紫の月の三十一日①~滅落の日~
2020.1/14 更新分 1/1
翌日――紫の月の31日、『滅落の日』である。
ドーラ家で夜を明かした俺たちは、日の出とともに準備をして、宿場町に出立することになった。
この段階でのメンバーは、『暁の日』と同じく6名である。俺にアイ=ファ、ジバ婆さんとリミ=ルウ、ジザ=ルウにルド=ルウという濃厚な顔ぶれだ。ターラと仲良しであるリミ=ルウは毎回宿泊を希望していたし、ジバ婆さんのお供は本家の男衆が責任をもってつとめる、ということなのだろう。
「そういえば、けっきょくドンダ=ルウは1度も宿場町に下りてきませんでしたね」
道中で、俺はジザ=ルウに問うてみた。
森辺においてはこういう際、家長か跡取りのどちらかは家に居残るという習わしであるのだ。他の家ではおおよそ交代で宿場町に下りているように思うのだが、ルウ家においては最後までジザ=ルウがその役を担っていたのだった。
「それは、他の族長筋も同様であろう。サウティにおいてはダリ=サウティが、ザザにおいてはゲオル=ザザが、常に宿場町に下りているはずだ」
「ああ、確かにそうですね。やっぱりドンダ=ルウやゲオル=ザザは、若い人間がその役を担うべきだと考えているのでしょうか?」
ジザ=ルウは糸のように細い目で俺を見返しつつ、「そうだな」とつぶやいた。
「どうせ自分は、いずれ家長の座から身を引くことになる。そうすれば宿場町など好きに下りることができるようになるのだから、ここで出張る必要はない。……父ドンダは、そのように言っていた」
「ああ、なるほど。ルティムの家なんかは、まさしくその状態ですもんね」
納得して、俺はジザ=ルウに笑いかけてみせた。
「ドンダ=ルウが家長の座から退くというのは物寂しい感じもしますが、でも、ジザ=ルウとおふたりで宿場町に下りられるようになったら、俺としても嬉しく思います」
「……俺や父ドンダが顔をそろえていたら、アスタなどは気詰まりなのではないのか?」
「ええ? そんなことは、決してありませんよ。おふたりとも、これだけ長いおつきあいなのですからね」
ジザ=ルウは、少しばかり首を傾げた。
いつでも微笑んでいるように見える顔立ちであるので、その内心を読み取ることはなかなか難しい。
「……アスタもだいぶん、力が戻ってきたようだな。城下町の祝宴においては、ずいぶん心を削られていたようだが」
「ああ、はい。その節はご心配をおかけしました。俺はすっかり、大丈夫です」
「すっかりではねーだろ。なーんか、目つきが違うんだよなー」
と、ルド=ルウが不平そうに声をあげた。
「あのフェルメスってやつと顔をあわせると、アスタはそーゆー目つきになることが多いけどよ。2日も経ってんのに治らねーってのは初めてなんじゃねーか?」
「自分では、すっかり元気なつもりなんだけどね。何せ復活祭も大詰めだから、自分の気づいていないところで疲れが溜まってるのかな」
「そういうことではないのだろう」と、ジザ=ルウが静かに声をあげた。
「俺はむしろ、去年の復活祭を思い出していた。あのニーヤという者が『白き賢人ミーシャ』という歌を口にしたときも、アスタはそのような目つきをしていたはずだ」
「え? ジ、ジザ=ルウもあの夜のことを覚えていたのですか?」
「忘れるわけがない。あの夜、アスタはずいぶんと心を乱されており……アイ=ファはそれを、ひどく心配していたではないか。俺はずっと間近から、その姿を見届けることになったのだ」
ジザ=ルウは、厳粛にも聞こえる声でそのように言いつのった。
「『星無き民』という言葉が、アスタを惑わせているのであろうか? 俺たちはアスタの前身を気にかけていなかったが、アスタ自身がそれを気にかけているのだろうか?」
「いえ、決してそんなことはないつもりです。俺はもう、故郷に戻れない身ですから……だから、みなさんと一緒に西方神の洗礼を受けることにも、ためらいはありませんでした。俺は『星無き民』ではなく、森辺の民、ファの家のアスタです」
「そうか」と、ジザ=ルウは小さく息をついた。
「ならばいい。外交官フェルメスと正しき絆を結ぶにあたって、我々はアスタの心情を正しく理解しておかなければならないからな」
「ふふーん。1年前のジザ兄だったら、アスタは元いた場所に帰るべきだって言い張ってただろうけどなー」
ルド=ルウが横から茶化すと、リミ=ルウが「違うよー」と反論した。
「1年前って、復活祭の頃じゃん。ジザ兄がアスタに冷たかったのは、もっと前のことでしょー? 1年半ぐらい前じゃない?」
「1年半前だと、アスタが森辺に来てすぐになっちまうだろ。少なくとも、家長会議のあたりまでは冷たかったはずだぜー?」
「あ、そっかー。ジザ兄は、いつからアスタのことを好きになったの?」
もちろんジザ=ルウは返答せず、その逞しい腕をのばして末妹の赤茶けた髪をかき回した。リミ=ルウは幸福そうに、「きゃー」と声をあげる。
「大切なのは、来し方ではなく行く末だからねえ……アスタもそんな風に考えてくれているんなら、幸いだよ……」
と、クッション用の毛布にうずまったジバ婆さんが、そのように発言した。
「あたしらも、遥かな昔に聖域の民と雲の民ってやつが合わさって生まれた一族なんじゃないかって話が出てきたけど……べつだん、心を乱す理由にはならないからねえ……」
「そうですよね。俺は俺だし、森辺の民は森辺の民です。一番大事なのは、そのことなのだろうと思います」
虚勢でなく、俺はそのように答えることができた。
現在がこれだけ幸福であるからこそ、俺は迷わずそのように答えることができるのだ。
俺はルウ家の面々の姿を見回してから、最後に御者台で手綱をふるうアイ=ファの背中にも目をやった。
アイ=ファの聴力であれば、これまでの会話もすべて聞こえていたことだろう。狩人の衣を纏ったその背中は、いつも通りの頼もしさと凛々しさを保持していた。
そうして荷車は、速やかに宿場町へと到着する。
《キミュスの尻尾亭》で待ち受けていると、後続の部隊もすぐに到着した。14台の屋台で『ギバの丸焼き』をこしらえるための、錚々たる顔ぶれだ。
「それじゃあ、今日も頑張ってな」
レビやラーズに見送られて、俺たちは露店区域を目指した。
屋台はすでに並べられており、見届け役の使者も到着している。そちらと挨拶を交わしてから、俺たちは『ギバの丸焼き』の準備に取りかかった。
ファの家の管理する3台の屋台は、『中天の日』と同じ顔ぶれだ。マルフィラ=ナハムとラヴィッツの女衆、レイ=マトゥアとガズの女衆、フェイ=ベイムとラッツの女衆という組み合わせで、眷族のかまど番は見学と称して顔をそろえている。それに、ザザやサウティを親筋とする人々も、おおよそは勢ぞろいしているようだった。
これで2度目の実践となるフェイ=ベイムたちも、危なげのない手際で作業を進めている。これならば、自分たちの収穫祭で『ギバの丸焼き』をお披露目することも問題ないだろう。
そうしてしばらくすると、屋台の裏手から大柄な人影がいくつも近づいてきた。
「アイ=ファにアスタよ。今のうちに挨拶をさせてもらいたいのだが、かまわないだろうか?」
それは、ディック=ドムが率いるドム家の面々であった。
そこにディガとドッドの姿を見出した俺は、「ああ」と笑ってみせる。
「おひさしぶりです、ディガ。ドッドは一昨日にも会ったばかりですが、どちらもお元気そうですね」
「げ、元気に見えるのか?」と、ディガは気弱げに言った。背丈は180センチばかりもあり、ここ最近で精悍に引き締まった外見を獲得したディガであるのだが――今日は何やら肩をすぼめて、マルフィラ=ナハムのようにおどおどと視線をさまよわせている。見習いの狩人である彼らは毛皮のマントも頭骨のかぶりものも装着していないために、そういう仕草もありありと見て取れた。
「そうですね。お体のほうは元気そうに見えますけれど……やっぱり宿場町は、落ち着かないですか」
「そ、そりゃあ当たり前だろう。宿場町なんて、何年ぶりかもわからねえんだからな」
かつてドッドやミダ=ルウは、宿場町において悪行を働いていた。かねてより町の人々に忌避されていた森辺の民であるが、そこにさらなる悪評を呼び込んだのは、現在進行形で悪さをしていた彼らであったのだ。
そんな中、両名の兄でもあったディガは――かつて、「宿場町はおっかない」などと言いたてていた。宿場町の民は森辺の民を忌み嫌っているので、隙を見せたら乱暴な真似をされるのではないか、などとのたまわっていたのである。
「お前はべつだん、ドッドやミダ=ルウのように町で悪さをしていたわけでもあるまい。ならば、いまさら宿場町の民を恐れる理由はなかろう?」
アイ=ファがうろんげに問うと、ディガはますます気弱げに目を伏せた。
「そ、そりゃあそうだけど……町の連中と森辺の民が、どれだけ仲良くなったかなんて、俺はまだ目にしてねえからさ……」
「頼りないことだ。ファの家に押し入って無法な真似を働こうとした人間とは、とうてい思えぬ姿だな」
「ええ? ど、どうしてそんな昔のことを引っ張り出すんだよぅ」
「うむ。それでお前が発奮すれば幸いと思ったのだがな」
と、アイ=ファは珍しくも人前で苦笑を浮かべた。
「何にせよ、町の者たちがこちらに現れれば、お前の不安も霧散することであろう。……ドッドのほうは、存外に落ち着いているようだな」
「ああ。俺が悪さをしてたってのは、本当のことだからな。もしも石でも投げられるなら、甘んじてそれを受けるつもりだ」
ドッドは気を張った面持ちで、そのように言いたてた。早駆け大会の折には彼も気弱げな顔を覗かせていたのだが、その場でアルダスやおやっさんたちとも言葉を交わし、覚悟を固めることがかなったのだろうか。
「そんなことには、決してなりませんよ。そもそも、ドッドがかつて宿場町で悪さをしていた森辺の狩人だなんて、誰も気づかないのではないでしょうかね」
俺の言葉に、ドッドは「うむ?」と首を傾げた。
「それは、どういう意味なのだ? あれからまだ、1年半も経っていないはずだが……」
「だって、外見がまったく違っているじゃないですか」
あの頃のドッドはざんばら髪であったが、今は長くのばした髪をオールバックにして、首の後ろでひっつめている。体格だって、ひと回りは大きくなったように感じられるし――それより何より、瞳の輝きがまったく違っているのだった。
当時のドッドは常に酔いどれており、野犬のように目をぎらつかせていた。
しかし今のドッドは、とても静かな眼差しをしている。その奥底に力強い意志の光をひそめた、森辺の狩人らしい眼差しである。
「それは何だか、釈然としない話だな。ミダは……いや、ミダ=ルウは宿場町で悪さをしたことを謝罪して、許されることになったのだろう? 俺だけが、罪を逃れるわけにはいかないのだが……」
「そうは言っても、自分がかつて悪行を働いたと喧伝して回ることもできまい」
彼らの現在の家長であるディック=ドムが、重々しい声でドッドの言葉をさえぎった。
「お前が非難されようがされまいが、お前の犯した罪に変わりはないし、お前が罪を贖ったという事実にも変わりはないのだ。たまさか謝罪するべき相手を見出したときは、謝罪の言葉を伝えればよかろう」
「まったくよねぇ。気が小さいから、そんなに思い詰めることになるのよ」
と、レム=ドムがひょこりと皮肉っぽい顔を覗かせた。
そのかたわらでは、モルン=ルティムがにこにこと微笑んでいる。彼女たちも、このように早くから町に下りていたのだ。
「やあ、レム=ドム。今日は昼から宿場町に下りてたんだね」
「わたしにとっては町に下りるより、ティアと修練を積むほうが大事だからね。ま、今日はこいつらも町に下りるって話だったから、いちおう様子を見にきたのよ」
レム=ドムにとっても、ディガとドッドは大事な家人であるのだ。
また、ドムの家では同じ見習いの身として修練に励む仲でもあるのだろう。
「では、仕事の邪魔をしたな。肉が焼きあがるのを楽しみにしている」
参上したときと同じように、ドム家の人々はディック=ドムを先頭にして立ち去っていった。
火鉢に新しい炭を追加しながら、フェイ=ベイムが声をあげてくる。
「やはりドムの狩人というのは、気迫が異なるようですね。まだ見習いである3名も、狩人の衣を纏っていないのが不思議なぐらいに思います」
「ええ。彼らはそれぞれ事情のある立場ですから、普通よりも厳しい目で力を見定められているのかもしれませんね」
それでもきっとレム=ドムたちであれば、実力で狩人の座を勝ち取ることができるだろう。俺は、そのように信じることができた。
しばらくすると、ようやく森辺の民ならぬ人々もぽつぽつと往来に姿を見せ始める。本日は貴族のパレードもないので、それほど急ぐ理由はないのだ。
そんな中、いち早くやってきてくれたのは《銀の壺》の面々であった。
「アスタ、お疲れ様です」
「お疲れ様です、みなさん。今日も早いご到着ですね」
建築屋の面々などは中天近くまで眠りこけているようだが、ラダジッドたちは早起きであるのだ。それに加えて、彼らは森辺の民との交流を重んじてくれていた。
「シュミラル=リリンたちはまだみたいですけれど、今日も色々な氏族の方々が来てくれていますよ。最長老のジバ=ルウも、食堂のほうで語らっているはずです」
「はい。夜の予定、変更、ありませんか?」
「ええ、大丈夫です。屋台の商売が終わったら、一緒にダレイムに向かいましょう。ご自分たちの荷車だけ、準備をお願いいたします」
「はい。了解しました」
そうして上りの五の刻が近づいてくると、ようやく往来も賑わってくる。ユーミとルイアも、ジョウ=ランとともに屋台を押してやってきた。
「お疲れ様。ついに『滅落の日』だね」
「うん! なんだか今年も、あっという間だったなあ。楽しい時間って、過ぎるのが早いよね!」
ユーミも、元気いっぱいの様子であった。
ちなみに本年も、ユーミはダレイムに参上する予定である。テリア=マスなどは宿の仕事でかかりきりだというのに、ユーミは屋台の商売で普段以上に働いているのだからと、復活祭を楽しむ権利を譲らないのだ。
やがて下りの五の刻に至ると、城下町から果実酒とキミュスの肉が届けられる。
往来の人々は、これまで以上の歓声でそれに応じた。復活祭の最終日に相応しい賑わいである。
誰もが顔を輝かせて、持参の酒杯で果実酒を酌み交わす。その中に、大勢の森辺の民がまぎれているのが、やはり感慨深かった。
この時間には、おおよその氏族の人々も到着していたのだ。休息の期間にある近在の人々は言うに及ばず、ガズやラッツ、ベイムやラヴィッツ、ダイやスン、そしてそれらを親筋とする眷族の人々も、変わらぬ人数で姿を見せているようだった。
(猟犬の恩恵がなかったら、こうまでたびたび仕事を休むことはできなかったんだろうなあ)
少なくとも、現時点で飢えに苦しんでいる氏族はないはずだった。猟犬の恩恵ばかりでなく、ギバ肉を売る商売によっても、森辺の民は大きな富をつかむことがかなったのだ。
しかしもちろん、これまで以上の収獲をあげることができていなかったら、こうして狩人の仕事を休むこともなかっただろう。森辺の民は、ただ豊かな暮らしだけを欲していたわけではない。ジェノスの田畑に被害が出ないように、ギバを狩る。それがモルガの森辺に移住する条件であったし、また、狩人の一族としての誇りであったのだった。
「お待たせしました! 『ギバの丸焼き』の配布を開始いたします!」
中天の訪れとともに、『ギバの丸焼き』が架台から下ろされる。
それでいっそう、往来には熱気と活気が渦巻くことになった。
建築屋の面々やデルスにワッズ、ドーラ家の人々、リコやベルトンやヴァン=デイロ、それにルウの血族の主要メンバーも続々とやってくる。本日も、ミダ=ルウはヤミル=レイやツヴァイ=ルティムたちと行動をともにしていた。
「やあ、ミダ=ルウ。ディガたちは、朝から姿を見せていたよ」
「うん……ミダたちは、家の仕事を手伝ってたんだよ……?」
彼らは夜まで宿場町に居残る予定であったので、朝方は家の仕事を果たしていたのだろう。『ギバの丸焼き』をひとつまみ口にしてから、ミダ=ルウたちはいそいそと立ち去っていった。
ガズラン=ルティムやダン=ルティム、シュミラル=リリンやヴィナ・ルウ=リリン、ギラン=リリンやウル・レイ=リリンもやってきて、俺に挨拶をしてくれた。ラヴィッツの人々はまたマルフィラ=ナハムの働く屋台でギバ肉を受け取り、末妹だけが遠くから俺に笑いかけてくる。何もかもが目まぐるしく、そして幸福なひとときであった。
「うむ? どうしたのだ、ピノよ?」
と――そんな騒ぎの中、背後からアイ=ファのけげんそうな声が聞こえてきた。
振り返ると、アイ=ファのかたわらにピノが立っている。
「屋台の裏からでは、肉を渡すことはできんぞ。アスタに何か用でもあるのか?」
「うン、まァ、用ってほどの用ではないんだけどねェ」
さしあたっては肉の解体にも不備はないようなので、俺はそちらに身体ごと向きなおることにした。
「どうしたんですか、ピノ? ドガたちは、屋台に並んでいるようですけれど」
「あァ、アタシもこれからギバ肉をいただこうって思ってるけどさァ」
ピノは黒い切れ長の目で、俺の顔をじっと見上げてきた。
「……アンタは相変わらずみたいだねェ、アスタ」
「はい。元気いっぱいですよ、俺は」
俺はなんとかピノに安心してもらえるようにと、明るく笑ってみせた。
しかしピノは、「あァもう!」と両手で頭をかきむしり始める。
「ねェ、アスタ……イヤじゃなかったら、あとでちっとばっかり顔を貸してもらえないかねェ?」
「ええ、仕事の後でしたら、いくらでも。今日は下りの三の刻ぐらいまで、このまま宿場町に居残る予定なのですよ」
「そいつは重畳。……アイ=ファにも、お許しをもらえるかァい?」
「うむ。しかし、どのような用件であるのかは、事前に伝えてもらいたく思う」
「話せば、長くなるけどねェ。……ただ、アスタに害を為すような真似はしないと、ここに誓わせていただくよォ」
「お前の信義を疑ったりはしていない。お前はずいぶんと、アスタの身を案じてくれているようだからな」
黒猫のサチを肩に乗せたまま、アイ=ファは厳粛な面持ちでうなずいた。
「相分かった。仕事の後、そちらの天幕におもむけばよいのか?」
「あァ。だけど、そんなに急ぐことはないよォ。なんなら帰り際だってかまわないから、時間のあるときに声をかけておくれよォ」
それだけ言い残して、ピノはふわりときびすを返した。
屋台で働く人々の背後を通って、やがてその姿が見えなくなる。
「俺はずいぶんと、周りの人たちを心配させちゃってるみたいだな」
「お前はそれだけの絆を育んできたということだ。もっとも、お前の不調に気づいているのは、ごく一部の人間であるのだろうがな」
不調――やっぱり、俺は不調なのだろうか。自覚症状がないので、なんとも落ち着かない気分である。
ともあれ、俺の心と肉体は活力に満ちている。アイ=ファやピノたちの気づかいには感謝しつつ、今は目の前の仕事を果たすばかりであった。
人々の勢いは留まることを知らず、『ギバの丸焼き』は見る見る減じていく。フェイ=ベイムたちの手際もよくなってきているので、『中天の日』よりも早くに肉は尽きてしまいそうであった。
見ればルウ家の管理する屋台でも、シーラ=ルウやリミ=ルウといった手慣れたメンバーは監督役に回り、血族のかまど番に仕事を任せていた。不慣れなかまど番のスキルアップを目指すと同時に、時間調整も考えているのだろう。肉は切るそばから持ち去られてしまうので、手加減をしないと半刻ていどで品切れになってしまいそうな勢いであったのだ。
「やあやあ、今日もすごい賑わいだねえ」
と、そろそろ肉が尽きかけたところでようやくやってきたのは、カミュア=ヨシュであった。
無精髭の目立つ下顎を撫でながら、まだちょっと眠そうなとろんとした目つきをしている。そのとぼけた顔を見返しながら、俺は「いらっしゃいませ」と挨拶をしてみせた。
「今日はゆっくりでしたね。あと一歩で肉が尽きていたところですよ」
「うん。昨日はちょっと飲みすぎてしまってね。半分あきらめていたのだけれど、間に合ってよかったよ」
カミュア=ヨシュはあくびを噛み殺しつつ、フェイ=ベイムの切り分けたギバ肉をつまみあげた。
「ザッシュマなんかは来ているのかな。彼も俺と同じぐらい飲んだくれていたはずなのだけれども」
「あ、はい。さきほどいらっしゃいましたよ。そんな深酒をしたとは思えないほど、お元気そうなご様子でした」
「そうか。ザッシュマの身体には、血の代わりに果実酒が流れているんじゃなかろうか」
そんな風に言いながら、カミュア=ヨシュの紫色をした瞳は、何か透徹した光をたたえて俺を見つめていた。
きっとカミュア=ヨシュであれば、俺の変調を見逃すこともないだろう。昨日の段階でも、カミュア=ヨシュは多くを語らないまま、ただ「大丈夫かい?」とねぎらってくれたのだった。
「せっかくのふるまい酒だけど、まだしばらくは口にする気にもなれないなあ。まずは最長老にご挨拶でもさせていただこう」
「はい。それじゃあ、またのちほど」
カミュア=ヨシュは指の長い手をひらひらと振って、本日もあっさり立ち去っていった。
きっとカミュア=ヨシュはアイ=ファと同じように、俺を信じて見守ってくれているのだろう。なんの言葉を交わさずとも、俺はそんな風に確信していた。
「こちらのギバ肉は、これで終了です!」
やがて半身の枝肉を扱っていた屋台から順番に、店じまいを宣言することになった。
ひとつの屋台で肉が尽きると、それを追いかけるように他の屋台も肉が尽きていく。最初の屋台が宣言をしてから10分も経たぬ内に、すべての屋台が仕事を終えたようだった。
「みなさん、お疲れ様でした。あとは自由時間となりますので、それぞれお楽しみください。ユン=スドラが出発するのは、一の刻の半だよね?」
「はい。あちらに日時計を設置していますので、荷車でともに戻る方々は一の刻の半までにお集りください」
「ギルルの荷車は、ファとディンとリッドで使わせていただきます。残り2台の荷車に関しては、それぞれラッツとラヴィッツの方々に管理をお任せしましたので、同乗を希望される方々はそちらで打ち合わせをお願いします」
そうして俺たちが解散しようとしたとき、荒っぽい男の声が響き渡った。
「なんだ、わざわざ来てやったのに、もうギバ肉は残ってねえのかよ?」
振り返ると、後片付けの済んだ屋台の前で、顔を赤くした壮年の男がわめき散らしていた。
果実酒の土瓶を片手に下げており、昼からめいっぱい酔いどれている様子である。いかにも無法者めいた風貌であり、腰には長剣も下げられていた。
彼が陣取っているのはファの家が受け持っていた屋台の前であったので、ここは俺が取りなしに行くべきか――と、足を踏み出しかけたところで、森辺の民ならぬ人々がその男を取り囲んだ。
「こんな時間にやってきて、お前さんは何を騒いでやがるんだよ? そんなにギバ肉を食いたかったんなら、中天にすっとんでくりゃよかったろうが?」
「だいたいこれは、ジェノスの領主のふるまいなんだぞ? 銅貨も払わずに美味い肉が食えるってのに、難癖をつけるんじゃねえよ」
「どうせこんな昼間から、賭場にでも籠ってやがったんだろ? 負けた腹いせで騒ぐのはみっともねえぜ、お兄さん。肉を食いたいなら、キミュスで我慢しな」
あれよあれよという間に、その無法者はジェノスの領民たちに連れ去られてしまった。
行き場をなくしてしまった俺は、頭をかきながらアイ=ファを振り返る。
「なんか、ダンロと出会ったときのことを思い出しちゃうな。今回は、こちらの出る幕もなかったけど」
「うむ。これまでも自分たちのあずかり知らぬところで、我々は宿場町の民に助けられていたのかもしれんな」
アイ=ファの瞳には、とても満足そうな光がたたえられていた。
もちろん俺も、同じ心情である。
「それじゃあ、ピノのところに出向く前に、ルウ家の人たちにひと声かけておくか」
そうして俺たちは、あらためて熱気の渦巻く街道に身を投じることになった。