紫の月の三十一日⑧~再生の光~
2020.1/20 更新分 2/2
・本日は2話同時更新です。読み飛ばしのないようにご注意ください。
・今回の更新はここまでです。更新再開まで少々お待ちください。
・本日、新作を公開いたしました。ご興味のある方はよろしくお願いいたします。
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「アスタに話があるそうなので、ご案内しました。よければ、私も同席させていただきたく思います」
落ち着いた声で、ガズラン=ルティムはそのように説明をしてくれた。
ドーラ家の母屋の横合いで、他に人の姿はない。かがり火の灯りも遠い暗がりの中で、俺はまず然るべき疑念を呈することにした。
「このような夜更けに、いったいどうされたのです? 貴族の方々も、『滅落の日』には皆で新年を迎えるのではないのですか?」
「ええ。僕もジェノス城の祝宴に招待されていたのですが、気分が悪いと言って席を外させていただいたのです」
そのように語りながら、フェルメスはマントのフードをはねのけた。
さらに襟巻きを首もとに下げると、普段通りの端麗な顔が夜気にさらされる。
「そうしてジェノス城を抜け出した後は、守衛に頼み込んで跳ね橋を下ろしてもらったのですが……アスタが本年もダレイムに出向いているとは思い至らなかったので、いささか時間を食ってしまいました。宿場町とダレイムも、歩くと遠いものですね」
「しゅ、宿場町から歩いてきたのですか? どうして、そうまでして……」
「アスタと、語らいたかったのです」
フェルメスは、ふわりと可憐に微笑んだ。
闇夜の猫のように両目をきらめかせていたアイ=ファは、「しかし」と静かに声をあげる。
「そのために、あなたは虚言をもってして、祝宴の場を抜け出したというのか? 王都の外交官として、そのような真似が許されるのだろうか?」
「気分が悪かったのは、本当です。とうてい祝宴を楽しめるような心地ではなかったのです。……もちろん明日には、メルフリード殿やオーグ殿に謝罪を重ねることになってしまうのでしょうけれども」
そう言って、フェルメスは俺を見つめてきた。
「2日前の祝宴で、僕はアスタの心を大きく乱すことになってしまったのでしょう? そのことが、気がかりでならなかったのです」
「ええ、まあ、確かに俺は、みんなを心配させることになってしまいましたが……それだけで、こんな日のこんな時間に、こんな場所まで出向いてこられたというのですか?」
「僕にとっては、必要な行いであったのです」
フェルメスは困ったように眉を下げながら、白魚のごとき手を自分の心臓のあたりに置いた。
「あの夜に、僕はアスタに謝罪をして、アスタもそれを受け入れてくださいました。でも、アスタは祝宴が終わるまで、どこか暗い眼差しであったように思います。それから時間を重ねるごとに、僕はどんどん胸が重くなってきてしまって……もう、居ても立ってもいられなくなってしまったのです。このような気持ちで、太陽神の再生を待つことはできない。1年が終わってしまう前に、アスタにもうひとたび詫びるべきだと……そのような一心で、ここまで駆けつけることとなりました」
俺が返事をしようとすると、フェルメスは軽く首を振ってそれをさえぎった。
「わかっています。あの夜にも、アイ=ファが言っていましたね。何が悪いかも理解せぬままに詫びを口にしたところで意味はない、と。……ええ、そうです。僕はいまだに、アスタがどうして気分を害されてしまったのか、その理由を理解できていません。でも、僕の行いによってアスタが傷ついたことは理解しています。それが僕には、心苦しくてならないのです。アスタは今も苦しんでいるのだろうかと想像すると……心臓が、締めつけられるように痛んでしまうのです」
フェルメスのヘーゼル・アイに、すがるような光が浮かんでいた。
その顔は、悲恋に嘆く可憐な乙女のごときである。
「僕はいったい、どのような罪を犯してしまったのでしょう? 僕はいったい、アスタにどのようにして詫びればいいのでしょう? もしも僕を殴ることによって、アスタの気が晴れるのでしたら――」
「ちょ、ちょっとお待ちください。フェルメスを殴るなんて、そんなことはできませんよ」
俺はなんとか強引に、言葉を割り込ませていただいた。
「それに俺は、すっかり元気になることができました。ご心配は、無用です。ほら、すっかり目の輝きも戻ったでしょう?」
「このように暗くては、よくわかりません。それに僕は、人の心情を見透かすことなど、得手ではないのです」
「でも、俺がずいぶん落ち込んでいるようだと、心配してくださったのでしょう?」
「それぐらい、アスタは深く落ち込まれていたということです」
フェルメスは、秀麗なる眉をわずかにひそめた。
どこか――子供がすねているような表情である。
「ガズラン=ルティムが仰る通り、僕は普通でない部分があるのでしょう。だから僕には、当たり前のことが理解できないのです。だけどそれでも、アスタを傷つけていいなどとは考えていません。アスタが傷つけば、僕も悲しく、苦しいです。僕は、どのようにしてアスタに詫びればいいのでしょう?」
「困ったなあ。俺の気持ちは、あの夜に告げた通りなのですよ。俺もあれから色々と考えさせられることになりましたが、根本の部分に変わりはないのです」
そんな風に言ってから、俺はフェルメスに笑いかけてみせた。
「ただ、ひとつだけ……俺は、フェルメスに対する気持ちと『星無き民』に対する気持ちが、ごっちゃになっていたようです。その点は、早くフェルメスにもお伝えしたいと考えていました」
「はい。それはどのような話であるのでしょう?」
「そうですね。何をどのように話すべきか、まだ整理しきれていないのですが……俺はどうやら、『星無き民』にまつわる何かを恐れているみたいなんです」
フェルメスは、真剣きわまりない目つきで俺の言葉を聞いていた。
いつでも精霊か何かのようにふわふわとしているフェルメスには、珍しい面持ちである。
「それが何なのかは、俺にもまだわかりません。俺は『星無き民』にまつわる誰かを恐れているようなのですが……そんな相手には、これっぽっちも心当たりがないのですよね」
「……それは、記憶の混濁を起こしているのではないでしょうか? 『星無き民』というのは、四大神の力によって大陸アムスホルンに導かれた存在であるのです。か弱き人間が神の力にさらされれば、多少の混乱を抱えるのも当然であるかと思われます」
フェルメスは、とても静かな声でそう言った。
「僕は研究を進める中で、『星無き民』であると推測できる歴史上の人物を、複数発見することになりました。ですが、彼らの残した言葉には、いくつもの齟齬が見受けられるのです。それは、虚言や誤解から生じる齟齬ではなく……記憶違いや、記憶の消失から生まれる齟齬なのではないかと、僕は推測しています」
「記憶違いや、記憶の消失……俺はやっぱり、何か大事なことを忘れている、というわけですか」
「あくまで、推測です。僕が『星無き民』であると見なした人々が、本当にその通りの存在であったのか、それを証し立てることは決してかなわないのです。だから、僕は……天から差し出された答えのない謎かけに、頭をひねっているようなものなのでしょうね」
フェルメスの可憐な口もとに、ふっと寂しげな微笑がたたえられる。
それもまた、フェルメスが初めて見せる表情であった。
「だから僕には、アスタの苦悩を取り除くこともできないのでしょう。自分の無力さを痛感させられてしまいます」
「そんなことはありませんよ。それにこれは、あくまで『星無き民』に対する気持ちの問題なのですからね。俺がフェルメスに対して抱いている気持ちとは、切り離して考えるべきだと思います」
「……僕に対する気持ち?」
「はい。最初にご説明したでしょう? 俺は、『星無き民』に対する気持ちとフェルメスに対する気持ちがごっちゃになってしまっていたんです。『星無き民』に関しては、何もフェルメスに責任のある話ではないのですから、気になさる必要はないと思います」
そう言って、俺はもうひとたび笑ってみせた。
「それよりも、フェルメスにはご自分の行いを顧みていただきたく思います。そちらに関しては、すべてフェルメスの責任なのですからね」
「はい。それは、どのような話であるのでしょう?」
「ですからそれは、2日前にお話しした通りですよ。俺はフェルメスとお近づきになれたような心地であったのに、それが錯覚だと思い知らされたような気分であったのです」
フェルメスは、またちょっとすねたような感じに眉をひそめた。
「でも、僕が数ある物語の中で『聖アレシュの苦難』をもっとも好んでいるというのは、本当のことです。何も虚言を吐いたつもりはありません」
「でも、それが『星無き民』にまつわる物語であることは隠していましたよね?」
「聖アレシュが本当に『星無き民』であるかどうかは、確証がありません。それはあくまで、僕の推論に過ぎないのです。王都でこのような話を公にしたならば、僕は投獄されるかもしれません」
「と、投獄ですか?」
「はい。王国創生期の英雄たる聖アレシュを、東の民の生み出した概念である『星無き民』に当てはめることなど、現在の王都ではとうてい許されないのです。現在の王陛下は、占星術を始めとするいにしえの術式や習わしを忌避されているのですからね」
「なるほど。でも、あなたは誰かに非難されることを恐れて、俺にその話を隠していたわけではないのでしょう? 2日前には、あっさりと白状してくれましたもんね。だからあなたは、俺が『聖アレシュの苦難』を目にして、どのような気持ちを抱き、どのような反応を示すのか、それを見届けたかったのではないですか?」
「……余計な前知識は、予断を与えます。ならば、隠すのが当然ではないでしょうか?」
「そこですよ」と、俺は苦笑することになった。
「あなたはリコたちの演目に『聖アレシュの苦難』が含まれているかどうか、しきりに気にしていましたよね。それで、そちらに含まれていないと知るなり、今度は城下町を訪れた旅芸人たちに、『聖アレシュの苦難』をお披露目するように依頼しました。さかのぼって考えると、仮面舞踏会でオーグに聖アレシュの扮装をさせたのも、布石のひとつだったのではないですか? いずれ俺が『聖アレシュの苦難』に興味を持つように、あなたはそんな頃からあれこれ画策していたんじゃないかって……俺には、そんな風に思えてしまうのです」
「……それが、僕の罪なのでしょうか?」
「決して罪ではありません。ただ、なんて周到な人だろうと感心するばかりです」
そうして俺は、自分の気持ちを残らず吐露することになった。
「ただ、あなたはそこまで熱烈に『星無き民』について探ろうとしているのに、俺個人にはこれっぽっちの興味も抱いてくれていないんだなと……2日前の祝宴で、俺はそのように思い知らされてしまったのですよ。それがすごく残念で、すごく寂しかったのです」
「寂しかった……ですか?」
「寂しかったですよ。森辺の祝宴で、あなたとの距離がちょっぴり縮まったように感じたのに、それもただの勘違いだったのですからね。本当にもう、心の底からガッカリすることになりました」
フェルメスは、食い入るように俺を見つめていた。
その瞳には、さまざまな感情が渦巻いているようだったが――あの、魂を吸い込まれるような眼差しではなかった。
「だから今日は、フェルメスがわざわざこんな場所まで駆けつけてくれたことを、ものすごく嬉しく思っています。今度こそ、俺の勘違いではないですよね?」
「……はい。僕は、アスタの身が心配でならなかったのです。アスタがあのように陰りのある眼差しのまま、1年を終えることになってしまったらと考えると……胸が、張り裂けそうであったのです」
フェルメスが、ふわりと足を踏み出した。
アイ=ファはぴくりと動きかけたが、あえて見逃してくれたようである。結果、俺はフェルメスに手を握られることになった。
「僕はこれから、どのように振る舞うべきであるのでしょう? 僕が『星無き民』に関する研究を進めるたびに、アスタを傷つけることになってしまうのでしょうか?」
「それはわかりませんし、俺にはフェルメスの行動に指図する権利はありません。ただ、フェルメスが少しでも俺の心情を慮ってくださるのでしたら……もう、不意打ちみたいな真似は控えていただけませんか?」
「わかりました。お約束いたします」
数センチほど低い位置から、フェルメスが俺を見つめている。
最初に見せた、すがるような眼差しだ。そしてその口もとには、恋心を打ち明けた乙女のごとき微笑がおずおずと浮かべられていた。
「僕は、アスタを傷つけたくないのです。その気持ちに、嘘いつわりはありません。ただ、僕は他者の心情を汲み取ることが不得手ですので……何か過ちを犯してしまったときは、どうぞその場でご指摘をお願いします」
「はい。承知いたしました」
そのとき、広場のほうから「おおい!」という声が聞こえてきた。
「アスタたちは、まだそっちなのか? 東の空が、白んできたぞ!」
俺の手を解放したフェルメスは、後ろにはねのけていたフードをかぶりなおした。
「太陽神が再生を迎えるようですね。僕たちは、これで失礼いたします」
「え? 今から城下町を目指したら、街道の途中で日の出を迎えてしまうのではないですか?」
「……でも、僕などと再生の光を迎えることは、アスタも望まないでしょう?」
フェルメスは、上目づかいに俺を見つめてきた。
俺は、苦笑するばかりである。
「どうしてそのような結論に至るのか、俺にはわかりません。フェルメスは本当に、相手の心情を汲み取るのが苦手であられるのですね」
「だから、何度もそう言っているではないですか」
「みんなで、喜びを分かち合いましょう。お顔を隠すのでしたら、お早めに」
フェルメスは幼子みたいにあどけない微笑みを浮かべてから、襟巻きを鼻のあたりまで引き上げた。
ずっと無言であったアイ=ファとガズラン=ルティム、およびジェムドも引き連れて、半ば駆け足で広場に舞い戻る。
東に見えるのは、モルガの山の影だ。
空が白んでいるために、その稜線はいっそう黒々として見えた。
家の中で休んでいたジバ婆さんや幼子たちも呼び出され、敷物でいびきをかいていた者たちは揺り起こされる。そうして100名を超える人々が、東の空を見つめることになった。
やがて――モルガの稜線が、白い暁光にふちどられた。
太陽神が、再生したのだ。
ラダジッドたちは敷物に膝をつき、何か底ごもるような詠唱を唱え始めた。
ジェノスや南の人々は、「太陽神の再生に!」と酒杯を振りかざしている。
シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンは、ぴったりと身を寄せ合っていた。
リミ=ルウとターラは目をこすりながら、おたがいの手を取っている。もっとも賑やかな様子を見せているのは、やはり南の人々であるようだ。
俺は周囲の人々に気取られぬように、そっとアイ=ファの手を握ってみせた。
「明けましておめでとう。この年もアイ=ファと一緒に新年を迎えることができて、俺は幸せだよ」
「……何を言っているのだ、お前は」
俺の手を強く握り返しながら、アイ=ファは俺に微笑みかけてきた。
「今年も来年もその次の年も、我々は同じ場所で新しい年を迎えるのだ。それが、王国の習わしであるのであろうが?」
「うん、その通りだな。その当たり前のことが、俺には何より幸せなんだよ」
「……お前であれば、どのような苦難にも屈することなく、日々を生きていくことがかなおう」
アイ=ファの目が、俺をはさんで逆側にたたずむフェルメスを見やった。
フードの陰でまぶしそうに目を細めながら、フェルメスは太陽神の威容を見つめている。そのヘーゼル・アイには、とても美しい光が躍っていた。
それを見届けてから、俺はアイ=ファに向きなおる。
アイ=ファの青い瞳には、さらに美しい光が躍っていた。
いや、アイ=ファの存在そのものが、光り輝いているかのようである。
その姿は、俺が遠き昔日に見た悪夢のことを思い出させた。
真紅に燃える世界の中で、何度となく死の記憶が繰り返される、あのおぞましい悪夢である。
その悪夢の中で、俺は最後に黄金色の輝きの中に飛び込むのだ。
今のアイ=ファは、あのときの黄金の輝きそのものであるかのように、光り輝いていた。
(だから俺は、自分が正しいと信じることができるんだ)
『星無き民』が何であるのか、黒き珠に浮かびあがった人物が何者であるのか、俺にはさっぱりわからない。
だけどそれでも、俺はアイ=ファに出会うことができたのだ。
この運命が間違っているだなんて、俺は絶対に思わない。だからこの先、『星無き民』にまつわるどのような苦難が訪れようとも、俺は自分の運命を信じて、戦い抜くことができるだろう。
俺の周囲では、慕わしき人々が喜びの声をあげている。
俺をこのように幸福な場所に導いてくれたのも、やっぱりアイ=ファであったのだ。
アイ=ファに出会えたからこそ、俺は今この場所に立っている。その喜びと幸福感が、俺の隅々にまで力を与えてくれていた。
(今度は、どんな1年が待ちかまえているんだろう)
アイ=ファの手をぎゅっと握りしめながら、俺は東の果てに視線を転じた。
モルガの山にかぶさった太陽神は、人々の行く末を祝福するように、世界を明るく照らし出していた。