銀の月の二日②~森と山の狭間~
2020.2/6 更新分 1/1
「では、このギバ除けの実を割って、中の汁を身体にかけてもらいたい」
サウティの男衆から、ギバ除けの実が配られた。
実を割ると、強烈な刺激臭が炸裂する。ツンと鼻に刺さるような、腐ったシールの実のような香りだ。
「おお、こいつはたまらんな! これではギバでなくとも逃げ出したくなるわ!」
俺と同じぐらい嗅覚の鋭敏なダン=ルティムは、愉快そうに笑い声をあげていた。
「森の主めを相手取ったときにも嗅がされた香りであるが、自分の身にかけるとなると、いっそうたまらんな! このような香りを纏っていたら、自分たちの鼻もきかなくなってしまうのではないだろうか?」
「俺たちはルティムの狩人ほど、鼻をあてにはしていないのでな。……しかしダン=ルティムの父たるラー=ルティムは、ギバ除けの香りを纏った狩人らとともにありながら、見事に森の主の匂いを嗅ぎあてていたはずだぞ」
「うむ! 俺の鼻は、父ラーから譲り受けたものであるからな! それにしても、たまらん香りだ!」
そうしてすべての準備を終えた俺たちは、いざモルガの森に踏み込むことになった。
東西に切り開かれた街道を出発点として、北の方向に進んでいく。先頭を進むのはダリ=サウティたちであり、俺とティア、レイリスとジェムドを囲むようにして、他の狩人たちが四方に散っていた。しんがりをつとめるのはバードゥ=フォウとライエルファム=スドラで、俺たちのすぐ後ろにはアイ=ファが控えてくれている。
「この辺りにはそうそうギバが出ることもないという話でしたが……やはり、気を張らずにはいられませんね」
俺の隣を歩いていたレイリスが、小声でそのように言いたてた。その言葉通り、彼の横顔は厳しく引き締められている。
「料理人たるアスタも、普段は森に足を踏み入れることもないのでしょう?」
「そうですね。朝方のギバが眠っている頃合いに、森の端で薪拾いなどをするぐらいです」
あとは、シルエルたちに追われて森の中を逃げまどったこともあったが、あれも町寄りの安全な区域であったのだから、ノーカウントであろう。そろそろ中天も近づいてきた頃合いに、こうして森の中央部に足を踏み入れるのは、正真正銘初めてのことであるはずだった。
しかしこの場所は、もともとギバの餌になるような実りが少なく、比較的安全な区域とされていたのだ。そうでなければ、街道が切り開かれることもなかっただろう。ダグが率いる王都の兵士たちも、けっきょくギバには遭遇しないまま、森と山との境い目にまで到達したという話であったのだった。
(……そのダグたちのせいで、ティアの一族は森との境い目に見張りを立てることになったんだよな)
王都の兵士たちは森と山の境い目にまで足を踏み入れて、ヴァルブの狼に撃退されることになった。その際に、外界の人間がモルガの山に踏み込むことは禁忌である、と警告を与えたのが、他ならぬティアの同胞であったのだった。
それからティアの一族は、外界の人間が再び禁忌を犯さぬよう、森との境い目に見張りを立てることになった。ティア自身もその役割を果たすことになり、そして、その帰り道でマダラマの大蛇に襲われて、ラントの川に落ちることになったのである。
王都の兵士たちがそのような真似をしなければ、ティアが奇禍にあうこともなかった。
しかしまた、それは俺たちがティアに出会う機会も失われていた、ということであるのだ。
俺はティアに出会えたことを、心から幸福に思っている。しかし、これでもしもティアの罪が許されず、魂を返すような羽目になってしまうのなら――すべての運命を呪うことになってしまうだろう。それだけは、どうしても許容できなかった。
「……ティアの同胞たちは、まだ森との境い目に見張りを立てているのかなあ?」
俺がそのように呼びかけると、狩人の衣を抱えてちょこちょこと歩いていたティアが、愉快そうに微笑んだ。ティアはもはや狩人ならぬ身であるため、それを纏うことは許されないのだ。
「アスタがその問いを発するのは、これで何度目であろうか? ティアはずっとモルガを離れていたのだから、そのようなことを知るすべはない」
「うん……もしも見張りの狩人がいなかったら、ティアはそのままひとりで山に帰ることになっちゃうんだよね?」
「うむ。外界の人間たるアスタたちは、山に踏み入ることも許されぬからな。そうする以外に、道はないのだ」
しかし、ティアは右肩を負傷しているし、石の刀は折れてしまっている。もしも同胞と巡りあう前にマダラマの大蛇と出くわしてしまったら、そこで魂を返すことになってしまうのだ。ティアはどのような運命でも受け入れる覚悟を固めていたが、俺の覚悟はそこまで至っていなかった。
「……ティアよ、このまま真っ直ぐ北に向かうよりも、やや東寄りに歩を進めるべきだと思うのだが、どうであろうか?」
と、先頭のダリ=サウティがそのように告げてきた。
ティアは「ふむ」と思案する。
「では、ティアが木にのぼって方角を確かめてこよう。少し待っていてほしい」
ティアは手近な樹木の枝に狩人の衣をひっかけると、そのままするすると梢の向こうに消えていった。
さして待つこともなく、ティアはふわりと地上に降りてくる。体重を感じさせない、獣のような身のこなしだ。
「族長ダリ=サウティの言う通り、少しだけ東に寄るのが正しいと思う。そうすれば、ナムカルの狩り場に至るはずだ」
「了承した。では、先を急ぐぞ」
再び進軍が開始されると、またレイリスが俺に囁きかけてきた。
「聖域の民の身体能力というのは、恐るべきものであるようですね。これでもまだ、十全に力が戻っていないというのですか?」
「はい。右肩だけが、不自由であるとのことです」
「右肩が不自由であるにも拘わらず、あのように素早く木に登れるものであるのですか。つくづく、感服してしまいます」
ティアの姿を盗み見ながら、レイリスは小さく息をついた。
「それに……まさか聖域の民というのが、このように幼い少女であるとは思ってもいませんでした。言葉を喋るのにも不自由はないようですし、きわめて屈託のない気性をしているように感じられます」
「ええ。ティアは見た目通りの、無邪気な女の子ですよ」
「そうなのでしょうね。……ただし、どこか普通でない空気を感じるのも確かです。森辺の民にも通じる野生の息吹、とでもいうのでしょうか……どこか、人間に変じた獣であるようにも思えてしまいます」
そんな風に言ってから、レイリスはちょっと慌てた顔をした。
「あ、いや、決して森辺の民が獣じみているという意味ではなく……気分を害されたのなら、お詫びを申しあげます」
「とんでもありません。俺だって外界の生まれなのですから、きっとレイリスと同じ気持ちであると思いますよ」
そんな寸評をされながら、ティアはよどみのない足取りで歩いていた。
その顔には緊張の色もなく、普段通りの自然体である。内心の不安を押し隠しているわけではなく、覚悟が固まっているゆえであるのだろう。ティアは俺たちと出会った最初の日から、いつでも大神に魂を返す覚悟で日々を生きていたのだった。
そうして、一刻ばかりも歩いた頃であろうか――
右手の側に陣取っていたダン=ルティムが、「おい」と声をあげた。
「行く手に、獣の気配を感じるぞ。これは、ヴァルブの狼なのではなかろうかな」
そのように語るダン=ルティムのどんぐりまなこは、期待に輝いていた。
いっぽう他の面々は、表情を引き締めなおしている。
「山と森の境い目も、もう目前であろうからな。ティアよ、そろそろお前が先頭に立つべきであろう」
ダリ=サウティの指示に従って、ティアが前方に進み出た。
俺は思わず、「あの」と声をあげてしまう。
「俺ももう少し、前のほうに移動させていただけませんか? 危険のない範囲でいいのですけれど……」
ダリ=サウティは、力感のある大らかな笑顔で答えてくれた。
「もとより俺たちは、モルガの三獣と争う意思はない。ヴァルブの狼が襲いかかってくるようであれば、木の上に逃げるだけのことだ。どこを歩くかは、ファの家で決めるがいい」
俺がアイ=ファを振り返ると、そこには不機嫌そうな仏頂面が待ち受けていた。
「……いざというときは、私がお前を抱えて木に登ることになるのだからな。何が起きようとも、決して勝手な真似をするのではないぞ?」
「うん、もちろんだよ」
そうして俺たちは、ティアのすぐ後ろに並ぶことになった。
その場所を譲ってくれたダリ=サウティは、真ん中に残されたレイリスたちを振り返る。
「あなたがたも、自力で木を登るのは難しかろう。いざというときに、誰がその身を抱えるべきか、決めておくべきであろうな」
「ひとりは、俺が受け持とう! どちらも立派な男衆だが、さほどの重荷にはなるまいよ!」
「ふん。それじゃあもうひとりは、俺が受け持つか」
ダン=ルティムとドンダ=ルウが近づいていくと、レイリスはずいぶん泡をくった様子で視線をさまよわせた。
「わ、わたしたちを抱えて木に登るということですか? それはずいぶんと、無茶な話であるように思うのですが……」
「地べたでヴァルブから逃げ惑うよりは、よほど無茶ではあるまいよ! まあ、森でのことは俺たちにまかせるがいい!」
豪快な笑い声を響かせつつ、ダン=ルティムはその場にいる狩人たちをぐるりと見回した。
「ただし、相手はギバではなく、ヴァルブの狼だ! あやつらは、ちょいと傾いだ木であれば、難なく駆けのぼれるようであるからな! 木の上に逃げのびる際は、なるべく真っ直ぐに生えのびた木を選ぶのだぞ!」
ダリ=サウティを筆頭とする狩人たちは、沈着なる面持ちで了解の合図を示す。ダン=ルティムは満足そうにうなずくと、いつもの調子でレイリスの背中をどやしつけた。
「まあ、そういうわけだ! いざというときには声をかける間もなかろうから、そのつもりでいてもらいたい!」
「は、はい。承知いたしました……」
レイリスは、ダン=ルティムの勢いに圧倒された様子で眉を下げていた。
そんなレイリスとは対照的に、ジェムドは穏やかな無表情でドンダ=ルウを見返している。体格はひと回りも異なるが、身長は数センチしか変わらなそうな両名である。
「貴様は大層な剣士であるという話だが、聖域とやらの住人であるヴァルブに剣を向けることは許されまい。荷物のように扱われることを、了承するか?」
「はい。森辺の族長の温情に感謝いたします」
深みのあるバリトンの声で、ジェムドはそのように答えた。いつもフェルメスの影のように気配を殺しているが、シン=ルウを手こずらせるほどの剣技を有する、端麗な面立ちをした青年である。従者という身分であるのが信じ難いような、貴公子めいた風貌でもあった。
「では、行くか。ティア、先導を頼むぞ」
「うむ」とうなずき、ティアは足を踏み出した。
瞬間――野太い獣の遠吠えが、森の空気を震わせる。
それと同時に、アイ=ファが俺の腰帯をつかんでいた。
「動くなよ、アスタ。敵意は感じられないが、用心は必要だ」
「う、うん……」
そんな言葉を交わしていると、ティアが落ち着いた表情でこちらを振り返ってきた。
「あれはヴァルブが、同胞を呼んでいるのだ。ひとりだけ、見張りに立っていたのだろう。待っていれば、きっとナムカルの狩人もやってくると思う」
「そうか。では、むやみに動かず、それを待つべきであろうな」
「うむ。ティアもそれが正しいと思う」
そうしてティアは天を見上げると、深く深く息をついた。
「間もなく、ティアの運命が決せられるのだな。アスタ、アイ=ファ、ティアはふたりに出会えたことを、心から大神に感謝している」
「別れの言葉には、まだ早かろう。それは運命が決せられるまで、待つがよい」
「うむ、そうだな」
俺たちは、なんとも落ち着かない時間を過ごすことになった。
ヴァルブの狼がすぐ近くに潜んでいると聞かされたためか、鋭い眼光で全身をなめ回されているような心地である。アイ=ファなどは狩人の目つきとなって口を引き結び、俺の腰帯をずっと握りしめていた。
そうして、どれほどの時間が過ぎたのか――
ふいに頭上から、「ティア」という緊迫した少年の声が聞こえてきた。
無言でたたずんでいたティアは、声のした方向にゆっくりと顔を向ける。
「その声は、ライタだな。再び言葉を交わせることを、嬉しく思う」
「……俺もそれを、嬉しく思うべきなのか?」
少年の声は緊張のあまり、いくぶん上ずっているように感じられた。
「どうしてお前が、外界の人間とともに立っているのだ? まさか、お前は……外界の人間となって、大神の聖域を穢そうという心づもりであるのか?」
「違う。この者たちは、ティアがモルガに帰る姿を見届けに来たのだ。決して掟を破ったりはしない」
「モルガに帰る……それではやはり、お前は禁忌を犯して外界に出ていたのだな」
少年の声が、激情の気配をはらんでいく。
「お前は半年もの昔に、ナムカルの狩り場から姿を消した。お前はマダラマに食われてしまったのであろうと、俺たちは弔いをあげることになったのだ。しかし、お前は……禁忌を犯して、外界に出ていたのだな」
「うむ。ティアは、禁忌を犯してしまった。この場から家に戻る途中でマダラマに出くわし、川に落ちてしまったのだ。そうして次に目覚めたとき、ティアは外界に出てしまっていた」
「ならば、何故すぐに戻ってこなかったのだ? 自らの意思で外界に出たのでないならば、大きな罪にはならないはずだ」
「ティアは、足を折ってしまっていた。そして、自分が外界にいるとは気づかず、このアスタに害を為してしまったのだ」
ティアの小さな指先が、すぐ後ろに立っている俺を指し示してきた。
「ティアは、アスタがモルガの山に踏み入ったのだと勘違いをして、その身に傷をつけてしまった。よって、その罪を贖うまでは帰ることも許されないと考えた。やがてその罪を贖うことはかなったが、その際にまた深手を負って、狩人としての力を失ってしまったのだ。それからずっと修練を積んでいたが、ついに力を取り戻すことはかなわなかった」
「…………」
「そうして2日前、『大神の瞳』がモルガの頭上に輝き、1年が終わりを迎えたことを知った。ティアは13歳となり、狩人として生きる期間を終えたので、こうしてモルガに帰ることを決めた。あとの判断は、族長たちに託したいと考えている」
「待て……頭がこんがらがってきた。そんな次々に言葉を並べたてられても、ライタは理解しきれない」
「うむ。ライタは頭を使うのが苦手であったからな」
ティアの見つめている樹木の梢が、動揺を示すようにがさりと揺れた。
「外界に出るという禁忌を犯しながら、何だその言い草は。お前は自分がどれほどの罪を犯したかわかっているのか?」
「わかっている。この半年、ティアはずっと自分の罪について考えていた。それを贖うために力を尽くしてきたつもりだが、ティアが正しいかどうかを決めるのは、族長たちの役目だと考えている。ライタは、ティアを族長たちのもとまで連れ帰ってくれるだろうか?」
しばらくの沈黙の後、ライタなる少年は「いや」と応じた。
「外界に出たティアがモルガに足を踏み入れることが許されるのか、ライタにはわからない。それを決めるのも、族長たちの役目だと考える」
「では、族長たちにティアの言葉を伝えてもらえるだろうか?」
「そうするしかないとは思うが……ティアの言葉は入り組んでいるので、ライタには理解しきれない」
「では、もうひとたび説明しようと思う」
きっとティアは、どのような言葉を同胞たちに伝えるべきか、ずっと頭の中で考えていたのだろう。さきほどとほとんど変わらない内容の言葉が、至極すみやかに繰り返されることになった。
「……わからないことが、いくつかある。ティアはそのアスタという人間に、どのような傷をつけたのだ?」
「首を握り、へし折ろうとした。大した傷は残らなかったが、ティアはアスタを殺めようとしてしまったのだ。よって、この罪を贖うには、自分の生命を捧げるしかないと考えた」
「では、どのようにその生命を使ったのだ?」
「アスタが悪い人間に襲われたとき、それを守ろうとした。守り抜くことはかなわなかったが、アスタの同胞が駆けつけるまでの時間を作ることはできた。そして、生命を失うほどの傷を負ったので、これで罪は贖われたのではないかと考えている」
「……生命を失うほどの傷とは、どのような傷であったのだ?」
「鋼の剣で、背中を断ち割られた。背中なのでティアには見えなかったが、骨が覗くほどの傷だったと聞いている」
「……不浄の鋼が、赤き民を傷つけたのか」
ライタの声が一瞬だけ、凄まじい怒気を孕んだように感じられた。
「では、ティアは外界にいる間、どのように過ごしていたのだ? 外界の人間とは、友になることも許されぬはずだ」
「うむ。ティアは、森辺の民のもとで過ごしていた。森辺の民というのは、ギバを狩る一族だ。森辺の民は親切で、友にも同胞にもなれないティアが同じ場所で暮らすことを許してくれた」
「ギバ狩りの一族は、ライタも知っている。しかし……そこには、狩人でない人間も立っている」
すると、レイリスが決然とした面持ちで進み出た。
「お話の最中に、失礼いたします。わたしはジェノス侯爵家の第一子息メルフリード殿の代理人、レイリスと申します。赤き民のライタにメルフリード殿のお言葉をお伝えしたいのですが、よろしいでしょうか?」
ライタは沈黙し、警戒心をあらわにした。
レイリスはかまわずに、言葉を重ねていく。
「ジェノス侯爵家は、この地に残されていた聖域の民との約定を引き継ぎ、それを守っていた一族となります。また、山麓の森に住まう森辺の民にとっても、君主にあたる血筋となります。聖域の民なる娘を森辺で預かる儀に関しても、ジェノス侯爵家の許可のもとに行われました。我々は、決していにしえの約定を破っていないということを、ここに伝えさせていただきたく思います」
「……ティア、その人間は、何を語らっているのであろうか?」
「赤き民と外界の人間の間に結ばれた約定についてを語っている。この近くに住んでいる人間たちは、赤き民との約定を忘れてはいなかったのだ」
ティアは落ち着いた声で、そのように答えた。
「赤き民は外界に触れず、外界の人間はモルガの山に触れない。赤き民と外界の人間は、友になることも同胞になることもなく、それぞれの故郷でそれぞれの時間を過ごす。いにしえに交わしたそれらの約定は、外界においても守られていた」
「ふん……しかし外界の人間は、モルガに踏み入ろうとした」
「その件に関しましては、王都の外交官フェルメス様よりお言葉をお預かりしています」
と、今度はジェムドが進み出た。
「かつてモルガの山に踏み入ろうとした兵士たちは、ジェノスではなく王都の兵士たちとなります。彼らはギバを狩るために森へと足を踏み入れたのですが、不案内な場所で道を見失い、うかうかと山と森の境い目にまで踏み込んでしまったのです。決して赤き民の聖域を穢す意図はありませんでしたが、自身の器量に見合わぬ行いに手を染めて、ジェノスと聖域の掟を脅かしてしまったのですから、これは許されぬ罪でありましょう。同じ王都の人間として、幾重にも謝罪の言葉を申し述べたいと――フェルメス様は、そのように仰っていました」
あの寡黙なジェムドがこれほど長々と喋るのは、初めて目にする光景であった。
しかしもちろん、ライタは感じ入った様子もなく梢を揺すっている。
「よく響く声なのに、言葉の意味はちっともわからない。この人間は、何を言っているのだ?」
「かつてナムカルの狩り場に足を踏み入れようとしたのは、この者の同胞であったということだ。ティアにもよくわからないが、それはとても遠い場所で暮らす一族であるらしい。だから、掟や約定の重さがわからなかったのだろうと思う」
「はい。その件については、ジェノス侯爵家も王都の方々に誠意ある謝罪のお言葉をいただきました。ジェノス侯爵家に聖域の民との約定を軽んじる気持ちはないとご理解いただければ幸いです」
すかさず、レイリスも言葉を重ねる。
おそらくジェノス城において、この段取りは整えられていたのだろう。レイリスとジェムドは、メルフリードとフェルメスの代理人として、正しく仕事を果たしてくれたのである。
そして、その最後を締めくくるかのように、ドンダ=ルウが進み出た。
「俺は森辺の族長のひとり、ドンダ=ルウというものだ。俺たちもジェノスの領土である森辺で暮らす身として、その約定を守り通せるように心がけていた。このティアという娘を長きに渡って預かることとなったが、いずれの約定も違えてはいないと、ここに宣言させてもらおう」
「…………」
「よって貴様たちは、公正な目でこのティアという娘の行いを見定めてもらいたい。この娘は、一族の掟を強い心で守り抜き、この長きの時間を過ごしていた。そこには如何なる偽りもないことを、俺たちが保証する」
「……ティアが虚言を吐いていないことは、ライタもわかっている」
いくぶん力を失った声で、ライタはそのように答えた。
「では、ティアの言葉を族長たちに伝えてこようと思う。ティアたちは、この場で待っていてもらいたい」
「わかった。ティアの願いを聞き入れてもらうことができて、とても嬉しく思っている」
ティアがそのように応じると、また頭上の梢がわずかに揺らいだ。
「ティアの罪を許すかどうかは、族長たちの決めることだ。ただ……ティアが生きていたことを、ライタはとても嬉しく思っている」
そんな言葉とともに、梢が大きく揺れた。
それからすぐに、別の樹木の梢が揺れる。ライタが、そちらに飛び移ったのだろう。そのままライタは、俺たちに姿を見せることなく、山の奥深くへと消えていったようだった。
「ナムカルの家は、それほど遠くない。途中でマダラマと出くわしたりしない限りは、日が暮れる前に戻ってこられると思う」
そう言って、ティアがこちらに向きなおってきた。
「皆には、世話をかけた。あとのことは、ナムカルの族長たちが定めてくれるだろう」
「ふん。俺たちは、見届け役として参じているのだ。赤き民の族長たちがどのような判断を下すのか、それを見届けるまでは帰ることもできんぞ」
「そうなのか? ならば、まだしばらく世話をかけてしまうな」
そのように語りながら、ティアは俺に目を向けてきた。
その顔に、にこりと無邪気な笑みが浮かべられる。
「別れの時間が、また先にのびてしまった。いつになったら涙をこぼすことになるのか、ちょっと落ち着かない気持ちだ」
「うん……でも、あのライタっていう狩人が友好的な感じで、ほっとしたよ」
「ライタは、ティアの母ハムラの弟の長兄だ。かつては、同じ家で暮らしていた」
ならばそれは、ティアにとって従兄弟にあたるわけであった。
それだけ近しい人間が現れてくれたことを、俺は感謝するべきであるのだろう。
「しかし、ヴァルブの狼どもはちっとも姿を見せてくれんのだな! 10頭ばかりも集まったようなのに、ずいぶん愛想のないことではないか!」
ダン=ルティムが陽気に声をあげると、ティアは「うむ」とうなずいた。
「ティアの罪が許されぬ限りは、友に戻ることもかなわないのだ。族長たちの返事が届けられるまで、ヴァルブが姿を現すことはないと思う」
「うむ、そうか! 帰るまでには、ひと目だけでも姿を見せてほしいものだな!」
そうして俺たちは、再び落ち着かない時間を過ごすことになった。
しかも今度は、長丁場である。日が暮れるまでには戻るはずだという話であったが、現在はようやく中天を過ぎたぐらいの頃合いであるのだ。どれほどの時間で戻ってくるのかも不明であるために、落ち着かなさもひとしおであった。
「でも、なんだか丸く収まりそうじゃない。まあ、赤き民っていうのがみんなティアみたいな性格をしているなら、さぞかし情も深いのでしょうしね」
そんな風に言っていたのは、レム=ドムであった。彼女はたまたまルウの集落に逗留していたので見届け役を任じられたわけであるが、ティアとはさんざん修練の時間をともにした仲である。もしかしたら、この中では俺とアイ=ファとバードゥ=フォウたちの次に、ティアと縁が深い人間であるのかもしれなかった。
そうして時間は、のろのろと過ぎていき――
俺の体内時計で、そろそろ3時間ぐらいが経過したのではないかという頃合いで、頭上の梢ががさりと鳴った。
「ティアの言葉を、族長たちに伝えてきた。その返事を、ティアに伝えようと思う」
さきほどと同じ少年の声、ライタである。
その声は、さきほどよりもいっそう緊迫しているように感じられた。
「自分だけの判断で、ティアの行く末を決めることはかなわない。ティアの行いは、族長会議の場で見定める……ナムカルの族長ハムラは、そのように言っていた」
「族長会議? ティアなどのために、すべての族長を集めようというのか?」
ティアは、心から驚いている様子であった。
しかし、本当に驚くべきは、その先の言葉であった。
「うむ。そして、真実を見定めるためには、ティアとともに過ごしていた外界の人間たちの言葉も必要だと考えている。ティアが傷つけたアスタという人間と、外界において責任のある人間たちにも同行を願いたい」
「アスタたちを、モルガの山に招き入れようというのか? それこそ、モルガの禁忌ではないか!」
「うむ。ライタも、驚かされた。しかしモルガには、外界の人間を招き入れるための作法も存在するのだと、族長ハムラはそのように語っていた」
そこで、梢が大きく揺れて――小さな人影を、地上に吐き出した。
俺を含めた何名かが、大きく息を呑む。ずっと頑なに身をひそめていたライタが、いきなり姿をあらわにしたのである。
それは、ティアよりも少しだけ年長に見える、少年の狩人であった。背丈もティアよりは10センチほど大きいようであるし、男衆であるので、体格もいくぶんしっかりしている。
だけどやっぱり、その風貌はティアによく似通っていた。
目と口が大きくて、鼻だけがこぢんまりとした、とても愛嬌のある顔立ちである。ティアよりは大きくとも俺よりは頭ひとつぶん小さいし、手足も胴体もほっそりしている。その小さな身体に、野生の生命力があふれかえっているのだ。
そして彼は、目にも鮮やかな赤い姿をしていた。
ティアなどは髪も肌もくすんだレンガ色であるのだが、もっとくっきりとしたワインレッドである。彼らは1年の終わりに聖水で身を染めあげるという話であったので、これほどの差異が生じるのだろう。
青黒いマダラマの鱗でこしらえた狩人の衣を纏い、背には矢筒を、肩には弓を、腰には短剣を装備している。頬と手の甲と足の甲には、奇怪な紋様の刺青を施した、まぎれもない赤き民の狩人の姿であった。
「……アスタというのは、お前であったな」
と、ティアと同じくガーネットのような色合いをした瞳が、俺の姿を鋭く見据えてくる。
「お前は族長会議に参ずることを、了承するか? その返事を、この場でもらいたい」
「待て。ティアはもう、アスタに迷惑をかけたくはない」
ティアが言葉をはさむと、ライタは癇癪を起こしたように首を振った。
「しかし! アスタが参じなければ、族長会議は開かれないのだ! それでは、ティアの行いを見定めることもかなわなくなる! お前は罪を許されぬまま、大神に魂を返すことになるのだぞ!」
「それなら、行くよ」
ほとんど脊髄反射で答えてしまってから、俺はアイ=ファを振り返った。
「勝手に答えてごめん。でも、俺は――」
「わかっている」と、アイ=ファは俺の言葉をさえぎった。
「しかし、お前をひとりでモルガの山に向かわせるわけにはいかん。ティアはファの家で過ごしていたのだから、ファの家長たる私も同行させてもらうぞ、赤き民の狩人よ」
「うむ。族長ハムラは、10名までの同行を許している。ティアが傷つけたアスタを含む、10名だ。……アスタは、族長会議に参ずるのだな?」
「参ずるよ。ティアがどれだけ強い気持ちで自分の罪を贖おうとしていたか、俺が証言する」
ライタはまぶたを閉ざし、深く息をついた。
「アスタは外界の人間だが、そのように言ってくれることを感謝する。……では、9日の後、中天までに、この場所に来てもらいたい」
「9日の後? そんなに先の話なのかい?」
「モルガの山は、とても広い。もっとも遠い場所の家までは、4日ほどもかかるのだ。行くのに4日、族長を連れて戻るのに4日、それに1日のゆとりをもたせて、9日の後ということになった。明日から数えて9日目なので、決して間違わないでほしい」
ならば、銀の月の11日ということであった。
その日付けを、俺は胸に刻みつけることになった。
「いや、しかし、やっぱりティアは反対だ。アスタたちに、これ以上の迷惑は――」
「駄目だ!」と、俺はライタと同時に大きな声をあげることになった。
「ティアが生き永らえるためには、この道しか残されていないのだぞ! お前はみすみす、その道を閉ざそうというのか!?」
「そうだよ! ティアはきちんと罪を贖ったんだから、魂を返すだなんて、そんなのは絶対に駄目だ!」
ティアはきょとんとした顔になり、俺とライタの顔を見比べた。
その純真なる瞳に、やがて透明なしずくが浮かびあがる。
「なんだ、ふたりして……ティアはもう、覚悟を固めているというのに……」
「自分が正しいと主張できる場が残されているのに、それをあきらめる必要なんてないよ。同胞がティアのために手を差しのべてくれているんだから、それを拒絶するなんてとんでもない話さ」
俺はその場に膝をつき、今にも泣きくずれそうなティアの顔を下から見上げた。
「それに俺は、ちっとも迷惑なんかじゃないよ。赤き民とは、友にも同胞にもなれない間柄かもしれないけれど……でも、ティアをこれまで育んできた人たちなんだからね。それだけで、俺は信頼することができるよ」
ティアは顔をくしゃくしゃにしながら、俺の髪の毛をひとふさ、きゅっとつかんできた。
森辺の習わしに従って、俺の身に触れることを懸命にこらえているのだろう。それでも、神経など通っていないはずの髪の毛から、ティアの温もりを感じ取れたような気がした。
そうして俺たちは9日後に、大陸の聖域たるモルガの山に足を踏み入れる資格を得たのだった。