エピローグ~希望を胸に~
2020.3/3 更新分 2/2
・今回は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
明朝――銀の月の12日の、朝である。
『ペイフェイの笑う口』で一夜を明かした俺たちは、日の出とともに岩場に立ち並ぶことになった。
この場所から山と森の境い目に戻るには、ほとんど半日がかりであるのだ。朝一番で出発して、ちょうど中天ぐらいに到着できる計算となるのだろう。
その場には、族長会議に参席した面々と、ナムカルの一族の主たる人々が集結してくれていた。
俺たちの目の前には、その中でもゆかりの深い人々――ティア自身と、ティアの母親であるハムラ、ティアの妹であるメグリとカシャ、ナムカルの狩人ライタ、シャウタルタの族長であるラアル、ラズマの族長ホルア、そしてラズマの狩人ルジャといった人々が顔をそろえている。それに、ラアルの友である白きマダラマや、ティアたちの友である白きヴァルブも、彼らの背後からぬっと顔を覗かせていた。
「お前さんがたとは、これで今生の別れとなるのだな! いささかならず寂しく思うが、それでも満ち足りた一夜を過ごさせてもらったぞ!」
白きヴァルブを見やりながら、ダン=ルティムが笑顔でそのように言いたてた。
そのかたわらにたたずんでいたガズラン=ルティムも、「ええ」とうなずく。
「私も父ダンと、同じ気持ちです。あなたがたのことは、子や孫にまで語り継ぎたいと願っています」
「それは、こちらも同じことであろう。これほどの驚きに満ちた話の数々を、一族に伝えぬわけにはいかぬからな」
力強い笑みをたたえつつ、ラアルがそのように応じた。
ハムラも「うむ」と穏やかな表情でうなずく。
「我々は友にも同胞にもなれぬ身だが、お前たちのことは好ましく思う。どうかこれからも、外界で健やかな生を過ごしてもらいたい」
「うむ。我々も、聖域の民の健やかな生を祈らせてもらおう」
ドンダ=ルウが重々しくうなずき返し、俺とアイ=ファに目をやってきた。
だけど俺は、ティアになんと言葉をかければいいのか、それを判じかねってしまっている。今度こそ、これがティアとのお別れとなってしまうのに、なんだかまったく現実感がわいてこないのだ。
しかしそれはティアのほうも同じ様子で、さきほどからはにかむようにして微笑んでいる。どうして涙がこぼれないのだろう、と自分で不思議がっているような表情だ。
だが、ティアとの別れがつらくないわけがない。こんな茫漠とした気持ちで別れを果たしてしまったら、きっといつまでも後悔することになるだろう。そんな風に考えて、俺はさきほどから別れの言葉を探しているのだが、なかなか答えは見つからなかった。
「……帰りの道行きは、昨日と同じ作法に従ってもらう。その案内を果たすのも、昨日と同じ4名だ。どうか最後まで、聖域の掟を守り抜いてもらいたく思う」
いくぶん気がかりそうな面持ちになりながら、ハムラがそのように言いたてた。ティアとはこの場でお別れになるということを、再確認させてくれているのだろう。
ティアは、もじもじと身をよじり始める。ティアもきっと、焦っているのだ。俺も、まったく同じ気持ちである。昨日は何度も涙をこぼしそうになっていたのに、どうして今日はこんなにも心の動きが鈍いのか。自分の胸を切り開いて、無理やりにでもすべての心情を吐露したいような心地であった。
「では……聖域を立ち去る前に、ひとつだけよろしいでしょうか?」
と――ふいに、ジェムドが口を開いた。
人々は、いぶかしそうにそちらを振り返る。その中で、ルジャだけは期待に瞳を輝かせていた。
「なんだ? 客人ジェムドの言葉には、毎回驚かされていたからな。最後にとびっきりの驚きをもたらしてくれるというのなら、嬉しく思うぞ」
「驚きに価するかどうかは不明でありますが、わたしの主人であるフェルメス様から、聖域の人々への言伝てを頼まれていたのです」
すると、いくぶん心配そうな表情でレイリスがジェムドを見た。
「それは、如何なる話でしょう? 我々はようよう使命を果たすことがかなったのですから、あまり余計な言葉は口にしないほうがいいように思うのですが……」
「申し訳ありません。わたしはあくまでフェルメス様の代理人でありますため、その使命を全うさせていただきたく思います」
そうしてジェムドは、清涼なる朝の山に深みのある美声を響かせた。
「わたしは昨日、フェルメス様から学んだ数々の言葉を皆様にお届けすることになりました。それらはいずれも、王都に眠るいにしえの文献から紐解いた知識となります。昨日もご説明した通り、外界においては文字というものが存在するため、いにしえの知識を後世に残すことがかなったのです」
「うむ。それらの言葉の数々は、我々にとってもきわめて有意であったように思うぞ」
「恐縮です。……ただし、現在の西の王国においては、そういった知識を学ぶことが忌避されつつあります。それは、現在の王であるカイロス陛下がいにしえの知識を忌避している結果です。よって、いにしえの知識が記された文献は書庫の奥深くに封印され、目にすることもなかなか許されません。カイロス陛下の御世が続く限り、そういった風潮はますます強まっていくことでしょう」
そういった話は、俺もうっすらと聞いていた。現在の王は、星読みなどといったいにしえの術をたいそう嫌っているという話であったのだ。
「そのような中で、フェルメス様はひそかにいにしえの知識を学んでおられました。そして、今ではすっかり忘れさられているような真実を――あるいは、真実の一面と呼ぶべき事象を、仮説として組み上げることに成功せしめたのです」
「なかなか念のいった前置きだな。それは、どのような話であるのだろうか?」
「はい。それは……何故に聖域の民と王国の民は、異なる道を進むことになってしまったのかという、その疑問に対する答えとなります」
とても沈着な面持ちで、ジェムドは言葉を重ねていった。
ルジャを除くすべての人々は、まんじりともせずにその言葉を聞いている。
「600年より古きの時代、大地の魔力は枯渇しました。魔術の文明は終焉を迎え、一部の民は聖域にこもり、残りの民は鋼と石の文明を築きあげました。では、どうしてそのように道を分かつことになったのか――その原因は、聖域において語り継がれているのでしょうか?」
「いや。外界の民は、ただ大神を捨てたとだけ伝えられているな」
「左様ですか。では、どうして我々は大神への信仰を捨てることになったのか――どうしてすべての民が自然の中で生き、大神の目覚めを待つことができなかったのか。フェルメス様にとって、それは長きの疑問であったのだと聞かされています」
「ふふん。そこに何か、正当な理由でもひねり出すことがかなったのか?」
「はい。フェルメス様は、そこに渡来の民――竜神の民の存在を据えることで、真実を見出されたのだそうです」
興味深げにジェムドの言葉を聞いていたラアルが、ぴくりと肩を動かした。
それを見て取ったジェムドが、静かな眼差しを差し向ける。
「これらの言葉は、聖域にも伝えられていたのでしょうか?」
「うむ……竜とは猛き存在であるが、決して屈してはならない。族長となる人間には、そのように語り継がれている」
「なるほど。それは、フェルメス様の仮説とも合致する伝承であるかもしれません」
まったく心を動かした様子もなく、ジェムドはそのように言い継いだ。
「竜神の民とは、海の外より渡来する一族です。この大陸を神とする我々にとっては、正真正銘、異国の民となります。現在の我々は、竜神の民とも友誼を結ぶことがかないましたが……彼らが初めてこの地を訪れたのは、数百年の昔となります。その時代は、悪しき海賊たる竜神の民に悩まされることも少なくはなかったと伝えられています」
「ふん……それで?」
「はい。竜神の民とは、巨大な船で大海を巡る、猛き一族であったのです。その身は我々よりも遥かに大きく、獣のごとき怪力と勇猛さを持ち、そして、鋼の武器を携えていました。竜神の民は、我々よりも早く鋼と石の文明を築いていたのです」
ジェムドが何を語ろうとしているのか、俺にもうっすらと理解できてきた。
しかし――そのようなことが、ありえるのだろうか?
「つまり、客人ジェムドは……竜神の民を退けるために、お前たちの祖が鋼と石の文明とやらを築きあげた、と言いたいのであろうか?」
俺と同じ結論に行きついたらしいルジャが、そのように問い質した。
ジェムドは「はい」と首肯する。
「大神の民は、魔術の文明を失いました。しかし、すべての民が自然の中で獣のように過ごしていたならば、竜神の民にあらがうすべはなかったことでしょう。現在のあなたがたは尋常ならざる膂力を携えておられますが、それは600年の歳月を狩人として生き抜いた成果であるのです。魔術のみに頼っていた我々の祖は、可及的速やかに新たな力を身につける必要に迫られたのです。……それが、鋼と石の文明になります」
「では……我々の祖は、竜神の民なる存在がこの地にやってくることを、あらかじめ予見していたということか?」
「予見していたのでしょう。おそらくは、星読みの術式で」
俺はなんだか、背筋が冷たくなるような心地であった。
あのフェルメスは、そこまでこの世界の根源にまで探求の手をのばしていたのだ。
「そうして我々の祖は、異なる道を歩むことになったのです。いっぽうは聖域で心身を清らかに保ち、もういっぽうは来たるべき災厄を退けるために鋼と石の文明を築きあげ……そうして我々は、暴虐なる竜神の民に屈することなく、友としての絆を結ぶことがかないました。これこそが、聖域の外に新たな文明を築いた我々の使命であったのです」
「…………」
「その仮説の裏付けのひとつとして、フェルメス様は聖域と外界で結ばれた約定についてを重要視されています。どうしてこうまで異なる道を歩むことになった両者が、『敵対してはならじ』という掟を作ったのか。友にも同胞にもなれない間柄であるのに、どうしておたがいの存在を尊重しなければならないのか。それは、おたがいがそれぞれの手段でこの地を守るためであったのです」
「…………」
「我々は、決して敵対して道を分かつたわけではありません。それゆえに、おたがいを尊重し合っているのです。その一点を、どうかご理解いただきたく思います」
そこでジェムドは、しばし呼吸を整えた。
「そして、ここからが本題であるのですが――」
「なに? これまでの言葉が、すべて前置きであったのか?」
「いえ。本題に入るための、必要な言葉となります。これまでに語ったのはいずれも過去の話となりますが、より重要であるのは、今後の行く末であるのです」
「今後の行く末……?」
「はい。この地には、いずれ魔力が蘇ります。そのときこそ、聖域の民は大神のもとで魔術の文明を復興させるのでしょう。……しかしこの地には、すでに鋼と石の文明が築かれています。たとえ大神が目覚めようとも、不浄の中で生きてきた我々には魔術を扱うすべはないのです」
ジェムドはあくまで、穏やかな無表情である。
たとえ代弁者に過ぎないとはいえ、これだけとてつもない言葉を並べたてながら、そのように平静でいられるのは、ものすごいことであるように思えてならなかった。
「我々の文明は、相反した存在となります。石の都に魔術を持ち込むことはできませんし、魔術師の住まう地に不浄の存在を持ち込むことはできません。それでも我々は、共存しなければなりません。その共存がかなったとき、我々は同じ神のもとで、新たな文明を切り開くことがかなう……フェルメス様は、そのように推測しています」
「共存……共存か」
「はい。共存できなければ、我々はどちらかが滅ぶことになるでしょう。それでは、なんのために600年の歳月を別離していたのかもわかりません。そしてまた、あなたがたがそのように長きの時間を聖域で過ごしていたことには、大きな意味があるはずなのです」
「我々が聖域で過ごしていた、意味……」
「はい。竜神の民を退けるには、鋼と石の文明が必要でした。ならば、すべての民が鋼と石の文明に身をゆだねていてもよかったはずです。しかし、我々の祖は、一部の人間が聖域にこもり、大神の目覚めを待つことになりました。そこにも、意味があるはずなのです」
「…………」
「また新たな外敵が訪れるのか、あるいは別種の脅威が訪れるのか、それを知るすべはありません。しかし、すべてが神の意思であるのなら、なんらかの意味が生じるはずです。10年後か、20年後か――あるいは、100年後か、200年後か――いずれ、大神は目覚めます。そのときこそ、我々は長きの別離を経て、再び同胞として手を取り合うべきであるのです」
そうしてジェムドは、聖域の民たちに一礼した。
「以上が、フェルメス様より授かった言伝てとなります。これも真実の一面として、子々孫々に語り継いでいただけたら喜ばしく存じます」
なんとも言えない沈黙が、その場にたちこめた。
そこに、「では……」と小さな声が響く。
声の主は、ティアであった。
「では……いずれ聖域の民と外界の民は、同胞として手を取り合えるのであろうか……?」
「フェルメス様は、そのように信じておられます。また、そうするべきであるのだと信じておられます」
ティアが、ゆっくりと足を踏み出してきた。
その手が、俺とアイ=ファの手を握りしめる。
「ティアは今日、アスタたちと決別する。しかし……もしも、ティアの子やその子たちが、アスタたちの子らと同胞になれるのなら……」
ティアの目から、涙がふきこぼれる。
それと同時に、アイ=ファがティアの身体を抱きすくめた。
「泣くな、ティアよ。お前が泣けば、アスタも涙をこぼすことになろう」
そのように語るアイ=ファの声は、小さく震えていた。
大粒の涙をこぼしながら、ティアは純真なる微笑をこぼす。
「違う。ティアは、嬉しいのだ……そのように幸福な行く末は、これっぽっちも想像していなかったから……」
ティアの笑顔を見た瞬間に、俺も心が決壊した。
ひどく茫漠としていた心が、さまざまな激情に粉砕されてしまったのだ。
俺はほとんど無意識の内に、アイ=ファの身体ごとティアの身体を抱きすくめていた。
「アスタ……森辺の民と聖域の民は、いずれ同胞として生きていくことができるのだろうか……?」
「うん。きっとそうなんだよ」
こらえようもなく、俺も涙をこぼしてしまった。
ティアの身体も、アイ=ファの身体も、熱を出した幼子のように熱い。その温もりが、俺の心をいっそうかき乱した。
「では……もしも……もしもティアたちの生あるうちに、大神が目覚めたなら……」
「うん。俺たちも、同胞になれるんだよ」
この温もりを、手放したくはない。
だけど俺たちは、森辺に帰らなければならないのだ。
でも――もしもいつか、同胞になることが許されるのなら――そんな希望を胸に、生きていくことができるのなら――そんな幸福なことはなかった。
ティアの手が、俺の背中をぎゅっとつかんでくる。
そうしてティアは、声をあげて泣き始めた。
俺も、嗚咽をこらえることはできなかった。
そして――ティアの赤い髪ごしに見えるアイ=ファも、子供のように泣いてしまっていた。
アイ=ファのこんな泣き顔を見たのは、初めてのことだ。
それでいっそう、俺は泣き声を振り絞ってしまった。
ティアと別れなければならない悲しみと、いつかまた再会できるかもしれないという喜びが、激流のように俺の体内を駆け巡っていく。
それを制御することなど、できようはずもなかった。
そんな激情に翻弄されながら、俺は頭の片隅でぼんやり考える。
600年前の人々も、こうして同胞との別離を悲しんだのだろうか。
そして、いつかはまた同胞として過ごせる日が来るのだと、そんな希望を胸に抱いて、それぞれの道を歩むことになったのだろうか。
真相は、誰にもわからない。
本当に、大神が目覚める日はやってくるのか、それすらも定かではないのだ。
だけどそれは、大きな希望だ。
いつかティアと、再会できるかもしれない。それが無理でも、子や孫は同胞として過ごすことができるかもしれない。
そんな風に考えるだけで、俺は別れの悲しみに匹敵するほどの喜びを見出すことができた。
ティアはすでに、俺の血肉となっているのだ。
たとえこの先、ティアと再会することがかなわなくとも――ティアと過ごした半年間の日々は、俺の胸の一番大事な部分に刻みつけられている。
ティアと出会えて、俺は幸せだった。
ティアもそのように考えてくれていることが、俺には嬉しくてたまらなかった。
そして俺たちは、これからもそれぞれの道を生きていく。
同じ天の下で――おたがいの存在を、胸に抱きながら。