銀の月の十四日①~新たな出会い~
2020.3/16 更新分 2/2
ティアとの別れを果たしてから、2日目――銀の月の14日である。
昨日はたまたま休業日であったので、俺にとっては本日が屋台の商売の再開の日であった。
幸いなことに、俺の足腰のダメージはだいぶん回復してきていた。昨日などはけっきょく、薪の束を椅子代わりとして、下ごしらえの仕事に参加することになったのだ。
もちろん今日とて、それらのダメージが全快したわけではない。腰から下の関節と筋肉には鈍い痛みが残されているし、足の裏のつぶれたマメも、ずきずきと痛んでいる。なんとか人並みに歩くことは可能になったが、荷運びや駆け足などはまだまだ難しい、といったていどの回復具合であった。
「でも、屋台で商売をするのに不自由はないからね。みんなの迷惑にならないように心がけるので、どうかよろしくお願いするよ」
その日の朝、ファの家のかまど小屋に集まってくれた人々に向かって、俺はそのように告げてみせた。
まだ始業時間には至っていなかったが、その場には8割方のメンバーが集まってくれている。その中で、ユン=スドラが心配そうに呼びかけてきた。
「本当に大丈夫なのですか? よろしければ、今日もわたしが取り仕切り役をお引き受けしますけれど……」
「いや、大丈夫だよ。ただ、荷運びもできないんじゃあ戦力半減だからね。その分は、誰か手空きの女衆に手伝いをお願いしようと考えているよ」
ユン=スドラたちを安心させるべく、俺は明るく笑ってみせた。
「これでもう、3日も宿場町に下りてないからさ。あんまり休むと、馴染みの人たちを心配させちゃうだろうし……俺も身体を動かしたい気分なんだよね」
「それは、わかります。腰から上は元気なのに、ずっと家に閉じこもっていたら、気がふさいでしまいますものね」
下ごしらえの準備を進めながら、レイ=マトゥアはそんな風に言ってくれた。
「わかりました! 今日はわたしが、アスタの手足となりましょう! ……あ、わたしなんかにアスタの手の代わりはつとまりませんよね。とにかく、アスタが不自由なく働けるように、わたしが支えになりたく思います!」
「ありがとう。レイ=マトゥアにそう言ってもらえたら、すごく心強いよ」
そのとき、新たな荷車が近づいてくる気配がした。今日の当番である残りの面々が、到着したのだろう。
だが、なかなかかまど小屋に姿を現さない。どうやら表で薪割りをしていたアイ=ファと、何やら語らっている様子だ。
「……アスタよ、この者たちが、お前に願いたい話があるそうだ」
しばらくして、アイ=ファ自身がかまど小屋にやってきた。
マルフィラ=ナハムに、ラヴィッツの女衆、それにミームの女衆という本日の当番たちも、ぞろぞろと踏み込んでくる。そうして最後に戸をくぐった壮年の男衆と若い女衆が、俺に深々と頭を下げてきた。
「あ……あなたはたしか、スン本家の家長ですよね?」
「うむ。復活祭の間にも、挨拶をさせてもらったな。アスタたちがモルガの山から無事に戻ってこられたことを、心から安堵していたぞ」
スン本家の家長たる男衆が、穏やかに微笑みかけてくる。彼とは何度か顔をあわせているので、俺も記憶に留めていた。
「しかし、自力で立ち上がるのが難しいほど、足腰を痛めてしまったそうだな。このような日に面倒を持ち込んでしまい、申し訳なく思っている」
「いえいえ、お気遣いなく。でも、俺にどういったご用件なのでしょうか?」
「うむ。スン家の女衆にもアスタの仕事を手伝わせてもらえないかどうか、それを尋ねさせてもらいたかったのだ」
そのように語る家長のかたわらで、女衆は可憐な花のように控えている。長くのばした黒褐色の髪を首の横でひとつに結んだ、まだうら若い女衆だ。
「それはもちろん、スン家の方々にも手伝ってもらえたら、こちらも嬉しく思いますが……でも、家のほうは大丈夫なのですか? スン家は、色々と大変なのでしょう?」
「うむ。しかし、我々が新たな生を歩むことになってから、すでに1年半以上の日が過ぎているからな。ジーンやスドラのおかげで狩人としての力もずいぶんつけられたように思うし、家の仕事にもゆとりが生まれてきたのだ」
とても柔和な微笑をたたえながら、スンの家長はそう言った。
「天幕の毛皮をこしらえる仕事を終えた時点で、女衆にはいくばくかのゆとりが生まれていた。しかしその頃には太陽神の復活祭というものが迫っていたので、それを終えるまでは様子を見ようという話になっていたのだ」
「そうだったのですね。ええ、こちらは大歓迎です。もしかしたら、そちらの御方が仕事を手伝ってくださるのですか?」
「うむ。俺の末の娘で、名はクルアという。以前の祝宴などでは分家の女衆を連れていたので、アスタに挨拶をさせるのは初めてであろうな」
スン本家の末妹クルア=スンは、再び深く一礼した。
よく見ると、たいそう顔立ちの整った娘さんだ。切れ長の目が涼しげで、すっと鼻筋が通っており、ともすればヤミル=レイのように妖艶かつ冷徹に見えかねないぐらいの美貌であるのに、表情や雰囲気がとてもひっそりとしている。なんだか、初めて出会った頃のシーラ=ルウを思わせるようなはかなさであった。
それに、その瞳である。
彼女は森辺では珍しい、灰色の瞳をしていた。
メルフリードやオディフィアのような――そして、聖域で出会った幼子を思い出させる、銀灰色と呼びたくなるような色合いだ。
「いきなりの申し出を聞き入れてもらい、心から感謝する。アスタの都合のいい日から、手ほどきを願いたく思う」
「では、今日から如何です? 俺の体調が万全でないので、誰かに手伝いをお願いしようと考えていたのですよ」
「こちらとしては願ってもない話だが、しかしアスタの迷惑にはならないだろうか?」
「いえいえ、むしろ好都合なぐらいです。よければ、お願いいたします」
そうして急遽、俺たちは新たな仕事仲間を迎え入れることになった。
アイ=ファとスンの家長がかまど小屋を出ていくと、女衆らは四方から挨拶の言葉を投げかけていく。クルア=スンはひっそりとした雰囲気を保持したまま、礼儀正しく挨拶を返していた。
「それじゃあクルア=スンの教育係は、レイ=マトゥアにお願いするよ。今日は1日、俺と彼女の面倒を見てもらえるかな?」
「はい! 承知いたしました!」
ふんすふんすと擬音をつけたくなるような様子で、レイ=マトゥアは可愛らしく鼻息を荒くしていた。
そんなレイ=マトゥアと俺のもとに、クルア=スンは楚々とした足取りで近づいてくる。
「どうぞよろしくお願いいたします。みなさんのご迷惑にならないように、力を尽くしたく思います」
「はい、よろしくお願いします! ……クルア=スンは、おいくつなのですか?」
「わたしは、15歳になったところです」
「えー! すごく大人っぽいですね! わたしのほうが年少ですけれど、どうぞよろしくお願いします!」
レイ=マトゥアの言う通り、彼女は年齢よりも大人びて見えた。
背丈も余裕で160センチ以上はありそうだし、けっこうグラマラスなプロポーションをしている。ヤミル=レイやヴィナ・ルウ=リリンのような艶やかなる大輪に成長しそうな雰囲気を有しつつ、月の下に咲く小さな花のようにひっそりとした、なかなかにアンバランスな印象であった。
(でもまあ、そういうアンバランスさってのは、魅力だよな)
ヤミル=レイやヴィナ・ルウ=リリンだって、外見そのままの性格ではない。冷徹そうでありながら情が深かったり、大人びているのに子供っぽかったり、そういうギャップこそが、さらなる魅力を生み出すものであるのだろう。逆にまた、外見や雰囲気はひっそりとしているシーラ=ルウが、意外な芯の強さを有していたりするのも、然りである。
きっとこのクルア=スンだって、彼女ならではの個性というものを有しているのだろう。
彼女がどのような人間であるのか、とても楽しみなところであった。
「……スン家の女衆をファの家に迎えることができて、私も嬉しく思っている」
と、いきなり背後からアイ=ファの声が響きわたったので、俺は「うひゃあ」と声をあげてしまった。
「び、びっくりしたなあ。スンの家長と一緒に出ていったんじゃなかったのか?」
「私は、見送りに出ただけだ。……私が戻って、何か不都合なことでもあるのか?」
「そんなの、あるわけないじゃないか」
まさか、クルア=スンが美人さんであるために、俺が目移りをしているのではないかと疑っているのだろうか。
俺はそんなに軽薄な人間じゃないぞという思いを込めて、アイ=ファの顔を見つめ返すと、頭を軽く小突かれてしまった。
「私ももうひとたび、そちらの女衆と挨拶を交わしておきたかったのだ」
そう言って、アイ=ファはクルア=スンに向きなおった。
「さきほども名乗ったが、私はファの家長アイ=ファだ。私がかまど仕事に関与することはないが、見知っておいてもらいたい」
「はい。わたしはクルア=スンと申します。どうぞよろしくお願いいたします」
クルア=スンはまた深く頭を垂れてから、静かな眼差しでアイ=ファを見返す。
その銀灰色の瞳をじっと見やりながら、アイ=ファは言葉を重ねた。
「お前は、珍しい瞳の色をしているな。……スン家というのは、かつての族長筋たるガゼ家と血の縁を結んでいたのであろうか?」
「ああ……ガゼ家は、銀色の瞳を持つ人間が多かったという話が伝えられておりますね」
クルア=スンは、艶やかな造作の顔に、ひそやかな微笑をたたえた。
「わたしも人づてで聞いた話ですので、確たることはわからないのですが……族長筋たるガゼと眷族のリーマが滅んだとき、生きるすべを失った女衆や幼子などを、スンの家人として迎え入れたそうです。もしかしたら、わたしはそちらの血筋の人間であるのかもしれません」
「ふむ。お前自身にも、確たることはわからぬのか?」
「はい。氏を捨てて家人となったからには、他の家人と分けへだてる意味はない、ということで……特に知らされることはなかったのです」
やはり彼女は、年齢よりも大人びているようだった。とてもひっそりとしているのに、どこか風格すら感じられる。
そこで俺は、また別なる人物を連想することになった。リリンの家長ギラン=リリンの伴侶たる、ウル・レイ=リリンである。
(ウル・レイ=リリンはちょっと妖精みたいな雰囲気だったけど……このクルア=スンは、巫女って感じだな)
それも、俺の故郷の巫女さんではなく、異国の巫女――シャーマンのような風情である。
とはいえ、そのようなものを実際に見たことはない。あくまで、創作物に登場するキャラクターからの連想であった。
「……相分かった。私はつい最近、ガゼの家について聞き及んだところであったので、いささか気にかかっただけであるのだ。心置きなく、仕事に励んでもらいたい」
アイ=ファは最後にもうひとたび俺の頭を軽く小突いてから、かまど小屋を出ていった。
その感触をひそかに心地好く感じつつ、俺はあらためてクルア=スンに向きなおる。
「それじゃあ、作業を始めようか。まずは焦らず、丁寧さを心がけるようにね」
「はい。よろしくお願いいたします」
そうしてようやく、下ごしらえの仕事が開始されることになった。
新たなかまど番を迎え入れるのは、ラヴィッツの血族やアウロの女衆以来であろうか。それもずいぶん懐かしく感じられてしまうが、実際にはふた月ていどしか経ってはいない。まずは新人の登竜門として、アリアのみじん切りでお手並みを拝見することにした。
俺とレイ=マトゥアの指示に従って、クルア=スンはアリアを細かく刻んでいく。その手さばきに、大きな不備は見られなかった。
「えーと……スン家の人たちは、ラヴィッツの家とかでかまど仕事の手ほどきを受けていたんだよね?」
「はい。ですが、それほど頻繁に家を空けることはできませんでしたので……月に数回といったところでしょうか」
ならば、その割には手慣れていると評することができるだろう。それは、彼女がきちんとした情熱をもってかまど仕事に取り組んできた証であった。
もちろんスン家では多彩な食材を扱う機会も少なかったであろうから、今後は色々と苦労をする面も出てくるだろう。しかしそれは、かつてのマルフィラ=ナハムやラヴィッツの血族たる女衆たちも同様であった。
(要領は悪くないみたいだし、これならすぐに一人前の力をつけられるだろう)
アリアのみじん切りが終了したならば、今度は肉挽きをお願いする。『ギバまん』のために必要であるこれらの作業は、新人の手際を見るのにうってつけであった。
「そういえば、俺も1年ぐらい前にスン家で手ほどきをしてるんだよね。クルア=スンも、あの場にいたのかな?」
「はい。その日のことも、それより前の家長会議のことも、わたしにとっては忘れられない記憶となります」
そうだった。俺は前々回の家長会議でも、スン家の女衆に料理の手ほどきをしている。あの頃は彼女も分家の人間であったのであろうが、それでも顔ぐらいはあわせているはずであった。
「うーん、そっか。それなのに、初対面みたいな挨拶をしてしまって申し訳なかったね」
「とんでもありません。わたしのように取るに足らない女衆など、記憶に残されないのが当然であるかと思われます」
その言葉には、レイ=マトゥアが「えー?」と疑念を呈することになった。
「クルア=スンぐらい綺麗な女衆であったら、ひとたび顔をあわせただけでも記憶に残されるように思います! ……あ、もちろんアスタは、外見の如何で女衆をより分けたりはしないでしょうけれども」
「過分なお言葉、恐縮です。……もしかしたら、この1年ほどでわたしはずいぶんと外見が変わってしまったのかもしれません」
ひっそりと微笑みつつ、クルア=スンはそのように言いたてた。
「この1年ほどで、わたしは拳ひとつぶん以上も大きくなったように思いますし……腕も足も、かつては幼子のように痩せ細っていました。思えば、スン家でアスタに料理の手ほどきを受けてから、美味なる食事に大きな喜びを覚え、このように成長できたのかもしれません」
「あー、なるほど! それなら、納得です!」
無邪気に笑うレイ=マトゥアに微笑み返してから、クルア=スンは俺のほうを振り返ってきた。
銀灰色の瞳には、とても人間らしい温かな光が宿されている。
「家長会議でアスタたちに救われて、わたしはようやく生きていく意味というものを見出すことがかないました。さらに、美味なる食事という喜びまで与えてくださったアスタには……心より感謝しています」
「ありがとう。そんな風に言ってもらえたら、こちらのほうこそ光栄だよ」
俺も、温かい気持ちでそのように返すことができた。
そして、これまで疎遠であったスン家の人間と新たな絆を結ぶことがかなった喜びを、じんわりと自覚する。
(これを機会に、もっともっとスン家の人たちとも絆を深めさせてもらいたいもんだな)
そうして下ごしらえの仕事は、波乱もなく終えることができた。
波乱が生じたのは、その後である。
下ごしらえの済んだ食材や調理器具の積み込み作業が開始され、役立たずの俺がみんなの仕事を見守っていたときに、トゥール=ディンとリッドの女衆が到着したのだ。
トゥール=ディンたちは、最近購入した人力の荷車を引きながら、ファの家にやってきた。ディンの家からファの家までは大量の菓子を運んでこなければならないが、トトスの荷車には限りがあるし、徒歩でも大した距離ではないのだからと、この荷車が購入されたのである。
「アスタ、お疲れ様です。身体の具合は如何ですか?」
「うん。万全とは言えないけれど、今日から屋台の仕事にも参加させてもらうよ」
と、俺とトゥール=ディンがそんな風に挨拶を交わしていると――クルア=スンが、駆け寄ってきた。
その端麗なる顔が涙に濡れていることに気づいて、俺はぎょっとする。そしてそれ以上に、トゥール=ディンは愕然としていた。
「ああ、トゥール=スン……いえ、トゥール=ディン。ようやく、お会いすることができました」
クルア=スンは走ってきた勢いのままに、トゥール=ディンの小さな身体を抱きすくめた。
しばし呆然としていたトゥール=ディンは、おずおずとクルア=スンの背中に手を回す。
そして――トゥール=ディンの目からも、透明の涙があふれかえった。
「クルア=スン……どうして、あなたがここに……?」
「今日から、ファの家を手伝うことになったのです。あなたにお会いできる瞬間を、昨日の夜から心待ちにしていました」
頼りなく震える声で、クルア=スンはそう言った。
「復活祭でも1度だけ、宿場町に下りることが許されたのですが……あなたはとても忙しそうにしていたので、声をかけることはできませんでした……でも、屋台で働くトゥール=ディンは、本当にお元気そうで……ずっと嬉しく思っていたのです……」
トゥール=ディンはぽろぽろと涙をこぼしながら、クルア=スンの胸もとに顔をうずめた。
クルア=スンも、子供のように泣いてしまっている。さきほどまでの大人びた雰囲気も、完全に消え去ってしまっていた。
(……クルア=スンは、そんなにトゥール=ディンと親しい間柄だったのか)
彼女たちは、かつて同じ集落で過ごす血族であったのだ。
その頃は、おたがいに死んだ魚のような目をしていたのであろうが――今の彼女たちは、そんな時代の無念を晴らすかのように、涙で瞳を光らせていた。
(出会って数時間で、また印象が変わっちゃったな)
艶やかなる容姿とひそやかな気性を持つクルア=スンは、その内にこのような激情をも潜めていた。
その新しい発見を、俺はとても満ち足りた気持ちで見守ることができた。