銀の月の十一日①~出発の日~
2020.2/24 更新分 1/1
・今回は全9話の予定です。
ルウの集落で行われた親睦の祝宴から、5日後――ついに迎えた、銀の月の11日である。
モルガの山へと向かうその日の朝、俺が目を覚ますとティアの可愛らしい寝顔が真っ先に視界へと飛び込んできた。
ティアはいつもうつ伏せで、身体を丸めて眠る習性がある。枕もとで寝入っている黒猫のサチと、ほとんど同じような体勢だ。そうして俺のほうに顔を向けながら、ティアはすうすうと安らかな寝息をたてていた。
(……ティアの寝顔を見るのも、これで最後になるのか)
そんな風に考えながら、俺はティアの赤褐色をした髪にそっと手を置いた。
とたんに、ティアのまぶたがゆっくりと持ち上げられていく。
「うむ……? みだりに触れ合うのは森辺の禁忌であるはずだぞ、アスタ……」
「うん。起こしちゃってごめんね。ティアはゆっくり眠っているといいよ」
「いや……今日は森辺で過ごす最後の日であるのだから……ティアもなるべく、行動をともにしたく思う……」
ティアは、丸めた手の先で頬や目もとを撫でさすった。これまた、猫そっくりの仕草である。
「うむ、目が覚めたぞ。まずは、水場に向かうのだな?」
「うん。アイ=ファは……もう広間のほうみたいだな」
ティアの向こう側の寝具は、すでに空っぽであった。
ティアとふたりで身を起こし、寝所の扉を開けてみると、広間の真ん中でアイ=ファが仁王立ちになっている。その髪はすでにきっちりと結いあげられており、寝起きとは思えないような凛々しき顔つきであった。
「目覚めたか。では、水場に向かうぞ」
俺たちの姿を認めるなり、アイ=ファはくるりときびすを返した。
洗い物はすでに外に出されており、ブレイブたちも空き地を元気に走り回っていた。アイ=ファは普段以上に早起きであったようだ。
しかしアイ=ファは、ティアに特別な言葉をかけようとしなかった。ことさら、普段通りに振る舞っているように感じられる。
それは、これから聖域たるモルガの山に向かおうという緊張感ゆえであるのかもしれなかったが――それ以上に、感傷的な空気になることを避けているようにも感じられた。
(アイ=ファは、情が深いからな。俺と同じぐらい、ティアとの別れを惜しんでいるはずだ)
銀の月となってから、俺たちは毎晩のようにティアと遅くまで語らっていた。そうでなかったのは、親睦の祝宴が行われた夜のみであったはずだ。
一昨日などは、ジバ婆さんとリミ=ルウとルド=ルウがファの家に宿泊することになった。名目上は、ルウとファの絆を深めるためとされていたが、真相はリミ=ルウたちがティアと最後の語らいをするためである。ルウ家においては、リミ=ルウがもっともティアに心を寄せていたのだった。
また、俺やアイ=ファが家を離れている時間は、ティアもフォウの集落においてさまざまな人々と語らうことになったという。これまではそうした時間も狩人の修練に励んでいたティアであったが、現在はその必要もなくなってしまったのだ。そちらでは、サリス・ラン=フォウがもっともティアと長き時間を過ごしたのだという話であった。
「おや、今日はティアも一緒だったんだね」
洗い物を抱えて水場まで出向くと、そこにはフォウやランの女衆たちが寄り集まっていた。
その場においても、和やかに会話が紡がれていく。友や同胞にはなれずとも、誰もがティアとの別れを惜しんでくれていたのだった。
「モルガの山に帰っても、元気でね。あんたのことは、子や孫にまで語り継がせてもらうよ」
「うむ。森辺の民が健やかな生を送れるように、ティアも祈っている」
ティアは終始、とても穏やかな表情をしていた。
洗い物を終えた後は、森の端に入って行水と薪拾いだ。それらのすべてが、ティアにとっては森辺における最後の行いとなる。ティアはまるで何かの儀式に取り組んでいるかのようなたたずまいで、それらの行いを粛々と遂行しているように感じられた。
森から戻ると、ユン=スドラたちがファの家にやってくる。今日は休業日ではなかったので、またもやユン=スドラたちに屋台の商売を託すことになったのだ。
「ティア、どうかお元気で。友や同胞にはなれずとも、ティアと過ごした日々はわたしたちの血肉となっています」
ユン=スドラは、そのように言っていた。
さらには、下ごしらえの仕事とは関係なく、ファの家を訪れる人々も少なくなかった。おおよそは、ファの家と収穫祭をともにしている近在の氏族の人々である。
「今日は早くに目が覚めたので、最後に顔を見に来たぞ! 今後は故郷で同胞たちと、正しき生を送るがいい!」
豪快に笑うラッド=リッドのかたわらから、トゥール=ディンが進み出る。その瞳には、わずかに涙がにじんでしまっていた。
「銀の月の2日にも、同じ言葉を伝えていますけれど……ティア、どうぞお元気で。ティアたちの神が正しき道を示してくれることを祈っています」
「うむ。皆も息災に過ごしてほしく思う」
その他にも、実にたくさんの人々が、ティアと最後の挨拶を交わしていた。ライエルファム=スドラにランの家長、ジョウ=ラン、サリス・ラン=フォウ、アイム=フォウ――俺やアイ=ファと絆の深い人々も、そうでない人々も、次から次へとファの家にやってきて、ティアに言葉をかけることになったのである。
「赤き民のティア。わたしなどはただの通りすがりで、森辺のみなさんのようにあなたと深く関わったわけでもないのですが……それでも、あなたに巡りあえたことを神々に感謝したく思います」
最後のほうでそのように告げたのは、傀儡使いのリコであった。《ギャムレイの一座》は5日前の祝宴の後にジェノスから去っていったが、彼女たちはティアの行く末を見届けるべく居残っていたのである。昨晩は、リッドの家で傀儡の劇を見せて、晩餐をいただいたのだそうだ。
「それで……もしもこの先、わたしがあなたとアスタの出会いを傀儡の劇にしたいと願って、貴族の方々にそれを許していただけるようだったら……あなたにも、許しをいただくことはかなうでしょうか?」
「うむ? ティアが外界での出来事に口出しをする理由はない。だから、ティアに許しを乞う必要もないはずだ」
「だけどわたしは、ティアの気持ちを踏みにじってまで、傀儡の劇を作るべきではないと考えています。アスタだって、そのようなことは決して望まないでしょう」
「そうか」と、ティアは屈託なく微笑んだ。
「ならば、許すと伝えておこう。お前の作ったアスタの劇というものは、とても楽しかった。お前がこれから作ろうとする劇を見ることができないのは、とても残念に思う」
「ありがとうございます。何年先になるかもわかりませんが、決してティアとアスタの出会いを汚すような内容にはしないと、生命をかけて誓います」
リコもまた、透き通った微笑をたたえていた。
もしも本当にそのような劇を作ることが許されたら、俺たちとティアの出会いも後世まで語り継がれていくことになるのだ。俺にとって、それは何より祝福するべき事柄であるように思えてならなかった。
「では、そろそろ出発の刻限だな」
アイ=ファの一言で、お別れの挨拶の場は幕を閉じることになった。
時刻は、上りの四の刻だ。これからルウの集落に出向いて他のメンバーと合流したのち、約束の場所まで向かうことになる。
同行するのは、バードゥ=フォウとチム=スドラとランの男衆である。出立の際には、下ごしらえの仕事に取りかかっていたユン=スドラたちもまたかまど小屋を出て、ギルルの荷車を見送ってくれた。
荷車が発進され、南北の太い道に出ると、すぐに見送りの人々やファの家は見えなくなってしまう。
それらが完全に見えなくなってから、ティアは荷台に腰を下ろして、バードゥ=フォウに向きなおった。
「……今日は、世話をかける。フォウの本家の家長であるというバードゥ=フォウにわざわざ同行させることになってしまい、ティアは申し訳なく思っているのだ」
ティアの言葉に、バードゥ=フォウは「何を言っているのだ」と首を横に振った。
「ティアを森辺の集落に連れ帰ったのは、他ならぬ俺たちだ。ならば、本家の家長である俺が出向くのが当然であろう。それに、ルウ家からは族長であるドンダ=ルウ自らが出向くのだから、俺のことなどを気にかける必要はない」
「うむ。きっと赤き民の族長たちも、森辺の民がいかに誠実な人間であるかを思い知ることだろう」
とても静かな面持ちで、ティアはそう言った。
やがて荷車がルウの集落に到着すると、そこにも大勢の人々が待ちかまえている。9日前と同じように、眷族からも数多くの人々が出向いてきている様子だ。
「来たか。これで、全員だな」
広場の中央では、ドンダ=ルウが腕を組んで立ちはだかっていた。
本家の家人は、全員が顔をそろえている。挨拶のために俺たちも荷台から降りると、ルド=ルウがチム=スドラに「よー」と声をかけた。
「フォウのほうでは、バードゥ=フォウとお前が出向くんだってなー。親父たちのこと、よろしく頼むぜー?」
「うむ。ティアが深手を負ったとき、最初に手当てをしたのが俺であったため、バードゥ=フォウの供をすることが許されたのだ。フォウの血族のみならず、森辺の民の代表として、力を尽くそうと思う」
ルド=ルウは「ちぇー」と口をとがらせた。
「いつもだったら、俺が親父の供なんだけどなー。今回は、他の連中にその役を取られちまったんだよ」
「うわははは! ドンダ=ルウの決めたことであるのだから、恨みっこはなしだぞ、ルド=ルウよ!」
ルウの血族で同行するのは、ドンダ=ルウとシュミラル=リリン、ダン=ルティムとガズラン=ルティムの4名である。ダン=ルティムは、かつてヴァルブの狼に遭遇したことがあるという点を買われて、そのメンバーに組み込まれたのだった。
そして、城下町からの見届け役であるレイリスとジェムドも、すでに顔をそろえている。ただし、それぞれの主人であるメルフリードとフェルメスの姿はない。俺たちの帰りは明日となるので、この場にメルフリードたちが駆けつける理由は存在しなかったのだ。
「ドンダ=ルウよ。モルガの山に踏み入る10名に、ティアから伝えたい言葉があるそうだ。この場を借りて、それを伝えさせてもらいたいのだが」
アイ=ファの言葉に、ドンダ=ルウは「ふん?」と眉をひそめた。
「だったら、街道のほうに出向いた後でもよかろうが? わざわざこのように騒がしい場を選ぶ理由があるのか?」
「ある。かなうことならば、集落に残るルウの血族たちにも聞かせたいのだそうだ」
ドンダ=ルウは、無言でレイリスを振り返った。
すでに張り詰めた面持ちとなっているレイリスは、「よろしいでしょう」と首肯する。
「あえてその願いを退ける理由はないかと思われます。メルフリード殿がおられても、同じように仰ることでしょう」
「了承した。ティアを呼ぶがいい」
アイ=ファの視線を受けて、俺は荷台のティアを呼びつけた。
ドンダ=ルウたちのやりとりは聞こえていたのだろう。ティアはすみやかに姿を現して、地面に降り立った。
「ティアの願いを聞き入れてもらい、感謝する。ひとつだけ、伝えておきたいことがあったのだ」
大勢の人々に見守られながら、ティアは粛然と言葉を重ねた。
「モルガの山に外界の人間を迎え入れるという作法を、ティアは知らなかった。それはおそらく、族長とならなければ知ることもない作法であるのだろう。だからティアにも、確たることは言えないのだが……それでも、赤き民は大神の掟を何よりも重んじている。常ならぬ作法を行う際にも、大神の掟が曲げられることは決してないはずだ」
「ふむ。それで?」
「聖域の民と外界の民は、友になることも同胞になることも許されない。しかしまた、外界の民を理由もなく傷つけることは、大きな禁忌とされている。よって、客人として招いた外界の人間たちを傷つけることは、絶対にありえない。赤き民のみならず、ヴァルブの狼もマダラマの大蛇も同じ掟に身を置いているので、客人たちが聖域の禁忌を破らぬ限り、危険な目にあうことは決してないはずだ。……集落でドンダ=ルウらの帰りを待つ血族たちにも、そのことを知っておいてほしかった」
俺やアイ=ファやフォウの血族の人々も、すでにその話は知らされていた。
ティアはにこりと微笑みながら、居並ぶルウの血族たちを見回していく。
「族長のドンダ=ルウも供の3名も、すべての人間が明日には無事に戻るだろう。ティアのために大きな迷惑をかけてしまうが、その一点だけは心配せず、族長たちの帰りを待ってもらいたい」
「ふん。そんな心配はしちゃいなかったけど、まあ、マダラマの大蛇もきっちり掟を守るってんなら、いっそう安心だな」
ルド=ルウの気安い言葉に、ティアは「うむ」とうなずいた。
「ティアはヴァルブを友とするナムカルの一族であるので、マダラマの気持ちはあまりわからない。しかしそれでも、聖域の同胞であるマダラマのことを信じている」
「了承した。とにかく俺たちは、聖域の掟を破らぬように心がければよい、ということだな」
そう言って、ドンダ=ルウはジザ=ルウを振り返った。
「では、出立する。留守は任せたぞ、ジザよ」
「うむ。族長ドンダの無事な帰りを待っている」
そうして、出立の時であった。
ドンダ=ルウたちが荷車に乗り込んでいくさなか、ティアは再び視線を巡らせていく。
ジバ婆さんに寄り添ったリミ=ルウが、明るく微笑みながら手を振っていた。
だけどきっとその瞳には、涙が浮かべられているのだろう。ティアはそちらに向かって深く頭を下げてから、ギルルの荷車に飛び乗った。
9日前と同じ道筋を辿り、一行は森辺の街道を目指す。
ただし本日は、サウティの集落に立ち寄る必要もない。すべての横道は素通りして、街道へと通ずる門をくぐることになった。
ギバ除けの鳴り物を荷車に設置して、森辺に切り開かれた街道に進入する。
そのタイミングで、俺は同乗している人々に軽食を配ることにした。
「どうぞ。簡単なものしか準備できませんでしたが、よければお召し上がりください」
晩餐はともかく、日中の食事までふるまわれるとは思えなかったので、こういったものを準備しておいたのだ。内容は、ギバの腸詰肉とたっぷりの野菜をはさみこんだ、ホットドッグであった。
「うむ、美味い。……しかし、俺は集落に戻る身であるのに、このようなものを口にしてよかったのだろうか?」
そのように言いたてたのは、ランの男衆であった。彼はギルルの荷車を持ち帰るために同行していたのだ。
「集落に戻る頃には、もう中天も間近でしょう? 今のうちに、腹ごしらえをしておいてください」
「うむ。アスタの親切に、感謝する」
俺はそちらに笑顔を返してから、ティアのほうに向きなおった。
ティアは両手でホットドックをつかみながら、あどけない顔で微笑んでいる。
「ティアがアスタの作った食事を口にするのも、これが本当に最後の最後ということだな。心して味わおうと思う」
一気に胸が詰まりそうになってしまった俺は、なんとか笑顔で「うん」とうなずいてから、御者台のアイ=ファにも軽食を届けることにした。
「ほら、アイ=ファの分だよ。食べ終えるまで、運転を代わろうか?」
「いらぬ世話だ。片手でも手綱を操るのに不自由はない」
俺から受け取ったホットドックを、アイ=ファは荒っぽくかじり取った。
その青い瞳には、常に強い光が灯されている。聖域の民の純真さを信じつつも、やはり俺などという足手まといを連れてモルガの山に踏み入るのは、アイ=ファにとって大きな緊張を強いられることであるのだろう。
しかしそれでも、アイ=ファが俺を止めることはなかった。
アイ=ファだって、ティアの幸福な行く末を心から望んでいるのだ。
そのためならば、どのような苦難でも乗り越えるしかない。アイ=ファの胸でも、そういう覚悟が固められているはずであった。
そうして一刻ばかりも街道を駆けたのち、荷車がとめられる。
荷台を降りると、北側の樹木に目印が刻みつけられていた。9日前も、この場所から森に踏み入ったのだ。
「では、俺はここで失礼する。皆、無事な帰りを待っているぞ」
ギルルの手綱を預かったランの男衆だけが、そのような言葉を残して街道を西に戻っていった。
残されたのは、ルウの荷車が2台と、ジェノス侯爵家の車が1台だ。森と山の境い目までは、ルウの血族の狩人たちが同行するので、彼らはその帰還を待つ段取りになっていた。
「それじゃあ、行こうぜー」
同行役の狩人を率いるのは、ルド=ルウであった。それ以外に、4名の狩人が同行している。ずいぶんな手間をかけさせてしまうが、彼らの同行は必須であったのだった。
先頭に立ったルド=ルウは、数メートル置きに森の中を進んでは、樹木の幹に目を走らせる。9日前の帰りがけに、刻んでおいた目印である。赤き民のライタには「9日後に、同じ場所で」と言われていたので、そのための道筋を確保しておく必要があったのだ。
9日前と同じように、俺とティアとレイリスとジェムドが中央に集められて、狩人たちが周囲を囲っている。今回は人数にゆとりがあったので、アイ=ファは俺のすぐ隣を歩いていた。
そのアイ=ファが、ふっとジェムドの長身を見上げる。
「そういえば、フェルメスの容態はどうなのであろうか?」
いつでも静かな無表情であるジェムドは、物問いたげにアイ=ファを見返した。
「いや、あやつは熱を出し、親睦の祝宴の見届け役を取りやめたのであろうが? あれから5日ほども経っているので、力を取り戻すことはかなったのであろうか?」
「はい。長きの時間を臥せっていたので、まだ完全に復調したとは言い難い状況にありますが、昨日の夜には熱も下がっておりました」
「では、昨日の夜まで熱を出していたのか。ずいぶん厄介な病魔であったのだな」
「病魔ではなく、疲れが溜まっていたのでしょう。フェルメス様は無理をされると、すぐに熱を出してしまうのです」
主人の身を思いやっているのかどうなのか、ジェムドの面持ちに変化はなかった。
いっぽうアイ=ファは、「ふむ」と眉を寄せている。
「やはり、『滅落の日』の行いが負担であったのだろうかな。銀の月の2日には、それほど力を失っているようにも見えなかったのだが」
「はい。むしろ、その後の無理がたたってしまったのだろうと思います」
「その後の無理? 城下町で、何かあったのか?」
「はい。その日以降、フェルメス様はほとんど眠りを取っておられなかったのです。夜を徹して、わたしに聖域の民の知識を学ばせておりました」
アイ=ファは、びっくりまなこでジェムドを見返すことになった。
おそらく、俺も同じような表情になっていたことだろう。
「聖域の民の知識とは? あやつが書物から学んだという知識のことか?」
「はい。それらの知識はあまりに膨大であったため、わたしがすべてを学びきるのに数日もかかってしまったのです」
悠揚せまらず、ジェムドはそのようにのたまわった。
「机上の知識を学ぶだけでは、フェルメス様の代役を果たすことも難しいかとは思いますが……それでも、ひと通りの知識は頭に収めることがかないました。何かのお役に立てれば幸いに存じます」
「何故だ? あやつがそのように無茶をする理由はないように思うぞ?」
アイ=ファの言葉に、ジェムドは少しだけ首を傾げた。
「フェルメス様のお心は、わたしにもはかり知れません。ただ、これは王国の民にとっても力を尽くすべき案件であると、フェルメス様はそのように仰っていました」
「それは、そうなのかもしれないが……」
「フェルメス様は、ご自分で聖域に踏み入ることを望んでおられました。しかし、オーグ殿やマルスタイン殿に強く諫められたため、わたしを代理人とすることになったのです。フェルメス様のお心を少しでもお慰めできるように、わたしも代理人としての使命を全うしたく思います」
すると、ジェムドの向こう側を歩いていたレイリスが苦笑をこぼした。
「フェルメス殿は、そういった事情で体調を崩されていたのですね。それでしたら、わたしもお知恵を拝借したかったところですが……」
「いえ。ジェノスの民は、あくまでジェノスの民としての立場をつらぬくべきであると、フェルメス様はそのように仰っていました。ジェノスの民にとって重要なのは、無用な知識などなくとも聖域の民との約定を守り抜いたという、その心意気であるのだと……」
「そうですか。では、わたしもジェノス侯爵家の使者としての使命を全うしたく思います」
そのような言葉を交わしている間にも、森はいっそう深くなっていた。
本日はギバ除けの実も使ってはいないが、騒乱の気配が近づいてくる様子もない。耳に届くのは小鳥のさえずりばかりで、平穏なこと極まりなかった。
それから、一刻ばかりが過ぎ――俺たちは、ついに森と山の境い目にまで到着した。
樹木に刻みつけられた目印を確認し、ルド=ルウは「よし」とうなずく。
「この場所で間違いねーな。ティアのお仲間も、到着してるみてーだしよ」
ルド=ルウに招かれて、ティアが先頭にまで歩を進めた。
とたんに頭上から、聞き覚えのある少年の声が降ってくる。ティアの同胞たる、ライタである。
「待っていたぞ、ティア。……しかしその場には、10名以上の人間がいる。どういうわけであるのか、説明してもらいたい」
「うむ。この者たちは、客人として招かれる10名の荷物を預かるために同行した。鋼を持たずにここまでやってくることはできないし、鋼を持ったままこの先に進むことは許されないのだから、そのようにする必要があったのだ」
「……荷物など、この場に置いていけばいいと思うのだが」
「それでは、森の獣たちに荷物を荒される恐れがある。それに、鋼の武器は水気に弱いという話であるのだ。鋼を雨ざらしにすることはできないのだと、ティアはそのように聞いている」
しばらく迷うように沈黙してから、ライタは「了承した」と言いたてた。
「では、荷物を預けるがいい。間もなく、約束の中天となる」
今度はティアが「了承した」と応じて、ドンダ=ルウを振り返った。
ドンダ=ルウはひとつうなずき、腰の刀を鞘ごとルド=ルウに手渡す。
「モルガの山に持ち込むことが許されないのは、鋼と毒の武器だと聞いている。それ以外に、身から遠ざけるべき品はあるか?」
「ない。ただし、外界の品をモルガに置いていくことは許されない。うっかり落としてしまうような恐れのあるものは、持ち込まぬべきであろうと思う」
「では、水や食料はどうであろうか? 帰りは明日の中天と聞いているので、俺たちは水筒や干し肉を携えてきている」
「それをモルガに置いていかなければ、掟を破ることにはならない。ただし、客人が水や食事に困ることはないと、族長から聞いている」
するとそこで、ティアも頭上の梢に呼びかけた。
「ライタよ。ティアが族長たちに確認を願った件に関しては、どうであったろうか?」
「うむ。ティアがアスタに贈ったという、ペイフェイの爪と毛皮についてのことだな? そのペイフェイは外界で魂を返したと見なし、爪と毛皮を聖域に戻す必要はない、と定められた。よって、聖域に戻すことこそを禁じさせてもらう、とのことだ」
「了承した」とうなずいてから、ティアは笑顔で俺を振り返った。
「族長たちならそう判じるだろうと考えていたが、その考えが外れていなくてよかった。どうかあの爪と毛皮は、アスタの生に役立ててもらいたく思う」
「うん。ずっと大事に使わせてもらうよ」
ペイフェイの毛皮はかつての大地震で大きな穴が空いてしまったが、革紐でつくろって大事に使っている。あれらの贈り物は、俺たちとティアの出会いの証であるのだ。それを外界に残すことが許されて、俺は心から嬉しく思った。
そんなやりとりがされている間に、全員の身支度が済んでいた。
レイリスとジェムドは分厚い胴着の上に革の外套を纏っていたが、さらなる用心のために金属の部品が使われていない装束を準備したのだそうだ。とにかく聖域の掟を踏みにじってはならじと、誰もが気を張っていたのだった。
「準備は、完了した。モルガの山に入るのは、この10名となる」
ルド=ルウたちは何歩か後退し、俺たちは横並びに整列した。
ドンダ=ルウ、ガズラン=ルティム、ダン=ルティム、シュミラル=リリン、アイ=ファ、俺、バードゥ=フォウ、チム=スドラ、レイリス、ジェムド――以上、10名である。
しばらくの沈黙ののち、頭上の梢からライタが飛び降りてきた。
9日前と同じような姿であるが、本日は弓と矢筒を携えておらず、その代わりに網でできた大きな袋のようなものをかついでいる。蔓草を編んでこしらえた、荷袋であるようだ。
「では、外界の人間を聖域に招き入れるための儀式を施そうと思う。……その前に、こちらの者たちを見せておくべきであろう」
言いざまに、ライタはひゅうっと口笛を鳴らした。
同時に、あちこちの茂みが揺れ――ダン=ルティムに、「おおっ!」と歓喜の声をあげさせた。
「その姿は、ヴァルブの狼だな! 俺が見たのとは、いささか色合いが違っているようだが!」
俺はそれよりも、逆側の茂みから現れた存在に目を奪われていた。
それは青黒い鱗を持つ、マダラマの大蛇に他ならなかったのだ。
さらに、そのすぐ近くからは、もう1名の聖域の狩人が現れていた。
「客人たちを安全に迎え入れられるように、俺たち4名が案内をする。赤き民とヴァルブとマダラマがある限り、どのような危険も近づけることはない」
低い声で、ライタはそのように言いたてた。
その間も、ヴァルブの狼とマダラマの大蛇は俺たちを検分するように目を光らせている。
俺たちは、ついに聖域たるモルガの山に踏み込むのだ。
そんな感慨が、今さらながらに俺の胸を打ち震わせていた。