銀の月の一日~大神の瞳~
2020.2/4 更新分 1/1
『滅落の日』を終えて、銀の月の1日の朝――俺たちは、ダレイムに集まった人々と心ゆくまで新年の挨拶を交わしてから、森辺の集落に戻ることになった。
ギルルの荷車に同乗しているのは、スドラの家の家人たちである。彼らは家が近在であったし、人数もちょうどよかったので、帰路をともにすることになったのだ。
ガタガタと揺れる荷台の中で、ユン=スドラとイーア・フォウ=スドラは身を寄せ合うようにしてまぶたを閉ざしている。黒猫のサチなどは、言わずもがなだ。そして、伴侶の寝顔を愛おしげに見つめていたチム=スドラも、いつしかこくりこくりと船を漕いでいた。
人並み外れた体力を誇る森辺の民も、やはり夜が明けるまで騒いでいれば、限界を迎えてしまうものであるのだろう。そんな中、本家の家長たるライエルファム=スドラだけは、常と変わらぬ沈着な面持ちであった。
「太陽とは、人間にとって欠かせぬ存在であるはずだ。しかし、漫然と日々を過ごしていれば、そのありがたみを失念してしまうものなのだろう。ならば、年にひとたびでも太陽の恵みに感謝を捧げるというのは、人間に必要な行いであるのかもしれんな」
「ええ……もっともなお話ですね」
「それを神になぞらえるというのも、我々が森を母とする心情と大きくは違っていないのかもしれん。森辺においても太陽神の復活祭を行うべきか否か、次の家長会議で議題にあげられることになろう」
「はい……今回はすべての氏族の方々が復活祭のありようを見届けたでしょうから、議論も白熱しそうですね」
そんな風に答えてから、俺は「あふう」とあくびを噛み殺した。
ライエルファム=スドラは苦笑を浮かべながら、俺のほうに向きなおる。
「すまんな。アスタこそ、誰よりも疲れ果てていることであろう。俺のことなどはかまわずに、どうか身を休めてもらいたい」
「いえいえ、家に帰るまでが復活祭ですからね。荷車の運転をしてくれている家長を差し置いて、すやすやと眠る気持ちにはなれません」
それに荷車は、すでに森辺の集落に到着していた。ルウの集落を通りすぎて、森辺の道を北上しているさなかであるのだ。ファやスドラの家までは、残すところ数分であるはずだった。
「ところで、そろそろ俺たちも狩人としての仕事を再開することになるわけだが――」
そのように言いかけたライエルファム=スドラが、いぶかしそうに眉をひそめた。
「うむ? 今の声は、何であろうな?」
「声? 俺には聞こえませんでしたが……」
「いや、確かに聞こえた。何か獣の遠鳴きであるようだな」
ライエルファム=スドラはすっくと立ち上がり、御者台のほうへと歩を進めた。
「アイ=ファよ、今の声は何であろうな?」
「わからん。少なくとも、ギバの遠鳴きではないようだ」
ギバの遠鳴きであれば、俺も1度だけ耳にしたことがある。世界を揺るがした大地震、《アムスホルンの寝返り》が勃発する寸前、モルガの森から鳴り響くその恐ろしげな声を聞くことになったのだ。
まさかまた、何か天変地異でも起きるのではあるまいな、と少し不安になりながら、俺もアイ=ファたちのほうに這いずっていった。徹夜明けのこの状態では、荷台の中を転ばずに歩く自信がなかったのだ。
ライエルファム=スドラとは反対の側から身を乗り出すと、早朝の冷たい風が心地好く吹きすぎていった。
しかし、荷車が駆け抜ける音色が邪魔をして、何の声も聞こえてはこない。それを聞き取るには、狩人としての聴力が必要であるようだった。
「ずいぶん、近いな。……モルガの森ではなく、集落のどこかから聞こえてくるように思うぞ」
「それは、おかしな話だな。いずれの氏族においても、いくらかの男衆は家に居残らせているはずだ。おかしな獣が集落にまぎれこんできたならば、放っておくことはあるまい」
アイ=ファとライエルファム=スドラは、いささかならず張り詰めた面持ちで言葉を交わしていた。
やがて荷車はファの家の前を通りすぎ、さらに道を北にのぼっていく。スドラの家は、ファの家よりも北側にあるのだ。
と――それからすぐに次の横道が見えてきたところで、アイ=ファはギルルの手綱を引き絞った。
これは、フォウの集落に至る横道である。
「この声は、フォウの集落から聞こえてきているようだ。スドラの家を目指す前に、立ち寄らせてもらうぞ」
「うむ、もちろんだ。しかし、フォウの集落ということは……もしや、猟犬たちがこの遠鳴きを発しているのであろうか?」
「いや。猟犬として鍛えられたブレイブたちはもちろん、ジルベとて理由もなくこのような声は発さないはずだ」
フォウの家には、ティアやブレイブたちを預けているのである。
いっそう神妙な顔になりながら、アイ=ファは横道へとギルルの首を巡らせた。
そして、荷車のスピードがゆるめられたために、ようやく俺にもその奇妙な声というものが聞こえてきた。
確かにこれは、犬や狼の遠吠えを連想させる声音である。ただ、ずいぶん弱々しげであり、俺には何かの泣き声であるようにも思えてしまった。
「ああ、アイ=ファ。ダレイムから戻ってきたのね」
集落の広場に足を踏み入れるなり、アイム=フォウを抱いたサリス・ラン=フォウが駆け寄ってきた。
なおかつ広場には、大勢の人影が見える。そしてそういった人々は、全員が同じ方向に視線を向けていた。
俺たちから見て右手側の、高い位置である。
「アイ=ファたちが戻るのを待っていたの。わたしたちだけでは、どうするべきかも判断がつかなくって……」
アイ=ファは厳しい面持ちで、御者台から地面に降り立った。
俺とライエルファム=スドラも、それに続く。すると、ブレイブやフォウの猟犬たちまでもが同じ方向に視線を向けている姿が見て取れた。
その間も、奇妙な声は鳴り続けている。
みんなの視線を追って、右手側の高い位置に目をやった俺は、思わず息を呑むことになった。
ティアである。
家の屋根にのぼったティアが、その哀切なる声を響かせていたのだった。
ティアは屋根に手をついて、細い首をめいっぱいのけぞらしながら、獣のように声をあげていた。
ウオオオォォォン……ウオオオォォォン……という、世にも悲しげな声である。
「……夜が明けるなり、ティアがあのようになってしまったの。あまりに悲しげな様子だから、無理に連れ戻す気持ちにもなれなくって……」
夜が明けてから、すでに一刻ぐらいは経過しているはずである。
そのように長い時間、声を振り絞っていたならば、咽喉が嗄れるのも当然であった。
俺は半ば無意識のうちに歩を進めて、「ティア!」と大きな声を張り上げることになった。
「そんなところで、何をやってるんだよ? いったい、何があったっていうんだ?」
ティアの声が、ぴたりとやんだ。
そして、俺のほうに向きなおってきたティアは、それこそ獣のような身軽さで地面に飛び降りてくる。
いったん地面に着地したティアは、さらに跳躍して俺の胸もとに飛び込んできた。
俺のすぐそばにたたずんでいたアイ=ファも、それを咎めようとはしなかった。
ティアの小さな顔は、滂沱たる涙に濡れてしまっていたのである。
「アスタ……集落の皆を驚かせてしまって、すまなかった……ティアは……どうしても心を抑えることができなかったのだ……」
「いったい、どうしたのさ? ティアは、何を泣いているんだい?」
俺はまったくわけもわからないまま、ティアの両肩にそっと手を置いた。
ティアは嗚咽をこらえながら、俺の顔を見上げてくる。
そこに浮かべられていたのは、見ているだけで胸が詰まってしまうほどの、悲嘆の表情であった。
「『大神の瞳』が……消えてしまったのだ……」
「え? 大神がどうしたって?」
「太陽が姿を現したために、『大神の瞳』はその光にかき消されてしまった……赤き民の1年が、終わりを迎えてしまったのだ……」
俺は困惑の極みにあり、ティアの言葉をなかなか理解することができなかった。
するとアイ=ファが、真剣な面持ちで身を寄せてくる。
「お前の言う『大神の瞳』とは、夜の星のことであったのか? それがモルガの頭上に輝く日が、お前たちにとって唯一の特別な日であるという話であったはずだ」
「そうだ……昨日の夜、『大神の星』はモルガの頭上に瞬いた……すべての民が聖なる水で身体を清め、無事に1年を終えた喜びを分かち合ったことだろう……」
「それじゃあ、もしかして……」
俺が口を開きかけると、ティアが胸もとに顔をうずめてきた。
熱い涙が、俺の胸もとを濡らしていく。
「ティアはこれで、13歳となった……ティアが狩人として働く期日は、昨日で終わってしまったのだ……だからティアは……」
その後は、言葉にならなかった。
ティアの口からこぼれた嗚咽は、衣服や皮膚を通して、俺の心臓にしみこんでくる。
俺はかけるべき言葉を見つけることもできずに、ただティアの小さな身体を抱きすくめるしかなかった。
◇
それから、半刻ほどのちのことである。
俺はアイ=ファやティアとともに、フォウ本家の広間でバードゥ=フォウたちと向かい合うことになった。
バードゥ=フォウたちはダレイムから徒歩で帰路を辿っていたので、ライエルファム=スドラがギルルの荷車で迎えにいってくれたのだ。バードゥ=フォウの左右には、ライエルファム=スドラとランの家長も顔をそろえていた。
「つまり、モルガの山に住まう赤き民も、町の人間と同じように、銀の月の1日を迎えることで齢を重ねるという習わしであったのか」
俺とアイ=ファの間にちょこんと座ったティアは、「うむ」とうなずいた。
ティアはこの半刻ですっかり落ち着きを取り戻していたが、その目は赤く泣きはらしている。そんな姿を見ているだけで、俺は悲しみに胸をふさがれてしまいそうだった。
「銀の月というのはよくわからないが、昨日で1年が終わったということに間違いはない。ティアは、13歳となったのだ」
「それで……お前が狩人として生きるのは13歳までであった、というのだな?」
「うむ。赤き民の女衆は、10歳から13歳になるまでの3年間を、狩人として生きる。それで強き力を示せた者だけが、伴侶を娶ることを許されるのだ」
そう言って、ティアは敷物に額がつくぐらい深々と頭を下げた。
「こうなることは覚悟していたのに、どうしても悲しみの気持ちを抑えることができなかった。フォウの者たちにはいらぬ迷惑をかけてしまい、心から申し訳なく思っている」
「待て。覚悟していたとは、どういうことだ? お前は狩人としての力を取り戻すために、森辺の集落に留まっていたのであろう?」
「うむ。しかし、ティアが力を取り戻せる見込みはなかったのだ」
面を上げたティアは、右の腕を横に持ち上げた。
その腕は、肩と水平になったところで、ぴたりと止められる。
「ティアの右腕は、これより上にあがらなくなってしまったのだ。おそらく背中を断ち割られた際に、取り返しのつかぬ傷を負ってしまったのであろう。肉体には十全の力が戻っても、この傷が癒えることはなかった」
「ならば、お前は……何のために修練を続けていたのだ? 取り返しのつかぬ傷を負っていたのなら、修練を積んでも意味はないではないか」
「ひとかけらでも希望が残されているのなら、力を惜しむことはできない。『大神の瞳』がモルガの頭上に瞬くまで、ティアは狩人であったのだからな」
そう言って、ティアはふわりと微笑んだ。
ティアにしか浮かべることのできない、純真な微笑みである。
「しかし、ティアが狩人として生きる期日は終わりを迎えた。この上は、ひとりの女衆としてモルガに戻ろうと思う」
「モルガに、戻れるのか? 狩人としての力を取り戻さない限り、お前は故郷に戻ることも許されないと言っていたはずだ」
「それはティアが、狩人であったためだ。しかし、今のティアは狩人ではない。後のことは、族長たちが決めてくれよう」
そのとき、どすんっという鈍い音色が響きわたった。
驚いて目をやると、ライエルファム=スドラが足もとの床に拳を叩きつけている。手加減はしていたのであろうが、床そのものが揺れるほどの衝撃であった。
「それではお前は、あの凶賊どもによって狩人として生きる道を絶たれてしまったということだな……かえすがえすも、口惜しく思う」
ライエルファム=スドラの双眸は、熾火のように燃えていた。
しかしティアは同じ微笑みをたたえたまま、「いや」と首を振る。
「あの者たちが現れなければ、ティアが罪を贖う機会はなかった。ティアはアスタのために生命を使うことにより、ようやくモルガに戻る資格を得たのだ。だから……これが大神の定めし運命なのだろうと思う」
「お前のような存在をこれほどに苦しめる運命が、正しいというのか?」
「うむ。ティアはそのように考えている」
そう言って、ティアは再び頭を垂れた。
「森辺の民には、言葉で言い尽くせないほど感謝している。ティアがこの先にどのような運命を迎えようとも、この生命がある限りは、森辺の民の親切と温情を決して忘れないと約束する」
「ま、待て。お前はすぐにでも、モルガの山に戻ろうという心づもりであるのか?」
「うむ。これ以上、森辺の民に面倒をかける理由はない」
顔をあげたティアは、そのまま不思議そうにバードゥ=フォウの顔を見返した。
「ただし、急いで戻る理由もない。森辺の民の都合が悪ければ、何日でも待たせてもらおうと思う」
「そうか。ならば、族長たちにこのことを告げる時間をもらいたい。もしかしたら、ジェノスの貴族たちにも言葉を届ける必要があるやもしれんのでな」
「わかった。では、族長たちの返事を待たせてもらおうと思う」
重い溜め息とともに、バードゥ=フォウは会見の終了を告げた。
俺たちは一礼して、土間で待っていたブレイブたちとともに家を出る。フォウの集落の人々は、朝の仕事で忙しそうにしていた。
「……お前は最初から、狩人としての力は取り戻せぬと覚悟を固めていたのだな」
家の脇に置かせてもらっていた荷車を目指しながら、アイ=ファがそのようにつぶやいた。
裸足でひたひたと歩きながら、ティアは「うむ?」と首を傾げる。
「最初からではない。あるていどの力が戻っても、右肩がまともに動かないので、それぐらいから覚悟を固めることになった」
「お前があるていどの力を取り戻したのは、もうずいぶん前の話であるはずだ。それに、年の終わりが近づいていたことも、お前は事前に察していたのであろうが?」
「うむ。ティアがモルガを出てしまったのは、1年の半分ぐらいが過ぎた頃だったからな。そろそろ頃合いであろうと思い、ここ何日かは夜に星の位置を確かめていた」
「ならば……どうしてその話を、私たちに隠していたのだ?」
アイ=ファがティアの行く手に立ちふさがり、その小さな姿をにらみすえた。
アイ=ファの青い瞳には、抑制し難い感情が渦巻いている。それを見返しながら、ティアは困ったように笑った。
「このような話をアイ=ファたちに伝えても、気持ちを重くさせるだけであろう? 特に、最近のアスタとアイ=ファは忙しそうにしていたので……ティアなどのことで、迷惑はかけたくなかったのだ」
「どうしてお前はそのように、ひとりですべてを抱え込もうとするのだ。私たちに打ち明けても、運命が変わることはないのであろうが……それでも少しは、気が安らいだかもしれないではないか」
「アイ=ファは、おかしなことを言っているぞ。ティアたちは、友にも同胞にもなれぬ身であるのだ。ならばそのように、ティアの心情を思いやる必要はあるまい」
ティアは、無邪気に微笑んだ。
そのガーネットのように綺麗な瞳が、見る見る涙にうもれていく。
「でも、アイ=ファたちは優しいから、そうしてティアの身を案じてくれることもわかっていた。だからこそ……このような話を打ち明ける気持ちにはなれなかったのだ」
アイ=ファはうつむき、無念そうに肩を震わせた。
俺は地面に膝をつき、ティアの小さな手をそっと両手で包み込む。
「ティア、俺にはなんて言っていいのかもわからないけれど……ティアたちの神が正しい道を示してくれることを祈っているよ」
「大神は、何も間違わない。間違ったのは、アスタを傷つけてしまったティアであるのだ」
涙で瞳を光らせながら、ティアはそう言った。
「しかしティアはアスタたちに出会うことができたし、アスタを傷つけた罪を贖うこともできた。だからもう、何も思い残すことはない。どのような運命がもたらされようとも、それが正しき道であるのだ」
俺には、そうは思えなかった。
ティアが不幸になる運命など、決して正しいとは思えなかったのだ。
大神アムスホルンは、ティアにどのような運命をもたらそうとしているのか――俺は、なんとしてでもそれを見届けたいと願っていた。