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異世界料理道  作者: EDA
第五十章 新たな出会いとしばしの別れ
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銀の月の十四日②~帰還の挨拶~

2020.3/17 更新分 1/1

「……さきほどは取り乱してしまって、申し訳ありませんでした」


 ルウの集落へと向かう荷車の中で、クルア=スンはそのように言いたててきた。

 切れ長の目もとをわずかに赤くして、ちょっと恥ずかしそうな表情である。そんな表情も、新鮮で魅力的だった。


「トゥール=ディンとはたびたび顔をあわせていたのですが、あまりしっかりと言葉を交わす機会がなくて……ついつい気持ちが昂ってしまったのです」


「たびたび顔をあわせていたのかい? 復活祭では声をかけられなかったって、さっき言ってたよね」


「はい。ですが、トゥール=ディンは北の集落に向かう際、スンの集落にも立ち寄ってくれていましたし……前回の家長会議や、アスタとともに料理の手ほどきをしてくれたときなどでも……」


 しかし、家長会議などは半年前の話であるし、料理の手ほどきなどは1年近く前となる。そんな話を引っ張り出さなくてはならないぐらい、疎遠であったのだろう。


「何にせよ、再会できて何よりだったね。それなのに、別々の荷車でよかったのかい?」


「はい。トゥール=ディンの顔を見ていたら、また涙を流してしまいそうだったので……仕事の前に、気持ちを落ち着かせたかったのです」


 そんな風に言ってから、クルア=スンはちょっとすがるような眼差しで俺を見つめてきた。


「それで、このようなことを申し出るのは、きわめて心苦しいのですが……帰りには、トゥール=ディンと同じ荷車に乗ることを許していただけますでしょうか……?」


「もちろんさ。せっかくなんだから、ぞんぶんに再会の喜びを味わいなよ」


 クルア=スンは、はにかむように微笑んだ。

 大人っぽさと子供っぽさの入り混じった、これまた魅力的な笑顔である。彼女は俺が想像していた以上に、多面的な人柄を有しているようだった。


「ク、ク、クルア=スンは、とても調理の手際がいいのです。と、と、ともに働ける日を、わたしも心待ちにしていました」


 と、マルフィラ=ナハムが細長い首をのばしながら、そのように告げてきた。その顔には、ふにゃっとした笑みが浮かべられている。


「そっか。スン家の人たちがラヴィッツの家で手ほどきされるときは、マルフィラ=ナハムが取り仕切る機会もあったわけだね」


「い、い、いえ。わ、わたしは屋台の仕事が休みである日ぐらいしか、そちらに加わることはできなかったのですが……で、でも、クルア=スンのことは印象に残っていたのです」


「そのように言っていただくことができて、光栄です。……ですが、スン家においてはマルフィラ=ナハムの存在こそ、大きく取り沙汰されていました」


「え? わ、わ、わたしのことがですか?」


「はい。ラヴィッツの血族の中でも、マルフィラ=ナハムの手並みは際立っていましたので……まるで魔法のようだと、誰もが感嘆していたのです」


「そ、そ、それはこちらこそ光栄です。わ、わたしなどは、そんな大した人間でもないのですが……」


 普段通りの謙虚さを発揮しつつ、マルフィラ=ナハムは何やら楽しげな様子であった。かまど番として賞賛されたことよりも、クルア=スンとの再会を喜んでいる様子である。スンの血族が他に存在しないこの場において、トゥール=ディンやマルフィラ=ナハムとあらかじめ絆が結ばれているのなら、クルア=スンにとって幸いなことであった。


「ところで、ひとつお聞きしたいことがあるのですが……」


 と、クルア=スンが俺に向きなおってきた。

 その銀色がかった灰色の瞳は、俺の足もとに向けられている。


「その小さな獣は、何なのでしょう? 森辺では見たことのない獣であるようですが……」


「ああ、これはシムの猫という獣で、名前はサチだよ。紫の月の終わりぐらいに、ファの家の家人に迎えることになったんだけど、そういう話は伝達されていなかったかな?」


 自分の名前を呼ばれたためか、俺の足もとで丸くなっていたサチが片目を開けてクルア=スンを見返した。

 クルア=スンは立てた指先をほっそりとした下顎にあてがいつつ、「ええと……」と考え込む。


「そういえば……そのような話も聞かされたような……申し訳ありません。復活祭の期間は、こちらも何かと慌ただしかったもので……それにその後は、すぐに聖域についてのことが取り沙汰されるようになっていましたし……」


「何も謝る必要はないよ。商売の間はずっと木の上で寝てるばかりだけど、どうぞよろしくね」


 アイ=ファが宿場町に下りなくなってから、サチはそのようにして日中の時間を過ごしているのである。それならわざわざ同行する甲斐もないように思えるのだが、サチにとっては俺にひっついて宿場町に下りるのが日課となっているようだった。

 クルア=スンはしばらくサチの姿を見つめてから、上目づかいに俺を見やってくる。


「あの……わたしがサチに触れることは許されますでしょうか?」


「え? ああ、うん。仕事の前には手を洗ってもらうから、別にかまわないよ。ただ、無理に触ろうとすると引っかかれちゃうから、気をつけてね」


「承知いたしました」と、クルア=スンはそろそろとサチのほうに手をのばした。

 その指先が、サチの首筋にそっと触れる。

 そうしてクルア=スンがやわらかく首筋を撫で始めると、サチは「悪くない」とばかりに咽喉を鳴らした。


「愛らしいですね……まるで、生まれたての赤子であるかのようです」


「あはは。こう見えて、けっこう気性が荒いんだけどね。でも、クルア=スンのことは気に入ったみたいだ」


「そうだとしたら、心より嬉しく思います」


 そうして和やかな会話が紡がれる中、荷車はルウの集落を経て、宿場町を目指す。

 やがて《キミュスの尻尾亭》に到着したことが御者台のユン=スドラから告げられると、レイ=マトゥアがぴょこりと立ち上がった。


「では、屋台を借りてきますね! どうぞアスタは、そのまま身を休めていてください!」


「うん、ありがとう。でも、ミラノ=マスたちに挨拶をしておきたいから、俺もいったん下に降りるよ」


 が、俺にとってもっとも難儀であるのは、座った状態から立ち上がる作業であった。これがなかなかに、足腰への負担が大きいのだ。


「ア、ア、アスタ。よ、よろしければ、こちらをどうぞ」


 マルフィラ=ナハムの言葉とともに、黒いグリギの棒の先端がにゅうっと鼻先に突き出されてくる。

 俺が両手でそれをつかむと、想像以上の力強さで身体を引っ張り上げられることになった。


「ありがとう。マルフィラ=ナハムは、本当に力持ちなんだね」


「お、お、お恥ずかしい限りです」


 マルフィラ=ナハムはふにゃふにゃと笑いながら、用済みとなったグリギの棒を木箱の脇に戻す。当初はぎこちなさの残されていた彼女の笑顔も、復活祭を経たぐらいから、ずいぶんやわらかさを増してきたように感じられた。


 御者台の脇まで歩を進めた俺は、いったん腰を下ろしてから両足を地面に垂らし、なるべく衝撃を抑えられるように両腕で体重を支えつつ、そっと着地する。まるきりご老体のような所作であるが、いったん地面に下りてしまえば、移動に不自由はなかった。


「どうも、ご無沙汰しております」


 と、俺が《キミュスの尻尾亭》の扉をくぐると――受付台に座していたミラノ=マスが、椅子を蹴って立ち上がった。

 そうしてのしのしと近づいてくると、張り詰めた面持ちで俺の両肩をわしづかみにしてくる。きつく寄せられた眉の下で、ミラノ=マスの瞳にはさまざまな感情が渦巻いていた。


「この馬鹿者が、心配をかけおって……身体のほうは、もう大丈夫なのか?」


「はい。ご心配をかけてしまい、本当に申し訳ありませんでした」


 俺たちの安否に関しては、モルガの山から戻った当日に、ルウ家の人々から伝えられているはずであった。というか、本当は俺自身がその役を果たしたかったのであるが、足腰が立たなかったために、伝言をお願いすることになったのである。


「慣れない山歩きで足腰を痛めてしまいましたが、もう大丈夫です。今日からまた、よろしくお願いいたしますね」


「まったく……モルガの山なんぞに踏み込むから、そのような目にあってしまうのだ」


 憤懣やるかたない様子でミラノ=マスが言い捨てたとき、2階の客室から降りてきたテリア=マスが「まあ」と声をあげた。


「アスタ、よくぞご無事で……町に下りられないほど身体を痛めてしまったと聞いて、とても案じていました」


「テリア=マスも、申し訳ありませんでした。ご覧の通り、俺は元気です」


「ええ、本当によかったです。ルウ家の方々から連絡をいただいて以来、父さんもすっかりふさいでしまっていて……」


「おい、余計なことを言うな」


「だって、アスタの家に見舞いに行くべきかどうかって、最後まで悩んでいたじゃない」


 テリア=マスは微笑みながら、手の甲で目もとをぬぐった。


「アスタの元気なお姿を見て、わたしもほっといたしました。本当にもう、身体のほうはよろしいのですか?」


「はい。まだ走ったりはできませんが、すっかり元気です」


 まだ俺の肩をつかんだままであったミラノ=マスは、ぐっと顔を近づけてきた。


「決して無理をするのではないぞ。若いからといって無茶をすれば、取り返しのつかぬことにもなりかねないのだからな」


「はい。ご忠告は、胸に刻みます」


 なんだかあまりにミラノ=マスが真剣なものだから、俺まで涙ぐみそうになってしまった。

 宿場町の人々にとって、モルガの山に踏み込むというのは、それだけとんでもない話であったのだ。族長会議に参席する旨を告げたときも、ミラノ=マスは「本当に危険はないのか?」と誰よりも俺の身を案じてくれていたのだった。


 そうしてマス家の父子に別れを告げて、表のほうに戻ってみると、今度はレビとラーズが待ち受けている。

 俺の姿を発見するなり、レビは「よお!」と顔を輝かせた。


「ようやく会えたな、アスタ! ミラノ=マスも、喜んでたろ?」


 レビは小走りで近づいてくると、俺の目の前で両腕を広げた。

 が、途中で動きを停止させると、照れ隠しのように頭をかき始める。


「なんか、乱暴に扱ったら倒れちまいそうな感じだな。足もと以外は、元気そうだけどよ」


「あはは。レビはなかなか理性的だね」


「なんだよ。小難しい言葉を使うなって」


 レビは笑いながら、俺の肩をぽんと叩いてきた。

 杖をついてゆっくりと歩いてきたラーズも、とても温かい笑みを浮かべてくれている。


「3日ぶりでございますね、アスタ。みなさん、アスタのことを案じておられましたよ」


「はい、ありがとうございます。みなさんのお気持ちを、心からありがたく思っています」


 本当に、誰も彼もがこれほどまでに俺などのことを気づかってくれて、俺は胸が詰まる思いであった。

 そうして俺が再会の挨拶をしている間に、レイ=マトゥアたちがガラゴロと屋台を運んでくる。俺は片足の不自由なラーズと並んで、のんびりと露店区域を目指すことになった。


「やあ、アスタ! ようやく姿を見せてくれたね!」


 露店区域に差しかかると、今度はドーラの親父さんとターラが店から飛び出してくる。

 親父さんは満面の笑みであり、ターラはおずおずと俺に取りすがってきた。


「アスタおにいちゃん、大丈夫? 足、痛くない?」


「うん。こうして歩けるぐらいには回復してきたよ。心配かけちゃって、ごめんね」


 俺が頭を撫でてあげると、ターラは嬉しそうに笑みを広げた。

 それからふいに「あーっ!」と声を張り上げて、俺から飛び離れる。


「ごめんなさい! ターラはもう10歳になったから、森辺の男のひとにさわっちゃいけないんだよね?」


「ああ、そっか。ターラももうそんな年齢になったんだねえ」


 出会った頃のターラは、リミ=ルウと同じく8歳であった。それから1年と7ヶ月ばかりが経ち、2度目の銀の月を迎えることによって、リミ=ルウよりもひと足早く10歳となってしまったのだ。


 10歳といえば、出会った当時のトゥール=ディンと同い年ということになる。そのように意識してみると、やっぱりターラも相応に背がのびて、幼女から少女へと成長を果たしているように感じられた。


「とにかく、無事で何よりだったよ。野人はともかく、マダラマの大蛇やらヴァルブの狼やらがアスタたちに悪さをするんじゃないかって、気が気じゃなかったからさ」


 そんな風に言いながら、親父さんはテリア=マスよりはっきりと涙目になっていた。情感の豊かさでは、うら若き女性にも負けない親父さんであるのだ。


「さ、引き留めちまって悪かったね。あとで屋台のほうにも顔を出すからさ。そのうちゆっくり、モルガの山についても聞かせておくれよ」


「はい。ご来店をお待ちしています」


 俺たちが歩を再開させると、レイ=マトゥアと一緒に屋台を押していたクルア=スンが呼びかけてきた。


「アスタはこれほどまでに、町の人々と確かな絆を結んでいるのですね。まるで、誰もが同胞であるかのようです」


「うん。同じ西方神の子っていう意味では、まぎれもない同胞だからね。それに、みなさんとはもう長きにわたってのおつきあいだからさ」


「……スン家の人間はようやく森辺の民としての正しき道を歩み始めたところですので、なかなかそこまで気を回すこともできませんでしたが……今後は西方神の子としての自覚を持てるように、励みたく思います」


「そうだね。きっと屋台の商売を手伝うことが、その助けになるはずだよ」


 そうして露店区域の北端のスペースに到着すると、そちらでは歓声が巻き起こることになった。

 屋台の開始を待ちわびていた、20名ていどの人々である。屋台を押さずに手ぶらで歩いていた俺は、それらの人々に四方を囲まれてしまった。


「やっと顔を見せたな! あんまり心配させるんじゃねえよ!」


「今回は、モルガの山まで出向いてたんだって? まったく、危ない真似をしやがるなあ」


「でも、元気そうで何よりだったよ! 今日からまた、よろしく頼むぜ?」


 復活祭のためにジェノスを訪れていた人々は、おおよそが出立した後である。よって、その場に集まった人々の過半数は、ジェノス在住の領民であるようだった。

 ただし、復活祭の後にジェノスへとやってきた人々もいなくはない。そういった人々は、いったい何が起きたのかと目を丸くしながら、この騒ぎを見守っている様子であった。


 俺はいっそう温かい気持ちを抱きながら、人々に御礼の言葉を返し、屋台のほうに移動させてもらう。そちらでは、レイ=マトゥアの指導でクルア=スンが屋台の設置に取り組んでいた。


「ごめんね、まかせきりにしちゃって。何も問題はなかったかな?」


「もちろんです! こういったときのために、わたしはアスタの手伝いを志願したのですからね!」


 にこにこと笑いながら、レイ=マトゥアはクルア=スンへの説明を再開する。すでに屋台には鉄鍋が設置されており、現在は火鉢に火を灯しているさなかであった。


 ここはレイ=マトゥアの指導に任せるべきかと思い、俺は一歩離れたところからその姿を見物させていただく。

 すると、ルウ家の屋台のほうからレイナ=ルウが近づいてきた。


「アスタ、お忙しいところを申し訳ありません。ちょっとお話があるのですが、よろしいでしょうか?」


 レイナ=ルウとはモルガの山から戻った当日に顔をあわせていたので、平常モードであった。


「うん、こっちは大丈夫だよ。何かあったのかな?」


「いえ、屋台の商売とは関係ないのですが……《銀の壺》の送別の祝宴の日取りが、決定されたのです。ラダジッドたちがやってくる前に、お伝えしたほうがいいかと思いまして……」


 それは、2日前にも軽く聞かされていた話であった。シュミラル=リリンも無事に戻ることがかなったので、休業日である昨日のうちに日取りを決めるつもりであると告げられていたのだ。


「祝宴は、明後日の16日に定められました。アスタとアイ=ファをお招きしたいという話なのですが、問題はないでしょうか?」


「明後日か。……うん、俺たちのほうは大丈夫だよ」


《銀の壺》は、すでにジェノスにおける商売をあらかた終えていたのだ。もともと10日前後には出立する予定であったという話なので、シュミラル=リリンがモルガの山まで出向いていなければ、もっと早くに出立の日取りが定められていたのだろう。


「……ティアと別れたばかりなのに、今度はシュミラル=リリンと別れることになってしまい、アスタはとてもおつらいのでしょうね」


 レイナ=ルウは、とても心配そうなお顔になってしまっていた。

 俺は自分を奮い立たせて、「大丈夫だよ」と笑ってみせる。


「シュミラル=リリンたちとは、半年後に再会できるんだからね。それに、伴侶であるヴィナ・ルウ=リリンに比べたら、どうってことないさ」


 レイナ=ルウはしばらく俺の顔を見つめてから、にこりと微笑んだ。


「アスタは、お強いですね。……では、失礼いたします。転んだりしないようにお気をつけください」


「うん、ありがとう」


 レイナ=ルウの後ろ姿を見送りつつ、俺は大きく息を吸い込んだ。

 大丈夫だ。

 ティアとの別れから生じた悲しみは、まだまだ俺の心の奥深くに根を張ってしまっているが、それで気持ちがふさいだりはしない。

 俺とアイ=ファは、悲しみではなく希望を胸に生きていくと決めたのだ。たとえそこに、シュミラル=リリンとの別れが重なろうとも――決してくじけたりはしなかった。


「アスタ、準備が整いました」と、レイ=マトゥアからの報告が届けられる。

 俺は気合を入れ直して、そちらに向きなおることになった。


「了解。それじゃあ料理が温まるまで、待機だね。その間に、仕事の説明を進めておこう」


 まず新人が受け持つべきは、注文の受付と銅貨のやりとりである。

 これらの指導は引き続き、レイ=マトゥアにお願いすることにした。


「こちらの料理は赤銅貨2枚ですので、個数に応じた銅貨を受け取ってください。いっぺんにいくつも買うお客が多いので、銅貨を数え間違えないようにお気をつけくださいね」


「はい。ひとりで同じ料理をいくつも買いつけるのでしょうか?」


「ええ。たいていのお客は家族や仕事仲間と一緒にやってくるので、それぞれ手分けをして屋台に並ぶわけですね。多いときには、5名分や6名分を買っていくお客もいるぐらいですよ」


 ファの家の手伝いでは最年少たるレイ=マトゥアも、教育係としての不備は見られなかった。もともと機転がきく上に、性格が溌剌としているものだから、教育係としての適性が高いのだ。


 そうしてレイ=マトゥアの説明が終わる頃には、鉄鍋の具材もほどよく温まっていた。

 他の屋台はまだ準備が完了していないようなので、さらなる指導と試食に取りかかることにする。


「それじゃあ、料理を作ってみせるね。完成品は、クルア=スンに試食をしていただくよ」


「え? 仕事のさなかに、料理を口にしてよろしいのでしょうか?」


「うん。自分がどんなものを売っているのか、把握してもらいたいからさ。新人さんには、いつも商売を始める前に試食をしてもらっているんだ」


そのように説明しつつ、俺はレイ=マトゥアに向きなおった。


「それじゃあ、調理もレイ=マトゥアにお願いしていいかな?」


「はい! こちらのれーどるで、具材を2杯ですよね?」


 意気揚々と、レイ=マトゥアは金属製のレードルを取り上げた。

 鉄鍋で温められているのは、ドライカレーである。本日から、こちらも日替わりメニューの枠でお試し販売を開始することに決めたのだ。


 とろ火で温められている具材をざくざくとかき混ぜて、熱々の部分をすくい取ったレイ=マトゥアは、それを小さくて丸いポイタンの生地で包み込む。さらにクレープのように折り込めば、もう完成だ。


「はい、これで出来上がりです。クルア=スン、どうぞ」


「はい。ありがとうございます」


 カレーを食した経験はないという話であったが、クルア=スンは恐れげもなくドライカレーのポイタン巻きを口に運んだ。

 艶やかな唇が開かれて、白い前歯がひかえめに生地をかじり取る。

 そうして料理を咀嚼するなり、クルア=スンはほうっと息をついた。


「これは、鮮烈な味ですね……香りから想像していたよりも、遥かに複雑で豊潤な味であるように感じられます」


 クルア=スンはうっとりと目を細めながら、ふた口目を口にした。

 香辛料の効果であろうか、褐色の頬や目もとがうっすらと赤らんでいく。なおかつ、カレーの油分で唇がきらめき、いっそうの艶やかさをかもし出していた。


「うわあ……なんだか、色っぽいですねえ。15歳とは思えないほどです」


 レイ=マトゥアが直截的な感想を言いたてると、クルア=スンは不思議そうにそちらを振り返った。


「そうでしょうか? そのような言葉をかけられたのは、初めてです」


「それはまあ、男衆が女衆を褒めそやすのは習わしにそぐわないことですからね! でもきっと、スン家でもたくさんの男衆がそう思ってると思いますよー?」


 クルア=スンは、艶めかしさとひそやかさの混在する表情で微笑んだ。


「そうだとしても、スン家の人間は血族の間で婚儀をあげることを差し控えています。すべての人間が血族同士で婚儀をあげてしまうと、他の氏族と血の縁を結ぶ道が絶たれてしまいますので……」


「ああ、なるほど! でも、クルア=スンだったら、余所の氏族からもすぐに婚儀を願われると思いますよ!」


 レイ=マトゥアは、屈託のない笑顔でそのように発言した。


「そういえば、そろそろそちらでは収穫祭が行われるのでしょう? ミームの御方から、そのように聞きました!」


「はい。ミームとスンとラヴィッツの血族で、合同の収穫祭が行われる予定です。なにぶん初めてのことですので、誰もが不安を抱いているようですが……」


「きっと素晴らしい収穫祭になりますよ! ねえ、アスタ?」


「うん。それは楽しみなところだね」


 あの頑迷なるデイ=ラヴィッツも、ついに合同収穫祭の開催を決断したという話なのである。

 とはいえ、ラヴィッツの近在には、ラッツの眷族たるミームと眷族のないスンぐらいしか家が存在しない。ラヴィッツにはナハムとヴィンという眷族があるので、過半数はラヴィッツの血族に占められるのだった。


「まあ、その話はいずれゆっくりとさせていただくとして……調理の手順も、難しくはなかっただろう? 余裕があれば、クルア=スンにも調理を手掛けてもらいたいから、俺やレイ=マトゥアの手際をよく観察しておいてね」


「はい。承知いたしました」


 怯むことも昂ることもなく、クルア=スンはひとつうなずいた。

 何事にも動じない沈着さというのは、屋台の商売において大事な適性であろう。レイ=マトゥアやマルフィラ=ナハムのように突出した部分は感じられないが、それでも心強いばかりであった。


 そうして俺にとっては3日ぶりとなる屋台の商売が、今日も賑々しく開始されたのだった。

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― 新着の感想 ―
[一言] アスタも筋肉痛でこんなに皆さんに心配かけた事を反省して少しは鍛え直すべきじゃないかな?  先生役なら山ほど立候補がありそうだし(@_@)
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