紫の月の三十日~幸あれかし~
2020.1/13 更新分 1/1
・今回の更新は全8話です。
シュミラル=リリンの優勝で幕を閉じた、トトスの早駆け大会の翌日――紫の月の30日である。
太陽神の復活祭も、ついに今日と明日で終わりを迎えることになる。正確には年明けの『再生の日』までが復活祭であるが、その日は屋台も出さない骨休めの日であるので、実質的には明日の『滅落の日』で俺たちの仕事は終了となるのだ。
前日には遅くまで城下町の祝宴に加わっていた俺であるが、もちろんその日もたゆまず屋台の商売に励んでいた。
往来は、いよいよ盛大に賑わっている。残りわずかとなった復活祭を最後の最後まで楽しみ尽くすのだと、人々も躍起になっているかのようである。それらの賑わいが伝染して、屋台で働くメンバーも昨日まで以上に昂揚しているようだった。
「どうも、お疲れ様です、アスタ」
朝一番のラッシュの後、そのように語りかけてきたのは傀儡使いのリコであった。
そちらに目をやった俺は、「あれ?」と思わず声をあげてしまう。リコのかたわらには、何故だか《ギャムレイの一座》の面々が立ち並んでいたのだった。 顔ぶれは、ピノにニーヤにロロである。
「やあ、いらっしゃい。ピノたちも、ようこそ。今日はご一緒に、昼の食事ですか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……ちょっとアスタやルウ家の方々に、聞いていただきたい話があるのです」
はにかむような表情で、リコはそう言った。
いっぽう、《ギャムレイの一座》の面々は――ピノはけっこうな仏頂面であり、ニーヤは何やら思い詰めた表情、そしてロロはあたふたと目を泳がせている。ロロ以外の両名は、なんとなく普段と異なる雰囲気であった。
「何か込み入った話なのかな? それなら、屋台のこちら側に回ってくるといいよ」
「お忙しい中、申し訳ありません。なるべく手短に済ませますので」
リコたちが屋台を迂回している間に、アイ=ファがルウ家の屋台からレイナ=ルウを呼んできてくれた。レイナ=ルウも昨晩は遅くまで祝宴に参加していた身であったが、昨日は丸一日シーラ=ルウに仕事を任せることになってしまったので、きちんと取り決め通りに当番の役目を果たしていたのだ。
「どうしました? 何か急用なのでしょうか?」
「はい。本当は、そちらのお仕事が終わってからにしようかと思ったのですけれど……」
リコがそんな風に言いかけると、ニーヤが無遠慮にそれをさえぎった。
「とっとと結論を出してくれないと、こっちが落ち着かないだろうがよ? ほら、さっさと話してくれよ!」
とたんに、ピノがニーヤの尻を蹴りあげた。
「それが人にものを頼む態度かい? アンタの望みを果たしたいなら、その滑りやすい舌をちっとばっかり仕舞っておきなァ」
やはりピノは、ずいぶんと機嫌が悪そうな様子であった。
そしてその切れ長の目が、探るように俺を見ている。俺の隣で話を聞いていたアイ=ファも、そんなピノをいぶかしんでいる様子であった。
「えーと、何から話すべきか迷ってしまうのですけれど……簡単に言うと、こちらのニーヤが『森辺のかまど番アスタ』の物語を、歌にしたいと仰っているのですね」
「ええ? ニーヤが、あの劇を?」
俺は大いに驚きながら、ニーヤへと視線を転じることになった。
しかしニーヤは痛撃を受けた尻を撫でさすりながら、そっぽを向いている。
「はい。わたしたちは昨日も城下町で、一刻ばかり傀儡の劇を披露していたのですが……そこに、こちらのニーヤが通りかかったのですね。それで『森辺のかまど番アスタ』を目にして、たいそう感銘を受けられたそうなのです」
「ふうん? 《ギャムレイの一座》の方々は、みんなその劇を見ていたんじゃなかったっけ?」
「いえ。ニーヤとギャムレイとゼッダは、まだ目にしていなかったのです。ギャムレイとゼッダは日中に眠っているのでなかなか機会がありませんでしたし、ニーヤは――」
「このぼんくらは、人様の芸を見て肥やしにしようなんて性根は薬にしたくとも持ち合わせちゃいないからねェ。それで今さら、リコたちの見事な芸に度肝を抜かれることになったってわけさァ」
「べつに、度肝なんざ抜かれちゃいねえよ。年の割には、それなりの腕ってぐらいだろ」
そんな憎まれ口を叩いてから、ニーヤは表情を改めた。
「でも、物語を練りあげる力だけは、認めてやらなくもない。まさか、あれが自分たちでこしらえた筋書きだなんて、俺は夢にも思っちゃいなかったよ」
「おほめにあずかり、光栄です」
リコは嬉しそうに笑ってから、俺たちのほうに向きなおってきた。
「それでニーヤは、自分も『森辺のかまど番アスタ』を歌にしたいと言ってくれたのですが……そこでちょっと、問題が生じてしまったのです」
「問題?」
「はい。普通、旅芸人の劇や歌の筋書きなどというものは、口伝てで伝わっていくものであるのです。『森辺のかまど番アスタ』を気に入ってくださったのなら、いちいちわたしに断りを入れる必要もなく、好きに歌っていただけばいいのですが……」
「このぼんくらが、それじゃあ気が済まないって言い出したんだよォ」
すると、ニーヤが誰にともなく力説し始めた。
「俺は筋書きだけじゃなく、その娘っ子の語り調子に響くものを感じたんだ! そいつをじっくり聞き込まないと、俺の歌は完成しない! 歌ってのは言葉と調子でできあがってるんだから、それが当然だろ?」
いまひとつ、俺たちには理解の及ばない話であった。
そこのところは、リコがフォローをしてくれる。
「つまり、賑やかな場所で『森辺のかまど番アスタ』を見物しても、調子がつかめないというのですね。どこか静かな場所で、何回か連続で『森辺のかまど番アスタ』を披露してほしいと……ニーヤは、そのように仰っているのです」
「ああ。もしかしたら、森辺の集落でその場所を借りたいという話なのでしょうか?」
レイナ=ルウの言葉に、リコは「はい」とうなずいた。
「この時期はどこで傀儡の劇を始めても、たちまち人が集まってしまうでしょう? もちろん、ジェノスの領地を出て、荒野の只中にでも出向いてしまえば、誰にも邪魔されることはないのでしょうが……ただ、それはあくまで、もののついでのお願いであるのです。ここからが、森辺の方々にお願いしたい本題であるのです」
「はい。まずはその内容をお話しください。リコたちの話であれば、族長ドンダも無下にすることはないでしょう」
「ありがとうございます」と頭を下げてから、リコは真剣な面持ちとなって言いつのった。
「どこの誰が『森辺のかまど番アスタ』を演じようとも、それは自由です。ただ、このような形でニーヤに劇の内容を伝えるのは、わたしが直々に手ほどきをするようなものでしょう? それでしたら、決して不備のないように作りあげていただきたいのです」
言葉を重ねるうちに、リコはますます真剣な面持ちになっていく。あの、傀儡の劇を作らせてほしいと頼み込んできたときと同じ様相である。
「『森辺のかまど番アスタ』を作りあげるために、わたしはたくさんの方々からお力を借りることになりました。自分が手ほどきをしてその内容を他者に伝えるなら、決して中途半端にはできないのです。それでは、わたしの気が済みません」
「なるほど。見知らぬ誰かが見様見真似で『森辺のかまど番アスタ』を演じるのは勝手だけれども、自分が関わるからには納得のいく内容に仕上げたい、ということなのかな?」
俺が口をはさむと、リコはさきほどよりも力強い所作で「はい」とうなずいた。
「そして、それを判じるのに、わたしとベルトンだけでは不十分なように思います。森辺の方々にも、それが恥ずかしくない出来栄えであるかどうか、ご自分たちの耳で判じていただきたいのです」
「ふむふむ。リコたちの劇が完成したときと、同じような話の流れだね」
それならべつだん、問題はないのではないだろうか。森辺の民であれば、誰だって率先して聞きたがりそうなところである。
リコの真剣な顔を見返しながら、レイナ=ルウは「承知しました」とうなずいた。
「族長ドンダに、そのように伝えましょう。ですが、復活祭は明日で終わってしまいますが、歌はいつごろ完成するのでしょうね?」
「俺に手にかかれば、あっという間だよ。ま、2、3日もあれば十分だろ」
「そうですか」と、レイナ=ルウは微笑んだ。
「ルウの最長老ジバは、あなたの歌にとても心を寄せていたのです。それを耳にする機会が得られるのでしたら、それだけで喜ぶことでしょう」
そして、リコがニーヤに手ほどきをするために、明日の昼間、森辺の集落にお邪魔したいとのことであった。祝日の日中は旅芸人も無聊を託つているので、ちょうどいいタイミングであったのだろう。
「よし! これであの歌は、俺のもんだ! 快く了承してくれて感謝しているよ、愛らしいお嬢さん」
レイナ=ルウの容姿にいまさら気づいた様子で、ニーヤはそんな軽口を叩いた。
レイナ=ルウはお行儀のいい微笑をたたえながら、「森辺の女衆の外見を褒めそやすのは禁忌と思し召しください」と一刀両断する。
「それじゃあ、これで話はおしまいだねェ。ロロ、リコをお仲間のところまで送ってやりなァ。……と、その前にギバ料理を頂戴するんだったねェ」
「はい! ベルトンもヴァン=デイロも、おなかを空かせて待っていると思います!」
リコとニーヤとロロは、街道に向かってぞろぞろと歩き始めた。
それで俺も仕事に戻ろうと思ったのだが、ひとり居残ったピノが穏やかならぬ視線を向けてきている。話は丸く収まったはずであるのに、ずいぶん不本意そうな面持ちであった。
「どうしました、ピノ? ピノはニーヤの申し出に反対の立場なのですか?」
「あァん? ぼんくら吟遊詩人の気まぐれなんざ、どうだっていいさァ。リコや森辺のみなサンがたが納得したんなら、アタシが口を出すいわれはないねェ」
そんな風に言いながら、ピノは俺に近づいてきた。
その黒い瞳が、食い入るように俺を見つめてくる。
「それでもって、どうしましたってェのは、こっちのセリフだねェ。アンタはいったいどうしちまったんだよォ、アスタ?」
「え? 何がです?」
「何がですもへったくれもあるもんかァい。アンタのキラキラしたお目々に、またポッカリと暗い影が浮かんでるじゃないかさァ?」
俺は、ピノに指摘されたその目を、きょとんと丸くすることになった。
「いや、そんなことはないと思うのですが……なあ、アイ=ファ? 俺はいつも通りだろう?」
レイナ=ルウはすでに仕事場に戻っていたので、その場にはアイ=ファだけが居残っていた。
そして、アイ=ファは――その秀麗なる眉を、きゅっとひそめてしまっていた。
「アンタたちは、昨日は城下町まで出向いてたってんだろォ? もしかして……例の貴族様と、また出くわすことになったのかァい?」
「ええ、まあ……実のところ、俺たちを城下町の祝宴に招いてくれたのは、その御方ですからね」
「ふうん……ま、アタシには関係のないことだけどさァ」
赤い唇をすねたように尖らせながら、ピノは身を引いた。
「アンタをそんな目つきにさせる人間は、やっぱり気に食わないねェ。どこの誰だか知らないけれど、キミュスの糞でもくらえばいいさァ」
そうしてピノは俺に返事をするいとまも与えず、朱色の装束をひるがえして立ち去っていった。
その小さな後ろ姿を見送ってから、俺はアイ=ファに向きなおる。
「なあ、俺はそんなに、普段と違ってるのか? 強がりでも何でもなく、俺はまったくいつも通りのつもりなんだけど……」
「……お前がそのように考えていることは、私にも察することができた。ゆえに、あえて口には出さなかったのだ」
低い声で言いながら、アイ=ファはぐっと俺に顔を近づけてきた。
その青い瞳には、とても不安そうな色が瞬いている。
「お前は自分の気づかぬところで、激しく力を削られることになったのだろう。しかしお前は、強い人間だ。お前がこのようなことで屈することはないと、私は信じることができる」
「う、うん……」
「復活祭が終わったら、ゆっくりと休息するがいい。それまでは、私がそばでお前を見守っている。何も案ずることはない」
アイ=ファはそのような思いを抱えながら、ずっと俺のかたわらに立ってくれていたのだ。
自分の不明を恥じながら、俺は「ありがとう」と答えてみせた。
「俺は本当に元気なつもりだから、ちょっと複雑な気分だけど……でも、アイ=ファの言葉をありがたく思う。それでもって、俺が元気に過ごせているのは、アイ=ファやみんなのおかげなんだよ」
「わかっている」と、アイ=ファはわずかに口をほころばせた。
その瞳に、俺を包み込むような優しい光が浮かび始める。
「だから私も、安心してお前を見守ることができているのだ。ピノの言う通り、お前は激しく心を痛めたように思えるが……それでも、それを補って余りある力の気配を感じるのだ」
俺はほとんど反射的に、アイ=ファの手をぎゅっと握りしめてしまった。
そして一瞬の間にその温もりを味わい尽くしてから、身を離す。
「ありがとう。それじゃあまずは、屋台の商売だな」
俺は、屋台に舞い戻った。
ちょうどリコたちが料理を買ったところであったので、そちらに別れの挨拶をしてから、相方のマルフィラ=ナハムに向きなおる。
「まかせきりにしちゃって、ごめんね。何も問題はなかったかな?」
「は、は、はい。きゃ、客足にも変わりはありません」
鉄板で回鍋肉の具材を炒めつつ、マルフィラ=ナハムはぎこちなく微笑んだ。無邪気とは言い難い表情であるが、すっかり笑顔を見せることが多くなったマルフィラ=ナハムである。
「昨日は闘技場まで出向くことになったから、マルフィラ=ナハムも疲れただろう? あと2日間、頑張って乗り切ろうね」
「は、は、はい。わ、わたしなど、アスタに比べればどうということもありません。……ア、アスタのほうこそ、お疲れなのでしょう?」
「……うん、そう見えるかな?」
「は、は、はい。い、いつも通りお元気には思えるのですが、め、目の中に、その……ふ、普段にはない陰りのようなものを感じますので……」
そんな風に言ってから、マルフィラ=ナハムはあたふたと視線をさまよわせた。
「そ、そ、そんなのはわたしの気のせいですよね。し、失礼なことを言いたててしまって、申し訳ありません」
「いや、そんなことはないよ。ちょうどアイ=ファとピノにも同じように言われたところさ」
やはり俺は、昨晩の出来事で何かしらの影響を受けているようだった。
とはいえ、自覚症状は皆無である。夜はぐっすり眠れたし、朝の目覚めも快適であった。頭の中は今日や明日のことでいっぱいであるし、正直なところ、フェルメスの存在をそうそう思い出すこともなかったぐらいであったのだ。
(聖アレシュってお人が『星無き民』であろうとなかろうと、俺には関係ないもんな。そんな、600年以上も前の物語に固執するなんて、あまりに馬鹿げているじゃないか)
昨晩、俺がショックを受けたのは、『聖アレシュの苦難』の内容についてではなく、フェルメスの言動についてであった。
かつて収穫祭で、フェルメスの人間らしい部分に触れられたと感じたのは、俺の錯覚であったのか、と――そんな悲哀ややるせなさにとらわれることになってしまったのだ。
しかしまた、そんな悲哀が俺の胸中に長く居座ることはなかった。フェルメスが変わり者だなどということは、最初からわかりきっていたことであるのだ。そんなフェルメスと正しく絆を結ぶには、『星無き民』としてではなく、ファの家のアスタ個人として交流を深めるしかない。そういった思いにも、変わるところはなかった。
(復活祭が終わったら、またゆっくり語らう機会もあるだろう。アイ=ファや族長たちとも相談して、何かこっちからも話を進めたいところだな)
そしてその前に、まずは復活祭だ。
中天が近づいて、客足はじょじょに増えつつある。俺は充足した気持ちで、目の前の仕事に取り組むことができた。
◇
そして、その夜である。
森辺で下ごしらえの仕事を終えたのち、俺たちはダレイムのドーラ家に向かうことになった。
『中天の日』の前夜はバラン家の面々をファの家に招くことになったが、祝日の前夜はドーラ家で過ごすというのが昨年からの通例になっていたのだ。
ただし、俺は昨日も下ごしらえの仕事をユン=スドラたちに任せる格好になっていたので、今回は夜だけお邪魔させてもらうことにした。よって、晩餐の準備を担ってくれたのは、ルウの血族のかまど番たちである。
「いやあ、今日も立派な料理だなあ。1日の疲れが吹っ飛ぶよ!」
ドーラの親父さんも、ご満悦の表情であった。
本日も、家の前に敷物を広げさせていただき、数多くの森辺の民がそこに座している。ルウの血族にファの近在の氏族も入り混じり、25名という大所帯だ。
「明日は明日で、『滅落の日』だしね! また森辺のみんなと一緒に新年を迎えられるなんて、ありがたい話だよ!」
「それは、おたがいさまというものであろう! しかも今回はダレイムと森辺の民ばかりでなく、東と南の民まで集まるというのだからな!」
そのように応じたのは、いつも陽気なダン=ルティムであった。ルウの血族は本日も日中は狩人の仕事に励んでいたはずだが、もちろん元気いっぱいの様子である。
「ああ、森辺のみんなが懇意にしているお人らのことだね。こっちはもちろん誰でも大歓迎だけど、東と南の民が同じ場所で新年を迎えるなんて、そうそうあることじゃないはずだよね」
「よくわからんが、そうらしいな! まあ、西の地において諍いを起こすことは禁忌とされているという話なのだから、何も心配はいらぬはずだぞ!」
それはもちろん、《銀の壺》と建築屋の面々についての一件であった。
《銀の壺》に関しては、彼らがジェノスに到着した日から打診していた話である。シュミラル=リリンやルウの血族と同じ場所で新年を迎えて、喜びを分かち合おうではないか、と――リリンの家にて開かれた歓迎の晩餐会において、そのような話が為されたのだ。
その後に《銀の壺》は、建築屋の方々と再会する段に至った。それで思いがけず、交流が深まったように感じられたので、俺から思いきって提案させていただいたのである。
バランのおやっさんからの返答は、イエスであった。
べつだん、東の民と絆を深める気はないし、王国の法もそんなことを許しはしない。が、森辺の民が自分たちと交流を深めたいと願ってくれるなら、それを断る理由はない、とのことであった。
かくして、明日の夜には《銀の壺》と建築屋の面々もダレイムに集結することが決定されたのだ。
俺としては、大満足の結果であった。
「ふん。こんな辺鄙な領地にそんな馬鹿げた人数を招き寄せるなんてね。巡回の衛兵どもは、さぞかし頭を抱えるだろうさ」
こちらの輪では、ミシル婆さんがそのように悪態をついていた。本日も俺とアイ=ファは、ジバ婆さんとともに年長組の輪で晩餐をいただいていたのだ。
「いちおう衛兵の方々にも、事前にお許しをいただいているのですよ。べつだんジェノスの法に触れるような行いではないと、渋々ながらも認めてもらうことがかないました」
「ふん。自分らは休む間もなく働いてるんだから、そりゃあ苦い顔をするだろうさ」
そんな風に言いながら、ミシル婆さんは熱心に木皿の中身をすすっていた。本日の汁物料理は、ルウ家において研究が進められている『ミソと脱脂乳のギバ・スープ』である。いまだ試行錯誤の段階であるという話だが、現時点でも見事な仕上がりだ。何せこれは、レイナ=ルウとシーラ=ルウとマイムが初めて本格的に手を携えて開発に取り組んだ料理であったのだった。
「ミシルたちも、今日で仕事は一段落したんだろう……? 本当に、ご苦労だったねえ……」
ジバ婆さんが呼びかけると、ミシル婆さんはまた「ふん」と鼻を鳴らした。
「復活祭ってのは野菜売りにとっても一番の稼ぎ時なんだから、文句を垂れてたら罰が下るさ。ま、これで倉庫の中身はほとんど空っぽになっちまったから、銀の月の半ばまではせいぜいのんびり過ごさせてもらうよ」
「ああ……それで前回は、ドーラたちをルウ家に招くことになったんだよ……よかったら、今回はミシルにも来ちゃもらえないかねえ……?」
「あたしが? 森辺の集落に? はん! こんな老いぼれに、なんて無茶を言うんだい!」
「この中で一番老いぼれているのは、あたしじゃないか……ミシルだけじゃなく、ドーラの家人をみんな招きたいと願っているんだよ……」
と、ジバ婆さんは親父さんの母君と叔父君にもやわらかい視線を差し向けた。
ミシル婆さんと同等の偏屈さを誇る両名も、さすがに目を白黒とさせている。そのようなお招きが自分たちに向けられるとは、夢にも思っていなかったのだろう。
「日取りはこれから決めるところらしいから、あんたたちも考えておいておくれよ……こうやってダレイムまで来ることもできない連中なんかは、あんたたちに会うことを楽しみにしているからさ……」
「……そんな連中が、どうしてあたしたちのことを知ってるのさ?」
「そりゃあ、あたしが言いふらしてるからに決まってるじゃないか……あたしはこんなに楽しい時間を過ごせているのに、そいつを黙っていられるわけがないだろう……?」
皺深い顔にあどけない笑みを広げながら、ジバ婆さんはそのように言っていた。
こんな笑顔を向けられたら、ミシル婆さんたちも心を動かされずにはいられないだろう。余計な口ははさまぬまま、俺はひそかに満足感を噛みしめることになった。
そんな中、俺の足もとから「くわあ……」と気の抜けた声が聞こえてくる。
ずっと眠そうにしていた黒猫が、あくびをもらしたのだ。このように周囲が騒がしいと、なかなか寝付くこともできないのだろう。
「……こやつの処遇も、そろそろ定めねばなるまいな」
静かに食事を続けていたアイ=ファが、ふいにそのように言い出した。
黒猫は、片目だけを開いてアイ=ファをきろりと見上げる。
「そうだな。《ギャムレイの一座》も、そんな急いでジェノスを出ていくことはないと思うけど、やっぱり復活祭が終わる前に結論を出すべきだと思うよ」
「明日は朝から夜まで働き詰めであるのだから、なかなか語らう時間もあるまい。今日のうちに決するべきであろう」
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、手にしていた木皿を敷物に置いた。
「ファの家長として、家人たるアスタに問う。お前はこの黒猫なる存在を、ファの家人に迎え入れることを願うか?」
「うん。10日ぐらいも一緒に過ごして、俺は気持ちが固まったよ。……俺は、家人に迎えたいと願ってる」
「……その理由を聞かせてもらおう」
「理由か。まあ単純に、愛着がわいたっていうのが一番大きいんだけど……こいつはブレイブたちとも諍いを起こす様子はないし、意思の疎通にも問題はなさそうだ。留守番を言いつければ素直に従うし、いまのところは面倒を起こす気配もない。拒絶する理由は、そんなにないんじゃないかと思うよ」
「そうか」と、アイ=ファは息をついた。
「では、私が家長として決断を下すが……私も、家人として迎え入れることに異存はない」
「あ、そうなんだな。それはよかったよ。アイ=ファは猫より犬のほうが相性がいいみたいだったしさ」
「……こやつはかつて、アスタに害を為そうとした人間に牙を剥いた。アスタをかけがえのない存在と認め、そのために力を尽くそうという思いを携えているのであろう。また、町の無法者ていどであれば、ひとりやふたりは相手取る力を備えているはずだ」
「そうなのか。お前、すごいんだな」
俺が指先で咽喉を撫でると、黒猫はクルル……と甘えた声を発した。
その姿に、アイ=ファは口をへの字にする。
「ただし、森辺の家人にあるまじき振る舞いを見せるようであれば、その場で縁を絶つ他ない。その際は、情けをかけることは許されんぞ」
「きっと大丈夫だよ。なあ?」
「にゃあ」
「ほら、大丈夫だってさ」
「……では、その黒猫に名を与えるがよい」
「あ、俺が名前をつけていいのか?」
アイ=ファは仏頂面のまま、「うむ」とうなずいた。
「ギルルとドゥルムアには私が名を与え、ブレイブにはお前が名を与えた。このたびはお前の順番であろうし、そもそもそやつはお前が招き寄せた存在であるのだ。ならばなおさら、お前が名を与えるべきであろう」
「そっか。まあ、そうだよな。……うーん、だけど悩むなあ。ブレイブのときも、さんざん悩むことになったからなあ」
「…………」
「クロはあまりにも安易だし……ジジ……フィガロ……キティ……うーん、ピンとこないなあ」
「なんだ、その面妖な名は?」
「俺が故郷で見かけた物語に登場する黒猫の名前だな。白猫だったら、スノードロップなんてのもあったんだけど」
「すのーどろっぷ……」
「ああ、それは白猫だから気にしないでくれ。だけどやっぱり、黒猫といえばクロっていう印象が強すぎるんだよなあ」
そんな風に言ったとたん、俺の頭に閃くものがあった。
「いや、色にばっかりこだわる必要もないか。お前は東の王国で、家に幸いをもたらす存在だって言われてるんだよな」
「にゃあ」
「それでもって、お前はメスだから……サチ、なんてどうだろう?」
「サチ」と、アイ=ファはしかつめらしく反復した。
「これまでにあげた名前に比べれば、ずいぶん舌に馴染むようだが……その言葉に、意味はあるのか?」
「うん。俺の故郷の言葉で、幸いって意味なんだよ。で、女性の名前としても使われていたはずだ」
「サチ……サチか」
アイ=ファは何度か繰り返してから、厳しい眼差しで黒猫を見下ろした。
「よかろう。お前は今日からファの家の家人、サチだ。森辺の家人として、ファの家の家人として、相応の振る舞いを心がけるのだぞ」
「にゃあ」と平坦な声で答えてから、黒猫のサチはぷらぷらと尻尾を振った。
睡魔のせいか、ずいぶんおざなりな対応である。その姿に、アイ=ファはまた眉をひそめることになってしまった。
「なんというか、こやつはいつもゆるみきっているな。ギルルがどれだけ安穏としていても、べつだん気にはならぬのだが……」
「あはは。まあ、これがサチの持ち味なんだろうさ」
俺はもう1度、サチの咽喉を指先で撫でてやった。
サチは心地好さそうに目を細めながら、「にゃう」と甘えた声を出す。
そうして大晦日の前日という年の瀬に、ファの家には7番目の家人が誕生したのだった。