがいを見つめている。1年半の昔には、さまざまな不安を内包していたふたりの瞳であったが――この夜、そこに輝くのは、希望と喜びの光のみであった。
「……それでは、俺たちもそろそろ失礼しようかと思います」
俺がそのように呼びかけると、シュミラル=リリンは同じ表情でこちらを振り返った。
「アスタ。今日まで、ありがとうございました。感謝の思い、言葉、尽くせません」
「とんでもありません。俺のほうこそ、シュミラル=リリンには感謝の気持ちでいっぱいです」
俺は今度こそ、心からの笑顔を返してみせた。
目頭は熱くなっていたが、その熱がふわりと胸の奥深くにまで浸透していくのを感じる。俺の胸にあふれかえるのは、やはり悲しみではなく喜びと幸福感であった。
「俺もヴィナ・ルウ=リリンと同じように、シュミラル=リリンと出会えた喜びを噛みしめています。半年も会えないのは寂しい限りですが、でも、半年後には必ず再会できるんですもんね」
「はい、必ずです。私、必ず、無事、戻ります」
「ええ。俺たちも、森辺でシュミラル=リリンの帰りをお待ちしています」
1年半の昔にも、俺たちはこうして別れの挨拶を交わしていた。
だけどあのときの俺たちは、屋台の店主と常連客に過ぎなかった。ともに過ごした時間はひと月ていどであり、友人と呼んでいいのかもあやふやな間柄であったのだ。
だけど現在の俺たちは、森辺の同胞であり、かけがえのない友人であった。
得体の知れない出自である俺と、東の生まれであったシュミラル=リリンが、森辺の民として同胞を名乗ることが許されたのだ。
その不可思議な運命こそを、俺は何より祝福したかった。
「シュミラル=リリン、最後に手を握らせていただけませんか?」
「手、ですか?」
「はい。俺の故郷では、親愛の念を示すために、友人と手を握る習わしがあるのです。森辺の民となった俺たちには、不相応な行いであるかもしれませんけれど……」
シュミラル=リリンはやわらかく微笑んだまま、俺のほうに右手を差し出してきた。
俺は表情で御礼を告げながら、その手をぎゅっと握りしめる。
森辺の狩人として鍛えられた、硬い手の平である。
とても温かくて、とても力強い。
この温もりと、この優しい笑顔を、心に刻みつけておこう。
次に再会できる、その日まで。
「……アスタ、また、背、のびましたか?」
と――シュミラル=リリンが、ふいにそのようなことを言いだした。
俺は「はい」と笑ってみせる。
「なんとなく、今でもじわじわのびているように感じますね。まあ、俺ももうすぐ19歳ですので、そろそろ打ち止めだろうと思いますけれど」
「そうですか。背、だけでなく、逞しくなった、思います」
「あはは。毎日しっかりギバ料理を食べて、たゆまず働いておりますからね」
「はい。アスタ、力、惜しまない、知っています」
そのとき、驚くべきことが起きた。
シュミラル=リリンの黒い頬に、涙がこぼれ落ちたのだ。
「不遜、発言、許していただきたいのですが……アスタ、年少のため、弟のよう、感じること、あります。アスタ、成長、感慨深いのです。……傲慢ですね」
「傲慢だなんて、そんなことは決してありません」
俺の体内で綺麗に循環されていた熱が、ふいにキャパオーバーを起こして目もとにあふれかえった。
涙を流して微笑んでいるシュミラル=リリンの顔が、急速にぼやけていく。
「俺もついさっきまでは泣かない自信があったのに、シュミラル=リリンのおかげで台無しです」
「申し訳ありません。陳謝します」
冗談めかして言いながら、俺たちは涙に濡れた顔で笑い合った。
半年の後には、また変わらぬ気持ちで笑い合うことができるだろう。
そんな思いを胸に抱きながら、俺は大事な友人シュミラル=リリンとの別れを遂げることになったのだった。