銀の月の十一日②~入山の儀式~
2020.2/25 更新分 1/1
ライタが背中の荷物を下ろして入山の準備をしている間も、俺の胸は高鳴りっぱなしであった。
何せ、伝説の存在であるヴァルブの狼とマダラマの大蛇を眼前に迎えているのである。その片方は、かつてラントの川で出くわしたことがあったし、あまつさえ、石で殴って撃退することになったわけであるが――それでもやっぱり、驚嘆を禁じ得なかった。
それにこのマダラマは、俺がかつて遭遇したものよりも、さらに巨大であるようだった。
あのマダラマは、頭の大きさがラグビーボールぐらいで、胴体の太さは俺の足ぐらいであったように思うのだが――それよりも、ふた回りぐらいは巨大であろう。頭部は人間よりも大きく、胴体の太さはアイ=ファのウエストぐらいありそうだ。青黒い鱗はてらてらと照り輝き、黒い瞳は無機質に光っている。俺がどのようにあらがっても、このようなマダラマを撃退できるとはとうてい思えなかった。
(それに、俺とやりあったマダラマはあちこち傷だらけだったもんな。きっとティアと同じように、上流の激流でもみくちゃにされて、森のほうまで流されてきたんだろう。それでもあんな怪力だったんだから、普通は俺なんかがマダラマを撃退できるはずがないんだ)
そして、もういっぽうのヴァルブの狼も、圧巻であった。
こちらもとにかく、身体が大きい。我が家の可愛い犬たちよりも、ガージェの豹に近いぐらいだろう。体長は俺の身長ぐらいもあり、おまけに体毛がふさふさとしていたので、ガージェの豹よりも大きく見えるほどである。
その体毛は灰褐色で、瞳はジーダのように黄色みがかっている。とても沈着で利発そうな面立ちであるようにも思えるが、その巨体には荒々しい生命力がぞんぶんにみなぎっているように感じられた。
「……そこのお前が、ティアと悪縁を結んだアスタという人間であるのか?」
と――ライタではないほうの赤き民が、ふいに発言した。
どこか、人を食ったような笑いを含んだ声である。
「ずいぶんと熱心にマダラマとヴァルブを見比べているようだが、何をそのように恐れているのだ? お前が聖域の掟を破らぬ限り、マダラマとヴァルブが牙を剥くことはないぞ?」
「ああ、いや……別に、そういうわけじゃなかったんだけど……」
俺がそのように言いかけると、無言でライタの様子をうかがっていたティアが声をあげた。
「アスタは、狩人ならぬ人間であるのだ。狩人ならぬ人間がヴァルブやマダラマを恐れるのは当然ではないか」
「ふん。そいつが狩人でないことぐらい、ひと目でわかる。しかし、掟を破ろうという気持ちがなければ、マダラマとヴァルブを恐れる理由はあるまい?」
「だから、狩人ならぬ人間であれば理由がなくとも恐れるのが当然だと言っている。……やっぱりお前は気に食わないぞ、ルジャ」
振り返ると、ティアは可愛らしく口をとがらせていた。
その可愛らしい顔を見返しながら、ルジャと呼ばれた狩人は含み笑いをする。
「お前こそ、半年も外界に出ていたというのに、まったく変わっていないようだな。それを嬉しく思うぞ、ティアよ」
「お前を嬉しがらせても、ティアはまったく嬉しくない」
どうやらティアは、このルジャとあまり折り合いがよろしくないようだった。
しかし、その理由もわからなくはない。このルジャという人物は、マダラマの鱗ではなく漆黒の毛皮を狩人の衣として纏っていたのである。それは彼が、ヴァルブの狼を狩る一族であることを示していた。
背丈や体格は、ライタと同じか少し上回っているぐらいであろうか。髪や肌は鮮やかなワインレッドに染めあげられており、瞳が赤褐色をしているのも、ライタと同一であるが――ただし、頬や手の甲に刻まれた紋様は、いくぶんデザインが異なっているように感じられた。
ぎょろりと大きな目をしており、口もとには薄ら笑いが浮かべられている。そういった表情も、いかにも実直そうなライタとは掛け離れていた。
こちらも弓や矢筒を背負ってはおらず、ただ腰に大ぶりの短剣を下げている。木の皮の鞘に収められているので刀身は見えないが、きっとティアが所有していたのと同じく黒い石で作られた刀であるのだろう。
「……その者は、ルジャ=ホルア=ラズマ。ラズマの族長ホルアの長兄で、ライタとともに案内役を担うことになった」
地面にぶちまけた荷物をあれこれ選別していたライタが、そのように説明してくれた。
「そして俺は、ナムカルの族長ハムラの弟と母ミラの長兄で、ライタだ。ナムカルはマダラマ狩りの一族であり、ラズマはヴァルブ狩りの一族となる。俺たち4名が行動をともにしていれば、他のヴァルブやマダラマがうっかり襲ってくることはない。そして、別なる獣が襲ってくるようであれば、俺たち4名がきちんと追い払ってみせよう」
「待て。この地には、ヴァルブとマダラマの他にも危険な獣が潜んでいるのか?」
アイ=ファが鋭く声をあげると、ライタは不思議そうに小首を傾げた。
「モルガには、たくさんの獣が潜んでいる。特に多いのは、リオンヌやナッチャやペイフェイだ。しかし、ペイフェイやナッチャが自分から近づいてくることは少ないし、飢えたリオンヌの群れに出くわしても、ライタたちが遅れを取ることはない」
「……そうか」と、アイ=ファは口を引き結んだ。
ライタは「うむ」とうなずきながら、身を起こす。
「儀式の準備が整った。まずは、聖水で手の先を清めさせてもらう」
ライタが奇妙な物体を手に、俺たちのほうに近づいてきた。
楕円形の、ヤシの実のような果実だ。天辺のあたりから、細い木の枝がぴょこんと突き出している。
「ひとりずつ、両手を前に出してほしい」
ライタが右端のドンダ=ルウの前に立ち、その木の枝を引き抜いた。
木の枝は赤い液体でねっとりと濡れており、先端の部分がブラシのようにほぐされている。おそらく、中身をくりぬいた果実の殻の中に、聖水とやらを満たしているのだろう。
「それは、貴様たちの身を染めあげている液体のようだな。俺たちも、手の先をその色に染めあげられるということか」
「うむ。しかし、この聖水はすごく薄められているので、2日もすれば消えてなくなる。モルガの恵みを外界に持ち出すことは許されないからな」
ドンダ=ルウはひとつうなずき、分厚い手の甲をライタのほうに差し出した。
ライタは木の枝を筆のように使って、ドンダ=ルウの手の甲に8の字のような紋様を描く。ライタたちの手の甲の紋様を、極限にまで簡略化したような形状だ。
「10を数える間に乾くと思うので、それまではさわらないでもらいたい」
そんな風に言いたてながら、ライタは次々と儀式を施していった。
かつて青の民の聖域に踏み入ってしまったというデデイットも、このような儀式を施されたのだろうか。ライタの手つきは至極無造作であったが、俺はやっぱり厳粛なる気持ちを喚起させられていた。
やがて、俺の手にも聖水で紋様が描かれる。
その聖水は、なんとも奇怪な香りがした。香草のような酸味と、果実のような甘ったるさと、ほのかな土臭さをブレンドさせたような香りだ。
「ふむ。この聖水とやらには、グリギの実も混ぜ込まれているようだな」
ダン=ルティムの言葉に、ライタは「うむ」とうなずいた。
「お前たちは、手首にグリギの実を巻きつけているな。モルガの外にも、グリギは生えているということか」
「うむ。俺たちは、このグリギの実で毒虫を遠ざけておるのだ」
「そうか。この聖水は、あらゆる災厄を遠ざけるとされている。毒虫も、その中に含まれているのだろう」
そうして、10名全員が聖水で清められることになった。
ライタは「よし」とうなずいて、新たな荷物を抱えあげる。それは、平たい木皿を蔓草でくくりあげたような品であった。
「では、客人の証である『封じの仮面』を渡す。これで顔を覆い、取れないようにしっかりと縛りつけてもらいたい」
ライタはその木皿のようなものを1枚ずつ、俺たちに配り始めた。
手渡されたその品を検分してみると、確かに凸面のほうに模様が描きこまれており、ちょうど人間の顔ぐらいの大きさをしていた。耳のあたりに蔓草が通されているので、これを後ろで結べばよいのだろう。
描かれているのは、なかなかユーモラスな人間の顔であった。
目と口は横向きの一本線で、鼻はふたつの点だ。それらは子供の落書きめいた稚拙なタッチであるのに、頬には細やかな紋様がワインレッドで描き込まれている。ライタともルジャとも異なるデザインであるが、いずれ同系統の紋様だ。
ただしその仮面は、仮面らしからぬ要素も備えていた。
目も鼻も口もペイントされているだけで、穴などは空けられていなかったのである。
「……このようなものをかぶっては、前も見えないのではないでしょうか?」
レイリスが控えめな声で発言すると、ライタは事もなげに「うむ」とうなずいた。
「聖域に踏み入る客人は、我々の許す場所に辿り着くまで、目と口をふさがせてもらう。モルガを見るのも、言葉を発するのも、禁忌だ。案内は我々が果たすので、案ずる必要はない」
「いや、しかし……我々はこれから、モルガの山をのぼるのでしょう? この辺りは緑も深いですし、足もとを見ずに進むのは困難なのではないでしょうか?」
「その困難を乗り越えぬ限り、聖域に踏み込むことは許されないと、族長たちは言っている。途中で力尽きる者があれば、他の者が背負ってでも進んでもらいたい。……それで全員が力尽きるようであれば、我々が救いの手を差しのべようと思う」
レイリスは観念した様子で首を振り、その手の仮面を持ちなおした。
「それが聖域の掟であるというなら、従いましょう。詮無きことを口にしてしまったことをお許しいただきたく思います」
「かまわない。ライタもこのような作法が存在することは初めて知ったので、客人たちと同じぐらい大きな戸惑いを覚えている」
そうしてライタは、最後の荷物を取り上げた。
蔓草をよじりあわせてこしらえたと思しき、1本の立派な縄である。長さは、10メートル以上もありそうであった。
「道中は、これを手にして進んでもらう。先の端はライタがつかむので、客人たちが木や岩にぶつかることもないだろう。ただ、足もとだけ注意してもらいたい」
「ふむ、なかなかに珍妙な習わしだな! しかし、木の根などに蹴躓いたら、思わず声をあげてしまいそうなのだが、それも許されないのであろうか?」
ダン=ルティムの言葉に、ライタは「いや」と首を振る。
「禁忌とされているのは、余人と言葉を交わすことだ。ただし、独り言であっても意味のある言葉はつつしんでもらいたい」
「了承した! それならば、問題はあるまい」
ダン=ルティムは嬉々として、『封じの仮面』を顔にくくりつけた。
しかし、ダン=ルティムの大ぶりな顔にはサイズがあっていないようで、ふくよかな頬や下顎がぞんぶんにはみだしてしまっている。なおかつ、ダン=ルティムのどっしりとした体格に、稚拙なタッチで描かれた仮面の表情が、実にミスマッチであった。
「これでよいのだな! うむ、しかし、これでは縄がどこにあるのかもわからんぞ!」
「そのようだな。全員が仮面をかぶったなら、こちらから手渡そうと思う」
俺たちも、それぞれ仮面をかぶることになった。
視界は完全に閉ざされて、呼吸のほうも快適とは言い難い。これで山登りというのは、なかなかの試練であるように思えた。
(でも、こんなことで弱音は吐いていられないからな)
俺がそのように考えていると、すぐ近くからアイ=ファの声が聞こえてきた。
「こちらの先頭は、ドンダ=ルウとなるのであろうか?」
「うむ? そうだな。城下町の者らを先頭にするよりは、そのほうが望ましかろう」
俺たちは横並びで整列しており、右端がドンダ=ルウ、左端がジェムドであったのだ。
「そうか」と応じるアイ=ファの声が、右から左へと移動した。
「ならば、私はアスタの後ろにつかせてもらう。家人を後ろに置くのは、落ち着かぬのでな」
「では」と声をあげたのは、バードゥ=フォウであった。
「最後を歩くのは俺とチム=スドラとして、レイリスとジェムドはアイ=ファの後ろについてもらおう。獣を用心する必要はないのだろうが、念のためにな」
そうして並び順が決定されると、やがて温かい指先に手首をつかまれた。そして、手の平に蔓草の縄をあてがわれる。
俺がそれをしっかりつかむと、指先はすぐに離れていった。
アイ=ファたちもこの縄をつかんでいるのかと思うと、それだけで心強くなってくる。このように深い森の中で視界をふさがれてしまうというのは、やはりなかなかの不安感であったのだ。
「これで儀式は完了した。そちらの者たちは、また明日の中天に」
「ああ、よろしく頼んだぜ」
ルド=ルウたちが茂みを踏み鳴らして遠ざかっていくのが感じられた。
それからしばらくして、ライタが「よし」と声をあげる。
「それでは、出発しようと思う。次に足を踏み出したのちから、約束の場所に到着するまで、言葉を発さぬように気をつけてもらいたい」
「そういえば、禁忌を犯して面を外したり言葉を発したりしてしまったときは、どのような罰を与えられるのであろうかな?」
「その際は、手足を縛り、目と口もさらに念入りにふさがせてもらう。そして、明日の中天に外界へと戻すときまで、その姿でいてもらうことになるだろう。むろん、水や食事を与えることもできなくなってしまうので、くれぐれも気をつけてもらいたい」
「それはたまらんな! せいぜい気をつけるとしよう!」
そんなダン=ルティムの言葉を最後に、俺たちは押し黙ることになった。
右手に握った縄に引っ張られるようにして、足を踏み出す。足もとが不如意であるため、なるべく高めに膝を上げて歩く必要があった。
どこをどのように歩いているのか、さっぱりわからない。
しかし俺たちは、これでついにモルガの山の聖域へと足を踏み入れたのである。目隠しなどをされているためか、なかなか実感は抱きにくいところであった。
がさがさと茂みを踏み鳴らす音色だけが、妙に明瞭に聞こえてくる。もしかしたら、ヴァルブやマダラマが俺のすぐ隣を歩いているのではないか――などと想像してしまうと、無駄に心臓が高鳴ってしまった。
「……ナムカルのライタよ、こちらまで黙りこくる必要はないのではないか?」
と、けっこうな後方からルジャの声が飛んできた。
すると、同じぐらい遠くの前方から、ライタの声が聞こえてくる。
「間に10名もはさんでいるのだから、我々が言葉を交わすにはこうして声を張り上げる必要がある。そうまでして、お前と言葉を交わす理由はない」
「こちらだって、お前に用事などはないさ。しかし、まだまだティアと話し足りていないのでな」
「……ティアだって、お前と話す用事などないぞ」
と、意外なぐらいの近くから、ティアの声が聞こえてきた。ティアは、俺のすぐそばを歩いてくれていたのだ。
「ずいぶんつれないことを言うではないか。この半年の間、ルジャがどれだけ悲嘆に暮れていたと思うのだ?」
「ふん。お前の友たるマダラマが、ティアを喰らったと思っていたのだろうが? だったら、お前が悲嘆に暮れる理由などはないはずだ」
「いや。お前が姿を消したとき、ルジャは近在のマダラマに片っ端からお前を喰ったのかと聞いて回ったからな。しかし、お前を喰ったというマダラマは見つからなかったので、もしや外界に出てしまったのではないかと危ぶんでいた」
数秒の沈黙の後、ティアが不貞腐れたような声で言った。
「どうしてお前が、そのような真似をする必要があったのだ? マダラマはお前の友であるのだから、ティアを喰ったとしても文句はつけられないはずだ」
「文句をつけるつもりなどはなかった。しかし、婚儀を願った相手が行方をくらましてしまったのだから、その理由を突き止めようとするのは当然であろうが?」
俺は思わず、驚きの声をあげそうになってしまった。
ティアの声は、ますます不機嫌そうな響きを帯びていく。
「お前はまだそのようにたわけたことを言っているのか。半年が過ぎても、何も変わっていないのだな」
「待て。婚儀を願ったとは、なんの話だ? ライタはそのような話、まったく聞いていないぞ?」
「ほら、ライタが騒ぎだしてしまったではないか。馬鹿げた冗談を口にするな」
「冗談ではない。ルジャは本気で、ティアと婚儀をあげたいと願っている。そんな切なる心情を伝えた当日に、お前は行方をくらましてしまったのだからな。これで悲嘆に暮れるなというほうが、無茶な話であろうよ」
そんな言葉を述べたてながら、ルジャは咽喉を鳴らして笑った。
前方からは、ライタの怒った声が飛んでくる。
「マダラマ狩りのナムカルとヴァルブ狩りのラズマが血の縁を結ぶことなどはありえん! お前はラズマの族長の子でありながら、そのようなこともわかっていないのか?」
「わかった上で、ルジャは言っている。何もわかっていないのは、お前たちのほうであろうよ」
俺のすぐ隣で、ティアが溜め息をつく気配がした。
そしてさらに、ティアの声が聞こえてくる。
「誰も返事をしないように気をつけてほしい。……向かって右側に大きく根が張り出しているので、足をひっかけないように気をつけるのだ」
俺は意識して、さらに右膝を大きく振り上げることになった。
しばらくして、またティアの声が聞こえてくる。
「全員、木の根を通りすぎた。ここからはいっそう緑が深いので、足を取られないように気をつけるのだ」
「ふふん」と、ルジャが鼻を鳴らす。
「そのような注意は、先頭を歩く人間がするべきであろうな。まったく、不親切なことだ」
「うるさいぞ! ラズマはナムカルに喧嘩を売っているのか?」
「ティアに婚儀を願っているルジャが、ナムカルに喧嘩を売るはずがない。……ティアよ、お前が外界でどのように過ごしていたのか、ルジャに聞かせてほしく思う」
「そのような話は、族長たちにする。このような場で語る理由はない」
「しかし、会議の場に到着する頃には、太陽も大きく傾いていよう。その間、ずっと黙りこくっているつもりか? 族長たちに話す前に、ルジャに話して頭を整理してみてはどうだ?」
「……そのような必要はない。族長たちに何を語るべきか、ティアはずっと頭の中で考えていた。時間は、いくらでもあったからな」
しばし口を閉ざしたのち、ルジャは声をあげて笑った。
「やはりお前は、頭の回る人間だ。それに、強き心と清らかな魂を持っている。だからルジャは、数ある同胞の中でお前を伴侶に定めたのだ」
「ああもう、本当にやかましい。ティアはこれから、罪人として裁かれる身であるのだぞ? 族長たちの判断によっては、この夜に魂を返すこととなってしまうのだ」
「そのようなことは、ルジャがさせない。……もちろん、お前が外界で許されざる罪を犯していなければ、だがな」
ルジャの声が、ほんの少しだけ真剣味を帯びたように感じられた。
「婚儀のことはさて置いても、お前は聖域の同胞だ。たとえ友とする相手は異なっても、その事実に変わりはない。そんなお前が外界でどのように過ごしていたか、ルジャが知りたいと願うのはおかしなことであろうか?」
「…………」
「この場にいるマダラマもヴァルブも、ついでにお前の血族も、きっと同じ気持ちであろう。お前が許されざる罪を犯していないということを、ルジャたちは心から願っている。それこそ時間はたっぷり残されているのだから、同胞たるルジャたちの不安をぬぐってくれてもいいのではないだろうか?」
「お前は本当に、腹立たしい人間だ、ルジャ。……だったらしばらく、黙ってティアの言葉を聞いているがいい」
そうしてティアは、語りだした。
この半年の間に、ティアがどのように過ごしていたのか。真っ暗闇の中で、懸命に足を動かしながら、俺たちもともにそれを聞くことになった。
これではまるで、ティアと過ごした日々を追体験させられているようなものだ。ニーヤの歌う『森辺のかまど番アスタ』を耳にしたときにも、俺は同じような心境に至ったものだが――今回は、半年間という区切られた期間を、より濃密に反芻することとなった。
フォウの集落で、ぐっしょりと濡れそぼったティアと対面し、のちには首をへし折られそうになった。ここがモルガの山ではなく、麓の森辺であると知らされて、ティアは無念の涙を流していた。それから、アイ=ファとも対面し、ルウの集落に連行され、ドンダ=ルウとも言葉を交わすことになり――ジェノス侯爵マルスタインの許しを得た上で、ティアは森辺で傷を癒やすことを許されたのだった。
だんだん険しくなっていく山道をのぼりながら、俺はさまざまな感慨を噛みしめる。ティアがどれだけ純真であり、必死であり、聖域の民として正しく過ごせるように心を砕いていたか――一刻も早く、聖域の族長たちに告げたくてたまらなかった。
気づけば、呼吸はぜいぜいと荒くなっている。転びかけたことも1度や2度ではないし、モモなどはぱんぱんに張ってしまっていた。
その身に纏った装束も、汗ですっかり濡れそぼっている。荒い息が仮面の中に充満し、首から上だけ蒸し風呂に押し込まれているような心地であった。
「……いったん、休憩するべきだと思う」
と、話が《颶風党》のところにまで差し掛かったあたりで、ティアがふいにそのように言いだした。
「まだまだ先は長いのだから、休憩は必要であろう。客人たちは、山を歩くことにも慣れていないのだ」
「ふん。狩人ならぬ人間たちは、息があがっているようだな。それでは、しばし休むとするか」
俺たちは、その場に腰を下ろすことを許された。
俺が地面にへたり込むと、背中にひたりと手の平をあてられる。その手の平が背中を辿って、やがて俺の左肩をぎゅっとつかんだ。
俺は呼吸を整えながら、縄を左手に持ち替えて、アイ=ファの手に自分の手を重ねてみせる。言葉は発せないまま、そこからアイ=ファの情愛が流れ込んでくるかのようだった。
「ライタよ、客人は水を飲むことも許されないのだろうか?」
ティアの言葉に、ライタは「うむ」と厳粛な声を返した。
「目的の場所に辿り着くまで、客人らが仮面を外すことは許されない。仮面を外さぬままに水を飲む方法はないように思われる」
「仮面を少しずらすことも許されないのか?」
「許されない。力尽きたときには、最初に告げた作法に従って進んでもらいたく思う」
アイ=ファの指先が、さらに俺をいたわるように力を込めてくる。
俺は「大丈夫だよ」という思いを込めて、その指先を握ってみせた。
ティアのためを思えば、このような苦難は何ほどのものでもない。
そして、この身の力が最後の一滴まで尽き果てるまで、余人の手をわずらわせるつもりもなかった。
そんな風に念じる俺の頭上では、山の野鳥たちが場違いなぐらいに軽やかな鳴き声をあげて、空を行き交っている様子だった。