銀の月の六日④~正しき明日のために~
2020.2/10 更新分 1/1 ・2/15 誤字を修正
「それでは、《ギャムレイの一座》の芸をお楽しみあれ」
祝宴が開始されてから一刻ほどが過ぎると、ついに《ギャムレイの一座》の芸が開始された。
ちょうどこちらは若干の休憩をはさんで、トゥール=ディンの菓子を提供し、後半戦の仕事に取りかかったところである。俺とトゥール=ディンとマルフィラ=ナハムはドライカレーを盛りつける手を止めて、湯気をあげるかまど越しにそれらの芸を拝見することになった。
座長自らが挨拶をして、横合いのほうに引っ込んでいくと、広場の内に持ち込まれた荷車の荷台から、座員たちが姿を現す。小男のザン、笛吹きのナチャラ、双子のアルンとアミンの手によって楽器の演奏が為され、まずはピノとドガによる軽業の曲芸が披露された。
宿場町の街道では毎日のように見せつけられていた、両名の曲芸である。
しかしこの場には、初めて目にする人間や、1年ぶりに目にする人間も多い。童女と大男の織り成す数々の曲芸には、惜しみのない拍手と歓声が与えられた。
「うん。明るい中で見る曲芸も見事なものだったけど、夜だといっそう迫力や雰囲気が増すみたいだね」
俺がそんな風につぶやいたとき、どこからともなく奇怪な雄叫びが炸裂した。
隣に立っていたトゥール=ディンが、びくんっと身体を震わせる。広場にひしめく人々も、さぞかし虚を突かれたことであろう。曲芸を繰り広げるピノとドガの間に、いきなり騎士王のロロがひょこひょこと割り込んできたのである。
革作りの甲冑を纏い、銀色に塗られた木剣を振りかざした、実に珍妙な姿である。そのマリオネットめいた動作には、幼子や女衆が笑い声をあげていた。
ピノは芝居がかった仕草で肩をすくめると、その手の細長い棒でロロの頭をぺしんっと叩く。
ロロがふらふらと倒れかかると、今度は逆側からドガが棒を突き出した。
あっちにふらふら、こっちにふらふら、これまた滑稽な挙動である。
そうして、見物客たちが十分に油断しきったところで、今度は地鳴りのごとき咆哮が轟いた。
トゥール=ディンは「きゃあっ!」と声をあげ、マルフィラ=ナハムの腕に取りすがる。いつの間にか荷車の屋根に這いあがっていたヴァムダの黒猿が、ロロたちのもとに舞い降りたのだ。
ピノとドガは一目散に逃げていき、ロロだけが黒猿の前に立ちはだかる。
黒猿は両方の拳で自分の胸をドラミングしてから、ロロのもとへと躍りかかった。
その巨大なる拳が、真正面からロロのどてっ腹を殴りつける。
ロロは身体をくの字にして、後方に吹っ飛んだ。
もちろん黒猿は手加減をしており、ロロは自分の意思で後方に跳躍したのであろうが――そうとは思えぬ迫力であった。どこからか聞こえてきた悲鳴は、おそらくシリィ=ロウかテリア=マスのものであるのだろう。
ぐしゃりと地面に墜落したロロは、手足につけられた糸に引っ張られるかのような挙動でカクカクと立ち上がる。
さらに何度か痛めつけられたのち、ロロはぶんぶんと木剣を振り回しながら、「ヒイイイィィィ……ヤアアァァァ……!」と金切り声をあげた。
その声に応じて現れたのは、巨大なるギバだ。
今度は人々の多くが、おおっとどよめく。一座の天幕に踏み入っていない人間にとっては、これがギバの初お披露目であるのだ。
巨大ギバにまたがったロロによって、黒猿は無事に討ち取られる。それはおそらく獣使いシャントゥの口笛によって操作されているのだが、何にせよ、ギバが人間の命令に応じているのだから、森辺の民にとっては驚異的な光景であるはずだった。
やがてナチャラたちの演奏が軽妙な雰囲気に転じると、倒れていた黒猿がむくりと起き上がり、ギバにまたがったロロとともに仲良く荷車の裏に引っ込んでいく。
それと入れ替わりで現れたのは、銀獅子のヒューイと豹のサラ、それに両名の子であるドルイであった。
さらにシャントゥも現れて、獣たちの曲芸が開始される。ドルイはシャントゥのかたわらでずっと大人しくしていたが、かがり火に照らされるその姿は、それだけで勇壮そのものであった。
しばらくすると、演奏に合わせて軽やかなステップを踏みながら、ピノが再登場した。
その手に細長い棒は携えておらず、代わりに巨大なボールを蹴り転がしている。直径50センチはあろうかという、黒と灰色がまだらになったでこぼこのボールだ。
ピノはふわりと羽織りをなびかせながら、横に一回転する。
その足に蹴られたボールは、ころころとヒューイたちのもとまで転がった。
シャントゥの口笛に従って、サラがボールの上に飛び上がる。4本の足を窮屈そうにすぼめながら、サラがころころと玉乗りの曲芸を披露すると、また人々の間から拍手があがった。
地面に着地したサラは、前肢でボールを小突いてヒューイにパスをする。
ヒューイが少し強めに蹴ると、ボールは宙を浮きながらサラのもとに舞い戻った。
今度はサラも強めに蹴りあげ、ボールは宙高く舞い上がる。
すると、ヒューイが後ろ足で立ちあがり、バレーボールのトスのようにボールを弾いた。
ボールは5メートルぐらいの高さにまで跳ね上がり――その頂点に達したぐらいで、いきなり横合いから飛び出してきた黒猿が、空中でボールをキャッチした。
地面に着地した黒猿は、戦利品のようにボールを頭上に振りかざす。
次の瞬間、再びの悲鳴が轟いた。
ボールの黒い部分から、人間の顔がにょっきりと生えのびたのだ。
ボールの内部には、壺男ディロが身を潜めていたのだった。
(すごいな。まだまだこんなに曲芸のパターンがあったのか)
これはおそらく、屋外用のアレンジであるのだろう。何度か天幕に足を運んでいる人間にも、飽きる時間は与えられなかった。
そののちには、アルンとアミンの幻想的な舞踏やザンの刀子投げも披露され、クライマックスはもちろん、ギャムレイの炎術だ。
色とりどりの炎が闇の中に弾け散り、虚空に舞い上がる。何度見ても、手品なのか魔術なのか判別できない、見事な手際であった。
「……以上をもちまして、《ギャムレイの一座》の芸は終幕とさせていただきます」
ギャムレイの左右に9名の座員と4頭の獣が立ち並び、一礼する。人々は、ひときわ大きな拍手で彼らの芸を賞賛することになった。
その拍手に見送られながら、座員と獣たちは荷車のほうに引っ込んでいく。
ただひとり、その場にちょこんと居残ったピノが、歌うような節回しで声をあげた。
「さてさて、アタシらの芸はここまでだけど、本日は族長サンのはからいで、もうひとつ余興を準備しておりますよォ。……ぼんくら吟遊詩人、出ておいでェ」
荷車の荷台から、ギターのような楽器を担いだニーヤが現れた。
100名を超える人々に見守られながら、余裕しゃくしゃくの顔でピノの隣に進み出てくる。
「すでにお聞き及びでしょうけれど、このぼんくらは傀儡使いのリコたちから、『森辺のかまど番アスタ』ってェ物語を習い覚えることになったんでねェ。ソイツが聞くに堪える出来栄えがどうか、皆サンに判じていただきたいってェお話なのさァ」
軽く歓声をあげているのは、いずれも町からの客人たちであるようだった。森辺の民たちは、いくぶん表情をあらためてピノの言葉を聞いている。
「とりあえずは最後まで聞いていただいて、不満があったら遠慮なく言いたてておくれよォ。森辺の皆サンが納得しない限り、コイツは人前でお披露目しないってェ約定を交わしているからさァ」
「ふん。そんな不満が出たときは、素っ裸で地面に頭をこすりつけてやるさ」
皮肉っぽく笑うニーヤのもとに、アルンとアミンが切り株の椅子を運んできた。
その椅子に腰を下ろしたニーヤは、楽器の弦を弾いてチューニングに取りかかる。その間に、ピノと双子は荷車のほうに退いていった。
「……いよいよ、お披露目ですね」
と、こちらにはリコが近づいてきた。相棒のベルトンとヴァン=デイロも、無言で追従している。
「わたしも初めて耳にするので、いささかならず緊張しています。アスタたちも、どうか公正なお気持ちでご判断をお願いいたします」
「うん。だけどニーヤだったら、きっと立派な歌に仕上げてくれているんじゃないのかな」
「はい。ニーヤの腕前は、わたしも十二分に思い知らされているのですが……でも、わたしのこしらえた劇は、一幕だけで四半刻もの長さを持ちます。歌としては長すぎるので、ニーヤはそれを半分ていどの長さに縮めたという話なのですよね」
きゅっと引き締まった表情で、リコはそのように言いたてた。
「傀儡の劇と吟遊詩人の歌では作法が異なるので、それもおかしな話ではないのですが……でもこれは、ジェノスで起きた出来事を正しく知らしめるために作られたという一面があるのですから、それにそぐわない内容では認めることができないのです」
「そうだねえ。ニーヤがどんな風に仕上げたのか、楽しみなところだよ」
俺たちが言葉を交わしている間に、チューニングが完了した。
7本の弦をポロンとかき鳴らしてから、ニーヤは人々の姿を見回していく。
「それでは、聞いていただきましょう。『森辺のかまど番アスタ』、第一幕、スン家の章と相成ります」
ニーヤのほっそりとした指先が、撫でるように弦を爪弾いていく。
音色はギターに似ているが、音階か何かは異なっているのだろう。インドだかアラビアだかを思わせる、エスニックで哀切な旋律だ。
そこに、ニーヤの歌声が重なった。
よく通る、中性的で繊細な声だ。それでいて、どこまでも広がっていくようなのびやかさも備え持っており――普段の喋り声とはまったく異なる、魅力的な声音であった。
そんなニーヤの歌声が、俺の物語を紡いでいく。
謎の若者・アスタが見知らぬ森で目を覚まし、途方に暮れるという、傀儡の劇と同一の始まりであった。
そこに、美しき狩人の少女・アイ=ファが現れて――アスタは、魂をわしづかみにされる。
アイ=ファがどれだけ美しいか、アスタがどれだけ心を打ち震わせたか、そんな描写がしばらく続き、俺はいくぶん気恥ずかしかった。
(大丈夫かな。ちょっと心配になってきたぞ)
横目でちらりとうかがってみると、やはりアイ=ファはうっすらと頬を赤らめていた。トゥール=ディンとマルフィラ=ナハムも、ちょっとハラハラした面持ちでニーヤの歌に聞き入っている。
アスタはファの家に導かれ、アイ=ファの作ったギバ料理のまずさに辟易する。
そして、アイ=ファに美味なる料理のもたらす幸福感を知ってほしいと願う。
筋立てそのものに変化はなかったが、そういった部分でも俺の心情を細やかに描写しているように感じられた。
(なんか……おかしな気分だな)
俺の中に生じた違和感は、歌が進むにつれて大きくなっていった。
ニーヤの歌の内容に、おかしなところがあるわけではない。むしろ、その内容が的確すぎて、ドキリとさせられてしまうのである。
俺がアイ=ファの青い瞳や金褐色の髪を、どれほど美しく思っているか――狩人の勇猛さと女性らしい優しさを兼ね備えたアイ=ファという存在を、どれほどかけがえのないものに感じているか――リコにすら語っていない心情の裏側まで、ニーヤの歌声に暴きたてられてしまったような心地なのである。
ニーヤの歌は、おおよそメロディと語りの繰り返しで構成されている。状況説明や場面転換、時間の経過などは間奏の間に言葉で語られ、登場人物の心理描写などがメロディとして歌われる、というのが基本パターンであった。
つまりこれは、変転していく世界の中で、俺の気持ちがどのように移ろっていくかを、主眼に置いていたのだった。
森辺の民と心を通わせることのかなった喜びや、屋台の商売を成功させることができた達成感、族長筋スン家に対する疑念や恐怖心――そして、アイ=ファに抱くさまざまな感情というものが、美しくも哀切なメロディによって歌いあげられていく。それはまるで、ニーヤが俺の代弁者であるかのようだった。
ふと気づくと、家長会議が終了している。
いつの間にやら、第一幕も終わりに近づいていたのだ。もうそれほどの時間が経ったのかと、俺は驚きを禁じ得なかった。
スン家の人々に対する複雑な心情や、新たな朝をアイ=ファとともに迎えられた喜びが歌いあげられたのちに、ちょっと長めの間奏がさしはさまれる。
「……それではこのまま、第二幕、トゥラン伯爵家の章をお聞きいただきます」
そんなニーヤの宣言とともに、楽器の旋律が雰囲気を変えた。
ニーヤの歌は1曲の中でもころころと雰囲気や拍子を変えていくのだが、明らかに曲調そのものが変じた様子だ。しかし、ひとつなぎの曲としてもきちんと整合性の感じられる、見事な手腕であった。
第二幕も、これまでと同じように物語が紡がれていく。ただ、リコが俺の見ていない場面までつけ加えていたのに対し、ニーヤはそのあたりをばっさりと切り捨てていた。これはあくまでアスタ目線の物語であり、アスタが見ていない場面を語る必要はない、という考えであるのだろう。
よって、ダリ=サウティとカミュア=ヨシュが森に踏み入るシーンなどは語られず、いきなりザッツ=スンが宿場町に連行されてくるシーンに突入する。
ある意味それは、俺自身が味わった驚きをそのまま正しく表現していることになるのだろう。初めてこの物語を耳にする人間であれば、どうしてシムに向かったはずのカミュア=ヨシュが、ザッツ=スンを捕縛して宿場町に戻ってきたのかと、仰天するはずだ。
その後はテイ=スンの襲撃と、宿場町の騒乱が語られる。
その際にも、ニーヤが俺の心情を見誤ることはなかった。
テイ=スンに生命を握られた恐怖と、それでも何とか理解し合いたいと願う心情、身を呈して俺を救おうとするアイ=ファに対する危惧の念――そして、テイ=スンを失う悲しみとやるせなさが、まざまざと語られたのだ。
リコたちの劇を初めて目にしたときも、俺は追体験をしているような心地だった。
しかし、今回は――記憶の深い層にまで沈み込んでいた当時の思考や感情が、眼前に引っ張り出されたような心地であった。
テイ=スンの、最期の穏やかな表情が脳裏に浮かびあがる。
むせかえるような血臭の中で、テイ=スンはとても透き通った眼差しをしていた。許されざる悪行を繰り返しながら、最後の最後で家族のために、森辺の同胞のために、自分の生命を使えたことを喜んでいるような――そんなテイ=スンと向き合ったときの感情が、奔流のように俺の胸をかき乱したのだ。
俺がいくぶん自失している間にも、物語は進められていく。
リフレイアの誘拐騒ぎは、坂道を転がる小石のように、軽妙なテンポとメロディで語られた。その中でクローズアップされるのは、やはりアイ=ファと引き離されてしまった悲しみと絶望感である。
そしてアイ=ファと再会できた俺は、無上の喜びと安堵を得ることになる。
それもまた、当時の俺の心情そのものであった。
サイクレウスおよびシルエルとの対決は勇壮なる演奏の中で怒涛のように語られて、すぐさまジェノス侯爵との和解の晩餐会へと移行させられる。
ようやくジェノスの貴族たちと和解できた喜びを胸に、サイクレウスの寝室を訪れて、ついにクライマックスである。
「愛しき君よ、愛しき森辺の同胞よ、明日からも我らは希望を胸に生きていかん」
ニーヤの歌は、そのような一節で締めくくられることとなった。
広場は、しんと静まりかえっている。
かがり火ではぜる炎の音が、やたらと耳につくような感覚であった。
「……以上、『森辺のかまど番アスタ』でございました。ご満足いただけていたら、幸いにございます」
ニーヤが立ち上がって一礼すると、人々は思い出したように手を打ち鳴らした。
その拍手が、やがて津波のように勢いを増していく。それだけで、人々がどのような思いにとらわれているかは明らかであるようだった。
俺はまだいくぶん放心しながら、アイ=ファのほうを振り返る。
「いやあ、さすがの出来栄えだったな。俺としては、何の不備もなかったように思うけど――」
そんな風に言いかけて、俺は言葉を呑み込むことになった。
アイ=ファは虚空を見やりながら、その青い瞳にうっすらと涙をたたえていたのだ。
「ア、アイ=ファ、大丈夫か?」
アイ=ファはハッとしたように身を震わせると、慌てふためいた様子で目もとをぬぐった。
「ち、違うぞ、これは! かまどの煙が、目にしみただけであるのだ!」
「うん、そうか。とりあえず、アイ=ファも出来栄えに文句はないみたいだな」
リコのほうに視線を転ずると、そちらには予想以上に真剣なお顔が待ちかまえていた。
「えーと……リコはどうだったのかな?」
「はい。わたし自身に不満はありません。この歌に不満を持つ人間がいるとしたら、それはアスタのみなのではないでしょうか?」
「俺かい? 俺は何も不満だとは思わなかったけど……」
「そうですか。ニーヤはあのように、アスタの心情を歌の主眼に置いていました。アスタ本人の心情と、大きな差異などは生じなかったのでしょうか?」
「うん。びっくりするぐらい、俺の心情そのままだったよ。ニーヤに心を見透かされているみたいで、ちょっと怖いぐらいだったね」
「そうですか」と、リコは深く息をついた。
「でしたら、問題はないかと思います。ニーヤの歌そのものは……驚くべき出来栄えであったと思いますので」
「うん。やっぱりニーヤは、すごいよね」
「はい。まさか『森辺のかまど番アスタ』をこのような形に仕上げるなどとは、想像もしていませんでした。ニーヤの底力を思い知らされた心地です」
そう言って、リコはようやく無邪気に微笑んだ。
その間に、当のニーヤは引っ込んで、また座員たちによる楽器の演奏が始められている。
「さァさ、それじゃあしばらくは、笛や太鼓で賑やかしましょうかねェ。皆サン、祝宴をお楽しみあれェ」
ピノのそんなかけ声によって、広場には熱気と活気が蘇り始めた。
そこに、空のお盆を掲げたユン=スドラが戻ってくる。
「アスタ、お疲れ様です。ニーヤの歌は、見事なものでしたね」
「うん。あれなら誰も、文句はないんじゃないのかな」
「はい。わたしもリコたちの劇を見たときと同じように、心を引きこまれてしまいました」
すると、左右の腕にリミ=ルウとターラをぶら下げたルド=ルウも近づいてきた。
「よー、アスタ。ちょうどリコたちと一緒だったんだなー。親父たちは歌の出来栄えに文句もねーから、あとの判断はアスタとリコたちに任せるってよー」
「そっか。俺とリコにも、不満はないよ。……アイ=ファも、大丈夫なんだよな?」
アイ=ファはそっぽを向いたまま、「うむ」とうなずいた。
ドライカレーの木皿をお盆に移していたユン=スドラが、「でしたら」と俺を振り返ってくる。
「この料理を届けがてら、ニーヤたちにそれを告げてきたら如何でしょうか? 料理の残りもわずかですし、あとの盛りつけはわたしが受け持ちましょう」
「うん、それじゃあ、そうさせてもらおうかな。リコたちも、一緒に行くよね?」
「はい。よろしくお願いいたします」
そうして俺はアイ=ファとともにお盆を掲げて、《ギャムレイの一座》のもとを目指すことになった。
演奏をしているのはピノとナチャラ、アルンとアミン、それにザンの5名だけで、他の座員の姿はない。荷車の裏に回り込んでみると、そちらではギャムレイたちが果実酒と料理を囲んでいた。
「おくつろぎのところ、失礼いたします。よろしければ、こちらの料理をどうぞ」
「うん? おお、それはあの、シムの香草をたっぷり使った料理だな! もうひとたび味わわせてもらえるなら、ありがたいことだ!」
営業モードでないギャムレイは、陽気で気安い人柄である。その右腕が、すぐかたわらで酒杯を傾けていたニーヤの首を引き寄せた。
「で、こやつの歌はどうだったかな? 歌そのものに文句はなかろうが、語り言葉の内容を吟味せねばならんという話だったのだろう?」
「はい。俺もリコも森辺の族長も、満場一致で不満はありませんでした。どうかそのままの形で歌っていただければと思います」
俺の返答に、ニーヤは「そら見ろ」と胸をそらした。
「不満なんざ、出るはずがないんだよ。この俺が何日もかけて練りあげた歌に、文句なんかつけさせてたまるかい」
「ええ、本当に素晴らしい出来栄えでした。ニーヤの腕前には感服いたします」
リコが笑顔でそのように答えると、ギャムレイはニーヤを解放して地べたを指し示した。
「よければ、お前たちもくつろいでいくがいい。ヴァン=デイロとも、ひさびさに酒を酌み交わしたいところだしな!」
リコたちは遠慮なく腰を落ち着け、俺とアイ=ファはドライカレーの木皿を配っていく。シャントゥとロロは笑顔で受け取ってくれたが、他の座員たちは無言で目礼をするばかりであった。
さらに、目礼どころか木皿を受け取ろうとしない人物も、2名ほど存在した。フードつきマントで人相や体格を隠した、ゼッタとライラノスの両名である。
(そういえば、このふたりはさっきの曲芸にも一切参加してなかったな)
まあ、ライラノスの専門は星読みであるし、盲目のご老人でもあるから、曲芸の手伝いをすることも難しいのだろう。俺は無言でうなだれているライラノスの前に「どうぞ」と木皿を置いてから、ゼッタのほうを振り返った。
「ゼッタも、どうぞ。香草の料理はお嫌いじゃないですか?」
ゼッタはびくりと身体をすくめると、隣のギャムレイにぴったりと身を寄せてしまった。
ギャムレイは高笑いをしながら、ゼッタの頭を深くかぶったフードごと撫でくり回す。
「こやつは、警戒心が強くてな! こういう明るい場では、特に縮こまってしまうのだ。放っておけば好きに食い散らかすので、かまってやる必要はないぞ」
明るいと言っても、ここは荷車の裏であるので、かがり火の灯りもほとんどさえぎられてしまっている。そんな中で、ゼッタは己の姿を恥じているかのように、ぎゅっと小さくなってしまっていた。
「そうですか。去年も個人的に言葉を交わす機会がなかったので、今年こそと思っていたのですが……でも、無理強いはできませんよね」
その言葉に、ゼッタはほんの少しだけ顔をあげた。
フードの陰で、獣めいた黄金色の瞳がちろちろと燃えている。全身が黒い獣毛に包まれており、さらには鋭い牙と爪をも有しているゼッタが、いったい何者であるのか、俺は知らされていない。しかし、今さら彼を怖がる理由はなかった。
「香草の料理が嫌いじゃなかったら、どうぞお食べください。今夜の分は、これが最後になるかと思いますので」
俺がにっこり笑いかけると、ゼッタは小さくうなずいたような気がした。
そして、ふいに中腰になったかと思うと、マントの裾を木皿の上にふわりとかぶせる。やがてゼッタが体勢を戻すと、地面から木皿が消失していた。自分の姿を頑なに隠しつつ、ドライカレーの木皿を確保したのだ。
(どんな素性かはわからないけど、その姿のせいで迫害されたりしていたのかな)
そんな風に考えながら、俺はニーヤに向きなおった。
「でも、ニーヤは本当にすごいですね。なんだか、心の中身を覗かれたような心地でしたよ」
俺がそのように評すると、ニーヤは「あん?」と首を傾げた。
「おかしなことを抜かすお人だね。あんたの心持ちなんざ、俺の知ったことじゃないよ」
「そうですか? でも、リコにすら語っていないような心情の機微まで、暴きたてられたような心地なのですが……」
「だったらそれは、この娘っ子に心の中身を覗かれていたんだろうさ」
リコのほうを親指で指しながら、ニーヤはそう言った。
「俺はあくまで、この娘っ子たちの傀儡の劇を練りなおしただけなんだからな。俺が読み取ったのは傀儡の心情であり、あんたのことなんざ思い出しもしなかったよ」
「それはそれで、すごい話ですね。ニーヤもリコも、すごいと思います」
すると、怒ったような顔をしたアイ=ファが、ずいっと進み出た。
「私も、驚嘆させられた。お前の歌は、素晴らしいものであると思う」
「おお、愛しき人! 君にそのように言ってもらえるのが、俺にとっては無上の喜びだ!」
「……しかし、歌っていないときのお前は、まるで別人のように見えてしまうな。それを、惜しむらく思う」
アイ=ファの厳しい寸評に、ギャムレイが「ふふん」と鼻を鳴らした。
「俺たちにとって、そいつは誉め言葉だな。どれだけ救いようのないぼんくらでも、芸さえ磨けば生きていくことを許されるというわけだ」
「ちょっとちょっと、座長までぼんくら呼ばわりしないでくださいよ。そんな憎まれ口は、ピノだけで腹いっぱいなんですから」
「旅芸人なんざ、ぼんくらの集まりだ。この先も健やかに生きていきたいなら、せいぜい舌と指先を大事にすることだな」
そんな風に言ってから、ギャムレイは光の強い隻眼を俺に向けてきた。
「ところで……アスタというのは、お前さんのことであるのだな?」
「はい。今回はまだ、きちんとご挨拶をしていませんでしたよね。森辺の民、ファの家のアスタと申します」
「ファの家のアスタ。……お前さんは、ずいぶんと愉快な人生を歩んでいるようだな」
ギャムレイは、痩せこけた顔でにやりと笑う。
「ピノがどうしてお前さんの世話を焼こうとするのか、俺もようやく納得がいった。あいつは変わり者を見かけると、放っておけない性分だからな」
「変わり者ですか。まあ、素性だけを考えれば、きっとそうなのでしょうね。俺自身はご覧の通り、料理だけが取り柄の凡庸な人間でありますが」
「お前さんが凡庸だったら、この世はもっと愉快だろうさ!」
ギャムレイが陽気に笑い声をあげたとき、横笛の音色が背後から近づいてきた。
振り返ると、ピノが横笛を吹きながら近づいてきている。そうして切りのいいところまで横笛を吹ききってから、ピノはにいっと唇を吊り上げた。
「美味そうな料理の香りにひかれてきちまったよォ。まさか、アタシらの分まで食い散らかすつもりじゃないだろうねェ?」
「おお、ご苦労だったな、ピノ。表の連中も、順番で料理を食わせてやれ」
「そのつもりで舞い戻ってきたんだよォ。……ドガ、ディロ、そいつを食い終わったら、ザンやアルンたちと交代してきてくれるかァい? アタシもあとで、ナチャラと交代してやるつもりだからさァ」
大男のドガと壺男のディロは、やはり無言でうなずくばかりであった。
ドライカレーの木皿を持ち上げながら、ピノは俺とリコの顔を見比べる。
「どうやら、ぼんくらの歌はお気に召したみたいだねェ。わやくちゃにけなしまくってくれたら、面白かったのにさァ」
「へん。俺の歌に文句なんてつけられるわけがねえだろ。俺を誰だと思ってるんだよ?」
「歌うしか能のないぼんくら吟遊詩人だろォ? アンタも腹ごしらえをしたら、もうひと働きするんだよォ? ルウ家の最長老サンが、アンタの歌をご所望なんだからさァ」
そうしてドライカレーをひと口味わってから、ピノは俺に笑いかけてきた。
「あァ、コイツは本当に美味いよねェ。ギバ料理の食べおさめとしては、上等さァ」
「食べおさめですか。ピノたちも、もうすぐ出立してしまうのですよね」
「もうすぐっていうか、明日の朝には発つつもりだよォ」
俺は「え?」と目を丸くすることになった。
「それはずいぶん、急なお話ですね。もう何日かは、露店区域の契約も残っているのでしょう?」
「これ以上ジェノスに居残ったって、天幕を覗きに来る人間もいないからねェ。今日の祝宴が、アタシたちの仕事納めだったのさァ」
切れ長の目を楽しそうに細めながら、ピノはそう言った。
「実はもう、天幕だって片付けた後なんだよォ。明日の朝には森辺に切り開かれたっていう道にお邪魔して、シムに向かおうって算段さァ」
「そうだったのですか。……ティアの顛末を見届けていくんじゃないかと、勝手に想像していました」
「ソイツは、来年のお楽しみにしておくよォ。ま、森辺のお人らが世話を焼こうってんなら、なァんもおかしなことにはならないだろうさァ」
ピノはうっすらと微笑みながら、開いた左手で装束の裾をつまむ仕草をした。
「今年も、お世話になったねェ。アタシたちがくたばらなかったら、また来年もよろしくお願いするよォ」
「……はい。またお会いできる日を、楽しみにしています」
不思議と、ピノが薄情だという気持ちがわきあがることはなかった。
そもそもピノは、ティアとひとたび顔をあわせただけの間柄であるし――それに、ティアの行く末に無関心なわけではない、と感じられてならなかったのだ。
それでも、人の世の出来事には深入りしないのが、旅芸人の矜持であるのだろう。ピノたちには、ピノたちの進むべき道というものが存在するのだった。
「おお! お前はこんなところに引っ込んでいたのだな!」
と、新たな声が背後から響きわたった。
今度は、ラウ=レイの登場である。かたわらには、かまど番の仕事を終えたらしいヤミル=レイも控えている。
「お前の芸も見事であったぞ! さあ、そんなところに引っ込んでいないで、広場のほうに出てくるがいい!」
「え? ボ、ボクのことですか?」
幸福そうな面持ちでドライカレーを味わっていたロロが、きょとんとした面持ちでラウ=レイを見返す。彼女はすでに甲冑を脱ぎ捨てて、いつもの格好に戻っていた。
「うむ! お前と力比べする日を心待ちにしていた男衆が、山ほどいるのだ! そちらの、ドガという大男もだぞ!」
「だ、だけど、今日のボクたちは旅芸人として招かれた身でありますので……」
ロロが頼りなげに視線をさまよわせると、ギャムレイが人の悪い笑顔でそれに応じた。
「依頼主がお望みなら、それに応えるのが旅芸人だろうが? とっとと食って、とっととお相手してくるがいい」
「えええええ? ほ、本気の取っ組み合いなんて、ボクの芸ではないですよぉ」
「いいから、行ってこい。ぐずぐずしていると、尻に火をつけてやるぞ」
ロロは「とほほ」という面持ちで、ドライカレーをかきこみ始めた。
その間に、ラウ=レイが俺に向きなおってくる。
「ああ、そうだ。ドンダ=ルウからの言伝てを忘れていた。そっちの用事が済んだのならば、しばし顔を貸せ、とのことだぞ」
「あ、そうなのかい? いったい何のご用事だろう」
「知らん。何やら男衆が集まって、しかつめらしい顔を突き合わせていたようだぞ」
何か、ニーヤの歌に関してであろうか。
ともあれ、ドンダ=ルウからのお言葉であれば、二の次にはできない。俺はアイ=ファと目を見交わしてから、ピノたちに別れの挨拶をすることにした。
「それじゃあ、ひとまず失礼します。まだまだ宴は続くでしょうから、またのちほどご挨拶をさせてください」
ピノは「はいなァ」と微笑みつつ、ひらひらと手を振った。
ピノたちとも、この夜でお別れとなってしまうのだ。建築屋の一行とのお別れに続いて、俺は祭の終わりの寂寥感を噛みしめることになった。
広場のほうに出てみると、座員たちばかりでなく森辺の男衆も横笛を吹き鳴らし、町からの客人たちが歌を歌っていた。
祝宴の熱気に寂寥感を癒やされながら、俺とアイ=ファは本家のほうを目指す。母屋の前の敷物には、ドンダ=ルウの他にも馴染み深い面々が顔をそろえていた。
「ああ、シュミラル=リリンにヴィナ・ルウ=リリン。ドライカレーは、如何でしたか?」
「はい。美味でした。ヴィナ・ルウ、作り方、学びたい、言っています」
普段通りの穏やかな表情で、シュミラル=リリンは微笑んでいる。
それ以外に顔をそろえているのは、ジザ=ルウにギラン=リリン、ガズラン=ルティムにダン=ルティムといったメンバーだ。ジバ婆さんたちは最前までと同じように語らいを楽しんでいる様子であったが、こちらの車座にはいくぶん張り詰めた空気が感じられた。
「来たか。祝宴のさなかだが、今の内に伝えておきたいことがある」
ドンダ=ルウが、重々しい声でそう言った。
「銀の月の11日に、俺たちはモルガの山に踏み入ることになる。ファの家から2名、フォウの家から2名、城下町から2名ということで、残りの4名はルウの血族とさせてもらう」
「うむ。その顔ぶれが、決められたのであろうか?」
「ああ。この場に居座っているのが、その顔ぶれだ。ルウの血族からは、俺とシュミラル=リリン、ガズラン=ルティムとダン=ルティムが同行することにした」
「なに?」と、アイ=ファはわずかに身をのけぞらした。
俺も、同じ心境である。族長自らが同行してくれようというのは心強いことであったし、ダン=ルティムはきっと同行を望むのだろうなと予想していたが――残りの2名に関しては、まったくの想定外であったのだ。
「お、お待ちください。どうして、ガズラン=ルティムとシュミラル=リリンが……?」
「ガズラン=ルティムはルウの血族でもっとも頭の回る人間であり、シュミラル=リリンはもっとも外界の知識を持っている。よって、同行させることにした。何か、異存があるのか?」
「い、異存ではないですけれど……でも、シュミラル=リリンはもうすぐジェノスを出立する身ですよね?」
ラダジッドは、銀の月の10日前後に出立するつもりだと言っていた。ならば、ヴィナ・ルウ=リリンと過ごせる日も、残り数日となってしまうのだ。
しかし、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンは、とても静かな顔で微笑んでいた。
「私、聖域の民について、多少、知識、持っています。また、ティアの傷、治療、施した身です。同行、相応しい、思います」
「そ、それはそうかもしれませんけど……ヴィナ・ルウ=リリンは、本当にいいのですか?」
「わたしは、シュミラルがどれだけ正しい人間であるか、知っているつもりだもの……だったら、反対することなんてできないわ……」
ヴィナ・ルウ=リリンは澄みわたった眼差しで、そう言った。
「それにわたしは、ドンダ父さんのことを信じているから……ドンダ父さんが、森辺の同胞を危険にさらすはずがないもの……だからわたしは、みんなが無事に戻ってきてくれることを信じているわ……」
「うむ! 我々は、戦いに挑むわけではないのだからな! 何も危険なことなどありはしないぞ!」
ダン=ルティムの陽気な笑い声を聞きながら、アイ=ファはドンダ=ルウに向きなおった。
「……族長ドンダ=ルウがここまで力を尽くしてくれることを、心からありがたく思っている。ファの家長として、感謝の言葉を述べさせてもらいたい」
「ふん。これは森辺やジェノスの行く末に関わる問題なのであろうから、力を尽くすのが当然だろうが? 貴様たちも、ティアへの情で目を曇らせることは許されんぞ?」
「わかっている。しかし私は、何も心配していない。赤き民がティアの信ずる通りの存在であるのなら――我々の目指す正しき道と、違いが生じたりはしないはずだ」
アイ=ファが厳しい面持ちで答えると、ダン=ルティムがまたガハハと笑いながら立ち上がった。
「では、話はこれでおしまいだな! 心ゆくまで、祝宴を楽しもうではないか! さあ、ゆくぞ、アスタにアイ=ファよ!」
「ど、どこに行くのです?」
「知らん! どこに行っても、愉快であることに変わりはないだろうさ!」
ダン=ルティムに急き立てられて、俺とアイ=ファは広場の中央に歩を進めることになった。
さきほどの一画ではロロと男衆の力比べが開始されており、人々が歓声をあげている。その反対側では、ミケルとマイムがロイたちと語らっている姿が見えた。
ユン=スドラやトゥール=ディンも仕事を終えたらしく、別のかまどの前で女衆らと語らっている。その中には、ニコラやレビやテリア=マスの姿もあった。
ディアルとラービスは、ユーミとジョウ=ラン、ベンとカーゴと一緒になって、かまどからかまどへと巡り歩いている。ドーラの親父さんとその伴侶は、シン=ルウやララ=ルウなどの若衆と楽しげに笑い声をあげていた。
(ティアをこの中に加わらせることは、決して許されないんだろうけど……)
しかし、モルガの山に帰ることがかなえば、ティアもこのようにかけがえのない同胞たちと喜びを分かち合えるようになるのだ。
そのために、俺は力を尽くそうと思う。
俺が願うのはただひとつ、ティアが幸福で満ち足りた生を取り戻すことだけだった。