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異世界料理道  作者: EDA
第四章 迷い惑える三日間
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⑥家

2014.9/24 更新分 2/2 2015.7/5 誤字を修正

 意外なことに、ルティム本家はそれほどの大所帯ではなかった。

 本家に住まっているのは、家長ダンと、その後継者ガズラン、ガズランの伴侶アマ・ミン、ガズランの祖父にして先代家長ラー、ガズランの末妹モルンの5人きりだったのである。


 ただし、ダン=ルティムが子宝に恵まれなかったわけではない。

 ガズラン=ルティムとモルン=ルティムの他にひとりの息子とふたりの娘がいたのだが、彼らはいずれも伴侶をなして本家を出た後だったのだ。


 弟はすぐ隣りの家で妻とふたりの子と暮らし、妹たちはそれぞれ分家とレイの家に嫁いでいった。


 しかしこれでは本家に女衆が足りないので、普段は分家の女衆も集まって、仕事を手分けしているのだという。


「それでも、ルティムの人間は25名のうち、女衆が11名です。ルウやレイに比べると女衆は少ないほうですね」


「それだけルティムの男衆はしぶといということだわい! そしてルウの本家は嫁入り嫁取りが遅すぎる! 7名も子がいていまだに嫁を取ったのが長兄ひとりとはどういうことだ!」


 ルティム家の食卓は、賑やかだった。

 まあ、おもに騒いでいたのは家長様なのだが。


 先代家長ラー=ルティムは、あの婚儀の折に一族を率いていた長身痩躯の老人で、これがルティムの最長老なのだという。年齢は、70に届かないぐらいだろう。禿頭で白い髭を長く伸ばしており、鷹のように鋭い眼差しを有している。……この人物が、ジバ=ルウの娘を娶った人物である、ということだ。


 末妹のモルンは初顔で、年齢は15歳。ちょっと丸っこい体格をして愛嬌のある顔立ちをしており、まあ、言っては何だが少し親父さん似かもしれない。15歳にして、将来はいいおっかさんになりそうな風格がたっぷりだ。


 最長老は寡黙であったが、その他の人々は気さくで接しやすく、そして家長がけたたましい。ルウ家のように張りつめたところのない、実に和やかな晩餐だった。


「今日はポイタンの焼き方を学んできたのですけれども、家では焼く時間がなかったので助かりました。アスタ、アイ=ファ、ありがとうございます」


 朝にも挨拶だけは交わしたアマ・ミン=ルティムが、いつもの穏やかな感じで笑いかけてくる。


 もともと涼やかで清楚な印象のアマ・ミン=ルティムであったが、婚儀を終えて、何だか柔らかさを増した感じがする。ますます同世代という感じがしない。


 それに彼女は、頭の上で結っていた黒褐色の髪を、首の後ろですっぱりと切りそろえてしまっていた。

 ちょっと森辺では珍しいぐらいのショートヘアである。

 そして、その太くも細くもない健康的な肢体を包みこんでいるのも、既婚の証しである大きな一枚布だ。



「いやあ、美味かった! あばら肉はいつでも美味いが、やっぱりこの焼いたポイタンというのは格別だな! こいつを食べたらもうただ煮込んだだけのポイタン汁などは咽喉を通らんわ!」


 ごもっとも。そうであるからこそ、俺とアイ=ファもルティムのかまど番をあずかる段と相成ったのである。


 そんな感じで、あばら肉とモモのステーキ、焼きポイタン、ギバとアリアとプラのスープという晩餐を、無事に終了することができた。


 その後は、少し世間話を続けた後、各人はおのおのの部屋に戻っていく。


「アイ=ファ、アスタ、部屋はふたつほど余っていますが、ひとつでよろしいのでしょうか?」


「はい。色々と話し合うこともありますので」とナチュラルに答えてしまった俺であるが、その部屋に案内されると、ちょっと、何かがひっかかってしまった。


 調度らしい調度もない、6畳ていどの四角い部屋。

 足もとはやはり毛皮が敷きつめられているが。室の奥にある布の敷物が、その違和感の正体であったのだろうか。


「あ、寝具がもうひと組必要ですね。持って参ります」と、案内をしてくれたモルン=ルティムがそう言うと、アイ=ファは「べつだん、かまわない」と応じたものだ。


「普段から寝具は使っていないので。これで問題はない」


「そうですか。では、失礼いたします」


 にっこりと微笑み、末妹は去っていく。

 俺たちにあてがわれたのは右側の一番奥の部屋で、ひとつの空室をはさみ、手前側が新婚夫婦の部屋である。


「あー……何だか、おかしな感じだな?」


「何がだ?」とアイ=ファはさっさと入室し、広間から借りてきた燭台を、窓に置く。


 で、寝具の上に腰を下ろす、と。

 うむ。寝具は窓際に敷かれていたので、自然な立ち振る舞いですね。

 俺は後ろ手で戸板を閉め、アイ=ファの正面、毛皮の敷きつめられた床に陣取る。


 個室。

 寝具。

 人の家。


 何でしょうか。

 アイ=ファとの距離感はいつもと同一であるはずなのだが。妙に心拍数があがってしまう。


「平常心」という言葉を手の平に書いて、飲みこんだ。

「何をしているのだ?」とアイ=ファにいぶかられたが、まあ答えられるわけはありませんね。


「さあ、2日がかりで色んな情報をためこむことになったわけだけれども。最終的に、アイ=ファの気持ちはどんな感じだ?」


 アイ=ファはちょっと考え深げな面持ちで、長い髪をほどき始める。

 それがほどけて、金褐色の髪がさらりと肩や胸の上まで流れ落ちてから、アイ=ファは言った。


「私は……問題ないと思う」


「そうか」


「ああ。たとえ失敗したところで、失うのは銅貨だけだ。それぐらいの損失は、私がギバを狩って補ってみせる。――幸い今は、呆れ返るぐらいギバを狩れる時期でもあるしな」


「ふむ」


「唯一、心にひっかかるのは、それを言い出したのが、あのカミュア=ヨシュという男である、ということだけだ」


「やっぱりあのおっさんは、信用ならないか」


「信用ならない、というよりは――理解できない。考えも気持ちも読み取れない。話せば話すほど頭が混乱してくるようだ」


 そしてアイ=ファは、少し不安そうな目つきで、身を乗り出してきた。

 反射的に身を引きそうになり、あやういところで踏みとどまる。


 別に不自然なほど接近してきたわけではない。これで俺が身を引いたら、アイ=ファは不審がるか不愉快な思いをするだろう。俺だったら、たぶん傷つく。


 何だろうな――いまだに心拍数が落ち着かない。


「あの男は、みずからギバの肉を口にした。そのような都の住人は、初めて見た。私は非常に驚くのと同時に、これでこの男に対する不審感も多少はやわらぐのではないかと思ったが――私の不審感は、やわらぐどころか増すばかりだった」


「そうか。そのへんの感覚は、やっぱり俺にはよくわからないな。だけどまあ、理解できないっていうのは、よくわかる。信用できないんじゃなくて理解できないっていうのは、確かにぴったりの表現かもしれない」


「アスタもそう思うのか?」


「ああ。そう思うな」


「そうか。……良かった」と、アイ=ファはほっとしたように息をついた。

 あんまり――普段は見せない表情である。


「お前がそのように考えていないとしたら、私はお前のこともわからなくなってしまっていたかもしれない。……だから、良かった」


「そ、そうだな。だけどまあ、ドーラの親父さんやガズラン=ルティムの話を聞く限り、店を開くという行為そのものに大きな問題はなさそうだ。あのカミュア=ヨシュがどういう心情であれ、俺たちは自分の好きなように振る舞ってもいい……ってことになるのかなあ?」


「それは別に、最初からそう決まっている。私たちが何をしたところで、すべての責任をかぶるのは私たちだけなのだから」


「ふむ。だけど、俺が店を開くことによってアイ=ファに迷惑がかかるのは嫌だぞ、俺は?」


 すると、ひどく穏やかであったアイ=ファの顔に、うっすらと不機嫌そうな色が浮かんできた。


 このほうがアイ=ファらしくはあるのだが。俺は何か失言してしまったのだろうか?


「アスタ。お前は私の狩ったギバの肉と、この牙や角で得た食糧で作った料理を売るのではないのか?」


「ああ、今回ばかりは俺も出資するつもりだけど。もちろんアイ=ファの力抜きではできない話だよ」


「それならば、何故お前と私の立場を分けて考えるのだ?」


 怒っているというよりは、何かをもどかしがっているような表情にも見えた。


 その青い瞳も、どの感情を発露させるべきか迷っているようにゆらめいている。


「婚儀のかまど番に関しては、お前がガズラン=ルティムたちと個人として結んだ約定だった。しかし、このたびの話はファの家の家人として取り組む心づもりではないのか? お前は今回も、ひとりですべてを背負いこむつもりなのか? ならば何故――お前はファの家人の名を標榜しているのだ?」


「ご、ごめん。何か他人行儀っぽく聞こえてしまったかな? ほら、俺は異国の生まれだから、家族ってものに対する接し方が、きっと森辺の民とは少しずれてるんだよ。アイ=ファの存在を軽んじているつもりは、全然ないんだ」


 さきほどまでの気恥かしさなどはかなぐり捨てて、俺も思わず身を乗りだしてしまった。


 30センチばかりの空間を隔てて、アイ=ファがじっと、探るように俺の瞳をのぞきこんでくる。


「……お前の喜びは、私の喜びだ」


「ああ」


「お前の苦しみは、私の苦しみだ」


「うん」


「そうでなければ、何のための家人なのだ?」


 そう言って、アイ=ファはすっと目をそらした。

 普段の気安い感じだったら、ここで唇でもとがらせるところなのだが――その桜色の唇は、静かに言葉をつむぐばかりだった。


「それがわかちあえないのならば、家人である意味がない。お前はいったい何のために、ルティムの家に移らずファの家に居残ったのだ?」


「お前と一緒にいたいからだよ。……ごめん。家族に迷惑をかけたくないっていうのは、俺の故郷じゃわりと当たり前の感覚なんだ。それがアイ=ファを嫌な気持ちにさせるとは思ってなかった」


 何とかその悲しげな表情をやわらげたくて、俺はアイ=ファの手をとってしまった。


 柔らかくはないがなめらかさは失っていない指先が、ほんの少しだけ俺の手を握り返してくる。


「俺だって、アイ=ファが喜べば嬉しいし、アイ=ファが苦しめば悲しい。根っこのところではズレてないはずだから、勘弁してくれ。俺もアイ=ファを嫌な気持ちにさせないよう、気をつける」


「…………」


「時間をかければ、わかりあえるだろ? 異国の生まれだろうが異世界の生まれだろうが、俺はお前ときちんと理解しあいたいんだよ、アイ=ファ」


「……私たちに、時間などあるのか?」と、アイ=ファは静かに言った。


「私はいつ森に朽ちるかもわからない。お前はいつこの世界から消えてなくなるかもわからない。……そんな私たちに、時間などあるのか?」


「ある。死んだり消え失せたりするその瞬間までが、俺たちの時間だ。その瞬間が訪れるまで、頑張り続ければいいだけのことだろ?」


 俺が指先に力を込めると、それに呼ばれたように、アイ=ファがこちらを見てくれた。


 まだ少し感情の定まらない目が、俺を見る。


「そんなことを気に病んでたら、明日の心配をすることすら馬鹿らしくなっちまうじゃないか? そんな生き方は、俺は嫌だ。一番大事なのが今この瞬間だとしても、明日や将来のことを二の次にしたくはない」


「そんなことは……わかっている」と、アイ=ファが少しおかしな感じに口もとを動かした。


 笑っているような、泣いているような――それを自分でも制御できていないような、とても複雑で曖昧な表情だった。


「お前などに今さら諭されるまでもない。それがわからぬ者に狩人などつとまるか、うつけ者……」


 そしてアイ=ファは、予想外の動きに出た。

 こつんと、俺の右肩に額を押しあててきたのだ。


「お、おい、アイ=ファ……?」


「しばらく私の顔を見るな。すぐに、戻る」


 べつだん、いつぞやのように涙を流しているわけでもない。

 ただアイ=ファは、俺の右肩に額を押しあてたまま、すべての動きを止めてしまった。


 その肩と、指先から、アイ=ファのぬくもりが伝わってくる。

 長い髪が、あぐらをかいた俺の足もとにまで流れ落ちている。


 しばらく『贄狩り』はしていないという話であったのに、その髪の匂いは、やはり甘い。


 数秒後――アイ=ファはやおら面をあげ、俺の指先もちょっと乱暴な感じで振りほどいてきた。


「……それでお前は、どのように考えているのだ、アスタ?」


 ずっとうつむいていたので、その長い髪が目もとを隠してしまっている。

 だけど、その口もとに浮かんでいるのは、いつも通りの凛々しい表情だった。


「私の意見はさきほど述べた通りだ。宿場町に店を出すべきか出さざるべきか、お前はどのように考えているのだ?」


「ああ。俺は……やってみたい、と思っているよ」


 まだちょっとアイ=ファの様子を心配しつつ、俺は正直に答えてみせる。


「アイ=ファが言う通り、あのカミュアっておっさんのことは理解しきれない。それに、貧しい生活の苦しさっていうのも、自分で見たり体験したりしたわけじゃないから、本当の意味では理解できてない。でも……都の連中が森辺の民を《ギバ喰い》として見下しているのはカミュアと出会う前から腹立たしく感じていたし、ギバ肉の美味さを思い知らせてやりたいっていう気持ちもある」


「うむ」


「それに、宿場町にはターラやその親父さんみたいな人たちもいる。笑顔で手を取り合うような関係にはなれなくても、おたがいに歩み寄る余地はまだあると思うんだ。そういう部分でも、今回の一件がいいきっかけになればなと思っている」


 言いながら、俺はちょっと頭をかいてみせた。


「まあ、俺みたいな余所者が、そこまで森辺の行く末に関わってしまっていいのか、という疑問はあるけれど――関わるなら、いい形で関わりたい。お前やガズラン=ルティムみたいな人たちの賛同が得られるなら、ぜひ取り組んでみたいと思ってる」


「なるほど。お前はいまだに余所者気取りでいるのか。それが時として、私を死ぬほど苛立たせる原因になっているのであろうな」


 そっけない口調で言って、アイ=ファはぷいっとそっぽを向いた。

 口調や素振りはいつも通りだが、まだ目もとが隠れているために今ひとつ心情がつかめない。


「お前はファの家の家人だ。森辺で暮らし、森辺に生きる、森辺の人間として、語れ」


「やってみたい、と思っているよ。どんな結果になるかはわからないけど、自分の力がどこまで通用するか、挑戦したいと思っている」


「……ならば、決まりだな」と、そっぽを向いたまま、アイ=ファは静かに言った。


「私は今まで通りギバを狩り、肉と銅貨を準備する。お前はそれを使って、お前の仕事を果たせ」


「……ああ、わかった」


「ふん。ただし、町の人間にふるまう料理のために、かまど番の仕事をおろそかにするような真似は許さぬからな?」


「ふるまうんじゃなくて、売りつけるんだけどな」


 アイ=ファが普段通りにふるまおうとしているなら、俺もそうしよう。

 そう思って、俺もことさら明るい口調で答えてみせた。


「それに、いざ挑戦するとなったら、考えることが山積みだよ。どんな料理にするかはもちろん、地べたに火を焚いて鍋を温めるんじゃあ格好がつかないし。そもそも宿場町まで鍋を運ぶのだって一苦労だし、言うほど簡単な話じゃないぜ、こりゃ」


「何だ、すでにそのようなことまで思い悩んでいたのか。最初からお前は誰に何を言われようと店を出す心づもりでいたのではないか、アスタ?」


「そんなことはないよ。でも、あれこれ空想を広げるのは、楽しかった。明日はまた色々とガズラン=ルティムに相談することになりそうだな」


「現金なやつだ」と言い捨てて、アイ=ファは寝具の上でごろりと横になった。


 何だ、けっきょく寝具の上で寝るのかと、俺は苦笑する。


「まあ俺もちょっと考えをまとめとくよ。挑戦するからには、絶対成功させてやりたいしな」


 俺も敷布の上で身体をのばそうとしたら、真上を向いたまま、アイ=ファが「アスタ」と呼びかけてきた。


「何だ?」と応じると、半身を起こして寝具に肘をつき、少しばかり壁ぎわに引き下がる。


「案外、この寝具というやつは柔らかくて寝心地がいい。お前もこちらに来て、休め」


「……はい?」と俺は首を傾げてみせる。


 アイ=ファは、またごろりと横になり、うーんと両腕をのばす。


「寝心地がいいのだ。せっかく用意されているものなのだから、使っても罰は当たるまい」


「い、いや、アイ=ファは存分に使わせてもらえばいいさ。俺は毛皮さえ敷いてあれば、それで十分だ」


「……私の言葉を信用しないのか?」


「いやいや、俺の国ではみんな寝具を使っていたよ。その寝心地の良さはよーく知ってるとも」


「だったら、来い」


「いやいやいや。ふたりでその寝具は小さいだろ。どうぞおかまいなく。おやすみなさいませ」


「……どうしてそのように頑なに拒絶するのだ?」


 と、上を向いたまま、アイ=ファが静かにつぶやいた。


「私は何か、お前の気分を害するようなことをしてしまったか?」


「そんなことはない! ただ、俺の国では親子や夫婦でもない限り、ひとつの寝具でふたりの家族が眠ることはなかったってだけのこった!」


「……ここはお前の国ではなく、森辺だが」


 あうう。

 わざとなのか何なのか、相変わらずアイ=ファの目もとは長い髪で隠されてしまっており、その心情を読み取ることが非常に困難なのだった。


 もしもその瞳が、実はまだ全然平静さを取り戻しておらず、不安そうにゆらめいていたらと思うと――胸が苦しくなってしまう。


 これもやっぱり、何者かが与えたもうた試練なのだろうか?

 こういう試練は間に合っているんだよ、本当に!


「……それほどまでに嫌ならば、好きにするがいい」


 と、アイ=ファは身体ごと壁のほうを向いて、完全にその顔を隠してしまった。


 究極の選択だな、これは。


 しかし――何をどう考えたって、アイ=ファにその、俺を婿にしたいとかそういう気持ちがないことはわかりきっていることなので、間違いなどは起きようがない。


 そもそも床にこのようなものが敷かれているから意識してしまうが、普段からそこそこの至近距離で雑魚寝をしている間柄なのである。普段よりも距離が数十センチばかり近づくだけだ。


 たったそのていどの差異をこらえることで、アイ=ファに安心や安息を与えることができるならば――何を迷う必要があろうか。


 俺は呼吸を整えて、可能な限り心拍数を抑えてから、「お邪魔します」と寝具の上に這い寄った。


 アイ=ファは、動かない。


 あんまりその優美な後ろ姿は見ないように気をつけながら、俺はそっと寝具の上に身体を横たえた。


 ああ、まあ、ほどほどに柔らかいな。どちらかといえば枕のほうが恋しいのだが、贅沢などは言っていられない。宿場町に店を出すスケジューリングに思考を飛ばしつつ、今日は早々に眠ってしまおう。


 と、まぶたを閉ざそうとした、その瞬間。


 アイ=ファが、ぐるりと身体ごとこちらに向きなおってきた。


「……何だ、けっきょく来たのか、アスタ」


「あ、ああ。せっかくのお誘いだったからな」


 自分の右腕を枕にして横向きに寝そべったアイ=ファが、じいっと俺の顔を見上げやってくる。


 その瞳は、ちっとも悲しそうでも不安そうでもなく――

 ただひたすらに、嬉しそうな光を浮かべていた。


「……最初から、素直に言うことを聞いておればいいのだ」


 とっさに軽口を返すことも難しいぐらい、アイ=ファの顔にも素直な喜びの表情が浮かんでしまっている。


 怒ったりすねたりふてくされたり、という部分では非常に豊かな表情を持つアイ=ファだが、こんな顔を見せるのは珍しい――というか、出会って初めてかもしれない。


 俺の気持ちを大いに惑乱させながら、アイ=ファは静かに語り始める。


「アスタ。お前の力は、計り知れない。それでも、このたびの行いが本当にガズラン=ルティムの語るような成功を結ぶかは、誰にもわからないことだろう」


「ああ……それはもちろん、その通りだろうな」


「しかし、どのような形で終わろうとも、私の心に悔いはない。お前はただ、今まで通りに己の力を振り絞ればよいのだ」


「ああ、俺だってそのつもりだよ」


「……お前の存在は、誇らしい。お前のような人間をファの家に迎え入れられたことを、私は嬉しく思っている」


 そしてアイ=ファは、まぶたを閉ざした。

 ものすごく幸福そうな微笑をその口もとに漂わせながら。


「では、私は眠る。後の話は、明日になってから……」


 と、至極すみやかに語尾が寝息へと変わっていってしまう。

 その顔は、まるで小さな子どものように幼げで、安心しきっているように見えた。


(……それは、俺の台詞だってんだよ……)


 そんなことを考えながら、俺はどうしてもその愛くるしくてたまらない寝顔から目をそらすことも、まぶたを閉ざすこともできず、いつまでも眠れない夜を過ごす羽目になったのだった。

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― 新着の感想 ―
ずっと1人で頑張ってきたアイ=ファが幸せそうでほっこりする 読み直し組なんだけど、初期の頃のアイ=ファもう超可愛いいんやけど!
もう! もう! ファックしちゃえよ! 最高
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