銀の月の二日①~最初の別れ~
2020.2/5 更新分 1/1 ・2/15 誤字を修正
翌日の、銀の月の2日である。
俺とアイ=ファは、朝一番で宿場町に向かうことになった。
いや、宿場町に向かうのは、俺たちばかりではない。ファの家とルウの血族が所有する荷車が総動員されて、大勢の森辺の民が一斉に宿場町へと向かうことになったのだ。
理由はただひとつ、ジェノスを出立する建築屋の一行を見送るためであった。
その人数がこれほどに増えたのは、建築屋の一行がそれだけの交流を深めたからに他ならない。その場には、かつて建築屋の一行を森辺の晩餐に招いた、ルウ、ルティム、フォウ、ラッツ、リッドの人々や、かつての送迎会や『滅落の日』などで縁を紡いだ氏族の人々が、ずらりと顔をそろえていた。
「いやあ、こんな大勢に見送られるなんて、恐縮しちまうな。こんな朝早くから集まってくれて、ありがたく思っているよ」
アルダスは眠そうに目をこすりながら、そのように言ってくれた。
《南の大樹亭》に面した街道は、30余名の建築屋の一行と、その倍以上もいそうな森辺の民で、大変な騒ぎになってしまっている。しかし、このような早朝ではほとんど人通りもないので、通行のさまたげになることはなかった。
「……それでお前は、どうしてそのように打ち沈んだ顔をしておるのだ?」
と、バランのおやっさんがおっかない顔を俺に近づけてきた。
俺はなんとか笑顔をこしらえつつ、「すみません」と頭を下げてみせる。
「実は、聖域の民に関して色々とありまして……今日、彼女をモルガの山に帰すことになってしまったのです」
「ほう。あの娘っ子を、山に帰すのか。年が明けて早々、慌ただしいことだな」
そう言って、おやっさんは立派な眉をいっそうひそめた。
「それで、お前さんはぞんぶんに情を移していたものだから、そのように打ち沈んでおるわけか。何にせよ、あやつらと絆を結ぶことは許されぬのだぞ?」
「ええ、頭ではわかっています。ただ、心のほうがなかなか追いついてくれないのですよね」
それでも俺は、精一杯の笑顔を作ってみせた。
「それに、おやっさんたちとお別れするのだって、俺にとっては一大事です。次にジェノスにお越しいただける日を心待ちにしています」
「ふん。緑の月まで、半年もないのだ。過ぎてみれば、あっという間であろうよ」
すると、おやっさんのご家族たちもどやどやと近づいてきた。
「何を湿っぽい顔をしてるんだよ。親父たちは、どうせすぐに舞い戻ってくるんだろ?」
「そーだよ。あたしたちなんて、次はいつになるのかもわかんないんだからね!」
ひときわ賑やかな長男と末妹が、そのようにまくしたててきた。
そして、長男の陽気な顔が俺に向けられる。
「あんたたちのギバ料理、心の底から美味かったよ! 親父が老いぼれたら、俺がジェノスでの仕事を引き受けるからな! それまできっちり、看板を守ってくれ!」
「はい。次にお会いできる日を楽しみにしています」
俺が目を向けると、末妹はにっこり微笑んだ。
「あたしも絶対、また来るから! 次に会うまで、あたしのこと忘れないでよ?」
「うん。そのときは、またファの家に招待させてもらいたいな」
「ありがとう」と笑う末妹の目に、光るものがあった。
それに気づいた長男が、「ははん」と鼻を鳴らす。
「お前だって、湿っぽくなってるじゃねえか。まったく、普段は威張りくさってるくせによ」
「うるさいよ! ……ほら、小兄も挨拶したら?」
目もとをごしごしとこすりつつ、末妹が寡黙な次男を引っ張り出した。
次男はむすっとした顔のまま、目礼をしてくる。
「あんたたちのおかげで、楽しい復活祭を過ごすことができた。いつかまた、美味いギバ料理を食わせてもらえたら嬉しく思う」
「もちろんです。みなさんのことは、決して忘れません」
そのとき、横合いから豪快な笑い声が響きわたった。
振り返ると、リッドの家長が荷車から巨大な木箱を引っ張り出しているところであった。
「そら、送別の品とやらだ! 帰り道でも故郷に戻ってからも、ぞんぶんにギバ肉を楽しむがいい!」
それにあわせて、ルウルウの荷車からも木箱が持ち出された。いずれも中身はギバのベーコンと腸詰肉、そして干し肉である。この場に顔をそろえた氏族がそれぞれギバ肉を持ち寄って、送別の品を準備したのだ。
「こいつを全部いただけるのかい? 世話になるばっかりで、なんだか申し訳ないなあ」
「気にすることはない! お前さんがたと語らうのは、俺たちにとっても愉快であったからな!」
そちらで笑い声を響かせたのは、我らがダン=ルティムであった。
「次に会うまで、壮健にな! 無事に故郷まで辿り着けることを、森と西方神に祈っているぞ!」
「ああ。俺たちも、森辺のみんなが健やかに過ごせるように、南方神に祈っておくよ」
涙もろいメイトンが、泣き笑いの表情でそのように応じていた。
そうしてついに、お別れの時である。
建築屋の人々が3台の荷車に乗り込んでいく中、おやっさんが再び俺に顔を近づけてきた。
「お前さんなら、どんな困難でも乗り越えることができるだろう。……次に会うときにそんな湿っぽい顔をしていたら、承知せんぞ」
それだけ言って、おやっさんはさっさときびすを返してしまう。
その背中に向かって、俺は「あの!」と呼びかけてみせた。
「温かいお言葉を、ありがとうございます。それと……楽しい時間を、ありがとうございました。道中は、どうかお気をつけて!」
「……お前さんたちも、達者でな」
こちらに横顔を向けたおやっさんは、最後に温かい微笑を垣間見せてくれた。
すべての人々が荷車に乗り込み、雇われの護衛役たちはトトスにまたがる。そうして建築屋の一行は、街道を南に下っていった。
これで、次におやっさんたちに会えるのは、半年後となるのだ。
この半月ばかりの時間が、あまりに騒がしく、あまりに満ち足りていたためか、俺はまだこれっぽっちもお別れの実感を持てずにいた。
それでもいずれは、また会うことができる。
それが――他の人々と、ティアとの違いであった。
「……なんだか、大変な騒ぎだねェ」
そんな声がすぐ背後から聞こえてきたので、俺は慌ててそちらを振り返ることになった。
「ああ、ピノでしたか。こんな早くから、どうしたのです?」
「いやァ、なんだか騒がしいから、朝の散歩ついでに覗きに来てみたのさァ」
ピノたちが居座っている天幕は露店区域の北の端であるのだが、そのような場所にまでこちらの喧噪が伝わっていたのだろうか。
真偽のほどは定かではなかったが、ともあれピノに出会えたのは僥倖であった。
「ちょうどよかったです。実はピノに、お話ししたいことがあったのですよね」
「ふうん?」と小首を傾げつつ、ピノはうろんげに目を細めた。
「今日のアスタは、なんだか切なげなお顔だねェ。南のお人らとお別れするのが、そんなにツラかったのかァい?」
「ええ。ただ、それだけではなくて……実は今日、ティアをモルガに帰すことになったのです」
ピノは「へえ?」と、今度は細めていた目をわずかに見開いた。
「そいつは、急な話だねェ。あの娘っ子も、右肩の傷はなかなか癒えそうにないって言ってたように思うけど……」
「はい。だけど色々と事情があって、早急に戻ることになってしまったのです。出発まで、まだ多少は時間も残されていますけれど……ピノは、どうします?」
「どうしますって、別れのご挨拶とかそういう話かァい? いやァ、1回こっきり顔をあわせただけのアタシなんかが、そんな真似をするいわれはないだろうねェ」
そう言って、ピノは朱色の装束に包まれた肩をひょいっとすくめた。
「それに、旅芸人なんざが聖域の民に近づくのは、貴族のお偉いサンがたもいい顔をしないだろうしねェ。……どうせアイツらも、茶々を入れようって魂胆なんだろォ?」
「茶々というか、森辺もジェノスの領土ですからね。領主としては、すべてを森辺の民にまかせきりにすることはできないようです」
よってこの後、ジェノス城からも見届け人がやってくる予定になっている。その中には、領主の代理人たるメルフリードと外交官フェルメスも含まれているとのことであった。
「アタシはひとたびお目見えできただけで、大満足さァ。あの可愛らしい娘っ子が無事に故郷に戻れることを、こっそり祈らせていただくよォ」
「……ありがとうございます。ティアにも、そう伝えておきますね」
すると、ルウの血族の人々もわらわらと近づいてきた。その中から、ジザ=ルウがずいっと進み出る。
「ピノよ、『森辺のかまど番アスタ』の歌に関しては、どうなったのであろうか? よければ、それを検分する日取りを決めさせてもらいたいのだが」
「あァ、その話なんだけどねェ……ぼんくら吟遊詩人は、今も頭をかき回してる真っ最中なんだよォ。あれだけ大口を叩いていたくせに、ちいとも仕上がらないみたいでさァ」
「ふむ。では、歌にすることをあきらめたのだろうか?」
「いやいやァ、こいつは傑作になるに違いないって息巻いてるよォ。でも、そいつは皆サンがたに出来栄えを確かめてもらわないといけないからねェ。歌が完成するまでは、アタシらも出立の日取りを決められない有り様なのさァ」
そうしてピノは、この場にいないニーヤを威嚇するように、細い下顎をくいっと持ち上げた。
「ま、露店区域の場所代ってェのは10日ごとに支払う取り決めだからさァ。銀の月の8日までは、アタシらもあの場所に居座れるんだよォ。それまでには、なんとしてでも完成させろって、尻を叩いてるさなかなのさァ」
「そうか。では、歌が完成したときは、屋台で働くルウの人間に伝えてもらいたく思う。……それで、ひとつ提案があるのだが」
「はいはい、どんなお話だろうねェ?」
「リコの希望に従って、我々はその歌の出来栄えというものを確かめることになったわけだが……それは、祝宴の場で披露してもらいたく思っているのだ」
ピノはきょとんと、小首を傾げた。
「復活祭を終えたばっかりだってェのに、また何か祝宴を開くあてがあるのかァい? ……ああ、そういえば、前回もアタシらは森辺の祝宴にお招きされた覚えがあるねェ」
「まさしく、それに類する祝宴となろう。ダレイムや宿場町の者たちを招く親睦の祝宴に、また《ギャムレイの一座》を招いてはどうかという話になったのだ」
それは、『滅落の日』の夜に、俺も小耳にはさんでいた。どうせニーヤに歌を披露してもらうなら、前回と同じ環境を整えてみたらどうだろうかと、ルウの家で話し合われたらしい。
「ふうん……でも、旅芸人を祝宴に招くってェのは、王国の民として如何なものなのかねェ? この前はギバをとっつかまえるついでがあったから、どさくさまぎれで潜り込んじまったけどさァ」
「その辺りのことは、リコたちから聞いている。流浪の民たる旅芸人を客人として招くのは、王国の習わしにそぐわないとのことであったな」
しかつめらしく、ジザ=ルウはそのように応じた。
「ただし、その芸を買うために招く分には、問題もないのであろう? リコたちも、そうしてたびたび森辺やダレイムに招かれているのだ」
「あらァ、それじゃあアタシらに、祝宴の賑やかしを依頼したいっていうお話なのかねェ?」
「うむ。この復活祭においても、すべての血族が宿場町に下りたわけではないのだ。そういった者たちにも喜びを分かつべきだと、族長ドンダはそのように考えた。宴料理と果実酒と、それに相応の銅貨を代価として、貴方がたの芸をルウの集落で披露してもらいたいのだ」
ピノは、にいっと唇を吊り上げた。
「そういうことなら、話は別さァ。アタシらの腕を見込んでくれたんなら、嬉しい話だねェ」
「貴方がたの芸には、誰もが胸を震わせることになった。俺の家族たちも、貴方がたの芸を心待ちにしている」
いつでも微笑んでいるように見えるジザ=ルウの顔が、本当の微笑みをたたえたようだった。
「特に俺の伴侶などは、身重であったのでな。どれだけ望んでも、宿場町に下りることはできなかった。貴方がたの芸を目にすれば、多少なりとも復活祭の喜びを味わうこともかなうだろう」
「あァら、そいつはおめでとサン。こいつは、気合を入れないとねェ」
ピノはくつくつと咽喉を鳴らして笑った。
「それじゃあ、座長にはそう伝えておくよォ。まずはぼんくら吟遊詩人に、とっとと歌を完成させてもらわないとねェ」
「うむ。そちらの準備が整うのを待っている」
「はいなァ。それじゃあ、よろしくねェ」
羽織のような装束をひらひらとたなびかせながら、ピノは北の方角に立ち去っていった。
その間に、他の人々は帰り支度を済ませている。というか、リッドやガズの人々などは、すでに荷車を発進させようとしているさなかであった。
「では、我々も集落に戻るとするか。……アイ=ファとアスタは、またのちほどな。約束の刻限には、決して遅れぬように」
「うむ。わきまえている」
俺たちは、上りの五の刻にティアを連れて、ルウの集落まで出向く予定になっていた。そこでジェノス城からやってくる人々とも合流し、モルガの山を目指すのである。
「では、行くぞ」
アイ=ファにうながされて、俺はギルルの荷車に乗り込んだ。
荷台には、すでにスドラ家の人々が控えている。本日も、彼らを同乗させることになったのだ。
「アスタ……どうか、元気をお出しください」
ガラゴロと動き始めた荷車の中で、ユン=スドラが心配そうに呼びかけてくる。俺はなんとか、笑顔を作ってみせた。
「うん。俺が気を揉んだって、しかたないからね。……申し訳ないけど、屋台の商売をよろしくね」
「とんでもありません。アスタのお留守はしっかりお預かりしますので、どうぞご心配なく」
本日は屋台の商売を再開する日取りであったのだが、俺はティアに同行するために、休まざるを得なかったのだ。
もちろんそれは、俺が望んだ結果である。半年もの時間をともに過ごしたティアが故郷に戻るというのに、他人まかせにできるはずがない。森と山の境に近づくというのは、きわめて危険な行為であるのだが、それでも俺は同行を望んだし、アイ=ファが異を唱えることもなかった。
(赤き民の人々は、ティアを快く迎え入れてくれるんだろうか……ティアはすべての罪を贖ったんだから、頭ごなしに拒絶されることはないと思うんだけど……)
そんな俺の煩悶を乗せて、ギルルの荷車は森辺を目指した。
◇
そして、数刻の後である。
屋台の商売の下ごしらえに参加した俺は、半刻ほど早い時間に仕事を切り上げて、ルウの集落に向かうことになった。
同乗するのは、バードゥ=フォウとお供の男衆、そしてライエルファム=スドラである。そもそもティアをラントの川で発見したのはフォウの狩人たちであったので、彼らは最初から同行する手はずになっていたのだ。
アイ=ファの運転する荷車の中で、ティアは静かに座している。
最近のティアは町で購入した装束で過ごしていたが、もちろんこの日は自前の装束に着替えていた。樹木の繊維で作られた貫頭衣のような装束で、腰には帯を締めている。そのかたわらには、マダラマの大蛇の鱗で作られた狩人の衣と、黒い石でできた刀も置かれていた。
刀のほうは昔日の大地震でぽっきりと折れてしまっていたが、モルガの山から与えられたものはモルガの山に返さなければならないという話であったので、捨てずに残されていたのである。
ルウの集落に到着すると、そこにはすでにジェノス侯爵家のトトス車が待ちかまえていた。
まだ中天までには時間があるので、ルウの狩人たちもずらりと立ち並んでいる。その中で、メルフリードはジザ=ルウと語らっていた。
「お待たせした。ティアに挨拶をさせるべきであろうか?」
御者台から降りたアイ=ファがそのように呼びかけると、メルフリードは「いや」と首を横に振った。その灰色の瞳は、本日も月光のようにきらめいている。
「聖域の民が、我々に挨拶をする必要はない。かの者が聖域に戻る姿を見届ければ、それで十分であろう」
アイ=ファは感情を押し殺した声音で、ただ「そうか」とだけ答えた。
ルウの血族の人々は、とても静かな面持ちで俺たちの様子を見守っている。
その中で、ミーア・レイ母さんの胸もとに取りすがり、肩を震わせているリミ=ルウの姿が見て取れた。貴族たちの手前、ティアと別れの挨拶をすることははばかられるのだろう。聖域の民とは友にも同胞にもなれないという掟の重さが、この広場の奇妙な静けさを生み出しているのかもしれなかった。
「それでは、サウティの集落に向かおうと思う」
そう言って、メルフリードはきびすを返した。
協議の末、俺たちはサウティの集落の先にある、森辺に切り開かれた街道の途中から、森と山の境い目を目指すことになっていたのだ。かつて王都の兵士たちが踏み入ろうとした、あの場所である。ティアの属するナムカルの一族は、そこから再び外界の人間たちが踏み込んでくるのではないかと用心して、見張りを立てていたという話であったのだった。
「アスタにアイ=ファ、まさかこのように早く再会できるとは考えていませんでした」
と、きびすを返したメルフリードと入れ替わるようにして、フェルメスとジェムドが近づいてきた。本日はお忍びではないので、両名ともに秀麗な面を日のもとにさらしている。
「僕は街道で待機することになりますが、森と山の境にはジェムドを同行させていただきます。皆が無事に戻れるよう、西方神に祈っていますので」
「ありがとうございます。こちらが禁忌を犯さなければ、何も危険なことはないと思います」
俺がそのように応じると、フェルメスはわずかに眉を曇らせた。
「アスタはずいぶんと打ち沈んでいるように感じられますが……僕はまた、何かアスタを傷つけるようなことをしでかしてしまったのでしょうか?」
「何を仰っているのですか。太陽神の再生を見届けた後、笑顔でお別れをしたでしょう?」
「では、聖域の民との別れを惜しんでいるだけなのですね。それなら、よかったです」
フェルメスはほっと息をついてから、「あ」と声をあげた。
「よかったというのは、不相応な物言いであったでしょうか? アスタが打ち沈んでいるのは事実なのですから、僕が原因でないからといって、喜びの気持ちをあらわにするのは間違っているようにも思います」
「……大丈夫です。フェルメスの物言いにも、ずいぶん慣れてきましたので」
「それは何だか、あまり大丈夫であるようには思えない言いようです。僕が失敗を犯した際には、速やかにご指摘くださる約束でしょう?」
フェルメスがすねたような顔をするので、俺は思わず笑ってしまった。
「本当に大丈夫です。フェルメスのおかげで、少し明るい気持ちになれました」
「それもまた、何か不本意なような気がしてしまうのですが……」
フェルメスは、おやつを取り上げられた幼子のような上目遣いで、俺を見返してくる。あの『滅落の日』の夜を境にして、彼もずいぶんと人間がましい表情を俺たちに見せてくれるようになっていたのだった。
「どうかされたか、フェルメス殿? よければ、出発させてもらいたい」
トトス車のステップに足をかけつつ、メルフリードがそのように声を飛ばしてきた。
フェルメスはいくぶん思案げに黙りこくってから、俺の耳もとに口を寄せてくる。
「何も案ずることはありません。聖域の民というのが伝承で聞く通りの存在であるのなら、罪を贖った同胞に罰を下すことはないでしょう。ですからどうぞ、アスタも元気をお出しください」
「え? ああ、はい……お気遣い、ありがとうございます」
身を引いたフェルメスは、にこりと可憐な微笑みを見せてから、すみやかにきびすを返した。
その後ろ姿を見送りながら、アイ=ファは仏頂面で首の裏をまさぐっている。
「あやつもずいぶん人間らしい表情を見せるようになったものだが……やはりあの、お前に甘えるような態度に変わりはないのだな」
「うん、まあ、それはフェルメスのもともとの性格なんだろうからな」
そうして俺たちも荷車に乗り込んで、一路、サウティの集落を目指すことになった。
荷台にちょこんと座したティアは、やはり穏やかな面持ちである。
昨日は1日をともに過ごし、朝から夜まで語り尽くすことになったのだが――それでもやっぱり、俺の胸が晴れることはなかった。ティアの境遇に胸を痛めるばかりでなく、俺はまだティアとお別れをするという事実に対して、まったく心が定まっていなかったのだった。
(ティアとこれでお別れだなんて、まったく実感がわかない……かといって、むやみに日をのばす理由なんてありはしないし……とにかく、すべてが唐突すぎたんだ)
そうして俺たちは、ルウの集落からサウティの集落までの40分ていどを、ほとんど無言で過ごすことになってしまった。
そちらでダリ=サウティらと合流したのちに、荷車はさらに南へと下る。その果てに待ち受けているのは、森辺の集落と街道を隔てるための、大きな門だ。
門の前にはすでに守衛たちが待ちかまえており、メルフリードの命令で門が開かれる。通りすぎざまに確認したところ、門の向こうにはそれなりに立派な造りをした衛兵の詰め所が建てられていた。
その詰め所で借り受けた金属製の風鈴みたいな器具が、それぞれの車に配布される。街道を進む間、騒音でギバを遠ざけるための器具である。それを吊るして荷車を走らせると、なかなかにけたたましい音色が鳴り響いた。
「……町の人間は、このようにして森の中の道を通っていたのか」
と、ひさかたぶりにティアが発言する。その小さな顔には、屈託のない微笑がたたえられていた。
「これだけやかましくしていたら、風の流れによっては山の端にまで聞こえるかもしれない。赤き民の同胞たちも、いったい何事かと首を傾げていることだろう」
「……うん、そっか」
ティアの笑顔を見るだけで、俺は胸が詰まる思いであった。
するとティアが、いっそう無邪気な感じに目を細める。
「どうしたのだ、アスタ? このように早くから涙をこぼしたら、きっとアイ=ファに叱られてしまうぞ」
「うん……ティアはすごく、毅然としているね」
「毅然、というのだろうか。ティアの運命はまだ定まっていないので、気持ちも定まっていないだけなのだろうと思う」
ティアの運命は、ふたつにひとつである。
聖域の外に出てしまったという罪が許されるなら、故郷たるモルガの山に帰り――許されないのなら、大神に魂を返す。ティアは最初から、それ以外の運命はありえないと決断していたのだった。
「でもきっと、ティアの運命が定まれば、気持ちのほうも定まるだろう。何にせよ、アスタたちと別れるときには涙をこらえられなくなると思うので、そのときは許してほしく思う」
「そんなのは、俺も一緒だよ」
その後は、これまでの沈黙で過ごした時間の埋め合わせをするように、ティアと言葉を交わすことができた。
しかしいずれも、たわいもない話ばかりである。その場にはバードゥ=フォウたちもいたので、初めてティアと出会った日のことや、それから今日までに起きた日常のあれこれや――どれだけ言葉を重ねても、話題が尽きることはなかった。
そうして一刻ほどが過ぎたあたりで、荷車がとめられる。
御者台の脇から外の様子をうかがうと、先頭の荷車から降りたダリ=サウティとお供の男衆がこちらに近づいてきた。
「王都の兵士たちが足を踏み入れたのは、おおよそこの辺りであろうと思う。各人、準備を願いたい」
後方の人々にもその言葉が告げられて、皆が街道に立ち並ぶことになった。
ルウの血族から同行するのは、ドンダ=ルウとルド=ルウ、そしてダン=ルティムの3名である。ダン=ルティムは、ヴァルブの狼にお目見えできる可能性があるならと、強く志願したのだそうだ。
サウティの血族からは、ダリ=サウティとお供の男衆。フォウの血族からは、バードゥ=フォウとライエルファム=スドラで、お供の男衆にはギルルと荷車の番をお願いする。そして、ザザの血族からは、ルティムおよびルウの集落に逗留していたディック=ドムとレム=ドムの両名が顔をそろえていた。
正直なところ、森辺の民からこれほどの人数が出向く必然性はない。ただ、最初にティアを発見したフォウの人々ばかりでなく、族長筋の人々もすべての顛末を見届けるべきだと考えたのだ。グラフ=ザザに関しては、つい先ごろも2日連続で休息の日を設けたばかりであったので、せめてディック=ドムらに見届け役を担ってもらおうと考えたようだった。
いっぽうジェノス城からはメルフリードとフェルメスも出向いてきていたが、立場のある彼らが危険なモルガの森に踏み込むことはできないので、それぞれ代理人を立てている。フェルメスの代理人が従者のジェムドであることはすでに告げられていたが、メルフリードの代理人に任命されたのは、なんとサトゥラス騎士団のレイリスであった。
「本来であればジェノス侯爵家の人間を代理人とするべきなのでしょうが、森辺の民にゆかりのある人間として、わたしがお引き受けすることになりました」
若き貴公子たるレイリスは、優雅な中に精悍な気配を漂わせつつ、そのように微笑んでいた。さすがに甲冑姿ではなく、かつて王都の兵士たちが宿場町で着込んでいたような、分厚い胴着を纏っている。足もとの悪い森の中に踏み込むのに、やはり甲冑というのは不相応であるのだろう。
「では、わたしたちはこの場で待機させてもらう。かつて王都の兵士たちは、帰る場所の目印として狼煙をあげていたという話だが、本当に不要であるのだろうか?」
メルフリードの問いかけに「不要だ」と応じたのはダリ=サウティであった。
「自分たちの狩り場でなくとも、太陽の出ているうちに森で迷うことはない。ここから山の境までは、一刻と離れていないはずであるしな」
「了承した。それでは、くれぐれも王国と聖域の間に交わされた約定を破らぬように注意してもらいたい」
そうして俺たちは、モルガの森に踏み入ることになった。
その先には、いったいどのような運命が待ち受けているのか。それを知る者は、誰もいなかった。