銀の月の十四日③~思い出のよすが~
2020.3/18 更新分 1/1
そうして屋台の商売が再開されたのちも、俺はさまざまな人々から無事な帰りを祝われることになった。
モルガの山の一件については懇意にしている人々にしか通達していなかったのであるが、やはり人の口に戸はたてられないのだろう。また、俺は2日も屋台を休んでしまったので、事情を問い質してくるお客も少なくはなかったのだと、そのような報告もユン=スドラたちから受けていた。
それらのお客に入り混じり、もともと懇意にしている人々も多数、屋台を訪れてくれた。
最初に姿を現したのは、宿場町の民たるユーミと愉快な悪友たちである。ベンとカーゴとルイアも顔をそろえて、俺の復帰を喜んでくれた。
「まったく、モルガの山に踏み込むなんて、生命知らずだよなあ。あそこには、ギバより恐ろしい獣どもが潜んでるってんだろ?」
「ああ。俺の死んだじいさまなんかも、川から流れてきたマダラマの屍骸の馬鹿でかさに腰を抜かしたなんて言ってたなあ。そんな話を聞かされて以来、俺はちっぽけな蛇まで苦手になっちまったんだよ」
ベンとカーゴは、陽気に笑いながらそんな風に言いたてていた。
ドライカレーのポイタン巻きをかじりながら、ユーミも心から楽しそうに笑っている。
「でも、こうして元気な顔を見られて、よかったよ! しばらくは、無茶をしないでのんびり過ごしなよー?」
「うん、そのつもりだよ」
「あはは。そんなこと言って、アスタがのんびりしてる姿なんて、ろくに見たことがないような気がするけどねー!」
ユーミたちは、普段以上に元気いっぱいの様子であった。それだけ俺の無事な帰りを喜んでくれているのかと思うと、ありがたい限りである。
そののちに屋台を訪れてくれたのは、カミュア=ヨシュにレイトにザッシュマという《守護人》の一行であった。
「やあやあ、先日はお疲れ様。モルガの山では、あれこれ得難い体験をしたそうだねえ」
「はい。カミュアたちは昨日、ルティムの家を訪れたそうですね。好奇心は満たせましたか?」
「それはもう! ガズラン=ルティムの微に入り細を穿つ説明のおかげで、俺自身がモルガの山に踏み込んだような心地であったよ!」
そう言って、カミュア=ヨシュはにんまりと微笑んだ。
「聖域に客人として招かれるなんて、本当に羨ましい限りさ。それに、あのティアという娘が故郷に戻ることを許されて何よりだったね」
「はい。俺も心から、嬉しく思っています」
普段通りのとぼけた笑みを浮かべながら、カミュア=ヨシュの眼差しは優しかった。
カミュア=ヨシュぐらいの洞察力を持っていれば、俺やアイ=ファがティアにどれだけの思い入れを抱いていたかはお見通しであるのだろう。
「まあ、これで俺たちも心置きなく、ジェノスを離れられるよ。実は、俺もレイトもザッシュマも、明朝には出立する予定なんだ」
「え? そうだったのですか?」
「うん。ザッシュマとは別口の案件なんだけど、たまたま日取りがかぶってしまってね。食事の後は城下町で打ち合わせだから、ここでお別れの挨拶をさせていただくよ」
それは、ずいぶんと唐突な申し出であった。
しかしカミュア=ヨシュたちは、そうして大陸中を駆け巡るのが生業であるのだ。その内容が不定期であるぶん、《銀の壺》よりもいっそう気ままな生活であるはずだった。
「どうかみなさん、お気をつけて。ご無事なお帰りをお待ちしています」
彼らはジェノスを故郷としているわけではなかったが、俺としてはそのような言葉を口にするしかなかった。
「レイトもね。次に会える日を楽しみにしているよ」
「はい。……今後も《キミュスの尻尾亭》を、どうぞよろしくお願いいたします」
この銀の月で、レイトも13歳になっているはずだった。
彼もまた、この1年でずいぶん身長がのびたように感じられる。俺自身もいくらかは成長しているのであろうが、この年頃の少年の発育にかなうはずもなかった。
「それじゃあね。俺たちが戻ってくるまでに、今度はどんな楽しい騒ぎが巻き起こっているか、期待しているよ」
そんな言葉を残して、カミュア=ヨシュは立ち去っていった。
かつては《銀の壺》よりも長きの時間をジェノスから離れていたのに、あっさりしたものだ。
次に会えるのは何ヶ月後になるのか、それは誰にもわからない。
しかしそれでも、おたがいに生きてさえいれば、必ず再会できるはずだった。
そうして中天を過ぎる頃には、トゥランで働く建築屋の人々や、ドーラの親父さんたちも屋台を訪れて――最後のしめくくりとばかりに登場したのは、《銀の壺》の一行であった。
「いらっしゃいませ、ラダジッド。3日後の朝に、ジェノスを出立するそうですね」
「はい。慌ただしく、申し訳ありません」
「とんでもありません。慌ただしくなってしまったのは、こちらの都合でしょう? ……シュミラル=リリンにモルガの山まで同行していただけて、俺は本当に助かりました」
「はい。誰もが、無事に戻り、嬉しく思っています」
相変わらずの無表情ながら、ラダジッドの黒い瞳にはその内の真情がぞんぶんに示されていた。
「また、送別の祝宴、心より、嬉しく思っています。アスタ、参席、問題ないですか?」
「はい。俺もひと品、料理を作らせていただきますよ。当日は、どうぞよろしくお願いいたします」
シュミラル=リリンだけでなく、ラダジッドたちともこれで半年間のお別れとなってしまうのだ。
だけど俺は、異国の民たるラダジッドたちと絆を結べたことこそを喜ぶべきであるのだろう。カミュア=ヨシュたちや、バランのおやっさんたちや、《黒の風切り羽》や、デルスやワッズたちなども、それは同様だ。ジェノスがこれだけ栄えており、余所の領地との交易が盛んであったからこそ、俺たちは出会うことがかなったのである。俺は、その喜びを噛みしめたかった。
そうしてさまざまな人々と再会の挨拶を済ませたのち、屋台の商売は終了することになった。
復活祭を終えて、料理の数は適正な分量に戻したので、どの屋台もすべて完売である。初の勤務をやりとげたクルア=スンは、感じ入った様子で息をついていた。
「屋台の様子は復活祭の折に拝見していましたが、やはり自分が働くとなると、まったく様相が異なってくるようです。アスタたちは、毎日このような仕事を果たしているのですね」
「うん。仕事をひと通り覚えるまでは、クルア=スンにも毎日出勤してもらいたいんだけど。でも、無理はしないようにね」
「はい。力を尽くしたく思います」
俺はクルア=スンに笑いかけてから、ユン=スドラへと呼びかけた。
「ユン=スドラ、申し訳ないけど、屋台の返却をお願いできるかな? 馴染みの宿屋のご主人たちに、一言だけでもご挨拶をさせていただきたいんだよね」
「承知しました。《タントの恵み亭》に届ける料理は、どうしましょう?」
本日はカレーではなくドライカレーであったが、アリシュナに届ける分も確保しておいたのだ。これは、《タントの恵み亭》で働くヤンやシェイラにお願いをするのが通例であった。
「そっちにもご挨拶をしておきたいから、俺が受け持つよ。そんなに時間はかからないと思うけど、先に戻っていてかまわないからね」
「はい。お足もとには、お気をつけくださいね」
そうして俺たちは、別々に帰路を辿ることになった。
俺と同行するのは、レイ=マトゥア、マルフィラ=ナハム、クルア=スン、トゥール=ディン、リッドの女衆の5名となる。馴染みの宿屋には生鮮肉を届けるという仕事もあるので、もののついででクルア=スンを紹介させてもらうことにした。
《玄翁亭》、《西風亭》、《南の大樹亭》と、順番に宿屋を巡っていく。
ネイルは東の民めいた無表情で、サムスはぶっきらぼうに、シルは朗らかに、ナウディスは大らかに――それぞれの人柄に見合った形で、俺と再会の挨拶を交わしてくれた。
「……繰り言となってしまい恐縮なのですが、アスタは本当にさまざまな相手と絆を深めておられるのですね」
石の街道を歩みながら、クルア=スンはしみじみとつぶやいた。
荷台を昇り降りするのがしんどいので、俺も左肩にサチを乗せたまま、歩き通しである。そろそろ足腰が悲鳴をあげかけていたが、俺の心は温かい気持ちで満たされていた。
「でも、これは森辺のみんなでやりとげた結果だからね。最初に先導したのが俺だとしても、俺ひとりの力でこうまで交流を広げることはできなかったはずだよ」
「でも、アスタが森辺にいらしたのは、黄の月の終わり頃であったのでしょう? それで、家長会議の開かれた青の月には、もう屋台の商売で大きな富を築いていたというのですから……やはり、感服してしまいます」
「わたしも、同じように思います」と、トゥール=ディンがひかえめに発言をした。
「アスタは森辺にいらしてからふた月足らずで、家長会議を迎えることになったのですものね。それなのに、あれだけ堂々と自分の仕事を果たすことができるなんて……わたしも常々、アスタの行いには感服させられていました」
「それだって、みんなの力があってこそだよ。一番最初にアイ=ファに出会って、ルウの人たちとも懇意にさせてもらって、町ではカミュア=ヨシュやミラノ=マスやドーラの親父さんなんかに支えてもらって……それでようよう、俺も生きていくことができたんだ」
額の汗をぬぐいつつ、俺はそのように言ってみせた。
「そして今、俺に力を与えてくれているのは、ここにいるみんなだよ。俺たちはみんなで支え合いながら、同じ道を歩いているんだ。それだけは、どうか忘れないようにね」
「はい」とうなずきつつ、トゥール=ディンは目もとをぬぐった。
だけどその小さな顔に浮かぶのは、幸福そうな微笑みだ。涙もろい性格はそのままでも、トゥール=ディンも着実に成長しているのだった。
「あ、ここが《タントの恵み亭》だね。それじゃあ、また荷車をよろしくお願いするよ」
ギルルと荷車はマルフィラ=ナハムらに託し、俺はレイ=マトゥアとクルア=スンだけをともなって、《タントの恵み亭》に足を踏み入れた。
この時間、宿屋はどこも閑散としている。受付台に陣取っていた若い娘さんは、笑顔で「いらっしゃいませ」と立ち上がった。
「ヤン様にご面会ですね? ただいまお呼びしますので、少々お待ちください」
宿場町でも有数の規模を誇る《タントの恵み亭》は、従業員たちもきわめて折り目正しかった。主人のタパスは商会長でもあるので、領主たるサトゥラス伯爵家とも太いパイプを有しているのだ。
しばらくすると、厨に通ずる入り口から3名の人々が姿を現した。ヤン、ニコラ、シェイラと、全員がそろい踏みだ。
「おひさしぶりです、ヤン。今日はこちらにおいでだったのですね」
「はい。こちらでも菓子の献立を増やしたいという仰せであったので、料理番たちと意見を交わしておりました。……アスタ殿、ご無事なようで何よりです」
ヤンたちは、レイリス経由で先日の顛末を知らされているはずであった。
痩せていて皺の目立つヤンの顔に、とてもやわらかい微笑がたたえられている。
「ポルアース様も、心より安堵されていました。アスタ殿の生活が落ち着かれましたら、ゆっくり語らわせていただきたいと仰せです」
そんな風に言ってから、ヤンはクルア=スンのほうに視線を差し向けた。
「ところで……そちらは、新しい手伝いの御方でしょうか? 初めてお目にかかるように思います」
「はい。彼女はクルア=スンと申します。今後も顔をあわせる機会があるかと思いますので、よろしくお願いいたします」
俺の紹介を受けて、クルア=スンは深々と一礼した。
シェイラはお行儀よく、ニコラは仏頂面で、それぞれ礼を返す。それらの挨拶が済んでから、俺は料理の包みを持ってくれていたレイ=マトゥアを招き寄せた。
「こちらは、アリシュナにお届けしていただきたい料理となります。毎度のことで恐縮ですが、どうぞお願いいたします。……ただその前に、ヤンたちにも味見をお願いできますでしょうか?」
「味見? またぎばかれーに工夫を凝らしたのでしょうか?」
「はい。けっこう余分に準備してきましたので、みなさんがおそろいなのは僥倖でありました」
レイ=マトゥアは卓の上で包みをほどき、四角い重箱の蓋を取り去った。
普段は『ギバ・カレー』で満たされている重箱に、ドライカレーがぎっしりと詰め込まれている。別の段に焼きポイタンが準備されているのは、普段通りであった。
「これは、もしかして……ニコラが森辺の祝宴で口にしたという、水気のないかれーでありましょうか?」
「はい。森辺の同胞には、干からびたカレーと称されました」
レイ=マトゥアが俺の代理として手を清めさせていただき、人数分の料理をこしらえた。屋台で売っているのと同様のサイズである。
最後に仕上がった分を差し出されると、ニコラはうろんげに眉をひそめた。
「わたしはすでに口にしているのに、また味見をさせていただけるのですか?」
「はい。シャスカとポイタンでは印象も変わってくるかと思いますので、どうか食べ比べてみてください」
そうして3名は、それぞれドライカレーのポイタン巻きを口にすることになった。
こちらの料理は、常温でもそこまで味が落ちたりはしないはずだ。俺がそのように考えていると、シェイラがうっとりとした様子で声をあげた。
「これは……普通のかれーと同じような味わいでありながら、まったく異なる食べ心地なのですね。もちろん水気がないのですから、それが当然なのですけれど……」
「お気に召したでしょうか?」
「はい。とても美味だと思います。そして、普通のかれーとは異なる料理を食しているような心地です」
「そうですね」と、ヤンも静かな声で発言した。
「ずいぶんな昔に、かれーの具材を使った饅頭も味見をさせていただきましたが……それともまた、異なる印象であるようです。ただ水気がないだけではなく、細かく刻まれたギバの肉がこうまでふんだんに使われているのが、きわめて新鮮に感じられます」
「はい。味そのものに大きな違いはなくとも、食感で印象が違ってくるのでしょうね。個人的には、細かく刻んだ肉だけを使った普通のカレーというのも好ましく思っておりますよ」
「かれーというのは、こうまで多彩な顔を持つ料理であるのですね。またひとつ、得難い体験をさせていただきました」
そのように言いながら、ヤンはふっとニコラのほうに視線を飛ばした。
「若いあなたには、得るものもより多いでしょう。それらを自分の糧とできるように、励んでいただきたく思います」
ニコラは「はい」とだけ答えていた。
不機嫌そうな仏頂面にも、変わりはない。ただその瞳には、とても真剣な光が宿されていた。
「……そういえば、少し前にヴァルカス殿のお弟子らと言葉を交わす機会がありました」
ドライカレーのポイタン巻きを完食したのち、ヤンがそのように言い出した。
「若い男女連れで……たしか、ロイ殿にシリィ=ロウ嬢と申しましたか。城下町の野菜の問屋で、たまさか顔をあわせることになったのです」
「はい。彼らが何か?」
「ええ。言伝てを頼まれた――というわけではないのですが、もしもアスタ殿と顔をあわせる機会があれば伝えてほしいと願われました。ヴァルカス殿が、アスタ殿の料理を所望されているそうです」
そこでヤンは珍しく、苦笑っぽい表情を浮かべた。
「復活祭は終了したのに、アスタ殿はどうして城下町に来られないのかと――ロイ殿の言葉をお借りすると、落胆しつつ憤慨しているとのことです」
「憤慨ですか。しばらくはモルガの山の関連で慌ただしくなると、ロイたちにも伝えてあったのですが……」
「はい。それはロイ殿らも伝えた上での話であるようです」
確かにまあ、昨年は復活祭を終えてすぐに、城下町へと招集されることになったのだ。また、復活祭のさなかにも、バナームの食材の関連でヴァルカスと顔をあわせていたはずであった。
「いっぽうシリィ=ロウ嬢は、ヴァルカス殿は落胆も憤慨もしていないと仰っていたので、わたしにも確かなことはわかりかねます。ただ、ヴァルカス殿がアスタ殿にお会いしたがっているということは確かであるようですね」
「ああ、ヴァルカスというのは内心をはかりにくいお人でありますからね。でもまあ何となく、状況は理解できたように思います」
憤慨といっても、決して怒りをあらわにしているわけではないのだろう。また、俺に対して怒っているのではなく、俺と会えないやるせなさに気を立てているのだと信じたいところであった。
「ちょっと2日後に森辺の祝宴を控えていますので、それ以降だったらおうかがいすることもできるかと思うのですが……ヴァルカスにまで伝言をお願いするのは、さすがにご迷惑ですよね?」
「いえ。ちょうどポルアース様もアスタ殿と語らいたいと仰っているところですので、むしろそちら方面から働きかけていただくというのは如何でしょう? アスタ殿とヴァルカス殿をお屋敷に招くことがかなえば、わたしどもも嬉しく思います」
「ああ、そうしていただけると助かります。こちらも族長たちにおうかがいをたてさせていただきますね」
そんな会話を最後に、俺たちは《タントの恵み亭》を辞することになった。
マルフィラ=ナハムらと合流し、森辺への帰路を辿りながら、クルア=スンが不思議そうに問いかけてくる。
「アスタ。ヴァルカスという御方とは、何か悪縁でも生じているのでしょうか?」
「いやいや。どちらかというと、ヴァルカスは……俺の料理に執着しているために、早く会いたいと思ってくれてるんだと思うよ」
「そうなのですか。それでしたら、得心できます」
得心、できてしまうのか。
まあ、俺だって機会さえあれば、もっともっとヴァルカスの料理を口にして、本人とも絆を深めたいと願っているのだが――それとも少し、ニュアンスは異なっているように感じられた。
(それに、モルガの山の一件にまったく触れようともしないのが、ヴァルカスらしいよなあ。俺が《アムスホルンの息吹》で寝込んだときなんかは、たいそう心配してくれてたって話だけど……とにかく、感情の出方が普通とは違うんだろう)
何にせよ、ヴァルカスがそうまで俺との対面を望んでくれているというのは、ありがたい話であった。
そんな思いを胸に、俺は森辺の集落へと帰還することになった。
◇
ファの家に帰りつくと、すでに下ごしらえの仕事は完了していた。
ユン=スドラたちが到着した頃には、すでに後片付けが始められていたそうだ。その後の勉強会を速やかに開始できるように、下ごしらえの仕事は早めに終わらせるというのが、ここ数ヶ月の通例であった。
「でも、アスタはお身体がつらいでしょう? このような日に、勉強会を行ってくれるのでしょうか?」
心配そうに問いかけてくるユン=スドラに、俺は「うん」と笑顔を返してみせる。
「ただ、やっぱり足腰がしんどいんで、今日も座らせてもらおうかな。申し訳ないけど、また椅子代わりの薪を運んでくれるかい?」
「もちろんです!」と、ユン=スドラは破顔した。勉強会も3日ぶりとなるので、きっと心待ちにしてくれていたのだろう。他の女衆らも、のきなみ嬉しそうな表情になっていた。
椅子代わりの薪の束は、かまど小屋に汚れを持ち込まないように、大きな布にくるんだ上で運ばれる。その仕事を受け持ってくれたのは、力持ちのマルフィラ=ナハムであった。
「勉強会とは、つまり料理の手ほどきの時間ということですね?」
初参加であるクルア=スンに、俺は「そうだよ」と答えてみせた。
「屋台の商売は休日を含めると、6日で1周になるだろう? その日取りにあわせて、初日はファの家、2日目はルウの家、3日目は場所を問わずに俺個人の修練、っていう感じに割り振ってるんだ。だから、初日の今日はファの家で勉強会っていうことだね」
「なるほど。わたしもそれに参加させていただけるのでしょうか?」
「もちろん。賃金は発生しないけど、参加は自由だよ。ただ、個人的な修練の日はかなり専門的な内容になったりするから、あるていどの経験を積んだ人たちだけが参加しているね。最近だと、ユン=スドラとマルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアの3人に、ルウ家の何人かっていう感じかな」
そんな風に説明をしてから、俺はしばし思案する。
「今日は、どういう内容にしようかな……クルア=スンに、何か希望はあるかな?」
「いえ。新参のわたしなどはお気にかけず、どうぞアスタのお心のままにお決めください」
「いや、俺のやりたいことは個人の修練の日にやりつくすから、むしろ希望を出してほしいんだよ」
すると、クルア=スンは発育に恵まれた肢体をもじもじと揺すり始めた。また初のお披露目となる新鮮な仕草である。
「でしたら、その……最近では、スン家でも甘い菓子というものが取り沙汰され始めたので……その修練をさせていただけたら、とてもありがたく思うのですが……」
「へえ。スン家でも菓子を作り始めたんだね」
「はい。ですが……それは、わたしの願いが聞き届けられる格好で始められたことですので……その修練を求めるというのは、いっそう心苦しいのですが……」
クルア=スンの艶やかかつひそやかな美貌に羞恥の色がたちのぼり、それが身をよじる仕草と相まって、常にはない色香が発生したように感じられてしまった。これが15歳かと思うと、ちょっと末恐ろしいところである。
「それは興味深い話だね。クルア=スンは、どういうきっかけで甘い菓子に関心を持ったのかな?」
「はい。復活祭の夜に、わたしたちは町の人間の出す屋台でギバ料理を買い求めたのですが……そのときに、アロウの香りにつられて口にした菓子が、またとない味わいであったのです」
俺は思わず、トゥール=ディンと顔を見合わせてしまった。
トゥール=ディンは瞳を輝かせながら、クルア=スンのほうに身を寄せる。
「それはもしかしたら、生地までが淡いアロウの色合いをした饅頭ではありませんでしたか? 生地の中に、とろりとしたアロウの餡が詰まっている菓子です」
「ああ、はい。たぶんその菓子だと思いますけれど……トゥール=ディンもご存じだったのですか?」
「はい。あれは本当に、素晴らしい味わいの菓子でした」
それは、レマ=ゲイトが主人をつとめる《アロウのつぼみ亭》の屋台の菓子である。
トゥール=ディンの表情に呼応するように、クルア=スンも口をほころばせた。
「トゥール=ディンは菓子作りを得意としていて、城下町に呼ばれるほどという評判であったので、わたしはかねがね菓子というものに興味を抱いていたのです。それで、あの菓子を買い求めることになりました」
「なるほど。でも、それなら屋台でトゥール=ディンの菓子も食べてみればよかったのに」
俺がそのように口をはさむと、クルア=スンはまた頬を染めてしまった。
「トゥール=ディンはお忙しそうでしたし……それに、この何ヶ月かは顔をあわせる機会もなかったので……うかつに顔をあわせると、心を乱してしまうのではないかと危惧しました。実際に今日の朝も、ぶざまなところをお見せしてしまいましたし……」
そうして両名はおたがいに身をよじりながら、おたがいの姿を見つめ合うことになった。
すると、黙って話を聞いていたリッドの女衆が笑顔で発言する。
「では、この場でトゥール=ディンの菓子を口にすればいいと思います。わたしもそのアロウの菓子は口にしましたが、トゥール=ディンの菓子はまったく負けていないと思いますよ!」
「そうだね。それじゃあ今日は、菓子の勉強に取り組んでみよう」
ということで、食料庫からは砂糖やブレの実や果実などが運び込まれることになった。
トゥール=ディンに取り仕切り役をお願いして、なるべく複雑な手順と高価な食材を必要としない菓子を考案してもらう。こうして時には初心に立ち返るのも、かまど番にとっては必要な修練であるのだった。
そうしてかまど小屋が甘い香りに包まれて、それなりの時間が過ぎたのち――表から、ジルベの「ばうっ」という声が聞こえてきた。
嬉しそうな声であったので、きっとアイ=ファたちが帰ってきたのだろう。俺はちょうど手が空いていたところであったので、家長らの帰還を出迎えさせていただくことにした。
「おかえり、アイ=ファ。……あれ? リコたちも一緒だったんだね」
「はい。ちょうどそこで、アイ=ファと行きあったのです」
アイ=ファは背中に巨大なギバを担いでおり、リコたちは荷車を引いていた。ベルトンは御者台で頬杖をついており、トトスの手綱はヴァン=デイロが握っている。
「昨日は、ダイの家で過ごしたそうだね。衣装作りの調子はどうかな?」
「はい。それがちょうど完成したので、ファの家にお邪魔をさせていただこうと考えたのです。劇で披露する前に、アスタにご確認をお願いできますか?」
リコは荷台に向かい、アイ=ファは解体の間へと姿を消す。その間に、ジルベはブレイブたちにおかえりの挨拶をしていた。愛想のないサチは家に引っ込んだまま、出てくる気配もない。これが最近の、ファの家の日常であった。
やがてリコは、2体の傀儡を手に戻ってきた。
その出来栄えに、俺は「へえ」と感心する。
「これはまた、よくできてるね。こっちがバランのおやっさんで、こっちが髪の黒いシュミラル=リリンということだね?」
「はい。ただし、ご本人に似せることよりも、南の民や東の民らしい外見になることを心がけて作りました」
リコは傀儡の劇にさらなる彩りを添えるために、これらの傀儡の衣装を新調したのだった。
片方は、ずんぐりとした体格で、褐色の髪と髭をもしゃもしゃと生やしている。肌を表す顔の布はわずかにピンクがかった白色であり、目にはぽつんと緑色の瞳が点されていた。
もう片方は、黒い髪を長くのばして、深い褐色の顔に、横一文字の目が描かれている。首から下はマントを模した布に覆われて、てるてる坊主のような格好であった。
「なるほど。外套の丈を長くすることで、東の民らしい長身を表現しているわけだね。でも、これだと手足は動かさないってことなのかな?」
「はい。東の民は動作が少なくひっそりとしているので、むしろ手足は動かさないほうがそれらしく見えるように思います」
「なるほどなるほど。で、南の民のほうは服の下に詰め物をすることで、あのがっしりとした体格を表現してるわけか。うん、素晴らしい出来栄えだと思うよ」
南の民は眉に角度をつけることで、むすっとした表情が作られている。
いっぽう東の民は、他の傀儡がみんな丸い目をしているのに対して、横線の細い目をしていることが、ややユーモラスな無表情を演出しているように感じられた。
いかにもジャガルとシムの民らしい風貌だ。
そして俺は、そこにおやっさんとシュミラル=リリンの面影を重ねることも容易であった。
「これは、お披露目の日がますます楽しみだね。《銀の壺》の人たちも、すごく喜ぶと思うよ」
もともとリコたちは、この傀儡を使った『森辺のかまど番アスタ』を《銀の壺》の面々にお披露目するために、ジェノスに居残っていたのだった。そののちに、聖域における族長会議の開催が決定されて、その顛末を見届けたいという事情も重ねられたのだ。
「リコたちは、送別の祝宴で劇をお披露目するんだよね? その祝宴の日取りは、2日後に決定したそうだよ」
「あ、そうだったのですね。古くなった傀儡を作りかえる作業も同時に進めていたので、ずいぶんぎりぎりになってしまいました」
そこでリコは、いくぶん表情を改めた。
「ところで、アスタたちにもうひとつ見ていただきたいものがあるのですが……アイ=ファはお忙しいでしょうか?」
「ギバをさばくには、もう少し時間がかかると思うけど……おーい、アイ=ファ、ちょっと出てこられるかな?」
「しばし待て」という言葉から30秒ほどののち、アイ=ファは大きなざるを抱えて姿を現した。ざるの上には、ギバの臓物が山積みにされている。
「これより、水場で臓物を洗ってこようかと思う。私に何か用であるのか?」
「お忙しいところを申し訳ありません。こちらを見ていただきたいのです」
リコは腰に吊るしていた小さな袋から、何か赤いものを取り出した。
手の平にのせられたそれを目にして、俺とアイ=ファは息を呑む。
それは小さな、木彫りの人形であった。
ころんとした玉子のようなフォルムであるが、色の塗り分けできちんと人間の姿が表現されている。同じようなデザインで、俺はアイ=ファの人形を、アイ=ファは俺の人形を、かつてリコからプレゼントされていた。
そして、今回の人形は――問うまでもなく、ティアの姿をしていた。
髪も顔もくすんだ赤褐色で、瞳はガーネットのように明るくきらめいている。その身に纏っているのはファの家で買い与えたワンピースのような装束であり、頬にはきちんと黒い紋様まで再現されていた。
「リコ、これは……」
「はい。ご相談もせずに、勝手にこのようなものを作ってしまって申し訳ありません。ただ、モルガの山でどのような結果になるかもわからなかったので、事前にご相談することができなかったのです」
きゅっと表情を引き締めて、リコはそのように告げてきた。
「不要であれば、わたしが処分いたします。でも、もしもアスタたちが必要であるとお思いでしたら……受け取っていただきたく思います」
すると、御者台のベルトンが「へん」と鼻を鳴らした。
「聖域の民ってのは、友にも同胞にもなれねーってんだろ? だったら、そんな人形を思い出のよすがにする必要もないんじゃねーのかね」
「だから、不要だったら、わたしがきちんと処分するってば!」
強い口調でベルトンをたしなめてから、リコは心配そうに俺たちの姿を見比べた。
「如何でしょう? 聖域の民を模した人形を家に飾っても、王国の法に触れることはないかと思うのですが……」
「……ありがとう。すごく……すごく嬉しいよ」
不意打ちをくらってしまった俺は、涙がこぼれないように苦心しながら、そのように言ってみせた。
「俺は、受け取りたいと思う。……アイ=ファは、どうだろう?」
アイ=ファは、ぐっと唇を引き結んでいた。
それを見て、リコはいよいよ不安そうな面持ちになってしまったが――俺がアイ=ファの気持ちを見誤ることはなかった。
「……アイ=ファが怒ってるんじゃないかって、リコは心配してると思うぞ?」
「そう……か。何も怒ったりはしていないので……安心してもらいたい」
結んでいた唇を開く代わりに、アイ=ファは固くまぶたを閉ざした。
「心から、ありがたく思う。……私の手はギバの血で汚れているので、アスタが受け取るといい」
「うん、わかったよ。……リコ、本当にありがとう」
俺が手を差し出すと、リコはほっとした様子でティアの人形を渡してくれた。
つぶらな赤い瞳が、きょとんと俺を見返してくるかのようである。
俺もまた、涙をこらえるためにまぶたを閉ざすことになった。
「……リコよ。今日はいずこで夜を明かすか、もう決められているのか?」
俺がまぶたを閉ざしている間に、アイ=ファは低い声で問うた。
「いえ」と答えるリコの声を聞きながら、俺はゆっくりとまぶたを開く。
「今日でようやく傀儡作りの仕事を終えましたので、ザザかサウティの集落まで足をのばしてみようかと考えていましたが――」
「ならば、ファの家で夜を明かすがいい。アスタも、異存はあるまいな?」
「うん、もちろん。とっておきの晩餐で、おもてなしをさせていただくよ」
「ありがとうございます」と、リコは屈託なく微笑んだ。
しかし、何度でもお礼を言いたいのは、こちらの側である。
人形に思い出のよすがを求めるという行いが正しいことであるのか、俺にはわからない。
だけどそれでも――俺はこの手の小さな人形に、ティアの温もりを感じてやまなかった。