銀の月の十一日⑧~思わぬ議論~
2020.3/2 更新分 1/1 ・3/3 誤字を修正
・明日は2話を同時更新します。読み飛ばしのないようにご注意ください。
「邪魔をするぞ、客人らよ」
そんな言葉とともに近づいてきたのは、ヴァルブ狩りの狩人たるルジャであった。
何の気もなしに振り返った俺は、思わずぎょっとしてしまう。彼のかたわらには巨大な漆黒のマダラマが付き従っており、しかもその口に獣の屍骸をくわえていたのである。
「ラズマの長兄よ、客人の前にリオンヌの亡骸などをさらすのは、非礼ではないか?」
すかさずライタが鋭い声をあげると、ルジャは悪びれた様子もなく肩をすくめた。
「これは、そちらのマダラマの食事だ。マダラマは、人前で食事をすることも許されぬのか?」
「マダラマの食事とは、獲物をひと呑みにする行いであろうが? そうしてマダラマは、我々ナムカルの人間をも喰らう。マダラマが獲物を呑み込む姿など、ライタだって目にしたいとは思えない」
「それを言うなら、ヴァルブが我々を獲物とするのも同じことであろうが? しかし我々は、ヴァルブがリオンヌの内臓をむさぼる姿を忌避したりはしない」
ライタは癇癪を起こした様子で、ワインレッドの髪をかき回した。
「お前と言葉を交わすのは、腹立たしくてならない。我々は客人らの相手をしているのだから、とっとと消え失せるがいい」
「客人らと言葉を交わすことは、ナムカルとシャウタルタの人間にしか許されていないのか? ルジャも、客人らと言葉を交わしたく思っている」
そのように言いたてるルジャがちらりと見やったのは、静かに食事を進めていたジェムドであった。
「それに、そのように考えているのは、ルジャだけではないはずだ。他の者たちも、さきほどから客人らを遠巻きにしている。外界の人間と言葉を交わす機会などはそうそうないのだから、それが当然であろう」
ルジャの言葉を受けて、ハムラとラアルが周囲に視線を巡らせた。
俺もそれを真似てみると、確かにたくさんの人々がじっと俺たちの姿を注視している。そのおおよそは、晩餐を作るために集められた幼き女衆であるようだった。
「……客人らは、我々の同胞と言葉を交わすことを望むか?」
やがてハムラがそのように問い質すと、森辺の狩人らはドンダ=ルウへと視線を集めた。
チェリオの酒をがぶがぶと飲んでいたドンダ=ルウは、ぶっきらぼうに「ふん」と鼻を鳴らす。
「俺はどちらでもかまわぬが、それを望む人間は少なくないように思う」
「そうか。しかし、この敷物にはこれ以上の人間も座れまいな」
ハムラの言葉に、ライタが「では」と立ち上がった。
「ライタは、《白》に食事を与えようと思う。森辺の民は生き血を忌避する習わしを持っているという話だったので、きっとリオンヌの血や内臓の臭いを不快に思うことだろう」
「そのヴァルブを、連れていってしまうのか? では、俺も同行させてもらいたいものだな!」
と、ダン=ルティムが性急に腰を浮かせた。
「それに、他のヴァルブももっとじっくり拝ませてもらいたかったのだ! それは、許されぬ行いであろうか?」
「いや、こちらはかまわない。ヴァルブたちは、岩場の隅でリオンヌの肉を喰らっているはずだ」
すると、バードゥ=フォウとチム=スドラも同行を願った。ヴァルブに興味を持ったというよりは、他の人々のために席を譲ろうと考えたのだろう。
「……このように巨大なマダラマがふたりもいては、怖がる幼子もいるはずだ。《白》はこの場を退くのだから、マダラマたちも退くべきではないか?」
ライタが反感をあらわにしてそう告げると、ルジャは「ふふん」と肩をすくめた。
「いちいち、つっかかるやつだ。ルジャがティアに婚儀を求めたことが、そんなに気に食わなかったのか?」
「ティアがヴァルブ狩りの一族と婚儀をあげることはない。族長ハムラも、そのような真似は決して許さないはずだ」
その件は、すでにライタから告げられていたのだろう。ハムラは無言のまま、薄笑いを浮かべたルジャをねめつけている。
それでもルジャは悪びれた様子もなく、かたわらの黒きマダラマの背を撫でた。
「せっかくルジャの友である《ベルゼ》を客人らに紹介しようと思ったのだがな。《ベルゼ》よ、ルジャはしばらく客人らと語らおうと思うので、お前は同胞らと食事を楽しんでくるがいい」
「《ベルゼ》?」と、ガズラン=ルティムが反応した。
「その黒きマダラマは、《ベルゼ》という名であるのですか。それは、赤き民が刀として使う石と同じ名であるようですね」
「うむ。ベルゼの石も黒くて硬いので、我々はこのマダラマを《ベルゼ》と呼ぶことにした。ラズマともっとも親しくしているマダラマの一族の族長だ」
まだリオンヌなる獣をくわえたままである黒きマダラマは、まるで挨拶をするかのように首を上下させた。
ラアルのかたわらに陣取っている白きマダラマにも負けない巨大さだ。漆黒と純白のマダラマという取り合わせは、御伽噺のワンシーンのように神秘的に思えてならなかった。
ちなみに《ベルゼ》がくわえているリオンヌという獣は、どこかハイエナにも似た風貌をしていた。中型の犬ぐらいの大きさで、全身にごわごわとした褐色の毛を生やしており、頭頂部から背中にかけてはモヒカンのようなたてがみをなびかせている。今は絶命しているので穏やかな面持ちであったが、鼻面に皺を寄せたら途端に凶悪な面相になりそうな顔立ちであった。
「では、しばし失礼する。他の客人らも、まずは腹を満たしてもらいたい」
そんな言葉を残して、ライタは《白》およびダン=ルティムらとともに立ち去っていった。
また、ラアルの供である男衆は、2頭のマダラマとともに反対の方角へと消えていく。
これで5名もの人間が席を立ったので、敷物にはゆとりが生まれた。
ルジャは満足そうに笑いながら、ジェムドのかたわらにあぐらをかく。
「ようやく腰を落ち着けることがかなった。客人ジェムドは、ルジャと言葉を交わしてくれるであろうか?」
「ええ、如何様にも」
ジェムドはまったく臆する様子もなく、ルジャを見返した。
すると、小さな人影がいくつもこちらに近づいてくる。
「ナムカルの族長ハムラ、我々も客人と言葉を交わすことは許されるのか?」
「シャウタルタの族長ラアル、我々もそれを問いたく思っていた」
どうやら赤き民は、このような幼子でもけっこうかしこまった言葉づかいをするようであった。
まあ、ようやく13歳になったばかりのティアもああであったのだから、それも不思議なことではないのだろう。しかし、リミ=ルウと同年代ぐらいにしか見えない幼子までもがそのようにかしこまっているのは、なかなかに可愛らしかった。
「言葉を交わすのは、かまわない。ただし、決して掟を破るのではないぞ?」
「わかっている」とうなずきながら、幼子たちは敷物に膝をついた。
人数は、5名だ。俺の隣に生じた空きスペースには、その内の3名が陣取ることになった。
「へえ……君たちは、みんな瞳の色が違っているんだね」
俺がそのように呼びかけると、幼子のひとりがぴょこんと背筋をのばした。
「客人は、本当に赤き民と同じ言葉を使うのだな。それを、不思議に思う」
「うん。俺もティアと初めて会ったときには、少し不思議に感じたよ」
俺がにっこり笑ってみせると、幼子たちははにかむような表情になった。やっぱり、ティアに劣らず純真な気性であるようだ。
「えーと……それで客人は、さっき何と言っていただろうか?」
「俺が言ったのは、瞳の色に関してだね。これまでは、赤い瞳しか見る機会がなかったからさ」
しかし族長会議の場においても、俺はさまざまな瞳の色が存在するのだろうと見当をつけていた。ただ、星の苔の青白い輝きでは、それが何色であるのかを判ずることもできなかったのだ。
俺のかたわらに座した女の子たちは、それぞれ青色、緑色、そして銀灰色の瞳をしていた。
族長会議の場でも話題にあがった、銀色の瞳だ。その美しくも不可思議な色合いは、俺の好奇心を刺激してやまなかった。
「……白き民の末裔でなくとも、銀色の瞳に生まれつくことはあるのですね」
俺がそのように言いたてると、ラアルはにやにやと笑いながら「むろんだ」と応じた。
「もともとすべての民は、同じ地で同胞として暮らしていたのだからな。七色の瞳は、すべて存在する。ただ、銀や紫の瞳はずいぶん少ないように思う」
「そうですか。外界において、紫色の瞳というのは、北の民の特徴とされています。あと……西の王国でも、北寄りの地域では灰色の瞳が多いと聞いているのですよね。彼女の瞳の色なんかは、俺の知る灰色の瞳とよく似ているような気がします」
言うまでもなく、それはメルフリードやオディフィアの瞳についてであった。あれはたしか、北方のアブーフという土地を出自とするメルフリードの母親から受け継いだものである、という話であったのだ。
(それに、ジャガルとマヒュドラはもともと同じ一族だったんじゃないかって俗説もあったよな。そう考えると、白銀の瞳を持つ北方の一族が南方に移り住んで……それが大神の眠りとともに、白き聖域にこもったっていうことなんだろうか)
そのように想像をふくらませると、俺はなんだか妙にワクワクしてしまった。
ほんの少しだけ、フェルメスの気持ちがわかったような気がする。彼はこうやって書物や俗説から知識を学び、あれこれ推論を巡らせることを至上の喜びとしているのだろう。
(まあフェルメスは、それにのめりこみすぎてるっていうことなんだろうけど……でも今回は、その知識にものすごく助けられることになっちゃったな)
俺はこっそり、ルジャと語らっているジェムドのほうに視線を巡らせた。
俺たちは誰もがティアのために言葉を重ねていたが、その中でもジェムドの弁は際立っていたように思う。ジェムドひとりでティアを救うことはかなわなかったろうが、ジェムドなくしてティアを救うことはかなわなかったように思えてならなかった。
「……客人は、やっぱり我々と言葉を交わすのを忌避しているのだろうか?」
と、幼子のひとりがすねたような口調でそのように告げてきた。
「そんなことはないよ」と、俺は笑いかけてみせる。
「ごめんね、ちょっと他のことに気を取られちゃってたんだ。俺とどんな言葉を交わしてくれるのかな?」
幼子たちは、好奇心に瞳を輝かせながら身を乗り出してきた。
「外界は、ものすごく広いのだと聞いている。このモルガの山よりも、うんと広いのだろうか?」
「外界には、どのような獣が潜んでいるのだろう? マダラマのように恐ろしい獣も存在するのだろうか?」
「その首に下げているのは、なんの獣の牙であろうか? 客人はそんなに弱そうなのに、そんな大きな牙を持つ獣を狩ることができるのだろうか?」
アイ=ファをはさんだ反対側では、ガズラン=ルティムやシュミラル=リリンが質問責めにあっているようだった。
しかし、どれも無邪気で無害な質問であるようだ。鋼の切れ具合だとか、石の都の様子を聞かれたりはしない。このような幼子でも、聖域の禁忌については厳しく説かれているのだろう。
俺は食事を進めながら、そんな幼子たちとの会話を楽しんだ。
その和やかな空気が一気に叩き壊されたのは、四半刻ていどが過ぎたのちのことであった。
「我々の母にして、ナムカルの族長たるハムラに聞きたいことがある!」
これまた幼い女の子の声が、食事の場に響きわたる。
びっくりして振り返ると、そこに立ちはだかっていたのはティアとふたりの妹たちだった。
声をあげたのは、妹たちのどちらかであろう。両名は怒りに眉を逆立てており、ティアだけが困り果てたように眉を下げていた。
「騒がしいな。客人らの前で、そのように声を荒らげるものではない」
彼女たちの母親であるハムラは、威厳を込めた声でそのようにたしなめた。
しかし、上の妹であるメグリが不退転の決意を込めて、さらに詰め寄ってくる。
「母にして族長たるハムラよ。ティアは、自分に族長の資格はないと言い張っている。それが真実でないことを、ティアに告げてもらいたい」
ハムラはうろんげに眉をひそめて、娘たちの顔を順番に見回していった。
「そのような話は、ナムカルの家人全員で話し合い、決するべきであろう。……ただ、ティアがそのように考えたことは、とても正しいと思う」
「どうして!? ティアは、すべての罪を贖った! だったら、族長になるべきだと思う!」
「しかしティアは、1年の半分を傷ついた身で過ごした。族長となるべき女衆は、狩人として働く3年の間に強き力を示さなければならない。1年の半分を休むことになったティアに、族長の資格はないように思う」
「そんなの、おかしい!」と、下の妹カシャもがなりたてた。
「ティアはナムカルの中でも、すごく優れた狩人だった! ティアが族長になれなかったら、誰が族長になるの!?」
「それはもちろん、次姉のメグリとなる。メグリもまた強き力を示すことがかなわなければ、末妹のカシャとなろう」
ハムラは断固たる口調で、そう言った。
「メグリにはあと2年、カシャには3年の時間が残されている。その時間で、かつてのティアにも負けない力を示すのだ」
「うむ。ティアもそのように言いつけたのだが、メグリもカシャもまったく聞き入れてくれないのだ」
ひとり困惑顔のティアが、そのように口をはさんだ。
「カシャもついに狩人となって、リオンヌを矢で仕留めたと自慢していたのに、自分に族長の力はないと言い張っている。ティアには、さっぱりわけがわからない」
「だって、カシャは……ティアみたいな狩人を目指していたから! ティアが族長になれないのに、カシャやメグリが族長になるなんて、絶対におかしい!」
「メグリも、そう思う。ティアぐらい立派な狩人だったら、どんな男衆でも婚儀を断ったりはしない」
俺が言葉を失っていると、隣のアイ=ファがごく低い声でつぶやいた。
「そうか……ティアの妹たちも、すでに狩人としての仕事を果たしているのだな」
そう、俺もまずはその一点に驚愕させられていた。
赤き民は身体が小さいので、実際の年齢よりも若く、幼く見えるのだ。しかしまた、聖域では10歳から狩人として働き始めるという話であったので、それならばメグリやカシャが狩人であるということも自明の理であった。
(さっきのハムラの口ぶりからすると、メグリが11歳でカシャが10歳っていうことか。だったら、そこまで外見とかけ離れてるわけじゃない。ただ、10歳で狩人の仕事を始めるっていう習わしのほうが、とてつもないだけなんだ)
たとえばターラなども、銀の月を迎えるとともに10歳となっている。それと同い年と考えれば、カシャも幼すぎるわけではない。しかし、この可愛らしい女の子が狩人の衣を纏い、刀や弓矢を振るっているところなど、なかなか想像できるものではなかった。
(で……そんな話はさて置いて、跡継ぎ問題でもめることになっちゃったわけか)
聖域において、赤き民の女衆は13歳になると同時に狩人の仕事を引退し、族長の座を母から受け継ぐのだと聞いている。だから本来、ティアも先日の年明けとともに、母親のハムラから族長の座を引き継いでいたはずであったのだった。
「メグリ、カシャ、あまり族長を困らせてはいけない。ティアは家族のもとに戻れただけで、十分に幸福であるのだ」
やがてティアはあの純真なる微笑みをたたえながら、妹たちの髪を撫でた。
「メグリでもカシャでも、ティアより立派に族長の役目を果たすことがかなうだろう。ティアは一族の女衆として、それを支えたいと思う。どうかマダラマに喰われてしまわないように気をつけながら、狩人としての力を示してもらいたい」
妹たちは、それぞれ涙を浮かべながら、ティアを振り返った。
メグリはすっかり泣き顔であり、カシャは怒った顔をしている。ただ、どちらも深い悲しみにとらわれていることは明白であった。
そこに、場違いな笑い声が響きわたる。
笑っているのは、ルジャであった。
「それは確かに、ティアほどの狩人であれば、婚儀を願う男衆も後を絶たないだろう。ナムカルの族長の子ティアといえば、マダラマの間でも語り草になるほどの狩人であったからな!」
ティアはうんざりした様子でルジャを振り返った。
「ルジャよ、これはナムカルの問題だ。場を騒がしてしまったことは詫びるが、ラズマのお前には黙っていてもらいたく思う」
「しかし、そうも言っておられまい。これは、我々の行く末にも大きく関わってくることだからな」
ルジャは立ち上がり、岩場にあふれかえった聖域の民たちをぐるりと見回していった。
「それにこの場には、聖域の族長たちがすべて顔をそろえている。赤き民のみならず、マダラマもヴァルブの族長もだ。ならば、このような好機は他にあるまい。ラズマの族長ホルアの長兄ルジャは、すべての族長に告げたい言葉がある」
「おい、ルジャ――」
「ルジャは、ティアと婚儀をあげたく思っているのだ。族長たちには、祝福してもらえるだろうか?」
岩場を満たしていたざわめきが、波が引くように静まりかえっていった。
ただ、緊迫している様子はない。むしろ、とろんと弛緩したような静寂だ。
「お前は何を言っているのだ、ラズマの長兄よ。ラズマはヴァルブ狩りの一族であり、ナムカルはマダラマ狩りの一族であるのだ。それでは血の縁など、結びようがあるまい」
手近な場所にいた女衆が、そのように言いたてた。かたわらには毛皮のマントを纏った男衆がたたずんでいるので、おそらくヴァルブ狩りの一族の族長であるのだろう。
そちらを振り返りつつ、ルジャはさらに声を張り上げた。
「そのおかしな習わしこそを、ルジャは打ち砕きたいと願っている。我々は同じ赤き民でありながら、どうして異なる獣を友とし、獲物としているのであろうか? このよう習わしは捨て去って、我々はさらに大きな力をつけるべきだと思う」
「しかし、我々は友たるマダラマを獲物とすることはできない。マダラマ狩りの一族とて、今さらヴァルブの肉を喰おうとは思わないだろう。これでは、習わしを捨てることもできまい」
「だったら、マダラマもヴァルブもともに友とすればいい。そうすれば、我々はさらなる力を身につけられるはずだ」
すると、無言でルジャの言葉を聞いていたラアルが、おもむろに立ち上がった。
「ラズマの長兄よ、その突拍子もない話は、族長の許しを得た上で口にしているのか?」
「いや。母にして族長たるホルアにも何度となく聞かせているのだが、なかなか首を縦に振ってくれないのだ」
「呆れたやつだな、お前は。……ラズマの族長ホルアよ、お前も黙っているわけにはいくまい」
岩場の片隅から、ホルアと思しき女性が近づいてきた。その後ろには、黒きマダラマたる《ベルゼ》も追従している。
「ホルアの子たるルジャが場を騒がせてしまい、申し訳なく思っている。ルジャよ、控えるがいい」
「いや、今日こそはすべてを語らせてもらおうと思う。すべての族長がルジャの言葉を退けようというのなら、それまでのことだ。母にして族長たるホルアも、どうか見守ってもらいたい」
ホルアは深々と溜め息をついてから、ラアルのほうを振り返った。
「古き血の族長ラアルよ、ルジャがこの場で語ることを許してもらえるだろうか? すべての族長がルジャの言葉を退ければ、もうこのような騒ぎも起きないはずだ。……そして、ラズマの族長たるホルアは、2度と長兄ルジャを供として連れてこないことを誓う」
「そうか。ナムカルの族長ハムラも認めるなら、ラアルはかまわないと考えている」
ラアルに視線を向けられて、ハムラはしばし無言であった。
ティアによく似たその顔には、とても厳しい表情が浮かべられている。その末に、ハムラは「よかろう」とつぶやいた。
「ハムラの子たるティアにもまつわる話であるようなので、ルジャの言葉は最後まで聞き届けたく思う。大神の怒りに触れぬよう、つつしんで語ってみせるがいい」
「ラアルとハムラのはからいに感謝する。……しかし、大神が怒る理由はあるまい。いずれの獣を友とし、いずれの獣を獲物とするかは、赤き民の手にゆだねられているはずだ。我々が友とするべきは、心を通じ合わせることのかなう聖獣のみ――それこそが、聖域の掟であろう?」
「うむ。だからこそ、ヴァルブと心を通じ合わせることのかなった一族はヴァルブを友とし、マダラマと心を通じ合わせることのかなった一族はマダラマを友とした。それで話は終わっていよう」
「いや、まったく終わってはいない。我々は聖獣という友を得た代わりに、同胞たる赤き民の半分とは友でなくなってしまった。おたがいの友である聖獣を狩る一族を、友と呼ぶことはかなわないのだからな!」
ルジャはふてぶてしい笑みを浮かべていたが、そのガーネットのごとき双眸には火のような輝きが宿されていた。
部外者たる俺には、何がルジャをそうまで駆り立てているのかはわからなかったが――彼が真剣であり必死であることは、十二分に伝わってきた。
「聖域の民は、すべてが同胞だ。ヴァルブ狩りの一族でも、ヴァルブを同胞として認めている。それは、同胞たるマダラマ狩りの赤き民が、ヴァルブを同胞と認めているゆえだ。しかし我々はヴァルブを狩り、その肉を喰らっている。同胞を殺めてその肉を喰らうことなど、それこそ禁忌に触れてしまうのではないだろうか?」
「それが禁忌であったのなら、大神の怒りが下されていよう。我々はもう長きに渡って、このような暮らしを続けているのだ」
「ならば、それでもかまわない。しかし我々は、大神が目覚めるその日まで、赤き民としての強き血を残さなければならないのだ。マダラマとヴァルブをともに友とすることができれば、より強き血を数多く残せるのではないだろうか?」
抑揚のある声で、ルジャはそのように言いたてた。
なんというか、人の耳をひきつける声音と口調である。ティアとそれほど年齢も変わらなそうな若衆であるのに、そこには一種の風格めいたものさえ感じられた。
「そもそもルジャは、赤き民の間に諍いが起きることを懸念している。マダラマ狩りの一族とヴァルブ狩りの一族は、おたがいを忌避し合っているではないか? これは大神の民として、相応しい行いであるのだろうか? 我々は、もっと確かな絆を深めるべきなのではないだろうか?」
「それでも我々は、おたがいを同胞と認めている。絆が断ち切れてしまったわけではあるまい」
と、今度はマダラマ狩りの一族の族長がそのように反問した。そのかたわらには、灰褐色の毛並みをしたヴァルブがたたずんでいる。
ルジャは強く燃えさかる目で、そちらを見据えた。
「では、問おう。お前はそこのヴァルブとこのルジャの、どちらを好ましく思うのだ? 友たるヴァルブと、ヴァルブの毛皮を狩人の衣として纏うこのルジャの、どちらが好ましい存在であるのだ?」
「それは……答えるまでもなかろう」
「うむ。それが当たり前のこととしてまかり通ってしまう現状を、ルジャは不安に思っている。我々は、同胞である赤き民よりも、友たるヴァルブやマダラマを慈しんでしまっているのだ。およそ半数にも及ぶ同胞を、友よりも下の存在と見なしてしまっている。これが正しい行いであるとは、とうてい思えない」
「しかし、今さらヴァルブとマダラマの両方を友とすることはできまい。また、ヴァルブがマダラマを友とすることもできないはずだ」
「そうだ」と、別の族長も応じた。
「ヴァルブとマダラマは、心を通い合わせることがかなわない。だからこそ、我々はその片方と絆を結ぶに至ったのだ」
「しかし、赤き民の半数はマダラマと、もう半数はヴァルブと心を通い合わせることができている。そうでなければ、こうしてマダラマとヴァルブの両方を呼びつけて、族長会議を行うこともかなわなかろう。我々が架け橋となれば、マダラマとヴァルブもこうして諍いを起こすことなく平穏に過ごすことがかなうのだ」
「だが……モルガの山において、マダラマとヴァルブを狩ることができるのは、赤き民だけだ。我々が、その両方を友としてしまったら……マダラマとヴァルブの数が増えすぎてしまうのではないだろうか?」
いくぶん勢いをなくした様子で、族長のひとりがそう言った。
ルジャは余裕の表情で、そちらを振り返る。
「マダラマとヴァルブの数が増えて、何か困ることでもあるのだろうか?」
「あるに決まっている。マダラマとヴァルブが増えすぎれば、より多くの獲物が必要となろう。それでは、リオンヌやペイフェイやナッチャを狩り尽くすことになるやもしれん。そうしたら、マダラマもヴァルブも我々も、全員が飢えてしまうことになろう」
「うむ。それはかつて、ティアにも同じことを言われたな。すいぶん先の心配をするものだと、ルジャは笑うばかりであったのだが、族長ともなればそこまで考えを巡らせるのが当然なのであろうか」
そのように語りながら、ルジャはいっそう愉快げに笑った。
「その点に関して、ルジャも正しい答えを見出すことはできずにいた。しかしルジャは今日、客人ジェムドと出会うことができた。これこそが、大神のはからいではないかと思えるほどだ」
「客人ジェムドか」と、ラアルが苦笑まじりに口をはさんだ。
「お前はきほどから、ずっと客人ジェムドと語らっていたな。そうしてひそかに悪巧みを進めていたというわけか」
「悪巧みではない。我々が進むべき道を見出したのだ。客人ジェムドは、我々が知るすべのない外界の様子を教えてくれた。それでルジャは、たとえマダラマとヴァルブの数が増えても飢えずに済む方法を見出したのだ」
「……外界の民に助力を願い出ることなどは、決して許されぬぞ?」
「助力など願い出ない。ただ、我々の知らないことを教えてもらっただけのことだ」
ルジャはちらりとジェムドのほうを見やってから、言った。
「我々は、モルガの山麓に広がる森を、すべて外界と見なしていた。しかし、外界においては西側と南側だけが自分たちの領土であり、東側と北側は聖域であると見なしていたのだ。……族長たちは、それを知っていたのであろうか?」
答える者は、いなかった。
つまりは、それが答えであるのだろう。
「客人ジェムドよ、お前の言葉は少し難しかったので、ルジャは正しく繰り返せるかどうか自信がない。手間をかけさせてしまうが、さきほどの言葉をもうひとたび繰り返してもらえるだろうか?」
「承知しました」と、ジェムドはあっさり承諾した。
「モルガの山麓に広がる森は、すべてジェノスの領土とされています。ただし、ジェノスというのはモルガの西側に位置する領土であるため、北側や東側の山麓までをも管理する力を持たないのです。南側には森の外にいくつかの村落や東の王国に通じる街道が存在するため、名目上はジェノスの領土として管理していることになっていますが……そもそも山麓の南側にはギバが少ないため、果たすべき仕事も存在しないのです」
「しかし……森では、森辺の民が暮らしているのであろう?」
ラアルの言葉に、ジェムドは「はい」と首肯する。
「ですが、森辺の集落というのも、モルガの西側に位置しています。この先、森辺の民の人口が10倍にふくれあがったとしても、集落は北側に切り開かれるばかりで、東側に転じることもないでしょう。モルガの森というのは、それだけ広大であるのです」
「それで、山麓の北側と東側が聖域であるというのは、どういう話であるのだ?」
「それは、文字通りの意味でしかありません。ジェノスにはその場所を管理する力がないために、聖域と見なして放置しているのです。また、自分たちが自由開拓民から引き継いだのは西側の領地のみであるために、トトスに乗っても数日がかりとなる場所の管理までは請け負えないと考えたのでしょう」
「…………」
「さらに言うならば、モルガの森の北と東の外側には、不毛の荒野が広がっています。そちらから人間が踏み込む恐れは存在しないため、管理する必要性も生じなかったのでしょう」
「いや。かつて我々の狩り場にも外界の人間が踏み入ったことはある。もう何十年もの昔の話かもしれないが、我々の狩り場は山の北側に位置しているぞ」
族長のひとりがそのように言いたてると、ジェムドは涼しげな眼差しでそちらを振り返った。
「それは、北側というよりも北西の位置なのではないでしょうか? 森の外の西側には街道が切り開かれているために、そこは多くの人間が行き来しています。なおかつ、ギバの数がこれほどに増えたのは80年ていどの昔ということであったので、それより前の時代であったのなら、迂闊な旅人が森や山を踏み荒らすこともあったのでしょう」
「うむ……まあ、この場所から見れば、北西の位置となろうな」
「あくまで、モルガの山を中心としてお考えください。モルガの山の最西部に立ち、北を向いた状態で、左手側がジェノスの管理する領土、右手側が聖域となります。また、山の最南部に立ち、東を向いた状態で、右手側がジェノスの管理する領土、左手側が聖域となります。よって、山の北側と東側は聖域と見なされている、と表現させていただきました」
ジェムドの言葉は、あくまでも澱みがなかった。
それでこの話題は、いったいどのような形で収められるのかと、俺はアイ=ファたちとともに無言で見守らせてもらうしかなかった。