紫の月の二十九日①~トトスの早駆け大会~
2019.12/23 更新分 1/1 ・2020.2/1 誤字を修正
・今回の更新は全8話です。*12/26追記 全9話に訂正いたします。
『中天の日』を終えた後も、俺たちは充足した日々を過ごすことができていた。
10日間にも及ぶ復活祭の折り返し地点を過ぎて、宿場町はいよいよ賑わっている。『中天の日』の夜には俺の銅貨をかすめ取ろうとする無法者を巡って、ちょっとしたアクシデントが生じたものであるが、それも大きな騒ぎに発展することはなかった。
「……昨日は、本当に悪かったよ」
翌日には、その無法者が屋台を訪れて、謝罪してくれた。それに付き添っていたのは、昨晩この人物を傀儡の劇の舞台まで引っ張っていった、宿場町の領民たる若者たちであった。
「俺はもっと西のほうの生まれなんだが、貴族のあこぎなやり口のせいで、家業を潰されちまってさ。森辺の民ってのは、貴族に取り入っていい目を見てるって聞きつけたから……その稼ぎをふんだくってやろう、なんて考えちまったんだ」
悄然とした様子で、彼はそのように語っていた。
昨晩は、俺たちも彼が『森辺のかまど番アスタ』を観賞した姿を見届けている。俺たちが舞台まで出向いてみると、リコたちはちょうど休憩中であったので、よければ『森辺のかまど番アスタ』をお披露目してくれないかと頼み込むことになったのだ。
「今日はもういっぺんぐらい『森辺のかまど番アスタ』をお披露目してから店じまいしようと考えていたので、ちょうどよかったです。アスタたちにも見ていただけるなら、嬉しく思います」
そう言って、リコは『森辺のかまど番アスタ』をお披露目してくれた。
その後の彼はずっと黙りこくっていたので、どのような感想を抱くことになったのかも聞くことはできなかったのであるが、ひと晩たって、彼も気持ちが固まったようだった。
「森辺の民が貴族に取り入ってるだなんて、とんだ風聞だった。あんたたちは、真正面から貴族どもとぶつかりあって、いまの立場を手に入れたんだな。泣き寝入りをしたあげく、こんな風に落ちぶれちまった自分が情けねえよ」
「我々は、すべての同胞が手を携えることによって、ようやく正しき道を見出すことがかなったのだ。ひとつの家の家人だけで、貴族にあらがうことは難しいのだろうと思う」
アイ=ファは厳粛なる面持ちで、そのように答えていた。
そして、若者のひとりが無法者の肩に手を回す。
「だけどお前さんは、けっきょくケチな掏摸野郎なんだろ? 森辺の民に対する誤解が解けたところで、そんなやつを町の客人として歓迎はできねえな。ここはひとつ、心を入れ替えて真っ当に働くべきなんじゃねえか?」
「真っ当に働くって言っても、俺みたいな無法者を雇うのは、どうせ同じような悪党だけさ」
「だったらそれこそ、貴族の世話になればいいじゃねえか。貴族のせいで身を持ち崩したんなら、貴族に世話を焼いてもらうのが筋ってもんだろ」
陽気に笑いながら、若者はそう言った。
「ジェノスだったら、仕事に困ることはねえからな。トゥランの家の立て直しに、ダレイムを守る塀だってまだまだ完成してねえし……それにその後は、モルガの森の向こう側で、またでかい仕事が始まるって評判なんだよ」
それは、かねてより言われていた、第2の宿場町の建立――の、前段階に当たる工事のことなのだろう。まずは、旅人たちが身を休めるための宿泊施設と、衛兵が常駐するための兵舎が建立されるという話であったのだ。
「俺たちなんかも復活祭が終わったら、トゥランの工事で雇ってもらう予定なんだよ。とにかく人手が足りねえって、貴族の連中は頭を抱えてるみたいだからさ。給金も、それなりに弾んでもらえるはずだぜ?」
「だけど、俺は……しょせん余所者の、流れ者だし……」
「だから、そういうやつもこの宿場町には山ほど住みついてるってんだよ! ちっと裏のほうに回ったら、余所者が腰を据えるための長屋だらけなんだからな。あんまり奥のほうに踏み込むと、それこそ無法者の巣窟になっちまうけど……落ちぶれるかどうかは、自分次第だろ」
若者は、あくまで陽気であった。
「もし銅貨に困ってるなら、今日からでも働いてみちゃあどうだ? なんか、酔狂な南の建築屋が、復活祭の間からトゥランで仕事を始めてるって噂なんだよな」
「あ、それはおそらく、俺たちが懇意にさせてもらっている方々です。今日は休日で、明日また仕事を再開させるはずですね」
俺が口をはさむと、無法者も若者たちもそろって目を丸くした。
「そうなのかよ? おかしなところで、縁が繋がるもんだな!」
「本当ですね。確かに建築屋の方々は、こんな人数じゃちっとも仕事が進まないってぼやいていましたよ」
そうして俺は、中天過ぎにやってきた建築屋の面々に、その人物を引き合わせることになったのだった。
「森辺の民から銅貨を奪おうなどとは、ずいぶん胆の据わったやつだな! しかしそういうのは、勇敢ではなく無謀というんだ!」
話を聞いて、アルダスやメイトンたちは大笑いをしていた。
ただおやっさんは、炯々と光る目でその人物をにらみ据えたものである。
「お前は本当に、心を入れ替えたのか? どうせ俺たちは、紫の月までで仕事を切り上げる予定だが……森辺に民によからぬ思いを抱いているなら、俺たちが帰った後に申し入れることだ」
「森辺の民に、悪さなんかしねえよ。本当は……誰にも悪さなんかしたくねえんだ」
そう言って、その人物は涙をこぼした。
おやっさんは仏頂面で、その肩を小突く。
「いい年をした男が、めそめそと涙などこぼすな。……だったら俺が、ジェノスの連中に口を利いてやる。仕事は明日と、3日後だぞ」
そうしてその人物は、トゥランで働くことが決定された。
かつてのレビやラーズのように、貧しき人間はいつでも悪の道に転げ落ちてしまう危険があるのだろう。これを契機に、彼が真っ当な人生を取り戻せることを願うばかりであった。
◇
そんな感じに日は移ろい、『中天の日』の3日後である。
その日は、トトスの早駆け大会の当日であった。
その日の俺たちは、闘技場の周囲で屋台を開くように依頼されている。まあ、依頼というか提案であろうか。おそらくその日は多くの人間が闘技場に向かうので、宿場町で商売をしても普段通りの売り上げは見込めないのではないかと、ポルアースからそのような伝言が届けられたのである。
俺たちは、ありがたくその提案を受け入れることになった。闘技場での商売は初めてではないので、それほどの不安も生じない。なおかつ、森辺の同胞らが出場するとあっては、商売の後にその雄姿を拝見したいと願うのが人情であった。
ということで、紫の月の29日だ。
本日の大会はジェノス恒例の闘技会と同じ時間設定がされていたので、俺たちもそれに合わせて動く必要があった。普段の商売は上りの六の刻をスタートにしているが、本日は上りの四の刻の半からの営業となるのだ。
この世界の一刻はおよそ60分から70分ていどであるので、1時間半以上も営業時間が早まることになる。そして、移動時間も30分ぐらいは余計にかかるので、2時間以上も作業を前倒しにしなくてはならなかった。
しかしこの慌ただしさも、闘技会で経験済みだ。薪や香草の採取はアイ=ファにお願いして、下ごしらえに普段以上の人数を準備すれば、対応は可能である。ただし、あの頃と現在では屋台の数が異なるので、下ごしらえの仕事も激増している。それはもう、人海戦術で切り抜けるしかなかった。
(でも、あの頃と今じゃあ、ひとりひとりの力量も違うからな。そうじゃなかったら、きっと料理の数を絞るしかなかっただろう)
そんな感慨を噛みしめながら、俺は予定通りの刻限に下ごしらえを済ませることができた。
約束の時間に合流したトゥール=ディンのほうも、問題なく菓子を準備できたとのことである。
「それじゃあ、出発だね」
人数はこれまで通り、かまど番が10名で、護衛役が6名であった。
ただし、護衛役は豪勢なメンバーである。なんと、スドラを除く5つの氏族からは、すべて本家の家長が出向くことになったのだ。
「もちろん他の連中も、闘技場とやらに出向くつもりであるがな! しかしそちらは自分の足で歩くことになるので、家長の俺が荷車を使わせてもらうことになったのだ!」
ラッド=リッドは、そのように言っていた。他の氏族においても、おおよそは同じような理由であったのだろう。
その中で、ひとり家長ならぬチム=スドラは、いくぶんぶすっとした面持ちになっていた。
「どうしたんだい? なんだか、機嫌が悪いみたいじゃないか」
チム=スドラとは同じ荷車に乗り込むことになったので、ルウ家に向かう道中でそのように問うてみた。
「いや、今から夜のことが気がかりでな。機嫌が悪いのではなく、気が張ってしまうのだ」
チム=スドラは本日、俺やアイ=ファと同じように、祝賀の宴に招待されてしまったのである。
それは何故かと問うならば、彼が『中天の日』に、マルスタインを襲った賊を捕らえたゆえであった。
「かの賊に仲間は存在しないようだが、それも確かな話ではない。よって、いらぬ災厄を招かぬように、森辺の民が捕縛に協力したことは秘密裡に扱いたく思う」
ジェノス城から遣わされてきた使者は、そのように述べていた。
そうしてチム=スドラは秘密裡に褒賞の銀貨を賜ることになったわけであるが、さらに、祝宴への招待という副賞まで提示されたのだった。
「ジェノス侯爵家は功労者たるチム=スドラに礼を尽くしたく思うが、こちらが森辺におもむけば人の目を集めてしまおう。ご足労をおかけするが、何卒ジェノス城まで足を運んでいただきたい」
あちらがそこまで大仰にかまえているのは、マルスタインの受けた傷が、想像以上に深手であったためであった。
マルスタインは運悪く、鎧の隙間から肩を射抜かれてしまったのであるが、それが原因で高熱を出し、現在でも臥せっているとの話なのである。マルスタインの容態が悪ければ悪いほど、無法者の罪は重くなっていき、そして、それを捕らえたチム=スドラの功労も上昇していくという寸法であった。
「いまはメルフリードが当主の代理として切り盛りしているらしいけどね。そのメルフリードが、チム=スドラに直接お礼を言いたいと願っているようだよ」
そんな話をこっそり伝えてくれたのは、もちろんカミュア=ヨシュであった。通行証を有するカミュア=ヨシュはジェノス城までお見舞いに出向いたらしいが、マルスタインがそのような状態であったため、面会することもかなわなかったのだそうだ。
「まあ、今日は森辺からもけっこうな人数が祝宴に招待されているからね。そんなに気を張る必要はないんじゃないのかな」
俺はそのように言ったが、チム=スドラの表情は晴れなかった。
「しかし、招待されているのは族長筋の人間ばかりであろう? 俺のように小さき氏族の、しかも家長ならぬ人間が、まさか城下町の祝宴に招かれようなどとはな」
「それを言ったら、俺だってまんま同じ立場だけどね」
「アスタは、卓越したかまど番だ。俺などとは、立場が違う」
チム=スドラはジェノス城からの提案で、伴侶のイーア・フォウ=スドラも同行させる手はずになっているのだ。それゆえに、ここまで気を張ってしまうのかもしれなかった。
「でも俺は、チム=スドラと祝宴をともにできることを嬉しく思っているよ。こんな機会は、そうそうないだろうからね」
俺がそのように言いつのると、チム=スドラはようやく笑顔を見せてくれた。
「それは俺も、同じように思っている。アスタとアイ=ファがいなかったら、さぞかし心細かったことだろう」
そんな会話をしている間に、ルウの集落に到着した。
そちらは出場者であるルド=ルウとシュミラル=リリン、および貴賓のジザ=ルウ、レイナ=ルウ、ヴィナ・ルウ=リリンが加わっているので、普段以上の大人数だ。なおかつ、レイナ=ルウとヴィナ・ルウ=リリンはすでに宴衣装の姿であったので、俺たちは感嘆の息をつくことになった。
最近の祝宴では城下町の宴衣装が準備されることが通例であったが、このたびは前回の闘技会と同じように、自前の宴衣装で挑むことになったのだ。普段は大事に仕舞い込んである数々の飾り物を身につけて、玉虫色のヴェールを纏ったヴィナ・ルウ=リリンとレイナ=ルウは、輝くような美しさであった。
「わたしは婚儀をあげたのだから、2度と宴衣装を纏うことはないと思っていたのにねぇ……」
そのように語るヴィナ・ルウ=リリンの姿を、シュミラル=リリンはうっとりと目を細めながら見つめている。俺としては、そんなシュミラル=リリンの姿に大きな喜びをかきたてられてしまった。
「いつだったかの祝宴で、婚儀をあげた女衆でも着飾っていいんじゃないかって、ユーミが言ってたんですよね。俺もそれには、同意見です」
「ふうん……? こんな短い髪で宴衣装を纏うのは、すごく奇妙な心地なのだけれど……」
「しかし、美しいです」と、シュミラル=リリンが素直に過ぎる発言をする。
ヴィナ・ルウ=リリンは長くのばしたサイドの髪を弄りながら、「やあねぇ……」と伴侶の腕をつついた。
そんな両名のかもしだす甘い空気にむせかえりつつ、俺はシュミラル=リリンに笑いかけてみせた。
「今日の大会は頑張ってくださいね、シュミラル=リリン。どうぞ、お怪我などないように」
「はい。森辺の民、代表として、力、尽くします」
すると、横合いからひょこりと現れたリミ=ルウが、ヴィナ・ルウ=リリンのくびれた腰に抱きつきながら発言した。
「リミも応援するから、頑張ってねー! シュミラル=リリンが祝宴にいけないと、ヴィナ姉がさびしくなっちゃうもん!」
「やめてってばぁ……」と気恥ずかしそうに微笑みながら、ヴィナ・ルウ=リリンは幸福そうに妹の赤茶けた髪を撫でた。
「あれ? 今日の当番は、リミ=ルウじゃなかったよね? ララ=ルウと交代したのかな?」
俺がそのように呼びかけると、リミ=ルウはヴィナ・ルウ=リリンに抱きついたまま「ううん」と首を振った。
「今日はいつもより皿洗いとかが大変なはずだからって、かまど番を増やすことになったの! それで、リミとルティムとミンの女衆が行くことになったんだよー!」
「あ、そうだったんだね。言ってくれれば、こっちでも準備したのに」
俺の言葉に「いえ」と応じたのは、本日の取り仕切り役であるシーラ=ルウであった。
「こちらでは、トトスの駆け比べを見てみたいという人間が多数いたので、それもあってかまど番を増やすことにしたのです。どうぞお気になさらないでください」
「なるほど。まあ、リミ=ルウだったらこの大会は見逃せないだろうしね」
リミ=ルウは元気いっぱいに「うん!」とうなずいてから、かたわらであくびを噛み殺している兄を振り返った。
「ルドもルウルウも頑張ってね! シュミラル=リリンが相手だったら、負けてもいいけど!」
「うっせーなあ。町の力比べでも、手加減なんざをするのは誇りを汚す行いだろ」
「無論です」と、シュミラル=リリンはルド=ルウに微笑みかけた。
ルド=ルウは「へへん」とふてぶてしく笑う。
「ま、貴族のトトスはすげー足が速いって話だし、どんなもんだか楽しみなところだよなー。ルウルウたちがぶったおれねーていどに頑張ろーぜ」
そうして士気も高まったところで、俺たちはいざ闘技場を目指すことになった。
出場選手であるシュミラル=リリンとルド=ルウは、それぞれのトトスにまたがっての出陣である。なんだかその姿は、いつも以上に勇壮に見えてならなかった。
(ふたりとも、祝宴に参席できるぐらい勝ち抜けるといいんだけど……まあ、こればかりは森と西方神に祈るしかないよな)
事前に通達された情報によると、本日の大会でベスト8にまで食い込めば、ジェノス城における祝賀の宴に参席できるとのことである。
出場者は100名近くにまで及ぶだろうという評判であったので、これはなかなかの狭き門であるはずだった。
「しかし、トトスの早駆けというのはジェノスでも馴染みの薄い行いであったのだろう? それでよく、100名近い人間を集めることができたものだな」
闘技場を目指す道中でチム=スドラが首をひねっていたので、俺が説明してあげることにした。
「あまりに出場者が少ないと大会が盛り上がらないから、予選を突破できた選手には白銅貨3枚が配布されるらしいよ。参加者の半分以上は本選に進めるような取り決めらしいから、それならひとつ挑戦してみようって思った人も多いんじゃないのかな」
「白銅貨3枚か。それを50名以上の人間に配るのなら、たいそうな額となってしまうな。それに、上位入賞者とやらにも褒賞が出されるのであろう? ジェノスの貴族は、損をするばかりではないか」
「うん。目的は、あくまで町の活性化なんだろうね。……ただ、カミュアがこっそり教えてくれたけど、こういう場で賭け事を取り仕切っている胴元の人間はたいてい貴族と繋がっているものだから、そちらで莫大な利益が出るんじゃないかって話だね」
「なるほど。むしろ、そうであったほうが得心できるぐらいだな」
そんな会話を楽しんでいる間にも、アイ=ファの操る荷車はぐんぐんと道を進んでいた。
闘技場は、宿場町を突っ切る主街道を北上し、トゥランを越えてから30分ていどの場所に存在する。不毛の荒野と雑木林に挟まれたこの道を進むのも、闘技会以来のことであった。
10メートルほどの幅を持つ主街道は、すでに人間と荷車で賑わっている。荷車を使わない人々は、1時間ほども歩いてのんびりと闘技場を目指すのだ。貴族の人々の思惑通り、闘技会に劣らぬ人数がトトスの早駆け大会に関心を抱いた様子であった。
事故を起こさないように気をつけながら荷車を走らせていくと、やがて左手の方向に黄色みがかった石塀が見えてくる。荒野の中にぽつんと建立された、闘技場を囲む石塀だ。
その手前では、本日も護民兵団の衛兵たちによって検問が行われていた。
御者台の脇から覗いてみると、その場を取り仕切っているのは小隊長のマルスである。自分たちの順番が巡ってくるのを待ち、俺はマルスに挨拶をしてみせた。
「ご無沙汰しています。復活祭のさなかに、大変ですね」
「ふん。どちらにせよ、休む間もないことに変わりはないがな」
マルスはぶすっとした面持ちで、商売の許可証である木札を渡してくれた。場所代は、ちょっと割高で赤銅貨5枚である。
「最後の荷車にだけ貴賓の方々が乗っていて、トトスにまたがっているふたりは大会の出場選手です。……って、闘技会のときも同じようなやりとりをした記憶がありますね」
「無駄口を叩いている時間はないぞ。後が詰まっているのだから、とっとと所定の場所まで荷車を運ぶがいい」
言われた通り、俺たちは左側のスペースにギルルの首を巡らせた。
闘技場の手前には広大なる広場があり、そこにはすでに大勢の人々が詰めかけている。その広場の南の端に、軽食を売るための作業台が設えられているのだった。
気の早い人々は、すでに料理を売りに出している。それを横目に、俺たちは荷車を進めていった。
「そういえば、闘技会のときもチム=スドラが護衛役だったんじゃなかったっけ?」
俺が問いかけると、チム=スドラは「うむ」とうなずいた。
「俺ばかりでなく、アイ=ファとスドラの狩人全員が、護衛役として同行したはずだ」
「やっぱり、そうだよね。なんか、そのときに初めてチム=スドラの名前を聞いたような覚えがあるんだ」
「そのようなことまで、覚えているのか」
と、チム=スドラははにかむように微笑んだ。
あの頃から、チム=スドラはまったく変わっていない。とても実直そうな眼差しをした、小柄で細身の若き狩人だ。
しかしあれからチム=スドラは合同収穫祭で勇者になるほどの実力を示し、イーア・フォウ=スドラという伴侶を迎え、この夜にはジェノス城に招待されている。
闘技会というのは銀の月に開かれたので、1年近くが経過しているのだ。それぐらいの時間が経っていれば、さまざまな変化が訪れるのも当然の話なのであろうが――それでもやっぱり、感慨深いことに変わりはなかった。
「よお、アスタ。お疲れさん」
「アスタたちも来ちまったか。それじゃあ、こっからが勝負だな」
と、作業台で働いていた人々が、そんな風に声をかけてくる。軽食の屋台を出す人々も、あの頃は懇意にしている宿屋の人たちぐらいしか面識がなかったのだから、これも大きな変化であろう。祝日の夜に屋台巡りをした成果で、その場で働くほとんどの人々は見知った顔であった。
「アスター! こっちだよー!」
そんな中、ひときわ馴染み深い女の子の声が、遠方から飛んでくる。
目をやると、真っ直ぐに並べられた作業台の最果てで、ユーミがぶんぶんと手を振っていた。相方のルイアも、ひかえめに微笑みながら頭を下げている。
「やあ、ユーミ。やっぱりこっちに引っ込んでたんだね」
先着した人々は手前から作業台を埋めていっているのに、ユーミはわざわざ西の端で店を広げていたのだ。それもまた、闘技会のときと同じ光景であった。
「どいつもこいつもギバ料理を売ってるから、もうアスタたちにひっつく理由はないんだけどさ。でも、わざわざ離れる理由もないもんね」
お好み焼きの生地を焼きながら、ユーミはにっと笑いかけてきた。
俺たちがあえて西の端で店をかまえるのは、食器の管理をするためである。本日は青空食堂が存在しないため、中央に店をかまえると、食器の回収が難しくなってしまうのだ。そんな理由から、西の端で商売をするべきと助言してくれたのも、闘技会の折のユーミであったのだった。
「ほら、端っこは空けておいたからね。いつも通り、7つでいいんでしょ?」
「うん。今日は、レビたちがいないからね」
レビとラーズは仕込みの時間の関係から、こちらに出店することを断念したのだ。
しかし、もちろん宿場町にも人が居残らないわけではない。なおかつ、主力の屋台はみんなこちらに出向いているのだから、残ったお客にはのきなみラーメンを食べさせてやる、とレビは息巻いていた。
ともあれ、俺たちはユーミが確保してくれた西の端のスペースで、それぞれ準備を進めることにした。
作業台は煉瓦造りで、これをかまどとして使うことができる。ただし構造上、ふたつの鉄鍋を温めることはできないので、そういう意味でもレビたちの出店は難しかった。この場でラーメンやパスタを販売するには、ふたつの作業台を借り受けて、倍の場所代を払わなければならなくなるのだ。
そんなわけで、俺も本日はパスタではなく『ギバ・カレー』を準備してきている。日替わりメニューはちょっとひさびさの『ソース焼きそば』で、『ギバまん』と『ケル焼き』のコンビは通常通りだ。
まずはこちらの『ギバ・カレー』と、ルウ家の汁物および煮物が温めなおされるまで、鉄板を火にかけつつ、待機である。
すると、それらの香りに導かれるように、広場の人々がぞろぞろと近づいてきた。その中から、ワッズが「よお」と笑いかけてくる。
「そのかれーって料理の匂いは、遠くからでもすぐにわかるよなあ。こんな朝っぱらなのに、腹が鳴っちまいそうだよお」
「あはは。もうすぐ料理も温まるはずですので、少々お待ちくださいね」
大柄なワッズのかたわらには、もちろん小柄なデルスの姿もあった。が、何やら苦虫を噛み潰しているようなお顔である。
俺の視線に気づいたワッズは、「ああ」と笑いながら相棒の背中をどやしつけた。
「デルスは来たくねえって言ってたのに、俺が無理やり引っ張ってきたんだよお。祭の間は無法者が多いから、デルスをひとりにしておくのも心配だったんでなあ」
「あ、そうだったのですか。ジャガルでは、トトスの早駆けというのもあまり馴染みがないそうですね」
「そうじゃなくって、デルスは賭場に近づきたくねえんだろうなあ。きっと身体が疼いちまうんだろお」
デルスは「おい」と、ワッズの巨体をにらみつけた。
それで俺は、得心がいった。デルスはかつて賭け事のために家の財産を持ち出して、勘当された身であったのだ。
「なるほど。最近では、賭け事の場に近づかないようにしていたわけですか」
「ふん! 俺が持ち合わせていたのは、賭博師はなく商人としての才覚だったからな。才覚のないものに銅貨を注ぎ込むのは、馬鹿のやることだ」
「俺も賭け事はたしなみませんけれど、この大会は楽しみにしていましたよ。まあ、森辺の同胞が出場しなければ、そこまでの興味は引かれなかったかもしれませんけどね」
そんな言葉を交わしている間に、隣のユン=スドラから『ギバ・カレー』の準備が整ったことが告げられてきた。
ルウ家のほうからも同じ合図が送られてきたので、俺はあらためてデルスたちに向きなおる。
「それでは、商売を開始いたします。今日の日替わり献立は、たぶんおふたりも初めてだと思いますよ」
「ふうん? 俺たちもけっこう長々と居座ってるのに、まだ知らねえ料理があったのかあ」
「はい。少なくとも、復活祭の手前ぐらいからは出していなかった料理となります」
我が屋台ではカレーとローテーションでパスタを扱っていたため、レビたちのラーメンとの兼ね合いも考えて、焼きそばの頻度はかなり下がっていたのだ。
しかし、自信の料理であることに変わりはない。俺が鉄板の上で焼きあげた麺と具材にウスターソースをからめると、さらなる人々が屋台に押しかけることになった。
「美味そうな匂いだなあ。こいつはあっちの西の娘が出してる料理と、同じ香りだあ」
「はい。それが鉄板で焼かれると、なかなか素晴らしい香ばしさでしょう?」
デルスとワッズを筆頭に、多くのお客が日替わり献立の屋台に並んでくれていた。
しかし、他の屋台もそれに負けていない。気づけば、この西の端のスペースにはものすごい勢いで広場の人々が殺到していた。
本日の大会が闘技会と同じ時間割で進行されているのなら、あと半刻ていどで予選が開始されるのだ。多くの人々は中天の休憩時間まで食事は控えるものであろうが、それでもなかなかの混雑っぷりであった。
いまのところ、デルスとワッズの他に見知った顔は現れない。目ざといアイ=ファが「森辺の民もずいぶん集まったようだな」とつぶやいていたが、それらの人々も料理を買おうとはしなかった。
そうしてあっという間に半刻ばかりの時間が過ぎ、石塀に囲まれた闘技場から落雷のごとき太鼓の音色が響き渡る。
人々は大急ぎで料理を詰め込み、今度は闘技場に殺到することになった。
俺たちにとっては、ありがたい休憩タイムである。
「やれやれ、普段以上の忙しさだったね。こっちは大丈夫だから、皿洗いのほうを手伝ってきてもらえるかな?」
「は、は、はい。しょ、承知いたしました」
マルフィラ=ナハムはあたふたと駆けていき、他にも何名かの女衆がそれに続いた。
そうして俺が鉄板の焦げつきを清めていると、森辺の人々がようやく近づいてくる。
「ずいぶんな騒ぎであったな。俺たちは、中天に料理を買わせてもらおうと思う」
そのように声をかけてくれたのはフォウの男衆であり、それ以外の人々も、みんなファの近在の氏族の家人たちであった。さすがに祝日でもない本日は、休息の期間にある人々しか出向いてこなかったようだ。
「しかし、これだけの人数があの場所に入りきれるのだろうか? あちらもずいぶんな大きさであるようだが、しかし、トトスを走らせる場所も確保せねばならぬのだろう?」
「たぶん大丈夫だと思いますよ。1000名や2000名ぐらいは入場できそうな規模でしたからね」
「2000名か。それは、想像のつかん人数だな」
そんな言葉を残して、森辺の人々も闘技場に立ち去っていった。
広場はすっかり無人となり、闘技場の入り口にのびた行列もすみやかに短くなっていく。そんな中、街道から新たに到着した一団が真っ直ぐ俺たちのほうに近づいてきた。
「アスタ、お疲れ様です。いささか、遅れてしまいました」
それは、ラダジッド率いる《銀の壺》の面々であった。人数は、きっちり9名である。
「お疲れ様です。ちょうどついさっき、予選の開始が告げられたところですよ」
「はい。間に合って、何よりです。徒歩だったため、時間、見誤ってしまいました」
「え? 荷車をお持ちなのに、徒歩で来られたのですか?」
「はい。荷車、見張り、必要ですので」
なるほど。来客用の駐車場でも衛兵たちが巡回しているが、基本的にトトスと荷車の管理は自己責任なのである。大事なトトスと荷車の管理を二の次にはできないし、見張りを立てればその人間だけ観戦できなくなってしまうため、あえて徒歩で参上したのだろう。
「シュミラル=リリン、どこまで勝ち抜くか、見届けます。結果、のちほど、お伝えします」
「ありがとうございます。俺たちの分まで、シュミラル=リリンの応援をお願いいたしますね」
「はい」とわずかに目を細めてから、ラダジッドは身をひるがえした。
行列は、すっかり会場内に呑み込まれている。もう間もなく、レースもスタートされるのだろう。
シュミラル=リリンやルド=ルウたち森辺の同胞が、大過なくレースを終えられるように、俺はもうひとたび心中で祈っておくことにした。