紫の月の三十一日③~見果てぬ幻影~
2020.1/16 更新分 1/1
「わたくしは、ナチャラと申します。どうぞおくつろぎください、お客人がた」
三つ指でもつきそうな恭しさで一礼したナチャラは、それで礼儀は尽くしたとばかりに、しどけなく姿勢を崩した。
なんとなく、映画やドラマで見る江戸時代の遊女を思わせるなよやかさである。シム風のふわりとした織物で作られた装束が、いっそうそういう雰囲気を演出しているのだろうか。
また、髪の色は褐色だが、肌は浅黒い色合いをしており、すっと切れ上がった涼やかな目をしているので、風貌までもが東の民めいている。笛を吹く他には芸を見せることもないので、《ギャムレイの一座》の中では印象の薄いお人であるのだが、容姿の非凡さは他の座員に負けていなかった。
「ナチャラについては、あとで説明させていただくよォ。とりあえず、楽にしておくんなさいなァ」
ナチャラは部屋の奥に座しており、ピノはそれより斜め手前で腰を下ろす。俺たちは、それに向かい合う格好で、部屋の中央に腰を落ち着かせていただいた。
「まずは、お時間を取らせちまって、申し訳なかったねェ。こんなのは、アタシの流儀じゃなかったんだけどさァ」
「ふむ。お前の流儀とは?」
「……アタシらは、根無し草の旅芸人さァ。真っ当に生きてるお人らのおこぼれにあずかって、この世の端っこにへばりついてる、ロクデナシの集まりだからねェ。本来は、カタギのお人らに深く関わるモンじゃないんだよォ」
敷物の上でちょこんと正座をしたピノは、いくぶんトーンを抑えた声音でそのように言いたてた。
「また来年、どうぞごひいきにィなんて言い残しても、一期一会が信条さァ。だけどまァ……時にはこうして、素通りできない相手と巡りあっちまうんだよねェ」
「ふむ。それが、アスタであるというわけか」
「うン……もちろん森辺の民ってェのは、みんな愉快で楽しいお人ばっかりだけどさァ。そんな森辺のお人らとのご縁を紡いでくれたのも、きっとこのアスタの存在なんだろうし……どっかしら、特別なモンを感じちまうんだよねェ」
そこでピノは、皮肉っぽく唇を吊り上げた。
「最初にお断わりしておくけど、アタシはアタシで星読みの術式ってモンを、そんなに好いちゃいないんだよォ。いや、アタシばっかりじゃなく、この一座に加わってるぼんくらどもは、みんなそうなのかねェ。何せ、ライ爺っていう凄腕の占星師と一緒に過ごしてるってェのに、誰ひとり星を読んでもらおうとはしないぐらいなんだからさァ」
「……ふむ?」
「それでもねェ、星読みの力を侮ってるわけじゃないのさァ。むしろ、星読みの力を信じているからこそ、関わり合いになりたくないのかもねェ。ま、どっちみち、その日暮らしが信条の旅芸人が、行く末の吉兆を覗き見たって詮無きことだけどさァ」
「……それでお前は、何を語ろうとしているのだ、ピノよ? どうにも、話が見えないのだが」
「あァ、コイツはただの、前口上だよォ。……『星無き民』は、関わる人間の運命を変転させるってェ話を知ってるかァい? 星を持たない『星無き民』は星図にぽっかり黒い穴を空けちまうから、近づく星の運命を否応なく変えちまうってェ寸法らしいけどねェ」
アイ=ファは難しい面持ちで、口をつぐんでしまった。
その代わりに、俺が「はい」と答えてみせる。
「なんとなくですが、そんな風に聞いた覚えがあります。でも、それがいったい何だというのです?」
「うン、だから、アタシらが森辺のお人らとお近づきになれたことや、首尾よくギバをとっ捕まえられたことや、聖域の民なんざに出会うことができたのも、みィんなアスタのもたらしてくれた運命の変転だって、占星師だったらそんな風に抜かすんだろうと思うんだよねェ」
そんな風に言ってから、ピノはすっと背筋をのばした。
皮肉っぽい笑みをたたえていた赤い唇は、いつしか凛々しく引き締められている。
「でも、ライ爺には悪いけど、そんな御託は糞くらえってな心持ちなんだよォ。アタシがアスタを好いたのは、アンタがびっくりするぐらい真っ直ぐで、こんな弱っちそうなのに、鋼みたいにお強い気持ちまで携えた、とっても愉快なお人だったからさァ。アタシの気持ちまで星なんざに読み取られてたまるかいってェ心情なんだよねェ」
「はあ……過分なお言葉、ありがとうございます」
「それそれ、そういうすっとぼけたところも、アタシは大好きでたまらないよォ。もちろん、おかしな意味ではなくねェ」
ピノはくすくすと忍び笑いをもらしてから、再びしゃんと背筋をのばした。
「それじゃあ前置きはこれぐらいにして、本題に入らせてもらおうかねェ。……アスタ、アタシはアンタが心配でならないんだよォ」
「はい。俺なんかのことをそんなに気づかってもらえて、とても嬉しく思っています」
「いや、アンタはわかっちゃいないねェ。アンタは鋼みたいにお強いお人なんだから、本来はアタシなんざが心配する筋合いはないんだよォ。どんな苦難に見舞われたって、アンタは自力でなんとかしちまうだろうし、そばにはこんなに心強いお人らが集まってるんだからさァ。アタシ風情が心配するなんざ、本来おこがましい話であるはずなのさァ」
ピノの黒い切れ長の目が、食い入るように俺を見つめた。
「ただ……今のアンタは、どこか普通じゃない。アンタはそんなに苦しんでるのに、自分が苦しんでることにも気づいてすらいない。それがアタシには、ひどく危うげに見えちまうのさァ」
「ええ、まあ……確かに俺は、苦しいという自覚がありません。今でも、元気いっぱいのつもりであるのです」
「……アンタを苦しめてるのは、あの嫌ァな目つきをした貴族様なんだろォ? 普通だったら、そんな相手は憎たらしくてたまらないはずなのに、アンタはあっけらかんとしていて、周りの人間ばっかりがヤキモキしてる。そうじゃないのかァい、アイ=ファ?」
「うむ。しかし、アスタがフェルメスを憎むことはなかろう。私とて、フェルメスを憎んでいるわけではないのだ。ただ、あやつは何か底知れない部分があるので……どのようにすれば正しき絆を結べるのかと、それを苦慮している」
「ふうん? それじゃあ、アンタはどうなんだい? アンタみたいに賢そうなお人だったら、何か思うところがあるんじゃないのかねェ?」
それはもちろん、無言でこのやりとりを見守っていたガズラン=ルティムに向けられた言葉であった。
ガズラン=ルティムは真っ直ぐに背筋をのばしたまま、「ええ」とうなずく。
「私もフェルメスは、何か特殊な人間であると考えています。そんなフェルメスに執着されることにより、アスタは心に負担を強いられているのではないでしょうか」
「へえ、だったら今のアスタがこんな具合なのも、べつだんおかしなことじゃないってことかねェ」
「いえ……」と、ガズラン=ルティムはいくぶん苦しげに眉をひそめた。
「確かにアスタの負担は大きいのでしょうが、まさかひとたびの会見でこれほど心を削られることになろうとは、まったく考えていませんでした。詳しい話を聞いた現在も、その疑問は晴れていません」
「だったらやっぱり、どこかに歪みがあるんだろうねェ」
ピノの目が、再び俺に向けられる。
「アスタ。自分が心に負った傷を自覚できないってェのは、普通の話じゃないんだよォ。それは、心と頭がズレちまってるってェことなんだからねェ」
「心と頭がズレる、ですか……?」
「うン。アンタはそれだけの傷を負ってるってェのに、自分の痛みに気づいてすらいないだろォ? ソイツはつまり、自分の背中に矢がぶっささってるのに気づいていないようなモンなんだよォ。アンタは血まみれになってるのに、何も気づかず楽しそうに笑ってるのさァ。周りで見ている人間にしてみれば、こんなに気の揉める話はないだろうねェ」
俺はびっくりして、左右のアイ=ファとガズラン=ルティムを見回した。
ふたりはとても心配そうな面持ちで、俺を見つめている。
「だから、ひとつお願いがあるんだけどさァ……アンタ、自分の心を見つめなおしてみちゃあどうだい?」
「自分の心を見つめなおす、ですか……どうすれば、そのようなことができるのでしょう?」
「何も難しい話じゃないさァ。そのために、ナチャラを呼んでおいたんだからねェ」
すっかり置物と化していたナチャラが、そこでゆったりと一礼した。
「コイツは口外法度でお願いしたいんだけどさァ。このナチャラは、人の心を解きほぐす術式を体得しているんだよォ」
「心を解きほぐす術式……」
「うン、説明は難しいんだけどさァ。人間の心ってェのは、複雑にもつれあってるモンだろォ? ソイツがあまりに絡まっちまうと、人間ってェのは心の病にかかっちまうモンなんだよォ。ソイツを癒やすための術式ってェわけだねェ」
「よくわからんが、それは魔術というものなのではないのか? 王国において、魔術は禁忌とされているはずだ」
アイ=ファが鋭く声をあげると、ピノは「いやいやァ」と手を振った。
「魔術なんかじゃありゃしないよォ。星読みみたいに人の運命を解き明かすわけじゃないし、ただ、心の中で絡み合ったモノを解きほぐすだけのことさァ。でも、町のお人らに知れわたっちまうと、それこそ魔術扱いされちまいそうだから、人様に見せるのを控えているだけのことでねェ」
「……そんな秘密を、俺なんかのために明かしてくれたのですか?」
俺が視線を向けると、ナチャラは目を細めて微笑んだ。
「わたくしは、ピノの人を見る目を信用しています。わたくしたちのように不出来な人間が今日まで生き永らえることができているのも、すべてピノのおかげであるのです」
「なァに寝言をほざいてるんだァい。そう思うんなら、もっとしっかり働きなァ」
ピノはナチャラを振り返り、幼子のように舌を出した。
まあ、外見は幼子そのものであるのだが、ピノには珍しい仕草である。
「……何にせよ、正体のわからぬ力に頼ることは、差し控えたく思う。己の心を見つめなおすならば、それは自身の力で為すべきであろう」
アイ=ファが厳粛な声で応じると、ピノは横目でそちらを見た。
「もちろん、無理強いするつもりはないよォ。こんなのは、アタシが安心したいってだけの話だからねェ。何せ明日や明後日にはジェノスを出ていっちまう身だから、それまでにアスタの元気な姿を見ておきたいっていう、何の道理もないワガママさァ」
「お前がアスタの身を思いやってくれていることには、感謝している。私とて、アスタの傷が一刻も早く癒えることを願っているのだが……」
と、アイ=ファは俺に向きなおってきた。
その青い瞳には、深い苦悩の色が見て取れる。俺はこんなにも、アイ=ファを心配させてしまっているのだ。
「……具体的に、それはどういう術式なのでしょう? 何か、薬を飲んだりするわけですか?」
俺が問いかけると、ピノは「いいやァ」と肩をすくめた。
「ただ、コイツを眺めながらナチャラと言葉を交わすだけのことだねェ。薬も呪文も無用だよォ」
コイツとは、ナチャラが背中のほうから取り出した水晶玉のような代物であった。
大きさはソフトボールぐらいで、黒い鉱石のように艶々ときらめいている。
「それを眺めながら、言葉を交わすだけなのですか?」
「あァ。うまくいくかは、アンタ次第だけどねェ」
俺はしばし黙考してから、アイ=ファを振り返った。
「アイ=ファ。森辺の民として、こういったものに頼るのは控えるべきなんだろうか?」
「……お前は、ピノの申し出を受け入れようというのか?」
「うん。なんか今回は、俺も落ち着かない気分なんだよ。自分はこんなに元気なのに、みんながすごく心配そうにしてくれているのが、心苦しくってさ」
アイ=ファはきゅっと眉を寄せながら、俺の瞳を覗き込んできた。
そこにはまだ、暗い陰りというものが生じているのだろう。アイ=ファの真剣な眼差しが、その事実を物語っていた。
「……中途でその術式を取りやめることはかなうのか?」
アイ=ファが問うと、ピノは「あァ」と首肯した。
「やめるも続けるも、アスタの自由さァ。べつだん問題はないよねェ、ナチャラ?」
「はい。たとえ途中で術式を取りやめても、心にいらぬ負担が生じることはありません」
アイ=ファは悩ましげに唇を噛み、たっぷり10秒ぐらいは考え込んでから、やがて発言した。
「ならば……その申し出を受け入れようかと思うが……ガズラン=ルティムは、どのように考えている?」
「はい。私には理解の及ばない話ですが、ピノは信義を持つ人間だと思っています」
真剣な声で、ガズラン=ルティムはそのように応じた。
もしかして――と振り返ってみると、その双眸には鷹のごとき鋭い光が浮かべられている。ガズラン=ルティムもまた、アイ=ファと同じぐらい俺の身を思いやってくれているのだ。
「では、こちらでよからぬ気配を感じたら、中途でも取りやめてもらうという条件で、願うことは許されるだろうか?」
「あァ、もちろんさァ。こっちの勝手な言い分を聞き入れてくれて、心からありがたく思ってるよォ」
ピノは座ったまま、脇のほうに身を引いた。
「それじゃあ、ナチャラの前まで進んでもらえるかァい? おふたりも、お好きな場所で見届けておくれよォ」
俺は、言われた通りに膝を進めた。
アイ=ファとガズラン=ルティムも同じだけ前進し、また左右から俺をはさみ込む。
ナチャラは妖艶に微笑みながら、その手の黒水晶を床に置いた。
「それでは、こちらの黒き珠をご覧ください。何も気を張る必要はございませんので……あと、その肩の黒猫を床に下ろしていただけますでしょうか?」
俺の肩には、ずっとサチが乗ったままであったのだ。
俺の手で敷物の上に下ろすと、サチはうろんげにナチャラの姿を見上げた。
「では……如何様にして心を解きほぐしましょう?」
「そうだねェ。アスタはどうして、そんなにも苦しんでいるのか……ソイツを解き明かせれば、十分だと思うよォ」
「承知しました」と、ナチャラはまぶたを閉ざした。
「わたくしがいくつか質問をさせていただきますので、あなたはその黒き珠を見やったままお答えください。……よろしいでしょうか?」
「はい。いつでもどうぞ」
「……あなたは、何を苦しんでおられるのでしょう?」
「いえ。俺は苦しんでいるという実感はありません」
「では、何故に周囲の人々は、あなたを心配されているのでしょう?」
「それは……2日前、フェルメスという御方と対面して以来、俺の様子がおかしいからであるようです」
「そのフェルメスという御方が、あなたに害を為したのでしょうか?」
「いえ、あれが害だったとは思っていません。フェルメスにも、きっと悪意はなかったのだろうと思います」
「悪意はないけれど、あなたを傷つけることになったのでしょうか?」
「傷つけるというか……フェルメスの行動に、少し失望していたと思います。残念で、やるせない気持ちを抱え込むことになりました」
俺はなんだか、悩み相談のカウンセリングでも受けているような心地であった。
確かにこれは、魔術でも何でもないのだろう。ナチャラのやわらかい声は、とても耳に心地好い。
「あなたはフェルメスという御方を憎んでおられるのでしょうか?」
「いえ、決して憎んではいません。ただ、もっとおたがいに理解し合いたいと願っています」
「フェルメスという御方は、あなたを憎んでおられるのでしょうか?」
「いえ、そんなことはないと信じています。むしろあのお人は、俺の存在に執着しているご様子ですし……」
「どうしてその御方は、あなたに執着しているのでしょう?」
「それは、俺が『星無き民』であるためです」
「あなたにとっては、それが苦痛なのでしょうか?」
「苦痛というか……そんな肩書きではなく、俺個人と確かな絆を結んでいただきたいと願っています」
「あなたは、『星無き民』であることを苦にしているのでしょうか?」
俺は一瞬、言いよどむことになった。
黒き珠は、静かに艶々ときらめいている。
「苦にしているつもりはないのですけれど……ただ、自分がそのような立場でなければ、フェルメスとこのような関係にはならなかったのだろうなとは考えています」
「あなたは、『星無き民』であるという事実を捨てたいと願っているのでしょうか?」
「……それが事実であるのなら、捨てることは不可能だと思います。ただ、そのような話にはとらわれず、俺は俺として生きていきたいと願っています」
「もしも捨てられるものであるならば、捨てたいと願っているのでしょうか?」
俺はまた、言葉に詰まることになった。
やはり俺にとっての苦悩の根源とは、『星無き民』にまつわるものなのだろうか。
「仮定の話に、しっかりとした答えを返すことは難しいのですが……過去の話を捨てたいと願うのは、正しくないことであるように思います。そもそも俺は、自分が『星無き民』であるという自覚がないので、捨てたいと思うほどの強い気持ちが生まれません」
「あなたは、『星無き民』ではないのでしょうか?」
「わかりません。占星師の方々が口をそろえてそのように仰るので、それじゃあそうなのかなと考えているだけです」
「あなたは、『星無き民』という身分に執着していますか?」
「いえ。まったく執着していません」
「それでも、ご自分が『星無き民』であると断じられるのは不本意なのでしょうか?」
「不本意……とは思いませんが……フェルメスのように執着する御方が現れるのは、困ったものだと考えています」
「あなたは、何を恐れているのでしょう?」
その言葉は、いきなり後頭部を殴られたような衝撃を俺に与えた。
何がそれほど衝撃的であったのかは、わからない。ただ、ものすごい不意打ちをくらったような心地であったのだ。
「俺は……何も恐れているつもりはありません」
「では、どうしてあなたはそのように傷ついているのでしょう?」
「わかりません。傷ついているという自覚もありませんので」
「あなたは、深く傷ついています。何かを、恐れているのです」
それは質問の形式ではなかったので、何も答えることはできなかった。
そのままナチャラの声もやんでしまったので、俺はただ黒き珠の輝きだけを見つめ続ける。
何か魂の吸い込まれそうな、美しい輝きであった。
まるでこれは――フェルメスのヘーゼル・アイであるかのようだ。
フェルメスはときおり、こうした瞳で俺を見つめる。ぽっかりと空いた深淵の中に、複雑な色合いをした光がぐるぐると渦巻いているような――あの輝きが、俺は苦手であった。
そうだ、俺が何かを恐れているとしたら、あのフェルメスの不思議な眼差しに他ならないだろう。
あの眼差しは、俺をひどく不安な心地にさせる。光の中に吸い込まれて、俺が俺でなくなってしまうような――それこそ肉体から魂を剥ぎ取られてしまうかのような、心もとない感覚を味わわされてしまうのだ。
フェルメスの、何がそんなに恐ろしいというのだろう。
フェルメスは、いつでも俺に情愛を傾けてくれている。それは俺個人ではなく『星無き民』という身分に対しての情愛や執着であったのかもしれないが、敵意や悪意といったものの混じり込む隙間もない、純然たる思いであるはずだった。
(俺はやっぱり、フェルメスを恐れたりはしていない。ただ……あの眼差しだけが、おっかないんだ)
あの眼差しの向こうに、何か俺の知らない秘密の心情が隠されているというのだろうか?
それも何だか、ピンとこない話だ。俺はフェルメスが内心を隠していると疑ったことは1度としてなかった。
(俺は、何を恐れているんだ?)
いつしか、俺の視界は黒い輝きに満たされていた。
まるで宇宙空間を漂っているような、不思議な感覚だ。
真っ暗闇なわけではなく、あちこちに銀色の輝きが瞬いている。その輝きが、星空を連想させるのだろう。うっとりと息をつきたくなるほどの美しさであった。
そして――いつしかその輝きが、人間の形を取り始めていた。
これは、フェルメスの幻影であろうか?
いや、違う。何も定かにはなっていないのに、フェルメスとは別人であることが確信できた。
その幻影が、ゆっくりと輪郭を固めていく。
そして、その顔が正体をあらわにしようとした瞬間――
激しい恐怖が、俺の心臓をわしづかみにした。
その何者かは、俺を見返しながらうっすらと微笑んでいる。
その顔には、何か大きな傷が刻まれていた。
その傷痕が、俺を再び恐怖させた。
そして――
俺は、現実に引き戻された。
「しっかりせよ、アスタ!」
気づくと、アイ=ファが俺の両肩を揺さぶっていた。
そして、「シャーッ」という擦過音のような音色が響いている。どうやらそれは、サチの威嚇のうなり声であるようだった。
「ど……どうしたんだ、アイ=ファ?」
「どうしたではない! お前というやつは……!」
アイ=ファはいきなり、俺の身体を抱きすくめてきた。
その強い力と温もりが、俺の頭を明瞭にしていく。俺の眼前にはナチャラではなく、ピノが両手を広げて立ちはだかっていた。
「術式は、ここまでだねェ。……アスタ、なんとかソイツをなだめちゃもえないもんかねェ?」
「ああ、はい……サチ、俺なら大丈夫だよ。俺のことを、心配してくれたのか?」
アイ=ファに抱きすくめられたまま手をのばすと、前足を突っ張って全身の毛を逆立てていたサチが、こちらを振り返った。
そのざらついた舌が、俺の指先をぺろりと撫でる。その青い瞳に燃えていた激情の炎も、それですぐに消失した。
「ごめん。しばらく我を失っていたみたいだけど……俺は、どうしていたんだろう?」
俺がそのように問いかけると、アイ=ファは最後にぎゅうっと俺の肋骨を軋ませてから身を離した。
「……お前はあの黒き珠を見つめたまま、動かなくなってしまったのだ。その目に恐怖の光が浮かび、身体が震え始めたので、お前を正気に戻らせることにした」
感情を殺した声で、アイ=ファはそのように説明してくれた。
その瞳には、さまざまな感情が渦巻いている。俺はまた、大事なアイ=ファをこんなにも心配させてしまったのだ。
アイ=ファはぎゅっとまぶたを閉ざし、何度か深呼吸をしてから、ピノを振り返った。
「……ピノよ。これはお前の言う術式の正しい結果であるのか?」
「うン、おそらくアスタは、自分が何に脅かされているのかを見届けたはずだよォ」
ピノは身を引いて、その背後に隠されていたナチャラのかたわらに腰を下ろした。おそらくサチからナチャラを守るために、慌てて飛び出したのだろう。ナチャラはいくぶんけだるげな表情で、長い前髪をかきあげている。
「どうなんだい、アスタ? アンタの心に浮かんだのが、アンタを傷つけたものの正体さァ。そいつはやっぱり、あのいけ好かない貴族様だったのかねェ」
「いえ……その正体を見届ける前に目を覚ましてしまいましたが、あれはフェルメスではありませんでした」
俺の心は、すっかり落ち着きを取り戻していた。しかしそれも、アイ=ファとサチのおかげであるのだろう。ただ、恐怖の余韻でわずかに心臓が高鳴っているばかりである。
「フェルメスよりは、背が高かったように思いますし……それに、はっきりとは見えませんでしたが、顔に傷痕があったように思うのですよね」
「顔に傷痕……シルエルでしょうか?」
ガズラン=ルティムが、いつになく鋭い声音で問うてくる。
しかし俺は、「いえ」と首を振ってみせた。
「シルエルは、額に古傷があるのですよね。そうじゃなくって、こう、右の頬が赤く焼けただれているような……そんな傷を負っている人は、俺の身近にいないと思います」
「そいつはおかしいねェ。コイツは星読みみたいに行く末を見透かすんじゃなく、アスタの心を解きほぐす術式なんだからさァ。アスタの知らない人間の顔が浮かびあがることはありえないんだよォ」
そんな風に言ってから、ピノはにいっと唇を吊り上げた。
「だったらまあ、アスタが忘れちまった誰かさんってことになるんだろうねェ。そんな相手に恐れを為してるなんて、お笑い種だけどさァ」
「ええ? そんな相手に恐れを為す理由はないように思うのですが……」
「でも、それ以外に真実はないからねェ。アンタは『星無き民』なんだから、どんな不思議も不思議じゃないのさァ」
だいぶん普段通りの気安さを取り戻しながら、ピノはそのように言葉を重ねた。
「ま、答えの出ない謎かけに頭を悩ませたって、誰の得にもなりゃしないさァ。アタシの目的はただひとつ、アスタを楽にさせることだったんだからねェ」
「これで、アスタが楽になったというのか?」
アイ=ファが底ごもる声で問い質すと、ピノはこらえかねたようにけらけらと笑った。
「おォ、おっかない! ここで軽口を叩いたら、頭のひとつも刎ね飛ばされちまいそうだァ。……アスタが楽になったかどうかは、自分のお目々で確認してもらいたいもんだねェ」
アイ=ファは深く眉根を寄せながら、俺のほうに向きなおってきた。
そうしてハッと息を呑むなり、両手で俺の頭をわしづかみにして、鼻先がぶつかりそうなほどに顔を寄せてくる。
「アスタ、お前は……瞳の輝きが、戻っているぞ」
「あ、そ、そうなのか? もともと自覚はなかったんで、なんとも答えようがないんだけど……」
それよりも、吐息がかかるほどに顔を近づけられて、また心臓が騒いできてしまった。
俺の心に満ちているのは、アイ=ファに対する温かな感情ばかりであった。
「アスタは何か、心情の変化を得られたのでしょうか?」
背後からは、ガズラン=ルティムの声が聞こえてくる。アイ=ファに頭を固定されているために、そちらを振り返ることができないのだ。
「ああ、はい、それなりに……ひとつだけ、理解できたように思います」
「それは、どのような理解であったのでしょう? 私が聞くことは許されるでしょうか?」
「もちろんです。……俺が恐れているのはフェルメスじゃないってことが、はっきりわかりました。俺はたぶん、『星無き民』にまつわる何かを恐れているんだと思います」
まだ視線は目の前のアイ=ファに固定されたまま、俺はそのように答えてみせた。
「ただ、フェルメスの行動を残念に思ったことも確かであったので……その辺りの心の揺らぎが、変に混同されてしまったのでしょうかね。フェルメスに対する気持ちと『星無き民』に対する気持ちを区分すると、なんだかすごく楽になったように思います」
「……これが、心を解きほぐすということなのでしょうか?」
ガズラン=ルティムの言葉に、ピノが「そうだねェ」と応じた。
「きっとアスタは色んなものを抱え込みすぎて、心の中身ががんじがらめになっていたんだと思うよォ。だから、いつまで経っても暗いお目々をしていたのさァ」
ピノがそのように説明している間も、アイ=ファはずっと俺の瞳を覗き込んでいた。
その青い瞳に渦巻く激情が、ひとつの感情に収束されていく。それはまぎれもなく、俺の復調を喜ぶ安堵の感情であった。