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異世界料理道  作者: EDA
第四十九章 同じ天の下で
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銀の月の十一日⑨~大神の祝福~

2020.3/3 更新分 1/2 ・2020.9/15 誤字を修正

「それで……けっきょくお前は、何を語ろうとしているのだ、ラズマの長兄よ?」


 ティアの母親であるハムラがそのようにうながすと、ルジャが再び口を開いた。


「ここまで聞けば、予想はできよう? 外界において、北と東の森が聖域と見なされているならば、それを我々の新たな狩り場としてしまえばいいのだ。さすれば、マダラマとヴァルブの数がどれだけ増えようとも、飢えることにはなるまい?」


「だが……我々は、四方の森をすべて外界と見なしていた。外界の人間がどのように判じていたかより、自分たちがどのように判じていたかを重んずるべきではないだろうか?」


「それで、せっかくの狩り場を捨て置こうというのか? その場所は、外界の人間からも捨て置かれているのだぞ? 大地からの恵みを打ち捨てようというのは、大神に対して不遜な行いなのではないだろうかな」


 ハムラは厳しく眉を寄せながら、ドンダ=ルウを振り返った。


「山麓の森は、森辺の民の地であるはずだ。我々がそれを奪ってしまったら、のちのち森辺の民が困ることになったりはしないのだろうか?」


「ふん。森辺の民が10倍の数に増えようとも、そちらまで集落を切り開くことにはならない、などとジェムドは言っていたな」


 ドンダ=ルウは、強く光る碧眼でジェムドを見据えた。


「ひとつ、聞かせてもらいたい。取り沙汰されているその場所は、森辺の集落からどれほど離れた場所にあるのだ?」


「はい。森辺の集落というのは、南から北にやや湾曲した形で切り開かれていますが……同じ角度で同じ長さを北側に切り開くと、ちょうど聖域との境い目に到達するかと思われます」


「では、論ずるまでもなかろうな。俺たちは、ジェノスの田畑を守るためにギバを狩っているのだ。そうまでジェノスから離れた場所にまで集落を広げる理由はない」


 そう言って、ドンダ=ルウはハムラに向きなおった。


「それに、ジェノスの領主がその地を聖域と定めているのなら、そもそも俺たちが集落を広げることも許されぬのだ。俺たちの行く末を案じてくれるのはありがたいが、そのように気を回す必要はなかろう」


「そうか」と、ハムラは口をつぐんだ。

 すると今度は、ラアルが声をあげる。


「しかしそれ以前に、マダラマとヴァルブの両方を友にすることなど、可能なのであろうかな? 我々は長きに渡って、その片方だけを友としてきた。これまで獲物と考えていた相手を友と思うことはかなうのか、きわめて難しいように思う」


「たとえ難しくとも、正しき道を進むべきではないだろうか? 苦労を惜しむのは堕落であり、堕落こそは聖域の民に許されぬ所業であろう」


 ヴァルブ狩りの一族においてはもっとも高い身分と思われるラアルに対しても、ルジャはまったく遠慮がなかった。


「ヴァルブとマダラマは、ともに赤き民を喰らう。そのヴァルブとマダラマを、赤き民は喰らっている。これもまた、ルジャには正しくない行いであるように思えてしまう。たとえば、このルジャは――幼き頃に、弟をヴァルブに喰われている。大事な家族を、ヴァルブに奪われてしまったのだ。そんなヴァルブを友とする一族を、心から慈しむことはできるのか――また、慈しむことが正しいのか、それを疑問に思ってしまうのだ」


「しかしお前は、ヴァルブを友とするナムカルのティアに婚儀を申し入れたいなどと言っているのであろうが?」


「だからこそ、だ。ルジャは、一族の間に横たわる悪縁を断ち切りたいと願っている」


 ルジャは、細くて引き締まった右腕を大きく振り払った。


「ルジャは、赤き民の同胞のすべてを慈しみたい。同じ大神の子として、すべての民を家族のように愛したいのだ。そのときこそ、我々には正しい道が開かれて、大神の子に相応しい力が得られると信じている。そのためには、弟を奪われた無念や悲しみを押し殺し、ヴァルブをも友とするしかないだろう。それがどれほど困難な道であろうとも、決してあきらめたくはないのだ!」


「…………」


「それに、族長たちとて気づいていないとは言わせぬぞ。ヴァルブ狩りの一族とマダラマ狩りの一族は、年を重ねるごとに気性が違ってきている。マダラマを友としていれば、ベルゼの石のように冷たく固い意志を得られる代わりに、感情が鈍くなる。ヴァルブを友としていれば、爆ぜる火のような強さを得られる代わりに、甘っちょろい気性となる。そういった気性の違いが、いっそう我々の絆を揺るがしているのだ」


「…………」


「このままいけば、我々はいずれおたがいを憎み合うようになってしまうかもしれない。それこそは、大いなる禁忌であろう。しかし、ここで手を携えることができれば――マダラマとヴァルブの両方を友とすることができれば、我々はいっそうの力を得られるはずだ」


「わかった、もうよい。お前がどれだけ赤き民の行く末を思っていたかは、理解できたように思う」


 ラアルが手を上げて、ルジャを黙らせた。

 その顔には、苦笑めいた表情が浮かべられている。


「しかし、そのように大それた話をこの場で決することはできない。また明日にでも、族長会議で語らうしかなかろう。……まったく、厄介な話を持ち出してくれたものだな、ラズマの長兄よ」


「うむ。しかし、厄介であるからといって、避けて進むわけにもいくまい?」


 ルジャも眼光をやわらげて、にやりとふてぶてしく笑った。


「では、もうひとつだけ語らせてもらいたい。……いや、これはナムカルの族長ハムラと客人らに聞いてもらえれば十分だ。他の族長たちは、食事を楽しんでもらいたい」


「ハムラと、客人らに? 今度は何を語らおうというつもりだ?」


「それはもちろん、ティアの処遇に関してだ」


 同じ表情のまま、ルジャは敷物に座りなおした。

 余所の人々は、たったいまルジャに語られた言葉を吟味するためにであろう、手近な相手と熱っぽく談義を始めている。しかしもちろん、ティアとふたりの妹たちは、うろんげな面持ちでルジャの挙動を見守っていた。


「このハムラに、どういった話であるのだ? またティアとの婚儀の話を蒸し返すつもりではあるまいな?」


 ハムラが厳しい面持ちで問い質すと、ルジャはひょいっと肩をすくめた。


「ティアとの婚儀にも関わる話であるだろうが、それよりも重きを置きたいのは、ティアの今後の扱いについてだ」


「それは、ナムカルの一族で話し合う。ラズマの家人に口出しをされる筋合いはない」


「しかしルジャは、赤き民の習わしを大きく揺るがすような話を持ち出してしまったからな。その責任を取らせてもらいたいのだ」


 ルジャは敷物に置かれていたヌーモの殻を取り上げて、チェリルの酒をひと口あおった。


「もしも明日の族長会議で、ルジャの言葉が正しいと認められれば、我々はマダラマとヴァルブを狩ることを禁じることとなる。この先は、リオンヌやナッチャやペイフェイや――それに、北と東の森を狩り場とすることが許されるなら、ギバやムントを狩ることになるわけだな」


「それが、なんだというのだ?」


「ティアは、右肩に癒えない傷を負ってしまった。しかし、マダラマを相手取る必要がないのなら、再び狩人として働くことも可能なのではないだろうか?」


 この言葉には、ティアとふたりの妹たちが驚きの表情を浮かべることになった。

 そしてもちろん、俺とアイ=ファも同様である。アイ=ファはこれまで以上に引き締まった面持ちで、ルジャの言葉に耳を傾けていた。

 そんな中、ティアは困惑しきった表情でルジャへと呼びかけた。


「何を言っているのだ、ルジャよ。ティアはすでに、13歳となったのだ。狩人として働く期間は終えている」


「しかし、おおよその女衆が子を孕むのは、15歳を過ぎてからとなろう。ならば、もう1年ぐらいは狩人として働いてから族長となっても、遅くはあるまいよ」


 しれっとした顔で、ルジャはそのように言いたてた。


「お前は確かに右腕が肩より上にあがらぬようだが、さして苦労もなく木をのぼることができるようだった。弓を扱うにも問題はなかろうし、刀を振るうには左腕が残されている。相手がマダラマでさえなければ、なんの問題もあるまい」


「……しかし、13歳で狩人の仕事を終えるのは、古きよりの習わしだ。それをねじ曲げてまで、ティアを狩人として働かせる意味はあるまい」


 ハムラの言葉に、ルジャは「いや」と首を振る。


「俺にとっては、大いにある。ティアには、ナムカルの族長になってもらわなくては困るのだ。そして、ティアが族長となるには、狩人としての力を示してもらう必要がある。1年の半分を休んでしまったのなら、もう1年を余分に働くことによって、その力を示すこともできよう」


「何故に、ティアが族長となることをそうまで望むのだ?」


「それはもちろん、ナムカルとラズマで血の縁を結び、同胞たちに正しき道を示すためだ」


 本気とも冗談ともつかない口調で、ルジャはそのように言葉を重ねた。


「シャウタルタほどではないにせよ、ラズマもヴァルブ狩りの一族としては古き血と力を残している。それがマダラマ狩りの代表ともいえるナムカルと血の縁を結べば、これまでの悪縁を絶つ手本となろう。……しかし俺は、ティア以外の人間の婿となる気にはなれないのだ」


「…………」


「俺が知る限り、ティアは誰よりも正しき心と強き意思と、そして明敏な頭を有している。赤き民が新しい道を進むのに、ティアほど族長に相応しい人間は他にいないように思える。そのためにこそ、ティアがナムカルの族長となる道を残してもらいたいのだ」


 ティアの妹たちが、大きく口を開こうとした。

 それを、ハムラは素早く手で制する。


「それを決めるのは、ナムカルの一族だ。ティアにどのような行く末を示すべきか、我々は明日にでも論じ合うことになろう。……これ以上の口出しは、つつしんでもらいたく思う」


「ふん。ルジャの言葉は、多少なりとも重んじてもらえるのであろうかな」


「……少なくとも、このハムラがお前の言葉を軽んずることはない」


 そのように答えてから、ハムラはふっと微笑んだ。

 幼い悪戯小僧が浮かべるような、とても魅力的な笑顔である。


「ただし、我々がティアにどのような行く末を示そうとも、婚儀の相手を決めるのはティアとなる。ティアがお前を伴侶に選ぶかどうかは、はなはだ疑問であると伝えておこう」


「ふん。それは、このルジャが力を尽くすしかあるまいな」


 にっと白い歯をこぼして、ルジャは立ち上がった。


「では、他の人間にこの場所を譲るとするか。邪魔をしたな、客人らよ」


「あ、ちょっと待って、ルジャ。どうしてその話を、客人である俺たちにも聞かせようと思ったんだい?」


 俺の言葉に、ルジャはきょとんと目を丸くした。


「ティアが狩人としての力を失ってしまったことを、お前はたいそう嘆いていたのではないか、客人アスタよ? そうでなかったのなら、ルジャが心情を見誤っていたことになるな」


「ああ、うん、もちろん俺はそう思ってたけど……それじゃあ、そのために?」


「それ以外に、理由があるか? ティアが再び狩人として働けるかもしれぬと知れば、お前も喜ぶだろうと考えたのだ」


 そう言って、ルジャは丸くしていた目を細めて笑った。

 それは、彼が初めて俺たちに見せる、赤き民らしい純真な笑顔であった。


「ティアが外界で絶望せずに済んだのは、きっとお前と客人アイ=ファのおかげであるのだろう。そのことに、ルジャは深く感謝している。……それではな。明日の朝には、ルジャも見送らせてもらうぞ」


 そうしてルジャがきびすを返そうとすると、ティアが「待て」と声をあげた。

 その顔には、困り果てたような表情が浮かべられている。


「お前と婚儀をあげることなど、やっぱりティアには想像もつかないのだが……しかし、お前がティアの行く末やアスタたちの心情を思いやってくれたことには、感謝の言葉を伝えさせてもらいたい」


「ふふん。お前に感謝されるというのは、想像以上に心地好いものだな」


「だ、だけど本当に、お前と婚儀をあげる気持ちにはなっていないからな!」


「そのようにわめかずとも、道を選ぶのは早くて1年後だ。まずは、お前が狩人として働けるように祈っている」


 黒い毛皮の外套をなびかせて、ルジャは立ち去っていった。

 メグリとカシャの両名は、手を取り合ってその背中を見送っている。さきほどまで涙に濡れていたその瞳には、新たな希望の光が灯されているように思えた。


「……そろそろ、食事も尽きてきたようだ。明日の朝まで、客人らにはゆっくり休んでもらいたく思う」


 静かな声で、ハムラがそのように言い出した。


「ただ、寝床に案内する前に、客人アスタと客人アイ=ファにはしばし足労を願えないだろうか?」


「うむ? 我々に、どういった用向きであろうか?」


 アイ=ファの反問に、ハムラは口をほころばせた。


「ティアはこれより、聖水にて身を清めてもらう。その姿を、ふたりには見届けてもらいたいのだ」


                  ◇


 それからしばらくの後、すべての料理が尽きたところで、晩餐の終了が告げられた。

 家の遠い族長たちは『ペイフェイの笑う口』で一夜を明かすらしく、客人たちもそちらに案内されていく。それを尻目に、俺とアイ=ファは儀式の場へと導かれることになった。


 移動の際には、再び『封じの仮面』をかぶらされる。アイ=ファはティアの手をつかみ、俺はアイ=ファの手をつかみ、深い茂みを四半刻ほど連れ回された。


「……よし、『封じの仮面』を外してもらいたい」


 ハムラの言葉に従って仮面を外すと、まばゆいばかりの光が待ちかまえていた。その場所には、盛大にかがり火が焚かれていたのだ。

 かがり火の上には枝葉を重ねた屋根が作られ、さらに、脇からこぼれた白い煙は、人間が手にした枝葉で散らされている。これだけ夜が深まっても、彼らは煙のあがる位置を悟られないように注意を怠らなかった。


「おお、ティアよ。無事に戻ると信じていたぞ」


 その場に立ち並んでいた赤き民のひとりが、感極まった様子でティアへと呼びかける。それ以外の人々も、ティア自身も、誰もが同じ表情であった。この場にたたずんでいるのは、全員がナムカルの家人たちであったのだ。


 人数は、100名以上にも及ぶのだろう。ティアと同じ家で暮らすのは15名ていどと聞いていたが、森辺で言うところの分家や眷族といった人々も勢ぞろいしているのだ。

 そして、ティアとの再会をひとしきり喜んだ後には、俺とアイ=ファに好奇の目を向けられることになった。


「族長ハムラよ、それらは外界よりの客人であろう? 何故に客人をナムカルの家に招いたのだ?」


「客人アイ=ファと客人アスタは、外界にてティアとともに暮らし、家族のように絆を深めていた。もちろん外界の人間と家族になることは許されぬが、ティアが身を清める姿を見届けてもらいたく思ったのだ」


 威厳に満ちた声で言い、ハムラは血族の人々を見回していった。


「族長ハムラの考えに異議のある者は、名乗り出よ。族長ハムラは、決して家人の心情を軽んじたりはしない」


「ハムラは正しき族長であると、我々は信じている」


「族長ハムラの判断を、我々は信じよう」


 年かさである家人たちがそのように答えると、ハムラは「うむ」とうなずいた。


「では、清めの儀式を始めようと思う。客人らは、そちらで儀式を見届けてもらいたい」


 ここは、晩餐の場と似たような岩場であった。人々は中央で焚かれているかがり火を取り囲んでおり、俺たちもその輪に加わることを許された。


 大きなかがり火を中心として、直径5メートルぐらいの空間がぽっかりと空けられる。そこにたたずむのは、ティアとハムラのふたりきりだ。

 しばらくすると、メグリとカシャのふたりがそれぞれヌーモの殻を手に進み出る。ヤシの実のような形状をしたその天辺には、細い枝がちょこんと生えのびていた。


 俺たちが聖域に踏み入る際、ライタが手にしていたものと同じ様相である。

 ふたりがそれぞれ天辺の枝を引き抜くと、やはりその先端は筆のようにほぐされており、ワインレッドの液体でねっとりと濡れていた。


「本来は、1年の終わりに身を清める。しかし、ナムカルの族長ハムラの長姉ティアはその時間を外界で過ごしていたため、この夜に身を清めてもらおうと思う。この行いが赤き民に相応しからぬものであるのなら、父なる大神に諫めてもらいたい」


 ハムラが、厳粛なる声を張り上げた。

 その瞳は、かがり火の炎をじっと見据えている。

 この夜には風もなかったので、炎は静かにゆらゆらとゆらめくばかりであった。


「大神より諫めの意思は届けられなかった。清めの儀式を始めたく思う」


 メグリが、かしこまった様子で木の枝の筆を母親に手渡した。

 それ受け取ったハムラは、ゆっくりとティアのほうを振り返る。


「では、その魂を大神にさらすがいい」


 ティアはうなずき、腰に巻かれていた帯をほどいた。

 そして、貫頭衣のような装束と、やわらかい樹木の繊維で織られた下帯をも脱ぎ捨てる。もともと赤き民は靴を履く習わしをもっていなかったので、ティアは一糸まとわぬ裸身となってしまった。


 ティアの裸身を目にしてしまっていいのだろうかと、俺は少なからず戸惑ったが、周囲の人々は厳粛な面持ちでたたずんでいた。

 そして、ティアの後方に位置する人々だけが、こらえかねたようにざわめきをあげている。ティアの背中には、消しようのない深い傷跡が生々しく残されているのだ。


「心を乱すな。傷は、狩人の誉れである」


 低い声で言いながら、ハムラは木の枝を持ち上げた。

 それと同時に、人々は呪文のような詠唱を唱え始める。抑揚の少ない、独特のリズムを持つ不思議な詠唱であった。

 その詠唱を聞きながら、ハムラはティアの頬に刻まれた紋様を木の枝の筆でなぞっていく。左右の紋様をすべてなぞり終えると、ハムラは木の枝をメグリに返した。


 メグリは木の枝をいったんヌーモの殻の中に沈めると、ティアの右の手の甲を赤く染め始める。

 そして末妹のカシャは、左の手の甲に筆を走らせていた。


 その間に、新たな人影がふたつ、ティアの前に進み出る。どちらもハムラと同じぐらいの年頃に見える女衆だ。

 その女衆らにヌーモの殻と木の枝を手渡すと、メグリとカシャは人垣のほうに下がっていった。


 ふたりの女衆は腰を屈めて、ティアの足の甲に筆を走らせる。

 その後は、次々と2名ずつの家人が進み出て、順番にティアの身を清めていくことになった。


 くすんだレンガ色であったティアの姿が、少しずつ鮮やかなワインレッドに染めあげられていく。

 ティアはとても満ち足りた表情で、家人たちにその身をゆだねていた。


 ゆっくりと時間をかけて、すべての家人がその儀式を終えると、ティアの姿はほとんどワインレッドに染めあげられていた。

 ただし、木の枝の筆は細かったので、隈なく全身が染めあげられたとは言い難い。特に、ぼさぼさと長くのびた髪の毛などは、ずいぶんなまだらになってしまっていた。


 すると、再びメグリとカシャが進み出て、ヌーモの殻をハムラから受け取る。

 ハムラが両手を差し出すと、小さな姉妹たちはその手の平に赤き聖水を注ぎかけた。

 手の平からこぼれた聖水は、岩の地面を点々と汚していく。

 それにはかまわず、ハムラはその手でティアの髪を撫で始めた。


 ティアは、うっとりと目を閉ざしている。

 その顔を見つめるハムラの顔にも、族長としての厳粛さと母親としての慈愛があふれかえっていた。


 同じ作業をなんべんも繰り返して、ハムラはティアの全身に聖水をすりこんでいく。

 そうして――ティアの姿は、ついにすべてが聖水で赤く染めあげられることになった。


 周囲を取り囲む家人たちと同一の、鮮烈なるワインレッドの姿である。

 その姿を見つめているだけで、俺は胸が詰まる思いであった。

 これで本当に、ティアは故郷に戻ることがかなったのだ。

 その喜びと、同じぐらいの喪失感が、俺の胸中でせめぎあっていた。


 だけどまだ、涙を流してはいけない。

 俺たちのお別れは、明朝であるのだ。

 そして俺は、可能な限り、笑顔で別れを果たしたいと願っていた。


 そんな中、夜気を震わせていた詠唱がやんでいく。

 その響きが完全に消えるのを待ち、ハムラが粛然と声を張り上げた。


「清めの儀式は完了した。大神の祝福のもとに、ティアは新たな1年を生きる。その1年が希望と喜びに満ちたものであることを、ナムカルの族長ハムラは父なる大神に願う」


 人々は、堰を切ったように歓声をあげた。

 森辺の祝宴でもそうそうお目にかかれないほどの熱気と生命力が、夜の山に爆発する。


 メグリとカシャは歓喜の表情で、ティアに新たな装束を着せ始めた。

 ティアは幸福そうに笑いながら、妹たちの髪に頬をすりつける。


 そして、ティアは――同じ表情のまま、俺とアイ=ファを振り返ってきた。

 その頬に、すうっと透明な輝きが流れ落ちる。

 この上もなく幸福そうに笑いながら、ティアは涙を流していた。

 しかし、どれだけの涙があふれかえろうとも、その頬の色彩が薄まることはないようであった。

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