銀の月の六日②~下準備~
2020.2/8 更新分 1/1 ・2/15 誤字を修正
ルウの集落に到着すると、そこでは祝宴の準備が粛々と進められていた。
いや、粛々と称するには不相応な賑わいであろうか。おおよその女衆はかまど小屋にこもっているので、広場にはそれほどの人影もなかったのだが、窓からもうもうとあがる煙や蒸気が、その内で行われている作業の熱気や慌ただしさを示しているように感じられた。
「それでは、こちらの荷車はファの家にお届けしておきますね」
俺からギルルの手綱を渡されたガズの女衆が、御者台の上からそのように呼びかけてくる。本日、祝宴に参席できるのは、俺とトゥール=ディンの調理を手伝う3名のみであったのだ。
その3名、ユン=スドラとマルフィラ=ナハムとレイ=マトゥアは、それぞれの性格に見合った面持ちで立ち並んでいる。明日は休業日であったので、熟練のかまど番たる彼女たちに心置きなく助力を頼むことがかなったのだった。
「それじゃあ、まずミーア・レイ母さんのところに案内するねー」
大勢の客人を引き連れて、ララ=ルウが広場を闊歩していく。その行き道で、シーラ=ルウやマイムを筆頭とするルウの血族のかまど番たちは、それぞれ担当の家のかまど小屋に向かうために離脱した。
残されたのは、俺たち客人の一団のみである。
その中で、俺はこれが初めての来訪となるニコラに声をかけておくことにした。
「森辺の習わしで、客人はまず本家の人間に挨拶をすることになります。現在、家長を含めた男衆は狩りの仕事の真っただ中なので、家長の伴侶に挨拶をすることになるわけですね」
「……丁寧なご説明、ありがとうございます」
礼儀正しさを保持しながら、ニコラはずいぶんと張り詰めた表情になっていた。町で育った人間にとっては、森辺の集落に足を踏み入れるというだけで、十分に非日常的な行いなのである。陽気に声をあげているドーラの親父さんやユーミたちだって、当初は相当な緊張を強いられていたものであった。
「な、すごいだろう? 見渡す限り、森だもんなあ。俺も最初は、足がすくんじまったもんだよ」
と、親父さんはしきりに母君や叔父君やミシル婆さんに声をかけている。それらの人々もまた、これが初めての森辺であるのだ。
ご高齢の3名は、無言で周囲の情景を見回している。四方を取り囲む森の影に気圧されているのか、ジバ婆さんの生まれ育った地に踏み入った感慨を噛みしめているのか――不機嫌そうな仏頂面を保持したその姿から、内面までは推し量れなかった。
やがて本家に到着すると、ララ=ルウは母屋を迂回してかまど小屋に直行する。もちろんミーア・レイ母さんも、かまど仕事の真っ最中であるのだろう。
「ただいまー! お客人を案内してきたよ!」
「おや、もうそんな時間かい」
かまど小屋の入り口から、ミーア・レイ母さんが姿を現す。
すると、その横合いから小さな人影が弾丸のように飛び出してきて、ターラの身体を真正面から抱きすくめた。
「待ってたよー! ルウの家にようこそ、ターラ!」
「うん! リミ=ルウ、会いたかったー!」
ターラも満面の笑みとなり、リミ=ルウの赤茶けた髪に頬をうずめる。リミ=ルウは昨日が屋台の当番であったので、1日ぶりの再会となるわけであるが、喜びの熱量に変わりはないようだった。
「まったく、騒がしいねえ。……あらためて、ルウの家にようこそ、お客人がた。いやあ、今回もたいそうな人数だねえ」
ミーア・レイ母さんはにこやかに笑いながら、客人たちを見回していく。
ダレイムからは、ドーラ家のご家族が8名と、ミシル婆さん。
宿場町からは、ユーミ、テリア=マス、レビ、ベン、カーゴの5名。
城下町からは、ロイ、シリィ=ロウ、ボズル、ニコラ、ディアル、ラービスの6名。
そして、カミュア=ヨシュ、レイト、ザッシュマを加えると、総勢は23名であった。祝宴では、さらに《ギャムレイの一座》とリコたちの一行も加わるのだ。
「ああ、あんたたちが、ジャガルの鉄具屋ってお人らだね。娘たちから、さんざん話は聞かされているよ」
「はい! 今日はお招き、ありがとうございます!」
相手が族長の伴侶ということで、ディアルは珍しくも口調をあらためていたが、元気いっぱいであるのは普段通りであった。
「それに、先月はたくさんのご注文もありがとうございました! 注文の鉄具は、銀の月の間に届くはずですので!」
森辺においては紫の月の間に、鉄具の注文をしていたのである。それも、ルウの血族のみならず、フォウを筆頭とする小さき氏族も調理刀などを求めていたので、その総数はなかなかのものであるはずだった。
「そいつが届く日を楽しみにしてるよ。それじゃあ、鋼を預からせてもらおうかね」
刀を携えていたのは、《守護人》の一行とラービスと、あとはベンにカーゴであった。ベンとカーゴも、本日は護身用の短剣を携えていたのだ。
そんな両名の姿を見て、ニコラがふっと眉をひそめる。
「失礼いたします。長剣ばかりでなく、短剣も預けなくてはならないのでしょうか?」
「うん。鋼の武器はひと通り預かる習わしなんだよ」
「……そうですか。では、これを」
ニコラは懐に手を差し入れると、そこから細身の短剣を取り出した。ペーパーナイフのように小ぶりであるが、柄や鞘には見事な意匠が凝らされている。それを見て、ミーア・レイ母さんは「へえ」と目を丸くした。
「あんたは女衆なのに、そんなもんを持ち歩いているのかい? あたしらも、森の端に入るときは蔓草を切ったりするために刀を持ち歩いたりするけどさ」
「……はい。普段から、用心のために持ち歩いています」
「そうかい。大事に預からせていただくよ」
ミーア・レイ母さんは、笑顔でその短剣を受け取った。
「それじゃあ、あとは好きにしてもらっていいけど……ミシルたちは、こっちに来てもらえるかい? 最長老が、そわそわしながらあんたがたの到着を待ちわびてるだろうからさ」
刀を抱えたミーア・レイ母さんの案内で、ミシル婆さんとドーラ家のご老人がたは母屋にいざなわれていく。
それと入れ替わりで、かまど小屋からレイナ=ルウが顔を出した。
「火加減を見ていたので、ご挨拶が遅れてしまいました。みなさん、ルウの家にようこそ」
「みなさん」と言いながら、レイナ=ルウの目は真っ直ぐロイたちに向けられている。ロイとシリィ=ロウは無言で目礼をし、ボズルは「どうもどうも」と大らかに声をあげた。
「本日はご招待いただき、心から感謝しておりますぞ。さっそく厨の様子を見学させていただけますでしょうかな?」
「ええ、もちろん。……ただ、ミケルとマイムは自分たちの家で宴料理の準備をしています。よければ、誰かに案内をさせましょうか?」
「いや」と応じたのは、ロイであった。
「そっちの様子も気になるけど、この場を素通りする理由にはならねえだろ。順番に、すべての厨を見学させてもらえるかい?」
レイナ=ルウはきりりと表情を引き締めつつ、「はい」とうなずいた。
「では、こちらにどうぞ。他の方々はどうされますか?」
「……わたしも勝手がわかりませんので、よろしければともに見学をお願いしたく思います」
そのように答えたのは、ニコラである。
レイナ=ルウは一瞬けげんそうな顔をしたが、すぐに「ああ」と首肯した。
「あなたは、ヤンのお弟子になられたという御方でしたね。どうぞご遠慮なく見学なさってください」
レイナ=ルウも早駆け大会の祝賀会には参席していたので、その際にニコラと挨拶を交わしていたのだ。それに、彼女が宿場町でヤンの手伝いをしていた頃から、何度か顔ぐらいはあわせているはずであった。
あとはリミ=ルウ目当てでターラも居残ることになり、それ以外の面々は別のかまど小屋に移動することになった。何せこの人数であるから、同じ場所には固まっていられないのだ。
その案内役を担うことになったララ=ルウが、俺のほうに向きなおってくる。
「アスタたちは、宴料理の準備だよね? シン=ルウの家でタリ=ルウたちが待ってるはずだから、そっちに行ってくれる?」
「了解。それじゃあみなさん、またのちほど」
勝手知ったるルウの集落であるので、俺たちに案内は無用だ。そうしてシン=ルウ家のかまど小屋を目指して出発すると、カミュア=ヨシュの一行がひょこひょこと後をついてきた。
「せっかくだから、俺たちはアスタたちとご一緒させていただくよ。男衆らが戻ってこないと、顔馴染みも少ないもんでね」
「どうぞどうぞ。じきにアイ=ファもやってくるはずですよ」
ララ=ルウの言葉通り、シン=ルウ家のかまど小屋ではタリ=ルウと数名の女衆が待ちかまえていた。かまどと石窯を総動員してポイタンを焼いていたらしく、香ばしい匂いがぞんぶんにたちこめている。
「ルウの家にようこそ、お客人がた。あたしらはこれでおしまいなんで、あとは好きに使ってくださいな」
「はい。いつもありがとうございます。……あ、カミュア、こちらはシン=ルウやシーラ=ルウの母君で、タリ=ルウですよ」
「どうもどうも。今日はお世話になります」
あまり馴染みはない相手でも、カミュア=ヨシュたちは社交性に秀でているので、何も問題はない。陽気で大らかなザッシュマはもちろん、あまり内面をさらさないレイトでも、それは同じことであった。
「さて。それじゃあ、準備に取りかかろうか」
タリ=ルウたちの後片付けを待って、俺たちも作業を開始することにした。
ざっくりとした段取りはすでに通達済みであるので、ユン=スドラたちはてきぱきと支度を進めていく。その姿に、カミュア=ヨシュは「ほうほう」と感心したような声をあげた。
「なんというか、下準備の段階で手際のよさが感じ取れるねえ。城下町の料理人でも、なかなかこれほどの統率は取れないんじゃなかろうか」
「それは光栄なお言葉ですが、カミュアは城下町の厨を覗いたことがあるのですか?」
「いや、あくまで印象の話だけどさ」
カミュア=ヨシュのとぼけた返答に、レイ=マトゥアが「まあ」と笑みくずれた。
「あなたは愉快な御方なのですね。えーと……」
「俺は、カミュアだよ。《守護人》を生業にしている、カミュア=ヨシュという者だ」
「はい、申し訳ありません。たびたびご挨拶をさせていただいているはずなのに、つい他の方々のお名前とごっちゃになってしまって」
「それはしかたのないことさ。この復活祭の間だけでも、さぞかしたくさんの人々と交流を結ぶことになったのだろうからねえ」
そう言って、カミュア=ヨシュはにんまりと微笑んだ。
「俺もまた、それは同じことなんでね。ちなみに君は、どこの氏族のなんていう娘さんなのかな?」
「わたしは、レイ=マトゥアと申します。こちらがトゥール=ディン、ユン=スドラ、マルフィラ=ナハムですね」
「ふむふむ。マトゥアとディンと、スドラとナハムか。みんな親筋の氏族でないのは、偶然であるのかな?」
黙々と準備を進めていた俺は、そこで「え?」と振り返ることになった。
「それらの氏族が親筋でないと、よくおわかりになりましたね。いつの間に、そんな知識を身につけられたのです?」
「それはだから、復活祭の恩恵さ。祝日がやってくるたびに、色々な氏族の人々と語らうことができたからねえ」
チェシャ猫のように笑いながら、カミュア=ヨシュはそう言った。
「マトゥアはガズ、ディンはザザ、スドラはフォウ、ナハムはラヴィッツの眷族だろう? ガズとフォウは前々回の家長会議からアスタたちの行いに賛同していた氏族で、ザザは言うまでもなく族長筋、それでラヴィッツは……最後の最後までファの家の行いに賛同できなかった氏族であるそうだね」
「は、は、はい。ラ、ラヴィッツの家長はとても慎重な御方でありますので……」
「でも、前回の家長会議では満場一致でアスタたちの行いが認められたのだろう? 最初にアスタをそそのかした身としては、ほっとしたものだよ」
「そそのかした?」と、レイ=マトゥアが目を丸くした。それを見て、カミュア=ヨシュは「おやおや?」と細長い首を傾げる。
「アスタに屋台の商売をすすめたのは俺なのだけれども、そういった話は家長会議でも争点にならなかったのかな?」
「ああ、言われてみれば、そうですね。俺もアイ=ファも、家長会議でカミュアの名前を持ち出すことはありませんでした。べつにカミュアの存在を軽んじていたわけではなく、俺もアイ=ファも心から納得して屋台の商売に取り組んでいたので、最初のきっかけであるカミュアの名前を持ち出す必要にも駆られなかったのですよ」
すると、レイ=マトゥアがいくぶん昂揚した面持ちで身を乗り出した。
「そうでした! 傀儡の劇でも、アスタとカミュア=ヨシュの出会いは語られていましたものね! やっぱりアスタとカミュア=ヨシュが出会っていなかったら、屋台の商売が始められることもなかったのでしょうか?」
「さてさて、どうだろうねえ。アスタだったら、自然に思いついていたんじゃないのかな」
「いやあ、それはどうでしょう。そこまで大胆な発想は、なかなか思いつかなかったように思います」
「それならやっぱり、カミュア=ヨシュがわたしたちの恩人ということですね!」
レイ=マトゥアは、きらきらと光る瞳でカミュア=ヨシュを見つめていた。
「森辺の民が屋台の商売をしていない世界なんて、わたしにはもう想像することすらできません! アスタに素晴らしい考えを授けてくださって、どうもありがとうございます!」
「いやいや、俺はスン家の罪を暴くために、アスタたちを利用していたようなものだからさ。そんな風に言われると、恐縮してしまうよ」
「何を言っているんですか。スン家の罪を暴いたら、いっそう森辺の民とジェノスの人たちの溝が深まってしまうんじゃないかと心配して、カミュアは俺に屋台の商売をすすめてくれたのでしょう? だからやっぱり、俺たちが最初の一歩を踏み出せたのは、カミュアのおかげなんですよ」
そうして俺は、スン家の罪を暴くためにザッシュマが果たした役割も説明することになった。その頃から、カミュア=ヨシュとザッシュマは同じ目的のために邁進する朋友であったのだ。
作業の手は止めないまま、レイ=マトゥアとマルフィラ=ナハムは熱心に話を聞いている。ユン=スドラやトゥール=ディンは、そういった話もすでにわきまえていたのだろう。ファの家とつきあいの深い氏族であれば、そういった話も耳にしていて然りであるのだ。
「す、す、すごいですね。な、なんだかわたしは当時の苦労も知らないまま、ただ幸福な結果だけを享受しているような心地になってしまいます」
「そんなことはないよ。ラヴィッツの血族というのはスン家と家が近いために、ひときわその暴虐にさらされていた氏族なんだろう? そういう意味では、誰よりも苦労していたはずじゃないか」
「あ、い、いえ、け、決してそのようなことは……」
と、マルフィラ=ナハムは目を泳がせながら、トゥール=ディンのほうをうかがった。それを見て、カミュア=ヨシュは「ああ」と目を細める。
「君は、スンからディンに引き取られたのだったね。君の素性や評判は、ポルアースやエウリフィアからも聞いていたんだ。……スン家を悪しざまに罵ってしまって、申し訳なかったね」
「いえ。スン家が罪を犯していたのは、本当のことですので」
トゥール=ディンは気弱げな顔を見せることもなく、やわらかい微笑をカミュア=ヨシュに返した。
カミュア=ヨシュもまた、「そうか」と穏やかに微笑む。
「復活祭では、スン家の人々とも言葉を交わしたよ。かつて本家であった人々とも、現在もなおスン家に身を置いている人々とも、両方ね。誰もが満ち足りた顔をしていたので、俺も安心したものさ」
「はい。アスタやカミュア=ヨシュたちのおかげで、わたしたちは罪を贖うことができたのです。本当に、心から感謝しています」
かつてはスン家の話題があがるたびに暗い顔をしていたトゥール=ディンも、ここまで自分の生を誇れるようになったのだ。
その迷いのない微笑みは、俺の胸を詰まらせてやまなかった。
「森辺の民が正しい道を進めているのは、森辺の民にそれだけの力が備わっていたからだと思うよ。……ところで、そろそろ質問に答えてもらえないものかな、アスタ?」
「え? 何か質問されていましたっけ?」
「この場に、親筋ではない氏族の娘さんたちばかりが集っている理由だよ。これは、偶然なのかな?」
まったくわけもわからぬまま、俺は「はい」とうなずいてみせた。
「偶然というか、自然の成り行きでしょうかね。この場にいる全員が親筋の氏族じゃないなんて、俺はまったく意識もしていませんでした」
「そうか。森辺の民は血筋を重んじる一族だと思うのだけれど、そんなこととは関係なく、実力主義の観点から人材を育成しているということだね」
カミュア=ヨシュは、とても楽しそうに笑っていた。
「それだけでも、十分に大層なことなのだと思うよ。外界生まれであるアスタの考えを、森辺の民がそこまで柔軟に受け入れることができているのだからね」
「アスタはもうれっきとした森辺の民なのですから、何も不思議なことではないように思います」
ユン=スドラがいくぶん真剣な面持ちで声をあげると、カミュア=ヨシュは「そうだね」といっそう楽しそうに目を細めた。
「君たちはアスタを同胞として受け入れたのだから、その時点で柔軟性は示されているわけだね。それに今では、シュミラル=リリンにバルシャにジーダ、ミケルにマイムの5名までもが森辺の家人となりおおせたわけだし……いやあ、なんだか感慨深いなあ」
「ふふん。まるで老人のような言い草だな。そんな感慨にふけってばかりいると、いっそう老け込んでしまうぞ」
人の悪い笑みをたたえながら、ザッシュマがそう言った。
「まあ、俺も自分が森辺の祝宴に招かれるだなんて、少し前には想像もしていなかったがね。一緒にダバッグにおもむいたあたりから、ずいぶん風向きが変わってきたように思うよ」
「そうですね。ちょうどそれぐらいから、森辺に町の人々を招いたり、こちらからも出向くようになったり、行き来が多くなったように思います」
ダバッグへの小旅行すらも、すでに1年以上の昔となってしまうのだ。それからさまざまな変転を経て、俺たちはこの場に立っているのだった。
(感慨にふけると老け込んでしまうなら、俺なんてどんどん老け込んじゃいそうだ)
俺がそのように考えたとき、開け放しであった扉から「おい」と声が投げかけられた。
「失礼するぜ。こっちの見学もさせてくれよ」
それはロイたち、料理人の一行であった。
「ええ、どうぞ。もう本家のほうは堪能されたのですか?」
「ああ、まあな。とりあえず、すべての厨を順番に見回らせてもらおうと思ってよ」
こちらの人員は5名のみであったので、さらなる客人を招き入れることも難しくはなかった。
そうして4名の料理人が入室することになったわけであるが――最後に足を踏み入れたニコラが、先客たちの姿に気づくなり、ハッと身体を強張らせた。
そんなニコラに、カミュア=ヨシュがふわりと微笑みかける。
「やあやあ、ニコラ。初の森辺は如何です?」
ニコラは押し殺した声で、「はい」と応ずるばかりであった。
カミュア=ヨシュの笑顔から逃げるように視線をそらして、両方の拳をぎゅっと握りしめる。何故かしら、彼女はカミュア=ヨシュに穏やかならぬ心情を抱いている様子であった。
「で、今日はどんな料理を準備してくれるんだ?」
そんなニコラのただならぬ様子には気づくこともなく、ロイがそのように語りかけてくる。俺は後ろ髪を引かれるような心地で、そちらに向きなおった。
「えーとですね、今日もシャスカ料理を準備することになりました。あとはトゥール=ディンの取り仕切りで、菓子も準備する予定です」
「シャスカ料理か。そいつは楽しみだ。でも、かれーの匂いがぷんぷんしてるな」
「はい。カレーを使ったシャスカ料理です。いつかヴァルカスにも味見をお願いしたいところですね」
すると、ニコラが「申し訳ありません」と割り込んできた。
「ちょっと気分が悪くなってしまったので、外の空気を吸ってまいります。みなさんは、見学をお続けください」
誰の返事を待つこともなく、ニコラは口もとを押さえてかまど小屋を出ていってしまった。
その姿に、ボズルは「ふむ」と眉をひそめる。
「ニコラ嬢は、ずいぶんと青い顔をしておりましたな。さきほどまでは元気そうだったのに、いったいどうされたのでしょう」
「さてね。初めての森辺で気を張りすぎたんじゃないですか?」
ロイはさほど気にした様子もなく、俺たちの手もとを覗き込んでいる。
カミュア=ヨシュの様子をうかがうと、彼はいくぶん眉尻を下げながら金褐色の頭をかいていた。ニコラの後を追うべきかどうか、考え込んでいるように見えなくもない。
(なんだろう。カミュアはポルアースと親交が深いから、ニコラと面識があってもおかしくはないけど……何か因縁でもあるのかな)
俺がそんな風に考えていると、シリィ=ロウが「アスタ」と呼びかけてきた。
「あなたはあのニコラという娘と親交が深いのでしょうか?」
「え? いえ、ヤンのもとで顔をあわせる機会は何度かありましたが、個人的に言葉を交わしたことはほとんどありませんね」
「そうですか。あのヤンという御方に弟子入りを認められるぐらいなのですから、あの娘もそれなりの技量と熱情を携えているのでしょうね」
シリィ=ロウは貴婦人の茶会にて、ヤンの技量を知ることになったのだ。菓子作りを得手とするシリィ=ロウをして、ヤンの腕前は賞賛されていたはずだった。
「あの娘は口が重くて、なかなか仔細を語ってくれないのです。宿場町では、彼女がヤンという御方の仕事を手伝っているのでしょう?」
「はい。復活祭の間はヤンもお屋敷の仕事にかかりきりであったようですが、それまではずっと行動をともにしていたように思いますよ」
そのように答えながら、俺はちらちらとカミュア=ヨシュの様子をうかがってみたが、彼が口を開くことはなかった。
そして最後に、カミュア=ヨシュのかたわらにたたずむレイトと目が合ったのだが――俺と目が合うなり、レイトは無言で首を横に振った。
(余計なことを口にするなよってことか)
ならば俺も、むやみに聞きほじるつもりはない。余計な詮索は取りやめて、作業に集中することにした。
「ところで、ミケルはどこにいるんだろうな? もう半分ぐらいの家を見て回ったのに、まだ出くわさないんだよ」
「ミケルは、広場をはさんだ向かいの家ですよ。俺たちも、以前の祝宴で宿泊させていただいたでしょう?」
「数ヶ月ぶりだと、記憶も曖昧になっちまってな。向かいの家ってことは、おもいきり遠回りしちまったわけか。……まあ、全部の家を巡るんだから、同じことなんだけどよ」
それでもやっぱり、ミケルとの再会は待ち遠しいのだろう。ロイよりも、シリィ=ロウのほうがそわそわしているように感じられた。
「あ、あの、ミケルは森辺でどのように過ごしているのでしょう? まさか、ギバ狩りの仕事を手伝わされたりはしていないのですよね?」
「もちろんです。ミケルは料理の手ほどきと、それに読み書きの手ほどきなども受け持っているそうですよ。あとは……俺のような身なりになったぐらいでしょうかね」
ロイたちにとっては、ルウの家人となったミケルとの初対面であったのだ。本音を言えば、真っ先に駆けつけたいぐらいの心境であったのだろう。
それでも彼らは10分ばかりもこの場に留まって、俺たちにあれやこれやと質問を飛ばしてきた。特にマルフィラ=ナハムなどはシリィ=ロウにロックオンされて、質問責めにあっていた様子である。
「とりあえず、今のところはこんなもんかな。ひと通りの厨を見て回ったら、また覗かせてもらうよ」
そうしてひとまずの探求心を満たしたロイたちは、連れ立ってかまど小屋を出ていった。
それから10秒と待つことなく、ニコラが息せき切って駆け込んでくる。
「あの! さきほどは申し訳ありませんでした、カミュア=ヨシュ!」
ほとんど怒鳴るような声で言い、ニコラは深々と頭を下げた。
俺たちが目をぱちくりさせる中、カミュア=ヨシュは「いやいや」と苦笑する。
「あなたは何を謝っているのですか、ニコラ? 何も頭を下げられるような覚えはありませんよ」
「いえ! 顔を見るなり気分が悪いなどと称して席を外すのは、許されざる非礼であるはずです! ましてや、あなたはポルアース様のご友人であられるのですから!」
そのようにまくしたててから顔を上げたニコラは、射るような目つきでカミュア=ヨシュをにらみつけた。
光の強い茶色の瞳は、普段以上に爛々と燃えている。
ただ――その瞳には、うっすらと涙が光っていた。
「あたしは――いえ、わたしは決して、あなたをお恨みしているわけではありません! ただ、昔のことをあれこれ思い出し、心を乱してしまっただけであるのです! 2度とこのように非礼な真似はしないと誓いますので、どうぞお許しください!」
「許すも許さないもありませんよ。あなたがお元気そうで、俺も嬉しく思っています」
カミュア=ヨシュは、ニコラをなだめるように微笑んでいる。
そのとぼけた笑顔をしばらくにらみつけてから、ニコラは俺たちの姿を見回してきた。
「……森辺の方々にも、お騒がせしてしまったことをお詫びいたします。どうかお許しいただけるでしょうか?」
「え、ええ。お客人同士で諍いが起きるようなことがなければ、べつだんかまいませんが……」
「寛大なお言葉、ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
ニコラは再び頭を下げると、脱兎の勢いでかまど小屋を出ていってしまった。
さっぱり事情のわからない俺たちが顔を見合わせていると、ザッシュマが「やれやれ」と肩をすくめる。
「あんな喧嘩腰の謝罪は初めて目にしたよ。さすがは『腕切りニコラ』といったところか」
「ザッシュマ、そんな余人を貶めるような物言いは感心しないねえ」
カミュア=ヨシュは、珍しくも渋い面持ちでザッシュマを掣肘した。
レイ=マトゥアはきょとんとした面持ちで、そちらに呼びかける。
「それは、ニコラの異名なのですか? ずいぶんと穏やかならざる言葉であるように思うのですが」
「ああ。当時は城下町でもけっこうな評判だったからな。あの料理人たちは知らないようだったが、アスタなんかはわきまえているんだろう?」
「い、いえ。そのような言葉を耳にしたのは、初めてです」
俺の返答に、ザッシュマは「ありゃ」という顔をした。
「だったら、余計なことを言っちまったのかな。ポルアース殿であれば、そんな醜聞を隠したりもしないように思っていたんだが……」
「隠していたのではなく、話す必要はないと判じていたのだろうさ。俺だって、そう思っていたよ」
と、今度は唇をとがらせるカミュア=ヨシュである。
まったく可愛くはないのだが、彼がこのような表情を見せるのも、ずいぶんひさびさのことであった。
「でも、この場を騒がせてしまったのだから、アスタたちにも説明しておくべきなのかな。……アスタはニコラ嬢の前身について、何も聞かされていなかったのだね?」
「はい。ポルアースやヤンからは、ダレイム伯爵家の侍女であるとしかうかがっていません」
「うん。森辺の民であれば、このような話を聞いてもニコラを白い目で見ることはないだろう。そのように信じて、説明させていただくよ」
カミュア=ヨシュは真面目くさった顔を作り、言葉を続けた。
「ニコラ嬢の前身は、アルフォン子爵家の第二息女だったんだ。で、一昨年の灰の月にアルフォン子爵家はお取り潰しとなったので、彼女は親筋であるダレイム伯爵家の侍女に身をやつすことになったわけだね」
「へえ、彼女は貴族であったのですか。一昨年の灰の月というと……ちょうどトゥラン伯爵家にまつわる騒動が片付いた頃ですね」
「うん。それで俺もジェノスを離れる直前ぐらいに、ポルアース殿を介してアルフォン子爵家と関わることになったんだけど……端的に言って、俺がアルフォン子爵家をお取り潰しに追い込んだようなものなのだよね」
俺はユン=スドラたちと一緒に、「え?」と目を丸くすることになった。
「当時の第一息女であった人物が、子爵家の当主であった貴婦人を短剣で刺してしまったんだ。その翌日、貴婦人は刺された傷がもととなって魂を返してしまい……それでニコラ嬢が、姉の罪を隠すために、あれこれ隠蔽工作を施してしまったのさ。それで、たまたま居合わせた俺が、その罪を暴く役割を果たしてしまったということだね」
「それはそれは……でも、ニコラが貴婦人を傷つけたわけではないのですね? それでどうして、『腕切りニコラ』などという恐ろしげな悪名がついてしまったのです?」
「それはまあ、彼女が罪の証を隠すために、貴婦人の手首を切り落としてしまったからだろうね」
いったいどのようなシチュエーションが訪れたら、そのような真似をする羽目になってしまうのだろうか。
俺が言葉を失っていると、ユン=スドラが「それで」と声をあげた。
「ニコラも、罪に問われることになったわけですね? その罪は、きちんと贖われたのでしょうか?」
「うん。爵位を剥奪されて、貴族ならぬ身として生きることが、彼女に対する罰であるのだよ。彼女が受け継ぐべき財産もすべて没収されて、身ひとつで放り出されることになったのだから、まずは相応の罰なのではないかな」
そう言って、カミュア=ヨシュはふっと微笑んだ。
「彼女は他に身寄りもなかったから、ポルアース殿の温情がなかったら野垂れ死んでいたところだろうね。それでも彼女は、拘禁の刑に服している姉が解放される日を夢見て、懸命に生きているのだという話だよ」
「そうですか。……だから出会った当時の彼女は、あのように悲しげな目をしていたのですね」
そう言って、ユン=スドラはそっと目を伏せた。
そういえば――ニコラと初めて出会ったとき、リミ=ルウも同じようなことを言っていたのだ。
それに、いつだったか《タントの恵み亭》に出向いた際に、マイムあたりがニコラのことを貴族のように気品がある、と称していたような覚えもある。
かえすがえすも、俺の目が節穴であったということだ。
「彼女は罪を犯したけれど、きちんとそれを贖った。森辺の民ならば、今さら彼女を責めたてたりはしないでくれるよね?」
「は、はい。ニコラが悪い人間であったのなら、ポルアースが救いの手をのばすとは思いませんし……ましてや、森辺の民に関わらせようだなんて考えないでしょうしね。それに俺自身、ニコラが悪い人間だと思ったことはありません」
「ああ、よかった。これで俺も、ザッシュマを恨まずに済むよ」
「おいおい、俺は本当のことを言っただけなのに、どうして恨まれなければならんのだ」
無精髭の浮いた頬をさすりながら、ザッシュマはまた苦笑を浮かべた。
「だいたいな、そういう話は隠せば隠すほど、誤解を生み出しちまうもんなんだ。そもそもの最初から、ポルアース殿が打ち明けておくべきだったのだと思うぞ」
「城下町の醜聞なんて、森辺の民は興味がないと考えたのじゃないかな。それにやっぱり、ニコラ嬢の前身ではなく現在の姿を見てほしいと考えていたのだと思うよ」
そんな風に言いながら、カミュア=ヨシュは何かを見透かすような眼差しになった。
「今日のことだって、ニコラ嬢は俺が参席することをポルアース殿から聞いていたはずだ。それでも彼女は、参席を拒むことはなかった。過去のことにはとらわれず、前を向いて生きていこうと、彼女もそのように決断したという証だよ」
それはきっと、その通りなのだろう。
ふいに出くわしただけで心を乱されるぐらい、カミュア=ヨシュの存在を重く感じているのに、彼女は森辺にやってきた。それはきっと、ヤンの弟子として力を尽くしたいという気持ちのあらわれであるのだ。
俺がそんな風に考えたとき、「ど、ど、どうしたのですか?」というマルフィラ=ナハムの声が響きわたった。
振り返ると、トゥール=ディンがうつむいて、作業台の上に涙をこぼしている。トゥール=ディンは慌てて顔をあげると、懐から出した手拭いで作業台の涙をぬぐった。
「も、申し訳ありません。その、食材を汚したりはしていませんので……」
「いや、それよりも、トゥール=ディンは大丈夫かい?」
「はい……なんだかニコラの話を聞いていたら、他人事とは思えなくなってしまって……」
トゥール=ディンは小さな顔を涙に濡らしたまま、やわらかく微笑んだ。
「父さんと暮らすことが許されたわたしよりも、ニコラはいっそう苦しい生を送っていたのでしょうね……かなうことなら、わたしはもっとニコラと絆を深めたく思います」
「そうだね。俺もそう思うよ」
俺は心から、そのように答えることができた。
出会って1年以上も経ってから、このような心情に至ることもあるのだ。これが西方神のはからいであるのなら、俺は心から感謝を捧げたかった。