紫の月の二十九日⑨~聖アレシュの苦難~
2019.12/31 更新分 1/1
・本編の更新はここまでですが、1/1にも番外編を更新いたします。そちらは前回の箸休めである「第825部分・ひそやかな邂逅」の後に差し込みますので、ご注意ください。
・本年は当作におつきあいくださり、ありがとうございました。来年もご愛顧いただけたら幸いです。
「ここにいたのか、アイ=ファにアスタよ。フェルメスがお前たちを探していたので、案内をしてきたぞ」
普段通りの大らかな笑みをたたえつつ、ダリ=サウティはそう言った。
べつだん、虚言ではないのだろう。ただし、フェルメスが行動の自由を得るなり、さりげなくそちらに接近したのであろうと推測された。
「ご歓談の最中に、失礼いたします。よろしければ、僕にもご挨拶をさせてください」
その場には大勢の人間が集っていたので、まずはそれらの人々がフェルメスと挨拶を交わすことになった。
その最後に、ディアルがムラトスを紹介する。ムラトスとはこれが初対面となるらしいフェルメスは、「ああ」と口をほころばせた。
「ジャガルの方々に早駆けをたしなむ気風はないとうかがっていたのですが、あなたの手綱さばきは見事なものでありました。ただ運び屋を生業にされているだけでなく、何か修練を積む機会でもあったのでしょうか?」
フェルメスが如才なくそのように問いかけると、ムラトスは「いやいや」と手を振った。
「ただ、幼い頃から家でトトスを育てていたもので、少しばかりは気心が知れているというだけのことですな。運び屋にとってはトトスの足こそが商売の要なのですから、それをぞんざいに扱うことはできんのです」
「なるほど。ですが、100名に及ぼうかという参加者の中で最後の8名まで勝ち残るとは、本当に素晴らしいお手並みです」
ムラトスはまんざらでもないように笑いながら、フェルメスの賛辞を受け取っていた。
そうしてひと通りの挨拶を終えてから、フェルメスは俺に向きなおってくる。
「さて、ようやくこちらも自由になれたので、ゆっくり語らいたいところなのですが……そろそろ余興の始められる刻限であるのですよね」
「余興ですか。舞踏か何かでしょうか?」
「いえ。今宵は演劇の芸人を準備しているのです」
すると、どこからか済みわたった鐘の音色が聞こえてきた。
広間の中央を振り返ると、棒の先に銀色の鐘を吊るした小姓がお行儀のいい笑顔で一礼している。
「ご歓談のさなかに失礼いたします。これより演劇の余興を開始いたしますので、ご見物を希望される方々はこちらにおいでくださいませ」
貴婦人や貴公子たちが、わあっと華やいだ声をあげた。
こちらでは、デヴィアスやドーンがはしゃいだ声をあげている。
「今日の余興は、演劇であったか! これは楽しみなことだな!」
「うむ。数ある余興の中でも、演劇というのは希少であろうからな」
そんな中、小姓は再び一礼してから、広間の右側に歩を進めていく。そちらの壁際では、ずらりと並べられた衝立の一部が除去されているさなかであった。
「あちらに、演劇の舞台が準備されているのです。アイ=ファとアスタも、ご一緒に如何ですか?」
「演劇とは、傀儡の劇のようなものであろうか?」
「はい。傀儡ではなく、人間が演者として劇を見せるのです。王都でもたびたび招かれている高名な旅芸人の一座が、ジェノスを訪れていたのですよ」
フェルメスは、無邪気に微笑んでいた。
俺たちとの対話よりも演劇の鑑賞を重んじるというのはちょっと意外であったが、まあまだ語らう時間はいくらでも残されているのだろう。俺たちは、フェルメスからの提案を了承することになった。
ダリ=サウティたちはもちろん、その場に集っていた人々も全員が後をついてくる。広場でも大勢の人々が同じ方向に足を向けていたし、あちこちに散っていた森辺のみんなも、それは同様であった。ジザ=ルウたちもリコのおかげで傀儡の劇の素晴らしさを知ることになったので、この余興にも興味を抱くことになったのだろう。
(でも、こんなに大勢の人たちを収容できる場所が、まだ他にも準備されているんだろうか)
俺はそのように考えたが、それは杞憂であった。衝立の向こうに隠されていたのは、別室に通じる扉ではなく、ぶちぬきのスペースであったのだ。要するに、この広間そのものが、俺の認識よりもさらに広大なスペースを有していたというだけの話であった。
その隠されていたスペースには、50脚ていどの椅子がずらりと並べられている。すぐ正面に幕が掛けられているので、その向こう側に舞台が隠されているのだろう。椅子に座れなかった人々は、立ち見でいくらでも観賞できるというわけだ。
「椅子は、他の方々にお譲りしましょうか。ここからでも、劇を観賞するのに不自由はないでしょうしね」
フェルメスの言葉に従い、俺たちは適当な場所に立ち並ぶことにした。
俺を中心にして、右がアイ=ファ、左がフェルメス、背後がダリ=サウティという配置である。そして俺の正面には、ディアルとムラトスが潜り込むことになった。両名ともに俺よりは小柄であったので、観劇に困ることはない。
周囲の貴き人々は、くつろいだ様子でおしゃべりに興じている。
ジェノス城の祝宴では、こういった催しも珍しくはないのだろう。そういえば、かつての仮面舞踏会においてもヒーローショーのような活劇が、広間の片隅で繰り広げられていたものであった。
「……お待たせいたしました。それではこれより、《青風の一座》による演劇の余興を始めさせていただきます」
と、幕の前に進み出てきた可愛らしい少年が、ぺこりとお辞儀をしてからそのように前口上を述べたてた。人々は、ひかえめな拍手でそれに応じる。
「貴き方々のお気に召しませば、幸いにてございます。演目は……『聖アレシュの苦難』でございます」
俺は驚きの声を呑み込んで、フェルメスのほうを振り返った。
「もしかして、これはフェルメスの要望で演目が決められたのですか?」
「はい。幸いなことに、彼らの得意な演目であったそうなので」
フェルメスは、少女のように可憐に微笑んでいる。
『聖アレシュの苦難』とは、かねてよりフェルメスがお気に入りだと主張していた物語であったのだ。
「ふーん。『聖アレシュの苦難』だって。知ってる?」
「いや。西の王国の神話か何かなのであろうな」
俺の正面では、ディアルとムラトスがぼしょぼしょと言葉を交わしていた。
『聖アレシュの苦難』はずいぶん古い物語で、リコたちも内容をよく知らないという話であったのだ。
少年が横合いに引っ込むと、これまでひそやかなBGMとして響いていた楽器の音色が、音量を増す。あの青い装束を着込んだ楽団も、いつの間にやら舞台の近くにまで移動していたのだ。
(なるほど。この楽団も、一座のメンバーだったのか)
俺がそのように考えている間に、幕が左右に開かれた。
そこには1メートルぐらいの高さを持つ舞台が隠されており、ひとりの男性ががっくりとひざまずいている。人々の歓声が鳴りやむと、その男性は面をあげて悲痛な声を振りしぼった。
「ここは……ここはわたしのいるべき場所ではない! わたしには、どこかで故郷と家族が待っているはずなのだ!」
その男性は、中背でがっしりとした身体つきをしていた。
髪も髭も南の民のようにもしゃもしゃとしているが、どことなく作り物であるように思える。身に纏っているのはそんなに立派でない布の服で、ただ、腰に下げた長剣の鞘だけが、やたらと豪奢なデザインであった。
(そういえば、仮面舞踏会でオーグが扮していたのが、この聖アレシュっていうお人だったっけ)
舞台の男性、聖アレシュは、舞台の上を颯爽と歩き始めた。
そこにどこからか、ナレーションの声が響いてくる。
「……西の王都に大きな繁栄をもたらした聖アレシュは、ひとりで旅に出ることになりました。王都の人々はアレシュを聖人として祝福しましたが、アレシュはどうしても自分の帰るべき場所を探し出したかったのです」
その後の筋書きは、なかなかの冒険活劇であった。
かつて拝見した『姫騎士ゼリアと七首の竜』のように、数々の災厄がアレシュを見舞うのだ。確かにこれは、「苦難」の名に値する物語であるようだった。
その過程で、アレシュはさまざまな人々と巡りあい、それらの会話から、彼の半生が語られることになった。
どうやら彼は、王都の英雄であるらしい。
ただし、姫騎士ゼリアのような剣士ではなく、その生業は鍛冶屋である。というか、鉄を鍛えて鋼を生み出すという手法そのものが、アレシュによって開発されたのだという話であった。
「もしもあなた様が鋼の剣を生み出していなければ、王国は妖魅の領土と化していたことでしょう!」
「あなたは、英雄です! あなたは、聖人です! どうかこれからも、王国を照らす光としてお生きください!」
アレシュの素性を知った人々は、誰もがそのように賞賛した。
しかしアレシュは満たされることなく、また孤独な旅を再開する。彼の目的は、あくまで故郷を目指すことだった。
「わたしの故郷は、何処であるのだ! わたしの愛すべき家族たちは、どのような気持ちで日々を暮らしているのだ!」
物語が中盤に差し掛かると、いよいよ危険の度合いが高まってきた。
おぞましい姿をした妖魅が、群れをなしてアレシュを襲うのである。不気味な蛾のような羽を生やした怪物や、顔を青白く塗りたくった生ける屍や、全身毛むくじゃらの黒い獣人や――すべて作り物であることは明白であったが、貴婦人がたがきゃあきゃあと騒ぐぐらいには、精巧な扮装であった。
そして、剣士ならぬアレシュは、常に苦戦を強いられていた。
彼はあくまで鍛冶屋であり、剣を振るう才覚も持ち合わせていないのだ。ただ彼は、自らが鍛えた退魔の聖剣――その名も《緋の灼炎》だけを頼りにして、ひたすら戦い続けているのである。
「剣士ならぬ貴様が聖剣を振るえば、魂を削ることとなろう! 貴様は一歩進むごとに、確実に滅びへと近づいているのだ!」
「それでもわたしは、家族のもとに帰るのだ! 誰にも邪魔はさせん!」
そこで俺は、ふっと疑問にとらわれた。
アレシュの目的は最初から明言されているのに、その故郷や家族についてはまったく詳細が語られないのである。
そもそも彼は、どういう経緯で王都に身を置くことになったのか。王国を救った英雄として、故郷に凱旋することは許されなかったのか。そういう肝心な部分も、語られることはなかった。
(これは俺が、この世界の歴史や神話について無知だからなのかな。どうも、空白だらけの物語を見せられているような気分だぞ)
そんな俺の心情も知らぬげに、物語は終盤部に突入した。
最後に立ちはだかったのは、「邪神」と呼ばれるおぞましい怪物である。それは妖魅を統べる存在であり、この世のすべての死を司る災厄の化身であると紹介されたが――舞台の脇から邪神が登場するなり、貴婦人ばかりでなく男性陣も驚きの声をあげることになった。
その邪神は、身の丈が3メートルを超えるほどの巨体であったのだ。
それも、全身が青黒く、半ば溶け崩れているような質感をした、巨大ゾンビとでも言いたくなるような姿である。いまにも腐臭でも漂ってきそうな、きわめてリアルな造形であった。
ただし、巨大な胴体には頭と両腕が生えているだけで、下半身は長すぎるスカートのように床まで広がっている。恐らくは、普通の背丈をした演者が複数内部に潜んでおり、なんらかの細工で頭や腕を動かしているのだろう。実に見事な演出であった。
「この世に不浄をもたらした、忌まわしき罪人よ……いまこそ、魂を返すがよい……」
「何を抜かすか! 邪神であるお前こそが、不浄の存在だ! 我が聖剣の前に、ひれ伏すがいい!」
「我々を闇に追いやったのは、貴様たちだ……貴様たちが、我々から光を奪ったのだ……」
邪神は巨大な頭を蠢かせながら、嘲笑した。
「それに貴様は、どこに帰ろうというのだ……? 貴様に帰るべき場所などは存在しない……貴様はそのようなことすら、忘れてしまったのだな……」
「そのようなことはない! わたしは――!」
と、アレシュはふいに、がくりとひざまずいた。
「わたしは……わたしは何処に帰るべきであるのだ? わたしの家族は、何処に消えてしまったのだ?」
「貴様には、故郷など存在しない……家族など存在しない……貴様は不浄の炎より生まれ出た、不浄の罪人であるのだ……」
その言葉が、まるで矢のように俺の心臓を刺し貫いた。
(まさか……)
俺は顔を正面に向けたまま、目の動きだけでフェルメスの表情をうかがった。
フェルメスは、陶然とした面持ちで舞台に見入っている。
同じように、俺はアイ=ファの表情もうかがった。
アイ=ファはきつく眉を寄せ、狩人の炎を燃やす瞳で舞台をねめつけている。
「……邪神に惑わされてはならぬ」
と――そこに新たな声が響きわたった。
アレシュは愕然とした様子で、視線を巡らせる。いっぽう邪神は、苦しげに巨体をよじっていた。
「其方はこの世に、光をもたらした……魔なるものが世界を統べる時代は終わったのだ……其方の鍛えし鋼の聖剣が、この世に新たな道を切り開くことになろう……」
アレシュは、鞘から引き抜いた聖剣を頭上に突き上げた。
照明の光をぞんぶんに浴びて、白銀の刀身がまばゆくきらめく。
「貴方なのか、西方神よ! 王都を捨てたわたしにさえ、貴方は光をもたらしてくれようというのか!」
「其方こそは、真の英雄……真の聖人……闇を斬り捨て、帰るべき場所に帰るのだ……」
アレシュは、ぶんと聖剣を振り払った。
それと同時に、白銀の刀身が真紅に染まる。そのギミックに、人々は感嘆の声をもらした。
「炎の聖剣、《緋の灼炎》よ、我に力を! 邪神よ、闇に返るがいい!」
アレシュが、邪神を斬り伏せた。
邪神は苦悶にのたうち回った末、ぐしゃりと床に溶け崩れる。骨組みを外して、内部の演者も身を伏せたのだろう。――と、俺は頭の片隅で埒もなく思考した。
「わたしの故郷は、王国だった! わたしの家族は、王国の民だった! わたしは、真実を見誤っていたのだ!」
「王都に帰るがいい……其方の幸福は、そこにこそ存在する……」
楽団の演奏が華々しい凱歌を響かせ、アレシュは王都に帰還した。
王都では、王や貴族や姫君たちが、アレシュの帰還を祝福する。アレシュは王に聖剣を返し、新たな鋼を鍛えるべく、自分の作業場へと戻った。
幕が閉まり、盛大な歓声と拍手が響きわたった。
しばらくののち、幕が再び開かれると、そこには演者たちが立ち並んでいる。そこにいっそうの歓声がかぶせられる中、アイ=ファが俺の腕をつかんできた。
「大丈夫か、アスタよ?」
「……うん。俺は大丈夫だよ」
俺はそのように答えたが、心臓は激しく脈動していた。
そんな俺を見つめながら、アイ=ファはぐっと唇を引き結んでいる。その瞳には、狩人の炎が宿されたままだった。
「なーんか、よくわからない話だったねー。けっきょくあのアレシュっていうお人は、なんのために旅に出たんだろう?」
「さてな。おおかた邪神か何かに惑わされたとかいう筋書きなのだろうさ」
ディアルとムラトスは、そのように語らっていた。
演者の挨拶が終わって幕が閉められると、人々は広間を目指してきびすを返す。それに押し流されるようにして、俺たちも移動することになった。
「どうしたのだ、アスタよ。ずいぶん顔色が悪いように見えるぞ」
と、ダリ=サウティが不思議そうに声をかけてきた。
「それに、アイ=ファも……どうしてそのように、激情をあらわにしているのだ?」
アイ=ファは答えず、ただ首を横に振っていた。
広場の中央に戻った俺たちは、そこでフェルメスと向かい合う。
フェルメスは、まだ陶然とした面持ちで微笑んでいた。
「如何でしたか? アスタたちのお気に召していれば、幸いなのですが」
「……お前は本当に、邪心なくそのような言葉を口にしているのか?」
アイ=ファが身を乗り出そうとしたので、俺はそれを手で制してみせた。
深呼吸をして、少しでも気持ちを落ち着けてから、俺はフェルメスに向きなおる。
「この『聖アレシュの苦難』が、フェルメスにはお気に入りの物語なのですね。それで、フェルメスは……聖アレシュもまた『星無き民』であると考えているわけですか?」
フェルメスは、夢見る少女のように微笑んだ。
そのヘーゼル・アイは、光の渦巻く深淵のように、底知れない輝きをたたえている。
「古文書によると、聖アレシュの正しい名は『アレシュ=ノヴァチェク』というそうです。西の王国の民であれば、氏を持つこともないはずなのですが……そもそも聖アレシュは光の中から生まれた存在であり、王国の民ですらなかったようです。それゆえに、見果てぬ故郷や家族を追い求めることになったのでしょう」
「答えになっていない。あなたはそれが、『星無き民』であると考えているのか?」
アイ=ファが感情を押し殺した声で問うと、フェルメスはわずかに首を傾げた。
「聖アレシュが『星無き民』であるという確証はありません。というか……『星無き民』というのは、東の占星師が生み出した言葉であるのです。聖アレシュは王国創世記の聖人であるのですから、その誕生はどの『星無き民』よりも古いことでしょう」
「古いも新しいも関係はない。要は、あなたがそれを同一の存在と見なしているか否かだ」
フェルメスは、見る者の魂を吸い込むような眼差しで、「ええ」とうなずいた。
「何も確証はありませんが、僕はそのように推測しています。そうであるからこそ、アスタの存在を得難く思っているのです」
「この世に光をもたらした聖人か。私はそのようなものに、興味はない。アスタは、アスタであるのだ」
決して声は荒らげないまま、アイ=ファは鋭く言い捨てた。
その様子を、ダリ=サウティとミル・フェイ=サウティは無言で見守っている。
そして、フェルメスは――幼子がはにかむような表情になっていた。
「アイ=ファは何か、気分を害されてしまったのでしょうか? それでしたら、お詫びを申しあげます」
「何が悪いかも理解せぬままに詫びを口にしたところで、何になるというのだ? そのような行いに、意味はあるまい」
アイ=ファはぎゅっとまぶたを閉ざしてから、さらに燃えあがった双眸でフェルメスをねめつけた。
「ちょうど昨年の、復活祭のことだった。とある吟遊詩人というものが、今日のあなたとまったく同じことをした。あなたたちは、どうしてむやみにアスタの心を揺るがそうとするのだ? そのような行いに、どんな意味があるというのだ?」
それはもちろん、ニーヤが歌った『白き賢人ミーシャ』のことであるのだろう。
ミーシャもまた、『星無き民』ではないかと推測される存在であったのだ。
フェルメスは同じ眼差しのまま、とてもやわらかい声でアイ=ファに答える。
「意味……真実を知ることには、意味がともなうのではないでしょうか?」
「それが真実だと、なぜ知れる? あなたも、確証はないと言った。王国が生まれたのは、600年以上も古きの時代なのであろうが? そのようないにしえの物語が真実であるなどと、誰にも証し立てることはできぬはずだ」
静かな声で、炎を吐くように、アイ=ファはそう言いたてた。
「ならば、そのような話はアスタを惑わせるだけだ。アスタは神話や物語の存在ではなく、血肉を備えた人間であるのだ。あなたは、どうして……目の前のアスタを、ありのままのアスタを見てくれようとしないのだ?」
フェルメスは逆の側に小首を傾げつつ、俺のほうに向きなおった。
「僕はずいぶんとアイ=ファを怒らせてしまったようです。アスタの気分も害してしまったのでしょうか?」
「俺は……」と、俺は自分の心を精査した。
俺は、気分を害しているのだろうか?
アイ=ファのように、怒りを覚えているのだろうか?
そうではなく、俺は――
「……俺は、残念に思っています」
「残念? 何がでしょう?」
「言葉にするのは、ちょっと難しいのですが……フェルメスが俺に『聖アレシュの苦難』のことを語ってくれたのは、森辺の収穫祭においてでしたよね。夜の祝宴で、ユーミの歌を聞いていたときに、フェルメスは『聖アレシュの苦難』をもっとも好ましい物語だと思っている、と告げてくれたのです」
「ああ、そうでしたね……あの夜のことは、僕も鮮明に覚えています」
「はい、俺もです。それで俺は……なんというか、初めてフェルメスと何気ない会話を楽しめたような心地でいたのです」
あの夜の情景を思い出しながら、俺はそのように伝えてみせた。
ユーミの歌声に耳を傾けながら、フェルメスは心地よさそうにまぶたを閉ざして、ゆったりと身体を揺らしていたのだ。
あのときも――フェルメスは閉ざされたまぶたの下で、このような瞳をしていたのだろうか。
「俺はなんとなく、フェルメスと一歩だけお近づきになれたような気持ちでいました。きっと取り留めのない世間話を交わすことで、フェルメスを身近に感じることができたのでしょうね」
「……それが、錯覚であったと?」
「わかりません。ただ……残念に思っています。怒ってはいないし、気分を害してもいません。ただ、無性に悲しい気持ちなんです」
俺はそこで、無理やり笑ってみせた。
「でも、俺はめげたりしませんよ。あの夜に言った通り、俺はひとりの個人として、フェルメスと絆を深めたいと願っています。自分もそのように考えているというフェルメスの言葉を、俺は信じたいと思っています」
「……僕も虚言を吐いたつもりはありません。ただ、かつてガズラン=ルティムが言っていた通り……僕はどこか、人とずれている部分があるのでしょうね」
フェルメスは、にこりと微笑んだ。
あどけない、幼子のような笑顔である。
「その差異を乗り越えて、僕はアスタと絆を深めたいと願っています。その気持ちに、偽りはありません。そして――」
と、そこでひとりの侍女が「フェルメス様」と呼びかけてきた。
「メルフリード様が、あちらでお呼びです。少々お時間をいただけますでしょうか?」
「ええ、わかりました。……申し訳ありませんが、またのちほどゆっくり語らせていただけますか?」
「はい、もちろん」
フェルメスは嬉しそうに微笑みつつ、アイ=ファたちにも一礼した。
その姿がジェムドとともに消え去ってから、ダリ=サウティは深々と息をつく。
「俺には、いまひとつ理解が及ばなかった。これではアスタたちのそばに控えていても、なんの力にもなれぬな」
「そんなことはありません。みなさんがそばにいてくれていることが、俺には大きな力になっているのです」
そんな風に答えてから、俺はアイ=ファを振り返った。
「アイ=ファも、ありがとう。俺は大丈夫だから、心配しないでくれ」
「……そのような目つきをしているお前を、心配するなというのか?」
アイ=ファが、ぐっと顔を近づけてくる。狩人の眼光を消したその青い瞳には、さまざまな感情がもつれあっていた。
「そっか。心配しないでくれってのは、ちょっと違うかな。心配してくれて、ありがとう。アイ=ファのおかげで、それほど心を乱さずにすんだよ」
そのとき、どやどやと近づいてくる一団があった。ジザ=ルウ、ルド=ルウ、レイナ=ルウに、シュミラル=リリンとヴィナ・ルウ=リリンの一行である。
「なーんだ、広間の真ん中で接吻でもしてんのかと思ったら、にらみあってるだけかよ」
アイ=ファは慌てて身を引くと、赤い顔をしながらルド=ルウをにらみつけた。
しかしアイ=ファが文句を言いたてるより早く、ジザ=ルウが進み出てくる。
「何かただならぬ気配を感じたのだが、この人混みで身動きが取れなかったのだ。いったい何があったのだ?」
「うむ。とりあえず、俺が見たままを語らせてもらうが――」
ダリ=サウティがジザ=ルウに説明をしている間に、他の人々が俺とアイ=ファを取り囲んだ。ルド=ルウ以外は、とても心配そうな面持ちである。
「アスタ、顔色、悪いです。薬草、準備しますか?」
「本当よぉ……アイ=ファもなんだか、気が立ってるみたいだし……」
「フェルメスと語らっていたのですよね? やはり何か、おかしな話でも持ちかけられたのでしょうか?」
「みんな、大げさだなー。……ただ、なんかあったんなら隠すんじゃねーぞ?」
「いや、別に隠したりはしないけど……」
俺がそのように言いかけたとき、ルド=ルウの頭ごしにゲオル=ザザがぬっと顔を出してきた。
「アイ=ファが怒気を撒き散らしていたようだな。外交官めと、いったい何があったのだ?」
「ア、アスタ、大丈夫ですか?」
ルド=ルウの横からは、トゥール=ディンがおずおずと顔を覗かせる。さらには、チム=スドラとイーア・フォウ=スドラまでもがやってきてくれた。
これにて、森辺の民は全員集合である。
森辺のみんなに見つめられながら、俺は急速に心が満たされていくのを感じた。
「大丈夫だよ。ただ、ちょっと色々と心を揺さぶられちゃってね。いったいどこから説明したものかなあ」
「どこからって、最初からに決まってんだろ。いいから、とっとと説明しろよなー」
ルド=ルウがこつんと俺の頭を小突いてきたので、アイ=ファが「おい」と眉を逆立てた。
「なんだよ。とっとと説明しねーからだろ。文句があるなら、俺たちを心配させんなよ」
「だからといって、非もないアスタを小突く理由はあるまい!」
周りは貴族だらけだというのに、まるでここだけ森辺の集落に変じてしまったかのような騒ぎであった。
そしてそのすぐ外側では、ディアルやリフレイアたちが心配そうにこちらを覗き込んでいる。また、デヴィアスやドーン、エウリフィアやオディフィア、ポルアースやメリム、それにレイリスやリーハイムといった面々まで顔をそろえているようだった。
それらのすべての人々が、俺に力を与えてくれていた。
これだけの人々が、俺などの身を案じてくれているのだ。ちょっとフェルメスと心のすれ違いを起こしてしまっただけで、いつまでも落ち込んではいられなかった。
(やっぱり俺は、大丈夫だ。みんながいてくれる限り、俺は聖アレシュみたいに惑ったりしない。……ガズラン=ルティムも、それを信じてくれたんでしょう?)
この場には不在の友人に向かって、俺は笑いかけてみせた。
すると、再び頭を小突かれてしまう。
「何をひとりで笑ってんだよ。とっとと説明しろってのが聞こえねーのか?」
「だから! アスタの頭を気安く小突くのではない!」
ずいぶんとひさびさに、アイ=ファとルド=ルウがいがみ合ってしまっている。これも、揺らいでしまった俺の心が、おかしな影響を伝えてしまったためなのだろうか。
「ごめんね、ルド=ルウ。それに、他のみなさんも。事情はきっちり説明しますので……でも、腹のほうがまだ6分目なんで、宴料理を楽しみながらでもいいですか?」
レイナ=ルウやヴィナ・ルウ=リリンはきょとんとした顔になり、シュミラル=リリンはやわらかく微笑んだ。
「アスタ、顔色、戻ったようです。宴料理、楽しみましょう」
「おーい! 勝手に話を進めるんじゃねーよ」
「うむ。いかにシュミラル=リリンといえども、家長の私を差し置くのはつつしんでもらいたい」
アイ=ファとルド=ルウが、左右からシュミラル=リリンをにらみあげる。シュミラル=リリンは困ったように笑い、ヴィナ・ルウ=リリンは「ちょっとぉ……」と弟の腕を引っ張った。
そんな光景が、また俺の心を温かくしてくれる。
だから俺は、大丈夫であるのだ。
(たぶん俺には、あなたのお気遣いも不要だと思いますよ)
そんな風に考えながら、俺は広間の最果てへと視線を巡らせた。
そこには西方神の石像がたたずんで、広間の様子を睥睨している。
その真紅の瞳は、かつての大聖堂で見たときと同じように、とても穏やかな光をたたえているのだろうと感じられてやまなかった。