紫の月の三十一日②~過去の過ち~
2020.1/15 更新分 1/1
「みなさん、どうもお疲れ様です」
青空食堂のほうに出向いてみると、そちらでは本日もジバ婆さんがさまざまな人々に囲まれていた。
護衛役のジザ=ルウとルド=ルウに、仕事を終えたリミ=ルウ、ターラとドーラの親父さん、それに南の民の面々と――かつて掏摸騒ぎを起こしたあの御仁もいた。
「ああ、あなたもいらしたのですね。ギバ肉は口にできましたか?」
「あ、ああ。お前さんの屋台はひときわ混みあってたんで、別の屋台でいただいたよ」
すると、すぐそばにいた南の民が豪快に笑いながら、その御仁の背中をどやしつけた。
「こいつは街道の端でまごまごしておったから、俺たちが尻を叩いてやったのだ! アスタの稼ぎをかすめ取ろうとした罪はもう許されたというのだから、いちいち遠慮をする必要はなかろうよ!」
「そ、そんな大きな声で、滅多なことを言わねえでくれよ」
「しかし、それが真実なのであろうが? まったく、腰の据わらぬやつだ!」
その御仁の周囲に固まっていたのは、いずれも建築屋の面々であった。
ただし、ネルウィアから訪れた一行ではなく、西の王国を転々としている一行のほうである。バランのおやっさんを通じて、そちらとも交流が結ばれた様子であった。
「アスタたちも、ご苦労だったな! いま、ルウの最長老にこの前の御礼を告げていたところだ! レイやリリンといった家のお人らが見当たらなかったのでな!」
「レイやリリン? ……ああ、そうか。みなさんは、そちらで晩餐に招かれたのですよね」
「うむ! ガズやディンやベイムの者たちには、折よく顔をあわせることができたのでな!」
13名から成る彼らは、そうして数名ずつに分かれて5つの家に招かれることになったわけである。その日には、祭祀堂の出来栄えも確認したのだという話であった。
「銀の月からは、俺たちがトゥランの仕事を引き継ぐことになったからな! こいつがまたよからぬことを企まないように目を光らせておくので、安心するがいい!」
「だ、だから、やめてくれって」
掏摸騒ぎを起こした御仁は困り果てたような顔をしつつ、どこか嬉しそうでもあった。心ならずも無法者に身を落としてしまったこの御仁には、南の民の豪放さが何かの救いになったのかもしれない。
「アイ=ファにアスタ、お疲れ様だったねえ……朝まで一緒だったのに、わざわざ挨拶に来てくれたのかい……?」
と、話が一段落したところで、ジバ婆さんが笑顔で呼びかけてきた。
アイ=ファはやわらかい眼差しになりながら、「うむ」とうなずく。
「ジバ婆も、満ち足りた時間を過ごせているようだな。とても元気そうなので、安心した」
「朝方に、また少し休ませてもらったからねえ……ジザやルドには、世話ばかりかけちまうけどさ……」
「世話ってほどの世話じゃねーだろ。おかげで一日中、俺たちも宿場町に居座れるんだしなー」
そんな風に答えてから、ルド=ルウは俺へと視線を転じてきた。
「そーいえば、ガズラン=ルティムには会ったのか? なんか、アスタに話があるみてーだったけど」
「え? いや、最初に挨拶をしたぐらいだね。仕事の真っ最中だったんで、話らしい話はできなかったんだけど……」
「ふーん。この人混みで捜すのは、ちっとばっかり難しいかもなー」
言いながら、ルド=ルウは人で賑わう街道のほうを振り返った。
「お、森辺の連中が近づいてきたな。……って、なんだ、お前たちかよ」
「な、なんだよ。俺たちじゃいけなかったのか?」
それは、ディガにドッドにレム=ドムという、ドム家の見習いトリオであった。
おどおどと視線をさまよわせるディガを押しのけて、レム=ドムがジザ=ルウの前に進み出る。
「さっきまではずいぶん賑わっていたようだから、遠慮をしていたの。いまさらだけど、こいつらにも最長老にご挨拶をさせてもらっていいかしら?」
「無論だ。それを拒む理由はない」
レム=ドムはずっとルウの集落に逗留しているので、ジバ婆さんともすっかり顔馴染みであるのだろう。車椅子に座したジバ婆さんににっと笑いかけてから、背後の2名に場所を譲った。
「ド、ドムの家人、ディガだ。あの、傀儡の劇を見届けるためにルウの集落を訪れた際には、あまり時間が取れなかったので、あらためて挨拶をさせてもらいたい。……かつての家族であったミダ=ルウたちが、ルウの血族として心安らかに過ごせていることを、ずっとありがたく思っていた」
「同じく、ドッドだ。俺たちもドムの家で正しく生きていけるように心がけているので、今後もよろしくお願いしたい」
「ああ、わざわざありがとうねえ……あんたたちもずいぶん力を取り戻せたようだから、あたしも嬉しく思っていたんだよ……」
ジバ婆さんは、慈愛に満ちた面持ちでふたりの姿を見比べた。
ディガは恐縮しきった様子で、「うむ」とうなずく。
「その前に最長老と相まみえたのは、サイクレウスとの決着をつける日の前夜、ルウの集落に集められたときのはずだな。あの頃は、俺もドッドもまだ正しい道を見いだせずにいたので……さぞかし惨めな姿であったことだろう」
「うん……あのときのあんたたちは、可哀想なぐらいに痩せ細って、絶望に目を曇らせていたものねえ……それまでのあんたたちとは、まるきり別人みたいだったよ……」
「うむ。あの頃は、ドムの家でもまだ血抜きの技を体得していなかったのでな。情けない話だが、カロンやキミュスの肉を食いあさっていた俺たちには、ギバの肉が臭くてたまらないように感じられてしまい……」
と、そこでディガはうろんげに眉をひそめた。
「いや、待ってくれ。俺たちが最長老と相まみえたのは、そのときが初めてのはずだぞ。その前から、俺たちの姿を見知っていたのか?」
「ああ、1度だけね……あんたたちは、ルティムとミンの婚儀の祝宴で、腐りかけたギバを持ち込んできたことがあったろう……?」
ディガとドッドはぎょっとしたように、それぞれ身をすくめることになった。
「あ、ああ、そうか。ルウの最長老だったら、あの場にいるのが当然だよな。……本当に、すまなかったと思ってるよ」
「うん……ルウとスンは長きに渡って、おたがいを憎み合っていたからねえ……その悪縁をようやく断ち切ることができて、あたしはとても嬉しく思っていたよ……」
ほとんどふさがりかけたまぶたの間で、ジバ婆さんの瞳は透き通った光をたたえていた。
「この話は、あんたたちもズーロ=スンの横で聞いていたと思うけど……あたしはあんたたちの祖父であるザッツ=スンの父親とは、懇意にさせてもらっていたのさ……あたしは女衆だけど、子が育つまでの間、家長の座を担っていたからさ……スン家の人間がどれだけ立派であったか、この目できちんと見届けているんだよ……」
「ああ、確かに覚えている。あの夜のことは、今でも夢に見るぐらい、頭に焼きつけられているんだ。ドッドだって、そうだよな?」
「ああ。どうして俺たちは、ヤミルみたいに――いや、ヤミル=レイみたいに強くあれないのだろうと、ひそかに歯噛みしていたからな」
「ヤミル=レイは、ひときわ強い心を持っているようだからねえ……それと比べたら、たいていの人間が自分の弱さを思い知らされちまうだろうさ……」
ジバ婆さんは皺深い顔をくしゃくしゃにしながら、微笑んだ。
「でも、あんたたちの身体にも、強いスン家の血が流れているんだからね……たとえ氏を失っても、その事実は変わらないんだよ……ザッツ=スンなんかは、残念なことになっちまったけど……あれだって、ザッツ=スンだけが悪かったわけじゃない……今後は誰も道を誤らないように、強い力でしっかりと手を携えていっておくれよ……」
「もちろんだ」と、ディガはいきなりジバ婆さんの前に膝をついた。
ドッドも同じように膝をつき、ジバ婆さんの穏やかな笑顔を真剣そのものの目つきで見上げる。
「俺たちは弱いから、道を誤ることになっちまった。もうあんな間違いは犯さないと、ここに誓わせてもらう」
「うん……どうか頑張っておくれ……」
ディガは身を起こすと、目もとににじんだ涙を手の甲でぬぐった。
横合いに引っ込んでいたレム=ドムが、それに気づいて肩をすくめる。
「いちいち涙をこぼさないと気が済まないのかしら。まあ、泣き崩れないだけ、マシだけど」
「う、うるせえなあ。ほっといてくれよぅ」
「どうもこいつらは、頭を下げる相手を探し回ってるような節があるのよね。最長老が過去の罪をほじくってくれたのは、むしろ幸いだったのかもしれないわ」
レム=ドムの遠慮のなさが、いくぶん張り詰めていた空気を緩和させたようだった。
固唾を呑んで見守っていたドーラの親父さんが、ほっと息をつきつつ発言する。
「要するに、あんたがたがヤミル=レイたちの弟だったわけか。なんとなくだけど、噂は聞いているよ」
「そ、そうなのか。きっと悪い噂なのだろうが、その罪は今後も正しく生きていくことで贖う心づもりだ」
「いやあ、俺はべつだん、迷惑をかけられたわけでもないからねえ」
親父さんのそんな言葉が、俺の記憶巣を刺激した。
「あ、そうだ。ターラはドッドと顔をあわせたことがあるんだよね。ずいぶん前の話だけど、覚えてるかな?」
ターラは親父さんと一緒に、きょとんと目を丸くした。
「ドッドって、こっちの人でしょ? ターラ、見たことないと思うけど……」
「うん。見た目はずいぶん様変わりしたからね。ほら、俺とアイ=ファが初めてターラと出会ったときのことだよ。あのとき、ターラはずいぶんと怖い目にあっただろう?」
ターラはまだきょとんとしていたが、親父さんのほうが答えに行き着いたようだった。
「そうか! ターラは酔っぱらった森辺の狩人に踏み潰されそうになったところを、アスタとアイ=ファに助けられたって話だったんだよな! それじゃあこのドッドってお人が、そのときの酔っぱらいだったのかい?」
これには、ドッドのほうが愕然としていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。それはあの、俺がアイ=ファに叩きのめされた日のことなのか? このような娘には、まったく見覚えがないのだが……」
「ターラの姿が目に入っていなかったからこそ、踏み潰しそうになってしまったのでしょうね。ドッドはずいぶんと酔っておられたようですし」
すると今度は、ターラが「えー?」と声をあげた。
「本当にこの人が、あのときの人なの? お顔とか、全然違うと思うんだけど……」
「あのときのドッドは、髪をおろしていたからね。まあ、それより何より、表情とかがまったく違うんだろうと思うけどさ」
ドッドとターラは、困惑気味に顔を見交わすことになった。
すると、ターラの隣にいたリミ=ルウがきゅっと眉を吊り上げながら、声をあげる。
「その話、リミは知らない! ターラは危ない目にあっちゃったの?」
「うん。ドッドが町の人と諍いを起こして、刀を抜いてしまったんだよ。それで、すぐそばにいたターラが踏み潰されそうになっちゃったわけだね」
「だったら、きちんと謝らないと! ほら、ごめんなさいって!」
「う、うむ……」と、ドッドは再び片膝をついた。
困惑の表情を浮かべていたその顔に、今度は真剣な表情が浮かべられる。
「俺はまったく覚えていないのだが、アスタが虚言を吐くことはありえない。ならば、その通りのことがあったのだろう。お前はそのとき、傷を負ったりはしなかったのか?」
「うん。アスタおにいちゃんが助けてくれたから……でも、すっごく怖かったの」
「すまなかった。あの頃の俺は、我を失うまで酒を飲まなければ、他者とまともに言葉を交わすこともできなかったのだ。森辺で罪を裁かれて以来は、ひと口も酒を口にしていないので……どうか、許してもらいたい」
ドッドが深く頭を垂れると、ターラは慌てて地面に降り立ち、その分厚い肩を揺さぶった。
「い、いいよ、そんなの! あのね、そのおかげでドーラ父さんも、アスタおにいちゃんやアイ=ファと仲良くなれたの! それまでは、ずっと森辺の民のことを怖がってたから!」
「そうだな。きっとそいつも、西方神の思し召しだったんだろう」
親父さんも感慨深そうに微笑みながら、ドッドの肩に手を置いた。
「どうか、顔を上げておくれよ。それでこれからは、俺たちとも仲良くやってくれ。俺はダレイムの野菜売りで、ドーラってもんだ」
「うん! ターラね、ミダ=ルウとも仲良くなれたんだよ! ヤミル=レイとかツヴァイ=ルティムとかは、ずっと前から屋台で仲良しだし! だから、ドッドとも仲良しになりたいな」
ターラがにっこり微笑みかけると、ドッドも唐獅子のように厳つい顔におずおずと笑みをひろげた。
「ダレイムのドーラに、その娘ターラ。そのように言ってもらえることを、心からありがたく思う」
「いいさいいさ。ほら、立ってくれ」
親父さんにうながされて、ドッドはようやく身を起こした。
ターラの頭に手を置きながら、親父さんは大らかに笑う。
「ちょうどさっき話してたんだけど、あんたはトトスの早駆け大会で活躍したってお人だろう? まさか、そんなお人とこんなご縁があったとはね。よければあんたも、今夜はダレイムに来ておくれよ」
「ダレイムに? 森辺の民も、招かれているのか?」
「うん。アスタたちもルウ家のお人らも、大勢来てくれるはずだよ」
「承知した。家長と、相談させてもらおう」
「うんうん! ミダ=ルウたちも、来るからね!」
と、愁眉を開いたリミ=ルウも、ターラに抱きつきながら会話に加わった。
そんな様子を横目で見やっていたレム=ドムが、「ふふん」と俺に笑いかけてくる。
「本当に、こんなところで縁が繋がるとは思ってもいなかったわ。あなたもいい感じに過去の罪をほじくってくれたわね、アスタ」
「うん。きちんと絆を結びなおすには必要なことだろうからね」
「……で、あなたは何を物欲しそうな顔をしているのよ? ドッドのことを羨んでいるのかしら?」
それは、かたわらのディガに向けられた言葉であった。
ディガは複雑そうに笑いながら、「へん」と鼻の下をこする。
「羨んでなんかいねえよ。ただ……ドッドのやつが楽しそうにしてるから、嬉しいだけさ」
「あらまあ、ずいぶんと殊勝なことね。……それじゃあ、わたしはそろそろ森辺に戻らせてもらおうかしら」
「え? レム=ドムは、もう戻っちゃうのかい?」
俺の呼びかけに、レム=ドムは「ええ」と肩をすくめる。
「こいつらはこの後、ミダ=ルウたちと行動をともにするって話だったからね。わたしなんかがしゃしゃり出る筋合いはないでしょう。夜にはまた出向いてくるつもりなんだから、それまでは修練に励ませていただくわ」
「そっか。ティアにとっても森辺の狩人と修練を積むのは有意義みたいだから、きっと喜ぶよ」
「わたしはべつだん、ティアを喜ばせるためにやってるわけじゃないけどね」
レム=ドムは不敵に微笑みながら、俺にぐっと顔を近づけてきた。
「そんなに情を移すと、別れが辛くなってしまうのじゃないかしら? ティアはあれだけ力を取り戻したのだから、モルガの山に帰る日も遠くないはずよ」
「うん。そのときは、ティアと一緒に号泣しちゃうかもね。……あ、いや、今のは冗談だよ」
「……とうてい冗談とは思えぬような口ぶりであったな」
アイ=ファは仏頂面で、俺をねめつけていた。
その背後に、ふわりと長身の人影が浮かびあがる。
「アスタにアイ=ファ、こちらであったのですね。しばしよろしいでしょうか?」
それは、ガズラン=ルティムであった。
俺は「どうも」と笑顔を返してみせる。
「ガズラン=ルティムも、お疲れ様です。俺に何かご用事だったのですか?」
「はい。ジザ=ルウから、城下町での一件を聞きました」
ガズラン=ルティムは、とても心配そうな眼差しで俺を見つめていた。
「確かにアスタは、ずいぶんと心を痛めている様子です。……自分の不明を恥じるばかりです」
「そんなことはありませんよ。みんなに言っていますが、俺は元気いっぱいのつもりなんです。それに、ガズラン=ルティムに責任のある話ではないでしょう?」
「いえ。フェルメスが何を語ろうとも、アスタがそこまで心を痛めてしまうとは、まったく考えていなかったのです。私の考えが足りていなかったのでしょう」
するとアイ=ファが、「ガズラン=ルティムよ」と呼びかけた。
「アスタの言う通り、ガズラン=ルティムに責任のある話ではない。ただ……《ギャムレイの一座》のピノもアスタを案じて、言葉を交わしたがっているのだ。よければ、ガズラン=ルティムにも同行してもらえないだろうか?」
「承知しました。こちらからも、是非お願いいたします」
アイ=ファとガズラン=ルティムは、とても真剣な面持ちであった。
やはり俺は、どこか乗り遅れている感じがする。アイ=ファたちはこれほどまでに俺の身を案じてくれているのに、自分だけがそれに無自覚であるという、なんともちぐはぐな感覚であった。
「ジザ=ルウにも、この件を伝えておこうと思っていたのだ。我々は、これからピノのもとに向かおうと考えている」
アイ=ファが事情を説明すると、ジザ=ルウは「そうか」とうなずいた。
「俺は最長老のもとを離れられぬが、ガズラン=ルティムが同行してくれるのならば心強く思う。ピノが何を語ろうとしているのか、俺に代わって見届けてもらいたい」
「ええ、そのつもりです。ピノであれば、何か我々には見えぬものを見通しているかもしれません」
どうやらジザ=ルウばかりでなく、ガズラン=ルティムもピノには信頼を置いているようだった。
「では、ピノのもとに向かうとしよう」
アイ=ファの号令で、俺たちはジバ婆さんたちに別れを告げることになった。
青空食堂を出ると、ディック=ドムやモルン=ルティムたちが街道にたたずんでいる。ここまでは、彼らもディガたちに同行していたのだろう。それらの人々と目礼を交わして、俺たちは人混みの中に突入した。
街道はこれだけの賑わいであるのに、《ギャムレイの一座》の天幕は恐竜の屍骸のごとく、ひっそりとしている。
旅芸人にとっては、祝日の日中こそが休息の時間であるのだろう。それでも普段は楽器の演奏で賑やかすことも多いのだが、本日はそんな気配も皆無であった。
「ファの家長アイ=ファに、家人アスタ、およびルティムの家長ガズラン=ルティムだ。ピノに招かれたのだが、この場に足を踏み入れることは許されるだろうか?」
入り口に下ろされた垂れ幕に向かって、アイ=ファが粛然と呼びかけた。
しばらくの後、垂れ幕がひょいっと開かれる。顔を出したのは、まぎれもなくピノであった。
「あァ、さっそく来てくれたんだねェ。どうぞ、入っておくれよォ」
俺たちは、薄暗い天幕へと踏み入った。
他の座員は、どのように過ごしているのだろう。往来の騒ぎが伝わってくるばかりで、天幕の内部は静まりかえっている。10名以上の人間や数々の動物たちが潜んでいるとは思えぬほどの静けさであった。
「リコたちとぼんくら吟遊詩人は、森辺に向かったみたいだねェ。森辺の族長サンらにお許しをいただけて、たいそう喜んでいたよォ」
「ああ、そうですか。歌の完成が楽しみなところですね」
「ふん。これでロクでもない仕上がりだったら、尻を蹴り飛ばしてやらないとねェ」
皮肉っぽく言いたてるピノは、普段通りの落ち着いた様子であった。
その小さな後ろ姿を追いかけながら、アイ=ファがふっと口を開く。
「そちらの用件を聞く前に、こちらからも伝えておこう。昨日の夜、この黒猫はファの家人として迎え入れることが決定された」
「おやァ」とピノは首をひねって、愉快げに微笑む横顔を俺たちにさらした。
「そいつは、ありがたい話だねェ。心から御礼を言わせていただくよォ」
「うむ。こやつが森辺の家人に相応しからぬ振る舞いを見せたときは、縁を絶つ他ないがな。その際は、我々の判断で処断をさせてもらうぞ」
「そりゃあもう、毛皮になめすなり犬の餌にするなり、お好きにしておくれよォ。アタシらにとっちゃあただの厄介者だったんだから、文句を言いたてる筋合いはないさァ」
俺の肩に乗っていたサチは、ピノの軽口を非難するように「なう」と鳴いた。
ピノはくつくつと咽喉を鳴らして含み笑いをする。
「それじゃあ次にシムまで出向くことがあったら、白猫でもとっ捕まえてこようかねェ。もちろん、お代なんかはいらないからさァ」
「待て。我々は好きこのんでこやつを引き取ったわけではないのだぞ。これ以上の猫を引き取る理由はない」
「そうかい? でも、つがいになる相手がいないと、ソイツは血を残せないままくたばることになるじゃないかァ? 家人には、伴侶をあてがうもんなんじゃないのかァい?」
これは予想外の言葉であったので、アイ=ファは目を白黒とさせることになった。
「いや、しかし……トトスや犬の家人にも、伴侶をあてがうあてなどはないのだ」
「トトスなんざは雌を買いつけりゃあいいことだし、ジャガルの犬だって同じようなもんだろォ? でも、猫を売り歩く商人ってェのはそうそういないみたいだから、こっちで気を回す必要があるんじゃないかねェ?」
アイ=ファは困惑の極みに陥りながら、俺の肩へと視線を向けた。
サチは素知らぬ顔で、毛づくろいをしている。
「……こやつはまだ幼子なのであろう? 伴侶の世話を考えるには早いように思う」
「そうかい。それじゃまァ、気が向いたらいつでも声をかけておくれよォ」
思わぬ方向に話が進んだところで、ピノはようやく足を止めた。
行く手には、また大きな垂れ幕が下げられている。ここは普段、『双子の間』として使われている空間であった。
「お邪魔するよォ」と、ピノが垂れ幕をかきわけると――何か、異国的な香りが鼻をついた。インドのお香のような匂いだ。
「さ、汚いところだけど、くつろいでおくれよォ。酒の準備でもさせるかァい?」
「いや。そのようなもてなしは不要だ」
アイ=ファを先頭にして垂れ幕をくぐると、異国的な香りが強まった。
この空間には明かり取りの窓もないので、昼から燭台が灯されている。
そしてそこには、1名の座員が待ち受けていた。シム風の装束を纏った妖艶なる美女、笛吹きのナチャラである。
ナチャラはその端麗なる面に静かな微笑をひろげながら、「ようこそいらっしゃいました」と恭しく一礼した。