プロローグ~最初の朝~
2020.3/16 更新分 1/2
・今回の更新は7日間の予定です。
その日の朝、俺は甘美なる香りの中で目覚めることになった。
何か、魂を溶かされてしまいそうなほどに、甘くて蠱惑的な香りである。
陶然としながらまぶたを開くと、その正体はすぐに判然とした。
俺のすぐ鼻先に、アイ=ファの金褐色の髪が迫っていたのだ。
アイ=ファは俺の左肩あたりに頭をのせて、安らかに寝入っていた。
横向きの体勢で、その指先は俺のTシャツの胸もとあたりをぎゅっと握りしめている。まるで、母親にすがりつく幼子のような寝姿だ。
アイ=ファがこのような姿を見せるのは、とてもひさしぶりのことだった。それはおそらく、俺が《アムスホルンの息吹》を発症して寝込んでいたとき以来になるのであろう。
俺たちはおたがいの存在を慈しみ合いつつ、節度をもって生きていこうと誓っていた。ゆえに、こんな風に身を寄せ合って眠ることも、原則としては禁じていたのだ。
それに最近では、常にティアがかたわらにいた。だから、こんな風に身を寄せ合うことなど、なおさらかなわなかったのだった。
(でも……ティアは、もういない)
そんな実感が、胸の奥底からじわじわとわきあがってくる。
きっとアイ=ファも同じような気持ちにとらわれて、俺にすがりつくことになったのだろう。そうでなければ、アイ=ファがうかうかと俺に身を寄せるとは思えなかった。
今日は、銀の月の13日――ティアとの別れを果たしたのは、昨日の朝のことだった。
わんわんと泣き声をあげるティアの姿と、その小さな身体の温もりが、今でも俺の心にはしっかりと刻みつけられている。
それでもティアは、泣きながら笑っていた。
俺たちは、いつかまた再会することができるかもしれない――それが無理でも、聖域の民と外界の民が同胞になれる日が来るかもしれない――そんな希望を胸に、生きていくことが許されたのだ。
だから俺は、半身をもぎ取られたような喪失感の代わりに、それと同じぐらい大きな希望を抱くことができていた。
(これまで以上に、力を尽くして生きていこう。そうすれば……きっと道は開けるはずだ)
そんな思いを胸に、俺はアイ=ファの頭にそっと手をのせた。
アイ=ファは「ううん」と可愛らしい声をあげて、俺の胸もとに頬をこすりつけてくる。
「おはよう、アイ=ファ。そろそろ日が出るみたいだぞ」
俺がそのように呼びかけると、アイ=ファの剥き出しの肩がぴくりと震えた。
金褐色の髪に包まれた頭がそろりと動いて、アイ=ファの顔が俺を見上げてくる。その青い瞳にちょっと甘えるような光が灯されているような気がして、俺はドキリとしてしまった。
「うむ……知らずうち、私はお前に身を寄せてしまっていたようだな」
「うん。ティアと別れて最初の夜だったんだから、しかたのないことさ」
「そうだな……しかし、家長としては不甲斐なく思う」
そんな風に言いながら、アイ=ファはなかなか身を離そうとはしなかった。
アイ=ファはやわらかく微笑みながら、また俺の胸もとに頬をすりつけてくる。
「……アスタよ、ずいぶんと胸が高鳴っているようだな」
「お、俺の鼓動を計測しないでくれ」
「うむ……この響きに身をゆだねるのは、とても心地好い」
アイ=ファは身を離すどころか、さらに身体をぎゅっと密着させてきた。
脇腹のあたりにたとえようもない圧迫感を知覚して、俺はいっそう惑乱してしまう。
「お、おい、大丈夫か、アイ=ファ?」
「大丈夫だ。お前がいてくれる限りは」
俺の上を這いずるようにしてのびあがったアイ=ファは、最後に頭で俺の頬をぐりぐりと蹂躙してから、ようやく身を起こした。
「うむ。お前のおかげで、健やかな目覚めを得ることができた」
「そうか、それは何よりだったよ。……みだりに触れ合うのはやめておこうっていう取り決めだったけどな」
「……お前を、不快にさせてしまったか?」
アイ=ファはたちまち心配そうな面持ちになって、まだ寝そべったままである俺に顔を寄せてきた。
自然に垂らされた金褐色の髪が、俺の頬や咽喉もとをくすぐってくる。俺は陶然とする気持ちを何とか抑えながら、「そんなわけないだろ」と答えてみせた。
「アイ=ファは本気で言ってるんだろうけど、俺は不快じゃなさすぎて困るぐらいだよ」
「何が困るのかはわからぬが、私は自分で考えていた以上にティアの不在を苦しく感じている。だから、ほんの少しだけ……こういう朝方のひとときだけでも、お前の身に触れることを許してはもらえぬだろうか?」
「アイ=ファは、いつでも真面目だな」
アイ=ファがあまりに真剣な面持ちであったため、俺は微笑をこぼしてしまった。
「俺だってアイ=ファがそばにいてくれなかったら、こんな元気に振る舞えないよ。……それぐらい、俺たちにとってティアは大事な存在だったからな」
「うむ。しかし我々は、希望を胸に生きていくことを許された」
ゆっくりと身を起こしたアイ=ファは、憂いげに息をつきながら長い髪をかきあげた。
「そのような希望が存在するということを教えてくれたフェルメスには、礼を言うべきであるのだろうな。どうせあやつは、にこにこと笑うばかりなのであろうが」
「うん。フェルメスがもっと元気になったら、とびっきりの魚料理をご馳走したいところだな」
そうして俺は寝っ転がったまま、うーんと両腕をのばした。
「さて、それじゃあそろそろ朝の仕事に――」
と、身体を起こそうとした俺は、途中で「うぐ」とフリーズすることになった。
アイ=ファは、けげんそうに俺を見下ろしてくる。
「どうしたのだ? 首の筋でも違えたか?」
「いや、首じゃなくって、腰が……いや、腰だけじゃなくって背中や足も……」
身体を起こそうとした瞬間、俺の腰から背中にかけて、びりびりとした痛みが走り抜けたのだ。
そして、両足の隅々にも同じ痛みが纏わりついている。昨日と一昨日、無茶な登山をした代償が、さらなる勢いで俺の身に降りかかってきたのだった。
「ふむ。あれだけ手を尽くしても、ひと晩では癒えなかったか」
アイ=ファは難しい顔をしながら、俺の腹から下にかけられていた薄手の毛布をひっぺがした。
俺はなんとか首だけを持ち上げて、自分の下半身へと視線を巡らせる。俺の両足は昨晩、アイ=ファに入念なマッサージを施された後、筋肉疲労を癒やすための薬を塗られて、包帯でぐるぐる巻きにされていたのだった。
「アスタよ、足を動かすことはかなうか?」
「いや、どうだろう……足を持ち上げようとすると、股関節のあたりがびりびり痛むんだ」
アイ=ファはひとつうなずくと、俺の右足の腿とふくらはぎの裏側に指先を差し込んだ。
その手がゆっくりと、俺の右足を持ち上げていく。
「これは、痛むか?」
「いや、ちょっと疼くような感じはするけど、痛いってほどじゃないな」
「膝と足首も動かすぞ。……どうだ?」
「うん。人の手で動かされる分には、そんなに痛くないみたいだ。腿とかふくらはぎが、ちょっと引っ張られるような感じがするけど」
「そうか。熱なども帯びている様子はないし、筋や骨に異常はないようだな」
さらに左足の確認までを済ませてから、アイ=ファは気がかりそうに俺を見つめてきた。
「数日もすれば、痛みは取れるであろう。今日、屋台の商売が休みであったのは僥倖であったな」
「うん。だけど、明日の分の下ごしらえの仕事には参加したいなあ。昨日も一昨日も、ユン=スドラたちにまかせきりになっちゃったからさ」
「しかし、無理をすれば、いっそう回復が遅れよう。……まずは、自分の力で歩くことはかなうのか、それを確かめてみるがいい」
「うん、了解」
俺はいったん身体を横に倒してから、腕の力で半身を起こしてみせた。
幸いなことに、腰を曲げても手ひどい痛みは生じない。こちらもやはり、筋肉疲労が甚大であるのだろう。力を込めようとすると、背中や臀部のほうにまで痛みが走るのだ。
その頃になって、枕もとで丸くなっていたサチがようやく目を覚まし、「なあう」とあくびまじりの声を発した。
そちらに「おはよう」と声をかけてから、俺はねじっていた身体を正面に戻す。が、そこから先は、どうにも手立てが見つからなかった。
「えーと……悪いけど、立つのに手を貸してもらえるか?」
「……自らの力で立つこともできぬのに、歩くことがかなうのか?」
「壁に手が届けば何とかなりそうなんだけど、ちょっと踏ん張りがきかなくてさ」
アイ=ファは深々と溜め息をつくと、何故だか俺の後ろ側に回り込んだ。
そうして俺の両脇に手を差し入れると、何の造作もなく俺の身体を持ち上げてしまう。俺はぷるぷると震える足で、床を踏みしめることがかなった。
「おお、さすがは狩人の腕力だな。それじゃあ、ちょっと歩いてみよう」
「…………」
「どうした? 手はもう離してもいいぞ」
アイ=ファの腕が両脇からにゅうっとのばされて、俺の胴体をぎゅうっと抱きすくめてきた。
背中一面に、アイ=ファの温もりが届けられてくる。
「えーと、いったいどうしてしまったのかな?」
「……お前があまりに力ないので、不憫になってしまったのだ。よって、これはお前の責任といえよう」
今度は右の肩甲骨あたりに、アイ=ファの頬がすりつけられてくる。
「お前はまるで、幼子か何かのようではないか。……私をあまり心配させるな」
「ごめん! でも、思ったよりは足も痛まないよ! これならきっと、歩けるはずだ」
「…………」
「だからその、歩く練習をしてみたいんだけど……」
「わかっている」と答えながら、アイ=ファはさらに強い力を込めてきた。
「しかし、私にも狩人としての仕事が待っている。その前に、もう少しお前の温もりで力を蓄えておきたく思う」
「そっか」と、俺は笑ってしまった。
やっぱりアイ=ファは、これほどまでに情が深いのだ。ティアに対してはつっけんどんな態度を取って、心を寄せてしまわないように気をつけていたのであろうが――それでも、これだけ打ちひしがれることになってしまったのだった。
「……ティアも今頃、大事な家族と朝を迎えられた喜びを噛みしめているのかな」
胴体に回されたアイ=ファの手の甲に自分の手を重ねながら、俺はそのように言ってみせた。
「今日も頑張って、おたがいの仕事を果たそうな。ティアに負けないぐらいにさ」
「うむ」と答えるアイ=ファの声が、肩から心臓にまでしみこんでくるかのようだった。
そうして俺たちは、ティアのいない初めての朝を、懸命に乗り越えることになったのだった。