銀の月の十一日③~ペイフェイの笑う口~
2020.2/26 更新分 1/1
視界をふさがれた過酷な登山で、俺は極限まで体力を絞り取られることになった。
膝も足首も股関節も、焼けた杭でも刺されたかのようにずきずきと痛み、モモやふくらはぎは痙攣するように震えを帯びている。そして、水でもかぶったかのように全身が汗だくで、咽喉や肺はひきつるように痛んだ。
しかしこれは、ティアの同胞たちが定めた習わしであり、掟であるのだ。この苦難を乗り越えない限り、聖域に踏み込むことは許されないというのなら、俺は本当に自分の力で一歩も進めなくなるまで、余人の手を借りたくはなかった。力が尽きたら余人の手を借りてもよいという、そんな聖域の民たちの温情に、たやすくすがるべきではない、と思えてならなかったのだ。
『封じの仮面』に視界をふさがれて、口をきくことも水を飲むことも許されないまま、俺たちはひたすら険しい山道を歩き続けた。そのおおよそは深い茂みの中であったようだが、ときおり岩場らしい場所も歩かされた。それに、のぼる一方ではなく緩やかな下り道を通ることもあり、そういうときこそいっそうの注意が必要だった。
そうして、どれだけの時間が過ぎたのか――
何度目かの極限を迎えて、俺の意識が少し遠のきかけていたときに、前方からライタの声が聞こえてきた。
「見えてきた。あれが、族長会議の場所――『ペイフェイの笑う口』だ」
俺は脱力して、思わずへたり込みそうになってしまった。
そこに、さらなる声が聞こえてくる。
「あと100歩ほどで、約束の場所の入り口に到着する。最後まで、掟を守り抜いてもらいたい」
その100歩が、俺には無限に感じられてしまった。
足はがくがくと震えだし、心臓の鼓動が頭の中にまで響いているような感覚だ。これまでこらえていた苦痛や疲労が、倍する勢いで襲いかかってきたかのようだった。
「……よし、よかろう。全員が掟を守り抜けたことを、喜ばしく思う。『封じの仮面』を外し、しばし身を休めてもらいたい」
その言葉が耳に届くなり、俺はぐらりと倒れかかってしまった。
その背中が、力強い手によって支えられる。そして、俺のかぶっていた仮面が荒っぽく剥ぎ取られた。
「大丈夫か、アスタよ? ひどい有り様ではないか」
アイ=ファの怒った顔が、俺を横から覗き込んでくる。
そうしてアイ=ファは俺の身体を支えながら、その場にそっと座らせてくれた。
「お前は、か弱きかまど番であるのだ。意地を張るのも、大概にするがいい」
俺は何か答えようとしたが、咽喉がひきつって上手く喋ることができなかった。
同じ表情のまま、アイ=ファはマントの隠し袋から抜き取った水筒を突きつけてくる。
「慌てずに、少しずつ飲むのだぞ。その縄は、もう離してもよい」
俺はまだ、右手にしっかりと縄をつかんだままであったのだ。
縄を離して水筒を受け取ろうとすると、指先が細かく震えていた。
アイ=ファの手に支えられながら水筒の水を口にすると、えもいわれぬ清涼感が身体を満たしていった。常温の水が、まるで甘露のようである。
「ああ、生き返ったよ。……さすがにアイ=ファは、平気な顔をしているな」
「……お前に比べれば、当たり前だ」
アイ=ファは俺の肩をぎゅっとつかみながら、こめかみのあたりにこつんと額をあててきた。
「お前が聖域の掟を重んじたいと願うのは、わかる。しかしそれでも、このように無茶をするものではない」
「うん、ごめん。何度も限界を迎えそうだったんだけど、ちょうどいい感じに小休止が入るもんだから、音をあげる機会がなかったんだよ」
そう言って、俺はアイ=ファに笑いかけてみせた。
「ところで、アイ=ファに腸詰肉を預けてたよな。1本、分けてくれないか?」
「なに? 疲れが癒えるまで、食事を口にするべきはないように思うぞ」
「そうかもしれないけど、たぶん汗をかきすぎて塩分が不足してるんだよ。塩気が欲しくて、身体が悲鳴をあげてる感じなんだ」
アイ=ファは俺の頭をぐしゃぐしゃにかき回してから、腸詰肉を取り出してくれた。
確かにこの状態では胃の調子も覚束ないので、かじった腸詰肉はキャンディのようにしゃぶることにする。そこからにじみでる塩気と滋養が、俺の頭をいっそう明瞭にしてくれた。
そこでアイ=ファが、「うっ」と低い声をあげる。
アイ=ファはひときわ怖い顔をして、また俺の頭をかき回してきた。
「お前は、足から血を流しているではないか! どうして、早く言わないのだ?」
「え? あ、本当だ……足のマメが、つぶれちゃったんだろうな」
俺たちが履いているのは、革のサンダルであったのだ。右の親指の付け根のあたりから、足の甲にまでつうっと血の糸が垂れているのが見えた。
「……手当てをするので、身を離すぞ。倒れてしまわぬように、自分で身を支えるのだ」
「うん、大丈夫だよ」
俺は右手でかじりかけの腸詰肉を握りしめつつ、左手を地面についてみせた。
それで初めて気づいたのだが、ここは茂みではなく岩場であった。
アイ=ファが俺の足もとに回り、革のサンダルをほどき始める。アイ=ファには申し訳なかったが、まだ自分で手当てをできるほど、俺の体力は回復していなかった。
(他のみんなは――)
周囲を見回してみると、他の人々は思い思いにくつろいでいた。
その中で、レイリスが岩場にひっくり返ってしまっている。分厚い胴着に包まれている胸は大きく上下しており、綺麗にセットされていた髪もワイルドに乱れてしまっていた。
「ア……アスタ殿も、さすがに森辺の民ですね……わたしも、このようにぶざまな姿はさらしたくないのですが……」
レイリスが首だけをこちらに向けて、そのように言いたててきた。その声も、別人のようにかすれてしまっている。
「うむ! ようやく口をきけるようになったか! ならばそろそろ、水でも飲むがいい!」
ダン=ルティムが、のっしのっしとこちらに近づいてきた。アイ=ファ同様、ちょっとした山登りを楽しんだぐらいの状態であるようだ。やはり、森辺の民の体力というのは規格外であった。
「しかし、あっちのあやつはなかなかの頑丈さであるようだな! 町の人間としては、大したものだ!」
レイリスの身体を抱え起こしながら、ダン=ルティムはそう言った。
その視線を追ってみると、ジェムドが少し離れた場所で、周囲の情景を観察している。岩場に立ったその姿には、疲労の陰も感じられなかった。
「客人よ、あまり離れないでもらいたく思う。我々の許した場所からその足を踏み出せば、ここまでの苦労が無駄になってしまうからな」
と、ティアと何やら語らっていたライタが、ジェムドに向けて言葉を飛ばした。
ジェムドはひとつうなずいて、こちらに舞い戻ってくる。彼が見回していたのは、俺たちが踏み越えてきたと思しき、深い森の様相であった。
それとは反対の側に目をやってみると、こちらには岩山がそそり立っている。ほとんど垂直に近いぐらいの傾斜であり、頭上の最果てには暗緑色の茂みがこんもりと重なっていた。岩山というよりは、断崖の側面と称するべきなのかもしれなかった。
その断崖の中ほどに、ぱっくりと黒い亀裂が走っているのがうかがえる。
断崖の高さは10メートルほどで、亀裂の位置は5メートルぐらいであろう。横向きの半月形で、その幅も5メートルぐらいはありそうだった。
「あれが、『ペイフェイの笑う口』だ。入り口はいささか窮屈だが、奥には深く洞穴が広がっているので、族長会議の場に定められている」
と、ライタがそのように説明してくれた。
それを機に、あちこちに散っていた人々もこちらに寄り集まってくる。森辺の狩人たちは、誰もが壮健な様子であった。
「シュミラル=リリン、お疲れ様です。さすが、森辺の狩人ですね」
「いえ。限界、近かったです」
そのように語りながら、シュミラル=リリンは普段通りの穏やかな面持ちで微笑んでいる。狩人としての歴は1年ていどであっても、やはり相当に鍛えられているのだろう。疲労困憊の状態にあるのは、俺とレイリスのみであるようだった。
「……アスタにこのような苦労をかけさせてしまって、心から申し訳なく思う」
と、ティアが俺の顔を覗き込んできた。
言葉の通りの表情を浮かべているティアに、俺は笑いかけてみせる。
「何も申し訳なく思う必要はないよ。俺は俺の意思で、同行を願ったんだからね。ティアがこれまでに背負ってきた苦労に比べれば、どうってことはないさ」
「ティアは、自分の犯した罪を贖っていただけだ。アスタは、ティアと関わってしまったばかりに、このような苦労を背負うことになってしまったのだぞ」
「それでも、ティアに出会えた喜びのほうが、何倍もまさってるさ」
ティアは慌てた顔になって、身を引いた。
「これから族長たちに釈明をしなければならないのに、涙を流すことはできない。アスタも、ティアを泣かせるような言葉はつつしんでほしい」
「ごめんごめん。そんなつもりじゃなかったんだよ」
ティアはちょっともじもじしていたが、やがて何かをふっきるように、にこりと微笑んだ。
そんなティアの笑顔を横目で見やってから、ライタはドンダ=ルウを振り返る。
「息が整ったら、会議の場に参じてもらいたく思う。族長たちは、すでにあの場で待っているはずだ」
「了解した。……ずいぶん日も傾いているようだな」
頭上を見上げながら、ドンダ=ルウがそのように答えた。
深い森と断崖にはさまれた場所であるので、俺には太陽の位置もわからない。しかし、わずかに差し込む陽光には、早くも黄昏刻の気配が感じられた。
(時間の感覚なんて、完全になくなってたけど……ほとんど半日、歩かされてたってことか。そりゃあ森辺の狩人じゃなきゃ、へたばるわけだ)
そこでアイ=ファが、「よし」と身を起こした。
「傷の手当ては済んだ。アスタも多少は力を取り戻せた様子だな」
「うん。俺はもう大丈夫だよ」
俺はかじりかけの腸詰肉を包みに戻し、口の中身は咀嚼してみせた。
レイリスも、水分補給によって新たににじんできた汗をぬぐいながら、ひとつうなずく。
「わたしも、大丈夫です。ご面倒をおかけしました」
「いや、狩人ならぬ幼子であれば、音をあげてもおかしくはない道のりであったからな。脆弱なる外界の人間が最後まで弱音を吐かなかったのだから、賞賛に値するだろう」
そのように答えたのは、マダラマのそばに控えていたルジャであった。
「では、会議の場に向かうとするか。族長たちも、待ちくたびれているだろうしな」
そうしてルジャは断崖のほうに向きなおると、指先を口もとに当てがって、甲高い口笛を響かせた。
しばらくして、半月形の裂け目から、何本もの縄が垂らされてくる。俺たちがここまで握りしめていたのと同じ、蔓草をよりあわせた縄だ。
「これを使って、入り口までのぼる。ティアは、自分の力でのぼれるのだろうか?」
「うむ。問題はない」
ティアはその手に抱えていた狩人の衣を右肩にひっかけた。
ライタはうなずき、俺たちに向きなおってくる。
「客人たちは、どうであろうか? 自分の力でのぼることが難しければ、手を貸そうと思う」
「べつだん、問題はなかろうよ! ……っと、アスタや城下町の者たちは、そういうわけにもいかぬか」
ダン=ルティムに目を向けられて、ジェムドは「いえ」と応じた。
「このていどの高さであれば、問題はないかと思われます。足場も、しっかりしているようですので」
「わたしは、ちょっと……今の状態では、難しいかもしれません」
口惜しそうにレイリスが言うと、ダン=ルティムは「そうか!」と笑い声をあげた。
「では、俺が背負っていってやろう! つかまる力も残されていなければ、肩に担いでやってもいいが、どうであろうな?」
「そ、それでは背中をお借りしたく思います。お手間をかけさせてしまい、申し訳ありません」
「なんのなんの! で、アスタはどうかな?」
「アスタは、私が背負っていこう」
俺よりも早く、アイ=ファがそのように答えていた。
俺が「え?」とアイ=ファを振り返ると、半分まぶたを下げた目でにらみ返されてしまう。
「なんだ? まさか、これ以上の無理を重ねようというつもりではあるまいな?」
「いや、さすがに俺も、自力では難しいと思うけど……でも、アイ=ファは大丈夫なのか?」
「馬鹿を抜かすな。お前より重いギバを背負ってでも、これぐらいの高さをのぼることに不自由はない」
アイ=ファの断固たる口調には、俺も反論のすべがなかった。
もちろんアイ=ファにしてみれば、余人に俺の生命を預ける心持ちにはなれなかったのであろうが――俺としては、実行に移す前から胸が騒いでしかたがなかった。
「では、ライタとティアと3名の客人が、最初にのぼらせてもらう。ルジャとマダラマには、すべての客人が無事にのぼり終える姿を見届けてもらいたい」
ルジャの返事も待たぬまま、ライタは右端の縄に手をかけた。
すると、灰褐色の毛並みを持つヴァルブの狼が、ライタの背中にのしかかる。両方の前足をライタの肩に引っ掛けてはいるが、人間のようにしがみつけるわけではないので、なんとも不安定な体勢だ。
「前の者がのぼりきってから、次の者がのぼってきてもらいたい。では、上で待っている」
そうしてライタが縄をのぼり始めると、ヴァルブはそれに合わせて後ろ足を動かした。ヴァルブは巨体であるので、間にライタの身体があっても、足の先が壁面に届いているのだ。そうして両名は何の苦も無く、5メートルの高さをのぼりきってしまった。
その間に、ティアとドンダ=ルウとガズラン=ルティムとシュミラル=リリンが、同じように縄をのぼり始める。右肩を痛めているティアも、新人狩人のシュミラル=リリンも、危なげなところはまったくなかった。
「よし、俺たちも行くとするか」
残るメンバーは、ダン=ルティムとレイリス、ジェムド、バードゥ=フォウ、チム=スドラ、そして俺とアイ=ファである。俺とレイリスが背負われるので、5組が同時にのぼることが可能であるのだ。
アイ=ファは左端の縄に手をかけると、首を曲げて俺を見やってきた。
「では、私に捕まるがいい。何があっても、手を離すのではないぞ?」
「うん。それはわかってるけど……」
アイ=ファは狩人の衣を纏っているので、身体そのものが密着することはない。
が、首から上は、そういうわけにもいかないのだ。アイ=ファの首を抱え込むようにして、自分の肘をしっかりロックすると、俺の顔は金褐色の髪にうずめられることになった。
「こ、これでいいのかな?」
俺が呼びかけると、アイ=ファはわずかに身体を震わせた。
「……アスタよ、お前が喋ると、耳のあたりがこそばゆい」
「ご、ごめん。でも、首を傾けないと、呼吸が苦しいからさ」
「だから、喋るなというのに! ……では、行くぞ」
アイ=ファはその身体能力を発揮して、断崖の縄をのぼり始めた。
その間、俺の身体はアイ=ファの体温と香りで満たされていく。もうアイ=ファはずいぶんな昔から『贄狩り』の作法を取りやめていたし、ギバ寄せの実は罠に仕掛けるのみであるという話なのだが――それでもやっぱり、アイ=ファの髪の香りは甘く、俺を陶然とさせてやまなかった。
しかしまあ、そのような時間もわずか数秒である。断崖の上には、先にのぼった人々が身を屈めて待ち受けていた。5本の縄は、歯のように突き出した岩塊にしっかり結びつけられている。
「頭にお気をつけください。このあたりは、赤き民がぎりぎり立てるぐらいの高さしかないようです」
そのように忠告してくれたのは、ガズラン=ルティムであった。
赤き民の身長は、130センチから140センチていどであるのだ。無事に到着した俺とアイ=ファも、岩盤の屋根に頭をぶつけないように、膝立ちの姿勢を取ることになった。
そうして暗がりの中で待ち受けていると、裂け目の向こうからマダラマの大きな顔がにゅるりと覗いた。
慌ててスペースを空ける俺たちの前に、マダラマがにょろにょろと這いずってくる。このマダラマとここまで接近したのは初めてであったので、俺は息を詰めることになった。
(でも……案外、可愛い顔をしてるんだな)
かつてラントの川で激闘を繰り広げた際には、そこまでまじまじとマダラマの面相を観察するゆとりもなかった。
平たい頭の両脇に、まん丸の黒い瞳が瞬いており、青黒い鱗は艶々と照り輝いている。哺乳類とはまた異なる、完成された造形美であった。
「待たせたな。誰も転げ落ちることなく、何よりだ」
人を食った笑みを浮かべつつ、ルジャも到着した。
ルジャは5本の縄を拾いあげると、それをまとめてたぐり寄せる。この縄がない限り、誰であっても出入りは難しいはずだった。
「よし。それでは、族長たちのもとに向かおう。頭をぶつけないように気をつけてもらいたい」
ドンダ=ルウたちの向こう側から、ライタの声が聞こえてきた。
そうして洞穴の奥に向かうにつれ、だんだんと天井が高くなってくる。10メートルばかりも進むと、ドンダ=ルウやダン=ルティムたちも腰を屈めずに歩くことができるようになっていた。
しかし、出入り口の裂け目から遠ざかるほどに、辺りは暗くなっていく。
このままでは、いずれ完全に視界がふさがれてしまうのではないだろうか――と、俺がそんな風に危ぶんだとき、ふいに世界が光に包まれた。
俺の前方を歩いていたダン=ルティムが、「おお!」と声をあげる。それはごくささやかな光であったのかもしれないが、暗がりに慣れていた目には、ずいぶんと明るく感じられたのだ。
そこは天然の、広場のような空間であった。
天井は高く、3、4メートルほどもあっただろう。その天井が一面、青白く発光していたのだった。
「なんだ、これは!? これが、魔術というものであるのか!?」
ダン=ルティムがわめきたてると、しんがりをつとめていたルジャが鼻で笑った。
「大神が目覚めていないのに、魔術など使えるわけがない。あれは、星の苔だ」
「ほしのこけ?」
「うむ。岩場に生える、草木のようなものだ。この場所で火を焚くと息が詰まってしまうので、余所から運んできた星の苔をここまで育てたのだと聞いている」
「草木が、あのように光るのか! それは、面妖な話だな!」
ダン=ルティムのみならず、10名の客人たちはめいめい驚嘆しながら青白く輝く天井を見回すことになった。
しかし、いつまでもそのように気を取られてはいられない。真に驚くべき存在は、その輝きの下に集っていたのである。
「来たか……待ちわびたぞ、ナムカルの族長ハムラの子、ティアよ」
陰々とした声が、洞穴の中に響きわたる。
「そして、10名の客人たちもな……全員が聖域の掟を守り、ここまで辿り着けたことを、喜ばしく思っている。まずは、その姿を我々にさらしてもらいたい」
その言葉に従って、俺たちは横並びに整列してみせた。それだけの広さが、その場所にはあったのだ。
そうして俺たちは自らの姿をさらすのと同時に、相手の姿をも見届けることになった。
聖域の、族長たちである。
可能な限りはイメージを固めて、俺はこの場に臨んだつもりであったが――それでもやっぱり、息を呑まずにはいられなかった。
赤き民の人数は、50名ほどであっただろうか。全員が足もとに毛皮の敷物を敷いて、こちらを向いて座している。広場の面積にはゆとりがあったので、2名ずつの組となり、点々と座している格好であった。
当然の話であろうが、その全員がワインレッドの色彩に身を染めている。しかし、天井の光源が青白いためか、その姿は妙に黒々として見えた。
おそらくは、族長である女衆とお供である男衆のペアであるのだろう。赤き民というのは中性的な外見をしている者が多いようであるが、組の片方は毛皮か鱗の外套を纏っており、もう片方は女性らしい体型をしているように感じられた。
おおよその人間はぼさぼさの蓬髪で、ときおり長くのばした髪を結いあげた者や、おかしな形に刈り込んだ者も見受けられる。瞳の色もまちまちであるように感じられたが、それも光の加減で判然としなかった。
ただ一点、全員に共通しているのは、体格が小柄であるということだけだった。座っているのでわかりにくいが、ルジャより大きい人間はほとんどいないように感じられる。そして、もっとも大柄な者でも、150センチは超えていないように感じられた。
そして、マダラマの大蛇とヴァルブの狼である。
その場には、それぞれ30頭ぐらいずつのマダラマとヴァルブも控えていたのだ。
マダラマは左側に、ヴァルブは右側に寄っていたが、きっちりと同族同士で固まっているわけではない。あちこちに散らばった赤き民に混じって、じっと腰を据えているのだ。中には、ヴァルブの巨体に寄りかかっている者や、マダラマの背中を撫でている者も散見できた。
(本当に……この場所では、赤き民もヴァルブもマダラマも対等な存在なんだな)
その話は、事前にティアから聞いていた。モルガの山において、ヴァルブとマダラマはそれそれの一族を作って、赤き民と友誼を結んでいる、という話であったのだ。
つまりは、この場に集まったヴァルブとマダラマも、それぞれの一族の族長とその供である、ということなのだろう。
人間と狼と大蛇が、同じ目的のために寄り集まっている。それだけで、俺にとっては非現実的な光景であったのだが――しかも彼らは、誰もが野生の生命力を発散させていた。その場には、森辺の家長会議よりも強烈な熱気と迫力が渦巻いていたのだった。
「ふん……外界の人間は大きな図体をしていると聞き及んでいたが、これは聞きしにまさる大きさであるようだな」
と、最初に声をあげた人物が、さらに言葉を重ねた。
広場の中央寄りの最前列に陣取っており、そのすぐかたわらでは純白の巨大なマダラマがとぐろを巻いている。それなりに年齢を重ねている女性であるようで、貫頭衣のような装束の胸もとが大きく張り出していた。
「我の名は、ラアル=ボゼ=シャウタルタ。ナムカルとともにもっとも古き血をひくシャウタルタの族長であるこのラアルが、この日の会議の取り仕切りを任されることとなった。まずは、外界からの客人たる10名に、身分と名前を名乗ってもらいたい」
「承知した。その順番は、我々の習わしに従う形でかまわんのだろうか?」
ドンダ=ルウが地鳴りのような声音で反問すると、ラアルと名乗った赤き民はにんまりと微笑んだ。
「何がどうでもかまいはしない。我々は、ただ客人たちの身分と名前を知りたく思っている」
ドンダ=ルウはひとつうなずくと、レイリスのほうを振り返った。
それで俺もようやく気づいたが、レイリスは真っ青な顔で立ち尽くしていた。まあ少なくとも、俺と同じかそれ以上のレベルで魂を飛ばされていたのだろう。文明社会の只中で生まれ育った人間にとっては、それが当然の話であった。
「わ……我々は、最後に名乗らせていただきます。まずは、森辺の方々からどうぞ」
「承知した。……俺は森辺の族長のひとり、ドンダ=ルウという者だ」
「私は族長筋たるルウ家の眷族、ルティム本家の家長ガズラン=ルティムと申します」
「俺はガズランの父であり、先代の家長であったダン=ルティムという者だ! どうか、よしなにな!」
「私、ルウ家の眷族、リリンの家人、シュミラル=リリン、申します」
そこで、アイ=ファとバードゥ=フォウが視線を交わした。ファとフォウでどちらが先に名乗るべきか、確認したのだろう。その末に、アイ=ファが凛々しき声をあげる。
「私は森辺の民、ファの家の家長、アイ=ファだ」
「俺はファの家の家人で、アスタと申します」
「俺は森辺の民、フォウ本家の家長でバードゥ=フォウという者だ」
「俺はフォウの眷族たるスドラ分家の家長、チム=スドラだ」
「……わたしはジェノス侯爵家の当主マルスタイン、および第一子息たるメルフリードの代理人、サトゥラス騎士団のレイリスと申します」
「わたしは王都の外交官フェルメス様の代理人で、ジェムドと申します」
広場に集った聖域の民たちは、誰もが無言で俺たちの言葉を聞いていた。
しばらくの沈黙の後、ラアルが「なるほど」とつぶやく。
「聖域と外界では、掟も習わしも異なる。それゆえに、いくつか不審に思えることがあるので、その確認をさせてもらいたい」
「うむ。何が不審であったろうか?」
「まず、家長とは何か? そして、氏族とは何か?」
ドンダ=ルウは眉をひそめて、ガズラン=ルティムを振り返った。
ガズラン=ルティムは穏やかな面持ちで、「はい」とうなずく。
「私がお答えいたします。家長とは、その家の長のことを示します。氏族とは、一族の名を示します。おそらくは、赤き民にとっての族長が家長であり、一族が氏族となるのでしょう」
「では、そちらにとっての族長とは、どういう存在であるのか?」
「族長とは、すべての氏族を正しき道に導くための、長となります。現在の森辺には3つの族長筋が存在し、その本家の家長が族長をつとめることとなります」
「本家とは何か? 分家とは何か?」
ガズラン=ルティムはしばし考え込んだが、すぐに澱みのない言葉を発した。
「ティアはナムカルという一族の族長の子であり、そちらのライタはその血族であると聞いています。森辺においては、ティアの親兄弟を本家と称し、ライタの親兄弟を分家と称している、ということなのだと思われます」
「なるほど。では、何故に家長や族長が男衆なのであろうか?」
「森辺においては、男衆が家長をつとめる習わしとなっています。ただし、本家の跡継ぎが育つまでの間、女衆が家長をつとめることも許されています。こちらのアイ=ファは、ファの家に他の跡継ぎに相応しき家人が存在しないため、家長をつとめることとなりました」
「ふん……森辺の民は、ギバ狩りの一族だと聞いている。我々と似た習わしも多いようだが、まったく異なる習わしも存在するということだな」
ラアルは白きマダラマの背中を撫でながら、小さく肩をすくめたようだった。
「最後のふたりに関しては、どのような身分であるのかもさっぱりわからなかった。それも、説明してもらいたい」
「承知しました。こちらのレイリスは、ジェノスの長の代理人となります。ジェノスというのはモルガの麓に広がる領地のことで、森辺もそこに含まれます。また、かつて聖域の民と不可侵の約定を結んだ一族は、外界において『古き民』と称されており、ジェノスの家人となるか、あるいはジェノスを離れて余所の人間となることになりました。それは、およそ200年前の出来事であったと聞いています」
どうやらガズラン=ルティムは、俺よりもジェノスの歴史を正しく認識しているようだった。おそらくは、ジェノスの人々と交流を重ねるうちに、そういった知識を身につけることになったのだろう。
(『古き民』っていうのは、ミラノ=マスとかシリィ=ロウとか、ジェノスで氏を持っている人たちのことだよな。200年前までは、そういった人たちが自由開拓民として暮らしていたっていう話だから……さらにその祖先である人々が、聖域の民と不可侵の約定を交わしたっていう解釈か)
俺がそんな風に考えている間に、ガズラン=ルティムは説明を続けていた。
「外界は、王国というものに統治されています。王国は、東西南北にひとつずつ存在し、ジェノスは西の王国に含まれます。そして、王国の長が住まう場所が王都と称されており、こちらのジェムドは王都の生まれとなります」
「では、この中ではその者がもっとも高い身分である、ということであろうか?」
「いえ。ジェムドの主人はフェルメスという人物であり、その人物は……いわゆる族長筋ではなく、ヴェヘイムという家の、分家の跡取りであると聞いています」
「では、この中でもっとも高い身分である人間は、誰なのであろうか?」
「それは、レイリスということになりましょう。森辺の民の主人はジェノス侯爵マルスタインであり、レイリスはそのマルスタインの代理人であるのです。こちらのジェムドの主人であるフェルメスは、ジェノスが正しい形で治められているかどうかを見届けるために、王都から出向いてきた立場となります」
「ふん。この中でもっとも力なく見える人間が、もっとも高い身分であるのか。やはり、外界ではよくわからぬ掟や習わしがはびこっているようだな」
ラアルは面白くもなさそうに笑いながら、そのように言い捨てた。
どこか、ルジャにも通じる態度である。ティアやライタはきわめて純真かつ誠実であるように思えるのに、ルジャやラアルはずいぶんとふてぶてしい気性であるように思えてしまうのだ。
(もしかして……ヴァルブを友にする一族とマダラマを友にする一族では、気性が違っているんだろうか?)
そうだとしたら、剣呑な話である。この場に集った赤き民の、およそ半数はマダラマを友とする一族であるようなのだ。
しかしまた、わずか4名のサンプルでそのように断じてしまうのは、早計であるだろう。そして、彼らがどのような気性であろうと、俺たちの為すべきことに変わりはないはずであった。